2012年01月29日

守護霊人

最近、守護霊人の存在を以前とは違った感覚で認識し始めた。言葉ではうまく表現できないが、強いて言うとするなら、自分のエーテル体やアストラル体と重ねるような感じとでも言おうか。

こういったことが物質界にも影響を及ぼしているのだろうか、面白い変化が起き始めている。

たとえば、昨日は外出するための準備をしていた。と、そこへ大学が休みだった子どもがもそもそとやってきてカップヌードルを食べようとした。
お湯を注いだかと思ったら、カップヌードルを倒してしまい、流しの横のカウンターの上を汚してしまった。通常ではほぼやることの無いミス。
私は掃除を終えた後だったので、ちょっとイラッとしながら流し台を覗くと、直径一センチほどの円い金属のプレートが2枚落ちていた。
これは何だろうかと辺りを点検した。すると、水道のシャワー機能付きの蛇口の中央部分の部品だということが分かった。どうやら、劣化して外れたようだ。
ちょうど、出かける直前の出来事だったので、私はホームセンタに寄って部品を買い、困ることもなく済んだのである。

そこで思った。これは守護霊人が蛇口の劣化を教えるために、子どもにカップヌードルを倒すように仕向けたのかなと。

また、出かけるために駐車場に置いてある車に乗っていたところ、いきなり見知らぬ女性が待ってくれとこちらへ突進してきた。何事かと思ったら、道を尋ねてきたのである。ちなみに、駐車場はマンションの駐車場であり、道路から奥へ入った建物の裏である。普通は、マンション以外の人間が立ち入ることは無いスペース。また、屋外には何人かの人がいたというのに、わざわざ車に乗っている私のところへ来て尋ねるというのも不思議なことだ。

他にもクレープ屋さんで注文したところ、一旦、出来上がった商品を渡されたものの、間違って作ってしまったからもう一度作り直すといってその後に渡されたものが、注文したものより高い商品だった。注文したものはチョコショコラクリーム。最初に渡された商品で間違っていなかったのに、何を勘違いしたのか、再び渡されたものはそこにバナナがプラスされたものであった。
きっと、バナナを食べるようにとの守護霊人の悪戯か?

また、シッピングセンターで車を駐車しようとしていたら、ちょうど前方の車がスーッと出たので、良い場所にスムーズに止めることが出来たりと。

まあ、こういったことが守護霊人への意識の変化によるものかどうかは断定することは出来ないが、ただ、感覚的なこととして実感出来ていることは、「なんだか安心できるな」である。

守護霊人との緊密な連携は人間にとって大切なこと。そのためには、常に自身を正しく、真っ直ぐにしておく努力をし続けることが大切だと思う。
posted by ミューシャ at 10:37| Comment(1) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2012年01月27日

芽吹き

日本列島を寒波が襲っている。雪が舞い、風が吹き、氷が張る。

だが、春はすぐそこまで来ている。
大地には芽吹こうとしている多くの生命が宿り、太陽光を感じている。

母なる大地は祈り、実を結ぶことを願う。

我々人間は聖なる大地を穢してはならない。
地球は神聖な神の創造物。
そして、人間も神の神聖なる創造物。

太陽光に希望だけを感じて芽吹こうとする生命。
どんなに小さな芽でも、それはあまりにも尊く美しい。






「ブラヴァッキーのことば365日」より抜粋。

1月27日
避けなければならないことは、まだ現れていない苦痛である。過去を変えることはできないし、修正することもできない。避けるべきことは、未来の恐怖や予感で心をかき乱すことや、自分自身や他人に、現在または未来に苦痛を起こさせる行為と衝動である。




今、この時を、そして今の自分を信じ、大切にしたい。
そして、決して他者に苦痛を与える人間にはなりたくない。苦痛を与えるということは悪魔の魂と同化している証明。他者を粗末にしか見ていないという下劣な精神の証明だから。

今この時を大切にし、そして神と自分を信じるだけでいい。信じきるということの意志力。
posted by ミューシャ at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2012年01月21日

道徳的性質

「ブラヴァッキーの言葉365日」という本より抜粋。



1月21日

我々すなわち私達の人格我は、思考力のある私達の道徳的性質が、私達の神聖な三つ組、すなわちアートマ(至高我)、ブッディ(覚智)、マナス(知性)という三位一体につながれることによって不死となる。
転生する高級自我によって地上に顕現しているモナド(至高単霊)は「永遠の生命の木」と呼ばれるが、それは知識の実、善と悪の知識、すなわちグノーシス、神聖な智慧の実を食べることによってのみ近づくことができるのである。




1月22日

瞑想、禁欲、道徳的義務の遵守、やさしい思い、善い行い、親切な言葉、すべての人々への善意、己を忘れることは、知識を得て高級な智慧を受ける準備をするために、最も効果的な手段である。




ブラヴァッキーは日本人ではないが、私は、道徳的な思考や意識というものは、日本人が世界の中では最も優れているのではないかと思う。

日本人は無宗教とも言われるが、キリスト教や神道、仏教など様々な宗教を受け入れられる国であり、それ故に、多くのものを吸収し理解できるのではないだろうか。
こういった土壌により道徳的性質は養われ、道徳的遵守が成される・・・・・はずである。

しかし、ブラヴァッキーの言うところの思考力のある道徳的性質が聖なる三つ組に繋がれないなら、それは脆く、無いに等しいのだろうと思う。

最低限、道徳的遵守は行ないたいものである。道徳的遵守を行ない続けていれば、いつか、それは自然体となり、神聖な三つ組へと繋がれる。

ブラバッキーは決して無理難題を言っているのではなく、誰にでも簡単に出来る当たり前のことを言っているにすぎない。
なぜなら、彼女もまた愛の人だから・・・・。
posted by ミューシャ at 22:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

十字架

我が目を疑った。愕然とした。まさか、と思った。今の今まで知らなかった。そんなことがあったということを。

あれほど神を好きだった人がなぜ?

その人の撮る神様関係の写真は美しいものが多く、なかでも特に羨ましいと思うほど澄んだ写真があったというのに・・・・・・。

一途に神を求め、それだけに神から愛されていたのだろうが、その分、悪魔の引っ張りも強く・・・・・・。

しかし、神を求める者は、その人に応じた悪の囁きもあるもの。それに打ち勝っていかなくては先へは進めない。

が、それが事実なら、やったことは許されるものではない。自分よりも弱い者を決して犠牲にしてはならない。

十字架を背負いながらも、やがて地獄から抜け出して、いつかは前よりも強く清くなることを願ってやまない。





私がある時に外したのは、亜流の人を試したという記事を目にし、私も試されていたであろうことに傷ついたからである。だが、それは、もう過去のことで、傷はとっくに癒えてはいるが。
posted by ミューシャ at 00:29| Comment(6) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2012年01月18日

和合

檜原神社にある豊鍬入姫宮の千木は男神を表す外削り。国津神の意地によって、天津神はずっとずっと長い時を屈辱の中に押し込められてきた。

豊鍬入姫の心を思うと胸が張り裂けそうになる。それでも天下泰平を願い国民の為に祈り続けてきたはず。

国津神の意地は、あまりにも酷いやり方。その子孫たちに意地が伝承されていく。血統の悲しさだろうか。

しかし、いつか、天津神の御心を知って、国津神は和合の道へと行くだろう。



また、檜原神社の社務所は開いているものの、たいていは神社の方の姿が見えないので、なかなかお札を購入することが出来ない。今回も、正月のときも残念ながら居られなかった。
だが、去年の秋に参拝したときには、たまたま居られたので檜原神社のお札と豊鍬入姫宮のお札を購入。我が家の神棚に祀った。
ちなみに神棚の千木は内削りである。




この事実を知ってからというもの心が痛くて、今日も朝から豊鍬入姫に意識が行っていた。しかし、買い物に出なければならない。

スーパーに付くと、エレベーターのすぐ近くに駐車できた。また、買い物をしていたら、見知らぬ老女が話しかけてきて、全品5%割引の券を自分では使わないからとくれた。

ふと、思ってしまう。あの人は天津神系なのか、それとも国津神系なのかと。
posted by ミューシャ at 14:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2012年01月16日

姿

私の腕前が良くない為、実際の美しさには程遠いですが、今回の神社の姿です。



桧原神社
posted by ミューシャ at 00:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年01月14日

天空と大地

意志


若木はやがて大木となる。天空に向い、そして大地を見下ろす。




昨日は三輪山へ登拝及び桧原神社へ参拝してきた。

三輪山へは多くの人々が登拝しに来ていた。グループで来ていた人も多かったし、恋人同士、夫婦など種々様々。私のように一人だけで登拝している人も少しいたが、それらはなぜか女性が多い。

山を登っていくと、前方に白髪の老女が腰を曲げてゆっくりゆっくりと歩いていた。老女は、何やら歌ったり独り言をしきりに言っている。しかし、微笑ましい後姿。

そのうち、私は老女に追いついた。何気なく会話が始まった。
その老女は息子夫婦と来ていると言う。しかし、息子夫婦は先へ登って行ってしまったと。また、数年前に足の手術をして歩けなくなったのだが、少しずつリハビリをして歩けるようになったとも。
今回、三輪山へ連れて来てもらったが、頂上まで登れるかどうか心配だとのこと。

私はそのまま老女と共に登っていった。そして、3分の1ほど登ったところで、下山してきた息子夫婦とすれ違った。私は、てっきり老女はそのまま下山するのかと思い、先へ登って行ったが、後ろから声がした。
「あともう少しだって言うから、頑張っての登っていこう。」と、自分自身に言い聞かせるかのように何度も何度も言っている。

私は時々、後ろを振り返りながら歩いていた。しかし、もうすぐ頂上に至るというところで老女の姿が見えなくなった。どうしたのだろうか。どこかで休んでいるのだろうか。でも、たとえ何かあっても、これだけ多くの人々が登拝しにきているのだから大丈夫だろう。そう、思って歩を進めた。

頂上に着くと、まずお社がある。そこにはなぜか誰一人としていなかった。
私は祝詞を奏上し、深い祈りの中へと入った。
いつもの上へと巻き上がるような風が巻き起こった。龍神の存在。
が、目を開けると、燦々と降り注ぐ日の光に照らされていた。いつものパターン。

と、声がした。
「ここが最終地点ですか?」
後ろを振り返ると、あの老女であった。
やっと無事に辿り付けたのかと私はその姿に安堵した。

「いいえ、まだ、この先に奥津磐座があって、そこが最終地点ですよ。でも、ここから先は道が平坦ですし、すぐですから、頑張って行きましょう。」と私は答えた。

奥津磐座へ着くと、老女は心の底から感謝の祈りの言葉を呟いていた。そして、生気を取り戻したかのようにみるみると元気になった。

その後、老女から、自分一人で下山するのは不安だから一緒に下りてほしいとお願いされたので、これまたゆっくりと一緒にお供した。
が、老女はまるで20歳ぐらい若返ったかのように、登ってくる人たちに「頑張ってね」とか、「もう少しよ」などと溌剌として声かけを行なっていた。私は、思わず笑ってしまった。

そして、麓の登山口へ着くと息子夫婦が待っていたので、私も安心して老女と別れたのであった。




その後、私は桧原神社へと向かった。
三輪山へは多くの人々が訪れていたが、こちらは、たまに人とすれ違う程度だった。

桧原神社へ着くと、誰も居なかった。また、ここへは何度も参拝に来ているというのに、初めて美しい姿の神社だと思った。
そして、奥まではっきりと見えた。こんな風になっていたのかと。

ここでも、周りに人が居なかったお陰で、祝詞を奏上して深い祈りへと入れた。そして、同じ。突如として巻き上がる風と光。

その後、私とすれ違いに一人の男性が参拝に訪れた。彼は、「やっと、来れたー。」と歓喜の声を上げていた。


帰りは、神社の正面ではなく、横の鳥居から出たが、そこには白い椿の花が落ちていた。

三輪山の椿はまだ咲いてはいなかったが、大神神社の境内の椿の花は満開であった。

椿





          空を見て、大地を見る。
          空は、どこまでも透明で、どこまでも澄んでいる。
          大地は、逞しく、そしてやさしい。



澄む



大地のエネルギー
posted by ミューシャ at 17:28| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2012年01月12日

凛として生きよ

祗園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

娑羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらはす

おごれる人も久しからず

唯春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ

偏に風の前の塵に同じも





もう、30年ほど前のこと。実家では新たに別の土地へ家を建てたが、私の生家でもある最初の家は人に貸すなどしてそのまま所有していた。

その後、もうその家には住む事はないだろうということで処分しようとした時、隣で歯医者を開業していた夫婦が、私の生家の一部分が自分の土地だと言っていちゃもんをつけ奪い取ろうとしてきた。
しかし、生家にはきちんとした図面や所有地の証書は揃っていた。それにも関わらず、強引に奪い取ろうとする。

そこで調停へと持ち込んだ。だが、その歯医者は一度も呼び出しに応じなかった。そのうち、調停員はこう言ったそうだ。
「あの歯医者の同級生に県会議員がいて、それが後ろについているから、あなた方にとっては分が悪い。諦めた方がいい。もしくは、裁判に持ち込めば当然、勝てるだろうが。」と。

私の両親は、費用も時間もかかる裁判にまで持ち込んでまで苦痛の時間を過ごしたくないと諦め、そして土地はその歯医者に奪い取られた。

その後、その歯医者の妻の方は近所に触れ回ったそうだ。私の両親がその土地から引っ越したのは悪いことをしたから居られなくなったからだと。
まったくの嘘を平気でつき、人の土地をヤクザよりも汚いやり方で奪い取った人間達。

十年ほど前だろうか、たまたま私が運転する車に母を乗せて走っていたとき、その歯医者の妻が歩いていた。母は、あの人間が〇〇さんの奥さんだと教えてくれた。私は、その生家では幼稚園までしか居なかったので現在の顔は知らなかった。

先月、実家に帰ったとき、その歯医者夫婦の行く末を聞くことになった。数年ほど前に二人とも精神異常になって施設に入れられたと。



たとえ不条理なことを身に受けたとしても、自分はただ正しく生きていればいい。心を醜く汚すことも、必要以上に傷つくこともない。
なぜなら、宇宙の法則は微塵の狂いも無く公平に判決を下すものだから。

常に安心立命の境地に居るがいい。自分で自分を穢してはならない。外的に襲ってきたものは、着ていた衣裳を汚すかも知れないが、己そのものをを汚すか汚さないかは自分自身が決めることなのだから。
そして、悪を働くものは自分の未来に地獄を創りだし、それに向かって這い続けるだけなのだから。
posted by ミューシャ at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2012年01月11日

心に風が吹くとき

サリン事件で指名手配中であったオーム真理教の信者平田容疑者が自首した。

逮捕後の顔写真が公開されたが、それを見て子どもが言った。
「犯罪者になると特別人相の悪い写真を出して、被害者になると良い印象を与える写真を出すものなのかな? それに、犯罪者に関しては悪い評判ばかりを報道して、被害者になると良い評判ばかり出している感じがするな。」と。

それを聞いて的を得た感想だなと思った。マスコミとは真実をそのまま報道することはなく、脚色し、時には虚像を作り上げるものだ。

自分の目と心で見て、そして客観的に事実だけを拾う努力をしたいものである。

それにしても、優秀で純粋だった若者達が騙される。薄汚い教祖に洗脳されてしまう現実。純粋に真理とやらを求めていたはずなのに、気がつけば人殺しの片棒を担がされていた・・・・・。
しかし、洗脳とはそんなに簡単には解けなくて、麻薬中毒患者のように難しい。
やがて正気を取り戻したとき、どんなに後悔してもその現実は現実として存在し、罪に対しての罰を受けなければならない。

悪魔は教祖。
悪魔に騙された人間の行く末。

だが、心の汚い連中のほうが上手く世の中を渡っている。平気で弱者を蹴落とし、平気で弱者や自分にとって利用価値のない者たちを足蹴にし、のし上がっていく。

教師のくせに生徒を虐めて自殺に追い込んだり、登校拒否にさせたりする者は、発覚さえしなければそのままのうのうと普通の暮らしを送っている。

職場で部下へのパワハラをし、その部下が精神疾患に陥ったり自殺をしても、誰かからの申し立てがなければ、そのまま普通の暮らしを送っている。

汚い連中ほど我がもの顔に人生を過ごす。




祗園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

娑羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらはす

おごれる人も久しからず

唯春の夜の夢のごとし

たけき者も遂にはほろびぬ

偏に風の前の塵に同じ


posted by ミューシャ at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2012年01月02日

夜明け前

夜明け前に初詣に出かけた。それでも、元旦ということもあり、それほど寒くもなかったので、いつも以上に参拝客は訪れていた。

しかし、私はそこからさらに山の中へと足を踏み入れて行った。懐中電灯を持ってこなかった為、真っ暗な夜道を携帯電話のライト機能を使って照らす。

誰一人と会うこともなく、夜道を歩き続ける。

空を見上げると星がきれいに輝いていた。ただ、三日月の為、夜道を照らしてくれるほどの明るさはなかった。

ふと、子どもの頃のことを思いだす。
電灯も無い夜道。田んぼのあぜ道。月明かりだけがやさしく辺りを照らし出してくれていたことを。
私は、そんな幻想的な光景が大好きだった。

携帯のライト機能は数十秒で切れる為、頻繁に暗闇が訪れていた。しかし、私はそんなことも楽しんでいた。なぜなら、神々の集う山はあまりにも心地よいから。
そして、自然の音だけが聞こえてくる。沢の流れる音。滝の落ちる音。木々の囁き・・・・。
やさしい、やさしい世界。


CIMG0494.JPG




神々の前に立つと、いつももう一人の私が目覚める。その私は、日本のこと国民のことだけを祈っている。

そして、下界へ戻ってきた時には、いつも思うのだ。なんで、家族のことや自分のことを祈らなかったのだろうかと。ちょっと、残念な思い。



御神籤は大吉だった。

こせやまの
   列々椿
つらつらに
  見乍
   しのばな
こせの
  はるのを

       (詠人不知)
posted by ミューシャ at 01:42| Comment(8) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする