2007年01月31日

単一無雑

世の中には古今東西、様々な宗教や教えが存在している。しかし、その中のどれか一つだけが正しく全きものというわけではない。
そのことについて、霊界物語第三十巻第十章に書かれてあるので抜粋してみる。


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三五教だとか、バラモン教だとか、ウラル教だとか、いろいろ小さき雅号をこしらへ、各自にその区劃の中に詰め込まれて、蝸牛角上の争いをしてゐるやうなことでは、たうてい大慈大悲の大神の御神慮には叶ひませぬ。

誠の道は古今に通じ、東西に亘り、単一無雑にして悠久かつ宏大なもの、決して教会とか霊場とか、左様な名に囚われてゐるやうなことでは、誠の神の御心はわかるものではござりませぬ。

あなたも三五教の中に宜しいという点がお認めになれば、そこをお用ゐになり、バラモン教で宜しいから、悪いと気のついたことところは削り、また良いことがあれば、誰の言った言葉でも少しもかまひませぬ。長を採り短を補ひ、完全無欠の神様の御教を、なにとぞ天下に拡充されむことを希望いたします。

妾(わらは)も三五教の宣伝使などと言われる度ごとに、何だか狭苦しい箱の中へでも押し込められるやうな心持ちがいたしまして、実に苦しうございます。

すべて神の教は自由自在に解放されて、一つの束縛もなく、惟神的でなくてはならないものですよ。どうぞそのおつもりで今後は世界のために、神様の御為に力一杯誠をお尽くし下さいませ。

これがこの世を造り玉ひし元津御祖の大神、国治立命様その外の尊き神々様に対する三五の道の真相でございますから・・・・・。

* * * * * * * *



霊界物語にはこのように口述されてある。
しかし、それならこれを口述した出口王仁三郎や、もしくは出口直が唯一優れているかといえば、それはやはり違う。他にも優れた人々は存在してきた。
また、霊界物語を読まない人は救われないとか、あるいはそれを読まなければ立派な人間になれないかなどと問えば、やはりそんなこともない。

神の教えは自由に解放されて、惟神的でなければならないとはっきり口述されているではないか。一つだけが絶対なるものであるという考え方は間違っている。

私は今は集中して霊界物語を読んでいるので、その関連で書くことが多いが、個人的にはシュタイナーをベースとしていたいし、スウェーデンボルグや大石凝真素美、平田篤胤、川面凡児などももっと学びたいと思っている。
そしてまた、多角的にあらゆる方面から研鑽して行きたい。

ただ、思ったことは、霊界物語を読み終えた時には、もっと自由な発想になっているのが普通であろうし、手取り足取り教が説かれている霊界物語を卒業できなければならないと思うのである。
まあ、それだけ霊界物語が素晴らしい書でもあるということであるが。

日の光を受けて輝く、碧い大海のような心。それが目標。
posted by ミューシャ at 14:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年01月30日

愛善

   愛善の道に叶ひし身魂こそ
       天地の神の心に叶へり

           (霊界物語第二十五巻余白歌)


簡潔明瞭な歌。そのまま。
神の心に叶ったものこそ愛善の道である。素朴で直向で、分かり易いこと。
ただ、愛善という基準に自分を合わせればいいだけ。


かつて三輪山へ登った時に出会った夫婦がいた。夏の暑い季節だったように記憶している。
私が登拝を終え、下り始めていたとき、まだ登り途中の道の脇で休んでいた。

「頂上まではどのぐらいありますか?」と、汗を拭きながら夫の方が聞いてきた。

「あと、もう少しですよ。」

安心した顔で、「ああ、そうですか。ありがとうございました。」と夫婦揃って頭を下げた。

「がんばってくださいね。」と、私はありったけの笑顔と心で答えた。


そのときの夫婦の純朴な姿が、霊界物語を読んでいるとしきりに浮かび上がる。まるで、三五教の信心深く謙虚な信者の姿と重なるのである。

お地蔵さんのような顔をしていた。なんの虚栄もなく、ぎらぎらした欲望もなく、ただ三輪の神様にお会いしたいという気持ちそのままだった。
そして、愛善の姿そのものだったのである。

また、神社ではなぜか道を聞かれることがよくあるが、その時は、参拝を済ませた者として、これから向かう人に良い思いで向かって欲しいという願いから、いつもありったけの心で応じるように気をつけている。それが、神社におわします御神霊や御眷属たちへの礼節でもあるからである。
posted by ミューシャ at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年01月29日

生命力

最近の記事で「孤独死」というタイトルで、母方の伯母の死について思うことを書いたが、その見解は間違っていた。

娘夫婦と一緒に住み、家族の絆は強いものであった。お互いが思いやりの中にいた。気を遣いすぎるほどに、相手のことを思いやる。おそらく、普通の家庭よりも家族というものの存在は強かったのだろう。

だから、迷惑をかけたくないという想いが優先してしまった。それと共に、自分の力で人生を開拓してきたという自尊心も大きく、年と共に次第に何も出来なくなっていく状態に耐えられなかったのかも知れない。
もし家族の手を煩わせたくなければ、どんな贅沢な老人ホームへも入ることが出来たにも関わらずにである。

が、伯母が脆くなり始めたのは、最愛の伴侶と死別してからである。大恋愛の末結ばれて、まさに一心同体のような夫婦であった。夫との死別から数年後の決断。

最後まで気高くありたいという思いは強かったのだろうが、それは残された家族や姉思いの母には深い傷跡を残した。
なぜ、その年になって自らの命を絶ったのか。どんなに迷惑をかけられても、死なれるよりはましなのである。

自殺という死に方は、残された人々にどれほど深く辛いものを残すことだろうか。やはり、それは自分可愛さだけの自分勝手な行為でしかない。

母の母親は、自分の死を予感してか、身の回りの整理をして、綺麗に身支度を整えてから一切食事を受け付けなくなった。そして、その数日後に亡くなった。しかし、高齢であったため、それも潔いものとして受け入れられた。

母のもう一人の姉は、病魔に冒されていたのにも関わらず、自分が動けるうちは痛みを堪えて普通の生活をしていた。そして、とうとう動けなくなって病院へ行ったら末期癌と診断され、それから間もなくして亡くなった。別居していた息子夫婦は、ほとんど手を煩わされることはなかった。

その姉の伴侶もそれより数年前に病死で亡くなったが、治らぬ病と悟ったのか、生命保険を家族へ残そうと期限に間に合うように自らの命を縮めようとした。とても夫婦愛と子どもたちへの愛の強い家族であった。

母方の系統は、ほとんどがそんな流れになっている。自己犠牲を厭わないが、何かが間違っているのではないかと。気高い死に方という言葉も似合うかも知れないが、でも、何かが間違っているのではないか。

与えられた命。それを大切にすることは当然のこと。
でも、頭で分かってはいても、知識として分かっていても、それでもその時になったらどうなるか分からない。
知識なんて、所詮知識でしかない。
ああ、だからシュタイナーは、知識や認識を生命力に変えることが大事なことだと言っていたのかと、ふと納得してみたりする。
知識としてではなく、そういうものを生命力に変えるには? 

家族が大切であればあるほど、家族愛が強ければ強いほど迷惑をかけたくない。
それは母も同じだろうし、私も同じである。もし、迷惑をかけてしまう状態へとなったなら、やはり知識としては分かっていても同じことを選ぶかも知れない。
夫もそうである。もし、自分が迷惑をかけるような状態になったら死ぬという。
同じ傾向を持つ人間を、人は無意識のうちに選ぶのだろうか。そういうところへ生まれて来るのだろうか。

知識は、所詮知識にしかすぎない。なんの生命力も強さも、実際は伴わないのかも知れない。知識や認識を、溢れいずる泉のような生命力に変えなければならない。
そして、私はプライドを捨てる努力をしなければならない。
posted by ミューシャ at 21:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年01月27日

言霊の神器

前々回の記事、『感情的な在り方をしている意志』の続編のような内容となるが、『霊界物語』第三十第十一章から抜粋。


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言霊の妙用は一声よく天地を振動し、一音よく風雨雷霆(ふううらいてい)を駆使し叱咤する絶対無限の権力あれども、これを使用する人々の正邪によりて、非常なる径庭のあるものである。

昨日までバラモン教を開き、誤りたる信仰を続け、心は拗け、魂は曇り、言霊の曇りたる者は、如何に完全に、能弁に善言美詞を述べ立つればとて、万有一切に対し毫末も、その感動を与へざるは、実に神律の厳として冒すべからざる所以である。

また魂よく研け慈愛に富み、心中常に寛容の徳ある捨子姫の言霊は、前者比して極めて簡単なものであった。されど暴漢無道の醜の大蛇も、厳として動かすべからざる捨子姫の、清明無垢の臍下丹田より迸(ほとばし)れる、万有愛護の至誠より出たる言霊には、いかに頑強なる邪心といへども、到底これに抵抗するの余地なく、やうやく心和らぎ、浪静まり、雨は止み、あたりを包む黒雲も次第に、言霊の権威によって払拭されてしまったのである。

これにしても神界の最大重宝たる言霊の神器は、混濁せる身魂の、容易に使用し得べからざることを知るであろう。あヽ惟神霊幸倍坐世。

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これは、もと高照山のバラモン教教主であった石熊が大蛇に向かって言霊を発射したが不結果に終わり、その後、素盞鳴大神の娘の末子姫の侍女である捨子姫が言霊を宣り、大蛇を鎮めた描写に次いで書かれたものである。

また、このようにも書かれてある。
『捨子姫の言霊は極めて、簡単なれども、天授の精魂清らかにして、一点の汚点もなく、暗雲もなく、真如の月は心の海に、鏡のごとく照り輝きゐたれば、その言霊の効用著しく現われて・・・・』

捨子姫の大蛇を言向けや和す言霊のなかには次のような一文がある。
『天津御空もいや高く 翔りてこの世を守るべき 汝が身は実にも皇神の 珍の御楯と選ばれし 尊き身魂にあらざるか 森羅万象ことごとく 永遠無窮の生命を 与え助くる言霊の 神の御水火を諾ひて 一日も早く片時も御池の波を掻き分けて 天津御空の生神と 返らせた玉へ三五の・・・・』

たとえ大蛇であろうとも、本来は神から生まれた尊い命であることを確固たる信念として保持しているということ。そして、こういう思いというのは、まさに母なる大地としての生命の賛歌から湧きいずるものであると思った。

だからこそ、意志とは感情的な在り方をしていなければならないし、その意志は感覚を育成することから研かれていくのだと思うのである。

一点の汚点も、暗雲もない状態へとするには、まさに意志を働かせて向かわねばならないのである。


ということで、なんと、この記事はこのブログにおいて500回目の記事でした。おめでとう!(あ、自分で言っても仕方がないか・・・。)
ますます、がんばっていきたいと思います。
posted by ミューシャ at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年01月26日

映画『あなたを忘れない』

今朝、日常の忙しい最中に、ふとした瞬間、テレビから流れる映像の中にすっぽり嵌った。
映画のワンシーンだった。心の中。愛で満たされた心の中に入り込んだ時の感覚。
暗いけれど、あたたかなときめき。

そういえば、かつて、よく高田馬場にある映画館へ行ったな。古い映画が二本立てとか三本立てで安く見れた。気が向いたとき、ふらーっと一人で。
心・・・故郷? 良い映画は、その映画の心の中へ引き込む魅力を持っている。映画という心の中で同じ時、同じ空間を生きれる。それが、心地よくて。

そんなことを思い出させてくれた今朝のワンシーン。
『あなたを忘れない』 明日から上映が始る。
2001年1月26日にJRの新大久保駅でホームへ落ちた日本人を助けようと飛び降りて亡くなってしまった韓国人留学生、故李秀賢(イ・スヒョン)を描いたストーリー。
彼の大きな愛と勇気。その時、写真も流れたが、なんとあたたかないい笑顔なんだろうかと。
国境を越え、一人の人間としての美しさや偉大さを教えてくれるかのよう。

私は思った。日本人として、また国境とか関係なく一人間として、彼の笑顔や思いを無にしてはいけないと。
そして人としての気高さを持つことが、李秀賢のような人たちの犠牲を良きものへと生かすことではないかと。

久しぶりに、映画の心の世界という空間を思い出させてくれたワンシーン。生きた心。愛の気高さの中へ・・・・。
posted by ミューシャ at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

感情的な在り方をしている意志

霊界物語第二十九巻第四章に、天教山の木の花姫が、鷹依姫一行の執着心を払い、誠の宣伝使となるための計らいとして、禿げ頭の化け物を出現させた時、鷹依姫は化け物を成仏させようと祝詞と神言を奏上した。
このとき、それを聞いた化け物は次のように言い放った。

『なにほど結構な神文を唱へてくれても、お前の心に、執着心といふ鬼が潜んでゐる以上は、その言霊が濁り切ってゐるから、解脱どころから苦しくてくるしくて、ますます迷ひが深くなるばかりだ。』


祝詞や神言というものは、確かに一点の曇りもない状態で奏上しないと磁場が乱れる感じがする。
反対に正しく奏上できている時は、天津金木がきちんと組み立てられていくような感覚がある。


シュタイナー書籍からの抜粋。

* * * * * * * *


霊界においては、この世におけるような仕方で認識内容を集める必要はありません。大切なのは、そのような認識内容をむしろ減らすこと、言い換えれば、認識力を生命力に変えることなのですから。

霊界においては、この世における研究者であることはできません。研究者であることは、あちらの世界ではありえない態度です。
なぜなら、知ろうと思えば、すべてを知ることができるのですから。すべては自分の周りにあるのです。

大切なのは、知識や認識を持とうとする意志と感情を発達させることです。個々の場合に応じて、必要な叡智を活用する力を、自分の意志の財宝の中から取り出すことなのです。
そうしませんと、私たちは叡智の海の中で窒息し、溺れ死んでしまいます。

ですからこの世においては思考の能力が大切なのですが、彼方の霊界においては意志の育成が、感情的な在り方をしている意志の育成が大切なのです。
叡智の中から現実的を作り上げる創造的な力でもある意志の育成がです。

この世の私たちが周囲に自然を見出すように、霊界にいる私たちは霊を周囲に見出します。そしてその霊と自然とを結びつける作業が、私たちの課題です。

* * * * * * * * 



祝詞や神言は、霊に対してのもの。だからこそ、正直に、正しく、純粋に、素直に、謙虚に、真摯に奏上しなければならない。

シュタイナーは、「感情的な在り方をしている意志の育成が必要」だと述べているが、そこからも、如何に霊界というところが豊かな感情で包まれているかが伺える。

現実では目に見えないもの ――心、魂、霊など―― ほど繊細な感情から成り立っている。
そして、そこには意志というものの介在が無ければ正しく流れてはいかない。

また、この世での認識力を生命力に変えるということは、霊魂の存在は永遠であるから必要なことであり、弾け飛ぶような生命力が求められる。そして、霊魂は生長し続けねばならないということ。

その霊魂というものから発せられる祝詞や神言。そう、祝詞などは霊魂から湧きいずる泉のように奏上されなければならないのである。だからこそ、自分の精神や心のあり方が問われるし、感情的な在り方をしている意志の育成が必要となるのではないだろうか。

昨今、宗教家や宗教に携わる人間たちは多いが、その中のどれほどの人間が霊魂の生命力に気がついていることだろうか。
そのことを感じられる者は、決してほんの少しの邪なことすら出来ないはずなのである。
肉体を持って生きているうちに、意志力と感情を育成したいものである。
posted by ミューシャ at 00:19| Comment(9) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年01月24日

注目する宮崎県の動向

談合事件で揺れている宮崎県知事に、そのまんま東 こと本名 東国原英夫が当選した。
当選した背景には、東国原の明確なマニフェストがあったからではないかと言われている。
また、古い体質にある県政に対して、いかに県民が不満を抱いているか、そして新たな期待を寄せているかが伺われる。

そこで思い出すのが、長野県知事選。長野県議会は当初から脱ダム宣言で当選した田中康夫への徹底した対抗及び妨害意識で動ていた。
なぜ、田中康夫を県民が選んだのかを無視した言動。もっと、長野県民は怒ってもよいのではなかっただろうか。県民が選んだ知事に対して、議会や県庁職員たちの多くは徹底して対抗戦にでていたわけであるから。
もし、議会が県民の意識を大切にし、協力体制でやっていたなら、長野県ははるかに改善していたであろうに、非常に醜い議会及び県庁職員の在り方を見せられた。
また、田中康夫が落選してからは、田中康夫が改善してきたことをことごとく元の状態に戻してしまっているようだ。

そういう意味でも、今回の宮崎県議会の動向が注目される。今のところ長野県のように敵対意識むき出しで潰してやろうという流れは見受けられないが、宮崎県議会及び宮崎県民の意識の高さが注目されるこれからとなるだろう。

また、これで宮崎県が東国原県知事の下、完全な協力体制で体質改善がなされたとしたら、当然、宮崎県の評価は上がるだろうし、そのことによって長野県を始め汚職などに揺れ動く他府県への影響も多大なものとなるだろう。
非常に、注目して見ていきたいと思う。

それから、関係ないかも知れないが、ヒガシコクバルという読み方。原をバルと読むのは沖縄県共々普通のことだという。
「バル」。この言霊は、最近、よく耳にする。ハルとバル。
posted by ミューシャ at 11:57| Comment(0) | TrackBack(1) | 世相 | 更新情報をチェックする

印象

外から入ってきた印象を、自分の中へ蓄えるということについて、シュタイナーはエーテル体にその印象を刻印づけることについて次のように述べている。



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魂の中での私たちは、まず外的印象を持ちます。感覚的に働きかけるのです。

それから私たちは魂の中で、この外的印象を消化します。

しかしそれだけではありません。私たちはこのようにして受け取った印象をいわば自分の中に蓄えるのです。

単純な記憶内容を考えてみてください。数年前に経験した何かを思い出してください。外的知覚の基礎の上につくられた印象を魂の下地から取り出すのです。或る樹木や或る匂いを思い出すことができるのは、魂の中にその印象を蓄えていたからです。外からの印象が魂によって消化され、記憶として蓄えられたのです。


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自我によって獲得され、アストラル体によって消化された印象を、エーテル体の中に刻印づけなければならないのです。

心臓を通して流れる血液は人間自我の物質的表現なのですが、自我が外界に応じて印象を受け取り、それを記憶表象にまで濃縮する際、血液は単に働いているだけでなく、特に上のほうに向かって、下の方に向かってわずかですが、上方のいたるところでエーテル体を刺激しています。

ですからエーテル体はいたるところで流れを生じているのですが、その流れは心臓から出て頭の方へ流れる血液に結びついた流れ方をしています。そしてそのエーテルの流れは頭の中に集まり、そしてまるで電流のように、一方の先端と他の先端とで陰極と陽極のように対峙するのです。

オカルト的に訓練された眼でこの点を見ますと、まったく激しい緊張のもとに、エーテルの力が働いているのが見えます。


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この激しい緊張感というものは、意識すればするほどなぜか感覚をよりシャープにするようだ。
その瞬間瞬間において両極が対峙するようなものであるからこそ、記憶が生き続け、呼吸するるものとなっているのかも知れない。

そして、感覚を研ぎ澄ませるには、豊かな感情が必要だ。心が醒めていたり、愛する気持ちが欠けていたのでは、エーテル体は消耗するだけのぶつかり合いとなる。

人は同じ風景を見ても、それぞれ感じ方が違う。眩いばかりの光景として印象に残る人もいれば、ただそこにあるだけの何の変哲も無い光景だと思う人もいる。

自我の育成は、まず愛の心を養う努力をしなければ始らない。それも自己愛ではなく、他者を大切に思う人類愛が基本。私は、そう思う。
すべてが、生きているものであるが故に。
posted by ミューシャ at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年01月22日

孤独死

人は、やがていつか死ぬ。
前向きの状態で死ねるのが一番いいが、悲しみの中の死ほど考えさせられるものは無い。
しかも、そういう傾向がその代々の家系に流れるものであったとしたら。

才能にも金銭的にも恵まれているのに、家庭的な何かが満たされずに孤独の中に落ちていく。
あれほど幸せな時期もあったのに、連れ合いを亡くしたとたんに狭い世界へと吸い込まれていった。

伴侶だけを見つめ続けた故の成り行き? 家族の絆をいかに形成していくか。たとえ貧しくとも、家族の絆を強いものとして創り上げることこそ幸せなのかも知れない。

昔はあたりまえだったこと。そして今でも、原住民や山岳民族などは家族愛を大切にしている。

あれほどまでに有り余るほどの贅沢の中に囲まれ、溺愛するほどの孫にも囲まれていた。老後の保障も確実なものであったのにも関わらず、寒い夜、たった一人だけで死を選んでしまった伯母の心。高すぎた自尊心。
posted by ミューシャ at 20:48| Comment(0) | TrackBack(1) | 呟き | 更新情報をチェックする

地震雲

今日の午前2時半頃に地震があった。震源地は福井ということだった。
私は、19日の夕方に、西の空から伸びているあの奇妙な地震雲を見ていた。
2006年1月17日の記事に写真をUPしてあるが、そのときの雲と同じ形であった。

それにしても、去年からよく見かける形態の雲。誰に目にでもわかる形で生じるということに、少々不気味さを感じる。
ただ救いは、その雲が発生してからすぐに地震が起きるのではなく、2,3日の猶予があるということ。
posted by ミューシャ at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年01月21日

国の宝

大学センター試験が昨日今日と行われた。
しかし、思うのである。今の日本の状況では、あまりにも離婚家庭が多く、夫の側が養育費を払わないケースも多いという。
また、交通遺児などの親を失った子どもたち。

なぜ、日本は先進国の仲間入りを果たしているのに、教育体制が整っていないのだろうか。あまりにもお粗末な政治。
勉強したい人なら誰もが皆、安心して勉強が出来る環境を用意すべきではないだろうか。

奨学金制度というものもあるが、それさえ受験できるところまでいくことが出来る環境にある人でなければ得られない。本当に金銭的に余裕のない人は、どんなに勉強したくとも試験さえ受けることが出来ないのである。

向学心のある人、目的を持った人を重用することはとても大切なこと。ただたんに目的もなく進学して、無駄に時を使い果たす人間よりも、前者のような人材をバックアップすることが日本という国を維持し、発展させることに繋がる筈である。

私の夫は、特別奨学金とアルバイトだけで大学を出た。父親は村会議員などを経て村長であったが、山は幾つも持っているものの、個人の利益を省みず、村のため人の為に日夜働いていたので、人望は厚くても金銭的には大変であったそうである。
そこで、高校は家から離れた進学校へ進んだが、姉と二人でアパートを借り、三年間新聞配達をして家計を助けていた。

また、これはけっこう最近の話であるが、やはり家計が苦しいところの子どもであるが、希望していた大学に落ちたものの、どうしてもそこで学びたくて、一年、住み込みのアルバイトをしながら予備校へ通い、見事合格した人がいる。その人も親からの援助は一切受けずに奨学金とアルバイトだけで大学院まで出て、その後その大学で助教授となった。

だから、本当に勉強したという人間は頑張れるが、これもやはり男だからできること。女であれば、いろいろと難しい現実が立ちはだかるし、ましてや孤児ともなると、受験費用から工面しなければならないという問題が生じてしまう。

国は早急に、学びたい人は誰もが学べる環境を整える必要があるのではないだろうか。
政治とは何であるかというなら、それは国民が幸せになるための政治でなければならない。
不公平な世の中が続くのは、政治家たちが利己的な欲にまみれているからに他ならない。人間を一番に大切に出来ない政治は政治とは言わない。
安倍総理も教育改革をうたい文句にしているのであるから、教育体制を全般的に支援できる体制をも整えて欲しいものである。

未来を担う子どもは、国の宝である。
posted by ミューシャ at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

観月

シュタイナーは、人間に宇宙から働きかけてくるものを次のように述べている。


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もっとも強力な太陽の働きは、肉体に対して働きます。もっとも強力な月の働きはエーテル体に対して働きます。もっとも強力な水星の働きは感覚体に対し、もっとも強力な金星の働きは感覚魂に対します。もっとも強力な火星の働きは悟性魂に、木星の働きは意識魂に、土星は霊我に対します。そして今日の人間の場合、まだ育成されていないものに対しては、天王星と海王星が働いています。この二つはあとから太陽系に加わってきた遊星で、正常の状況では出生時にそれほど大きな影響を与えません。

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また、月は遺伝のすべてにも関与しているという。

日本にはお月見という風習があるが、その時にはススキとか月見だんごなどをお供えする。
知ってか知らずしてか、月にお供えをしているのである。
観月。その宴を楽しむ心。

久遠の彼方から、流れ流れてきた先祖の想いへの感謝の気持ち。
凛とした空気の中で、静かに観照する清けき月。
その月の光をからだいっぱいに受けて、生命の歌を響かせるのである。
posted by ミューシャ at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

教え〜供犠

霊界物語第二十八巻に次のような描写がある。

日楯の女房と、照代姫、八千代姫の三人が大蛇にすでに半身食われ、声の限りに叫んで救いを求めていた。いずれも助けるのに一刻を争うほどの状態。
そこで、日楯は迷う。自分の妻をまず救おうか、それとも他の二人を救おうかと。

結局、日楯は、まず八千代姫、照代姫を救うことこそ、人たる者の行うべき道だと決心する。


また、このような描写もある。

金毛九尾の悪狐の化身であるセールス姫たちに占領されている泰安城へ、真道彦尊の息子である日楯と月鉾が、幽閉されている父とヤーチン姫を救出に向かう。
ここでも、救う順番ということに目がとまった。

いくら実情を知らなかったとはいえ、セールス姫たちが泰安城を占領する前に、父である真道彦命を幽閉した憎きカールス王を最初に救い出し、次にヤーチン姫を、そして最後に父を救い出している。

この二つの場面のどちらも、最も愛する者を後回しに救出しているのである。
これは、まさに清き供犠と言えないだろうか。本来なら、愛する者から救いたいのが正直なところであろう。
しかし、最も愛している者であるからこそ最後にしているのだ。

そこにあるものはなんだろうか。愛している故に、大切にしている故に最後にする流れ。
絶対的な信頼関係で結ばれているからこそ出来ること。そして、神に委ねるという達観への誘い。

イサク献祭。私は、ここにその精神を伺い見た。

私は子どものころからずっと、母から躾と言うのか教育と言うのかそんな感じでされていたことがある。
それは、友達などと一緒にいると、母はいつも友達を優先させて、私を後回しにしていたのである。
また、何かいけないことをしたときは反対に、まず最初に私を叱り、次に友達に注意を与えるか、もしくは何も言わない。

気がついてみれば、私も同じように子どもに接していた。
自分の子どもを優先させる方がどれほど気持ちが楽か知れないが、それでもそうはしない。

こういった態度は、昔は普通のことだったと思う。しかし、今では自分の子どもさえよければそれでいいという親が多い。
うちの子に限ってという現象も、その現われの一つ。

昔の教えは、他者を大切にするという精神を幼い頃から自然と身に付けさせていたのである。
他人を優先させるということは、礼節を持つことであり、大切に思うこと。そして、こういう状態の中では忍耐というものも学んでいる。

だから、こういう躾が薄れてきた現代が荒廃するのは当然のことなのである。
一見、不条理に思える事柄でも、昔の人たちの智慧は尊いポイントを踏まえているものである。

また、自分にとって最も大切な者を後回しにするという状態は、まさに神に捧げる供犠以外の何ものでもないと思う。
こういう供犠があるからこそ、天使存在も動けるのである。そして、それは個人だけのことに留まらずに、宇宙生成の中に組み込まれる大切な要素でもあるのだ。
posted by ミューシャ at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年01月19日

誤解

霊界物語第二十八巻の巻末にある「跋」から抜粋。

『他の誤解を釈(と)く必要あるはさることながら、それにもまして、もっとも大切なるは、他を自分から誤解せざることである。また今日の世界の状態に対しては、誤解せないように努むるのが、最も重大なことである。すなわち兵家の所謂(いわゆる)、よく彼を知ることが肝心である。孔子は人の己を知らざるを患へず、人を知らざるを患ふ、と言った通りである。」

誤解ということは、よくあることのように思う。自分ではこうだと思っていても、その視点が良くも悪くも個人の基準が中心となってしまうからだ。
また、ある一つの側面からしか見えていない場合も往々にしてある。

聖書にしても、シュタイナーは四つの側面から見ることが出来るため、同じことでも書く人にとって違ったものとなっていることを述べていた。

また、身近なこととして、ある人物評価の場合でも、やさしいという人もいれば、怖いという人もいるだろうし、いい人だと言う人もいれば、悪い人だと言う人もいる。評価は、必ずしも一定しているわけではない。

昨日の記事の中で関西人について書いたが、これは一個人が感じたことであり、他にも違う感想を持つ人々もいるだろうし、または、実際に住んだ場合と、ただ短期間遊びに訪れるのとでは、これもまた違う感想となるだろう。
そしてまた、たまたま嫌なことに遭遇したのと、良いことに遭遇したのとでも全く見方は変わってくる。
だから、総合的に多角的に見れる努力をしなければならない。

でも、正月の福袋。平気で中を覗いて袋を破ったり、中味を入れ替えたりするのは関西人だけの傾向だとのこと。
やはり、もっとモラルをもって欲しいとは思うし、順番というもは守るのは当たり前。

だが面白いことに、こちらが忍耐強く且つ品良く接すると、けっこうこちらのペースになって同じ感じになる人も多いのが関西。そういう意味では、人がいいのかも知れない。
まあ、どこでも良いところもあれば、悪いところもある。どうせなら、良いところだけを欲張りに吸収していきたいと思う。

また、ほんとうによく聞く、関西人の標準語への抵抗感の声。しかし、そんな関西の何人もの人々から言われた。きれいな声ね・アナウンサーの仕事をしていたの?と。
そう、きれいな声と感じてくれるなら、標準語って素適だなと思ってくれるような話方が出来るように研究し、努力してみようと。それこそ、霊界物語を読み終わったら言霊の練習でも本格的にしようかなと思ったのである。負けてたまるか。これが私の気性。(笑)
posted by ミューシャ at 20:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年01月18日

自由意志と謙遜

シュタイナーは、霊的修行においての危険性の一つを次のように述べている。

『魂が体から離れたなら、元素界から良い影響のみが流れ込むように配慮しなければならない。――この点に注意しないと、超感覚的世界への入り口を見出したにもかかはらず、肉体的に、道徳的に頽廃することになる。

魂が高次の領域に生きている間、肉体とエーテル体に有害な諸力が巣食う。霊的な進化への努力を始める以前には魂の均衡作用によって抑制されていた悪い性質が表に現われるのである

善良で、道徳的だった人物が超感覚的世界に参入すると、様々な低級な性癖、我欲、不誠実、復讐心、怒り等が現われてくるようになる。』

この述べるところは、非常に怖いところであるが、彼はそうならないためには、意識的に徳性を形成することによって、元素界からの悪影響を断つことができると語る。
そして、最終的には、「自由意志」が問題となり、またその「自由意志」を獲得するのは極めて困難であることを述べている。

「自由意志」は、魂の中で外部からの影響と自由とを調和させることによって得られると言うが、確かに、人間の複雑さを見させられるような感覚に囚われる。

生きながらにして昇華させていくとう過程において、それはなんか、死後に直面させられる人生のパノラマと似通っているように思う。

ただ一つ言えることは、謙遜を忘れずに謙虚であることが、こういった霊的修行には絶対に必要不可欠なものであるだろうということ。
これが養われていない霊的修行者は、ある段階まで上ったとしても、落ちていかざるを得ない。
実に理に適った法則である。
posted by ミューシャ at 23:57| Comment(9) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

たまたま起きたこと

たまたまあったこと。たまたまの偶然。そんな、たまたまということが重なる時。

大阪を中心にした関西圏なら、家を購入するならどこでもよかった。
たまたま選んだ土地。たまたま選んだ家。たまたま子どもを通わせることになった学校。たまたま一緒になった隣人。

たまたま酷い管理体制の小学校。たまたま酷い教師との出会い。たまたま腐りきった教育委員会。たまたま悪意と嫉妬に満ちた隣人の酷い嫌がらせ。たまたま殺伐とした地区の保護者たち。そんな中、たまたま他の保護者たちから死に追いやられた母子家庭の母親の様子を見させられた。たまたまそれを見て見ぬフリをしていた学校。たまたまルールを守れない保護者たちのグループ。たまたま詐欺行為をした自治会長の地区。たまたまマンションの積立金を崩した名誉欲に駆られた理事長がでて、たまたまそれを隠蔽する為に帳簿の改竄をした次期理事長がでたマンション。たまたまやたら喚く人を見かける町。たまたま道路交通法を無視して走るオートバイが多い地域。たまたまずさんな体制の郵便局。たまたま免許証を他人と間違えて記録している警察署。たまたま3日も消費期限切れのプリンを置いていたり、しばしば袋詰めの果物に腐ったものを混入させているジャスコのある町。たまたま・・・・。

そんなたまたまに、出会った町。この町を選ばなかったなら、これらのたまたまはなかったかも知れない。この町で、初めて経験することばかりのたまたま。

あれから、学校の立て直しは図られた。マンションも地域も変わってきた。私たちを取り巻く人間関係も変わった。すべては良い方向へ流れ始めた。今は、個人的にはほとんど問題はない。

しかし、どうしてもこの町を好きになれない。関西人さえ苦手である。関東以北で生まれ育った私には受け入れられないことが沢山。
電車などに乗るとき、降りる人がいるにもかかわらず乗り込んでいく人は多く、利害関係にせせこましく、少しでもただで得をしようとする精神。ずるいと思う人が多く、自分が悪くても、なんとか相手のせいにしようとするし、言い訳をする人が多い。

私は、関西から出て行きたいが、子どもたちも夫も関西が好きである。関西人が好きである。
でも、私はこの町で疲れ果てた。守るために、自分の全てを使い果たしたような気もする。そして、心が堅くなったような気がする。だから、関西人には心が開けなくなった。ほんの少しのずるさを感知しただけで、もうその人から遠ざかりたくなる。計算高く寄って来ないでよと。だから、関西人である私の友人たちは、私の顔色を伺うことが多い。

しかし、やはり、それでもいい人々はいたし、いる。どうしても関西以外の人と関西人とでは、自分自身の受け入れ方に差が出るが、これは克服していかねばならない課題。

たまたまの偶然が重なり、たまたま初めて経験することが起こった。でも、たまたま私はここに存在した。

だが、この地域全体は好きになれないが、不思議なことにたった一つの道だけ好きなところがある。
その道を車で走ることはしばしばあるが、なんか懐かしく、あたたかく、幸せに満ちるのである。
血塗られた歴史のこの土地で、唯一希望に弾ませて生きた頃の前世の記憶。

たまたま起きた偶然の、幾重もの事柄は、必然であっただけのこと。呼び戻された土地。

そして、私は女でも妻でも娘でもなく、母親でありたいということが全てである。子どもたちが大人として自立するまでは、良き母親でありたい。
子どもたちを立派に育て上げることが、私の仕事である。だから、子どもたちの犠牲となることは厭わない。
人を傷付ける言動をしたり、そんな精神の持ち主には決して育てたくない。神に対して顔向けできない子どもには育てたくない。
立派な大人として成長させて、再び神に託したい。
それが、私の仕事である。
posted by ミューシャ at 00:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年01月15日

鎮魂歌

冬は、夜空を見上げることが多くなる。
銀色に輝く星々の饗宴。
高く、高く、遥か彼方から訪れる記憶の光。

だから、見上げたその瞬間、私の心は夜空へ吸い込まれる。
幸せで、せつなくて、心地よくて、
そして、哀愁の鼓動が静かに高鳴っていく。

子どもの頃、よく真夜中のベランダに出て夜空を見ていた。
晴れた日でも、雪の降りしきる日でも・・・。
家々の明かりは消え、街灯の明かりだけが雪に包まれた世界を照らしている。
そっと息づくかのような雪の精。

私にとっては、星も雪も、空からもたらされるものは同じだった。
だから、雪降る日でも、雲に覆われた向こうに星が見えていた。星を感じていた。

次第に身体は冷たくなっていくのに、心は満たされていく。
そして、透明になるその感覚がとても心地良かった。

銀色に輝く星の剣で、穢れたものを削ぎ落としていく。
穢れた世界からの脱出。
清まった中にいたいという無意識の願望が、きっと心を支配していたのだろう。

そして今、私には汚れたものや穢れたものは不必要なのである。
現実を直視するということは、穢れたものに触れるということでも染まるということでもない。
その泥濘の中に、それでも僅かにある清いものを見つめるということなのである。

だから、私は冬の夜空に輝く星を見て、それを目の中に入れるのである。
それが、たぶん、私にとっての星への鎮魂歌。
posted by ミューシャ at 22:07| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年01月14日

和知の川

今日、かなり久しぶりに出口王仁三郎のCDを聞いた。このCDは、王仁三郎が大正時代にSP盤に残した祝詞奏上ライブを、アンビエント・ミックスしたものであるとのこと。なかなかの一品である。

最初聞いた時は、まだ、霊界物語を読み始めるかどうかという段階であったが、天津祝詞奏上が、こういったサウンドとマッチすることに驚いたものであるが、それでも何かすーっと入ってくるようで心地よかった。

そして、今回は、また違った感銘を受けたのだ。
なんだろうか、こう、プロデュースに関わった人々の中に、再び王仁三郎が甦り、まさに一緒に創り上げたというような感じを受けた。だから、深海のようなすごい深みというのか・・・・。まさに、「流れ流れる 和知の川」という一節が口から飛び出した。

シュタイナーは、音楽ということについて次のように述べている。

『音楽の場合、神界が地上の中へ響き入ります。音楽は、神界の音の表現です。(略) 人間のエーテル体のなかには、神界の音の模造があります。人間が自分のかなに形成したエーテル体は、神界の振動に貫かれています。』

王仁三郎の祝詞奏上の声。そこには一点の曇りも無く、素晴らしい粒子が躍動しているかのよう。

私の中で、いろいろな構想が浮かんだ。鏡の部屋のように王仁三郎の声を反響させるようなアレンジも素適だし、雅楽と合わせてもいいと思うし、ラップやジャズ音楽のようなアレンジもいいなとか、透明な女性の声や、あるいは多くの人の合唱をバックにもってきてもいいし、ハープやピアノ、ギターも合いそうだなとか・・・・。

どこかで、もっとそんな音楽を作ってくれたら、どんなに最高だろうかと思う。

ん? そうか。霊界物語の中には歌がよく述べられている。ということは、やはり、これからは音楽の時代? などと、勝手に希望を膨らませるのであった。
posted by ミューシャ at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

男の美学・女の美学

霊界物語第26巻の巻末に書いてある、「跋」から抜粋。

* * * * * * * *


述ぶるも悲惨の極みなれど それの経緯の大略を 月照彦の御守りに 写す神代の語り草 花も実もある三五教の 尊き神の大精神 うまらに具(つば)らに汲みあげて 水の御魂の神業に 仕へ奉らむ信徒の 一人も多く生れかしと 祈るは瑞月のみならず 国常立の大御神 豊国主の大神の 仁慈無量の御心ぞ 卑近な文句言の葉も 婦女子小児になるべくは 徹底させたき真心ぞ 如何に名文卓説も 数多の人に解らねば 夏木に囀る蝉の声 何の効果もあらざらむ

 * * * * * * * * 


以前、霊界物語を読んでいて、女性にこそ読んでもらいたい書であると思った。それは、物語の中の立ち居振る舞いとか、心の有り様などから学ぶべきことが沢山あると思ったからだ。
そうしたら、今日、読んでいた第26巻の巻末に書かれてあったものだから、ある意味、驚いた。

しかし、今の男女同権において、「婦女子小児には・・・」という言い方には、少し反発も覚えるが、それでも、確かに女性として教えられることは多々ある。

特に、昨今は女性や子どもの言動も見るに耐えないものとなっている。乱暴な言葉遣い、目上の人に対する礼節の無さ、やたら人を傷つける言葉の乱用。
本来なら、男性がそういう言動の時、女性が嗜めたり悟らせたり、あるいはクッション役となるものだが、そういうことが失われてきている。
その結果が、この殺伐とした現代を生じさせている一因のようにも思うのだ。
そして、そういう女性が母親となったとき、母親は子どもを躾しなければならないが、自分が醜い言動をしていたのでは決して子どもの躾など出来ないのである。

男性としての美学、女性としての美学、それはいくら男女同権と言っても、それぞれ異質なものなのではないだろうか。
だからこそ、男性は男性として、女性は女性として確立されて行かねばならないのだ。
posted by ミューシャ at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年01月12日

厳御霊〜供犠

霊界物語を読んでいて思うのだが、『厳御魂』というのは、シュタイナーの語る『供犠』に対応するのではないかと思える。

第二十六巻にも、このようなことが書かれてある。

『秋山彦の真心や 言依別が供犠の 清き心を永久に 五六七の神世の礎と 神の定めし厳御魂 実に尊さの限りなり』

また、この文面の前には、次のようにも書いてある。

『木の花姫の生御魂 三十三相に身を現じ 世人あまねく救はむと 流す涙は和知の川 流れ流れて由良の海 救ひの船に帆をあげて 尽くす誠の一つ洲』

ここからは、天の教えや根本原理・神力という瑞御魂――私は、これを木の花姫の生御魂と捉えた――を、厳御魂である(人類の魂やそれぞれの働きの場で示される)、清き心を供犠とすることによって五六七神世となるのかなと思った。

また、このようなことも書かれてある。

『瑞の御霊の麗しく 厳の御霊の影清く』

供犠というものは決して表立ったものではなく、あくまでも内面的なものが大切であるし、その精神・心が重要なこと。
影清くという表現は、まさに内面に輝く銀色の剣を連想する。

だから、高姫が、厳御霊である変性男子に拘っている姿を描いているということは、内面的な心情の変化こそが行われなければ何にもならないということを示唆しているのではないだろうか。
そして、そうなるには瑞霊である天の教や根本原理というものを中心に、正しく実践していかねばならないということでもある。

神をどう捉えるか、神の願をどう受け捉えるのかは重要なことであり、やはり無神論者や欲望に翻弄されている人間、あるいは固定観念に縛られた偽信仰者には、かなり難しい道であるのかも知れない。
posted by ミューシャ at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする