もうすぐ忘年会のシーズン。そして、お正月。お酒を飲む機会が増える人は多いかと思われるが、酒についてシュタイナー及び出口王仁三郎はどう言っているのか本から抜粋してみよう。
まず、シュタイナー。
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アルコールは、まず心の状態全体に作用します。アルコールによって、人間はまず強度の精神錯乱に陥り、普段は思慮分別によって抑えられている情念が噴き出します。酒を飲んでいないと理性的なのですが、酒が入ると思慮分別を失うわけです。
ついで、アルコールは血液を興奮させ、血液循環が活発になります。そのために、情念が刺激させるのです。
二日酔いになります。体中に尿酸が溜まります。汚物が、とくに頭に溜まります。アルコールによって夜のあいだ内的な身体活動が消耗した人の頭は、翌朝、腸のようになっています。
飲みつづけるというのは、どういうことでしょうか。夜のあいだ、血液が煮えたぎっていたために、身体の活動は奪われていました。翌朝もまだ、この活動が欠けています。飲みつづけることによって、体は再び刺激を受けます。こうして、体が持っていた最後の活動力も、使い果たされます。最後の活力がある程度、汚物を頭から取り除くのですが、汚物は全身に沈殿します。頭以外のところに溜まっている汚物に、人々はあまり気づかないというだけのことです。
しかし、人間は多くのことに耐えることができるので、それだけでは体は崩壊しません。ほんとうの酒飲みは、精神錯乱、振顫譫妄になります。まだ、崩壊はしません。振顫譫妄になると、小さな動物、とくに鼠に追いかけられているように感じます。一種の迫害妄想です。
飲酒によって破壊するとき、アルコールの作用は体にゆっくりと及びます。
興味深いのは、ある時点で良心が呼び起こされることです。朝晩酒を飲みつづけていると、突然良心が目覚めて、飲むのをやめるのです。酒をやめるためのエネルギーが、まだ少し残っているのです。何が起こったのでしょうか。振顫譫妄になる直前に、良心が目覚めるのです。長いあいだ飲酒していた人が飲むのをやめた瞬間に振顫譫妄になることがしばしばあります。
頭は、頭以外の部分とちがったふうに働くのです。振顫譫妄が頭のなかにあるあいだは、まだ絶望的というわけではありません。振顫譫妄が体のなかに移り、そのあとで飲酒の習慣を止めたとき、身体は頭をとおして反乱を起こし、完全な振顫譫妄になるのです。
「血液のなかに、心のいとなみに対応するものがある」と、いうことができます。
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シュタイナーは、もっと詳細にいろいろと述べているが、興味のある方は、「健康と食事」という著書を読まれたらいいかと思う。
また、飲酒をした男女が子どもを作るときにも、アルコールは胎児にかなりの危険を及ぼしてしまうことも述べられている。自分だけの崩壊には留まらないことを、事実を事実として受け止めて欲しい。
そして、シュタイナーは、何よりも人の自由が尊重されねばならないと考えているので、事実を語ることによって、人が自由に、自分で正しい方向を見出す助けとなり、正しい社会改革が出来ていくという見解である。
次に、出口王仁三郎の「霊界物語」から抜粋したい。
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酒といふものは、大神に献るときは、第一に御神慮を和らげ勇ませ歓ばせ奉る結構な供え物であるが、体主霊従の人間がこれを飲むと決して碌なことはできないのである。
同じ種類の酒でも、人間は御魂相応に、種々の反応をきたすものであって、悪霊の憑かった人間が呑めば直ちに言語や、動作や精神が悪の性来を現はし、かつ酔い、かつ狂ひ乱れ暴れるものである。あるひは泣くもの、笑ふもの、怒るもの、妙な処へ行きたくなるものなど、種々雑多に変化して、身魂の本性を現はし、吐いたり倒れたり苦しみ悶えたりするものである。
常に至誠至実の人にして、心魂の下津岩根に安定したものは、たとへ酒を常に得呑まぬ人でも、少々くらゐ時に臨んで戴いたところが、決して前後不覚になったり、倒れたり苦しんだり、動作や言舌や精神の変乱するものでなく、心中ますます爽快を覚え、笑み栄え勇気を増し、神智を発揮するものである。
ゆゑに酒は神様に献るところの清浄なる美酒といへども、心の醜悪なるものが呑むときは、たちまち身魂を毒し弱らしむるものである。
同じ酒を甲は一合呑んで酔い潰れてしまふかと思へば、乙は一升呑んでも酔はず、丙は3升ぐらい呑まなくては少しも酔うたような心持ちがしないといふ区別がつくのは、すなわち身魂の性質によりて反応に差異あることの証である。甲は呑んで笑ひ、乙は怒り、丙は泣くといふやうに、同じ味のある同じ種類の酒でも、区別のつくといふのは、実に不思議なもので、これはどうしても身と魂との性来関係によるものである。
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このように、王仁三郎もまた酒は神様に献つるものであるとし、人間が呑むことには否定的である。さてさて、皆さんはどうであろうか。酒が入ると人格がかわるであろうか? たくさん呑まないと満足しない?
私はというと、ちょうどお酒の味を覚えた頃に神への追求心が芽生え、そして真理とやらをがむしゃらに求めていた。そういったこともあっただろうか、呑めば呑むほど頭が冴え、何かを議論しあうときには最適だった。そして、酔うということも知らなかった。
しかし、その後結婚して子どもが生まれ、べつに神を求める道でなくても現実的な幸せでいいかなと思っていた状態のなかにいたときは、少量のお酒でほろ酔い気分になり、楽しくなっていた。これは、体主霊従になっていた為に身魂が崩れていたのだろう。
その後、再び神を求め始め、どの宗教団体にも属さずにひたすらに霊学の道へと歩み始めたとき、私の体はお酒を拒絶しはじめた。だが、付き合いでどうしようもないときは少しだけ呑むこともあるが、それでも酔うということはない。いたってしらふの状態である。
私は一つ面白いことを考えている。娘たちに結婚相手が現われたら、お酒を呑ませてみようと思っている。まあ、お酒をたしなまない人であったならそれにこしたことはないが。
また、私の夫は自制心にかけてはぴか一。付き合いでは呑むが、かなりセーブをしている。家ではほとんど呑むことはない。彼のすでに他界した父親は、絶対に酒に呑まれるなということを息子たちに教えてきたという。そして、自分自身も年を取って物忘れはしても、酒に呑まれないだけの自信はあると生前よく話していた。
酒の危険性。シュタイナーも王仁三郎も酒を呑むことを否定している。