2007年02月28日

鏡像の世界

シュタイナーは、自我の神デュオニソスについて次のように語っている。


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私たちの自我は、私たちの周囲のすべてと内的な結びつきを持っています。実際、私たちは自我と共に、宇宙の中に置かれています。私たちの運命、私たちの幸、不幸は、私たちの周囲にあって、私たちの自我に働きかけてくる宇宙の経過と結びついています。

少し考えてみれば分かるように、私たちの肉体の力は、外なる空間に広がっているプルートーの力とはまったく似ていません。

しかし私たちの自我の運命が環境と深く結びついているように、この自我の力は外なる空間にあって、この自我に対応する神霊の働きと深く結びついているのです。ちょうど他の神霊の働きが私たちの内なる魂の働きと深く結びついているようにです。

私たちの自我体験が周囲の環境とどんなに深く結びついているか考えてみて下さい。私たちの自我は、眼を開いて夜の星空を見るときと、朝焼け、夕焼けを見るときとで、なんと違った感じを持つことでしょう。私たちは自分の自我をそのようなすべてから切り離すことができません。私たちは外なる大宇宙と内的に深く結びついているのです。

私たちは自我によって、周囲の環境の中へ注ぎ込まれています。黄金の日の光、壮麗な星空のように、外から流れ込んでくるものは、あるときは大宇宙の中の外なる対象であり、あるときは小宇宙の中の人間の魂に生じるイメージなのです。実際生活上、この二つははっきり区別されていません。互いに融合しています。

宇宙の奇跡を直接感じ取っていたときのギリシア人は、外なる空間に働く自我の力の代表神を、この人間本性から離れている神々よりも、はるかに身近に感じ取っていました。ですから、外なる宇宙における自我の力を代表する神は、人間本性と深く結びついた神であり、その運命、その生き方が人間的であるような神であるはずです。そしてそのような神こそ、デュオニソスにほかなりません。

プルートが宇宙に拡大された肉体の力の代表であり、ポセイドンがエーテル体の力の代表であり、ゼウスがアストラル体の代表であるように、デュオニソスは自我の中に働く魂の力の宇宙的な代表なのです。エレシウス秘儀におけるデュオニソスは、不思議なことに、最後になって私たちの自我の前に現れます。

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デュオニソスについては、「神々との出会い」に詳しく書かれてある。

我々人間は、鏡像の世界に在る。シュタイナーは、認識の過程で魂の試練ということについても述べているが、その感覚が麻痺していない限り、あらゆるところで鏡の原理を楽しむことも出来、また、苦悩することも出来る。それ故に、霊魂の成長があるのではないだろうか。

「霊界物語」の三十七巻と三十八巻は、王仁三郎の自伝が口述されている。よくもまあ、これだけ霊的現象が起きていたものだと少々唖然としたが、その中でも神罰によって命を失った人のことも書かれてあった。

確かに、神罰ということはあるのだろうと思う。しかし、それは自分の自我の均衡だけではなく他者の自我の均衡も、その人間の悪しきもので崩してしまった為に、宇宙のリズムもそれによって乱れ、その乱れは発信源である所へ帰るという法則下から起こるものではないだろうか。

鏡の世界は、すべて反射の世界。正しくありたいものである。
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2007年02月27日

祈り〜伝承

今日の日経新聞に、ミレーについて、作家中上紀の書いたものが掲載されていた。

偶然にも、つい最近、ミレーの絵を思い出させる光景に出会っていた。
畑仕事をする一人の老女の姿。大地と一体となったその姿は、美しい透明感のある世界を醸し出していた。

中上紀は、次のように書いている。
『彼がこだわり続けた風景、土にまみれ労働する姿に人間本来の美しさを見出した世界に、いやおうなしに心打たれてしまうのは、太古より我々の遺伝子に備わった、すべての命を生み育む大地への畏敬、いや、憧れのせいではないだろうか。』

また、ミレーが子ども時代に愛慕していた祖母は、農作業の際に鐘が鳴るたびに、家族に脱帽させ「気の毒な死者たちのために」祈らせたという。
中上紀もまた、ミレーの描く農民たちの姿は、労働における肉体的な苦しみを超越し、堂々たる気高ささえ見せているとの感想を述べている。

「晩鐘」での農民の祈りの姿は、確かに気高く美しい。
私が幼少の頃、家には「晩鐘」と「落ち穂拾い」、「種をまく人」の絵が飾られていた。その記憶はその後もずっと今に至るまで、鮮明な美しい衝撃となって心の中に映し出されている。

人間には、「祈り」という美しい行為を行なう能力が与えられている。
私はその祈りを気高く美しいものとして行ってきただろうか?
その姿を、子どもたちに教えられてきたであろうか?
いいや、まだまだである。
ミレーの絵を前にすると、自分の未熟さが溢れ出す。
いつになったら、ミレーのような思いに到達できるのだろうか。私は、一つひとつ穢れたものを削っていかなければならない。
そして、思索の旅は続くのである。
posted by ミューシャ at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年02月26日

ごく自然なこと

今日、NHKで「千の風にのって」の特集をやっていた。
訳詩、作曲をした新井満氏が出ていたが、そのさりげなく語る言葉がとても心地よかった。

彼は、この英文の詩に出会ったとき、人生観が変わるほどの衝撃を受けたと言う。
人間の死というものは遠いものではなく、むしろ近くになるものだということが理解できたと。

宗教というものは、いろいろなことを語ってはいるが、その弊害も多い。
しかし、新井満氏の言葉は簡潔ではあるが、すっと心に浸透し理解させてしまう。
絶望ではなく、希望。

また、私は以前から、なぜシュタイナーはブラバッキー夫人から離れたのか理解出来ないでいた。
もちろん、ブラバッキー夫人のことを非難するのではなく、きちんと認めていた。それなのに、なぜ?と。

でも、今は少し理解出来るような気がする。
ブラバッキー夫人の能力は素晴らしいものではあるが、それを中心にしていてはならないということ。
それは、シュタイナーの本を読んでいけば次第に分かることだが、霊能力とか超能力などというものはどうでもよくなってくるのだ。
それを、超越した世界。人間であるなら、誰もが到達できる可能性、希望がシュタイナーにはある。
だから、彼はブラバッキー夫人の元から離れたのだと思った。
posted by ミューシャ at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

受験

国公立大学の二次試験が昨日から始った。学部によって、25日一日だけのところから明日までの三日間の間に終了する。
が、試験が終了したからと言ってそれで楽観できないというのも受験生の忍耐のしどころ。もし、前期が駄目なら後期試験へと臨まなければならないからだ。

子どもを見ていると、センター試験が一番緊張したようだ。もしセンターで失敗すれば希望する国立大学への受験資格が無くなるからである。一発勝負というのは、可哀想な気もする。
また、センター試験では、名前の記入漏れや、受験番号をダブって書いてしまうなどで、せっかく出来ていても0点になってしまうケースが毎年200名〜300名ほどいるという。これも運、不運なのだろうが、実に気の毒な話である。

センター試験が終れば、滑り止めとしての私大の受験。滑り止めと言っても私大としてはトップレベルの大学。国立希望組みでも落ちる子もいるとのことであるが、このときの本人は、いたってリラックスしていた。
センター利用入試でも良かったが、安心感が欲しいということと、受験慣れしておきたいということで全学日程入試で受験。
予定通り合格。入学料相当の金額は、もし国立を落ちたときのための保険料みたいなものとは言え、やはり高いなと思うが仕方がない。

そして、本命の受験。それこそ全国から集まってくる難関と言われる大学。緊張するかと思いきや、これまたのほほんムード。まあ、ここまで来たら、じたばたしても仕方がないというところなのだろう。

昼食の時間が長いのと、一人で食べるのが嫌だからとの思いから、さっそく声をかけて友達を作ったという。
私が、どこの高校の子かと聞くと、かの有名な私学の進学校だとのこと。
それなら勉強一筋で進むのが私学だから、あなたのように公立組みで普通の高校生活をのんびりと送ってきた子とは違うから、話しかけたのは邪魔だったのではないかと言った。

すると、自分と同じようにほんわかタイプの子だったと言う。そして、1、2年は特進クラスだったそうだが、3年に上がる時に普通クラスに落ちてしまい、今回の受験には特進からは何名も受験に来ているが、普通クラスからはその子一人だけだったとのこと。
一度、絶望と屈辱を味わって、そこからかなり頑張ったのだろう。その大学を受験出来るまでになったというのは、かなり根性と忍耐力のある子だと思われる。

でも、私学はそういう面があるから嫌だなと思う。勉強の出来不出来だけで学校内でランク付けされてしまう。
ある私学の進学校では、成績の良い子だけしかスポーツ部に入部出来ないという。
それに比べ、公立高校は部活も友人との付き合いも趣味のことも自分の自由に出来る。
子どもの通っている公立高校は、そのほとんどが国公立を受験すると言う進学校ではあるが、ぎすぎすした感じはなく平和な雰囲気である。

とりわけ、わが子はのんびりタイプ。親も勉強しろと言うでもなく、本人のやりたいようにさせてきた。
塾も、その高校生が多く通う所か、もしくは国立難関大学合格に実績のあるところにしたらどうかと勧めはしたが、本人は家の近くにある国立大への実績の無い中規模の塾に決めた。まあ、私大への実績はあるところではあったが。
本人曰く、基本が大切であり、分からないところを質問できればそれでいいと言う。
2年生の夏休みから通い始めたが、通常の2年生の授業ではもの足りないだろうからと3年生のクラスで勉強をすることになった。それでも、学校の方が難しいことをやっているとのこと。
当然、数校ある塾内ではトップに位置し、特待生制度で授業料は大分安くて済んだ。そういう意味では、親孝行。

それでも、気がついたら3年生になる頃から学年で10番以内に位置するようになっていたし、数々の模擬テストでもそれなりの結果が出ていた。やはり、大手塾とかは関係ないのかも知れない。

そんな平和主義の子どもではあるが、センター試験前からこの2ヶ月の間に、顔つきやものの考え方が大きく変化してきている。
忍耐力と集中力。そして、何よりも精神力。それが磨かれる。

また、私には推薦入学というものの意味が分からない。これは、それぞれの高校のレベルによっても捉え方が違うが、トップレベルの高校では、実力突破出来ない子、つまり成績の悪い子が推薦枠を使う。
まあ、難関と言われるところでは、推薦入試というものを行わないところがほとんどである。
とは言っても、その高校で下の方の成績でも、高校自体のレベルが高いので、世間一般では出来る子たちではある。

だが、推薦は早い段階で合格が決まるため、その後の数ヶ月間は実に無駄だと思う。
国立だけでなく、私大であろうと合格が決まるまで頑張る子達とでは、自ずと差が生じてしまう。
高校生のこの数ヶ月間は、自分の子どもを見て、その凝縮された成長ぶりに驚きもまた新たなものである。

ちなみに、かつて中学校の教師で、推薦で大学へ入ったということを売りにしている人間がいたが、その実態はと言うと、保護者に対しきちんとした態度をとれないし、生徒たちからも嫌われていた。

世間のあり方を全体的に見れる目を養いたいものである。また、ろくでもないことで傲慢になることほど滑稽なことはない。

そういえば、有名私学の生徒が殺人事件を起こしたという事件が相次いだが、親の勝手な期待ほど子どもにとって息苦しいことはない。
中学校で上位の成績であっても、そのような私学の中でも取り分けレベルの高い進学校ではなかなか上位にいけるものではない。
それこそ、上位クラスの生徒たちは東大、京大といったところにに入れて当たり前。その中でも、さらに出来る子はハーバード大学でも卒業できる頭脳を持っている。
子どもは、自分の能力を知っている。親がどうのこうのと期待してみたところでどうにもなるものではない。
レベルの高い高校へ行くことがいいのか、それとも少し下げてそこで上位に位置してやっていくことで伸びるかは、その子の性格。
所詮、子どもの意見を尊重してやらせるのが一番いいように思う。

その子の人生は親のものではなく、その子自身のものだから。子どもが一人で歩いていけることが大切なこと。親はただ、一人で歩けるようにサポートするだけ。
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2007年02月23日

時空の彼方に

大和神社と箸墓へ行ってきた。雨も上がり、穏やかな世界に包まれる。


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大和神社への参道



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今日は、境内で工事をしていたため、拝殿の周りにはビニールシートがされていた。そこで、ちょっとだけ中をズームで撮らせていただいた。



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本殿の向かって左側のあるたかおおかみ神社。(字が変換できないので、ひらがなでごめんなさい) ここは、いつも違う風が吹く。まさに龍神? 私にとってはやさしい風。



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向かって左が厳島神社、右が言代主神社。



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増御子神社



この他に祖霊社もあったが、工事の車両が止まっていて撮れなかった。


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箸墓。駐車ペースを探してぐるっと箸墓の周りを走ったが、残念ながら止めるところがなかったので、急いで写真を撮りに走った。
手を合わせて、短い時間だが心を馳せた。
帰ろうとして、4、5メートルほど歩いた時、どこからともなく一羽の大きな鳥が頭上を飛んできた。そして、箸墓の奥へと消えた。
シャッターを押そうとしたが、残念ながら鳥を撮ることは出来なかった。
例の鳥といい、今回の鳥といい、きっと、映像の中に捉えてはいけないのだろう。鳥は、魂を運ぶものだから。



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これは、番外編。大和神社の駐車場から撮ったもの。




家に帰ると、何というのだろうか、まるで時空を超えて存在していたかのような感覚にとらわれている。そして、幸せな気に包まれているのだ。
夢の中。そう、夢の中に居たような・・・・・・。
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勾玉と翡翠

勾玉。調べていくと、ちょっと面白い。
翡翠の硬玉は、日本では糸魚川と青海周辺でしか採れないという。
その硬玉の勾玉が日高郡川辺町和佐遺跡でも出土され、他の数多くの出土品から、かなり大きな集落が築かれていたのではないかとのこと。丹生都比売の力の大きさを思い浮かべた。

また、勾玉という玉の形は出雲系だと言う。出雲系の形と硬玉の翡翠。スサノウとヌナカワ姫との婚姻関係から始った日本統治ということだろうか?

ただ、いずれも時代背景が上手くかみ合わないのだが。

それから、三種の神器の鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮、そして勾玉は皇居に置かれているそうだが、勾玉=魂を宮中で祀るのには、やはり日本古来の統治者の霊に対することに由来するようにも思える。

毎年、宮中では十一月二十二日にはニギハヤヒの鎮魂祭も行われているという。神武系の出雲系に対しての礼節というのか、そうしなければならなかったこと。流れ続け、保持し続けられてきた霊魂の意味。

ちなみに、石神神宮の玉の緒は、勾玉に麻紐らしきものを通してある。
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2007年02月22日

春はシュタイナー、冬は王仁三郎

シュタイナー関連のサイトを見ていてつくづく思った。
早く、シュタイナーの文献に戻りたいと。シュタイナーには、溢れんばかりの希望がいっぱい詰っていて、そして、膨大な内容なのに、無駄の無い理路整然とした納得のできる叡智で満ちている。

だが、霊界物語。まだ半分。八十一巻八十三冊という長い読み物であるということもあるが、読んでいる最中にいろいろなことが起こる書。
一度は、音読によって完読すべき書であることは確かなようである。

なぜ、音読である必要があるのかは、以前にもブログへ書いたが、シュタイナーの「精神科学から見た死後の生」もしくは、「シュタイナー死者の書」を読まれたらいいかと思う。


今年の初詣は石神神宮へ参拝したが、その時、お守り授与所に「玉の緒」というお守りが置いてあって、何の効用があるか分からなかったが、なんとなく気になって購入してきた。
そうしたら、玉の緒について霊界物語に書いてあって、その意味に思わず笑ってしまった。
なるほど、そうだったのかと。今の私に必要なもの。
どうやら、守護霊人は先手先手といかれるようだ。
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2007年02月21日

神の生宮

霊界物語第三十八巻に次のことが書かれてある。

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概して人間の肉体の善悪強弱は、すべて力徳の過不及により生ずるところの結果である。人の心の善悪痴愚は、元より教育によってその一部分は左右せらるるものである。

しかし人は神さまに次いでの尊きもので、世界を善に進め、美に開くべき天職を天賦的に持ってゐるものである。人間は小なる神として、また神の生宮としてこの世に生まれ出たる以上は、終生神の御旨を奉戴し、天地の御用を助け奉らねば、人として生まれ出たる本分が尽くせないのである。

(略)


人生の本分としては、第一に天地神明の大業に奉仕し、政治をすすめ、産業を拓き、かつ真の宗教を宣伝し、道義心の発達を助けて世界の醜悪を駆遂し、真善美の天地に進めてゆかねばならぬのである。

他人はどうでもかまはぬ、自分のみ正しければいいのだといつて、聖人気取りで済ましてゐるやうなことでは、人間としての天職を全くしたものといふことはできないのである。

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人の心の善悪愚痴について、王仁三郎もまた教育によって左右される部分があると述べている。
昨今、学校、家庭、地域において教育水準の低下は著しい。教育というものは学問ばかりではなく、道法礼節、感情の育成も教育の一つである。
そういったことが全般的に低下してきていることは、実に憂うべきことである。

最近では、公務員でありながら保育料や給食費、授業料の不払いを平気でつるんで公然と行っていたということも表面化されたり、裏金の私的流用などということも明るみになってきた。

道徳観念の喪失。そいう親たちが子どもを正しく教育出来るはずがない。同じコピーの増殖。

また、ネット難民が増えてきているという。若者層に多く、ネット喫茶が寝泊りの場所となってしまい、日雇いで暮らしているという。
ただ、そういう人たちは、親が離婚をしたとか、虐待を受けて帰る家がない人もたくさんいるとのこと。

それに対し、政府はまだ何もしようとしないという。実態調査をすれば政府として動かなければならなくなるから、なかなか重い腰を上げようとしないのが現状らしい。
ただ、こういうことは一刻を争う問題。貧困が現実にあるということを政府は真正面から見つめて対処しなければならない。

放っておけば、貧困層はどんどん増えていく。貧困層が増えるということは、日本経済も揺らぎ、治安も悪くなるということ。
手に負えない状態になってからでは遅い。日本に確実に存在している貧困層の把握、対処を早急にしてもらいたいものである。

また、平均的な暮らしをしている人は、それぞれがしっかりと歩まねばならない。自分だけの感情で離婚をしてはならないし、子どもを虐待してはならない。社会の規律に正しくあらねばならないし、礼節のある人間として生きなければならない。

まともに働ける人は、きちんと働くのが普通であるし、社会人としてしっかり生計を立てるのが基本であり、神の道を人に説きたいなら、そうしてからするのが常識ではないだろうか。
自分の生活も不安定でありながら、神だ、真理だとそればかりに走るのは、やはり神の願いからかけ離れているように思う。

また、カルマということですべてを片付けようとするのもナンセンス。
カルマというものは、自分では予期しないことがもたらされた場合のみに言えるものではなかろうか。
自分の軟弱な意志の為に招いたことはカルマからもたらされたことではなく、カルマを作っただけのこと。
人間には意志力というものが与えられている。それは、とても強く大切なもの。私は、そう思う。
posted by ミューシャ at 21:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

太陽と月

霊界物語第三十七巻の巻末にある「霊の礎(九)より


現実世界を後にして 天上世界に往き見れば
地上の世界と同様に 東西南北の方位あり
しかして諸の天人は おのおの住所に異同あり
愛の善徳具へたる 天人住めるは東西位
しかして東方は明瞭に これをば感じ西方は
おぼろにこれを感ずなり 愛の徳より証覚を
具えて住むは南北位 しかして南方は明瞭に
証覚光を具へたる 天人ばかりこれに住み
また北方はおぼろげに 証覚光を具へたる
天人のみぞこれに住む 主神のいます霊国に
在る天人と天国に 在る天人とみな共に
これの順序を守れども 主の霊国は愛の徳
この徳に依り真光に 従ふものと相違あり
天の御国における愛は 主神に対する愛にして
これより来る真光は すなはち無上の証覚ぞ
霊国所在の真愛は 公共に対する愛にして
これをば仁愛(みろく)と称ふなり 仁愛の真の光明は
神に基づく智慧ぞかし これの智慧をば信といふ

主神の統括なし給ふ 高天原の天界は
全く二つに分かれあり 主神の坐します天界を
称して愛の国と謂ひ 天人たちの住居せる
世界はすなはち天国ぞ 霊の御国と天国を
構成したる諸々の 天の世界の方向は
決して同じきものならず そも天国の天人は
主神を太陽とうち仰ぎ 霊の御国に住むものは
主神を月とうち仰ぐ しかして主神の顕現し
たまふところは東なり 真神すなはち主の神は
天国にては太陽と 顕はれ給ひ霊国に
在りては月と顕れたまふ かくも二種の御姿に
顕はれ玉ふは何故ぞ 愛と信とを摂受する
度合いの異なる為ぞかし 愛の善徳は火に応じ
信は光明に相応ず これ霊国と天国の
二つに分かるる所以なり

高天原の天界に 住む天人の眼より
見る太陽は天界の 太陽に比して最暗し
また太陰も同様に 天界の月に比ぶれば
最も暗く身ゆるなり その理いかんといふならば
地上における太陽の 火熱は自愛に相応し
その光明は自愛より 招ける虚偽に相応す
そもそも自愛は主の神の 愛と全く相反し
自愛よりするその虚偽は 主神の有する神真と
正反対となればなり かくして主神の具へたる
神愛神真そのものに 逆らふものは天人の
眼に暗く映るなり 高天原の天国に
ある天人は主の神を 太陽のごとくうち仰ぎ
霊国の天人は 月のごとくに仰ぐなり

地獄の世界に在るものは 自己と世界をのみ愛し
神に逆らふそのために 暗黒溟濛の裡にをり
全く神に相背き 主神を後方に捨てておく
これらを鬼霊精霊と 称へて地獄の鬼となす
あヽ惟神惟神 神の世界の奇びなる。


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先程、この文を読んだのだが、やはり十曜の紋は太陽か? また、レンズに映った太陽の縦線。これは、太陽を押し分けて、その奥に入っていくというようにも連想できる。
そういう意味では、裏紋は月を現しているようにも思う。

太陽と月両方の働きの必要性。
太陽は火、月は水。
表に出でて活躍するものと、裏(内面)での活躍。


また、数日前の記事に、見た目が善人のようであり、且つ人望もある人にも悪なる行為をする者がいるというような内容を霊界物語のなかから引用して書き、私自身もそれに相応する人物が何人か思い当たると書いた。

しかし、その後、そのことについて引っかかっていた。
悪なる行為をしながらも善人のように見える人間たち。よく観察しなおすと、やはり悪なることを行う人間にはそれ相応の外的なものが顕れている。
目の動かし方が善のものでなかったり、或はとても下品な癖が見られたりなどするのである。

また、どんなに正直で善人であっても悪神がつくこともあると三十七巻には書かれてあるが、これについても納得は出来ない。
なぜなら、どこかに隙を作るからであり、或は悪と同調するものをその本人が解消出来ていないからである。

だから、この点は王仁三郎の見解には賛同できないし、また性急に迎合してはならないと痛感した。
そして、霊界物語もすべて一から十までが神の書としての内容ではなく、たまに王仁三郎の個人的見解も入り込んでいるように思うのである。

天祥地瑞は先に読み終えてるとは言っても、まだ三十七巻を読み終えたところ。しっかり読み進め行きたいと思う。
posted by ミューシャ at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

十曜の紋

十曜の紋。その意味は、遠い過去から永遠に続く神の働きが全大宇宙に充ちあふれているという、神の広大きわまりない活き活きした働きを表象したものだとのこと。
その説明を読んでも、まだ、なぜなのかという疑問があった。

でも、ふと、太陽を撮った自分の写真を見ていて思った。
レンズに映るその姿は、中心の太陽の周りを丸い光の円が取り囲んでいる。

また、裏紋として、○に十字とのことであるが、これも強い光を放つ太陽をレンズから見ると、真っ直ぐな縦線が入る。横線は大地か?

だから、十曜の紋は、太陽の働きに焦点を絞って考案されたものであるのかも知れない。まあ、私の勝手な推測ではあるが。
posted by ミューシャ at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年02月18日

テレジアの「霊魂の城」から抜粋。


* * * * * * * * * * * * *


また主は度々、ひじょうに重い病気をくださいます。特に痛みの激しいときなど、それはとても大きな試練です。痛みがひどいときには、それこそこの世で最大の試練であるように、私には思われます。

なぜなら、それは外的な試練ですが、本当に痛みが激しいときなどは内部まで深く影響を及ぼすからです。精神的にも身体的にもずたずたに傷付けられ、苦しみに投げ込まれた霊魂は、もはや自分ではどうしてよいか分からなくなります。こんな苦しみに耐えるよりは、たとえどんな殉教でもすぐにも霊魂は喜んで選ぶことでしょう。

とはいえ、極度の苦痛はそれほど長くは続きません。神は、人間が耐えられないほどの苦しみをお与えにならないからです。

それに、いと高き御者は、まず第一に忍耐をお与えくださいます。でも、神は何か他の大きな苦しみや、いろいろな病気をくださるのがふつうです。

* * * * * * * * * * * * *



苦しみには、いろいろある。その苦しみがなんであろうと、まだ耐えられるはずだ。まだ、あと一時は我慢できるはずだ。まだ、あと一歩は進めるはずだ。

だから、自分で限界を決めてはならない。自らの手で糸を切ってはならない。
もうちょっとだけなら何とか出来る。その気持ちだけで、前へ進めるはず。

苦しみの中に蒔かれている種を取り出し、美しい花を咲かせたいものである。
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反対のものが同一

「不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。あるものの生は他のものの死であり、あるものの死は他のものの生であるのだから」

(ヘラクレイスト)  



「・・・・・心しておかねばならない。もしも魂が不死であるとなれば、その魂についての世話は、ただふつう呼んで、生あるあいだというその限りの時のためではなく、まさに永劫のために必要とされるのだということを。そしてもし人がそれを等閑にしようものなら、まこと恐るべき危険がそこには待ち受けていると、事実、今となっては思われるであろう。」

(プラトンの作品の中でのソクラテスの言葉)



ヘラクレイストの、反対に位置するものが同一のものであるという考え。そして、ソクラテスの不死なる魂についての見解。

人は、霊魂の存在を受け入れて生きるか、それとも否定して生きるかでは、そこには雲泥の差が出来てしまう。
なぜなら、生きるということについての向かい方が根本的に違うからである。
最初の出発点を間違えてはならない。

出口王仁三郎は、一時、まったくの無神論者になった時期があると自伝には書かれてある。しかし、その後は言わずと知れたその歩み。

私も、かつては無神論者であった。しかし、今は決して神を否定など出来ない。そして、真正面から向き合う前とその後では、まったく意識的なものは違うし、そして自分では何も要求していないのだが、歯車が心地よく回転していくのだ。要求しないのに、整えられていく。私はただ、水の流れのように自然にしているだけであるのに。たぶん、これを神の恵みというのかも知れない。

反対に位置するものが、実は同一のものであるという原理。これは、意外といたるところに見られるのかも知れない。
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2007年02月17日

梅の花

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買物に出かけたら、梅の花が売っていた。
すーっと胸が透き通るような感じがして、だから、思わず買ってきた。

今日は雨。
なぜか、雨の日は、花にそばにいて欲しくなる。
それは、きっと、太陽の戯れがないからかも知れない。
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2007年02月16日

花の香

花の香りは、なんというのだろうか、心を潤し、そして浄化してくれるかのようだ。

朝、どこからともなく梅の香りがしてきた。別に、周りに梅の花があるわけでもないのだが。
午後は、フリージアの香りが一瞬漂った。

そして、その二種類の香りは、それぞれに違ったやさしさや、ときめきをもたらしてくれるかのよう。

花の気持ち。花の心。溶け込むことを、快く許してくれる。
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2007年02月15日

オアシス

アビラのテレジアの「霊魂の城」から抜粋。


* * * * * * * * * * * * *

私たちは、ただたくさん泣いたから、それですべてがすんだと考えないようにしましょう。それより一生懸命に働き徳の実行に努めましょう。これが、最もたいせつなことです。

涙は自分から努力して流すものではなく、神がそれをお贈りくださるとき自ずと流れるものです。

こうした涙は、この乾いた土地を潤し、実を生みだすための大きな助けとなります。私たちが、それにとらわれなければとらわれないほど、天から降る水ですから効果は大きいのです。

私たちが骨を折って掘り出した水は天からの水とはまるで違います。私たちは、度々土を掘り返すのにへとへとに疲れてしまうでしょう。しかも湧き出る水はおろか、水たまりほどの水も見つからないのです。

ですから姉妹たちよ、よりよい方法は、私たちを主の御前に置き、主のあわれみと偉大さ、そして私たち自身の卑しさを見つめることだと思います。

水であろうと乾きであろうと、主がお望みのものを私たちにくださるのがよいのです。私たちに何が相応しいかは、主がよくご存知だからです。こうすれば私たちは安心して歩むことができます。悪魔は私たちに幻影を抱かせる機会をそれほど得られなくなるでしょう。

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今まで、どれだけ泣いてきただろうか。今まで、どれだけ苦しんできただろうか。今まで、どれだけ気の遠くなるような思いをしてきただろうか。

しかし、時は振り返る時間を提供してくれる。
そして、思索の後に思う。それらはすべて霊魂の成長にとって必要なことだったのだろうと。
泣くたびに、苦しむたびに、諦めなければ確実に先へ進んでいる。何かを得られている。
光。一筋の光が、道先案内人として、遥か彼方から注ぎ込まれていることに気がつく。

少しずつの成長が、飾らない裸のままの自分を神の前に置くという自然な思いへと誘うのだ。そして、すべてを甘んじて受けようと。


私の脳裏に、ある光景が浮かぶ。
深い青色をした海。コバルトブルーの高い空。白いカモメが飛び交い、白壁の家が立ち並ぶ。
石畳の階段、咲き乱れる花々。
そんな平和で穏やかな風景の中に、私は風を感じながら生きていたい。
posted by ミューシャ at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

審神について

霊界物語第三十六巻第二十二章から抜粋。


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また悪魔は決して悪相をもって顕現するものではなく、かならず善の仮面を被りて人の眼を眩ませ、悪を敢行せむとするものである。

一見して至正司直の君子人と見え、温良慈悲の聖者と見ゆる人々にも、また従順にして女のごとく淑やかに見ゆる男子の中にも、悪逆武道の行ひをするものがあるのは、要するに悪神の憑依して、その人の身魂を自由自在に使役するからである。

また一見して鬼のごとく、悪魔のごとく恐ろしく見ゆる人々の中に、かへつて誠の神の身魂活動し、善事全行をなすものも非常に沢山あるものである。

ゆゑに人間の弱き眼力にては、たうてい人の善悪正邪は判別し得らるるものでない。人を裁くはたうてい人の力のよくし能はざるところ、これを裁く権力を享有し給ふものは、ただ神さまばかりである。

ゆゑに三五の宣伝歌にも、
「神が表に現われて善と悪とを立て別ける」
云々と宣示されてあるのである。

みだりに人の善悪正邪を裁くは、いはゆる神の権限を冒すものであって、正しき神の御目よりは由々しき大罪人である。

また心魂の清く行いの正しき人が一見してその心のままが現はれ、至善 至美 至直の善人と見ゆることもある。
また心の中の曲がり汚れて悪事をなす人の肉体が、一見して悪に見え卑劣に見えることもある。

すべての人の容貌は心の鏡であるから、諺にも言ふ通り、
「思ひ内にあれば色必ず外に現はる」
の箴言に漏れないものも沢山ある。

しかるに凶悪獰猛なる邪神は容易にその醜状を憑依せる人の容貌に現さず、かへつて聖人君子のごとき面貌を表し、悪を行ひ世人を苦しめ、以って自ら快しとする者は沢山ある。

ゆゑに徒に人の容貌の善悪美醜を見てその人の善悪や人格を品評することは、たうてい不可能なることを考えねばならぬ。

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私は今まで、心の有り様がそのまま外へ出て、特に顔に出ると思っていた。
しかし、この霊界物語の中に書かれてあることを読んで、思い浮かぶ人物というのも何人かいたのも事実である。
一見、良い人という顔のつくりにはなっていたし、社会的にも人望が厚いかのようにも見えていたが、実は蓋を開けてみればとんでもな物欲の持ち主だったという。

こうなってくると、人のどこを見て判断したらいいのかわからなくなる。骨相学とか人相学というものも当てにはならない。ただ、心を澄まして対処するしかないのかも知れない。

そして、神のことを知ろうとすると、人はやたらと他者を審神したくなる傾向に走るようだが、それは霊界物語にも書いてあるように、神の権限を冒すものであるようだ。それには、深く頷ける。

また、そうでなくても、それほどたいした人間でもない人ほど、他者のことをやたらと審神したくなるというのも実に面白い傾向でもある。
という私も、他者のことを審神しないように重々気をつけたいと、痛切に思う。
それこそ、天狗になったら天狗にやられるかも知れない。天狗については、霊界物語の第三十三巻に書いてあったが、なるほど、と思ったものである。
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2007年02月14日

自由意識の回復

シュタイナーの自叙伝より抜粋。


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自然科学は、これまで私たちが考えてきた以上に美しい形式で、私たちに自由の意識を回復させてくれることができると思われます。

私たちの心的生活には、惑星を太陽の周りに公転させている法則と同じような自然法則が、作用しています。

しかしこの法則は、他のあらゆる自然科学よりもはるかに高次の何かを提示しています。この何かは、人間の内部以外のどこにも存在していないものです。

この何かから流れ出してくる世界の中にあってこそ、人間は自由なのです。人間は有機体や非有機体の法則に付き纏う硬直した必然性を乗り越え、自分自身の裡なる声のみに耳を傾け、それに従うのです。


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こんなシュタイナーの見解は、何か壁にぶつかった時など、自分を素直にさせてくれる。
結局は、自分自身の裡なる声に耳を傾けることが、新たな見解へと行けたりするものである。
自分の中にあるわだかまりは、ほんの少しでさえも自分をごまかしたりしているなら、決して消えるものではない。

深閑とした心の奥に入り込み、そこから流れ出てくるものを聞く。自由意識の回復。
posted by ミューシャ at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年02月11日

マナー〜紳士淑女であれ

外出すると、なんでこんなにもマナーのなっていない人が多いのだろうかとうんざりする。

食料品売り場であっても、口を手で押さえずに平気で咳をし続ける人。
歩きながら煙草を吸う人。
畳んだ傘を持った手を普通に大きく前後に動かし、傘の先が後ろの人にあたりそうなのに全くそれが分からない人。
割り込みを平気でする人。
温泉に入ったとき、体をまったく洗わずに、いきなり湯船の中に入る人。また、勢いよくシャワーを出して、周りの人にばしゃばしゃあたっているのに平気な人。
トイレで用を足した後、片手しか洗わない人。また、洗った手を振って、その水を周りに飛び散らせ、他者に迷惑をかけているのに平気な人。
ものを言わずに、顎でしゃくって何かを指す人。
人に向かって、指差す人。
「すみません」の言葉を発せずに、無言で人を押しのけて通る人。

あげたらきりが無いが、こういうことも小さい頃からの躾け。一つひとつの積み重ねが、紳士淑女を育てる。
親がしっかりしたマナーを持っていれば、当然、その子どもたちにも自分が受けてきたようにマナーを教えるものなのだ。

ただ、そのマナーとしての基本は、他者に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせないということである。
他者に対しての礼節がマナーというものである。

そして、それは人間だから求められるものであるし、人間だから身に付けなければならないことなのだ。

どんなに着飾っても、人間としてのマナーが身についていなければ決して紳士淑女とは言えないし、そうは見えないものである。
posted by ミューシャ at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

千の風

今、『千の風にのって』という歌が人気があるようだ。オペラ歌手の秋山雅史が歌ってブレーク中とのことであるが、これはもともと、新井満が英文の詩に感動して和訳し、そして曲をつけたものだという。


私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

あの大きな空を
吹きわたっています


この詩を読んで、ほんとうに素適だなと思った。千の風。魂の表現そのものだと。
風は記憶を持ち、風は想いを運び、風は感情に囁きかける。

かつて、マウントオルガへ行った時も、風は歌っていた。いろいろな風が囁いていた。
魂の存在を受け入れてくれるところでは、より強く、より明るく、より楽しげに流れるように舞う。

風は生きている。
風は生き続けている。
風の存在。
posted by ミューシャ at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

死者と生者との社会構成

先の記事では、宇都宮輝夫「死と宗教」の共感できない部分の抜粋をしたが、なんといってもこの本の全容を見ないことにはまともな感想とはならないであろうが、それでももう一つ、興味深いことが書かれてあったので抜粋してみる。
著者は社会構造というものから死者と生者のつながりにも視点を向けている。この部分は、共感できる。


『生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていったものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。』

『人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。(略)人間は死によって自己存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存在すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。』

『社会の連帯、つまり現成員相互の連帯は必ず表現されなければならない。さもなくばそれは意識されなくなり、弱体化してしまう。

まったく同じことがもう一つの社会的連帯、つまり現成員と先行者との連帯にも当てはまる。この連続性が現にあるというだけでは足りない。それは表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒されるのでなければならない。

この連続性=伝統があってこそ、社会は真に安定し、強力であり得る。それゆえ、先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。』


シュタイナーのゲーテアヌム。その理念にも宇都宮氏のこの見解は通じているように思えた。
posted by ミューシャ at 23:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする