2006年12月31日

智性と意性

さて、今年最後の記事。

12月29日の記事、「光と闇〜人間の行為」というなかに、シュタイナーの見解を書いたが、偶然にも出口王仁三郎も同じ事を述べているところに出会ったので抜粋。(霊の礎 十一 より)

『智性は智慧に属する諸の真理により、意性は愛に属する諸の善によって、常に円満具足の境域に進みて止まぬものである。』

「光と闇」というテーマは、あまりにも深く尊いもの。しっかり把握していきたいものである。


それでは、皆様、どうぞ、良いお年をお迎え下さい。皆様にとって、来年が実り多き年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
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2006年12月30日

人類愛善会

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昨日、ひょんなことから出口王仁三郎を初代総裁とする「人類愛善会」というものに遭遇した。
そこの主旨は次のようなものだという。

『人類愛善会は、人種、国境、宗教を問わず、志を同じくする人たちが相携えて世界の平和と人びとの幸せのために活動をする団体です。』

私は、その会を見ていて思った。ごく素朴で、ごく当たり前なことで、人間なら本当はそういう理念・心情でなければならないものだということを。
ごくごく当たり前すぎて、ふと異常な現代の状態から逆に見てみると、人類愛善会の趣旨が、あまりにもあたたかくやさしい。涙が、零れ落ちるほどに。

モンゴルの大平原で、様々な人種の人々が手を繋ぎながら歌っている歌声が、透明に澄んだ青い空の中に融合していくかのような光景が拡がる。
そこには、なんの分け隔てもない。ただあるのは、お互いに尊敬しあう美しく清らかな精神。

これが、出口王仁三郎の原点なのかと思った。飾り気のない素朴な美しさ。純白のウェディング。空間にこだまし合う音。
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榊のバトンタッチ

さてさて、わが家の榊の紹介です。

まずはじめに、2005年の正月から神棚を守ってくれている榊。まる二年も生きつづけています。三年目に入りますが、まだまだ大丈夫そうです。

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次に、2006年の正月から神棚の住人になった、あ、いや、住木になった榊。先輩に触発されてがんばりました。

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さて、2007年の幕開けをバトンタッチした榊です。威勢がいいですね。片方の梅の枝などは、元気が良すぎて反り返っています。よろしくね。

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さあ、最後にみんなで、はい、ポーズ。三年リレーです。まるで、父と子と聖霊? 三位一体でしょうか。それとも、お祖父さんお祖母さん、お父さんお母さん、そして子どもという三世代かしら? 何はともあれ、がんばりましょう。

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2006年12月29日

光と闇〜人間の行為

年末の忙しさに、記事の更新も途絶えがちになってしまっているが、今日はシュタイナーの見解から「光と闇」ということを引用しながら書いてみようと思う。

『私たちは光のなかに、死に行く思考世界を見ます。この光のなかに、闇が入ってきます。闇のなかで、精神的・心魂的に「意志」と名付けられるもの、より東洋的に言えば「愛」と名付けられるものが生きます。

世界を見るとき、私たちは一面で、輝く世界を見ているわけです。私たちの感覚にとってはいつも透明な輝きのこの世界は、そのなかに闇が知覚できなければ、目に見えないものです。世界を貫く闇のなかに、私たちのなかに生きている意志を探求しなければなりません。外なる世界を、闇と光の共鳴として見ることができます。

同じように、私たち自身の内面も、光と闇として見ることができます。ただ、私達の意志にとって、光は思考・表象であり、私たちの意志のなかの闇は善・愛になります。』

十字架の聖ヨハネが暗夜の必要性を説いたことも、またシュタイナーを通して語られた言葉からさらに深く理解できるのである。

シュタイナーは、次のようにも述べている。

『私たちは純粋な思考と名付けているものは、意志に浸透された過去の名残りなのです。(略) 私たちが内に担っているものは、はるかな未来へと運ばれていき、私たちがいま萌芽として植え付けたものは、遠い未来に外的な現象として出現します。その存在は、いま私たちが世界を眺めているように、世界を見て、「私たちの周囲に、自然が輝いている」と、言うことでしょう。なぜ、自然は輝いているのでしょうか。かつて地上で、人間がなんらかの行為を行なったからです。いま、私たちが周囲に見るものは、地上の人間が萌芽として植え付けたものの成果なのです。』

昨日、月を見ていて思った。聖杯のような月。人々の心の穢れなきものだけを集めているかのよう。
その輝きはあまりにも透明すぎて哀しくなるほどに美しい。

そんな感覚の思いを、シュタイナーの言葉は的確に説明してくれる。

私は、思った。人は香を焚いたり、香水を好んだり、入浴剤を使ったりと、芳香というものを自然と求めている。
聖杯に注がれたものを、形あるものとしてエッセンスを凝縮するかのように作り上げることによって、輝きに目が向くように本能的に求めているのかも知れないと。

ただ、心を済ませてみれば、月の輝きもまた芳しい香りを醸し出し、星々もそれぞれの心を振動させるかのような香りを放っている。

イメージから作り出される芳香の数々。人は誰でも皆、心の奥底では善・愛を求めている。そして、それは素直になればいいだけのこと。
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2006年12月25日

感覚の波

シュタイナーの見解。

『古代の秘儀参入者は語りました。―――「お前たちの自我の中に天国を求めても無駄である」。
しかしイエス・キリストはこう語りました。―――「みずからの自我の中に天国を求めなさい」。
秘儀の深い秘密を外の世界へ届けること、これこそが歴史上のキリスト行為だったのです。』

今日は、クリスマス。クリスマスについてはいろいろ諸説があるようだが、それでも現在は12月25日を多くの人が祝っている。
だから、それでいいのではないかと思う。一人でも多くの人がキリストに思いを馳せること。それが重要ではないかと。

「自らの自我の中に天国を求める」。それはなんと愉しい作業なのだろうか。少しずつ求め、見出し、育成していく過程は、人であることを嬉しくさせる。


シュタイナーがマルコについて述べた見解は、今日はなぜか心に響く。

『マルコは、太陽神に向き合うことよりも、太陽オーラ、宇宙空間に浸透する霊光を記述し、それがイエス・キリストに働きかけている、と述べています。ですからマルコは、宇宙光が降りてくるヨハネの洗礼の場面から始めます。そして「ヨハネによる福音書」では、この太陽霊の魂であるロゴスという働きについて述べています。「ヨハネの福音書」は、福音書の中で最も内面的な世界を描いています。』

『マルコは天から降臨する太陽霊に眼を向けます。地上の存在を追求しないのです。肉体の中に生じるものは、太陽霊の働きを現すための手段にすぎないのです。太陽霊の働きだけを辿ろうとします。』

宇宙空間に浸透しているものを感覚で感じ取ることは、いつの間にか自分の心まで浸透し、そして一体化している。
そんな霊光やオーラを持つ太陽霊の記述を試みたマルコは、いったいどんな人物であったのだろうかと心が惹かれるのだ。

感覚で感じ取ることは、文字を追って得られる知識よりもはるかに深く確実なもの。だから、感覚の記憶の波を一波でも多く起こしていたいと思うのである。

メリー・クリスマス。キリスト衝動が、一人でも多くの人の心に湧き上がりますように。
そして、クリスマスに悲しみや落胆の中に置かれている子どもたちに、天使が寄り添ってくれますように。天使たちがより多くの愛を注いでくれますように。
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2006年12月24日

精神性と感情

シュタイナーは次のように述べている。

『さまざまなことがらから、単に悟性によるのではなく、感情による精神科学的世界観の把握をとおして、芸術創造および芸術鑑賞に転換がもたらされねばならない。』

『同時に、世界を芸術的に把握するための精神科学的な鑑賞から、私たちに力が流れてきます。』

『精神科学的世界観から現われる感情のなかに沈静すると、さまざまな点で、芸術家のありかたが今までとは違ったものになる時代が来ることを予見できます。芸術への道はもっと生命に満ちたものになり、人間の心魂が芸術創造の手段をもっと深く体験する時代が来るのが予見できます。色と音が人間の心魂の中で親密に、いわば精神的に体験されるようになります。』

『音の背後、色の背後、形態の背後に体験できるもの、色彩・音響・形態のなかに開示されるものに到るほど深く、外界と共にあるようになるのです。』

また、シュタイナーは、将来、人間の心魂の精神的本質は、感覚界の輝きが私たちに示す外観と結びつき、この領域において人間の心魂の無限の深化が行われると言う。そして、そういう集中的な心魂のいとなみに際して、感受性が本当に精神的な体験へと移行しなければ、このような体験は出来ないと述べる。

【シュタイナーによる感情の意味】
感情は月進化期に発展したもので、地球で発生した悟性よりも賢明なもの。感情は宇宙から来るインスピレーションの鏡像であり、金星進化期の構築に関わる。愛の感情は人を活気づけ、憎しみの感情は人のエーテル体とアストラル体を害する。利己主義的感情は精神界で破壊的に作用し、無私の感情は構築的に作用。



波動の粗い動物的な感情ではなく、より高度な繊細な感情を育成しなければならない。
そのためには無私であることを心がけなければならない。無私というと自分の感情を抑えることであると誤解するかも知れないが、感情を抑えるどころか、無私ほど自由なものはないのではないだろうか。
それは、何かに囚われるということがないから。執着心もなければ、未練もない。
だから、より良いものを取り入れていくことが出来、発展的に構築し続けていける。

愛の感情。自分の独占欲から生じる愛は愛とは言わない。愛とはその人を大切に思う感情。その人の発展を願うもの。
だから、自分勝手な独占慾から生じる愛は相手を傷つけ、反対に正しい愛から生じるものは人を活気づける。

理想とすべき感情は、気高く尊いもの。そこには、高い精神性が寄り添う。

私はこういう目標に出会うと、愉しくて、嬉しくて、面白くて仕方がない。必ず到達できる希望であると思うから、それはそれは愉快でたまらないのである。
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2006年12月23日

二種類の光

師走。毎年、なぜかいろいろと雑用が入る。その命名どおり、あっという間に過ぎ去る月。
今日が冬至だということを忘れていた。(もう、日付が替わったので昨日)が、なぜか夕食の一品には南瓜の料理を無意識のうちに作っていた。
しかし、柚。夜のニュースで見た時には既に遅し。柚風呂はおあずけ。

先程、記事を書いたが、操作ミスで消してしまった。再び書くのも大変。しかし、ちょっとだけ気合を入れて書いてみようかな。

シュタイナーは、レオナルド・ダ・ヴィンチの描いたディオニュソスと洗礼者ヨハネの絵を見て、次のように述べている。

『ディオニュソスは光を吸い込み、その光を独特の色合いで送り返しているように見えます。ヨハネにも光が射していますが、ヨハネの身体に撥ね返されています。ヨハネの身体は無垢に、光を押し返しています。光は身体と混ざり合わず、エーテル的な純粋さにとどまっています。レオナルド・ダ・ヴィンチはそれを感じ取ったのです。』

優れた芸術家の感じ取ったことが表現されたものから、今度はその絵を通して我々の感性は何かを受け取る。
そして、このシュタイナーの読みは、洗礼者ヨハネについてより深い理解へと導いてくれるようだ。

純粋無垢なヨハネは光そのもの。だから外界から射してくる光をそのまま楽しむかのように、無邪気に撥ね返す。その撥ね返された瞬間には素適な音が響き、その音の玉は外界の光の中を美しく弾んでいるかのよう。
そんなイメージのなかを私は漂う。
そして、思う。精神も身体も清浄化する努力あっての光であるということを。
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2006年12月20日

最近になって気付いたことがある。
ここへ引っ越してきたときにはとにかく鳩が多かった。一度は、部屋の中まで入ってきてしまって困ったことがある。

しかし、いつ頃からだろうか、鳩はほとんどこなくなり、そのかわりにイソヒヨドリだとかイカルに似た鳥、雀、名前は知らないがクリスチャンをイメージするような鳥が多く来るようになった。
また、あの例の大きな白い鳥も。いつか、同じ仲間を数匹引き連れてきて、屋根にとまっている姿は尊大な感じさえしたものだ。

鳥の世界もまた面白いものである。
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エキシビション放映

グランプリファイナルのエキシビションのテレビ放映があったが、やはり村主の演技は次元が違う。
なんか、こう、あたたかなものがぽんぽんぽんと飛び出していくかのよう。見ていて、とてもハッピーな気分になる。
それというのも、きっと、自分のためというよりも、観客に喜んでもらえるような演技をしたいという想いが強いからだろう。
私の子どもたちは、さほどフィギュアスケートには興味がないが、そのうちの一人は、村主の演技だけ見たいからそのときだけ呼んでとのことだった。芸術的な優れた要素というものは、子どもにも無意識のうちに何らかの影響を及ぼしているようだ。

また、キム・ヨナも美しいスケートをするが、まだまだ浅田の方が上をいっているような感じだ。浅田が精神力のコントロールを上手くできるようになれば、不動の女王の位置に落ち着くことだろう。

ただ、どうもテレビ朝日は、完全に安藤中心に番組構成をしたいようだし、平然とそういうプログラムでいる。まあ、スポーンサーのトヨタの力も絶大なのだろうが。
しかし、公平感がまったくない番組構成というものは、まさに視聴者を冒涜した行為であり、うんざりした。スポーンサー共々、イメージダウンは免れないだろう。
スポーツというものは、公正でなければならないもの。地に落とすことは止めてもらたいものである。
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2006年12月18日

感覚の麻痺したマスコミの偏り

テレビ朝日も、フジテレビも報道に偏りがあることを顕著に露呈しているのがフィギュアスケートで一目瞭然。となると、他全般の報道も鵜呑みには出来ないということ。
まあ、マスコミの世界は頻繁に情報操作が行われているようなので、今さらという感じではあるが。

それにしても、浅田・安藤・高橋しか選手はいないの? という報道ぶり。村主選手も体調が悪く、毎晩眠れなかったという。そんな中での結果。
もっと、村主選手のことを取り上げてもいいのにと思うのだが。
何が起こっていようと、村主選手のフリーは3位であった訳だし、総合では4位。安藤選手よりも上位に入ったのは事実。
そして、なんといっても世界で始めてのことをやったのだ。アイスダンス意外では禁止させれている人の声を楽器として用いることで、公式戦でもOKというもの。
これは、ものすごいこと。そして、これは個人だけに反映するものではなく、村主選手がやったことは、今後、他の選手たちの世界をも広げたということではないだろうか。
フィギュア界の革命であり、新境地の開拓。それを、なぜ日本のメディアは気にも留めないのだろうか。同じ日本人として恥ずかしささえ感じる。
人気のある選手の不調の言い訳をこぞってしているという状態は、なんか情けない。こんなんでは、世界選手権は日本人は誰も表彰台へ上ることは出来なくなるのではないかとさえ危惧してしまう。
もっとマスコミは、価値ある視点で物事を報道してもらいたいものである。
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2006年12月17日

目的の軸

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朝は、雨。それから晴れはじめ、再び曇りへと。風も強く、時折雨が舞う。
そんな中、部屋の壁が紅オレンジ色に染まるほどの輝きが、数分間もたらされた。

地平線に隠れる瞬間の太陽。力強い煌き。

立ち止まっていることの愚かさ。時間は無い。ただ、進み続けるしかない。
後、自分にどれだけの時間が残されているのだろうか。老衰というなら希望もあるかも知れないが、突然の幕切れが用意されているかも知れない。
明日のことなど、誰にもわからない。
だから、歩みを止めたくはない。
私には、もっともっと知りたいことがたくさんあり、書きたいこともたくさんある。
本? それも次から次へともたらされる。絶版で、しかもどんなに古書店を探してもなかったものが、ある日突然、予想だにしない経路で偶然にも見つかることが往々にしてある。昨日も、そうだった。
だから、手に入るときに購入しておく。そして、そういうものを買う金銭的な余裕も、不思議ともたらされているのである。

読まなければならないし、少しでも多くのことを書きたいと思う。
残された時間がどれぐらいあるのかわからないが、ただ、今、できる限りのことをしたい。目的の軸を決してずらしたくはない。
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ある教祖の間違い

ある新興宗教団体で、かなり高額な料金を取って、神法なるものを伝授しているところがある。そこの教祖は、出口王仁三郎の真似やパクリをしているのではないかとの噂がよく耳に入ってきていた。

しかし、霊界物語を読んでいると、まるで化けの皮を剥がすかのようにその取り違えや悪の流れが見えてくるのである。
出口王仁三郎そのままの真似であったなら、どんなにか救われていたことであろうか。
そこの教祖は、真似どころか、まったくの取り違えや改竄ばかり。
たとえば、確か、ある神法の一つに、天之御中主だったか国常立大神だったか、とにかくそのような立派な神を手で丸めて団子にして呑み込むという作法があった。
しかし、霊界物語では、悪の流れであるウラナイ教にいた高姫が如意宝珠をそうやって呑みこんでいたのである。
そして、その呑み込むという行為は如意宝珠を汚して御神徳の光を曇らせてしまうことである。
いやはや、なんとも怖ろしいことを平気で行う精神。尋常ではない。

それというのも、霊界物語を全巻、きちんと読んでいないということの表れ。また、もし読んだと言うのなら、著しく読解力のない教祖である。
自己顕示力の強い霊能力者ほど始末におえないものはない。
また、あまり悪行を働くあまり、その霊能力も今ではすっかり無くなっていることと思われる。
謙遜を忘れたときから、転落への道へと舟は流されるのである。
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2006年12月16日

崇高な関係及び血統転換

霊界物語第二十一巻。この巻もちょくちょく副守が顔を出して、かなり読み終えるのに大変であったが、それでも感動した場面があった。

玉治別らが高春山の言霊戦に出陣したときから、その妻であるお勝の父親が危篤状態となり、それを知らせに後を追ってくるのだが、そのときの玉治別とお勝の心情や精神性の高さに、これぞ理想の夫婦のあるべき姿と感心したのである。

言霊戦はとても大切な目的。そのための出陣。如何なることがあっても、それを失敗させるわけにはいかない。そこで、玉治別はお勝のことを見知らぬ女性だと言い放つ。しかも、かなり辛辣な表現を用いて。
しかし、お勝はすぐに夫の胸のうちを悟り、言い返すこともなく自分の行為を謝罪して、自分は女房ではないからと言って帰途に着くのである。

二人の心情は、とても苦しいものだった。玉治別も熱涙を呑んでの言動。お勝もまた、宣伝使しての夫の立場を傷つけてはならないし、完遂させなければならないこと。神の御心を全うさせなければならないという優先順位。目的の遵守。

如何に夫婦親子といえども馴れ合いというのは禁物であるし、情に流されてはならない。その人自身の世界や目的を大切にしてこそお互いに成長できるのであって、また夫婦親子としての価値があるのではないだろうか。だからこそ、発展や向上があるように思われる。
私は、こういった玉治別とお勝夫婦の姿の有り方は理想とするところであり、そうでありたいと思う。

また、この巻には、宣伝使の竜国別が鬼娘に血を吸われるという件がある。
『アヽ、どうしたものか、この血はエグイ。なかなか苦味がある。やっぱり身魂が雲ってをるとみえて、流れる血まで味が悪いのかなア。』

竜国別はこの後、このように言う。『アヽ、何だか気分がスイツとした。にはかに身体が軽くなり、目までハッキリしてきたやうだ。』

再び鬼娘は、『お前の血管を通ってをる悪霊をさっぱり吸ふて上げたのだから、モーお前さんは結構な赤い誠の血ばかりになってしまつたのだよ。』

後に、この鬼娘はお初の化身であることが分かる。

よく血統的なもので悩む人もいる。あんな人間の血が流れているなんてと。または、自分は過去にこれほどまでに酷いことをしてきたから、もうその流れは拭い去ることは出来ないということなど。
最近の記事の中にシュタイナーによる血液についての見解を書いたが、彼は血液と思考との深い関係を指摘しているし、また、どのように血液の育成をするべきかを説いている。

霊界物語のこの件からも、それは見て取れるのではないだろうか。
ただ、心からほんとうに改心さえ出来れば、それが血統転換というものとなり、もろもろの血統的な問題が解消されるのではないか。私は、そのように捉えた。

希望が無くなるなんてことは決してない。ただ、自分自身が直向に謙虚に生きようと努力する限り、希望の虹は空に存在し続けているのだ。
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2006年12月15日

霊界物語第二十巻に、三国ヶ岳に住む『蜈蚣姫の鬼婆が計略で、篏口令を布くかはりに、みな茶に毒を入れて呑まされたものばかりだ。ちやうど唖の国へ来たも同様である。』とあり、部落のものたちは皆、声をだせなくなっていた。

また、『天賦の天声器と聴声器を破壊された一同』ということも書かれてあるが、ここで、シュタイナーの見解であるアーリマンの働きと重なった。

シュタイナーは、最後の方ではアーリマンが著述業・印刷業というものを使っての戦いをすると述べている。数字と統計ばかりの学問もアーリマンに利用されるというが、現在のネット時代もまさにその到来だと思う。

一方的に視覚から入ってくる文字列。相手の表情や声質などから判断できない状態。書いた人の本音とは違った受け取り方をしたにせよ、それが表層に留まるものであるだけに、これほど強烈に人の感情に影響を与えるものはないのではないだろうか。
そして、安易に言葉が飛び交う。発する前に考えることもなく、感情だけで打ち込んでしまわれているものも多いだろう。

この霊界物語の描写は、まさに今の時代を予見した警告であったような気がする。だから、実際に言葉を発せよ、言葉を大切にせよという悲痛なまでの霊界からの叫び。
言葉をないがしろにし、発することを忘れさせようとするものは悪なる存在。霊界物語ではバラモン教に相当し、シュタイナーの見解ではアーリマン存在に当たる。

だから、ネットに書き込むにせよ、十分に気をつけなければならない。その文章にどれだけの思いを込められるか努力し、言葉を選ばなければならない。

シュタイナーは次のように語る。
『私たちの知性は事物の理解の表層に留まっており、現実に真理が存在する層まで分け入っていくことはありません。このことは十分に深く、根本的に洞察しなければなりません。
現在、人々は悟性とともに表層に留まることを好み、より深い精神の力を用いて、さらにその先にある事物の本質に相応した存在の層に分け入っていくことを好みません。』

だから、より深い精神の力が必要であり、それによって本質を見極めていかなければならないのである。

また、聴くということ。耳を澄まして聴かねばならない。大自然の音を、人の声を。そのリズムやバイブレーションによって人に変化が起こり始める。だから、善いものに触れる努力をしなければならない。
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2006年12月13日

シュタイナー医学

シュタイナー医学について、下記のところに興味深いことが書かれてある。インフルエンザ・花粉症・精神病ということを中心に述べられているが、それらを読んで改めて思うことは、常に自分自身を健全な状態にしておくことと、しっかりした食事の管理をすることによって、家族もまた守ることができるということである。

   http://members.aol.com/satoky/hayfever_2.html
posted by ミューシャ at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

危険物質

奈良県平群町。最近、いろいろと事件のある場所。また、そこに住む僧侶が飲酒運転で逮捕されたという報道があった。
路上駐車で居眠りをしているところを警察官に職務質問を受け、こともあろうか、車を急発進させて停車していたパトカーにぶつけるというお粗末さ。
このような僧侶に読経をされた霊は、きっとかなり不愉快なことだろう。
それにしても、神や仏に仕える身でありながら、実生活が駄目な人間は多すぎる。

また、飲酒の検問。かなり抜け道があるようだ。息の出し方で、数本のビールを飲んだ直後にも関わらず検問に引っかからなかったということが、あちらこちらから聞こえて来る。
人間のモラルのなさに酷く幻滅する。なぜ飲酒運転が危険なのかを真っ直ぐ受けとめずに、自分は大丈夫だとその行いを改めない。こういった人間たちの罪は計り知れない。

血液中に入ったアルコールは、中枢神経を麻痺させる。そのことによって開放感を感じるのだが、それは一種の麻薬と同じ経路。

薬草などの麻薬的なものによって公然と幻覚を起こしたり、または神託を得るということもかつては行われていたが、それは正しいものではなく、また高次の世界からもたらされたものでもない。
低次な世界からも、そういったものは頻繁にもたらされる。
高次の世界からもたらされるというものは、身心が浄化されたときにのみ可能なのではないだろうか。
そして、そういう時の感覚というのは、よりシャープでクリアで情感豊かなものという感じがする。

母親になるべき女性は特に気をつけなければならない。妊娠中の飲酒は、胎盤を通して胎児へと流れ込む。ようするに、無理やり胎児に飲酒をさせている犯罪行為。
そのことによって、子どもは大変危険な状態へと置かれるのだ。発育不能、精神疾患など。また、妊婦自身も早産などの危険へと向かう。
母乳も血液が組成変化をしたもの。当然、赤ちゃんへの影響は及ぶ。故に、母親たるものは、聖母マリアの如くでなければならない。

母親は母親としての役割をきちんと全うしなければならないし、また父親も父親としての役割を全うしなければならない。
子どもにとって親は絶対的な存在。その信頼感と、愛情を決して裏切ってはならないのだ。
posted by ミューシャ at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2006年12月11日

霊的な源泉

出口王仁三郎は、人間の生まれることについて次のように語っている。

* * * * * * * * 


そもそも高天原の天国に住む天人すなわち人間の昇天せし霊身人は、地上と同様に夫婦の情交を行ひ、つひに霊の子を産んで、これを地上にある肉体人の息に交へて人間を産ましめるものである。故に人は神の子、神の宮といふのである。

地上は凡て天国の移写であるから、天国において天人夫婦が情交を行ひ霊子を地上に蒔き落とす時は、その因縁の深き地上の男女はたちまち霊に感じ情交を為し、胎児を宿すことになる。その胎児は即ち天人の蒔いた霊の子の宿ったものである。

その児の善に発達したり悪に落つるのも、亦その蒔かれた田畑の良否によって、幾分かの影響をその児が受けるのは止む得ない。石の上に蒔かれた種子は決して生えない。また瘠土(せきど)に蒔かれた種子は、肥沃の地に蒔かれた種子に比すれば大変な相違があるものだ。

これを思へば人間は造次にも癲沛(てんぱい)にも、正しき清き温かき優しき美しき心を持ち、最善の行ひを励まねばならぬ。折角の天よりの種子を発育不良に落ちいらしめ、或は不発生に終はらしむるやうなことに成っては、人生みの神業を完全に遂行することは出来なくなって、宇宙の大損害を招くに至るものである。

* * * * * * * * 


大方はこのようなものであろうが、カルマということになってくるとかなり複雑なものとなり、それについてはシュタイナーが詳細に述べている。かつての記事の中にも書いたが、ただ因縁という言葉だけでは片づけられないものであり、巷の自己顕示欲が強い霊能者が語る世界はかなり歪んだものである。

また、個人的に思うことだが、生まれた瞬間から一ヶ月ぐらいの時期を観察していると、その子の傾向というのか、特質というのか、そういうものが把握できる。
例えば、親に対して完全な信頼感を持っているか、或は独立独歩的であるかなどである。その傾向を上手く生かしてあげるのは親の神業の一つなのではないかと思う。
また、そういう生まれ持ってきた特質を育ててあげられればある程度は親の役割は合格であろうし、またその特質を押さえ込み変えてしまうなら不合格なのではないかという気がする。
まあ、これは親となった人間たちの責任のことであり、それ以外に自分自身で自分を造り上げていくことも大きな神業。がんばりたいものである。

次に、シュタイナーは霊体の入れ物である肉体を大切にしなければならないということも述べているが、出口王仁三郎も然り。

* * * * * * * * 


人間が現界へ生まれて来る目的は、天国を無限に開くべく天よりその霊体の養成所として降ろされたものである。決して数十年の短き肉体生活を営むためでは無い。要するに人の肉体と共にその霊子が発達して、天国の神業を奉仕するためである。天国に住む天人は、是非とも一度人間の肉体に入りて霊子を完全に発育せしめ、現人同様の霊体を造り上げ、地上の世界において善徳を積ませ、完全なる霊体として、天上に還らしめむがためである。ゆゑに現界人の肉体は、天人養成の苗代であり、学校であることを悟るべきである。

* * * * * * * * 


世の中には、肉体を徹底的に苦しめることによって救われるという教えの宗教団体などがあるが、これは明らかに天則違反のことであり、神の意に反した悪の所業。
肉体を苦しめても、そこからは何も生まれない。ただ落ちていく霊魂があるのみではないだろうか。
神から授かった器をどうしたらいいのか、道徳的な人ならすぐに分かること。もちろん、甘やかしすぎの器もまた使い物にはならないが。

シュタイナーの次の言葉からは、まるで生命の流れる音が聞こえるかのよう。

『私たちはこの神智学の成果を、私たちの魂の内容として、世界に提供するのでなければなりません。神智学を魂の内的ないとなみに変えることのできた人は誰でも、霊的な源泉なのです。(略) 自分自身を神智学の生命に貫かれた、意識的な道具にすることができたとき、世に認められずとも私たちは世界の中に働きを広めて行くのです。』

霊学を学んでいく過程で、何か自分自身が整えられていくような音楽が聞こえる。一つ、また一つと音が調整されていき、それが楽譜に書き記されるかのように組み立てられていくのだ。
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2006年12月10日

血液の黒板

同じ青色を見ても、青には変わりはないが、人それぞれによってその青という色は微妙に違っているものだ。
景色もそう。湖の光景を見ても、美しいと感じる人もいれば、ほとんど何も感動を覚えない人もいる。

シュタイナーは語る。

『私たちの眼が色彩感覚を受け取るとき、その印象は視神経の中に入り込み、血液の黒板に描き出されます。』

『血液の機能と、血液循環と結びついた諸器官の機能とを正しく理解するためには、次のように問いかける必要があるのです。――「人間がそこに向かって飛翔しようとするもの、高次の世界に由来するものを血液の黒板にどのように描くことができるのか。」きまり文句を使うのではなく、感覚的、超感覚的な現実に眼を向けることによって、この見事な血液の機能と高次の世界との関係を考察するとき、血液の営みのすべてが人間の中心点となって現われるでしょう。』


霊界物語のなかにおいて、松姫が荒修行によって完全に改心したときの描写がある。

松姫 「なんと荘厳な景色ですな。日輪様がこの滝に輝き遊ばして七色の虹を描きあそばし、得もいはれぬ微妙な鳥の声、常磐木の色、まるで天国のやうぢゃありませぬか。」

竹公 「さうですとも、あなたの心が清まったので宇宙一切が荘厳雄大に見え、環境すべて楽園と化したのですよ。」

松姫 「高城山もずゐぶん景色に富んだ処ですが、たうてい比べものにはなりませぬワ」

竹公 「それは貴女のお心が雲ってゐたからですよ。今度見直して御覧、この景色よりも層一層立派です。」


シュタイナーは言う。『人間の生体は宇宙全体の中に生きる霊のこの上なく正確な模造の一つなのです。』

血液の黒板にどのように描くことが出来るかは、その人次第。神のその想いを、神の世界をどのように心に映し出すことが出来るか、この松姫の心情の変化は如実に言い表しているのではないだろうか。


冬の空に輝く星は殊更美しく見える。冷たい空間であればあるほど、その輝きは増す。シャープでクリスタルな世界。
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2006年12月09日

真心〜供犠

霊界物語第十九巻は、流れ落ちる涙に、音読をする声も途切れがちであった。高姫の改心していく様も泣けたし、松姫を取り巻く人間たちの姿にも感動したが、なんといっても松姫の心情の動きには心が揺り動かされた。まさに、シュタイナーの言うところの供犠そのもの。

師匠である高姫や黒姫の改心に伴い、その師匠の罪をも許してもらおうと、死ぬほどの苦しみを与えられようとする苦難さえも素直に受け入れて、まっすぐ希望に向かって歩む姿。その真心を供犠として言わずしてなんと言えようか。

そして、弟子の行為によって師匠の罪さえ許され、また松姫に関わってきた人々さえも改心へと向かわせる。ここからは、大きな真意を見て取れる。

親子関係、兄弟関係、友人関係などすべてに当てはまる。例えば、親の罪、あるいは功績は、子どもの罪または功績ともなる。何気なく生きている人生。しかし、そのひとつ一つが影響を受け、回転し、積み重ねられていく。
だからこそ、一人だけの人生ではない。自分自身が真摯に生きること。自分自身の霊魂を育てて向上させることは、周りへ偉大なる影響を及ぼしているのだ。
だから、がんばらねばならない。だから、自分の霊魂を堕落させ、周りに悪影響を及ぼしてはならない。今、この瞬間にも、自分はプラスにもマイナスにもどちらにも影響を及ぼしてしまう位置に立っているのである。

また、熊彦という師匠思いの松姫の従者は、一人改心のために館を出て行った松姫のことを思い、後を追いかけたかったがそれが出来ず、それでもその強い思いは霊だけとなって松姫を守り付き添っていたという件が書いてある。
ここからは、他者への霊魂の働きかけは実際に出来るのだという希望を教えているように思った。これも、すべて真心というものから生じているのではないだろうか。

また、それよりも前の巻で書かれている話で、お節という娘をさらわれ、しかも一年もの長きに亘って暗い岩窟にその娘を閉じ込められていたという両親のことについてだが、お節をさらうという悪行を働いた二人の男は、その後、改心して宣伝使となるのだが、その両親はいつまでも恨みつらみの世界に留まっている。
そんなとき、いくら悪いことをしなくて善人であっても、そういった世界に居続けることは霊魂の成長もなければ、むしろ霊魂を穢してしまう行為であるということが読み取れた。
どんなに酷い悪人でも、心から改心し、そしてどんな償いでもするという覚悟を持ち、かつ現実的に他者の為に行動するのであるなら、それは立派な霊魂であるということ。
しかし、何も悪いことをせず、むしろ被害者であるが、恨みつらみの世界は地獄の想念。これは、きちんと考えて受け入れなければならないことだろう。自分を大切にするということを見直したいものである。

また、この霊界物語。またまた面白いなと思ったことは、ふっふとさりげなく話の流れの中に出されてくるものが、どんどん幾つもの回転が起こっていき渦となり、その後の巻で終結していくのである。
だから、気を抜いては読めない。必ずその種を見つけていかないと、この物語の醍醐味を逃してしまうから。
posted by ミューシャ at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2006年12月08日

郵便局

12月4日に引き受けされた冊子小包。昨日、7日の時点でもまだ届かないので配達完了メールの申し込みをしておいた。
今日、8日の午前11時11分に配達を完了したというメールが入ったが、夕方5時になってもポストには入っていない。

そこで、最寄の配達担当の郵便局へ問い合わせの電話をする。女性職員がでて、住所、名前、差出人を聞く。その時、私は引き受け番号は言わなくていいのかと聞くが、番号は必要ないとのこと。
そしてその場で確認するが、ちょっと見当たらないので調べてから電話をするとの事だった。

7時頃、今度は男性職員からの電話が入る。引き受け番号を教えてほしいとのこと。そして、また調べたら電話をすると言う。(はぁー、だから引き受け番号のことを言ったのに、二重の手間だなと少々うんざり。)

さらに20分後。電話が入り、6時過ぎぐらいにそちらの地区への配達が完了されたのでポストを確認して下さいということであった。
そして、その配達完了メールは配達に出かけた時間であると言うのである。(そういう状態は、配達を完了したとは言わないよ。国語力及び道徳をきちんと学んでね。)

また、ここ数ヶ月前から郵便物が夜十時頃には入っていないのに、朝6時頃朝刊を取りに行くと、その朝刊の下に入っていることがけっこうあるので、そんなに遅い時間帯に配達しているのかと訪ねた。
すると、定年退職をした人がいて、その後に新しい人がなかなか入ってこないので配達が遅い時間帯になってしまうとの理由であった。

やはり、公務員のシステムの粗雑さだろうか。民間ではあり得ない諸々の機能のまずさ。郵政民営化は必要なことだったのだとつくづく思うのであった。
posted by ミューシャ at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする