2006年10月31日

意志〜エネルギー

 古代メキシコシャーマンたちは、「意志」とは、宇宙に流れるエネルギーを「見た」とき、視覚化できるひとつの力であると捉えていたと言う。

 そして、その古代メキシコシャーマンの流れを汲む、ドン・ファンは次のような言葉を残している。


* * * * * * * *


 人間の目に処理できる機能がふたつある、ひとつには宇宙に流れているエネルギーを詳細に「見る」ことで、もうひとつは「この世界にある事物を眺める」ことだ。

どちらの機能がもう一方よりすぐれているということはないのだが、それでも、ただ眺めるだけのために目を鍛えるのは、恥ずべきで、不必要な損失である。

「時の輪」 より抜粋
 * * * * * * * *




 かつての記事の中に、シュタイナーの見解としての死者のための朗読ということについて、本の中に書かれてあることを考え抜きながら読むべきであるということを書いたが、それもまさに霊的なことを示唆している。

 冒頭の文章を逆説的に考えるなら、肉体を持っている人間が死者のために本を読んであげようとする意志。その意志は、意志となった時点で、既に宇宙のなかに偏在するエネルギーとなっている。

 そのエネルギーに当然の如く、霊体となっている死者たちは反応する。そこで、考え抜きながら読むということは、形になって現われている文章の中に流れているエネルギーを読み取るということであり、死者には著者の意志、著者にそれを書かせた背後に存在する者の意志、そして、読み手が優れていれば、読み手の意志も流れていくことによって理解できるのではないかと思う。

 シュタイナーの考え抜きながら読むということの提唱は、ドン・ファンの語る、宇宙に流れている意志を見ることというシャーマンとしての能力を、誰もがみな実行でき、そしてまた獲得できるということである。だから、意外と容易いことなのである。

 

 また、シュタイナーは感情について次のように述べている。

 * * * * * * * *


私たちは感情を霊界においても、身体から離脱した後でも、内的に目覚めさせることができなければなりません。

しかしそれは人間的な感情とまったく同じものではありません。なぜなら人間的な感情は肉体の内部においてしか体験できませんから。しかし、霊界にもそのような感情に対応するものがあります。

 * * * * * * * *




 ようするに、霊界においては、現世でのように内なるものを見るのではなく、外なるものを振り返るからである。ここでも、反転の法則を見るのであるが。

 どんな些細な事にでも、そこにはエネルギーが存在している。あらゆる種類のエネルギーが。だからこそ、少しでも自分を純化させていく努力を怠ってはならない。

 考え抜くということは、読み取るということ。それは、まさに謎解きのようでもあり、この上なく楽しいものである。
posted by ミューシャ at 16:55| Comment(3) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

ネイティヴたちの魂

 日曜日の朝、相変わらず五時起床。朝からばたばたとしながらも、それでも休日の朝は、ゆったりとした時間が取れることに感謝。

 お気に入りリンクに勝手に貼らせて頂いている「Native Heart」というブログ。十月二十八日の記事の中に素敵なリンク先を紹介されていた。
    ↓
「Honor Our Ancestors」
http://www.onetruemedia.com/otm_site/view_shared?p=1620b60034530b764f90d7&skin_id=0&utm_source=otm&utm_medium=text_url

 ネイティヴたちの写真と音楽でメッセージを紹介している。

 それを見ていると、陽だまりと自然に囲まれた木の校舎と、やわらかな土の校庭のイメージが湧きあがってきた。

 とても懐かしく、あたたかで、希望に顔が輝く時。人としての力強い尊厳。

 そこには、深い思いやりと愛情が溢れている。善いエッセンスだけを子孫に受け継がせていこうとする精神。

 そのために、大人たちは悪なるものに決して服従せず、欲望にも同化せずに気高きものを守るために戦いつづける。

 飽食の中に生きている人々は気がつかないし、そういう質素な暮らしをしているネイティヴたちの偉大な精神が理解できない。

 衣食住に最低限のもので満足しているネイティヴ。だからこそ、神の恵みを体中で受けとめ、母なる大地と共にあり、宇宙を把握できる。大切にするということを教えられる。

 そして、何よりも命を限りなく尊いものとして確固たる礎を築いている。だからこそ、決して、自ら人の精神を傷つけることはせず、いや、傷つけるという手法を知らないのである。

 愛情深き母が子どもを育てるときのように、善きものだけを与え、自らも善きものの規律の中に生きる。

 ネイティヴたちの魂は、人の故郷。その故郷の情景が、多くの人々のなかに浸透していきますように。
posted by ミューシャ at 08:43| Comment(6) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2006年10月27日

純化の必要性

前回の記事の具体編の一角を書こうと思う。よく、霊能力のある人間や、ある種の能力を得ようと修行している人たちのなかには、精神に異常をきたしてしまう人がいる。

シュタイナーもまた、それの注意点について述べている。



* * * * * * * *



個々の死者と交流することは、可能ですが、難しいのです。そのような交流を求める者には、注意深さが要求されます。

この交流には、ある種の規律正しさが必要とされます。精神世界との交流には、非常に重要な法則があります。

「地上の人間にとっては低次の衝動が、精神の側から見れば、高次のいとなみである。だから、規律正しくしていないと、死者との交流をとおして、低次の衝動が刺激されるのを感じる」と、言うことができます。

具体的に個々の死者と関わると、個々の死者と私たちの血液組織および神経組織とのあいだに関係が生じます。私たちの血液組織と神経組織の内に潜む衝動のなかに、死者は生きるのです。

そのために、低次の衝動が刺激されることがあります。そうなると、正しい規律によって自分を純化してない人に危険がもたらされることがあります。

このことは強調しておかねばなりません。これが、『旧約聖書』が死者との交流を禁じている理由だからです。(申命記 十八章、サムエル前書 二十八章)

正しい方法で死者と交流できれば、それは罪深いことではありません。

しかし純化されていない、心の込もっていない思念をもって死者との交流を試みると、非常に容易に、低次の情熱が刺激されます。

死者ではなく、死者の周囲にある元素が、低次の情熱を刺激します。「私たちが地上で、〈動物的〉と感じるものが、死者が生きる環境の基本要素なのだ」ということを、よく考えてみてください。

死者たちの世界は、私たちのなかに入ってくると、逆のものに一変します。死者の世界では高次のものが、私たちのなかでは低次のものになることがあります。このことに注意するのは、非常に重要です。

「地上にいる私たちと、死者とが交流するときには、私たちが物質界で慣れている交流方法のすべてが、逆のものにならねばならない。

物質界で人と人とが話し合うとき、言葉を発している人が話している。私たちが語っているとき、“自分が語っている。自分の口から言葉が発せられている”ということを、私たちは知っている。

だれかが私たちに返事をしたり、私たちに話をするとき、“相手から言葉が発せられている”ということを、私たちは知っている。

死者と交流すると、その関係全体が逆になる」ということなのです。

* * * * * * * *



ようするに、死者と交流しているときには、死者は語りたいことを、私たちの心魂に霊的に吹き込むため、それが、まるで私たち自らが湧き上がるように自分の口から語っているというのである。

死者からの答えを、自分の心魂から聞き取るということに慣れねばならないと言うのである。

三種の神器の一つである鏡の法則。人間は身体、精神、心魂の三つから成り立っているので、当然、死者たちと共にあるわけで、そこには鏡の法則である、逆転の構造をしっかりと会得しなければならない。

そして、鏡のもう一つの訓戒である、省みるということ。これは、シュタイナーの言う、規律正しい生活をしていなければならないということ。純化していなければ高次の世界への参入は危険であるのだ。

ゆえに、世間では、暴飲暴食や色情や贅沢三昧の生活を送っている霊能者や宗教家がいるが、そういう人々の行く末は見えてしまう。

また、興味本位や優越心などのために、死者たちに深い愛情を持つこともなく、死者に対することは、まさに自殺行為であり、死者に対しての冒涜でもある。

だが、反対に、ある種の人にとっては簡単なことでもある。規律正しい営みをし、死者への深い愛情を持って対している人々は、まさに死者との交流を発展的な世界への構築としているのである。だから、死者たちに助けられることも往々にしてあるのだ。

希望か、自殺行為か、それは自分自身が一番よくしっていること。決して、傲慢にはなれない。常に謙虚でありたい。そして、愛を深めたい。それが、光の世界への道であるから。
posted by ミューシャ at 21:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2006年10月26日

高度な純粋性

 最初は、あれほどまでに純粋に霊学を追い求めていたのにとか、あれほどまでに優れたものを持っていたのに、その後、次第に歪み始めて道を誤る人々も少なくない。

 なぜ、そうなるのかの一つの原因を、シュタイナーの見解の中に見つけた。


* * * * * * * *


非常に困難でないにしても、死者の心魂と個別に具体的に結び付くのは困難なことではあります。

身体のなかに生きている人間の心魂が、身体を離れた心魂と具体的に結び付くためには、高度に純粋性のなかに生きることができなければなりません。

しかし、純粋な霊性のなかに具体的に生きると、人間の低次の衝動がたやすく目覚めます。そのような事情に惑わされてはなりません。

超感覚的存在たちの高次の能力は、人間の低次の衝動と関連しています。

超感覚的存在の高次の能力が、地上の人間の高次の衝動と関連しているのではありません。

超感覚的存在たちの低次の衝動が、人間の高次の精神的な特性に関連しているのです。

* * * * * * * * * *  



 ここで、シュタイナーは、超感覚的存在の高次の能力=人間の低次の衝動、超感覚的存在の低次の衝動=人間の高次の精神的な特性、と関連しているとしている。

 道を外れる人が陥る危険性と錯覚。自分自身の内に起こる衝動と、精神的なものを、超感覚的存在たちと正しく照らし合わせてみるという作業が如何に必要であり大切であるかなのである。

 そして、その関連を知ることによって、決して傲慢な思い上がりなど持てなくなるのである。

 おそらく、純粋な霊性のなかに生きるということは、それだけに様々なものの矛盾や悲しさも見えてくる。ああ、無情を感じたときから何かが変化し始めるのかも知れない。

 そして、そういったものを自制の中で克服していくことによって、高度に純粋性のなかに生きるということができるのだと思う。
posted by ミューシャ at 23:42| Comment(7) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2006年10月25日

天空への舞い

大地が輝く時、生命は生まれた。

その生命は、大海原を航海し続ける。

吹く風が、私を誘う。

私は、私の中の私を信じている。



草原が踊る時、そこには何かがあり、

高い山の頂が共鳴を起こすときも、やはり何かがある。



人生には、いろいろな場面があって、

その度に、私は主人公の役を生きている。

路地裏の片隅で、膝を抱えている時も、

石ころだらけの道端で、起きれなくなっている時も、

あるいは、鳥たちと心を飛ばして遊ぶ時や、

花々と語り合う時、

そこにはいつも、同じ何かが存在している。



私は、私の中の私を信じている。



踊る指先の神経が、

歌う声の響く震えが、

思索する私を刺激する。



どんな時も、如何なる時も、

私は私の中の私を信じている。

微笑みの中の私を・・・・・。
posted by ミューシャ at 23:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

死者たちは私たちのただなかにいる

 昨今、親による子どもへの虐待や、学校での虐めなどで自殺してしまう、あまりにも若い命が多すぎる。起こり続けるこの異常とも思える事態に対し、われわれは、亡くなってしまった霊たちにどう対処したらいいのだろうかと心が痛む。

 そんなとき、シュタイナーの次のような見解に出会った。



『若くして死の扉を通過したか、年老いてから死去したかでは、大きな違いがあります。

 精神界における経験から、その差異を次のように述べることができます。

 若い子どもが亡くなったとき、その子どもとの関係は、「精神的に考察すると、私たちはその子を失っていない。その子は霊的に、私たちのもとにとどまっている。若くして死んだ子どもは、いつも霊的にここにいるのだ」という言葉で表せます。

 年老いて亡くなった人については、逆のことが言えます。「亡くなった老人は私たちを失わない」と、いう事ができます。

私たちは子どもを失わず、老人は私たちを失いません。老人は亡くなると、精神界への大きな引力を得ることになります。そのことをとおして、亡くなった老人は物質界に働きかける力も有します。

ですから亡くなった老人は、私たちに容易に接近できます。

「年老いて亡くなった人は、地上の心魂のなかに容易に入れる力を有しているために、地上の心魂を失わない。私たちは子どもの心魂を失わない。子どもの心魂は、多かれ少なかれ、地上の人間のなかにとどまっている」のです。』



 また、彼は、こうも語る。子どもの死に対しては同情を感じ、老人の死に対しては苦痛を感じる。その苦痛は利己的な苦痛である。年老いて亡くなった人は、私たちを失わない。私たちを自分のもとへとどめておくのであると。

 そして、大事なことは、若くして亡くなった人への同情の悲痛と、年老いてから亡くなった人への利己的な苦痛を正確に区別しなければならないという。

 亡くなった子どもは私たちのなかに生きつづけ、私たちは子どもが感じる事を感じるのである。子どもの心魂は、私たちのものとへとどまって生きつづける。

 そして、葬式ということについても、子どもへは、弔辞ではなく、儀式をを執り行う方がいいと語る。子どもの気分になって考えることを提言しているのである。

 また、シュタイナーが死者たちとの共同体を重要視するのは、そういった共同体をとおして、いきいきとした精神生活が発生しうるからである。精神生活が、あまりにも重要であるということは、唯物論に染まった現実社会での人間性というものに目を向ければ、如何に根幹を成すものであるかがわかるのではないだろうか。

 そして何よりも、死者は、その活動を止めることがないのである。だから、死者との交流はごくごく普通のものなのである。
posted by ミューシャ at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

死者と共に〜円環

 シュタイナーの語ることを知るたびに、私はいつも思う。輪廻がいかに希望に充ちているかを。そして、宇宙の光や音が楽しげに、やわらかく存在しているのを感じるのだ。

 今日は、そんなシュタイナーの死後の生と死者との関わり方についての見解を、文献から引用しながら書いていきたいと思う。


 精神世界というものは、あの世では知り、学ぶことが出来ないという。しかし、死者は、それに激しい興味を抱いているというのである。

 死後の最初の時期は、人間はもっぱら記憶を糧として生きるために、精神科学について何も知らず、それに関する記憶を持たないということが、欲界での生活に深い苦痛をもたらし、霊界での進歩を著しく遅らせることになる。

 また、人間は、この世では、自分のまわりにいる者たちへの変化をさせることができるが、死の扉を通過した人は、死者たちのあいだでは変化をさせられない。だが、死者と生者との関係は変化しうるのである。

 ならば、そのような死者たちを助けるにはどうしたらいいのであろうか。それは、肉体を持って生きている人間が働きかけるしかないというのである。

 昔から重要なことは、口伝という形をとってきたが、シュタイナーもまた、精神世界に関することは、著述よりも口頭で伝える方がいいと述べる。精神的な真理は、印刷された書物よりも、口頭の方がよく語れるからであると。


『特に、深い精神的な真理について述べられたものが印刷されると、人々は苦い感情を持ちます。高次の精神世界に関する深い真理が、活字で印刷されるのは好ましくないことです。

 霊魂存在について述べられたことを印刷物にすると、それを当の霊魂存在は読むことが出来ません。精神界では、本を読むことは出来ません。

死後しばらくのあいだ、記憶によって本を読むことはできますが、高次の位階の神霊存在たちは、人間が書いた本を読むことができません。

読むことができないと、それらの存在たちは書物に何の喜びも感じません。読む必要を感じないし、読書が有益だとも思わないのです。

 人間が地上で本を読むと、霊魂存在たちもその本を読み始めます。つまり、本に書かれていることが、いきいきとした人間の思考内容になると、霊魂存在たちは人間の思考内容を読むことができるのです。』


 そして、シュタイナーは「朗読」ということについて語っている。


『死者となんらかのつながりがあった人が、まだ物質界に生きているなら、生きているその人のみが、死者の苦しみを和らげることができます。多くの場合、死者のために朗読するのが有益であることが証明されています。』


『死者が自分の前に立っているかのように感じながら、内的な思考をすると、それは死者にとって大きな慰めになります。私たちは本当に、死者のために朗読できるのです。

そうすると、生者と死者とのあいだにある隔たりを埋める端を架けることができます。

唯物論的な見解では、物質界と、人間が死と再受肉のあいだに通過する精神界とは、非常に異なったものです。しかし、この二つの世界が結び付くと、いかに影響が人生に及ぼされるかを考えてみてください。

精神科学が理論にとどまらず、直接的な人生の衝動になれば、二つの世界のあいだに分離はなくなり、直接的なコミュニケーションが可能になります。精神科学は、まさにそのようなものであるべきです。』


『死者のために朗読するのは、死者と直接的な関係を持てる機会、死者を助けることができる機会の一つになります。

私たちが助けなければ、精神科学を避けてきた死者は、いつまでも精神科学を求めて苦しみます。死者がそのような欲求を持っている場合、私たちは地上から死者を助けることができます。生きている者が、死者を助けることができるのです。』


 出口王仁三郎の「霊界物語」という書物がある。そこでは音読がいいかどうかということの議論を時々目にするが、シュタイナーの見解でいうなら、音読すべきものなのだろう。

 自分のためだけの音読では、決して死者を助けることはできない。それは、完全に利己的なものであるから。それに対する心がけについては、ちゃんと霊界物語第十一巻に書かれてある。


『神のまことの心を知り、言葉を清め、身も魂も神にひとしく、勇知愛親四魂の活用まったくなりし神人の宣伝は、いかなる悪鬼邪神といへども、その言霊に帰順せざるものはなし。

ゆゑに宣伝使たるものは、己まづ身魂をみがき、すべての神人に対し、わが身に対すると同様の心がけを持たねばならぬ。

この心がけなき宣伝使は、いかに智をふるひ弁をつくすとも、神の御国に救ふことあたはざるを知るべきなり。』


 きっと、王仁三郎は、音読することによって、自分以外の目に見えないものに対しても誠を尽くし、深い思いやりを養うことを拝読者たちにさせたかったのではないだろうか。

 そして、この世では精神世界のことを受け容れずに、また学ぶこともせずに死の扉を通過してしまった多くの苦しんでいる死者たちを助けることが、霊界物語の拝読なのかも知れない。

 そして、それは、心ある人なら誰もができることであり、反対に、軸がずれれば死者たちへの、また神への冒涜となる。姿勢を正していきたいものである。


 また、シュタイナーは、死者と生者との関係についてこのように語っている。

 死者は、生きているあいだに何らかの関係があった人々の心魂のなかにある理念と思考からのみ養分を得ることができるのであって、生きているあいだに何の関係も持たなかった人々から死者は養分を得ることは出来ないとのこと。

 そして、その養分は、眠っている人間から吸収できるのである。ゆえに、精神科学に携わっている人からは、死者たちは穀物畑を見出し、反対に唯物論者からは荒廃したものしか得られないという。

 だからこそ、精神的なことがらに携わっている人々と知りあうことが大切であるとのだと述べる。まさに、生者と死者は共同作業を行っているのである。

 また、人は生きている限り、精神科学を他者のためにも学ばなければならない。


『現代という人類史の一時期における私たちの喜び、楽しみは、物質界を生きる私たちの霊魂を堕落させてしまいかねません。

この時代の喜びと満足は動物的とは言わないまでも、非人間的な性格を持つ傾向にあるからです。

そのような喜びを体験した私達が死後、霊界へ参入しますと、そこではじめて出会う霊界の存在者たちに私たちは無限の苦しみを与えるのです。

その苦しみは、その様子を見るだけで呆然自失の状態をもたらすほどものです。私たちの魂はその影響を受けて、来世のための条件を調和的に調えることができなくなってしまいます。

 反対に私たちが地上で苦しみや悩みを体験する場合のことを考察いたしますと、物質界で得た苦しみや悩みは、霊界においては、意志の力となって私たちの魂に働きかけているのがわかります。

そして私たちの魂はそれによって力強くなります。そしてその力強さが道徳的な力に変化するのです。

私たちがその力をふたたび地上界に持ち込みますと、それはすでに周囲のために価値あるものを創造することのできる能力と、そして自分の個性にふさわしくこの能力を生かそうとする道徳的な力となっているのです。』


 最後に、もう一度、死者のための読書について書かれてあるところを抜粋したい。


『死者が私のまえにいる、と思いながら、本に書かれてある内容を注意深く追っていきます。そのように死者のために本を読むのです。抽象的に思考してはなりません。書かれている内容を考え抜くのです。』

『死者の世界では、私たちの朗読したものを死者が聞き取るということが、一般的になっています。このように、今日の精神的な叡智から取り出されたものを朗読すると、死者に大きな奉仕をしていることになります。』

『もし死者たちが私たちの朗読を聞かないなら、私たちは、「死者が私たちの朗読を聞けるようにする」という義務を果たすか、あるいは、「死者の養分になるような思考と理念で自分を満たす」という義務を果たすようにします。』
posted by ミューシャ at 00:29| Comment(13) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

元像の構築

 シュタイナーによれば、現在、アストラル体のなかに存在しているものは、死後、物質体を捨てるとともになくなるのではなく、衝動・願望は、すべて存在を続けるという。

『さらなる歩みにおいて、人間はアストラル体のエキスを携えています。第一によい意志衝動、第二に自我によって変化させられたものを携えていきます。

高貴なものに変化した衝動、美、善、モラルがアストラル体のエキスを形成します。

欲界期の終わりに、人間は自我からなっており、自我のまわりにアストラル体のエキスとエーテル体のエキス、よい衝動があるのです。』

※ 欲界期とは、死後、人間が現世においての欲望を捨てていく場所のこと。


 また、シュタイナーは、肉体から去ったあとの世界では、人は成長することが出来ないとも述べる。だからこそ、人間が物質体のなかで体験することは、人間にとって意味のあることだと語り続けるのである。

『人間は経験を積み、地上の行為をとおして、常に高みへと発展するからです。それが本質的なことです。』



 そして、再びこの世に誕生しようとするときには、まずエーテル体を得る。その時に、人間はこれから入っていく人生の模写、予告編を見るという。が、この予告の映像は、エーテル体が組み込まれるときに生じ、その瞬間、再び記憶から消え去る。

 だが、そこで見るのは個々のことがらではなく、人生のいくつかの可能性の映像だという。

 そして、この予告を見ることによって、ショックを感じて、抗うときにのみ、宿命的なものになり、ショックを感じた場合は、エーテル体が完全に物質体に入ることが出来ずに、悟性器官が正しく作り上げられなくなったり、ときには、障害が起こることがあるという。

 また、人間は自分の新しい元像を構築するために死から再受肉までの期間を必要とし、元像に適した物質体を探して、再びこの世に生まれてくると述べている。

 ただ、今の人間は、その物質体を自分で捜すことが出来ないため、元像に適した両親のところへと、高次の霊的存在たちが導いてくれるのだと。

 だから、自分が両親や環境を選んで生まれてきているのである。決して、不合理な運命というもので表現されるものではなく、自分自身の元像の構築のために、必要な条件下に生きているのだと言えるのではないだろうか。

 嘆くことなく、また、慢心することなく、今置かれている状況を如何に対処して行くかが、最重要課題なのである。

 受肉する前に自分で定めた目標は、確実にクリアしたいものである。


 また、この地上で道徳的だった人は、霊界において、地上で懇意にしていた人々と出会い、社交的になるという。

 しかし、不道徳的だった人は、懇意にしていた人々を見出すことができず、また隠者のように孤独な状態に置かれるとのこと。

 それは、意識的、無意識的なものが共に影響するというのだから、道徳的に気高い精神で地上生活を営みたいものである。
posted by ミューシャ at 21:24| Comment(5) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

教育に想う その3

 日曜日。テレビでは教育改革についての討論会などが、あちらこちらで放映されている。が、鋭く的確な視点の評論家というのは、ほんとうに少ないものだと溜息が出てしまう。

 尾木直樹という教育評論家は、ちょくちょくテレビにでている。彼は現場を20年も歩んできて、いろいろなことを見てきたというのだが、どうも教師たちの擁護体制が中心で、暗の部分をしっかり捕らえていないようだ。彼のようなタイプは、教育改革を遅らせる要因でもあるように思える。

 彼は、子どもが好きでかわいいから教師になったという人が多いというが、現実は公務員という安定職の理由でなった人間の方が多いだろう。仮に100歩譲って彼の言うとおりだとするなら、これほどまでに教育現場は酷くはなっていないはずである。

 実際、私は直にある中学校の教師からこんなことを聞いた。自分は子どもが苦手なのだが、クラス担任になるように言われ、それが嫌で嫌で一度は断ったものの2度目は断れなかった。子どもも憎たらしいことを言ってくる子などには腹が立つ、と。

 また、教師たちが料亭の個室で飲み会をしていたとき、襖一枚隔てた隣の部屋に、その学校に子どもを通わせている子の保護者がいた。で、なにやら話の内容から教師たちのようだ。子どもたちの悪口で盛り上げっている。そのうちに自分の子どもの名前が出てきた。その内容に激怒したその親は、隣の部屋を覗いた。すると、子どもの担任がいたという。

 その後、校長にクレームを言っていったらしいが、この一件は、あっという間にその学校の保護者たちの知る事となった。

 また、教育実習にきた大学生でも、気に入らない生徒を完全に無視する人とか、または、けっこう顔に感情が出る人がいるということをしばしば聞く。最初のスタートから、教師としての資質を備えていない人間が教職についたのでは、子どももたまったものではない。もちろん、最初から子どもたちのハートを惹きつける教育実習生もいる。この差をどう見る、お役人というところだ。

 また、この尾木氏は、教師の家庭事情をかなり考慮した発言も多い。だが、民間企業だったら認められないようなことが認められるというような、ぬるま湯的な状態としか思えない。

 職種、ポジションによっては、家庭問題で仕事に支障をきたせない人々も多い。伴侶のどちらかが、完全なサポート体制でなければやっていけない。だからこそ、仕事に打ち込めるということがある。

 じゃあ、教師という職種はどうかと問えば、本来なら、それこそ仕事を第一優先にしてやらなければならない仕事だと思う。子どもたちの未来、そして命さえも関わっているのだから。

 だから、どうでもいいような理由で簡単に休みをが取れるという状態も可笑しいし、始業時間ぎりぎりにきて、終了時間にはさっさと帰るような教師は不必要だとも思う。自己研鑽が出来ない教師が多いのではないだろうか。

 また、保護者の質の低下も大きな問題である。うちの子に限ってというのもいるし、やったらやり返せという親もいるし、家庭での躾がなっていないのに、なんでもかんでも学校のせいにする親も多い。

 共働きの家庭が多くなってきたということは、保護者間のつながりも薄くなり、子どもたちの言動が大人の目に触れる機会も圧倒的に少なくなってきている。

 だから、問題行動を目にしても、気軽にその子の親に注意を促すことも出来にくい。

 たとえば、医者の母親を持つ子どもがいたが、その子はやたらと人の家の引き出しを開けて中を見る癖があった。また、かなりわがままで、欲しいものがあると、友達を徹底的に虐めてでも奪うという性格。

 私は、かなり注意、指導をした。ただ、その子の祖母は日ごろの面倒をみていることもあり、「孫はわがままで躾も行き届いていないから、いい人に出会った。これからも、いろいろ注意してください。」とよく頼まれていた。

 だが、母親にたまに会ってもふんぞり返っているだけで、こちらから挨拶をしない限り知らん顔をしているし、いつもお世話になていますと社交辞令で言っても、向こうからお世話になっていますとの言葉は一切帰ってこなかった。

 全部が全部そうではないが、フルタイムで働いている共働きの親を持つ子どもの場合、けっこう日ごろの日常的な躾が欠けていて、私も娘も一緒になって、基本的なものを教え、励行していた。
 
 もちろん、専業主婦でも、時間をもてあまし井戸端会議に花を咲かせ、そのわりには子どもの面倒をそれほどみていないというぐーたら親もいる。ようするに、子どもを見れば親の質もわかるのではないだろうか。

 結局、母親も二極化している状態。その行動エリアは、母親同士の人間関係による母親としての自己研鑽というものも著しく欠けさせ、それが保護者の低下をも生じさせていると思う。

 ただ、子どもというのは、日常で接する時間の長い人の影響を最も受け易いという。そういう意味でも、教育現場、教師というもののあり方が問われるのではないだろうか。
posted by ミューシャ at 11:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2006年10月21日

魂の故郷

 もう、駄目だ。もう、これ以上駄目だ、と、人生の中で幾度となく呟いてきた思い。

 なぜ、人は平気で人を貶めたり、傷つけたり、醜い言動を表現出来るのだろうかと、その度に激しい慟哭と、血の涙を流していた。

 そんなとき、思う。いっそのこと、そういう人間たちと同化してしまえば楽になるかも知れない。そういう人間たちと同じ視点に立っていれば楽なことかも知れない。そんな風に、何度も気の遠くなるような自問自答を繰り返してきた。

 そして、もう駄目だと、極限の地へ追い込まれたとき。ほんの少しだけでも均衡を崩せば、私は向こう側にある醜い泥濘の海へと落ちていたかも知れない。

 だが、やはり、私の中にある人としてのプライドだけは捨てられなかった。それが、いつも私を思いとどまらせていたのだ。きっと、これからもそれだけは守り続けていくことだろう。



 私の魂の故郷。ふとした時に感じられる、その存在。あたたかく柔らかな光で包まれた安堵の光景。涼やかな眼差しで見つめられる光景。私を、包む。まどろむ一時。

 そして、魂が魂の故郷を感じる時、私は人間存在の意義をもまた実感するのだ。


 
 シュタイナーの洞察は、また、勇気を与えてくれた。

「霊的衝動は時代の要求に応じていなければなりません。けれどもその衝動が時代に応じれば応じるほど、はじめはその時代の人々によって烈しく拒否されるのです。」

 こういう状況は、何度か経験してきた。最初は、猛反対、もう攻撃してきた人々なのに、それから何年かしたら、その時には反発していたのが、もう正しい事として普通に受け容れている。まるで、かつて、拒否していたことがなかったかのように。
posted by ミューシャ at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2006年10月20日

美しく生きること〜麻痺するなかれ

 意図的に人を傷つけようとする言葉の氾濫。傷つく子どもたちは、まだ汚れていない純粋のまま。キモイ、キショイ、臭い、精神病、ブタ・・・・。

 なんという酷い言葉なのだろうか。人に対して向けるべき言葉ではない。人として、口にすべき言葉ではない。

 皇太子の人格否定発言。あれは、雅子妃のことについてだが、その奥にある神の意図に心を寄せたとき、本当は国民たちへの警告でもあったように思う。

 人間存在の否定。それが、言葉の暴力によって行われている。言葉を発すれば、現実に行動となって生じる。善くも悪くも。

 醜い言葉に麻痺している人間たちは、何も思わない。何も感じない。正当な理由をつけて、間違っていることを行い、それが正しいとさえ錯覚してしまっている。

 だから、いつの頃からだろうか、虐められる側にも原因があるから虐められても仕方ないという風潮になり、それが虐め増加への拍車をかけた。

 理由はなんにせよ、いけないことはいけないと教えられない教師や親。理由さえあれば、攻撃してよろしいと追い風を吹かせる。親が親なら、子どもも子ども。情けない血統の増殖。

 人間には妬み嫉みというくらだない感情だけで、人を攻撃対象にしてしまう人も多い。醜い世界の形成。それに、彼ら彼女らは気付かない。粗い波動。

 だが、そういう不浄な世界に身を置いていたとしても、やがて省みることができる日が来たなら、そういう者たちは、美しさを行動に現さなければならない。それが、今まで傷つけてきた人たちへの罪滅ぼしでもあるし、神に赦しを乞うことでもあるし、共に地球人類を美しくさせようとする者たちの仲間となることでもある。

 ネットの世界でも、これだけ罵詈雑言が溢れ返っている。ならば、自分の感じた正しいことを、美しいことを、感動したことを少しでも多く書き続けようと思う。

 そしていつの日か、美しく正しいものが、醜いものを上回ったとき、歯車は勢いよく回転しだすのだろう。

 シュタイナーの言葉を引用して終りたい。

* * * * * * * *


自分自身の霊的完成のために努力することである。人間がこの努力を続けるとき、その行為はすでに宇宙全体のために役立っている。

自分を完全なものにすることは決して利己心のあらわれではない。なぜなら不完全な人間は人類と世界の不完全なしもべであり、完全であればある程、その人は全体のためにより完全な奉仕をすることができるのだから。

「薔薇が自分を美しく飾る時、庭園もまた美化される」という言葉はここにもあてはまる。

この意味で、偉大な世界観の創始者たちは偉大な魔術師でもある。彼らに由来するものが人々の中に流れ込む。

そしてそれによって、人類だけでなく、宇宙全体が進化する。

* * * * * * * * * * 
posted by ミューシャ at 23:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

革命が始ったとき

 私はよく、人からこのように言われることが多い。

「大人しくて、感じのいい人だけれど、怒ると怖いよね。」と。

 自分でも納得。なるべく、人との摩擦は避けたい。我慢して済ませられるものならそうしたいが、世の中、そう出来ないこともある。

 こんな性格へ向かったきっかけは、高校の時からなのかも知れない。いや、確かに第一回目の革命が内部では起こっていた。そして、行動にもそれは現われた。

 そのときの担任教師というのは、3年間同じ人間が持ち上がりで受け持っていた。

 一年生の終わりの頃だったと思う。ある班が職員室の掃除をサボったら、それはもう烈火のごとく怒ったのである。しかし、それ以外の、教師たちの目に触れない場所をサボっても何の注意もしないのである。

 私は自分の中で、何かがスパークするのを覚えた。矛盾、矛盾、矛盾。矛盾だらけの教師。何が大切かよりも、自分の面子を気にかけるだけの教師。これが、教師か? こんなのが先生と呼ぶに相応しい者なのか? 

 ふーと、その教師が小さく、くだらない者のように見えた。偽善者だと思えた。

 それ以来、私は一切の掃除をすることをボイコットした。その後2年間、卒業するまで。

 また、クラスメートも担任も、誰も私に注意する人はいなかった。たぶん、男女共学が嫌で、ワンランク下げての女子高だったせいかも知れない。

 ある程度の成績はキープできていたことと、身体能力も高い方だったために、クラスメートたちからは先生というあだ名で呼ばれていた。そういう条件が揃っていたことが、きっと、教師への反逆が認知されていた要因であったと思う。

 この高校での出来事は、中学校までの私には考えられない行動であった。だから、きっと、自分ではわからない何かが、自分の中でスパークして革命が起きたのだろう。

 私には、なぜか権力者に対して怖いという感覚はない。だから、今までの人生の中でも、よく人から言われたものである。「睨まれたら大変だから、ほどほどにしなさいよ。」と。

 でも、どこからどう見ても悪いことなのに、なぜ耐えなければならないのかと思う。だから、私の人生には、強烈な支持者がいたし、強烈な敵もいた。

 こんな人生だけど、穢れた人生ではない。それは、唯一の誇り。私の信じる道。
posted by ミューシャ at 00:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2006年10月18日

教育に想う その2

 子どもたちの相次ぐ自殺で、文部科学省もやっと動き出したが、これも時の総理が教育改革を前面に打ち出している安倍総理であるからこそ動きがあるのだろう。

 また、各都道府県や市町村も学校の実態調査へと動き出しているが、今までが完全な隠蔽体質であったということを念頭に行動すべきであろう。

 実際、現場ではどうなっているか。例えば、県教育委員だとか、町の教育委員が学校を視察に来るということは、事前に学校へ知らされている。

 それに対して学校側はどうするかというと、学校内で見られては不味いもの――例えば個人を中傷するような落書きを消すなど――の撤去、そして、生徒たちの中で乱れた制服の着方をしている子どもたちに、その視察とのときだけはきちんとするように指導し、その後は、また再び注意すらしないとか、あるいは、視察しに来た人たちに廊下などであったら挨拶をするように、質問をされた時は、目を見てはっきり答えるようになどの指導がなされている。

 つまり、視察の人間が訪れたときにだけ、問題がないように取り繕おうとしているのである。こんな調子では、決して実体など掴めないし、いつまでたっても良くならない。

 が、ここまで深刻な状態でうごいているのに、どうして学校側は、尚且つ臭いものには蓋をしろ的な行動に出るのか。

 それは、その学校に下ろしてもらえる予算を決めることにも影響があるし、また、評価によって教師たちの給料にも差が出るからである。だから、面倒なことをしたくないという学校側だけの自分かわいさという保守的な考えに基づいているように見受けられる。

 実際、教師たちは学校内の査定で順位をつけられ、それによって昇給にも差がでるそうである。また、それを決めるのは校長、教頭であり、その二人に睨まれないようにというのが現実としての実体とのこと。

 生徒よりも、自分のことが優先させられている状態。これでは、いつまでたっても子どもたちから犠牲者が出続けるのは目に見えている。

 また、今回、福岡の中学校の虐めをおこなった教師は、エリート中のエリートだという。それは、コミュニケーションを学ぶ研修会があるそうだが、それは校長や教育委員会が合格だと認めた教師しか参加できないというものである。

 この教師のときは、200人ほどの応募に対し、約40人ほどの合格者であったとのこと。そして、これに合格した人間は、将来、教頭、校長へとなる人材であるらしい。そして、その教師は合格していた。

 しかし、まわりを見ても分かるように、校長だから、または教頭だからといって、尊敬できるような人物がどれほどいるだろうか? 中には、なんでこんな人間がとも思えるような人もいる。如何に、その人選が的を得ていないかがわかり、また、教育関係者には人を見る目が備わっていないかがわかるというもの。

 実際、私が見たことを書くが、このあいだの記事の中にも書いた、学校の立て直しに選ばれて派遣された来た教師。4年生を担当し、そのまま持ち上がりで6年生まで教えていた。もちろん、クラス替えは毎年行われていたが。

 最初の年は、より多くの情報を得たいがために話を聞こうとするが、最初の1年は問題があって当然。2年目も、まあある程度はあって当然。だが、3年目になると、自分のクラスに問題があることに目を瞑るという感覚であった。

 それは、即、自分の評価へ繋がるからである。力で押さえつけて解決しようとする教師は、少しの間は子どもたちを自分の言うとおりに押さえつけることが出来、それは、はたから見たら、一見、問題を解決しているかのように見える。しかし、根本的には、なんら解決されていないのである。

 わが子は、4年生の時と6年生の時に、その教師が担任のクラスになったが、4年生の時は、人の話をなんでも聞こうとしていたのが、6年生になると、もうまずいことは聞きたくないという感じであった。

 クラスでまんぴきをしている子がいて、その子がクラスメートを仲間に引きづり込もうとしていても、もう、耳を塞いでしまっていた。とにかく、知りたくない。知らなければ、それでいいと。

 そして、問題児を一人、3年間自分のクラスで見続けていたが、その子だけを特別扱いするので、他の子どもたちにはかなりの不満が鬱積していたようである。

 そんな調子であるから、その教師のクラスの子どもたちのなかには、中学校へ行ってから登校拒否になったりなど問題を生じさせる子どもたちが何人かでた。

 結局、その教師は、たった一人の問題児を手名付け(その子は、やはりその後も見えないところで問題行動を起こしているが)、自分のいうことを聞かせるということで、学校側から高い評価を得ていたわけである。

 また、その他の子どもたちは、実にかわいそうな状態であった。そういう教師であるから、何かあっても力で押さえつけられ、一見、いい子にしていなければならない。また、自分の自慢話ばかりをするそうで、かなり生徒たちはうんざりして、あの先生は嫌だという子どもたちが多かったようである。

 まあ、それでも、以前の酷い学校の状態よりは、かなりましとは言えるのであるが。

 だから、こんな調子であるゆえに、如何に教育現場の上に立つべき人間たちに人を見る目がないかがわかるというものである。

 学校の実態調査も、教育現場以外から、専門性を持った人間とか、あるいはある程度大きな企業にいる社員たちの査定をする人間などの協力を得た方がいいように思う。

 隠蔽体質、人物を見る目が養われていない状態であるということ。これは、きちんと把握しておく必要があるのではないだろうか。

 あと、もちろん、親自身の家庭での躾。これも、一人ひとりの親が真剣に向きあわなければならないこと。家庭も学校もダブルで悪かったら、ほんとうに救いようがなくなるから。
posted by ミューシャ at 23:58| Comment(4) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2006年10月17日

村の創造?

わー、びっくり。

今、記事の投稿をし終えてマイ・ブログへ戻ったら、なんと、ブログタイトルの「空の手で」のところが、「村の創造」に誤変換されて表示されていた。

なーんということだろうか。変なの。
posted by ミューシャ at 21:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

青という色

 シュタイナーは、青は魂の輝きの色だと述べているとのこと。それを知って、私は、嬉しかった。

 暗闇に目を凝らしたとき、または、昼間の明るいときでも、綺麗な輝くような青い玉を見るからである。時には、数個。時には、たくさん。

 また、いつかは、こんなことがあった。一種の瞑想状態とでもいうのだろうか。精神の統一がなされていたとき、青の空洞の中へ入って行ったことがある。

 だから、今、シュタイナーのその見解を知ったとき、その輝くような青からもたらされていた感覚が正しいものであったことに、安心感を得た。

 私の周りには、美しい霊人たちがいる。それに、応えなければならない。

『Tangled Up In Blue』

 ディランの音楽で、一番最初に好きになった歌。ブルーにこんがらかって、ブルーにこんがらかって。


夜にはカフェに音楽があり

空気中には革命があった


わかっていることといったら

つづけることを つづけるだけだ

鳥が空を飛ぶように

ブルーにこんがらかって


おれたちはいつもおなじ感じをしていたんだが

ちがった角度から

見ていたんだな

ブルーにこんがらかって
posted by ミューシャ at 21:00| Comment(6) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

教育に想う

 子どもたちを取り巻く環境が、どれほど悪化してきているのだろうか。また、悲惨な事件の報道がなされている。教師による虐めが、クラスの子どもたちへの導火線となっての自殺。

 今回の福岡の中学校校長の態度は二転三転している。北海道では、否定が肯定に変わったが、どちらにしても背後の圧力の存在が見え隠れする。これが、ほんとうに反省している態度であろうかと。

 教師の軽はずみな言動? 逃げの言葉。軽はずみどころか、確実に虐めたいという意志があったでしょう。どこまで仲間内で固まろうとするのだろうか。

 学校が駄目なら、そこの教育委員会も駄目。それぞれが独立していないし、むしろ癒着のありすぎ。外部からの力が及ぶ段階なら、まだ救われるが、たいていは教育機関独特の隠蔽体質でうやむやにされるだけ。

 この町の小学校がどれほど酷かったか。教頭の独裁体制。そして、その取り巻き教師たちのワンマンな言動。教師に対して意見を述べただけで、生徒にも保護者にも平気で嫌がらせして当然という感覚の蔓延。

 校長は、定年間際のお飾りの校長。定年間際の校長が、どれほど保守的で、無事に定年をめでたく飾りたいがために、諸問題に目を瞑ることだろうか。まさに、無法地帯の状況だった。それは、以前の記事にも書いたので、ここではあまり書かないが。

 また、帰国子女への教師による虐めもかなりあるようだ。それは、教師の生徒に対するコンプレックスから生じる。だから、子どもによっては、英語の授業の時、無理と発音を悪くして教師を刺激しないようにと気を遣う生徒もいるという。

 それでなくても、生徒の方が教師のご機嫌伺いをして、適当に波風立たないようにあしらっていることは往々にしてあるのだ。こんな状態では、日本の未来はない。

 この町の小学校の改革のために選ばれて転任してきた教師のクラスで、リストカットが流行ったということを以前に書いたが、自分の過ちでも謝ることが出来ずに、自分に過信している教師が、大きな声で、強い意見で持って生徒を押さえつけるのは、一見、問題解決がなされているかのように見えるが、子どもたちはそれに対してどうするかといえば、教師の前ではいい子でいようと演じる。しかし、その目がないところでは、帰って陰湿な悪い方向へ向かうか、あるいは、ストレスがたまってリストカットという行為に走ってしまう。わずか、小学校4年生がである。

 それゆえ、政府としての、実態調査は緊急を要すると思う。学校や、そこの教育委員だけにまかせるというやり方では、もう収拾はつかないだろう。

 学校内では、子どもを人質にとられているという状況。言うに言えない子どもや親もいる。だから、アンケートをとっても特定されるのを恐れるので、これは、各市町村に任せるのではなく、政府として集約するべきではないだろうか。

 政府としてのプロジェクトチーム。子どもも保護者も安心してSOSの相談が出来、絶対的な権限と専門性を持って、素早く実態調査に乗り出してくれる機関の必要性。それを、感じる。

 また、文部科学省も、アンケートを各教育委員会を通じて行う方向でいるようだが、教育委員会や学校経由では、実際の確実なデーターは取れないだろう。本来なら、かなり大変な作業になるであろうが、政府と個々人とのパイプでやってほしいものである。

 また、中学校の部活動においても、顧問の教師によってだいぶ差がある。特にスポーツ部などは、しっかりして欲しいと思うのだが、熱心な教師は部活動の時にもいることが多いが、熱心でない教師だと、ほとんど顔を出さない。だから、部活内で何が起こってもおかしくない状態である。

 教師は普通の公務員よりも大変だということで、給料を高くしているみたいだが、始業時間ぎりぎりにきて、定時にはさっさと変える教師も少なくない。制度に問題があったことも原因しているし、教師の理念の低下にも問題はあるのだろう。そして、その教師の親にも当然、起因している。

 子育ての重要性を、もう一度認識し直す時がきているのではないだろうか。虐めを行う子どもの親は、やはりそれなりに親自体に問題がある。つまり、親も犯罪者であり、子どもも犯罪者に育てているといっても言い過ぎではないと思う。自己中心的な考えや、それに伴う善悪の認識の歪みは、知らずのうちに子どもたちへ伝達されている。「親の背を見て、子は育つ。」昔から言われていることは事実である。

 私が、今までに見たり聞いたりしたことを全部話そうと思ったらきりがないが、ほんとうに悲惨なことはあり過ぎる。

 こんなこともあった。母一人、子一人の母子家庭。その子はアトピーが酷かったせいもあり、クラスでは虐めの対象にされていた。あるとき、その子の母親は、子どもの目の前で飛び降り自殺を図ろうとして、すんでのところで周りにいる人によって止めることが出来た。子どもは虐められていても、母親の前では気丈に振舞っていなければならなかった。

 この時のクラスの担任は、虐められる側にも問題があると言っていた教師であった。

 また、ある中学校教師は、ほんの些細なことで怒り出す我儘な性格で、あるときに説教の為に給食を食べる時間がなくなったことがあり、それ以来、生徒たちは、その教師を刺激しないようにと適当に表面上、取り繕うようになったという。

 ある男の子は、転向して行った先でぼこぼこにされ、それまで明るく活発だった性格が、暗く大人しい性格に変わってしまったという。僅か、二ヵ月ほどのことだったらしい。まさに、塀のない刑務所のようなもの。

 また、ずいぶん前のことになるが、私自身も子どもの頃に教師に対して嫌な思い出がある。

 小学校高学年のとき、クラス担任の男性教諭が教え子を数人ずつに分けて、休日に自宅に呼ぶということをしていた。結婚して、赤ちゃんがいる家庭であった。だが、いつも生徒を呼ぶ時、教師の家族は家にいなかった。

 私が訪れたとき、部屋の真ん中に布団が一組敷かれてあって、その教師が寝ていた。そうして、一人ずつ、中へ入ってくるように言うのだ。私は、気持ちが悪くて拒否したが、他の女の子たちの何人かは言われるままにしていた。その頃は、まだセクハラだとか、教師による問題というものはまったくクローズアップされていない時代であった。

 また、中学校の時の数学の教師は、今、思い出すだけでもぞっとするが、なぜか私の傍に寄ってくることが多く、一番前の席になったときなど、プリントを個人で解かせているとき、自分の椅子を私の席の前に置き、机の上に頬杖をついて、下を向いている頭の上に、自分の顔を寄せてきて接触したりなどされていた。あの頃、今のような時代であったなら、騒げたものをと。だから、あのときに親に話したが、まさか先生がそんなことするはずないと一笑に付されただけであった。どれほど、汚らわしく、おぞましく憎んでいたことであろうか。

 そして、高校のとき。女子高であった。これは私には直接関係ないが、体育の教師が、自分の顧問をしている部活の生徒たちに、柔軟体操のときにからだを接触させてくるというので問題になったが、学校側の対応は、その教師が無頓着で気が付かないだけだったから、今後は気をつけるということだけで終結させてしまっていた。

 こう見てくると、いかに教師という職業に不適応な人間がなっているかということを思わざるを得ない。

 ただ、面白いもので、塾という存在。本来なら勉強だけを教える機関であるが、けっこう、子どもや親の相談の強い味方となっている。教師に話せなくても、塾の講師には相談できるという親子が多い。確かに、塾講師には人生経験豊かな人をよく見かける。親身になって時間を割いて聞いてくれているようだ。でも、これもそれぞれの塾の特性によるので、全部が全部そうではないが。

 だが、基本は、やはり家庭環境だろう。親がしっかり子どもを教育すること。それが大切。

 知り合いにも、お見事という人々がいる。決して裕福な家庭ではないので、奨学金と住み込みのバイトをしながら、ハイレベルな大学を卒業し、大学院へと進み、研究に没頭して大学の助教授になっている人がいる。その人の両親は、人を悪く言ったり、差別的な眼差しを全く持たない善良そのままの素朴な人たちである。

 また、やはり家庭的には裕福でなかっために、高校でも新聞配達をしながら、大学は特別奨学金と自分のアルバイトで稼いだお金だけで卒業した人がいる。そして、よくしたもので、教授からはよく目をかけてもらえて、時々食事やら呑みに連れて行ってもらったという。その人の親も、ボランティア精神が強く、決して人を悪く言わない人達である。親子共に、高い人間性を具えている。

 かえるの子はかえる。その諺も、真理である。どんなかたちの悪にせよ、悪を行うことを、悪を行う子どもを育てたことを、そういう人々は恥じるべきである。
posted by ミューシャ at 12:59| Comment(0) | TrackBack(1) | 教育 | 更新情報をチェックする

2006年10月16日

雲海に想う

 きれいごとだけを書いたり、自分を美化したことばかり書くのは簡単である。でも、それは偽善。私には、自分で自分を欺くことは出来ない。

 人間である以上、煩悩はつきまとう。人間である以上、完璧な聖人にはなれない。だから、はるか彼方にある光を求めて、直向に歩み続けるだけなのだ。

 私は、自分の醜い部分も、よくない面も書き綴りたいと思う。そうやって、すべてを平等に扱うことによって、階段を一段、一段、上って行けるから。

 人は、自分にとって良い状態のときには、美しく輝ける。しかし、自分にとって悪い状態とのとき――それは、誰かに不当な事で苦しめられるとか、どん底に落ちているときとか――には、なかなか美しい心でいられるものではない。

 でも、決して自分で自分を美化せずに、責任転嫁をすることもなく向かうことは、確実なる何かが得られているように思う。

 私にはどんなに醜い状況に落ちたとしても、一つの心の支えがある。あれは、21歳か22歳頃のことだった。ある日突然、すべての人が愛しく思えたことがあったのだ。知っている人も、見知らぬ人もみな、愛おしくて愛おしくて、ただそこには愛の平安だけで包まれている世界が存在していた。そして、すべてを許すことができた。

 そんな状況を一ヶ月ほど体験したことがある。だから、そのときの感覚を思い出すたびに、人間としての希望を捨てられないと背中を真っ直ぐにするのだ。


 今日は、朝から雲海がみたいと思い続けている。子どもの頃、よく山登りに連れて行かれた。その時は、朝早く起こされて、疲れることをさせられるのが嫌で嫌で仕方がなかったが、それでも、雲海とか大自然の美しさは、魂に刻印されている。

 いつも見上げてばかりの雲。しかし、高い山の上では、それが眼下に一面に広がっている。壮大で崇高な光景。神との一体化を感じられる時。

 私は、こんなにも美しい地球に生きているんだと。なーんて贅沢なんだろうか。これほどまでに、やさしく、やさしく包まれているのに、人間である自分は、それに応えなければならない。

 山ではこだまが響く。ヤッホーと言えば、ヤッホーと帰ってくる。だから、美しさを投げかけたい。やさしさを投げかけたい。大自然は、教えてくれている。ほんとうに大切なものがなんであるかを。
posted by ミューシャ at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2006年10月15日

記憶の中で

 静かな山の奥にある丹生都比売神社。あのとき、最初に迷い込んだのが丹生酒殿神社だった。そこで、一匹の揚羽蝶と出会う。やわらかでやさしげな空間。

 その後、目的地の丹生都比売神社へ辿り着くことができた。大自然の生命ある全てのものたちに愛されているかのような、落ち着いた安らかなところであった。

 もし、まわりに誰もいなかったなら、静かに歌い舞いたい感情をひき起こさせる。大切にしたいところ。

 だが、この神社の境内にある樹齢160年の杉の木の根元に、何者かが除草剤を注入してしまい、現在治療中とのこと。今年の6月の出来事。

 古から人々が大切にしてきた御神域への冒涜。平気でしてしまう人の心。何を思い、何が目的でするのか。怖れを知らぬ者。だが、その怖れを知らぬ心は、無知から生まれ出でたもの。無知であることの、悲しさ。しかし、罪は罪として償わなければならない。それが、どれほど大きな代償を持って償わなければならないことだろうか・・・・。その者は、想像することすら出来ないだろう。

 また、吉野の丹生川上神社の元の聖地は、2003年にダム建設のために水底へ埋められてしまった。人間の便利さだけの追求のために、大切な心は見捨てられていく。

 それでも、まだ残っている大切な心の故郷を、少しでも訪ね歩けたらいいと思う。

 書物の中に、その地名が出てくると、訪れた場所の空間が呼び起こされる。吉備路。自転車で一日駆け巡った。吉備津彦神社、吉備津神社、備中国分寺等。あたたかで、のどかな風景。

 厳島神社。なぜか三度も訪れている。毎回、違う顔の見れるところ。そういえば、このとき、一度は姉の付き添いで回ったのだが、湖面のそばに佇んでいた後姿を見た姉に、お姫様のように見えたと言われ、気分よくなったことがあったっけ。昔の話だが。

 糸魚川。海が美しかった記憶がある。福井、石川。凛としたものがあるところ。天の橋立と、その付近。おおらかな願い。

 京都、奈良、三重、兵庫、和歌山、滋賀。ここら辺は、比較的多くいろいろなところへ行った。四国、淡路島も、数回訪れている。

 静岡、東京、神奈川、愛知でも、いろいろなところを見て、山梨にも行ったっけ。長野は、よく知るところ。秋田も、一度訪れた。鳥取、島根、山口にも旅行で訪れ、岐阜、富山にも行き、千葉も面白いところがあった。

 でも、北海道と九州には、まだ行っていない。いつか、訪れたいと思う。

 なんの因果か知らないが、人生とは自分が想像していたこととは違う方向へと進むことが往々にしてある。だが、本霊は知っているのだろう。その目的を。今世でしなければならない課題を。

 始めと、終焉。私は、どの地で眠ることになるのだろうか。
posted by ミューシャ at 21:44| Comment(6) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

鎮魂歌

 目を閉じかけると、次から次へと見知らぬ人の顔が浮かんでは消えていく。小麦色の肌。彫りの深い顔立ち。その言葉は、英語でもなく、フランス語でもドイツ語でもイタリア語でもポルトガル語でもない。今までに耳にしたことのない言語。

 何を喋っているのかわからない。真っ直ぐな目で、何かを必死に伝えようとしている。でも、ごめん。わからない。



 窓辺に頬づえをついて、空を見上げながら想いに耽る時。鳥には二種類ある。繊細な世界で、美しい鳴き声や姿、或は可愛らしい世界を与えてくれる鳥。もう一つは、ダイナミックな世界で雄姿を感じさせてくれる鳥。内面から支えるものと、外から引き上げてくれるもの。

 今日は、空高く飛ぶ鳥に心が向かう。伊勢では、鷹の姿をよく見かける。このあいだも、一羽の鷹が声高く鳴きながら、悠然とはるか高い上空を飛んでいた。その爽快さに、気高さに、心は震えながら共鳴していた。

 鷹も、鷲も、海鳥も、その飛ぶ姿の背景に、過去のよき日の思い出が重なり、甦る。多少の哀愁を帯びながら。

 あたたかく、陽だまりの希望があって、穢れなきもの。純粋で、どこまでも純粋で、涙は透明に輝いていた。帰りたい・・・・・。



 鎮魂歌。やさしく、哀しい鎮魂歌。見知らぬメロディーが、とめどもなく私の中で創りだされる。それは、音となって、唇から流れ出る。誕生の連続。

 人は生まれ、生き、そして死ぬ。しかし、再び生まれ、生き・・・・。その繰り返し。円環の中。金環日食のように、美しいダイヤモンドリングを創り上げたい。それが、生きること。
posted by ミューシャ at 21:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2006年10月12日

光のシグナル

 脳科学は、その研究が一番遅れていると言われている。しかし、そんななか、次々と新たな事実が解明されていく。

 たとえば、胎児の脳は、はじめはすべて女性型であるという。そして、男の胎児では、受精後7週間ごろに精巣ができ、男性ホルモンである、アンドロジェンの合成と分泌がはじまる。その分泌は受精後14〜20週ごろに、一時的に急増し、この時期に、それまで女性型だった脳が、男性ホルモンによって男性型の脳へと作りかえられていくと考えられているとのこと。

 また、われわれは目ではなく、脳でものを見ているということも、最近の脳研究によって分かってきたという。

 網膜は、いわゆるスクリーンであり、その像がなんであるかを認識する機能は持っていない。認識する能力は脳である。

 視覚情報の流れとして、左右の目から入った光の情報が、網膜で電気信号に変えられ、視神経を通って外側膝状態を中継し、後頭葉にある第一視覚に送られる。

 

 光の情報。その光には、どれほど多くの要素が内包されているのだろうか。目が光を受け、脳がそれを読む。神秘の機能ともいうべき素晴らしき器官。光のシグナル。正しく流したい。
posted by ミューシャ at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする