また、子どもによる親の殺人事件が起きた。国家が求めて推進してきた学歴社会。人間一人一人の個性や生命を重視するのではなく、国益の為に必要なロボットを育成しようとしてきた結果が今の混沌とした状態を引き起こしている。
競争で勝者のみが優遇される社会。心よりもお金の力の方が強い社会。
人は幼い頃から競争社会の中へ追い込まれる。もっともっと親に見つめて欲しいのに、仕事だからと託児所や保育所に入れられ、思う存分のスキンシップを得られない。
もっともっと友達と遊びたいのに勉強しろと小学生の頃から塾へ追い立てられる。そして、高学歴な人間こそ価値があるのだと歪んだ思想を植えつけられ、引かれたレールの上を歩かされる子ども達。
何をやりたいのか、何になりたいのかを見つける暇も与えられずに勉強、勉強。
今になって、国家は慌てふためいている。こんなはずではなかったのにと。人間としての尊厳を踏みにじってきた政策は、多くの不満を噴出し始め、そして溢れかえっている。
世の中にはあらゆる仕事をしてくれる人びとがいるから成り立っているのだ。政治家であろうと、弁護士であろうと、清掃員であろうと、誰が偉く、誰が偉くないなんてことはない。みんな等しく平等なのである。みんな同じ価値なのである。
シュタイナーが述べる社会有機体三分節化の一つである法的生活についても、そのポジションはすべての人が対等な関係を保てるように守る機関でなければならないと述べている。
すべての人が対等ということは、ごくごく当たり前のことであり、そういう精神こそ人の尊厳を大切に出来るものなのである。
家庭という言葉が昨今では非常に軽い意味となってきているように思える。国策で共働きの家庭は増加した。国が経済を管理しようとしてきた諸々の歪。
そしてその皺寄せは、一番弱い立場の子ども達にもたらされ、子ども達はどんどんストレスを溜めていく。甘えたいのに甘えられない、もっと一緒にいてほしいのに居てもらえない、友達と遊びたいのに友達と遊ぶことを制限され、家へ連れてくることを拒まれる。そして、勉強、勉強。
これでは、人間らしい人間に成長できるわけがない。蓄積されたストレスは、やがて、いつか爆発する。
人間らしい暮らしへの回帰。それこそ、今の時代に求められていることではないだろうか。
2008年07月20日
社会有機体三分節化Y
環境問題が深刻化する中、京都議定書、そして最近の洞爺湖サミットで二酸化炭素の排出権取引市場の導入が進んでいる。
が、これもシュタイナーの述べている「余剰価値」とも連動しているように思う。
『人びとが個的能力に基づいてあげた利潤の余剰部分を公共のものにし、能力を十分に発揮できない人びとの不足分に対する正当な補助を、この公共のものから供給する。
「余剰価値」は個人の不当な楽しみのためにではなく、社会有機体に魂的、物質的な財をより多く提供できるために生み出される。
障害のために社会に直接役立つことができない人でも、この社会有機体の体内から生じた人であるなら、どんな人のためにもその財を提供しなければならない。』
国民年金や国民健康保険も国家が管理しているから問題が生じたり、不公平になったりするのではないだろうか。
シュタイナーの見解なら、苦しむ人々も極端に少なくなるだろうし、人間にやさしい生活がもたらされるのではないだろうか。
まだまだ書きたい事はあるが、あとは個々人がこの本を図書館から借りて読むなり、高いお金を払って古書を入手するなりして読まれたら良いのではないだろうか。願わくば、再版を望むのであるが。
以上、これにて終了。
が、これもシュタイナーの述べている「余剰価値」とも連動しているように思う。
『人びとが個的能力に基づいてあげた利潤の余剰部分を公共のものにし、能力を十分に発揮できない人びとの不足分に対する正当な補助を、この公共のものから供給する。
「余剰価値」は個人の不当な楽しみのためにではなく、社会有機体に魂的、物質的な財をより多く提供できるために生み出される。
障害のために社会に直接役立つことができない人でも、この社会有機体の体内から生じた人であるなら、どんな人のためにもその財を提供しなければならない。』
国民年金や国民健康保険も国家が管理しているから問題が生じたり、不公平になったりするのではないだろうか。
シュタイナーの見解なら、苦しむ人々も極端に少なくなるだろうし、人間にやさしい生活がもたらされるのではないだろうか。
まだまだ書きたい事はあるが、あとは個々人がこの本を図書館から借りて読むなり、高いお金を払って古書を入手するなりして読まれたら良いのではないだろうか。願わくば、再版を望むのであるが。
以上、これにて終了。
社会有機体三分節化X
日本でも、いよいよ来年の5月から裁判員制度が導入される。これは、もともと裁判官の常識のなさをなんとかしなければならないということから動き始めたようだが、シュタイナーは、裁判官制度を国家制度から切り離さねばならないと述べている。
『国家制度は、人間もしくは集団相互の間に存するべき法律を守ることを義務として課せられている。
しかし裁定そのものは、精神組織から生じる。正しい判断は、裁判官が裁かれる者の個的状況に対する感受性と理解力を持っていることに高度に依存している。そのような感受性や理解力は、人びとが精神に対して持っている信頼の絆から裁判官を任命するのでなければ、生じ得ない。』
上記のような観点から、裁判官は、一定の範囲内、期間内で様々な職業や身分の人たちの中から他者から信頼されている人間を選ぶべきであり、特殊な法律知識を必要とする場合には、その専門家が惜しみない協力をするという体制が望ましいという見解を、シュタイナーは示している。
人間というものをより深く愛の目で見つめられ、そして人生の深い洞察力を備えている人間こそが裁判官というものに相応しい。そうは思わないだろうか?
人一人を殺したら死刑・・・というような一律的な物事の見方こそ、人間の精神生活を否定するものであり、希望は無いように思う。
日本における裁判員制度が、これからどのように展開されていくか、まさに神側に向かうか、悪魔側に向うかの分水嶺。
また、昨今では、教員採用問題や、教員昇進問題で、国会議員や県会議員などの議員たちが圧力をかけている実体が浮き彫りにされてきたが、あらゆる分野で、あらゆる都道府県で、議員達は自分たちの特権を利用して圧力をかけている。
これ一つを見ても、社会有機体の三分節化が如何に必要かが理解できるのではないだろうか。
『国家制度は、人間もしくは集団相互の間に存するべき法律を守ることを義務として課せられている。
しかし裁定そのものは、精神組織から生じる。正しい判断は、裁判官が裁かれる者の個的状況に対する感受性と理解力を持っていることに高度に依存している。そのような感受性や理解力は、人びとが精神に対して持っている信頼の絆から裁判官を任命するのでなければ、生じ得ない。』
上記のような観点から、裁判官は、一定の範囲内、期間内で様々な職業や身分の人たちの中から他者から信頼されている人間を選ぶべきであり、特殊な法律知識を必要とする場合には、その専門家が惜しみない協力をするという体制が望ましいという見解を、シュタイナーは示している。
人間というものをより深く愛の目で見つめられ、そして人生の深い洞察力を備えている人間こそが裁判官というものに相応しい。そうは思わないだろうか?
人一人を殺したら死刑・・・というような一律的な物事の見方こそ、人間の精神生活を否定するものであり、希望は無いように思う。
日本における裁判員制度が、これからどのように展開されていくか、まさに神側に向かうか、悪魔側に向うかの分水嶺。
また、昨今では、教員採用問題や、教員昇進問題で、国会議員や県会議員などの議員たちが圧力をかけている実体が浮き彫りにされてきたが、あらゆる分野で、あらゆる都道府県で、議員達は自分たちの特権を利用して圧力をかけている。
これ一つを見ても、社会有機体の三分節化が如何に必要かが理解できるのではないだろうか。
続く
社会有機体三分節化W
学校について更に次のように述べている。
『近代国家の社会構造は、人生の要求に応えておらず、人びとの経済要求をも満足させられないでいる。そして時代のその立ち遅れを学校制度に背負わせている。
国家は学校制度を宗教団体から奪い取り、それを自分にまったく依存させ、そして小学校から大学まで、教育の全施設を国家が必要とする人材を育成する場にしてしまった。だから今日の学校の中には、国家の諸要求が映し出されている。
人びとは「一般的な人間性の育成」について語るけれども、現代人は無意識の中で、あまりにも強く自分を国家秩序に依存させているので、自分たちの言う人間性の育成が、実は国家の必要とする人間の育成なのだ、ということに、まったく気づいていない。』
以前、子どもの育成において、国策に沿った育成をせざるを得ない状況下であるというようなことをブログへ書いたが、それは、まさにシュタイナーが指摘している恐ろしい状態なのである。
そして、シュタイナーは、学校が経済組織の一分枝である限りは、その学校が立派になりうるはずがないと断言しているのだ。
『現在のわれわれにとって大切なのは、学校をまったく自由な精神生活の中に留めておくことである。
何を教育したらいいのかは、成長期の子どもたちの個的素質を認識することからのみ見出されねばならない。真の人間学が教育と授業の基礎であらねばならない。
「子どもに何を教えたらいいのか、何が現代社会のために役立つのか」問うべきではない。
「何がこの子の素質なのか、この子の何を発達させることができるのか」問うべきである。
そうすれば、成長しつつある若い世代の新しい力を、社会にその都度導入することができるようになるであろう。』
『近代国家の社会構造は、人生の要求に応えておらず、人びとの経済要求をも満足させられないでいる。そして時代のその立ち遅れを学校制度に背負わせている。
国家は学校制度を宗教団体から奪い取り、それを自分にまったく依存させ、そして小学校から大学まで、教育の全施設を国家が必要とする人材を育成する場にしてしまった。だから今日の学校の中には、国家の諸要求が映し出されている。
人びとは「一般的な人間性の育成」について語るけれども、現代人は無意識の中で、あまりにも強く自分を国家秩序に依存させているので、自分たちの言う人間性の育成が、実は国家の必要とする人間の育成なのだ、ということに、まったく気づいていない。』
以前、子どもの育成において、国策に沿った育成をせざるを得ない状況下であるというようなことをブログへ書いたが、それは、まさにシュタイナーが指摘している恐ろしい状態なのである。
そして、シュタイナーは、学校が経済組織の一分枝である限りは、その学校が立派になりうるはずがないと断言しているのだ。
『現在のわれわれにとって大切なのは、学校をまったく自由な精神生活の中に留めておくことである。
何を教育したらいいのかは、成長期の子どもたちの個的素質を認識することからのみ見出されねばならない。真の人間学が教育と授業の基礎であらねばならない。
「子どもに何を教えたらいいのか、何が現代社会のために役立つのか」問うべきではない。
「何がこの子の素質なのか、この子の何を発達させることができるのか」問うべきである。
そうすれば、成長しつつある若い世代の新しい力を、社会にその都度導入することができるようになるであろう。』
続く
社会有機体三分節化V
宗教・教師・芸術家については次のように述べている。
『近代人の宗教生活はまったく自由な精神生活と結びついてこそ、人びとの魂を担うのにふさわしい力を発達させることができる。
精神生活を生み出すだけでなく、受け入れることをも、自由な魂は述べている。
教師、芸術家等の社会的地位は立法、行政の在り方に左右されているが、これらの人びとの職業は精神生活そのものから出て、精神生活から発する衝動だけに担われているべきである。
一方、彼らの仕事の成果を受け入れる人びとも、労働を強制されることから政治国家によって守られ、かつ精神的財の理解を目覚めさせるには十分な余暇をも法律によって保障されていなければならない。その場合のみ、教師や芸術家たちの仕事に対する感受性を発揮させることが出来る。』
私は、この見解を呼んでなるほどなと深く納得した。また、この見解に対して批判的な人々に対しても、これまた痛快で的を得た主張が展開されている。抜粋する。
『「実際家」であると自認している人は、このような主張を聞くと、次のように考えるだろう。―――「人間というものは余暇があれば、酒を飲んで過ごしてしまう。国家が学校へ行くことを子どもの自由な選択にまかせたら、文盲の状態へ逆戻りするだろう」。
世界はそのような「実際家」の考えるとおりだろうか。そういう「悲観者」には、世界がどうなるか、ただ待ってもらいたいものだ。
この種の悲観論者は、自分が余暇をどう過ごしてきたか、自分が少しばかりの「教養」を身につけたとき、何が必要だったかを、貧弱な思い出だけをふりかえって、このような考えにいたったのだ。そのような人は、本当に自由な精神生活を社会の中で送ったことがないので、精神の熱のこもった力を考えることができない。その人たちの知っている拘束された精神生活は、熱のこもった力を発揮したことがないのだ。』
如何だろうか。実に痛快な洞察ではないだろうか。自分自身が余暇という自由な時間を過ごす中で、何をして、どのように過ごしたかで、それこそ天と地との差ほど大きなものが生じる。
内なる衝動や、探究心、また、より広く深い世界を知ろうと努力する過程では、尽きることない向上が存在するのだ。それが、どれほどの活き活きとした精神生活をもたらすことだろうか!
また、シュタイナーは次のように語り続ける。
『政治国家も経済生活も、自主管理する精神生活からの働きかけを必要としている。経済生活に必要な教養もまた、経済生活と精神生活との自由な共同作業によってはじめて、十分な内容を得ることができる。
ゆたかな精神生活の中でふさわしい準備をしてきた人は、経済生活においても自由な精神力を活用することができるであろう。そこで獲得された経験もまた、精神生活の中へ流れていき、精神生活のために必要な果実を実らせるであろう。そして政治国家の領域でも、必要とされる健全な立場が自由な精神の力によって形成される。』
そして、教育、学校は自由な精神生活の中でこの社会理解を促し、それぞれの個的能力を思う存分発揮しようとする衝動を人びとに持たせる社会的役割を持っているとも述べる。
『法治国家自身が精神生活を管理したり経済活動をしたりしないですむようになるために、私立の教育活動や独立した経済活動を抑えないようにする必要がある。
公立学校の教育や国有の企業活動を今日明日のうちに廃止する必要はないが、国家による学校や企業活動を整理していかなければならない。小さな発端から始めて、次第に大きな規模にまでもっていけばよい。
しかしとりわけ必要なのは、本書で主張されている社会理念の正しさを確信できた人が、その理念の普及に協力することである。この理念が理解されれば、現在の状態を弊害のない状態へ転化させる可能性に希望を繋ぐことができる。そしてその希望だけが、本当に健全な社会を発展させることが出来るのである。』
『近代人の宗教生活はまったく自由な精神生活と結びついてこそ、人びとの魂を担うのにふさわしい力を発達させることができる。
精神生活を生み出すだけでなく、受け入れることをも、自由な魂は述べている。
教師、芸術家等の社会的地位は立法、行政の在り方に左右されているが、これらの人びとの職業は精神生活そのものから出て、精神生活から発する衝動だけに担われているべきである。
一方、彼らの仕事の成果を受け入れる人びとも、労働を強制されることから政治国家によって守られ、かつ精神的財の理解を目覚めさせるには十分な余暇をも法律によって保障されていなければならない。その場合のみ、教師や芸術家たちの仕事に対する感受性を発揮させることが出来る。』
私は、この見解を呼んでなるほどなと深く納得した。また、この見解に対して批判的な人々に対しても、これまた痛快で的を得た主張が展開されている。抜粋する。
『「実際家」であると自認している人は、このような主張を聞くと、次のように考えるだろう。―――「人間というものは余暇があれば、酒を飲んで過ごしてしまう。国家が学校へ行くことを子どもの自由な選択にまかせたら、文盲の状態へ逆戻りするだろう」。
世界はそのような「実際家」の考えるとおりだろうか。そういう「悲観者」には、世界がどうなるか、ただ待ってもらいたいものだ。
この種の悲観論者は、自分が余暇をどう過ごしてきたか、自分が少しばかりの「教養」を身につけたとき、何が必要だったかを、貧弱な思い出だけをふりかえって、このような考えにいたったのだ。そのような人は、本当に自由な精神生活を社会の中で送ったことがないので、精神の熱のこもった力を考えることができない。その人たちの知っている拘束された精神生活は、熱のこもった力を発揮したことがないのだ。』
如何だろうか。実に痛快な洞察ではないだろうか。自分自身が余暇という自由な時間を過ごす中で、何をして、どのように過ごしたかで、それこそ天と地との差ほど大きなものが生じる。
内なる衝動や、探究心、また、より広く深い世界を知ろうと努力する過程では、尽きることない向上が存在するのだ。それが、どれほどの活き活きとした精神生活をもたらすことだろうか!
また、シュタイナーは次のように語り続ける。
『政治国家も経済生活も、自主管理する精神生活からの働きかけを必要としている。経済生活に必要な教養もまた、経済生活と精神生活との自由な共同作業によってはじめて、十分な内容を得ることができる。
ゆたかな精神生活の中でふさわしい準備をしてきた人は、経済生活においても自由な精神力を活用することができるであろう。そこで獲得された経験もまた、精神生活の中へ流れていき、精神生活のために必要な果実を実らせるであろう。そして政治国家の領域でも、必要とされる健全な立場が自由な精神の力によって形成される。』
そして、教育、学校は自由な精神生活の中でこの社会理解を促し、それぞれの個的能力を思う存分発揮しようとする衝動を人びとに持たせる社会的役割を持っているとも述べる。
『法治国家自身が精神生活を管理したり経済活動をしたりしないですむようになるために、私立の教育活動や独立した経済活動を抑えないようにする必要がある。
公立学校の教育や国有の企業活動を今日明日のうちに廃止する必要はないが、国家による学校や企業活動を整理していかなければならない。小さな発端から始めて、次第に大きな規模にまでもっていけばよい。
しかしとりわけ必要なのは、本書で主張されている社会理念の正しさを確信できた人が、その理念の普及に協力することである。この理念が理解されれば、現在の状態を弊害のない状態へ転化させる可能性に希望を繋ぐことができる。そしてその希望だけが、本当に健全な社会を発展させることが出来るのである。』
続く
2008年07月19日
社会有機体三分節化U
シュタイナーは、社会の指導層は郵便、鉄道などの経済分野を国家の中に取り込んだが、今それを逆の方向に持っていかなければならないと語る。
すべての経済活動を政治的国家体制から引き離さなければならないと言うのだ。
社会有機体の三分節化についてまとめると、
一つは、経済生活。
これは、神経と感覚の働きを含んだ組織であり、その働きが集中している主要機関は頭部である為に、頭部系と呼ぶ。
二つ目は、公法の生活。
これは、呼吸と血液循環、もしくは人体の中でリズミカルな経過を辿るすべての分野であり、律動系と呼ぶ。
三つ目は、精神生活。
これは、本来の新陳代謝機能に関わるすべての機関活動であり、代謝系と呼ぶ。
シュタイナーは次のように述べる。
『きわめて近い将来に、人間有機体をこのような観点から考察し、頭部系、循環系(もしくは胸部系)、代謝系の三つが一定の独立した働きをしていること、生体が絶対的な集中化を示しているのではなく、各組織が外界に対してもそれぞれ独自の関係を作っていることを理解するようになるであろう。頭部系は感覚により、循環系は呼吸により、代謝系は栄養器官と運動器官により、人体と外界との関係を保っている。』
すべての経済活動を政治的国家体制から引き離さなければならないと言うのだ。
社会有機体の三分節化についてまとめると、
一つは、経済生活。
これは、神経と感覚の働きを含んだ組織であり、その働きが集中している主要機関は頭部である為に、頭部系と呼ぶ。
二つ目は、公法の生活。
これは、呼吸と血液循環、もしくは人体の中でリズミカルな経過を辿るすべての分野であり、律動系と呼ぶ。
三つ目は、精神生活。
これは、本来の新陳代謝機能に関わるすべての機関活動であり、代謝系と呼ぶ。
シュタイナーは次のように述べる。
『きわめて近い将来に、人間有機体をこのような観点から考察し、頭部系、循環系(もしくは胸部系)、代謝系の三つが一定の独立した働きをしていること、生体が絶対的な集中化を示しているのではなく、各組織が外界に対してもそれぞれ独自の関係を作っていることを理解するようになるであろう。頭部系は感覚により、循環系は呼吸により、代謝系は栄養器官と運動器官により、人体と外界との関係を保っている。』
続く
社会有機体三分節化
ルドルフ・シュタイナーの「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」という本のなかから、幾つかに分けて書いていこうと思う。
高橋巌氏の訳者あとがきから、まず抜粋してみたい。
ヨーロッパ社会は第一次大戦後、資本主義的市場経済への道と社会主義的統制経済の道の二つを模索していた。
しかしシュタイナーはそのいずれの中にも、癌細胞に犯されている病んだ社会生命体の末期的症状しか見出すことができなかった。
一方の資本主義的経済秩序は社会の領域の中に商品だけしか認めようとしない。したがってその社会では、人間の労働力も商品としてしか評価されず、そこに込められた人間の思いはすべて商品化され、金銭で評価される。
それのみならず、権利もまた金銭による購買の対象にされることによって、生きる権利そのものまでが商品化されるようになる。
この人間の尊厳への冒涜のつぐないをつけるには、社会を三分節化して、精神生活、法=国民生活、経済生活(生活という言葉でシュタイナーは社会のいとなみがすべて生命体の有機的活動なのだということを暗示している)に分けなければならない。
そしてすべての労働力が、精神労働も肉体労働も、経済生活ではなく、精神生活に属している、ということも明らかにし、同時に経済生活と法組織との徹底して分離をも追及しなければならない。それを時代の本質的な課題としてうけとめるのでなければ、社会の未来に救いはない。
また、シュタイナーは、社会主義的体制にも徹底的な批判を繰り返し、マルクス主義については次のような見解を示していたという。
マルクス主義が人間関係を経済組織から切り離そうとする正しい目標を持ちながら、人間精神の自主管理を徹底させる方向ではなく、官僚中心の政治機構の中に人間管理のシステムを組み込む方向に向わざるをえず、その結果信じられぬような人間精神の頽廃を生じさせるであろう、ということを予見していた。
さて、もうすぐNHKのドラマ「監査法人」が始ってしまうので、ちょっと中断。失礼。
高橋巌氏の訳者あとがきから、まず抜粋してみたい。
―――――――――――――
ヨーロッパ社会は第一次大戦後、資本主義的市場経済への道と社会主義的統制経済の道の二つを模索していた。
しかしシュタイナーはそのいずれの中にも、癌細胞に犯されている病んだ社会生命体の末期的症状しか見出すことができなかった。
一方の資本主義的経済秩序は社会の領域の中に商品だけしか認めようとしない。したがってその社会では、人間の労働力も商品としてしか評価されず、そこに込められた人間の思いはすべて商品化され、金銭で評価される。
それのみならず、権利もまた金銭による購買の対象にされることによって、生きる権利そのものまでが商品化されるようになる。
この人間の尊厳への冒涜のつぐないをつけるには、社会を三分節化して、精神生活、法=国民生活、経済生活(生活という言葉でシュタイナーは社会のいとなみがすべて生命体の有機的活動なのだということを暗示している)に分けなければならない。
そしてすべての労働力が、精神労働も肉体労働も、経済生活ではなく、精神生活に属している、ということも明らかにし、同時に経済生活と法組織との徹底して分離をも追及しなければならない。それを時代の本質的な課題としてうけとめるのでなければ、社会の未来に救いはない。
―――――――――――――――
また、シュタイナーは、社会主義的体制にも徹底的な批判を繰り返し、マルクス主義については次のような見解を示していたという。
―――――――――――――――
マルクス主義が人間関係を経済組織から切り離そうとする正しい目標を持ちながら、人間精神の自主管理を徹底させる方向ではなく、官僚中心の政治機構の中に人間管理のシステムを組み込む方向に向わざるをえず、その結果信じられぬような人間精神の頽廃を生じさせるであろう、ということを予見していた。
―――――――――――――
さて、もうすぐNHKのドラマ「監査法人」が始ってしまうので、ちょっと中断。失礼。
いじめ〜戦い抜くこと
このブログでは、検索ワードが“いじめ”に関するものもしばしば見られる。
いじめる側の人間というのは、はっきり言って「くだらない低俗な人格の持ち主」でしかない。つまり、人間として弱いということでもある。
そんな人間をまともに相手をしていても時間の無駄でしかないのだが、そうは言っても現実にいじめられている側の人間にとっては深刻極まりないものである。
もし、いじめられる側の立場だったらどうするか。
戦い抜くしかない。
黙っていたり、耐え忍ぶだけでは、いじめはエスカレートする。黙っていたり、耐え忍ぶだけでは状況は悪化する。
今以上に辛くならない為には、徹底的に戦うしかない。人間、捨て身になった時というのは、本当に大きなパワーが出るもの。自殺するぐらいなら、戦った方がはるかにいい。だって、希望の光が確実に存在するのだから。
身近に相談できる人がいるなら相談すればいいし、もしいなければ外に探せばいい。相談センター、文科省、市町村ではなく都道府県の教育委員会、ネット等、必ずどこかに突破口を開いてもらえるところがある。
自分がどう思われようが、今以上に悪化させない為には捨て身になる覚悟が必要。自分に非がないのなら、徹底的に戦うべきなのだ。
四面楚歌の状態を怖れるな。
毅然とした強い態度で戦い続けるなら、必ず状況は変化していくものだから。
だが、一人だけで悩むのはよくない。手当たり次第、思いつくまま、どんどん話しを持っていくことだ。
そして、自分に自身を持つこと。自分だけが自分を最も大切に出来る存在なのだから。自分で自分を裏切ってはならない。
戦い抜くこと。それしか道はないし、そうすることが最も有効なことなのだ。
また、愛する者がいじめられているとき、やはり捨て身なって守り抜くことだ。行動しかないのだから。
だが、人体を傷つけてはならない。それは、犯罪だから。反対に肉体を傷つけられたら、すぐに警察へ被害届を出すことだ。精神的なものは、なかなか犯罪と立証してもらえないが、肉体的なもは犯罪として立証される。
戦うことを怖れてはならない。むしろ、戦わないことを怖れるべきだ。
いじめる側の人間というのは、はっきり言って「くだらない低俗な人格の持ち主」でしかない。つまり、人間として弱いということでもある。
そんな人間をまともに相手をしていても時間の無駄でしかないのだが、そうは言っても現実にいじめられている側の人間にとっては深刻極まりないものである。
もし、いじめられる側の立場だったらどうするか。
戦い抜くしかない。
黙っていたり、耐え忍ぶだけでは、いじめはエスカレートする。黙っていたり、耐え忍ぶだけでは状況は悪化する。
今以上に辛くならない為には、徹底的に戦うしかない。人間、捨て身になった時というのは、本当に大きなパワーが出るもの。自殺するぐらいなら、戦った方がはるかにいい。だって、希望の光が確実に存在するのだから。
身近に相談できる人がいるなら相談すればいいし、もしいなければ外に探せばいい。相談センター、文科省、市町村ではなく都道府県の教育委員会、ネット等、必ずどこかに突破口を開いてもらえるところがある。
自分がどう思われようが、今以上に悪化させない為には捨て身になる覚悟が必要。自分に非がないのなら、徹底的に戦うべきなのだ。
四面楚歌の状態を怖れるな。
毅然とした強い態度で戦い続けるなら、必ず状況は変化していくものだから。
だが、一人だけで悩むのはよくない。手当たり次第、思いつくまま、どんどん話しを持っていくことだ。
そして、自分に自身を持つこと。自分だけが自分を最も大切に出来る存在なのだから。自分で自分を裏切ってはならない。
戦い抜くこと。それしか道はないし、そうすることが最も有効なことなのだ。
また、愛する者がいじめられているとき、やはり捨て身なって守り抜くことだ。行動しかないのだから。
だが、人体を傷つけてはならない。それは、犯罪だから。反対に肉体を傷つけられたら、すぐに警察へ被害届を出すことだ。精神的なものは、なかなか犯罪と立証してもらえないが、肉体的なもは犯罪として立証される。
戦うことを怖れてはならない。むしろ、戦わないことを怖れるべきだ。
2008年07月16日
反映・萌え芽
この土地へ来て10年目になるが、なぜかよく間違い電話がかかってくる。それも、実にバラエティーにとんでいるのだ。
農協、葬儀屋、町長の家、福祉事務所、介護の○○さん・・・・エトセトラ。
昨日はスターバックス、今日は○○(現在住んでいる都道府県の名)建設。
なんでだろうね。なかには、まったく違う番号というのもあった。でも、ここまで種々様々なものだと、間違い電話も楽しくなるから不思議だ。
ああ、それにしてもシュタイナーの「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」という本。本当にすごすぎる。
そして現在の社会の動きが、まさにシュタイナーの見解の萌え芽ではないかと思われることもあるのだ。もう少しで読み終るが、図書館への返却日までに間に合えば、後日、内容について書いてみたいと思う。
しかし、このような有益な本が絶版とは悲しいばかりだ。今だからこそ、再版して欲しいと願って止まない。
農協、葬儀屋、町長の家、福祉事務所、介護の○○さん・・・・エトセトラ。
昨日はスターバックス、今日は○○(現在住んでいる都道府県の名)建設。
なんでだろうね。なかには、まったく違う番号というのもあった。でも、ここまで種々様々なものだと、間違い電話も楽しくなるから不思議だ。
ああ、それにしてもシュタイナーの「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」という本。本当にすごすぎる。
そして現在の社会の動きが、まさにシュタイナーの見解の萌え芽ではないかと思われることもあるのだ。もう少しで読み終るが、図書館への返却日までに間に合えば、後日、内容について書いてみたいと思う。
しかし、このような有益な本が絶版とは悲しいばかりだ。今だからこそ、再版して欲しいと願って止まない。
2008年07月13日
教育現場の腐敗
大分県教育委員会における教師の不正採用や昇進問題、そしてそれに伴う賄賂がクローズアップされているが、このようなことは大分県だけではなく、全国のあちこちで昔から囁かれてきたこと。特に、地方では日常茶飯事の如く行われていると思われる。
大分県以外の他の都道府県の教育委員会では、きっと今頃は、どうしたら発覚されずに済むのか、万が一漏れた場合には誰に責任を被せるかを必死に検討している最中だろう。
そもそも教師の採用を地方採用という狭い枠組みで行っていること自体がおかしいのではないだろうか。その方式は汚職を蔓延させる。
また、まだ記憶にも新しい高校での必須科目の履修問題。それについても、それぞれの都道府県の体質や隠蔽工作が上手い下手、教育委員会の結束度の強さなどによって、だいぶ違った数字がでていたように思われる。
どの高校を犠牲にさせるか。たとえば県教育委員会が隠蔽工作が上手く結束力も強ければ、私学が槍玉にあげられたりということもあったのではないだろうか。
そして、学校側から生徒達へは内部告発から崩れるから言わないようにと口頭で通告したところもかなりあるように思われる。
ただ、あの時の国の対応もお粗末だった。受験を控えている大切な時期に、正直に申告した学校や、槍玉として上げられた学校の生徒達が犠牲になり、隠蔽工作に成功した学校の生徒達はそれを逃れている。そして、勿論、それまでの卒業生は何も問われない。
当然、そんなことは分かりきっていることなので、国は生徒達に対してもっと公平な対応策を取るべきだったと思う。
また、教育実習は母校や出身地域にある学校で行うと採点が甘くなる為、今度からそれ以外のところで教育実習を行うという方針に決まったようだが、依然として私の住んでいるところでは母校で教育実習を行わせている。
まさに、教育現場は汚職の温床。教員の採用にしても昇進にしても、今までのやり方や管轄区域の大改革が早急に求められる。
一度、公立小中高の教師を全て解雇して、新たな制度の下に再試験を行い配置して欲しいぐらいである。
そして、不正によって採用や昇進をさせてきた事実は、自分たちの子孫も駄目にし、日本、そして世界までも駄目にしたという大きな罪であるという事実。
人を教え導く人間たちがしたそのことは、まさに悪の所業以外の何ものでもない。そして、まだ発覚されていなからと隠蔽工作に必死の教育現場の人間達はさらに罪を犯し続けているのだ。
早急な大改革が教育現場に求められている。今までの構造システムの大改革をである。
大分県以外の他の都道府県の教育委員会では、きっと今頃は、どうしたら発覚されずに済むのか、万が一漏れた場合には誰に責任を被せるかを必死に検討している最中だろう。
そもそも教師の採用を地方採用という狭い枠組みで行っていること自体がおかしいのではないだろうか。その方式は汚職を蔓延させる。
また、まだ記憶にも新しい高校での必須科目の履修問題。それについても、それぞれの都道府県の体質や隠蔽工作が上手い下手、教育委員会の結束度の強さなどによって、だいぶ違った数字がでていたように思われる。
どの高校を犠牲にさせるか。たとえば県教育委員会が隠蔽工作が上手く結束力も強ければ、私学が槍玉にあげられたりということもあったのではないだろうか。
そして、学校側から生徒達へは内部告発から崩れるから言わないようにと口頭で通告したところもかなりあるように思われる。
ただ、あの時の国の対応もお粗末だった。受験を控えている大切な時期に、正直に申告した学校や、槍玉として上げられた学校の生徒達が犠牲になり、隠蔽工作に成功した学校の生徒達はそれを逃れている。そして、勿論、それまでの卒業生は何も問われない。
当然、そんなことは分かりきっていることなので、国は生徒達に対してもっと公平な対応策を取るべきだったと思う。
また、教育実習は母校や出身地域にある学校で行うと採点が甘くなる為、今度からそれ以外のところで教育実習を行うという方針に決まったようだが、依然として私の住んでいるところでは母校で教育実習を行わせている。
まさに、教育現場は汚職の温床。教員の採用にしても昇進にしても、今までのやり方や管轄区域の大改革が早急に求められる。
一度、公立小中高の教師を全て解雇して、新たな制度の下に再試験を行い配置して欲しいぐらいである。
そして、不正によって採用や昇進をさせてきた事実は、自分たちの子孫も駄目にし、日本、そして世界までも駄目にしたという大きな罪であるという事実。
人を教え導く人間たちがしたそのことは、まさに悪の所業以外の何ものでもない。そして、まだ発覚されていなからと隠蔽工作に必死の教育現場の人間達はさらに罪を犯し続けているのだ。
早急な大改革が教育現場に求められている。今までの構造システムの大改革をである。

