2007年03月29日

カルマの書

霊界物語は、カルマの書でもあるような気がする。
誰かが原因を作ったなら、その人は必ずそこへ戻される。そこで悔い改めて改心すれば良し、もし改心できなければさらに試練を伴う堂々巡りをさせられ、再び最初の原因へ直面させらる。そして、改心へのチャンスが与えられるのだ。

こういった改心へのストーリーは、物語の中にどれだけ書かれてあるのだろうか。とにかく多い。
だから、真摯に読む人は、カルマを解消する術を身に付けられて当然なのだと思う。

また、読者の現世から、前世、前々世、前々前世などの中で作ってしまったカルマ、及び側で聞いている死者たちのカルマをも正しく解消させる為の流れを生み出しているような気がする。
これが、星々の正しい律動運動を強く躍動させる為の力ともなっているのではないだろうか。

しかし、そうするにはやはり感情移入を伴った音読である必要が生じてくる。感情移入があるからこそ、理解でき、共感でき、そして完全に共鳴することが出来る。そして、文字として書かれてある中から、文字の奥に秘められた生きた成分を外へ出してあげることが出来るのだ。

だから、ただ念仏のように読んでいればいいというものではないと思う。物語の内容を自分の心に同調させてこそ、文字の精霊たちは解き放たれる。そう、思った。
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2007年03月28日

鳥の心

あの鳥。ずいぶん前から姿が見えなかった。たまに、どうしたのだろうかと思うこともあったが、忙しいこともあって心の声を投げかけることをしていなかった。

でも、今朝、あることへの答えを聞きたくて、もしそうであるなら姿を見せてと発した。

すると、どうだろうか、あの鳥は姿を見せたのだ。まるで春の日を楽しむかのように、ゆっくりとたおやかに飛んでいた。
そして、やや遠くの畑へと舞い降りた。
その白い体からは、まるで温もりが伝わってくるかのようだった。

私は、今、思っている。
透明な心でありたいと。透明な輝きで、悪なるものや醜いものを遠ざけたい。そして、決して自分の中からそういうものを作り出したくないと。真っ直ぐでありたい。

今の私にとっては、あまり人のことは気にならない。ただ、より高い芸術性を持ったものや人間に目が奪われる。
より高いもの、より透明なもの、より美しいもの・・・・・。そこから何かを学びたい。
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ギリシャ神話を読み終えて

酒井友身の「愛のメルヘン・ギリシャ神話 全12巻」は、面白くて意外と早く読める。
子どもが小学生の時に与えたものであるが、私は今まで読んだことはなかった。だが、この本の対象年齢は、小学校高学年〜一般となっていたのだ。なるほど、私が読んでも心に響き、より洞察力を得られる訳だ。

ギリシャ神話というと残酷なイメージがあったが、酒井友身の解釈や見解は深く、一転して愛と正義の美しいイメージに変わった。
その一見残酷とも見える神々の裁きは、罪を犯した者だけでなく回りの者たちにもほんとうに大切なことを気付かせ、改心させるものなのだ。

ギリシャ神話は、霊界物語で言う宣伝使の在り方を物語っているし、よりはっきした形で示しているようにも思える。
もちろん、人間として何が大切であり、どうあらねばならないかも教えているのだ。
また、神々の働きは、シュタイナーで言う天使存在とも同調する。

面白いもので、少し前にひつじさんから、王仁三郎はギリシャ神話を研究せよということを言っていたということをお聞きした。
その後、なんとなくシュタイナーの星々の世界とその律動運動を邪魔するものに関する内容へと目が向き、翌日には霊界物語を音読しているなかで、物語の内容と星とが対応をしているように思えた。
そして今、ギリシャ神話を読んで、霊界物語が共鳴していることに確信を得られた。

ギリシャ神話の中でも、真摯に、一点の矛盾や曇りもない祈りをすることによって神々が動き始める。これは、霊界物語の宣伝歌と同じ。
また、人の心を弄ぶことは決してしてはならない悪なる行為。たとえそこに、悪意がなかったとしても。
正義とは厳格なものであり、少しの妥協も歪みもあってはならないから。もし、ほんの少しの歪みでも存在していたなら、それは正義ではなくなる。

霊界物語の中では、真は真信の光であり、善は愛善の熱であると書いてある。
光は正義と対応し、熱は愛と対応するようにも思う。

ギリシャ神話も優れた解説があってこそ理解でき、霊界物語はそういったギリシャ神話やシュタイナー学などを知ることによって、どんどん肉付けされ深まるように思う。

今回のギリシャ神話からは、何か起こったときの神々の考えや意志を汲み取る方法を学んだような気がする。そして、愛の目を忘れてはならないことを。

PS:
ギリシャ神話の神々と日本の神々の類似点も見られるし、何よりも面白いことは、それぞれの神々の要素の流れ方。しかも、その後の世界史の歩みの中で見られる輪廻。
だから、希望が見出せるのだろう。
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2007年03月27日

ギリシャ神話

霊界物語第四十四巻を読み始めて、もしかしたらオリオン座の三つ星は大和三山に対応するのかなと思った。
また、四十三巻から「祠」というものがよく出てくるが、この「祠」というものにも何か意味が隠されているような気がする。それに、四十四巻第八章の山口の森。これも、気になる。

先へ読み進みたいが、今はギリシャ神話を少々読むのを優先。ただ、星にまつわるギリシャ神話もいろいろな話があるので、どれを正当のものとしてピックアップしたらいいのか戸惑う。

わが家の本棚を見たら、なぜか子供向けの本を処分せずに置いてあった。酒井友身という人が書いたものだが、御自身が思うことも書いてあって、これが意外といい。
この作者は、病床の時に遠藤周作のキリスト教哲学に心酔し、人生につまづいた人や病を負う者が本質的に求めている“人間のやさしさ”をテーマに書いた作品もあるという。

だからなのだろう、この星座の物語にしてもやさしい言葉で溢れている。そして、そういう言葉は、すーっと入ってくるのだ。

また、ちょっと余談になるが、酒井友身は「細川ガラシャ―炎の十字架」という本も出版しているとのこと。これも、いつか読んでみたい。

苦しみを味わなければ、苦労をしなければ、そしてそこから飛翔しなければ決して発せられないオーラに包まれた言葉。その言葉を、酒井友身は持っているような気がする。

物語の中で、彼は次のようなことを書いている。

「善人にも悪人にも同じように愛ということは与えられている。」

「オルフェウスの琴は地獄の神には通用しなかったのです。言いかえれば、芸術は地獄の神を動かすものではないということです。また芸術で心が動くようなら地獄の神はつとまりません。
 要は、最高の芸術と地獄の哲学は価値基準がまったく違い、基本的存在形式も違うということなのです。」

「ヘルメスがオルフェウスを地獄まで連れて行って琴を弾かせようとしたのは、オルフェウスに本当の人間の愛があるかどうかを試したのです。」

「人々は自分たちの愛だけがみのることを祈るのではなく、他の人々の愛のためにも祈り、また、自分たちの愛が他人に迷惑をかけないよう祈り始めたのです。」


そういえば、今日のテレビでチラッと見たのだが、美智子妃が出産されたときの手紙が出てきて、その中で、「犠牲とは意味のあるような気がします。そして、それは何か幸福へ繋がるものだと思います。」というような内容のことが書かれてあった。
私は、思わずシュタイナー学と同調していることに、美智子妃の素晴らしさに身震いをした。
美しく聡明で心深く、しかも小宇宙としての星の配列が整っている。そう、思った。憧れの姿。

本質的に美しい言葉を発せられるように努力したい。


また、ギリシャ神話を見ていると、霊界物語の流れとの類似点が多々見られる。
ただ、面白いことに、それも偶然にも酒井友身という作家の見解がギリシャ神話に添ってなされていることも大きな手助けとなっているのだ。
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2007年03月25日

霊界物語と星の世界

今は霊界物語第四十三巻を読み終えたところだが、そこで思ったこと。

この霊界物語というのは、星の世界(ギリシャ神話に基づく)の働きや動きを現し、音読することによって(もちろん、そこには深い洞察力や感情移入などが伴っていなければならない)乱された星の律動作用を正すような気がする。

これは、昨日の記事に偶然にも書いたシュタイナーの見解とも同調するのではないだろうか。

ヒエラルキー存在たちの働き。

ちなみに、この四十三巻では双子座の働きを感じたのだが・・・・。
とにかく、物語の内容を星々と対応させながら見ていくのも面白いと思った。
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2007年03月24日

道法礼節とカルマ

シュタイナーは、星の世界及び雷雨などの自然現象、そしてカルマとの関わりについて次のように述べている。


―――――――――――――――


私たちの外では、星の世界が関与する限りにおいて比較的規則正しい歩みを続ける、ごく自然の現象が経過しています。

というのも星の世界は、特に太陽や月やその他の星に関しては――ここでは流星や彗星のような不確かな世界は例外的なものと考えることができます。流星や彗星の世界は特異な方法で宇宙の規則正しい、律動的な出来事の中に組み込まれているのです――ある種の規則性とともに経過していくからです。

ところが、私たちが風や雷雨と呼んでいるものや、雷や雹となって、あるいは一般的な気候学や気象学に関する現象となって、私たちの自然存在の中に混ざりこんでくるものは、このような規則正しい律動的な進行を毎日のように破壊しています。

私たちはそれを目のあたりにします。そして、その後私たちが霊的なものに対する抑えがたい衝動を抱くときに、イニシエーションの中から次のような事柄を伝えられると、私たちはそれに耳を傾けずにはいられないのです。

「このような外面的な目に見える世界が存在するだけでなく、超感覚的な世界もまた存在する。この超感覚的なものの世界に、高次のヒエラルキー存在たちがすんでいる。誕生から死までの間の人生において、鉱物界・植物界・動物界の三つの自然領域に到達することになるのとまったく同じように、私たちは死と新たな誕生の間の人生において、これらの高次のヒエラルキー存在たちの領域に到達することになるのだ。」

私たちはこのような言葉に耳を傾けます。そして、目に見える世界と超感覚的な世界という二つの世界が存在するという表象を形成しようと試みるのですが、このとき私たちは、しばしば二つの世界をただ並置するのみで、二つの世界を私たちの表象の中で相互に結びつけようとしないことがあるものです。

しかし、目に見える世界と超感覚的な世界を概観して、二つの世界の共同作業を魂の目の中にとらえることができるときに、はじめて私たちはこれら二つの世界についての真の直観を獲得するのです。

というのも、カルマの形成を理解しようと思うならば、私たちはこのような二つの世界の共同作業について洞察しなくてはならないからです。死と新たな誕生の間の人生において、カルマは準備されます。しかし、高次のヒエラルキー存在たちの活動を通して、誕生と死の間の人生においてもまた、カルマはこの地上で形成されるのです。

―――――――――――――――



宇宙の規則正しいものを破壊する自然現象。
王仁三郎の霊界物語の中でも、人から出される悪しきものが雷雨、地震、洪水などの現象を引き起こしているということが書かれていた。

カルマというのもは、良くも悪くも簡単に作ってしまうことが出来るものだと思う。
自分の愛する者のためだけに良かれと思うことを、他者を犠牲にすることによってしてきたとしたらどうだろうか。
結局は、他者を犠牲にするという悪しきものは、愛する者へも及んでいるのである。

大局に立って、ほんの少しでけでも周りを見回したなら、その流れや法則が見えるような気がしないだろうか。

人は、なぜか悪なるものへは容易に傾き易い。むしろ、善だけを行い、清く正しく美しく生き続けることの方が難しいのである。

不平不満をぶつけたり、他者を批判したり、口汚い言葉を言ったりなど、われ良しの世界が強い人は、本当は弱い人間なのである。
その反対に、善き言動を貫き、正しく美しく生きようとすることは強くなければ出来ないこと。

安易な流れに走るのではなく、毅然として生きたいものである。そして、基本軸となっている星の世界に沿うように、ヒエラルキー存在たちと共に善き共鳴反応を起こしていきたい。
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やさしさのなかで・・・

ちょっと早めの夕食をとるために店に入った。
注文した品を待っている時、Mike Strickland のソロピアノ演奏であるCD「THE PIANO」の中に収録されている「Walking In The Air」の曲が流れてきた。

彼の弾くピアノは、水と空気の心地よい流れを感じ、そして、その中に溶け込むことが出来る。

今も、聴いている。
心が潤い、涙するほどのやさしい響き。
人間って、いいなと思える感情。

ほんとうは、どこまでもやさしくなりたいのに、どこまでも素直でありたいのに、現実は時としてその心に壁を作ってしまう。

私は、いつでも心は真っ直ぐでいるつもりなのに、いつでも誰に対しても心を開け放っているのに、悲しいことに、他者はそうではない。
だから、自分が傷つく前に心を固く閉ざしてしまう。

いつの日か、全ての人が心からの笑顔を誰に対してでも向け合うことができたら、どんなに素適なことだろうか。
そんな日が訪れることを夢見ている・・・。
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2007年03月22日

芸術

今日のシンクロナイズドスイミングでのフリーのソロ。デデューの演技は素晴らしかったし、またその演技を見れたことを幸せにも思う。

まさに水と一体化した芸術。激しい動きなのに静かな水しぶき。細やかな神経の奥に隠されたパワー。そして、新たな挑戦から生まれた進化。

それにしても、デデューは、細胞の隅々まで芸術家なのだなと思った。芸術家であるが故に、徹底した努力と追求があるのだと。


また、男子フィギュアスケートのフリー。高橋大輔は見事銀メダル。フリーだけだと一位。精神力も強くなったし、ここにきて急激に伸びた。来期も楽しみである。

だが、私は個人的には3位になったステファン・ランビエールの世界が好きだ。
あの内側からほとばしり出るような情熱と芸術性。いいなと思う。

今日は、シンクロナイズドスイミングにしても、男子フィギュアスケートにしても、なんか見れたことがとても得をした気分になった。
芸術性のあるものとは、ほんとうに素適なことだと思う。
posted by ミューシャ at 23:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

感覚器官と道(ことば)

今日、ふと思った。人間は感覚器官そのものだと。あらゆることを感じるように創られている。だからこそ、意志というものが必要なのだ。

これほどまでに、芸術的な感覚器官を持つ人間。すごいことだと思う。どこまでも創造し続けられる。自分のその手で。
そして、意志は統率者。正しく、真っ直ぐでなければならない。

霊界物語第四十二巻の物語の最後の方で、悪を働く者の行為を止め、王の危難を救うために、宣伝使でありながら騙して事を納めようとした清照姫へ、次のような言葉が与えられている。

「清照姫殿は王の危難を救ひ、入那城の安泰を計って下さった殊勲者である。さりながら三五教の道にありながら、権謀術数をもって敵を籠絡するは大道に違反するもの、是非是非カールチン、ユーフテス、マンモスのたとへ百日なりとも、閉門中の世話をなし、彼ら三人を心の底より満足して改心いたすやうになさるのが、そなたの罪亡ぼしだ。」

人はよく、真っ向から挑んだのでは無理だと思い、いろいろと策略を凝らしたりする。しかし、そこには必ずといっていいほど弊害もまた新たにもたらされているのではないだろうか。

私はこの町へ来て、早々に大変な戦いをした。しかし、見知らぬ土地ゆえに、知り合いも縁故関係もなく、まさに一人対多数及び組織・団体との無謀なまでのものであったが、それでも、最終的には新たな大きな改革の流れがもたらされた。
そこには、権謀術数など微塵もなかった。ただただ、真っ向から自分にやれることをやり続けた戦いであった。なりふり構わず、それでも毅然とした気高さを失わずに。それだけなのだが、次から次へと歯車は回り続けた。

だから、思う。この霊界物語に書かれてある幾つもの正しい宣伝使としてのやり方は必ず効果があって当然なのだと。
正しくぶつかっていくなら、たとえ砕け散るとしても、そこに芽を残せるもの。

また、第四十三巻には、「大初に道(ことば)あり、道は神なり、神は道と偕(とも)にあり。万物これによって造らる。総て世の中造られたるものは一切は道によりて造られざるはなし」とある。

道(ことば)を大切にしたいものである。発することばは、その人を造る。そして、その人自身だけではなく、世の中の万物にも影響を与えているのだ。

人間は、中味が整えば自ずと器も整い、反対に器が整っている人は中味も整っているものである。
その器。大切に育んでいかなければならない。

その口から出す道(ことば)は、正しいものでなければならない。歪んだもの、悪意に満ちたもの、穢いものなど用いるなら、そこにはあらゆる弊害がもたらされ、何も解決などしないのだ。永遠に、あり地獄の中を彷徨うだけ。

私は、普段は怯えた猫のよう。人と争いたくはないし、戦いたくもない。極力、そういうものから遠ざかっていたい。
しかし、一たび不正なことがもたらされると、私は自分でも驚くほど覚悟が出来る。目をかっと見開いて、先へ進むことしか考えない、炎に包まれた白豹となる。
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2007年03月20日

ガブリエル〜月存在

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵「受胎告知」が、日本で初公開されるという。テレビで細部をアップにしていたが、ガブリエルの羽が、まるで馬の背というのか鬣のようなタッチで描かれているのに驚いた。

ガブリエルの受胎告知の場面は、イエスの受胎告知と洗礼者ヨハネの受胎告知の2回だけだとのこと。
また、語源であるGBR(ガブル)は、シュメール語で統治者という意味らしい。

シュタイナーは、ガブリエルを月と対応させている。そして、月はかつては地球と一緒であったが、その後、分離していることを語る。
また、彼は、今の私たちが持たねばならないことは、月存在から進み出てくるあらゆるものを、悪の力ではなく、善の力に変えるための魂や霊的なバランスと抑制力だと述べているのである。

それから、月といえばスサノオ、瑞霊とも対応する。
今、ここに来てダ・ヴィンチの受胎告知が初公開されるということにも、何か神の意志のメッセージが託されているような気がした。
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2007年03月19日

新たな時節に思う

今年に入ってからというもの、予定されていたこと以外にもいろいろな用事が入り、なかなか落ち着いて本を読む機会を持つことが出来なくなっている。

また、面白いもので、新しく始めたり、または何かを買い換えたり、新しいものへ変更したりというような新たなことが生じる時は、ほんとうに一斉に草花が芽吹くかのようにどっと押し寄せてくる。
古いものから新しいものへの転換期。

そんななかで思うことは、やはり自分の意志で進みたいということ。自分の思う感性で進みたいということ。その二つのことを尊重したい。
まわりを気にしすぎるあまり、自分を押さえることや、不必要な自己犠牲は良くないと、そう思うから。

友人から電話が入った。また、私に頼ろうとする。このままだと進歩はないから、今回はかなり厳しく言った。自分自身で真っ直ぐに受け止めて解決をして行く努力をしない限り、本当の霊魂の救いも、現実的な希望も得られない。
いつまでも同じことを同じように悩み、愚痴を言い続けるのは時間の無駄。いつかは、そこから脱出しなければならない。自分だけが、幸福であろうと不幸であろうと特別だなどという思いがある限り、そこには成長はないように思う。

ただ、人はほんとうに悲しいものだと思う。すぐに安楽なものへと走りやすい。なるべく楽をして苦悩の中から逃れたいと。

人として当たり前のことをするだけで、その人生は生き生きとしたものとなるのに、意外とそのことに気がつかないのだ。ほんとうに、ただ当たり前のことを実行すればいいだけ。当たり前の常識、当たり前の努力、当たり前の素直。
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2007年03月18日

光と雪

朝、新聞を取りに外へ出ると、晴れた空から雪が舞い降りていた。
気まぐれ雪雲さんはどこ?

金色の光の空間を、まるで天使の羽のようにふわりふわりと風の背に乗って、愛くるしく踊る。
シャンシャン、シャンシャン、音が聞こえるかのよう。

頬に触れた雪は、一瞬にしてその温もりの中へと消えゆく。
雪の妖精たちは、私の周りを取り巻いて、囁く。

このまま一緒にどこかへ連れて行って。
あなたがたが消える時、私もまたここから姿が消えたらいいな。

そんなことを思いながら、つかの間の光と雪の幻想的な世界の中へ溶け込んでいた。
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2007年03月16日

心の色

霊界物語を読んでいると、悪を行っていた人間たちがどんどん改心していき、そして立派な宣伝使となる有様が多く描かれている。

そして、肝心なのは、許すという心。宣伝使になると、その許すということが当たり前の状態となっているのだ。
どんなに酷い仕打ちを受けようと、その人を憎まない。それどころか、その人間がなんとか改心出来るようにと骨をおるのである。
まさに、人類の親でもある神の御心そのままなのだ。悪を行う人間が改心し、善の人となる。その時、本当の仲間となり、互いに助け合い、同じ目的に向かって歩むことが出来るのだ。その嬉しさ。

四十一巻第十三章に書かれてある事柄であるが、元バラモン教で悪の諸行を行っていた者が、その後、改心して三五教の宣伝使となり、黄金姫という名をもらって活躍している人の言葉である。

「たとへこの室を覗かぬとも、あなたの信仰がかうだとすば、何時とはなしに、あなたの声音に現はれ、皮膚に現はれ、遂にはかんづかれるものです。どうしても心の色は包むことは出来ませぬから」

心の色。確かに、そう思う。話し方に現われたり、文章に表れたり、絵画などの作品に表れたり、その人の持つ雰囲気ににじみ出たり・・・・・。
心の色は、決っして覆い隠すことは出来ない。だから、人は嘘をつけないもの。
そして、だからこそ、自分自身をどう創造していくかが楽しくてしょうがないのだ。

どんな心の色になっているのか。
どんな心の色を創り上げられるのか。
私は、私を創造する芸術家でありたい。
posted by ミューシャ at 21:37| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年03月15日

霊感商法

今日の、わが家の夕食時の会話。

私「小さい頃からお受験の為に、子どもらしい生き方をさせてもらえずにすぐに死んでしまったら可哀想よね。」

下の子「そうそう。だから、今を好きなことに思う存分かけた方がいいに決まっている。」

私「あなたは今を濃く生きすぎ。少しは将来を見据えて行動しなさい。」

下の子「いいの、いいの。どうせ、事故で早く死ぬんだから。」

私「は?」

下の子「占い師に言われた。」

私「いつ?」

下の子「友達と遊びに行ったときに、ちょっとね。」

上の子「悪いことを言って、何か売りつけようとしたんじゃない。よくあるパターンだよ。」

(この後、しばらく姉妹でふざけあう。)

私「そういうのを霊感商法と言って、犯罪なんだよ。不吉なことを言って心配させて、物を売りつける。だいたい、そういう不吉なことを言う占い師とか霊能者というのには、ろくなのがいないんだから。
物を買って救われるなんて、そんな調子のいい話がある訳ないじゃない。人をむやみに不安に陥れるなんて、警察に捕まえてもらわなければならないわね。それに、ほんと、神への反逆者もいいところ。お母さんが、その占い師のところへ乗り込もうか?」

二人の子「乗り込めー。」 (爆笑)



人は何か困窮することに遭遇すると、藁にもすがりたくなる。だが、神頼みだけで救われることは決してない。
現実的に打破しようと努力しない限り、状況は改善しないのだ。それが、人間に与えられた歩みなのである。

そして、そこには祈りというものが必要にもなってくる。祈りということは、神頼みではない。崇高な行為。
祈りによって、人は強くなれる。祈りによって、物事が客観的に広い視野で見れるようになる。そして、祈りは人を美しくさせる。
神頼みと祈りは、まったく別次元のものであるのだ。祈りは、覚悟でもあるから。
posted by ミューシャ at 23:18| Comment(4) | TrackBack(1) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年03月14日

大和魂

霊界物語第四十巻の中に、次のようなことが書かれてある。

レーブとカルの二人が、三途の川を渡ってから、一万里の道程を歩いてきたところ、両人はとてもお腹が空いていた。
そこに女神が二個の果実を持って現われる。
一つは足魂という果物で、得もいわれぬ甘い汁を含み、五臓六腑を爽やかにし、その実を食せば五年や十年は腹の空かぬものである。
もう一つは、玉都売魂といい、わずかに飢えを凌ぐことができるが、石瓦のごとく固く、味も悪く、苦い汁がでているものである。

女神は、二人にどちらを食べたいかを聞くが、最初は二人はお互い足魂を譲りあっている。
しかし、この行為は一見美しいかのように見えるが、偽善的行為であることを看破される。
それは、惟神ながらの心で行っているものではなく、善的行為をすることによって自分がいかにも善いことをしたという思いが心に潜んでいたからである。

この後、女神と二人の間で問答的なものが続くが、最後は女神の下さる方を受け取ろうと惟神ながら的になる。

しかし、これで善しというものではなかった。ある惨状を二人に見せ、そして二人の、一見、惟神ながら的な言葉に対し、次の女神の言葉が実に明快で気持ちよい。

「二十世紀の三五教の信者のやうに、あなたもよほど惟神中毒をしておられますなア。尽くすべき手段も尽くさず、難を避け易きにつき、吾が身の安全を守り、世界人類の苦難を傍観して・・・・たうてい人力の及ぶかぎりでない、何事も惟神に任すより仕方がない・・・・とは実に無責任というはうか、無能といはうか、卑怯といはうか、人畜と申さうか、呆れ果てたるその魂、さやうな事でどうして衆生済度ができませう。

お前さまたち両人は、神の恵みによって高天原の門口へ臨みながら、そんな利己主義(われよし)の心では、局面たちまち一変して八万地獄の国へ、たつた今落ちますぞや。

今日は他人のこと、明日は貴女のこと、因果は巡る小車の罪の重荷のおきどころ、どうして貴女は何時までも、悠々楽々と天国の旅行がつづけられませうか。実にお可哀想なお方だなア。少しは貴女の良心に御相談してみなさい。左様なことで、ようまあバラモン教だの、三五教だのといって世界を歩けたものですなア。

あなたのやうな無慈悲な方には、もはやこれきりお目にはかかりますまい。さやうならば足許に御注意遊ばして、ご機嫌ようお越しなさいませ。」


これは、なんらかの宗教をやっている人間にしばしば見られる状態。なんでもかんでも神の御心のままにという、一見すれば悟ったかのような状態。
しかし、そのほとんどは自分の意志も感情も失くしているのである。

王仁三郎は、大和魂は菩薩心だと説く。そして、菩薩心は三つの心が寄り集まったものであると。

@神心、仏心、覚心(慈悲心、同情心などのように善に傾く心)
A勝義心(理性)
B三摩地心(意志)

シュタイナーもまた、感情と意志の育成ということの大切さを説いている。
そして、意志については、叡智の中から現実を作り上げる創造的な力でもある意志の育成を述べているのである。

惟神ながらということを履き違えると、どんな悪しき状況であろうと人との摩擦を避け、ただただ善言美詞を口にするだけで状況を打破する為の策を講じずに、いつかは神がなんとかしてくれるだろうという馬鹿げた期待の中だけにいることとなる。

生きている我々は、善くない現実に対して自分の意志力を持って切り拓いていかねばならないのである。

かといって、罵詈雑言で相手はねじ伏せようとするのは同じ穴の狢。どんな大義名分を持とうとも、実は悪を行っているのであり、また自分の本性を暴露しているにすぎないのである。

王仁三郎は次のように述べている。

「悪声を放ち陰口をきき又追従軽薄を並べるやうな人間は、それだけでその人格の下劣邪悪なることが分かる。世界の経綸どころか人として次の新理想時代に生存すべき資格の有無さへ疑問である。」

悪言を吐いたり、相手が傷ついたり嫌がるだろうということが分かりながら発する言葉の持ち主は、早く自分の言動を改めた方がよかろう。

また、感情ということについて。
シュタイナーは、超感覚的という言葉を用いるし、またより繊細な感情という表現を用いているが、やはり宗教をやりながらも、こういった感情というものを失ってしまっている人々を多く見てきた。

感情の起伏がないことは、ともすればすべてに平等であり、出来た人間と思われるふしもあるが、私はそういう人を見ると血の通った人間と思えないのである。
どこかに感情を置き去りにしてきてしまったかのよう。
人間であるなら、豊かな感情表現を持ちたいし、豊かな感情を養いたい。それが、人間というものだから。少しぐらい不平等があったっていい。そう、思う。

また、ふと、王仁三郎が煙草を吸っていたことなどを思ったが、シュタイナー学からも、また、健康面や精神面からも煙草は善くないものであるが、ここで考えなければならないことは、なぜ王仁三郎ほどの人間が煙草を吸っていたかである。彼ほどの人物なら吸わないことも簡単に出来たはずである。

おそらく、意志の弱い人、何かに逃げ場を持ちたい人、また混沌とした中に居る人々など弱い立場にいる人々に対し、これは悪いものだからしてはならないとはっきり突きつけることは、その人の霊魂を余計に苦しめることになるかも知れない。
追い込んで行くことだけが、善へと導く道でもない。

弱者を一緒になって引き上げていくこと。これが、王仁三郎の精神だったのではないだろうか。

ただ、やはり善くないものというのは、どんな優れた霊格者であろうと隙が生じる。残りの1パーセントに時々躓くのは、きっとそのせいかも知れない。
そして、王仁三郎自身も、自分が本物ではないというようなことをどこかで言っていたと記憶しているが、それは、そう出来なかった自分を十二分に分かっていたからだと思う。

王仁三郎は情の人。情深き人。彼が弱者を救うために諦めた残り1パーセントの課題は、それぞれの霊界物語愛読者が補っていくものだと思った。
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2007年03月13日

インフルエンザを振り返って

六年ぶりに罹ってしまったインフルエンザ。けっこう高熱が続くと大変なんだなと痛感。
こめかみや耳の奥で脈打つ血流の音が、今にも爆弾に変わりそうな感じ。
苺が美味しかったし、また、それぐらいしか食べる気になれなかった。
私は跡取りではないけれど、もし将来、親の介護とか手伝うことになったなら、たぶん、少しはどんなことを欲し、弱くなった体はどんな状態なのかを身をもって体得できたと思う。
だから、今回は自分が苦しんだけれど、人の手助けをするときの為には役立った経験。こうしてあげたい、ということが多少は理解できたから。

なんとなく、今までの人生の中で、高熱が出た時の記憶を辿っていた。
面白い符合があった。
高熱が出てから、半年から一年の間に、私の人生にはいつも激変が起きていた。まったく予想もしなかった環境へ行ったり、或は苦しんでいた物事に異例とも思われる新展開が訪れたりなど・・・・。
今年の私の星の位置は、人生における最大のカルマによる目的へ答えを出すという意味がある。
何が起こるか分からないけれど、また、こういった法則性に気がついたから、もしかしたら、もうその法則とはさよならかもしれないけれど、一応、覚悟はしておこう。私は、もうすべてを受け入れている。

でも、この受け入れているということが、私の場合、どうも希望へと繋がらない。それは、この世で生きたいという気持ちが薄いからである。こればかりは、どうしようもない。

熱にうなされていると、トラウマとなっていることの夢をよく見る。同じような夢。
しかし、それ以外の夢は面白かった。三つほど鮮やかに記憶に残っている。一つは、宮中祭祀の夢。一つは、世界で始めての美しく模様替えされた教室の夢。一つは、指先一本で天候を操れる夢。
また、病み上がりには、女王と下女の夢。これは、その後、宇宙ステーションまでいってしまうというストーリーにまで発展。

また、夢ではないが、玉依姫は赤色だと、なぜか確信を伴う感情で支配されていた。

それから、これは後遺症? 左耳の奥で、ある感情に支配されると、ザッ、ザッ、ザッ、ザッという、砂利道を歩いているときの足音のような音がする。

なんか、ネットから離れていると、ある意味ではとても気が楽。だって、とんでもない邪念を受けることがないから。中に、そういう人、いる。自分だけの一方的な感情で、本能的な獣の思念を発する。だから、人間は嫌い。でも、それでも、人間は美しい生き物だと思う。そう、美しい人だけを見つめていればいい。醜い人は、視界の外へ。
ロムだけの人は、相手に分からないと思っているだろうが、その思念の波は生きている。全くの生き物。生き物の世界。

はぁ〜、それにしても三月は、現実的にはやらなければならないことが沢山ある。ここにきて、霊界物語の音読がなかなか捗らない。

あ、そうそう、大祓祝詞解。どうして、王仁三郎はああいうことを書くのだろう。99パーセントは凄いなと思うのに、思慮の浅い人間がすぐにでも審神ごっこに使いそうな差別的なことを書いている。
是非ともシュタイナーのカルマ論を読むことをお薦めしたい。病気の原因となるカルマは、あのような単純な言い方で表現をしてはならないものである。
時々、王仁三郎のデリカシーの無さに、かつんとくるのであった。
posted by ミューシャ at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年03月07日

インフルエンザ

ただいま、インフルエンザと格闘中につき、しばらくの間、記事の更新が出来そうにもありません。?N???X?}?X
posted by ミューシャ at 12:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年03月03日

宗教は芸術の母

かつての記事の中で、出口王仁三郎の言葉「芸術は宗教の母である」ということを引用して書いたが、なんと、シュタイナーは王仁三郎と反対の見解であった。

シュタイナーは、芸術は宗教の娘だと述べている。その箇所を抜粋。

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宗教は文化の一分野だったのではなく、日常の生活分野に直接浸透していました。その浸透する働きは、あらゆる体験領域に及びました。それは宗教的高揚を可能にしました。しかし、その宗教は、宇宙的な神々に対する宗教的高揚であるにとどまりません。

人類のこの原宗教は、人間の精神生活のどんな部分にも働きかけますから、芸術の形式にもなりえたのです。宗教的な生命が大胆な芸術形態になりました。宗教と芸術は、一つでした。

芸術は宗教の直接の娘であり、母なる宗教そのものと一緒に家庭生活を営んでいました。

(略)


しかし芸術という娘を伴ったこの原宗教は、同時に、精神のエーテル圏の中で浄化され、人間の魂に働きかけ、その結果知識と認識をも生じさせます。もちろん、今日の学問と認識は、当時の認識の淡い、抽象化された残照にすぎません。

古代人の深い感情が、芸術形式をとった宗教に熱狂するとき、魂の中に霊界の神々について認識が明るく輝きました。ですから、知識、認識も宗教の娘だったのです。学問も、原宗教文化という原初の母と一緒に家庭生活を営んでいました。

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私は、二人の子どもたちに聞いてみた。一人は、学問の好きな知的な子。もう一人は感覚的ではっきりした子である。

前者は、芸術が宗教の母だと思うと言った。理由は、今までの知識の集積から導き出したようだ。アニミズムの発祥とか、人類の進化過程などからである。

後者は、宗教が芸術の母だと言った。理由は、変な絵を描く画家もいるからだと。思わず、単刀直入、簡潔明瞭な答えに笑ってしまったが。

そこで、前者には、このシュタイナーの見解を読ませた。そうしたところ、彼の見解に納得したようだ。
私もまた、シュタイナーの見解に出会って、宗教は芸術の母であり、芸術は宗教の直接の娘だということに、自然な状態を感じるのである。
芸術は、そこに宗教的な要素があってこそ、人を感動させられるものであり、感銘を受けるものである。一種の秩序に貫かれたとでも言ったらいいだろうか。
それは、母の遺伝子が子どもに流れ込んでいる状態と同じことだとも言えるし、母の持つ要素が子どもに受け継がれた状態と同じでもある。
また、現代人が捉えている宗教と原宗教は違うようにも思う。原宗教というものを見つめてみたい。

PS:また、正しくない見解をブログに書くと、必ず守護霊人はそれほど時をおかずに正しいものに遭遇させるようである。
posted by ミューシャ at 21:03| Comment(4) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年03月02日

言葉の精霊

「霊界物語」の三十七巻、三十八巻の王仁三郎の自伝の後に、再び三十九巻から霊界の口述に入るが、明らかに音読する声の成分が違う。
より瑞々しく躍動しているとでも表現したらいいだろうか。こんなにも心地よいものだったのかと思う。

シュタイナーは「言葉の精霊」ということについて語っているが、その一部分を抜粋。

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言語と真剣に取り組むときには、いわば「言葉の精霊」と出会わなければなりません。

別の折にすでに述べましたように、薔薇十字会神秘劇第二部『魂の試練』においては、宇宙創造主の根源的な活動に対して「詩作する」という言葉を用い、第一部『伝授の門』においては、アーリマンに対して「彼は濃密な光の中で創造する」という言葉を用いたのは仔細あってのことでした。

現在の習慣に従って、こういう言葉を判断する人は、これらの言葉も他の言葉と変わりない、と思っているでしょう。しかし、そうではありません。これらの言葉は、根源的な「言葉の精霊」にふたたび立ち戻らせるのです。

それはまだ人間の意識的な自我生活、イメージ生活を通過しなかったものを言語から取り出す方法なのです。そして言語はそのようなものを多く持っています。

(略)


中世ドイツ語はこの神秘的事実を示唆して、「生まれる」という抽象語の変わりに、「人は若返った」と言ったのです。「若返った」というのは、実に意味深い言葉です。ゲーテの『ファウスト』第二部で、「霧の国で若返った」という言葉が出てきます。霧の国は中世ドイツを表す言葉です。霧の国で若返ったとは、ドイツに生まれたという意味です。

しかしこの言葉には「言葉の精霊」という人間よりも高次の本性の意識が現われており、この同じ本性が人体組織に創造的に関与していたのです。

ドイツ語の詩について語るときは、世間に広まっている意味を詩人が濃縮化していることを意識していなければなりません。

現在のような無味乾燥な言語学ではなく、生きた「言語の精霊」に眼を向けた言語学がいつか存在するようになるでしょう。

「言葉の精霊」は今はまだ自我人間の無意識内に留まっていますが、霊界という通常意識の深層に潜んでいる世界の特徴を知りたければ、この「言語の精霊」から多くを取り出せなければなりません。

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王仁三郎のエスペラント語が、シュタイナーの言う言語の精霊に眼を向けたものであるかどうかは分からないが、もしそうであるなら次第に世界中に浸透していくこととなるかも知れない。

また、霊界物語は一つのことを幾つもの表現を使って現していたり、漢字で書かれたものに、まったく我々が日常では使っていない読みを付けたりしている。
これは、シュタイナーの見解と照らし合わせると、なぜそうしなければならないのかが理解できる。
そして、王仁三郎の口述の殆どは(私は霊界物語すべてが霊界からだけのものとは思ってはいない。多少、彼の個人的なものも入り込んでいる箇所もあるように感じる。)、入神状態(こういう表現が適当か分からないが)であることから、霊界物語の音読は「言葉の精霊」から多くのものを取り出し、そのことによって世界が活性化され秩序化されていくという要素があるのではないだろうか。

ただ、なんの書でも同じだが、素直に謙遜を持って読まなければ、良書であればあるほど、その人自身の本性が表に現われてくる。心して向かいたいものである。
posted by ミューシャ at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする