2007年04月30日

今、出来ること

玉津島神社で引いたおみくじに、次のようなことが書いてあった。


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金をためたら、慈善をするという人は、ためるお金に限度がないから、なかなか慈善が出来がたい。物がなければ力で、力がなければ言葉ででも、人を慰め、人の力になってやれ。情けは人のためならず慈善をすれば心が明るくなって、まず自分が救われる。

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これを読んだとき、あまりの的を得た内容に目が覚める思いがした。
「今は何も出来ない」のではなく、「今、出来ることをするべき」なのである。それがどんな小さなことであろうとも。

ふと、思った。赤ちゃんはハイハイから始まり、次につかまり立ち、そしてヨチヨチ歩きになり、次第に力強く歩けるようになる。
その姿は真っ直ぐで、一生懸命。そんな直向な姿勢を忘れてはならないと。

大人になると余計なことばかりを考えて、なかなか前へ進めなくなる。でも、今、必要なこと、今、出来ることに反応したいと思うし、そうでありたい。
小さな小さな自分ではあるけれど、心を開けば、何かは出来るはず。
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丹生氏と紀氏の和

一泊二日の小旅行に出かけてきた。
玉津島神社へ行きたくなって、思い立ったら吉日。なんとか宿泊施設も予約できたので、行くルートは次のようにした。

丹生酒殿神社 → 丹生都比売神社 → 和歌浦で一泊 → 玉津島神社 → 塩竈神社 → 日前國懸神宮


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丹生酒殿神社。前回、この神社の存在を知らずに迷い込んだところであるが、今回はきちんと知識あっての参拝。
尚、丹生に関しては、ブログ「かまちゃん日記」に、かまどさんが詳細を書かれているので、訪れるに当たってとても参考となった。

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神社へ着くと、晴れていた空から急に数十秒ほどパラパラと雨が降ってきた。まるで、お清めの雨のよう。

本殿に参拝した後、向かって左側にある神社(榊山神社?ちょっと名前を忘れてしまったが)へと行ったが、その手前あたりで、一匹の紋白蝶が側へ飛んできた。
前回も、この場所だった。揚羽蝶が飛んできたのは。



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本殿の右後方にある鎌八幡宮。たくさんの鎌が打ち込まれていた。鎌が刺さったところは、まるでこぶのように盛り上がっている。
でも、見ていて木が可哀想になる。そっと幹に手を触れて、慰めた。



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境内には、大銀杏の木があった。その木から落ちたと思われるもので、なんというものなのだろうか、長さ3〜4センチほどの薄い黄色をしたものが、まるで絨毯のように辺り一面を覆いつくしていた。

参拝を終えたら、どこからともなく一匹のわんこが。首輪をしていたので飼い犬と思われるが、とても人懐こい。しばらく一緒に遊んだ。
帰ろうと車に乗り込んだら、まるで車を通せんぼするかのように、じっとそこに立ったまま。まだまだ遊んでもらいたいみたい。でも、ごめんね。次へ行かなくちゃ。

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丹生都比売神社。ここでも不思議なことに、境内に入るとパラパラと雨が降ってきたのである。数分間ほど。でも、濡れて困るというほどではなかった。

また、幸運にも、神職の方からお話しを伺うことも出来た。そして、かつらぎ町観光情報マップというパンフレットと共に、ご自分が以前に書いたものだという「高野山の守護神と丹生氏族」というものをコピーして下さった。なんと親切な方!驚きました。
そして私は、なんとなく『丹生』の持つ流れを感じることも出来たのであった。



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境内に咲いていた桜の花。4月も終わりというこの季節に、まだ咲いていることに嬉しい驚き。思わず、心が潤う。

尚、ここで引いたおみくじ。「雨風を呼ぶが如く」と書かれてあるもので、思わず微笑んでしまった。


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さて、この日は和歌浦の温泉で一泊。間際の予約であったので、残り一室という場面でゲット。それでも、デラックスタイプの部屋は数室ほど空いていたが、そこまで金額を払う気はなし。海に面した宿であるが、ここでもまた嬉しい驚きが待っていた。

予約したのは、一間だけのスタンダードタイプの部屋。しかし、実際には、二間の部屋と、茶室、そして中庭のついた角部屋であった。あまりのデラックスさに目が丸くなった。
だが、不思議なことに、そのホテルの案内には茶室のついている部屋の紹介はなかった。いったい誰が使う部屋?

露天風呂があったので、3回も入ってしまった。夜は月を見ながら、朝は太陽の光を浴びながら。


さて、翌日。


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玉津島神社へ。
しかし、な、な、なんと、ここは以前訪れたことのある神社。すっかり、記憶から消えていた。ずいぶん前のことだが、その頃は別にそれほど興味があるという訳でもなく、ただたんに通りかかって寄ってみたというものであった。
しかし、なんで、すっかり忘れていたのであろうか。普通、ネットでその写真を見れば思い出すはずなのに・・・・・。

ここでも、蝶が。最初、白に黒の縞模様の一匹の揚羽蝶。その白が、あまりにも真っ白であったのが印象的であった。

ここで引いたおみくじ。

「さくらばな のどかに におう 春の野に 蝶もきて まうそでの うえかな」


参拝した後、神社の向かいにある「鏡山」という小高いところへ登ったのだが、その階段下で落ち葉の掃除をしている方が、何度も「足許に気をつけてお登り下さい。」と丁寧に声をかけてくれた。
また、下の写真は、その頂上から見えた光景。ここでは、一匹の黒揚羽蝶と、何匹ものエメラルドグリーンをした蝶が舞っていた。

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その後、すぐ近くにある塩竈神社へと参拝。写真は、残念ながら人が写ってしまっているので掲載出来ない。
尚、鏡山の麓に塩竈神社がある。



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お次は、日前國懸神宮へ。

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最初の大鳥居を通って真っ直ぐ進むと突き当たり。そこを左へ行くと日前神宮。



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日前神宮の隣にある天道根命神社。



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先程の突き当りを右へ進むと國懸神宮。



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國懸神宮の隣にある中言神社。


この日前國懸神宮では、鏡山で見たエメラルドグリーンの蝶が沢山遊んでいた。

また、お守り授与所では、白い猪の焼き物が可愛くて購入したのだが、時期外れのせいであったか、なかなかその在庫が見つからなくて結構待つこととなった。
しかし、一人の巫女さんは久々に素適だと思える感じの良い人であった。まるで鈴の音が響く感じの知的な女性。巫女さん最優秀賞というところだろうか。

その後、さあ、鳥居を潜って帰ろうかとした時に家族の携帯に電話が。長いこと境内で通話することとなった。



と、このような旅行となったのだが、とにかく素適な人々や出来事にばかり出会い、幸福感に充たされている。
また、丹生氏と紀氏の協力。素晴らしい力。それぞれ違う個性を持つ流れの融合。そして、それは流れ続けている。
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2007年04月24日

回帰

『未来において、言葉が人間の中で生命あるものになり、そしてエーテル体の中で言葉が生きるようになるなら、すべての人間は、アストラル体でエーテル体を支配するようになります。』

ルドルフ・シュタイナー



聖書においては、神は天と地を創造し、そして、神は「光あれ」と言った。
霊界物語では、高天原の天国と霊国は光明の世界であると述べられている。そして、その光明とは、神真であり、霊的神的証覚であるとのこと。

シュタイナーの上記の内容から、私の中で拡がるものがある。
シュタイナーは、人間は自由意志を持たねばならないと言う。その洗練された自由意志こそ光明ではないかと。

そして、神に言葉があるように、人間の中にも言葉は組み込まれている。だからこそ、その言葉を生命あるものとして生かす為の自由意志が必要となってくる。

「人間の中で生命あるものとなり」という、シュタイナーの言葉のなんと美しい響きであろうか。彼の語る言葉を見て、私は、生命ある言葉とうことの意味を知る。
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2007年04月23日

人魚の真珠

シュタイナーは語る。

【かつて神々は、人間の中に神々の体、神々の実質を組み入れてくれました。この世のどんな人の場合にも、神々の成分が、魂の奥底に備わっているのです。】


【しかし神々は私たちを目標に導いてはくれません。なぜなら、神々が私たちの内部に宝を組み入れてくれたのは、私たちが自由を行使して、自分でそれを取り出すためなのですから。

ですから私たちは、内なるこの宝を無駄にしてしまうかもしれません。そうしてしまうことが、人間の魂が選ぶ道の一つです。

第二の道は、天上の神々に対して私たちの至高の義務を意識することです。そのとき、私たちはこう語ります。―――

「私は自分で、隠された深みからこの宝を意識の表面に引き上げなければならない。」

魂の宝を意識の深層から引き上げるときの私たちは、一体何をするのでしょうか。

そのとき私たちは、かつて神々の実質として存在していたときとは異なる形態をこの宝に与えるのです。とはいえ、私たちはこの宝をふたたび、神秘的な仕方で、神々に返すのです。

認識力の力で、個人的な問題に関わり、自己中心的になるのではなく、神々が与えてくれた高貴な財宝を、私たち自身の手で新しい形態に変えて、ふたたび高次の諸世界に送り出すのです。そうすることで、神々がその財宝を私たちと共有できるようにするのです。】


神々が人間の中に組み入れてくれた内なる宝。人間であるなら、誰もが一人残らず与えられているもの。組み込まれているも。

ただ、それをどのよにするかは、その人自身が選ぶこと。

私は、シュタイナーの語る第二の道を選びたい。神々が与えてくれたものを、そのまま表面にだすだけではなく、新しい形態に変えられるということは、無上の喜びであり、希望でもあるのではないだろうか。

器としての自分。神の器としての自分。その器をどのように育て、そして、神々が与えてくれたものに、自分の持つ芸術的な微笑を練りこんで開花させたい。
神が組み込んでくれたものゆえ、大切に、大切に。
人魚の真珠のように・・・・・。
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善は力となり

「霊界物語」第四十九巻より抜粋。

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 日の出神と称してゐる副守は、普通の精霊とは変わってゐる点は、自分は八岐大蛇の悪霊であり、金毛九尾の悪狐であった、がしかし、五六七の世が出て来るについて、何時までも悪を立て通すわけにはゆかぬから、心の底から改心をし、昔から世を紊(みだ)してきた自分の悪を悔い改め、しかして誠の神の片腕となって働くのであるから、悪にも強かったものはまた善にも強い、ゆゑに自分のいふことは、一切が霊的であり神的であり、かつ善の究極である・・・・と信じてゐるのである。故にかくのごとき精霊は、人間たる高姫と同伴し往来するも、その肉体を害することはない。

 高姫はその精霊を、義理天上日出神および悪神の改心して誠に立ち返った尊い神と信じて、これを崇拝し、その頤使に甘んずるがゆゑに、精霊もまた人間の体に這入ってゐることを感知しながら、かへってこれを自分の便宜となし、愛するのである。

かくのごとき精霊に迷わさるる者は、愚直な者か、あるひは貪欲な者か、精神に欠陥のある人間である。

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悪に強いものは、善にも強い。だから、悪に交わることも必要だ。 ――― そんなことをしばしば耳にしてきた。
しかし、私には、そういう考えが理解できなかったし、決して正しいことだとも思えなかった。

悪に強い者は、悪の世界では強いかも知れない。
悪であったが改心して善に立ち返った者は、やはり悪に強いかも知れない。
しかし、悪と善は異質なもの。悪は、決して善に強くはないのである。
そして、善は悪に強い。それは、善は悪に染まることはないからであり、それはなぜかというと、真愛、真信という、生命を創造した神の性質そのものの流れを持つからである。

だから、悪を理解するために、悪に勝つために悪の世界に浸ることも必要だという見解は、まさに悪の思考。自己便宜、自己愛そのもの。
そのような考えで、自ら悪に関わることを正当化している人間は、やがて堕落への道へと走り、取り返しの付かないこととなる。

また、とんでもない宗教団体に関わった人のマインドコントロールを解く為に、たとえ一時期たりとも神から離れてもいいなどと言うことも悪の囁き。
ケアする側は、決して神を否定してはならないし、信仰心が確立されていてこそ、ほんとうにその人を救済できるのではないだろうか。私は、そのように思う。
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2007年04月21日

フィルター

いつもは見ない時間に、ほんの少しの時間待ちという程度のときに目に入ってくるテレビの映像。そんな時は、なぜか素敵なことがもたらされる。

コブクロは、ミスターチルドレンの桜井のファンなのだろうか。こんなことを、まるで子どものように無邪気に目を輝かせて言っていた。

コブクロの歌を、彼が歌ったときの追想である。

「自分の歌が、ミスターチルドレンというフィルターを通して流れるんだよ。これは、凄いことだよ。
『桜』という歌を、桜井さんが少し違う歌い方をしたのだが、本来のものとは違うけれど、それ以来、桜井さんが歌った歌い方をしている。」

フィルターという表現に、私は感銘を受けた。人間という器。同じものでも、その器によって様々な流れとなる。

例えば、霊界物語。音読で、やっと48巻まで読み終えたが、それまでの私という器はどうであっただろうかと。
神の書と言われる霊界物語。それを私という器は、その書の資質を損なうことなく、不純物を付け加えることなく出来ていたであろうか。そばで聞いている精霊たちに、十分に伝えることが出来たであろうか。

自分という器を、より純化させねばならない。善きものは、さらに善く、悪しきものは善きものに浄化させ、そして外に流していかなければならない。
自分は世界の中の小さな点に過ぎないが、その小さな点も重要な通過点の一つなのである。
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2007年04月20日

子どもの感性

子育てをしていると、その年齢に応じた子どもとの会話の中で、いろいろな発見や、こちらが啓発させられることがあるので面白い。

中学生の子どもとの会話で、今日はこんな話になった。

子ども:「女性は子どもを生む機械だと言った大臣がいるけれど、あれって、子どもが欲しくても出来ない人には可哀想な発言だよね。だって、女であることを否定されたようなものでしょ。」

私は今まで、彼の表現の仕方は女性全体に対する侮辱的なものとして受け止めていた。
だが、この子どもの意見は、そういったことよりも、最も傷つくであろう人のことへと意識が注がれていたのである。母は、反省した。

また、春休みのことだった。2,3ヶ月ほど前に子どもの好きなバンドのライブチケット販売が抽選で行われた。友達三人と行く予定で、しかもけっこういい席が取れていた。
しかし、いざ春休みなったら、たまたまその日に塾の一日講習が入ってしまった。
さあ、子どもは迷った。ライヴに行きたいけれど、塾も高いお金を払っているし、どちらにしようかと。
私は、どちらを選ぶか傍観をしていた。

この選択には驚いたのだが、子どもは塾を優先させたのである。
友達には二人だけで行ってもらうとして、さあ、そこですでに購入してしまったチケットをどうするかということになった。

なんと、携帯からネット販売をしたのである。もちろん、初めてのこと。親の監視下とはいえ、私も個人でのネット売買は初めてのこと。どうなるか心配であった。
すぐに何件かの購入申し込みがあり、その中で一番高い値段をつけてくれた人へ売ることにした。とは言っても、元値よりは安いが。

かなり遠方の人で、代引きで送付したが、なかなかその人の手元に届かないようだった。
そこで、私は子どもに言った。
「もしかしたら、騙されたのかも知れないよ。お金、損しちゃったかも。」

すると、子どもの返答に、またまた驚いた。
「きっと、ばちが当たったんだよ。いくら塾とはいえ、ドタキャンして友達に悪いことしたから。だから、もし損しても仕方がないよ。」

相手を悪く思うのではなく、自分が原因で動き出した流れをしっかりと受け止めているのであった。

結局、後日、そのチケットは先方に届いて支払いもきちんとなされたのである。


それにしても、子どもたちから教えられることは多々ある。だから、こちらも子育てを真剣にせざるを得ないのだが。
posted by ミューシャ at 20:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年04月19日

内視と外視

霊界物語第四十八巻第九章より抜粋。


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心に慾なく、善の徳に充たされたものは、従って智性も発達し、情動の変化も非常に活発なるがゆゑに、対者の腹のドン底まで透見し、知悉し得るは容易なれども、もし心に慾あり、悪を包み、利己心ある時は、その情動は鈍り智性は衰へ、意思は狂ひ、容易に対者の心中を透見することは出来ない。

ゆゑに人に欺かるるものは、皆その心に悪と慾と自利心が充満してゐるゆゑである。

決して、愛善に充たされ、信真の光に充ちた聖人君子は、自然界の体慾に迷い悪人に欺かるるものでない。

要するに慾深き吾よしの人間が、相応の理によって貧慾な悪人に欺瞞され、取返しのならぬ失敗を招くものである。

さうして自分の迂具不明から悪人に欺かれ自ら窮地に陥り、遂にはその人間を仇敵のごとく怨みかつ罵り、遂には自分の悪慾心より出たることを平然として口角につかねながら、その竹箟は、つひに神の御上にまでおよぼすものである。

彼らはここに至って、天道は是か非か、神は果たしてこの世にあるものか、はたして神がこの世に儼存するものならば、なにゆゑ、かくのごとき悪人に苦しめられをるのも憐れみたまはず、傍観的態度を執らるるやら、吾々はかくのごとき悪事災難を免れ、家運長久を朝夕祈り、立派にお給仕をして信仰を励んでをったのに、何のことだ。神には目がないのか、耳がないのかなどといって、恨み言を百万陀羅並べ立て、つひには信仰より離れ自暴自棄に陥り、ますます深く地獄の底に陥落するものである。

すべてこの宇宙は、至善至真至愛の神が目的のために万物を造り、相応の順序によって、人間を神の形態に作り、神業を完全に遂行せしめ給はむとして、万物の霊長として人間を世に下したまうたものなる以上は、人間は神界の秩序整然たる順序を守り、善のために善をなし、真のために真をつくさねばならぬのである。

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霊界物語の中では、天人には内視と外視があると述べられている。内視とは天人自身の心の内にあり、外視とはその目であると。

しばしば、ある宗教団体の信者になってみたものの、上記に抜粋したような流れの中を行ってしまう人々を見かける。
だが、どんなに自分を正当化しようと誤魔化してみても、神真の光明は、内視も外視も見透かしてしまうのである。

自分自身を真っ直ぐ見つめ、そこに内包されていたものを認識して受け入れない限り道は閉ざされたまま。

かつて、私は不思議に思っていたことがあった。ある掲示板において、もっともらしい大義名分を前面に出しながらも人の嫌がること、傷つくことが平然と発言されていた。
そして、そういった悪しき流れというものは、新しく参入した人々にも受け継がれて行っていたのだ。
ただ、そういう要素に同調できない人は異端者扱いされたり、傷ついたりして去って行く。
同調した人間だけが残る。そして、そういうものが受け継がれ、増殖していく様。例えそこを離れても、その癖はなかなか直らない。
なぜ、こうも簡単にウィルスが感染するかのように広がるのか不思議であったが、この霊界物語の口述を読んだとき、すべてが氷解した。

宗教などを求めるにしても、その動機は人それぞれ。動機によって、最初から差が生じているのもまた、神界の秩序整然たる法則なのだろう。

人とは、自分にあったチャンネルに合わせてしまいやすいものである。
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頭の良い人

霊学ということに携わっていると、自分の見識や価値観が変わってくる。
例えば、以前だったら知識の豊富な人が頭が良い人だと思っていた。
しかし、今は違う。知識が豊富で、どんなに高い学歴や社会的地位にいたとしても、頭の悪いと思う人々は多い。

それは、なぜか。
生命や心の広がりとか深さが感じられるかどうかということにかかっているのではないだろうか。だから、より多くの違う考えにも素直に耳を傾けることが出来る。摩擦がない。

また、知識が豊富でなくても、一を聞いて十を知るという人々もいる。そういう人たちの発する言葉には無駄なものがなく、むしろすっきりと明瞭に入ってくるものだ。そして何よりも、プラス思考の波動が生じるかのよう。
もやもや感がないというのかな。そんな、感じ。

でも、一番いいのは、ほんとうにそのように頭が良く、かつプラス知識豊富というのがいいのだろう。

まあ、要するに、人として頭が良いということは美しいということ。人間として美しいということ。美しいということは、神に対しての磨かれた鏡であるということ。だから、無駄なものはなく、意義あることが多くなるということ。
posted by ミューシャ at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年04月18日

想念

霊界物語によると、霊界は想念そのものであるとも言えるようだ。人間の肉体としての面貌は、父母からの遺伝によるが、人間の精霊の面貌は、愛の情動如何によって決まるという。

確かにこの状態は理に適っているし、何より公平である。公平であるということは神の御心そのものだし、規則正しい法則性に貫かれているということではないだろうか。

また、人は過去の嫌な記憶を思い出すと、なんとなくその時の感情が甦ったり、悪しき感情が湧いてきてしまうことは多少なりとも誰もが経験していることだと思う。
その反対に、良い記憶からは、どんどん善なる感情や思念が湧いてくるものである。

それについて、霊界物語ではこのように述べられている。悪しき想念は記憶から入り込んでくると。そして、その悪しき思いというのは自分から生じているものではなく、地獄から流れ入るものであると。

まず、想念の世界であるということを把握すること。そして、普段の自分を見つめること。
そうすれば、理性と愛情があり、それをコントロール出来ているのに、なぜ嫌な記憶が甦ると良からぬ想念が生じてくるのか見えてくる。
そういった想念は決して自分が発しているのではなく、地獄界から流れ入ってくることに気付くのではないだろうか。

そうしたら、後は簡単。記憶について、ほんの少し注意深くなっているだけでいいのだ。嫌な記憶が表に出てきたら、そこでシャットアウトしてしまえばいい。
また、善くない思いが湧き上がって来たときも同じこと。それも、地獄界から自分の中へ流れ込もうとしているものだから。

想念の世界は、人間の持つ意志力によってなんとでも出来ると思う。意志力は、神から与えられた如意宝珠のようなものだから。
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2007年04月15日

神愛・神智

「神善」という文字を見ていたら、善女龍王とオーバーラップした。善女龍王といえば、その姿は雲に乗って冠を戴き、中国の衣服をまとう男性の姿で描かれる国宝・善女龍王像が有名だとのこと。

思わず、厳霊を内包する瑞霊を、見事に表しているのではないかと思ってしまった。

また、善女龍王といってすぐ思い浮かべたのが室生寺の近くにある竜穴神社。ここは、室生寺よりも先にあったという。でも、なぜか室生寺の方が有名であるが。

そして、善女龍王といえば豊玉姫。神善の流れ。

この竜穴神社。そして、もう一つ千葉県の館山へ行ったときに立ち寄った神社。残念ながら、その頃はさほど神社に興味はなく、たまたま偶然通りかかったとき、なぜか寄ってみたくなった所である、だから、神社名は覚えていない。

その二つの神社は、不思議な空間であった。どちらも一人だけになる時間がもたらされたが、その時の極度の畏怖の気持ちと、そして、そのままもう少しそこにいたなら、そこに重なって存在している別の空間に引き込まれてしまうのではないかという思いに襲われた。今、思い出しても、その感じは色褪せることなく強い。

と、ちょっと脱線したが、愛は生命の水。愛がなくては芽は出ないのである。霊界物語の中には、このように書かれてある。

「すべて情動なるものは、愛に属し、愛は人間生命の本体である。」


また、これも当然のことであるが、死後の有り様。

「人の精霊は、肉体の脱離期すなはち最後の死期に当たって、その瞬間抱持たところの、最後の想念をは、死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るに従って、精霊は、もと世にあった時、平素抱持したる諸々の想念のうちに復帰するものである。

さてこれらのもろもろの想念は、かれ精霊が、全般的情動すなはち主とするところの愛の情動より来るものである。」

「愛」ということが、如何に大切で重要なものであるかということ。肉体を離れる時までに、愛を深め、高め、そしてその情動により、善のための善を行いたいものである。

私は、思う。神愛を育んでいる人の言葉は心に響くし、浸透してくる。しかし、神愛を二の次にしている人の言葉は、それがどれほど学術的であり知的なものであろうとも、心の奥の鏡は撥ね返してしまう。
神愛から生じる神智だけが必要なのである。
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2007年04月14日

霊界物語第四十七巻

霊界物語第四十七巻はまだ読み途中であるが、いろいろな発見がある素適な巻である。

例えば第十二章に書かれてある視覚力ということについて。

「わが内分の視覚力 すなはち想念界の視覚力は なほも遠方に相達し なほも進んで内辺の 視力のいたる極みには その眼界はなほさらに 遠大なるべきことを知る (略) 神的視力は現実に 一切視力のいと深き 内的にして高上なるものぞ 想念中の かくのごとき 延長の力あるゆゑに (略) 」

私はこの箇所を読んだ時、北光神のことが脳裏に浮かんだ。一つ目の神。そこに秘められた重要性。


また、霊国の天人と、天国の天人は、まったく別の流れにあるものだと今まで思っていた。というのも、霊国は月の国に対応し、瑞霊に対応するが、天国は日の国と厳霊に対応するからであるからだ。

しかし、どうも天国天人の要素を通過して行けるところが霊国なのかなという気がする。
一見すると、天国は愛善、霊国は信真及び知恵証覚に対応するように思えるが、霊界物語の中には、すべて高天原には、順序が第一に重んぜられいると書かれてあるし、また、そう考えるのが普通のことでもある。

真信というものは、愛善の要素がなければ本当の信真にはなり得ないもの。神への愛、隣人への愛があってこそ成立するものではないだろうか。

知識ばかりを追い求めても、愛善という養分を養っていなければ、その知識は神の流れの中のものではなく、それこそアーリマンの欲しがるものとなり、利用されるものとなる。

と、ちょっとここで休憩。また、後で続きを書きたいと思う。
posted by ミューシャ at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

神の川

谷川健一の「神に追われて」という本は、ユタについて詳細に書かれたノンフィクションの書である。
そのなかで、もし霊能力を間違った使い方をしたり、霊能者自身の行いが悪しきものである場合、その末路は精神に異常をきたす方向へ向かうとが書かれてある。

霊界物語にも、同じようなことが書かれてあった。抜粋してみよう。


「真の神は、月の国においては、瑞の御霊の大神と現はれ給ひ、日の国においては、厳の御霊の大神と現われ給ふ。

さうして、厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の御霊を否むがごとき信条の上に、安心立命を得むとするものは、残らず高天原の圏外に放り出される。

かくのごとき人間は、高天原より嘗て内流なきゆゑに、次第に思索力を失ひ、何事につけても、正当なる思念を有し得ざるに立ち至り、つひには精神衰弱して唖のごとくなり、あるひはその言ふところは、痴呆のごとくなって歩々進まず、その手は垂れてしきりに慄(ふる)ひ戦(をのの)き、四肢関節は全く力を失ひ、餓鬼、幽霊のごとくなってしまふものである。

また瑞の御霊の神格を無視し、その人格のみを認むるものも同様である。」


神ということを口にしながら、それでも現実的な目に見える形のみに重点を置き、そこから安心立命を得ようとすること。
それは、偽善である。神を利用しているにすぎない。結局は、利己的な幸福さえあればいいと思う人間であろう。

よく、神社仏閣において、物品の寄進者の名前が書かれてあるものを目にする。それを見て、人はどう思うだろうか?
決して、清々しい気分にはなれないのではないだろうか。むしろ、自己顕示欲、名誉欲の強い人たちだなと思うだろうし、そういうことを平然と行っている神社仏閣の在り方に疑問を持つのではないだろうか。
霊界物語には、そういうことについても書いてある。


「また偽りの信仰とは、いはゆる偽善者どものその善行を飾る武器として、内心に悪を包蔵しながら、表面宗教を神じ神を礼拝し、あるひは宮司などに寄付金をなし、その金額を石または立札に記さしめて、自分の器量を誇るところの信仰である。

あるひは商業上の便利のために、あるひはわが処世上の都合のために、表面信仰を装ふ横着者の所為を称して、偽りの信仰といふのである。

ようするに、神仏を松魚節(かつおぶし)として、自愛の道を遂行せむとする悪魔の所為をいふのである。かくのごとき信仰は、神に罪を重ね、自ら地獄の門扉を開く醜行である。」


このようなことも、理性的に考えればすぐにわかること。己のどういう情動から出るものであるか、それは自分自身が一番よく知っていること。
神仏は、穢れたものを忌み嫌う。純化されたものだけを受け取るのである。なぜなら、神は純化そのものであるからだ。

また、霊界物語には、体主霊従は悪しきことであり、霊主体従を善しとしている。それも、霊五体五で、少しだけ霊が勝っている状態が善いとのことであるが、これだけ出口王仁三郎が言いながらも、その信奉者たちの中には、霊に重点を置きすぎている人々をけっこう見かける。実に、不思議なことである。

ネットの世界は、面白いようにその流れを見ることが出来、そして、時としてその結末までも見れてしまう。決して、霊に溺れたくないものである。

そして、器としての自分が神の内流を受け、善きことが出来たとしたなら、それは神の内流ゆえに出来たことであり、決して自分の力で出来たものではないのだ。
ただ、内流を得るべく、自分の器を整える努力をしているだけ。それは、水の流れのようなもの。如何にして、上流から流れてきた水を下流へと流せることが出来るかというだけのこと。
だから、決して流れを止めない自分になりたいものである。流れる神の水と同じように・・・・。
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2007年04月13日

人間として

ニュースで、矢を射られた猫のことが流れていた。近年、とみに人間が動物を虐待する事件が増えている。水面下に隠れているものも含めたら、どれほど多くの動物たちが犠牲となっているだろうか。

かつて、近所でもあった。子どもたちが集団で猫に石を投げつけて殺したのだ。だが、その事件をまわりの大人たちは取り上げなかった。だから、私もだいぶ後になってからそのことを知った。

その主犯格となっていた男の子は、有名な私立中学へと進学した。小学校時代から、クラスメートへ陰湿な意地悪をする子であった。ただ、成績が良かったので教師の受けは良かったようだ。他の子たちが言うことよりも、教師はその子の言い分を信じていたという。

その子の母親を知っているが、私にとっては近づきたくないタイプであった。なぜなら、他者への配慮ということをしようとしないし、出来ない人であったから。常に、自己中心的であった。

そんな冷たい親の血を受け継いだ子どもは、面白がって猫をなぶり殺しにし、私学の有名進学校へと進み、そのあとはどうなるのであろうか。限りなく怖ろしいこと。

また、近所の奥さんが幼い女の子を連れたまま、側に寄ってきた猫を足蹴りしているところも見てしまった。
この地域の怖ろしさ。

今月の24日に、初めての全国一斉学力テストが行われる。小学校6年と、中学3年生を対象にしてのもの。
賛否両論で、中には不参加を表明しているところもあるという。

結果は公表すべきだと思う。良い地域には、良い状態で学校が運営されているし、酷い地域では、学校運営はずさんである。それは、平行することだと思う。

地域、保護者の影響力は大きい。発展的で進歩的な考えの保護者が多いとこころは地域の質としても良く、自ずと学校も活性化され、反対に不平不満の声ばかりで人任せの保護者が多いところは、学校もそこの教師たちも低いレベルに留まっている。
すべては繋がり、そして平行して流れているものだ。

テストの結果が出たら、その次には、きちんとあらゆる方面で分析して欲しいと思うし、そうでなければならないと思う。

私もこの土地へ来るまでは、教師も学校も信頼できていた。しかし、ここはあまりにも酷かった。地域としても、学校としても、教師たちも。まるで、どこかの国へタイムスリップをしたかのように。これほどの差があることに、驚くと共に、怖ろしさをも感じるのである。公平という名の下に、子どもたちは教育を受けられなくてはならない。
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2007年04月12日

今年は、桜の花が長持ちしている。
ふわふわやさしげな姿。

自分に活力が足りないと思ったとき、植物の中へ赴くと、浄化され、エネルギーをもらえるかのよう。

直向に純真に生きている姿は、ただそれだけで心に入ってくる。
その姿は、自分が纏ってしまっている不純物に気付かせてくれ、そして、上を向かせてくれる。
ただ、ひたすらに生きること。

己を誇示しない姿の、なんと美しいことだろうか。
可憐であるが、それと同時に気高さも感じさせる。

ほんとうに美しいこと。
それは、純粋であることなのかも知れない。


春の陽射しの中、喜びいっぱいで咲いている桜も、その花びらを少しずつ吹く風に踊らせ、土の上に帰りはじめる今日の姿であった。
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2007年04月09日

救い

霊界物語第四十六巻を読んで、ここに書かれてあることは、アビラのテレジアや十字架のヨハネ、リジュのテレーズなどが語ったものと同じだと思った。

法悦ということ、一個の罪人であるということ、下僕であるということ、惟神であるということ。

テレジアたちの語る言葉は、まるで生きた水の流れのように感覚に入り込んでくる。そして、だからこそ謙遜の中にいなければならないと言うことが理解できる。

ふと、思った。同じことが書かれてあったとしても、この霊界物語のこの箇所から、いったいどれだけの人が感性を刺激されるであろうかと。

ここの感覚はとても大切なことなのに、残念ながら霊界物語では存分に理解させられるような豊かな表現に欠けているように思う。
そういう私も、もしテレジアたちの書に触れていなければ、ここで言わんとしていることを理解できなかったかも知れないし、ただ通り過ぎただけとなっていたかも知れない。

ただ、救いということについて書かれてあるものは実に圧巻であった。


「今まで人を救ひたい救ひたいとの念は時々刻々に沸騰して、胸に火を焚いたことは幾度か知れませぬ。しかしながら万民どころか、自分一人を救ふ事も出来なかった、かよわい私たることを徹底的に悟らしていただきました。

自分一人の徹底した救ひは、やがて万人の救ひであり、万人の救ひは、自分一人の自覚すなはち神を信じ神を理解し、真に神を愛し、自分はその中に含蓄される以外にないものだといふことを、御神徳に依って深く悟らしてしただいたことを有難く感謝いたします。」


確かに、この言葉通りだと思う。自分自身が救われていない罪人であるのに、他者を救おうなどと出来るわけがない。思い上がりもいいところだ。
自分自身が救われるということの大きな意味は、神の中に含蓄されているところから生じる生命力という大河の中の一つの流れになれるということ。
流れになれるから、万民の救いともなるのである。決して、自分の力で救えるものではなく、その流れの中にいるからこそ救いへの希望が生まれる。

また、このようにも書いてある。


「ただ宣伝使および信者たるものは、神を理解し神の国の方向を知り、迷へる亡者をして天国の門へ導くことを努むれば、これで人間としての職務は勤まったのだ。それ以上の救ひは神の御手にあることを忘れてはなりませぬ。」

この考え方は、以前から私の中にあった。天国の門の前へは、誰もが手を繋いで行けれるもの。それは、誰かに導かれるという方法かも知れないし、互いに協力し合って行けれるものかも知れない。

だが、その門から中へ入ることは、誰の力を持ってしてでも出来ない。その人自身の努力と、そして神のみぞ知ること。

かつて、これと同じことを救いが必要だと言っていたある人物に言ったことがある。しかし、残念ながら理解してはもらえなかった。むしろ、こういう考え方を傲慢だと受け取られてしまったのだ。非常に残念な過去の一コマであった。

救いが必要だと言いながら、それとは裏腹に自分が常に優位に立っていなければ気がすまないという人は、世の中、けっこういるものである。私には、そういう人々を導く手助けは出来ない。そんな力は、私にはないからである。
posted by ミューシャ at 21:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年04月08日

教師に求められること

教師たちの教員免許の更新制度や、こまめな昇級試験は必要不可欠なものだと思う。今まで、それが行われてこなかったこと自体が不思議なことである。

また、私の体験談を書こう。上の子が5年生になるときにこの町へ引っ越してきた。
それまでは、ほぼ毎日というぐらい、一日に20分から30分、学校で習ってきた復習の為に国語と算数の二教科は私が見ていた。
後の教科については、一緒に遊ぶ時とか、休みの日にどこかへ出かける車の中とかでゲーム感覚で問題を出していた。

わが家の考え方は、塾は中学校からでいいと思っていたし、第一に友人関係などのコミュニケーションを中心に育てたかった。

しかし、この町へ来てからというものは大変な状況の中、子どもの勉強を見るどころではなくなっていた。

5年生の冬休み直前のことだった。久しぶりに、子どもが期末テストで間違ったところの問題を解かせてみた。
するとどうだろうか。出来ないのである。私は、驚いた。なぜなら、一度間違った問題は、次には完璧に出来ている子であったからである。

だから、説明しながら教えた。しかし、それは先生の教えたのと違うと言い張るのである。
そこで、その箇所のノートを見た。子どもは、常に丁寧な字で几帳面に全てを書き込み、またプリント類も見やすいように整理しておく子であったので、すぐいろいろなことが分かるようになっていた。

ノートを見て、再び驚いた。理科の問題であったが、間違った公式で、間違った解き方を教えられていたのである。
子どもは、さらに愕然とすることを言った。他の子も分からないと言っていたけれど、誰も先生に訪ねる子はいないし、そのまま暗記すればいいだけだからだと。

私は急いで全教科のテストの間違いを解かせ、ノートも全てチェックした。
結果、他にも間違ったことを教えられているところが幾つかあったのである。

今まで、出来て当たり前の子であっただけに、その驚きと焦りは大きいものだった。

そこで、冬休みの間はまさに地獄の特訓となった。もちろん、年末年始は思う存分遊ばせたのであるが。
朝から、夕食後の夜8時まで付きっきりで、5年生の4月から12月までの全教科の復習。
子どもも、これは大変なことだという自覚があったので、一切泣き言も言わずに最後まで頑張りとおした。
ただ、下の子には可哀想なことをした。一人で放っておくことになってしまったからだ。でも、よくしたもので、妹としても姉が優先されるべき大変な状態だという事が理解できていたらしく、さほど愚痴も言わずに我慢してくれていた。

そうして、なんとか冬休みの間にほぼ完璧な状態へとなったのであるが、次に私がしたことは、Z会の通信教育をさせることだった。
もう、先生のことは信用するな。どこかおかしい、分からないと思うところはこの通信教育で自分で確認しなさい。そして、質問システムを使ってZ会の講師に聞きなさいと。

ほんとうに情けないことである。教育者たるべき教師が、まともに学問を正しく教えることが出来ていない状態。
教育界の最大の甘えといい加減さの構造。教師を優先させ、子どもたちを二の次に位置させていた構造。

もし、このとき子どもの危機的状況を知らずにいたなら、おそらく今の子どもの進路も変わっていたかもしれない。それを思うと、ぞっとする。

それでなくて小学校というものは、一人の教師が多くの教科を受け持って教える。つまり、専門的ではないということでもあるし、なかには図工や体育の苦手な教師もいて、そういう人間が教えているのであるから、問題というほかないであろう。

下の子の場合、その時の担任教師によって、図工の評価がばらばらであった。素晴らしいという評価の教師、下手だという評価の教師。ある教師にいたっては、最初は過小評価をしていたのに、絵画教室で出品した作品がいつも入選していることを知って、いきなり高い評価に変えた人間もいた。
もう、むちゃくちゃの世界である。

小学校の教師ほど、高い能力と、豊かな人間性のある人材が必要なのではないだろうか。

幼い頃からお受験というのはどうかと思うが、それでも私学の教師たちの方が、公立学校の教師たちよりも質が高いということは否めない。

また、塾の講師たちは、公立学校の教師たちよりも、より教え方も、子どもたちの特質を見抜くことも上なのである。

日本の教育現場はどのように変えることが出来るのだろうか。必ず変わらなければ、日本は衰退への道を突き進むだけとなるであろう。
posted by ミューシャ at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年04月07日

国語力

今朝のテレビで、世界一の教育水準を誇るというフィンランドの特集が流れていた。

大学・職業学校に至るまで授業料は無料。しかも、育児で仕事を休んでも安心して職場に復帰できる国政。
教師は、「国民のロウソク」と呼ばれ、その名のとおり生徒たちを明かりでともすことが出来るという尊敬の念をもたれているという。
そして、教師になる人間は大学院卒までの教育課程が必要となり、実習時間も20週から25週行われるという。
また、落ち着きがない子とか、勉強が落ちこぼれている生徒ほど、専門的な知識を持った優秀な教師が教えるというのだ。それが、たとえマンツーマンでも行われるらしい。

また、競争させることで伸ばすことはさせないシステム。あくまでも競争するのは自分自身であるとのこと。

豊かな自然、美しい建物、全ての職業に誇りを持ち、人間関係を豊かなものとして構築していく。安心の中に居られる環境。まさに、理想国家。

一日を共に長く過ごす教師の影響は、子どもたちにとって大きいものであるということは、よく言われている。
しかし、今の日本はどうであろうか。確かに素晴らしい教師もいるので、全体を一つに括って言うのは良くないかも知れないが、フィンランドの教師に比べたら低いことは否めない。
知的水準も今のご時勢では決して高い人間たちとは言えないし、教育実習もほんの少しの時間しかなされていない。
もっと、教師の質を上げる為の改革は必要不可欠なことのように思う。

また、家庭教育について。
フィンランドでは、どの家庭にも数百冊の本があり、家庭でしっかりとした言語の躾がなされているという。
日本でも、塾や予備校では国語力ということを重要視している。国語だけは理解力がなければ出来ない教科であり、国語が出来る子は即ち理解力があり、その理解力は全ての教科に生きるものであるからだ。
そして統計的にも、国語力のある子は全般に亘って高い能力があり、伸びていく可能性のある子であるという。

また、日本のように、学校任せという親が多いことは問題である。言語に関しては、家庭で基礎を作るもの。家庭でのコミュニケーションは基本中の基本。そこから、外へと拡がっていくものだからである。

そして、子どもたちというものは、かなりシビアに客観的に見ているものだ。
もし、日本の教師たちがフィンランドのように知的にも人間的にも水準の高いものとなり、反対に親がわけの分からないことを言っていたとしたら、子どもたちはすぐにどちらが正しく、どちらの言うことを受け入れるべきかが分かるであろう。そうして、子どもたち自身が、自分の人生に必要なことを自ら選んで行けれるものとなる。
だからこそ、まずは教育現場の改革が必要なのである。教師の質の向上が求められるのである。

また、今のネット社会。酷い言葉が反乱している。これも、日本における国語力の低下による現われではないだろうか。
酷い書き込みをする人たちの親は、いったいどういう親なのだろうか。また、子を持ちながらも酷い言葉を書く人々は、その子どもたちに同じカルマを背負わせることになるのではないだろうか。
しっかり生きたいものである。

霊界物語の中に、福祉ということを正義となぞらえている箇所があった。なるほど、と思った。
日本では、医者不足が深刻化している。なぜか?考えるまでもない。医者になるには高い授業料が必要となる。その段階で、どんなに志が高くても断念せざるを得ないのだ。
必要な人材を育てようとしない日本の国政。それが、今、日本を危機的状況に追い込んでいるのである。
また、シュタイナー関連だけは、今までネット上で言葉の乱れを見たことがない。だから、シュタイナー学が好きである。
posted by ミューシャ at 11:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年04月03日

ソロモン神殿

ソロモンといえば、シュタイナーはイエスとのつながりについても述べているが、また、次のことも語っていた。

それは、ノアの箱船の形がいまの人体の形に影響を与えており、未来の人体の形態に影響を与えるのはソロモン神殿だという。

シュタイナーのゲーテアヌムへの希望。なんとなく、わかるような気がする。
posted by ミューシャ at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

地震とソロモン諸島

今朝方は、地震の夢を見た。

自分の家に居たのだが、震度5か6ぐらいの揺れが何度も襲ってくる夢。

そうしたら、今日のニュースでは、ソロモン諸島でM8.1の地震があったと流れていた。

関係があるのかないのか分からないが、ソロモン諸島は幾つもの島からなっているが、それぞれが揺れていたとのこと。

ソロモンという名の響きは、これもまた独特な感覚がある。気高くて、怖くて、毅然としていて、何か大切なものがあるような印象を抱いている。

おそらく、子どもの頃に見た映画の影響? ソロモン王の物語だったと思うが・・・。ずいぶん前のことなのでストーリーは忘れてしまったが、そのとき受けた感覚だけが残っているのだろう。
posted by ミューシャ at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 夢日記 | 更新情報をチェックする