2006年11月30日

師の存在

『徳はあるが師を持たない孤独の霊魂は、ただ一個で捨てて置かれた燃え炭にも似ている。強く燃えていくよりは、むしろ冷えているだろう。』
(十字架の聖ヨハネの言葉より)


師と呼べる方の存在があるということは、ほんとうに幸せなことだと思う。いつになってもそこまでは到達できないかも知れないけれど、それでも目標はある。そして、何よりも傲慢にならずに自分を省みることが出来る。そして、一人だけの我流では狭い世界のままだけれど、師がいることによって世界は拡がるのだ。

私はまた、優れた人々との出会いが愉しい。それは、よいことをたくさん吸収できるから。他者の優れた面を見させていただくことによって、自分の小ささを嫌というほど実感させられるが、それでも頑張れば少しは近づくことが出来るかも知れないという希望の方が嬉しいことなのだ。
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コンドルは飛んで行く

今日は朝から、なぜか「コンドルは飛んで行く」の曲が私の頭のなかを駆け巡っていた。ずっとハミングすることさえなかったのに何故だろうかと不思議に思っていた。

すると、テレビでは今日は秋篠宮殿下の誕生日だと報じている。そのなかで、九月にお生まれになった悠仁様がとても穏やかな表情になるときがあり、それは秋篠宮殿下が「コンドルは飛んで行く」という曲をギターで弾き語りをされているときのことだという。

あまりの偶然。何かあるのだろうか。今しがた、その曲について調べてみた。サイモン&ガーファンクルが有名であるが、この曲はもともとペルー民謡であり、そのルーツはインカ帝国の子孫であるアンデス高原に住むインディオたちによって歌われていたという。


1.大空に今日もまたはばたく
  一羽のコンドルが(アー)
  どこからかあらわれて
  アンデスの山あいを
  飛んでいます(アー)
  ※太陽の栄える国 豊かなこの地に
   宝をもとめて 白人が攻めてきました(アーアー)

2.殺された王は灰の中から
  コンドルに蘇えりました(アー)
  空高くコンドルは
  国を守るでしょう いつまでも(アー)
  ※(くりかえし)

  飛べ飛べコンドル 飛べよ
  果てしない空を
  アンデスの山に
  影を落として
  裏切られたインカの
  笛の音かなし
  自由のため死ねと
  パチャママの教え(アーアーアー)


また、今日は朝から体調が悪い。というか、彷徨う霊たちが押し寄せて来ているときの症状。今は、少しましになったが。

具合が悪いので、子どもに霊界物語を少しだけ読んでもらった。初めてのことであるが、ちょっと面白い感覚。胸のうちで反響する感じ。そして、それが首から頭へと拡がっていく。きっと、死者たちにもこんな感じで反響しているのだろうか。

また、ちょうど高姫の台詞の多いところであったが、語尾をはっきりと無邪気に読むものだから、なんか高姫が愛らしく思えてきた。根からの悪人というものはいないのだろう。今後、読み進める上でプラスの展開となったようである。
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2006年11月28日

小さい道

リジュのテレーズは、死の数ヶ月前に自叙伝の中で次のように語っている。

『私はいつも聖人になりたいと望んでいました。』

しかし、その望みと共に存在していた自分の無力体験との相克。

『私はいつも望んでいました・・・・・。ああ! けれども聖人がたに自分を比べてみますと、彼らと私の間には、まるで雲間に頂を隠す高い山と、通行人の足下に踏まれるつまらない砂の一粒ほどの違いがあるのをいつも認めました。』

テレーズは、そんな相克のなかにありながらも決して望みを捨てたり、また失望に陥ることはなかった。

『私は失望するどころか、自分にこう申しました。「神様が実現不可能な望みを起こさせになるはずはない。だから私は小さくても聖性にあこがれてよいはずだ・・・・。』

だが、次に彼女の内面に起こったこと。

『大きくなる・・・・。それはとてもできない。私は欠点だらけの自分をそのまま我慢しなければならない。』

愛に全力を賭けたにも関わらず、自分の無力さを嫌というほど認めなかればならなかった。しかし、まっすぐでとても早く行ける小さい道を見つける。それは、聖書の中の次の言葉だった。

格言九章四節『いと小さい者があるならだれでも私のもとに来なさい』

この『小さい』という言葉に、テレーズは自分個人が指名され招かれているかのように感じた。神が私に語りかけていて下さるのだと。それからは、信頼に満ち、希望に溢れ、全く素直に受ける態度で、神について、また彼女について明かそうとしておられることを探し続けた。そんな時、イザヤ66・12〜13の句が目にとまった。

『母がその子を愛撫するように私もあなたを慰め、あなたを胸に抱き、ひざに上にのせて愛撫しよう』


テレーズは、大きなものを自分の小ささに合わせようとするのではなく、小さい者としての自分を何の抵抗もなくあるがままに受け入れ、認め、そしてそこから素直にまっすぐ心を開いたときから、テレーズは聖性を求める道を心地よく歩めたのかも知れない。私は、力まないということの安らぎを彼女から感じる。それは、まるでそよ風のようでもあり、花の香りのようでもある。彼女のひたむきな姿は、感動を呼び起こす。
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2006年11月27日

もうすぐ忘年会のシーズン。そして、お正月。お酒を飲む機会が増える人は多いかと思われるが、酒についてシュタイナー及び出口王仁三郎はどう言っているのか本から抜粋してみよう。

まず、シュタイナー。

* * * * * * * *


アルコールは、まず心の状態全体に作用します。アルコールによって、人間はまず強度の精神錯乱に陥り、普段は思慮分別によって抑えられている情念が噴き出します。酒を飲んでいないと理性的なのですが、酒が入ると思慮分別を失うわけです。

ついで、アルコールは血液を興奮させ、血液循環が活発になります。そのために、情念が刺激させるのです。

二日酔いになります。体中に尿酸が溜まります。汚物が、とくに頭に溜まります。アルコールによって夜のあいだ内的な身体活動が消耗した人の頭は、翌朝、腸のようになっています。

飲みつづけるというのは、どういうことでしょうか。夜のあいだ、血液が煮えたぎっていたために、身体の活動は奪われていました。翌朝もまだ、この活動が欠けています。飲みつづけることによって、体は再び刺激を受けます。こうして、体が持っていた最後の活動力も、使い果たされます。最後の活力がある程度、汚物を頭から取り除くのですが、汚物は全身に沈殿します。頭以外のところに溜まっている汚物に、人々はあまり気づかないというだけのことです。

しかし、人間は多くのことに耐えることができるので、それだけでは体は崩壊しません。ほんとうの酒飲みは、精神錯乱、振顫譫妄になります。まだ、崩壊はしません。振顫譫妄になると、小さな動物、とくに鼠に追いかけられているように感じます。一種の迫害妄想です。

飲酒によって破壊するとき、アルコールの作用は体にゆっくりと及びます。

興味深いのは、ある時点で良心が呼び起こされることです。朝晩酒を飲みつづけていると、突然良心が目覚めて、飲むのをやめるのです。酒をやめるためのエネルギーが、まだ少し残っているのです。何が起こったのでしょうか。振顫譫妄になる直前に、良心が目覚めるのです。長いあいだ飲酒していた人が飲むのをやめた瞬間に振顫譫妄になることがしばしばあります。

頭は、頭以外の部分とちがったふうに働くのです。振顫譫妄が頭のなかにあるあいだは、まだ絶望的というわけではありません。振顫譫妄が体のなかに移り、そのあとで飲酒の習慣を止めたとき、身体は頭をとおして反乱を起こし、完全な振顫譫妄になるのです。

「血液のなかに、心のいとなみに対応するものがある」と、いうことができます。

* * * * * * * *


シュタイナーは、もっと詳細にいろいろと述べているが、興味のある方は、「健康と食事」という著書を読まれたらいいかと思う。
また、飲酒をした男女が子どもを作るときにも、アルコールは胎児にかなりの危険を及ぼしてしまうことも述べられている。自分だけの崩壊には留まらないことを、事実を事実として受け止めて欲しい。
そして、シュタイナーは、何よりも人の自由が尊重されねばならないと考えているので、事実を語ることによって、人が自由に、自分で正しい方向を見出す助けとなり、正しい社会改革が出来ていくという見解である。


次に、出口王仁三郎の「霊界物語」から抜粋したい。

* * * * * * * *


酒といふものは、大神に献るときは、第一に御神慮を和らげ勇ませ歓ばせ奉る結構な供え物であるが、体主霊従の人間がこれを飲むと決して碌なことはできないのである。

同じ種類の酒でも、人間は御魂相応に、種々の反応をきたすものであって、悪霊の憑かった人間が呑めば直ちに言語や、動作や精神が悪の性来を現はし、かつ酔い、かつ狂ひ乱れ暴れるものである。あるひは泣くもの、笑ふもの、怒るもの、妙な処へ行きたくなるものなど、種々雑多に変化して、身魂の本性を現はし、吐いたり倒れたり苦しみ悶えたりするものである。

常に至誠至実の人にして、心魂の下津岩根に安定したものは、たとへ酒を常に得呑まぬ人でも、少々くらゐ時に臨んで戴いたところが、決して前後不覚になったり、倒れたり苦しんだり、動作や言舌や精神の変乱するものでなく、心中ますます爽快を覚え、笑み栄え勇気を増し、神智を発揮するものである。

ゆゑに酒は神様に献るところの清浄なる美酒といへども、心の醜悪なるものが呑むときは、たちまち身魂を毒し弱らしむるものである。

同じ酒を甲は一合呑んで酔い潰れてしまふかと思へば、乙は一升呑んでも酔はず、丙は3升ぐらい呑まなくては少しも酔うたような心持ちがしないといふ区別がつくのは、すなわち身魂の性質によりて反応に差異あることの証である。甲は呑んで笑ひ、乙は怒り、丙は泣くといふやうに、同じ味のある同じ種類の酒でも、区別のつくといふのは、実に不思議なもので、これはどうしても身と魂との性来関係によるものである。

* * * * * * * *



このように、王仁三郎もまた酒は神様に献つるものであるとし、人間が呑むことには否定的である。さてさて、皆さんはどうであろうか。酒が入ると人格がかわるであろうか? たくさん呑まないと満足しない? 

私はというと、ちょうどお酒の味を覚えた頃に神への追求心が芽生え、そして真理とやらをがむしゃらに求めていた。そういったこともあっただろうか、呑めば呑むほど頭が冴え、何かを議論しあうときには最適だった。そして、酔うということも知らなかった。

しかし、その後結婚して子どもが生まれ、べつに神を求める道でなくても現実的な幸せでいいかなと思っていた状態のなかにいたときは、少量のお酒でほろ酔い気分になり、楽しくなっていた。これは、体主霊従になっていた為に身魂が崩れていたのだろう。

その後、再び神を求め始め、どの宗教団体にも属さずにひたすらに霊学の道へと歩み始めたとき、私の体はお酒を拒絶しはじめた。だが、付き合いでどうしようもないときは少しだけ呑むこともあるが、それでも酔うということはない。いたってしらふの状態である。

私は一つ面白いことを考えている。娘たちに結婚相手が現われたら、お酒を呑ませてみようと思っている。まあ、お酒をたしなまない人であったならそれにこしたことはないが。
また、私の夫は自制心にかけてはぴか一。付き合いでは呑むが、かなりセーブをしている。家ではほとんど呑むことはない。彼のすでに他界した父親は、絶対に酒に呑まれるなということを息子たちに教えてきたという。そして、自分自身も年を取って物忘れはしても、酒に呑まれないだけの自信はあると生前よく話していた。

酒の危険性。シュタイナーも王仁三郎も酒を呑むことを否定している。
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2006年11月26日

十六花

霊界物語第十五巻第三章に「十六花」ということについて書いてある。

要約すれば、宣伝使一行が、敵陣であるバラモン教の鬼雲彦の城砦へ入ったとき、既にそこへ入り込んでいた神素盞鳴尊の八人の娘と、その侍女八人の合計十六人の女性が、宣伝使たちの手助けをするということが書かれてある。

これも面白いもので、日本には十六弁の菊の御紋というものがあるが、なんとなくそれとも連動しているような気がした。

神素盞鳴尊の八人の娘は、人間の中に元々ある神性であり善なるもの。また、八人の侍女はバラモン教であったがその娘たちに感化されて神側の三五教へと改心した者たちであり、これは人間の中にある悪的なもの。そして、この悪的なものは神的なものへと変えることができるということを現しているのではないだろうか。
また、十六人の娘たちということで、これは瑞霊を示しているようにも思う。

人間には、まったくの聖人という者は存在しない。人間である以上、神的(善的)なものと、悪魔的(悪的)なものが内在されている。それゆえに内面での激しい葛藤はあり続ける。
そして、その悪的なものをどうしたらいいかというと、神的な要素を強くしていくことによってそれを小さくしていけるのではないだろうかと思う。
悪的なものだけを消そうと努力してもなかなか難しいことだが、神的なものを強くしていくことは意外と容易いことなのではないだろうか。

そして、ありのままの自分を見つめる努力。これがなければ、決して先へは進めない。どんなんことでも真っ直ぐに、正面から自分の全てを偽らざるに見つめること。目を逸らしたら、そこで歩みは止まってしまう。否、むしろ、後退するだろう。
辛いことでも、醜いことでも、自分に内在されている要素をすべて直視したいものである。
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教師たちの意識

夜の十時頃、家族を迎えに、駅の近くに車を止めて待っていた。すると、十数人ほどの集団が泥酔して、まるで亀のようにゆっくりとふざけながら道の真ん中を歩いていた。

道端の看板にぶつかったり、車が来ているのにどこうとしない。私は、止めている車に何かされるのではないかと冷や冷やしていた。

が、よく見ると、その集団は中学校の教師たちであった。結婚して幼い子どももいる女教師も数人。そんなに酔っ払って家に帰るのだろうかと思うと、なんか情けなくなった。

伊吹文部科学大臣が、「未来のある君たちへ」という手紙を書いて、全国の学校へ配布した。また今日のニュースでは、虐めた側の子どもを出席停止処分にする方向性を打ち出したとのことだが、果たして現場はどうであろうか?

肝心な教師たちの意識は低いままのように思う。学校へ視察に訪れる関係者があるときは、問題がないかのように装う。朝は門の所へ立って服装チェック。しかし、それもそのときだけのこと。普段は、なんら注意がなされない。

登校拒否になっている子どもに対してはどうか? それも、きちんとした対応がとられていないようだ。例えば、あるクラス担任の男性教師はクラスの子全員に相談するのではなく、自分が顧問をしている部活のお気に入りの女生徒だけに相談している。しかし、その子たちは、登校拒否になっている子とは仲がいいわけではなく、かえって虐めている側なのである。

当然、他の生徒たちは、あの先生は自分の部活の子以外は信用していないから、もう登校拒否の子のことは知らないという方向へ走ってしまっているようだ。

また、小学校と中学校ではかなりいろいろな違いがある。特に、中学校では部活というものが大幅に比重を占めてくる。そうなると、教師たちの意識にも面白いものが見られるのだ。

勉強よりも部活が大切だという教師が多いことに驚く。中には、校長自らそのように公言している学校もある。そうなってくるとどうだろうか。教師たちは、当然の如く担任を受け持っている生徒よりも自分の部活の生徒たちを大切にする。それは、ほとんどの教師に見られる実情である。

また、こういう意識が、文化祭などのときにもはっきりと現われてくる。クラスとしての展示物作りよりも、部活の発表の方に力が入り、クラス担任と部活の顧問の先生との間で生徒の取り合いが起こったりする。なんとも、情けない現状。

故に、登校拒否などになる子は、当然、宙ぶらりんの状態へ置かれてしまっているのだ。たまたま、良い担任にめぐり合えればいいが、そういうことの確率の方が低い。教師が余計に問題をこじらせてしまっている。

やはり、情けないことだが、教育現場には国からの細かい基本方針が必要だと思う。しっかりした社会経験のない教師たちが、自らの理念を向上させることは難しい。それに、実力のある専門的な監査役兼指導者の人間がそれぞれの学校に配置されることが望ましいようにも思う。教師たちの再教育が成されない以上、犠牲になる子どもたちは後を絶つことはないだろう。

中学生の自殺が多いのは、こういったクラス担任の部活重視という意識が招いていることは否めない。また、中学校教師になると、生徒の好き嫌いを平気で態度に出す人間も多い。生徒たちはそんな状態に、なかば醒めている。

そして、まだ犠牲者が出ていない学校は、いたって人ごとのようにのん気に隠蔽工作に走っているのだ。

犠牲者は、まさに人柱のよう。その犠牲によって、はじめてその学校は真剣に動き始めるから。こんなにあちらこちらで犠牲者がでているのに、いつになったら教師たちの意識は真剣モードに切り替わるのだろうか。政府と現場の温度差。
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2006年11月25日

愛への思索

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アメリカ先住民の一人、ダン・ジョージ首長の言葉を紹介したい。


* * * * * * * *


友よ、われわれはどれだけ切実に愛し愛されることを求めているのだろうか。

キリストが「人はパンだけで生きるものではない」と言ったとき、彼は“飢え”について語っていた。この“飢え”は肉体の飢えのことではなかった。それはパンを求める飢えではなかった。

彼はわれわれの存在のまさにその深みから、奥深くから生じてくる“飢え”について語っていた。

彼は呼吸と同じぐらい重要な、ある必要について語っていた。彼はわれわれの愛を求める飢えについて語っていた。

愛はあなたにもわたしにも必要なものだ。愛がなくてはならないのは、われわれの魂がそれを糧にして生きているからだ。

愛がなくてはならないのは、それがなかったらわれわれは弱くなり、力を失ってしまうからだ。それがなかったらわれわれの自尊心は衰えてしまう。愛がなかったら、われわれの勇気は挫けてしまう。

愛がなかったら、われわれはもはや自信をもって世界と向き合うことができない。われわれは内を向いておのれの存在を糧とするようになり、だんだんと自分自身を食べ尽くしていく。

愛があれば、われわれは創造的になる。愛があれば、われわれは疲れることなく進んでゆける。

愛があれば、愛さえあれば、われわれは他人のために犠牲になることができるのだ。


* * * * * * * *



愛というもの。それは、他者から与えられることだけを期待していたのでは愛のなかに生きることは出来ない。なぜなら、与えられるだけの愛は、愛がほしいという欲求をどんどん大きくし、いつまでも愛に飢えることになるからである。

また、愛を誰かに与えるということも傲慢なこと。

私は、愛について思索する。奥深くの渇き。それは、ただたんに人恋しいだけの渇きではなく、神的な愛を求める飢えなのではいかと。

そして、少しずつ神的な愛に満たされていくと、人恋しいという飢えは薄れていく。いつも何かに満たされ、孤独は愉しいものなり、創造へと向かわせる。

愛があれば、他人のために犠牲になれるかというと、それは生命に関わることであり、かつ自分を犠牲にするだけの価値があるかということへ焦点は絞られるのではないだろうか。

私は、天秤というものが必要だと思う。犠牲にするだけの価値があるかどうかを量らねばならない。人の目ではなく、神の目からみたら、それは本当に価値あるものかということを。

また、親であるなら子どもの犠牲になることは厭わない。それは、愛でもあるし、責任でもあるから。自分を犠牲にしてまでも価値のあること。

育て上げるという、親としての当然の愛。だから、子どものために我慢する。また、その我慢は、自分が親であるということを大切にすることでもあり、それ故に創造を生み出すのだ。

自分を大切にしない犠牲は、なんの価値もない。自分を大切にする犠牲は価値がある。この違いは大きいのではないだろうか。

人は生まれてくるときも一人であり、この世を去るときも一人なのだ。だから、神的な愛は必要なのである。神を求める心が、愛の飢えそのものなのではないだろうか。


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このたびは、大変お騒がせして申し訳ありませんでした。また、休養している間も多くの方々が覗いていて下さったようで、私にとっては予想外のことに驚いています。

また、一時、ブログの閉鎖を考えたことも浅はかだったと反省しております。私の書いた記事はともかくとして、なかにはとても貴重なコメントを入れて下さったものもあり、そういったことを考えたとき、まさに恩を仇で返すようなことになってしまうなとも思いました。

一度書いたものを消すという行為は、よほどのことがない限りしてはならないこと。書いたその瞬間から、文字には生命が宿り生き始める。そのことを忘れていました。

まだまだ、本調子ではありませんが、これはあの例の鳥との約束でした。休養する前に見た姿。そして、今度、傍へ飛んできたら書き始める時期かなと。それから、十二日目に再び姿を見せたのです。

とても急いでいるように早いスピードで空を駆けていきました。心はまだ早すぎるから書きたくないという状態でしたが、仕方がありません。約束は守らなければなりませんから。

しばらくの間は、ぼちぼちという感じで書いていきますが、今後ともよろしくお願いたします。
posted by ミューシャ at 02:01| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2006年11月15日

休養のお知らせ

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諸事情により、一時ブログの更新を休みます。もしかしたら、そのまま閉鎖ということになるかも知れません。

ブックマークに貼られている方々においては、大変失礼かと存じますが、今回はご挨拶には伺いませんので、当方のブログを外してくださるようにお願い致します。

なお、今後、コメントを入れてくださっても返事をお返しすることは出来ませんので、その旨よろしくお願い致します。


                         11月 15日  ミューシャ
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2006年11月11日

お知らせ

このブログでのハンドルネームは当初、ミューシャでした。

しかし、諸事情により九月中旬頃よりミーナという名前に変更しましたが、今日を持ってミーナという名前は永遠に封印します。

今後、再びミューシャという名前に戻りますので、関係されていた方々にはまたご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。
posted by ミューシャ at 11:36| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

癒し

シュタイナーは「癒し」ということについて次のように述べる。


『かつてキリストの中に生きていた衝動が、次第に人類全体のものになるであろうということ、自我の力が次第に癒しの力を持つようになる。』


 自分の自我を育成することが重要なのである。究極的なところ、本当に自分を救えるのは自分しかいないのである。

 他者の霊魂になんらかの影響を与えたり、一時的な救いをもたらすことは出来ても、その人自身が自分の手で自分の霊魂を救済しようと努力しない限り、決して救済され得るものではない。そのための自我の育成。

 だから、常に省みるという行為が必要になるのである。他者の霊魂を見るとき、自分の考えや感情を無理やり押し付ることの危険性を感じるし、そうすることが相手の本霊に対してどれほどの暴行的行為となっているかを見るからである。

 他者を大切に出来ない者は自分をも大切に出来ない。反対に、自分を大切に出来ない者は他者をも大切に出来ない。人間は人間であって、神ではないから。

 癒しとは他者に求めるものではなく、自我の育成によって得られるものである。
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2006年11月10日

大地の恋人




   この大地のために歌おう

   この大地のために楽器を奏でよう

   この大地のために舞おう

   大地のためだけに



   放射能に犯されても

   ごみを埋められても
 
   人間たちの所有物のように扱われても

   それでも回復し続けようとする

   なんのために?

   きっと、人間が好きだからだろう



   そんな想いに応えたい

   大地の穢れを共に清めよう

   わが心を供犠として

   真心込め

   大地の恋人として
posted by ミューシャ at 21:08| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

教育現場の構造に想う

 政府がやっと本気で教育改革に取り組み始めてからというもの、子どもたちの自殺予告が相次ぐ。子どもたちの心の中はどんな思いなのだろうか。

 いじめられて苦しくて、悲しくて、辛くて、突破口も見えず、そんなとき同じような仲間が次から次へと自殺していく。一種の安心感と救いを感じ、同じ仲間だという共鳴する意識。そして、最大の、唯一の復讐が死を持って臨むという行為なのだろう。

 だが、その死は復讐にはなり得ない。悲しいことに、いじめる側の人間というのは自分本位の世界にいる。だから、死んでも反省することはほとんどないだろう。

 その顕著な例が、この間の中学二年生の男の子を自殺に追いやったいじめっ子たちである。自殺した後も、別の生徒を同じようにいじめていたという。

 本人も、その親たちも共にかなりの矯正が必要な人間たちなのだ。人間としてのモラルを持たない親に育てられた子どもたちの残虐性。

 だから、そんなくだらない人間たちにいじめられたからといって自殺するのは愚かなこと。自分の尊い命を犠牲にしてまで対するほどのことはない。まだまだ、なんとか戦えるはず。時代は変わり行くから。

 そして、そんなくだらない人間たちをぎゃふんと言わせられることは、自分が彼ら彼女らより現実に幸せになることなのだ。いい人生を築きあげ、生きていくこと。これが、いじめるようなくだらない人間たちがじだんだ踏んで悔しく思う一番の方法。自分が幸せにならなくちゃね。

 とにかく死ぬくらいなら、まだまだ何かが出来るはず。捨て身なら、どんどん外に実態を流す事だけでも大きく変わっていくはずだ。今、これだけ世間が注目しているのだから。

 いじめられていることは恥ずかしいことでもなんでもない。いい子だっていじめの対象にされる。嫉妬から生じるいじめはあまりにも多いし、それにいじめたいという心を持つ人間は病人であるからだ。健康な人間は、人をいじめたりはしないもの。



 かつて教育評論家の尾木直樹という人の言動に懸念を感じたが、あれからというもの事の重大さに表現の仕方を考慮しているのだろうか、かなりポイントをついた発言が多くなってきたように思う。ということで、前言は撤回したい。

 学校が酷ければ教育委員会も酷く、また保護者も酷い。これは、すべてイコールで繋がれている。学校と教育委員会のことについては以前に書いたので、今回は保護者に絞って書きたいと思う。

 四つの小学校を見た中で一番酷かった学校というのは、保護者も自己中心的で荒れていたということである。

 役員会や学区ごとの話し合いなど教師の立会いがないところでは、平気で先生のことを「あのおばさん」とか、「あんなの」、「そこらへんおばさん」などと言っては批判していた。しかも、率先して言うのが、発言力や行動力が強い人間たち。周りの人間の多くは、悲しいことにそういう人々に同調して加害者へと変わる。もしくは、傍観者のままでいるかである。

 だから、自分の子どもが授業中にふざけて先生の話を聞かないからと注意され突き放されると、自分のことを反省するどころか、それだけで先生を吊るし上げ休職へと追い込んだり、または、病気で頻繁に救急車で運ばれているような保護者に無理やり大変な役を押し付けて死に追いやったりなどということが起きていた。まさに、人間としての感覚が麻痺しているかのような状態。

 また、学校もお飾りの校長に、独裁者の教頭という見事なまでの腐敗ぶり。PTAも本部役員になれば、教師と友達言葉でため口をきくというおかしな現象が起きていた。

 ある年、本部役員は主に仲良しグループのメンバーで決まっていたが、PTA会長だけが決まっていないということがあった。そこで、やっと会長に決まった人がいたが、本部役員の一人だか何人だかが、そこらへんの詳しいことは分からないが、その会長になる人間を疎んでいたため、土壇場で急に全員が本部役員を降りるという事態が起きてしまった。

 そこで、急遽、なんとか役員になってくれる人を見つけ、とりあえずは次年度をスタートさせることができたが、まったくもって恐ろしい感覚である。そして、次年度の時には会長も変わるので、一旦降りたその年の本部役員全員がその役に返り咲いたのである。

 とにかく、その年のPTAのワンマンぶりは凄まじかった。感情だけで役を降りたり、なったり。そんな感覚の連中なので、独裁政権下の学校では余計に拍車がかかってしまった。まあ、その年の翌年を最後の年として、学校の立て直しは始ったのだが。

 何が問題かというと、学校側としての正しい姿勢や、運営できる能力を持つ人間がいなかったという点が一つ。

 二つ目は、PTAが本来の機能をまったく把握していずに、学校と本部役員だけの蜜月時代というものに成り下がっていた点。

 三つ目は、PTAや学校行事に父親に参加する機会を持たせずに、母親だけでの運営としていたこと。(個人的な打算目的で、PTA会長などに率先してなりたがる自営業の父親はいるが)

 特にこの三つ目は重要なポジションを持つと思う。いい学校というのは、父親の参加が多い。だから、土日などの休日にイベントやボランティアを募ることをしているし、様々な意見を積極的に取り入れようとしている。

 だが、この酷い学校というのは、そういう父親の参加を拒絶しているのではないかと思うような企画運営である。

 父親はへ平日は参加しにくいので、土日に話しあいなどを持ってきてもいいのではないだろうか。本部役員もなりたがりの人間ではなく、推薦で決められるような常識を持った父親と母親の二つのルートから成り立つ組織作りも必要に思う。現に、とても素晴らしかった学校というのは、そういう二つの組織構造から成り立っていた。

 つまり、こういう構造であると、教師たちも自分たちが作り上げた変な常識を見直すことも出来るし、また保護者が学校側にとんでもない要求を突きつけることも抑えることができる。それゆえ、PTAの存在は重要なのである。

 学校がいいとPTAも保護者たちも常識的な人が多いし、学校が悪いととんでもない非常識な親が多くPTAの状態も駄目である。これらは、すべて連動しているのである。

 とにかく、今、教育現場も保護者たちも全員が意識を持って見直さなければならに時であるし、やっとそのときが到来しているのだ。そして、よりよく改善されねば国家は衰退するであろう。真剣に向かいたいものである。
posted by ミューシャ at 14:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

IMAGINE

 この大地が、早朝の、暗から明へ変わろうと動き始めようとする時。張り詰めた静寂な灰色の空中を、例の鳥が日の昇る方角から西へと飛んで行った。

 暫らく、あなたの存在を忘れていた。だから、昨日、私は思いを馳せた。ちゃーんと傍に居てくれたのね。ごめん、流れていた。何が大切かを、何を主軸にして凛と生きねばならないかを忘れ、流されていた。

 そして、その隙を巧みな方法で、あれは浸透しようとしてきていた。自分を大切にしてこそ価値があるのに。

 でも、誰が悪いのでもない。一番、いけなかったのはこの自分。いたらなさに、涙は落つる。



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 今朝の日の出の写真。こんなにも強い色彩を、やわらかな表現に変えて地上に注いでくれる。

 まるで、天使たちの賛美歌が心地よく響くかのように、淡いピンク色や、薄紫やブルーへと染まり行く天空の揺らめくカーテン。

 この天空の美しさを、この大地の力強さを、思う存分に感じていたい。そして、人間であるということに誇りを持ちたいと。

 辛い涙は、やがて美しい結晶へと変わり、それは天の宝となる。麻邇宝珠の舞い。

 朝から、レノンの「IMAGINE」が頭の中を流れている。


想像してごらん 天国なんて存在しないと
想像しようとすれば簡単だよ
僕達の下に地獄なんて無いんだ
ふり仰げば空があるだけさ
想像してごらんすべての人々が
現在を生きているんだと…

想像してごらん 国境なんて存在しないと
そう思うのは難しいことじゃない
殺す理由も、死ぬ理由もない
宗教なんてものも存在しない
想像してごらん すべての人々が
平和のうちに暮らしていると…

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
でも、僕ひとりだけじゃないんだ
いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば 世界はひとつになるだろう

想像してごらん 所有なんて存在しないと
君にもそういう考えができるかしら
貧困になったり飢えたりする必要はない
兄弟同志なのだから
想像してごらん すべての人々が
この世界を分かち合っているのだと…

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
でも 僕ひとりだけじゃないんだ
いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば、この世界はひとつになって動くだろう




 IMAGINE。想像すること、想うことが、正しく真摯であるならば、それはやがて形となる。だから、希望は決して消えることはない。
posted by ミューシャ at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2006年11月08日

曼荼羅

 夜空に輝く星。私は、身も凍るほどの寒い冬の星空が好きだ。それは、冷たく張り詰めた空間が、星と私との距離を近づけるから。

 だから、体はがたがた震えているのだが、心は溢れるほどの何かで満たされている。

 星たちの美しいメロディーが奏でられる宇宙空間。それぞれの星が、それぞれの音楽を持ち、荘厳な調和の楽譜を読み取れるように投げかけてくれている。



 シュタイナーは、星について次のように述べている。

* * * * * * * *


 人間は死の扉を通過したあと、地球という小さな空間から出立して、次第に大きくなっていきます。月領域、水星領域、金星領域、太陽領域、火星領域、木星領域、土星領域へと成長していきます。

私たちは死後、宇宙空間に拡張していきます。私たちは精神存在として、一個の巨大な球体になります。

私たちは心魂存在として、宇宙の力、星々の力を受け取ったあと、再び収縮し、自分の中に星界の力を有します。

 ですから、私たちの脳に、星空全体が複写されているのです。私たちの脳は、意味深い秘密を内包しています。

 ここに、もう一つ秘密があります。「人間は両親を通して、物質体(肉体)のなかに受肉する」という秘密です。

人間は宇宙空間に拡張していくあいだに、自分の特性のすべてを天空に記入していきました。

地上に立って、恒星を見上げるとき、そこには単に星々があるのではなく、前世の私たちの特性があるのです。

前世で功名心があった場合、その功名心が星界に記入されています。その功名心は「阿迦捨(アカシャ)年代記」という、世界の記憶を留める精神世界の実体の中に記入されています。功名心が、該当の惑星から地上の私たちに影響を与えます。

 占星術師は単に星の作用を見るのではなく、「ここに、あなたの虚栄心、あなたの功名心がある。ここにあなたの不道徳、怠慢がある。あなたが星々のなかに記入したものが、いま星界から再び下ってきて、あなたの運命を規定している」と、言います。

 私たちは自分の心魂のなかにあるものを、宇宙空間のなかに書き込みます。書き込まれたものは、私たちが生まれてから死ぬまで地上にいる間、天空から私たちに作用を及ぼします。

* * * * * * * *




 私たちは、今、この瞬間にも宇宙への書き込みを行っているのである。大宇宙と、頭の中の小宇宙。天空の星々を持つ自分。

 今まで歩んできた人生の中で、どれほどのことを書き込んだのであろうか。そして、これからどれほど多くのことを書き込めるのだろうか。

 この事実に目覚めていない過去には、それこそとんでもないことまで書いてしまっていたかも知れない。

 だが、だからといって投げやりになるのではなく、これから何を書き込めるかをし続ければいい。

 自分に負けるのではなく、自分という存在を美しく磨いていけばいいこと。

 あの天空に輝く星の世界。宇宙空間という胎内での再生の物語。せめて、一筋の美しい糸を織り込みたいものである。
posted by ミューシャ at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2006年11月07日

教職者は縁故関係で採用される?

 教職は始めに資格試験があり、その後、それぞれの採用地で採用試験があって就職という段取りになる。そして、実地経験は学生の頃に行う僅かな期間の教育実習だけである。社会経験がなく、いきなり先生と呼ばれる環境に身を置かれることの危険性。

 また、地方などでは、親戚とか親が教師、或は知り合いに教職者がいるなどの縁故関係で採用が決まることが多いという。

 学校は隠蔽体質だということが明白の事実となってきているが、このような構造ではそうなって当然であろう。

 公務員と言うのは公平性がなければいけないものであるが、それとは裏腹に縁故関係というヤクザ並みの体質で採用が決められてきていたことは、まさに子どもたちへの裏切り行為であり、国家の損失を招いてきたことだとも言えるのではないか。

 そして、こういう採用方法と言うのは、ほんとうに志が高く、人間的にも優れている人たちが教職に就けずに落とされてきたということでもある。

 教職員の資格試験から採用方法まで、根本的に改善する必要があるように思う。

 また、学校という狭い世界であるなら、当然、外の現実を学ぶ必要が教師たちにはあると思うが、それも見られない。

 なぜ、遠方への転勤制度がないのだろうか? 他の都道府県への転勤というものがあれば、地域へ溶け込むための知恵が学べるだろうし、それは人間関係構築への有効な学習ともなるであろう。

 そして、いろいろな地域の出身者がいるということは、教師たちにも新鮮な気づきをもたらすし、学校そのものが活性化されるように思う。

 もはや、それぞれの地域内だけで固まる時代ではないと思うのだが。そして何よりも、縁故関係で採用を決めるというやり方だけは無くさねばならない。
posted by ミューシャ at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2006年11月06日

あるヴィジョンの中で

コバルトブルーの穏やかな海。

一羽の鳥の、高く鳴く声が、空間の透明さを際立たせる。

白い石造りの神殿。

その中の一角に、安らぎの場所がある。

頬杖をつきながら、目を閉じ、思索に耽る。

傍らに置かれている一輪の赤い花。

芳しい香り。

その、誰にも邪魔されない一時が、唯一の呼吸の時。

静かに流れ行く大切な時の輪。

精神が深く、深く、心地よく沈静されていく。

風になびく髪が、思索にインスピレーションを呼び起こさせる。

浄化された語らい。

深い思索の時。
posted by ミューシャ at 23:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

アニミズムへの誤解

 シュタイナーの述べることは、多くの驚きをもたらす。私が今まで持っていた古い概念を、それは心地よくことごとく壊すのである。

 アニミズム。このことについてもまた、シュタイナーは存在しないものであると断言する。



* * * * * * * *


 あらゆる古代の世界観において、秘儀参入学から発した世界観であれ、秘儀参入学を有さなかった世界観であれ、川・泉・雲・稲妻・雷・植物・動物などが、霊的なもののように見なされました。

単なる私的な空想から、通常「アニミズム」と言われる「自然の神霊化」が発したと思うのは、陳腐な表象です。アニミズムというものは存在しません。

 植物を見るとき、そこに霊的なものが支配しているのを見る思考が、人間の心魂の中に存在していたのです。

今日の人間が通常の意識で緑の葉や赤い花を見るように、古代の人間は神霊的・心魂的なものが支配しているのを見ました。

雲のなか、川のなか、山のなか、谷のなかに神霊的・心魂的なものを見ました。

今日では精神なきものと見られている存在すべてが、内的に霊に浸透されているのを見ました。

 なぜ、自然界が内的に霊に浸透されているのを人間は見たのでしょうか。自分のなかに入ってきた、いきいきとした力を有していたからです。

今日わたしたちが両手を延ばして物に触れるように、その思考は霊的に事物へと伸びました。

そうして人間は、いきいきとした思考器官、霊的な触覚器官によって事物の精神・心魂を把握しました。

 古代の人間は、自分のなかに生命的な思考が生きている、と自己観察しました。

そして、その生命的な思考は、自分が生まれる前に自ら精神界で形作ったものを継続している、と体験しました。

古代人は意識的に、「私は自分が地上に生まれる前に生きていたのと同じ生命的な要素のなかに生きている」と、思うことができました。自分といっしょに誕生して、物質的身体のなかに入り込んだものを、自分のなかに感じました。

* * * * * * * *




 アイヌ人が、大自然のすべてのものを神格化するのではなく、友人としてとらえていた感覚が理解できる。まさに、シュタイナーの霊的な思考を保持していた人種。

 アニミズムというものは当初には存在してはいず、人間が霊的なものから離れていく過程の中で、あがき、ジレンマとして発生したもの。

 友人という感覚の、なんとやさしくあたたかいものであろうか。互いに尊重し大切にしあうこと。霊を大切にするがゆえの思考。
posted by ミューシャ at 21:27| Comment(0) | TrackBack(1) | 人間 | 更新情報をチェックする

子どもたちが危ない

 パソコンの普及は利点があるものの、非常な危険性をも共存させている。未だに教師の中には、四人に一人の割合でパソコンが扱えない人がいるという。

 そうなると、当然、ネット社会の危険性にも疎く、子どもたちを指導して守ることは出来ない。たとえ使えたとしても、2チャンネル用語を知らずにそのままプリントアウトして配り、生徒からの質問に窮する教師もいるという。

 また、学校の授業で行う調べ学習の時に、生徒たちは有害サイトなり、学習とは関係ないサイトを覗いていることが往々にしてあるという。だが、教師は気がついているのかついていないのか分からないが、なんの注意もないらしい。

 環境が整わないうちにパソコンが授業に取り入れられたことは、まさに子どもたちを危険な状態へと導いてしまっている。

 最近、中学教師が、女子中学生に裸写メールをばらまくと脅し、交際を強要したとして逮捕されるという事件があったが、これは氷山の一角にしかすぎない。

 パソコンも携帯も、中学生になれば多くの子どもたちが所持する。この頃の子どもというのは、ちょうど異性に対しての興味が深まる時である。出会い系サイト、または同じ趣味を持つ人との情報交換の場など、簡単に興味本位で気軽に訪れ、メール交換をし始め、顔写真の交換もしてしまう。

 そして、そのうちに嫌気がさしてメール交換を拒絶しようとすると、写真や本名をネットにばら撒くといって脅迫したり、わいせつ画像を送りつけたりする男が、これは意外と多くいるらしい。それは、20歳過ぎのれっきとした大人が中学生を脅迫することも多いという。そして、現に本人の知らないところで流出されてしまっている。

 また、そういう被害にあう子は、ごく普通の子が多いというのも考えなければならないだろう。普通であるから、素直に応じてしまったり、裏の裏を勘ぐることもしない。

 そして、自分の子は大丈夫などと思っていても、友達関係から影響を及ぼされてしまうこともある。

 ただ、そういう子の親は気がついていない場合がほとんどである。特に共働きで、あまり子どもに目がいかない家庭の子が多い。もちろん、そいう親子関係では子どもは親に相談できなし、相談できる友達がいて、その子の親がアドバイスをできる状態ならまだ救われるが、そういうパターンも非常に少ないだろう。

 純粋であるがゆえに、上手い話に騙されてしまう。そして、親に言い訳の為の嘘をつく知恵も、ちょうど持ち合わせる時期でもあるのだ。

 また、男の子だからといって安心は出来ない。きちんとネット上でのモラルを教え、人間としての道徳観念を育成させなければ、近い将来、交際やチャットを断わられたり、自分の気に食わないことを言われただけで嫌がらせをする人間になるかも知れないからだ。

 実際、そういう男性があまりにも多く存在しているということを念頭に入れて子育てをしなければならないだろう。

 どんな理由にせよ、ネット上に相手の写真や本名、アドレスなどを勝手にばら撒く行為は犯罪であり、人間としてまったく道徳観念のない悪質なものであるということ。これだけは、はっきり教え込んでおかなければならないこと。

 また、こういった分野は学校の問題というよりも、家庭が主になって躾けることであると思う。女の子であれば母親が、男の子であれば父親が指導すべきことなのである。

 とにかく、今、子どもたちは、ネット社会の中で非常に危険な状態に置かれてしまっている。親は、子どもとの関係を見直さなければならないだろう。そして、大人たちは、如何にして子どもたちを守れるかを考えなければならない。それは、早急に。
posted by ミューシャ at 12:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2006年11月05日

神との結婚

 シュタイナーは、「道具」という言葉を使ったが、これはキリスト教では「神の花嫁」、「神との結婚」と呼ぶものに等しいと思う。

 また、これらの言葉から、一生独身でなければならないとか思いがちであるが、決してそんなことはないと私はとらえている。

 確かに、そういう生き方の人がいてもいいし、また結婚して子どもを育てるということも神の願いである。だから、それぞれの立場で神と自分の関係を構築していくことが神の人類へ与えた平等というものであろう。

 神というものを中心に基本軸にした生き方であるなら、夫婦間の愛は互いにとって尊敬というものを築き上げようとするだろうし、親子間の愛であるなら、親は子を神の願いに相応しいようにと正しく育てるであろうし、また友人間の愛なら、互いに切磋琢磨しようとするだろう。

 そのどれもがみな、まず自分を清らかに高めようとする純化への努力なのである。精神も心も体もすべての純化。

 また、次に紹介するシュタイナーの見解は人間にとっての目標であるが、そうなれるように努力したいものである。



* * * * * * * *


アストラル体が霊我そのものになりきった高次の存在のことを、東洋の学問では「応身」と呼んでいます。つまりこの存在のアストラル体、つまりアストラル体の身体=カーヤは、残りの部分を何ひとつあとに残さずに自由に変化しうる段階まで達しているのです。

さて人間は、さらに自我の作業を進めていくことができます。そして最後には、自分のエーテル体だけでなく、自分の肉体をも作り変えます。

エーテル体と肉体が造り変えられて、人間自我の支配下に置かれたときは、何が現われるのでしょうか。

アストラル体が霊我になるだけでなく、エーテル体の中にブッディまたは生命霊が次第に発達を遂げ、そしてその生命霊またはブッディが肉体の中に自己を刻印づけるとき、一段高次の進化段階、一種の中間段階が達成されます。

人間はこの中間段階を通して、自分のエーテル体を何ひとつあとに残す必要がないところまで至ります。そしてエーテル体を生命霊もしくはブッディ形態にして、それを永遠に保持しつづけます。

このようにして人間は自分のアストラル体とエーテル体を自由に支配できるようになります。その人の自我は、転生を続けながら、アストラル体とエーテル体を作り変え、エーテル成分、アストラル成分から新しい完全なアストラル体とエーテル体を形成したのです。

それによって、その人は自分自身のアストラル体とエーテル体を、いわば協議に捧げて、それを他の人たちに委ねることができるようになったのです。

* * * * * * * *




 このような段階に至るまでには相当な努力が必要である。なかなか凡人の我々には遠い道のりであるが、人間とは何かを知ることから初めて、次第にこのような段階へ近づけるように日々がんばりたいものである。

 また、このような状態へと至った先人たちへの感謝の気持ちも忘れたくないものである。せめて、その想いに心を寄せることは誰にでも出来ることであるから。
posted by ミューシャ at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

真摯であるということ

 自惚れというものは、誰であれ、全てを破壊し尽くす。特に、亜流の場合や、霊的なことに携わるものにとっては、それこそ命取りとなるほど危険なものである。それだけに、心してかからねばならないのだ。

 古代メキシコのシャーマンの流れを汲むドン・ファンもまた、多くの優れた先人たちと同じことを自分の言葉で次のように表現している。



* * * * * * * *


「戦士の道の目的は、うぬぼれを王座から引きずりおろすことにある。そして戦士たちのなすことはすべて、その目的の達成を目指している。」

「シャーマンたちはうぬぼれの仮面をはがして、その正体が別のものになりすましていた自己憐憫であることをつきとめた。」

* * * * * * * *




 人間は、何かほんの僅かな特殊な能力―――実際は、取るに足らないほどちっぽけな―――があると、あたかも自分で自分が特別な存在であるかのような、或は何か人とは違った特別な使命があるとか自惚れる傾向を持つ人々が意外と多いが、それは、まだ霊的なものの実相を知らないからである。

 その実相をほんの少しでも垣間見ることが出来たなら、とてもではないがほんの僅かな傲慢ささえ持つことに恐怖心を覚えるはず。

 十字架のヨハネにしろ、アヴィラのテレジアや、テレーズ、またはシュタイナーなどの心ある偉人たちは、どこまでも謙虚であり、真っ直ぐであり、自惚れることなど微塵もなかった。

 ただ、自分に今出来ること、そして少しでも人々が救われるようにということだけを考え、直向に歩み続けていた。それは、まさに野に咲く花のように。

 また、自分の語ることを常に振り返るという、省みるという行為がどれほど大切なことであろうか。その時、ある事に対して自分では正しいと思っても、それが常に正しいとは限らないし、間違っている時もある。だから、思い込みという世界にだけは陥ってはならない。常に柔軟な思考や、心を必要とする。

 だから、私は決して人に自分の意見を押し付けたくはないし、強引に押し付けようなどとは思わない。たとえ、誰かが間違った思い込みをしていたとしても、気がつくまで待つことが多いし、また自分が間違っているかも知れないからだ。

 何事も、無理やりという手法は損傷が激しいものである。そして、ただ一つし続けることは、自分自身に向き合ったとき、自分が自分に対して正しくあることと、他者の為に祈り続けることだけである。



* * * * * * * *


「スピリットが聞き耳を立てるのは、話をする人間が『しぐさ』で話をしているときだけである。

しかもその『しぐさ』は、決められたサインや身体の動きなどを意味しない。

それは真に自らを明けわたす行為、惜しげのない行為、こっけいな行為を意味する。

スピリットのための意思表示として、戦士たちはおのれの捨てる最高のものを発揮し、無言のうちにそれを抽象なるものへ捧げるのだ。」

* * * * * * * *




 霊界に向かい合う時は常に孤独であり、自分一人なのである。その覚悟がなくして、なんとなろうか。

 真剣に、シャープな感覚で、神だけの道具となる決意。たとえ、もし間違いを起こした時は、どんな処罰でも甘んじて受けるという覚悟なくして、何ができるというのであろうか。

 そのためには、まず日々の生活を正すという基本中の基本の中に身を置かねばならないのである。外的なものを正せねば、精神など正すことは到底出来ないものである。

 また、精神が正されている人というのは、日常の生活も非常に規律正しいものであることは往々にして見られる。

 そして、その道具ということは、シュタイナーも語っている。人間は、最終的に神の道具となる状態が理想であり、そうなる必要があることを。

 道具というと、抵抗感を感じるかもしれないが、これほど自由な受容体としての存在はないであろう。そこには、自分の強い意志も働いていなければならないし、透明な感覚も養っていなければならない。

 人間の自由というものが即ち、神の道具なのではないだろうか。神と自分とが互いに反射しあう状態。そして、それが回転し始める。創造の始まり。
posted by ミューシャ at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする