2007年05月27日

大愛の中で

人は自身の外面のことで悩んだりする。時には、それが肉体的ハンディや、または病気や怪我のため、現実生活を送るのに不自由な思いをする人もいる。

だが、それを思い悩むことなかれ。かえって美しくなれるチャンスでもあるかも知れないからである。

霊界物語にもそれは書かれてある。第五十二巻第九章より抜粋。


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すべて現界に在つて耳の遠き者、あるひは手足の自由の利かぬ者、その他いろいろの難病に苦しんでゐた者、霊肉脱離の関門を経て霊界に入る時は、肉体の時のごとき不具者ではない。すべての官能はますます正確に明瞭に活動するものである。

しかしながらたとへ円満具足せる肉体人といへども、その心に欠陥ありし者は、霊肉脱離の後に聾者となり盲目となり、あるひは痴呆者となり不具者となり、その容貌はたちまち変化して妖怪のごとくなるものである。

すべて人間の面貌は心の索引ともいふべきなるものがゆゑに、その心性の如何はただちに霊界においては暴露さるるものである。

現界においても悪の最も濃厚なる者は、なにほど立派な容貌といへども、これを熟視する時は、どこかにその妖怪的面相を認め得るものである。形態は申し分なき美人にして、凄くあるひは厭らしく見える者もあり、またどことなくお化けのやうな気持ちのする人間は、その精霊の悪に向かふこと最もはなはだしきを証するものである。

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神の法則は、まったく公平なもの。ただ、輪廻の段階で自身が作ったカルマや目標のために、現界での状態が生じている。

だが、どんな状況設定の中に自分が置かれていようとも、その霊魂の姿はあるがままなのである。嘘偽りの利かない世界。正しき天秤の世界。

だから、苦しい中で悩み泣いている人は、真っ直ぐ前を向けばいいだけ。そして、自分の心魂を美しく育てようと努力すればいいだけなのである。

この世は、全ての人間たちにとっての学校なのだ。誰も先生にはなれない。誰もが生徒なのである。

ふと、思った。王仁三郎が造った耀わん。それは、世の中そのものなのかも知れないと。すなわち、王仁三郎の知り得る世の光。なんとなく、そんな気がした。
光を身に纏える人間となりたいものである。
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2007年05月18日

ディルムンの犬

シュタイナーによれば、人間の構成要素、物質体、アストラル体、エーテル体、自我は四つのエレメントから成り立っているという。

そして、肝臓では水のエレメントが優勢であると述べている。
肝臓はエーテル的形成力の根本的な基礎であり、また代謝のための主要臓器なので、代謝のよりどころである「意志」の臓器と言えるのではないかとのことである。

また、シュメールから聖地と見られていたのではないかというディルムン。そのディルムンについて、シュメール楔形文字の粘土板には次のように書かれている。

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ディルムンの地は澄み、ディルムンの地は聖なり
ディルムンでは大鴉は叫び声をあげることなし
野生の雌鳥は野生の雌鳥の声を上げることなし
ライオンは殺すことなし
狼は子羊を連れ去ることなし
肝臓を喰う野生の犬は知られず
穀物を喰う猪は知られず
寡婦が屋根に麦を広げれば
その麦芽を天の鳥は食べることなし
鳩は頭を傾けることなし
目を病むものものが「わたしは目を病むもの」ということなし
頭を病むものがが「わたしは頭を病むもの」ということなし
年取った女が「わたしは年取った女」ということなし
年取った男が「わたしは年取った男」ということなし

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肝臓と犬という対象を持ってきている。そして、野生の犬という表現。

エーテル体、水、犬。イメージは拡がる。
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ウルとグラ

ウル・シュメール語で「ディンギル・イム・ドゥグゥドゥ・フ」(神・風・旋風・鳥)という、頭がライオンになっている神鳥がメソポタミアにはあった。

それと対をなすように存在していたのが、大角鹿とかウルと呼ばれていた子牛ほどの大きさの犬であるという。

いろいろな言語の流れや姿のイメージは、謎を紐解く鍵となるようだ。

狛犬。これもメソポタミアからの流れかも知れない。

また、古代メソポタミアでは、現在の星座の原型が作られたという。そのなかで、興味を惹かれるのがグラ座。これは、水瓶座の原型といわれている。

グラは水の女神。古代の残されている石標に彫刻されているものに、椅子に座っている女性と、その膝元にうずくまる犬の姿がある。
これは、犬の像をグラに捧げると、病気の治癒や予防に効果があるからだということだ。

丹生都比売もその流れではないだろうか。人類の正統派の流れ。古代からの叡智を継承していく流れ。

ちなみに、古代メソポタミアでは、獅子座のことを大きな犬という意味でウル・グラと呼んでいたという。
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2007年05月14日

神への思い、神の思い

現実の大変さの中に置かれた身。自己犠牲、ボランティア・・・・・。

その中で見え隠れするいろいろな人々の心模様。

最初はバリケード。でも、話している内に次第に語り始められる悲痛な声。ただ聞いて、頷いて、その思いを理解しようとするだけ。大変だったねと。

ある人はトップの座にいるというだけで、わが身の状態を省みられない愚かな人間の心模様。
時間をもてあましたトップのくだらない時間つぶしの話しかけに、仕事が忙しいにも関わらず拒否できない部下の心模様。

人間たちの色々な心模様。

現実的に大変で、現実的な対処が求められる状況に置かれると、自分の力だけで事を運でいるかのように思えてしまう。だから、ふと、信仰心というものを邪魔に感じてしまう自分をそこに見た。

だが、その後すぐに、こういった思いは間違っているということに気付くのだ。
本当は神の流れの中。その流れの中にいるからこそ、そういう状況がもたらされ、そして展開されているのだと。

カルマの精算? そうかも知れない。未来のカルマ作りのため? そうかも知れない。今後の成長のために与えられた試練? そうかも知れない。
何らかの霊的目的が、そこには存在するはず。だから、一つ一つを神と共にしっかりと前向きに処理していかねばならない。それでなくては意義のあることとは言えないのではないだろうか。

どんな時でも信仰心を忘れてはならない。そして、現実的に自分の力だけで出来ているという思いはとても危険な感情。人間の過信はそこから始まり、時空は歪んでいくものだから。

神は、人間たちが現実生活を責任ある生き方をしながらも、確立された信仰心を持つことをお望みになっているはず。
それは、親が子に期待する気持ちと同じもの。
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2007年05月12日

閃光

人生とは、なんとドラマチックなものだろうか。良くも悪くも。
突然、訪れること・・・・。いいや、何か吸引力のようなもの、不可抗力のような目に見えぬエネルギー。抵抗しようと思っても引っ張られるかのようだ。

だが、その試練に対し、私は以前の私とは違っている自分をそこに見る。

やるしかない。進み続けるしかない。大きな重い責任。だからこそ、逃げては成し遂げられないこと。
動くこと、積極的に向かうことで、不思議と苦痛は解消されていく。その渦、私の渦で溶かそう。だから、自分の渦を無心に息づかせる。

だが、神は私に何をお望みになっているのだろうか。その中でも、不思議な事は起こる。
紀氏。その姓の人とこれから関わりを持つこととなる。はじめて、その姓を持つ人と出会ったのである。
この偶然。いいや、神の目から見たら必然なのだろうが、この流れは、いったい私に何をもたらすのであろうか。

夢は近未来に起こることを如実に示唆し、そして、霊界は動いている。
信じること。愛の目で見つめてくれている霊人たちを信じること。それが、大切。
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2007年05月07日

自分勝手なパズルその三

ふと、思い出した。大町市に住んでいた子どもの頃、遺跡発掘の手伝いをしたことがある。その時、私は一個の黒曜石を見つけた。

黒曜石と翡翠の道。交易。まるで、シルクロードのよう。大国主(八千矛)と奴奈川(沼河)姫の結婚。そして、その子どもの建御名方。和田峠、糸魚川、諏訪。

上高地明神にある穂高神社奥宮。高い山の上にある池に、祭事に使われる一艘の船。なぜか、マッチしていた光景。美しい光景。

あの時は、朝から小雨が降り続いていた。そして、奥宮の鳥居の所へ着くと、ほんの数十秒ほどだっただろうか、少しの間、白い太陽が顔を見せ、陽光が降り注いだ。

丹生都比売神社。どこかと似ていると思っていた。そう、それは穂高神社奥宮だったのだ。

「道」は、ミチ。霊。水の流れと狩猟。白い犬と黒い犬。民族の融合。

安曇野は好きなところ。安曇野へ帰りたい。
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2007年05月06日

自分勝手なパズルその二

玉津島神社の御神紋はもう一つある。波に兎。

越、禹、守株、夏王朝・・・・・。

雛型思想。もっともなことかも知れない。
posted by ミューシャ at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

自分勝手なパズル

想像のパズルは楽しい。自分勝手なパズル。

丹生、月読命、白菊大明神、北斗七星、影向石、狩猟民族、星川、星山、星のつく地名・・・・・。

蝦夷丹生
posted by ミューシャ at 15:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年05月05日

花と蝶

  花無心招蝶    花 無心にして蝶を招き
  蝶無心尋花    蝶 無心にして花を尋ぬ
  花開時蝶来    花 開く時、蝶来り
  蝶来時花開    蝶 来る時、花開く
  吾亦不知人    吾れも亦人を知らず
  人亦不知吾    人も亦吾れを知らず
  不知従帝則    知らずして帝の則に従う


良寛の詩である。

蝦夷丹生というセリ科の植物がある。先程、インドの神々というテレビ番組を見ていたら、偶然にもインドの聖地である高山に咲くセリ科のハナウドが紹介されていた。

アゲハ蝶の中でもキアゲハはセリ科の葉を食するという。前回、迷い込んだ丹生酒殿神社では、そのキアゲハだと思われる蝶が舞って来た。

今日、少しうたた寝をしたときに夢を見た。
手紙に「かまど様、ミューシャ様、ありがとうございました。」と冒頭に書かれてあり、そのあとに数行ほど何か書かれていた。
そして、石の鳥居のある神社が映画のスクリーンのように流れていて、それがピーッという停止音と共に映像は停まったのである。
その時、白いシャープな犬が姿を見せ、そして去っていった。

今回の小旅行は、かまどさんのブログからの情報がなければ実現することはなかったかも知れない。丹生都比売の持つ雰囲気に心が融合してこそ何かが得られるのだろうし、行動に移せるのだろう。

連休が終れば、再び忙しい戦場。つかの間の異次元空間に、有意義な時を過ごせた。

また、今回、コメントを入れてくださったかまどさん、ひつじさんに心から感謝致します。
posted by ミューシャ at 21:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

雑感

私が玉津島に興味を抱いたのは、霊界物語第三十三巻第二十六章を読んでからである。


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若の浦は、昔は豊見の浦といった。国玉別が球の玉を捧じ、樟樹鬱蒼として茂れる和田中の一つ島に、稚姫君命の御霊を球の玉に取りかけ斎き祀つてより、豊見の浦はここに若の浦と改称することとなつたのである。この島を玉留島(たまつめじま)と名づけられた。

玉留といふ意義は玉を固く地中に埋め、その上に神社を建てて永久に守るといふ義である。今はこの玉留島は陸続きとなつて、玉津島と改称されている。

この辺りは非常に巨大なる杉の木や楠が大地一面に繁茂してゐた。太い楠になると、幹の周囲百丈余りも廻ったものがあつた。杉もまた三十丈、五十丈の幹の周囲を有するものは数限りもなく生えてゐた。自転倒島(おのころじま)において最も巨大なる樹木の繁茂せし国なれば、神代より木の国と称へられてゐたのである。

大屋彦の神などは、この大木の股よりお生まれになつたといふことである。また木股の神といふ神代の神も、大木の精より現はれた神人である。

近代は余り大木は少なくなつたが、太古は非常に巨大なる樹木が木の国のみならず、各地にも沢山に生えてゐたものである。植物の繊維が醗酵作用によつて虫を生じ、その虫は孵化して甲虫のごとく、古は大木の繊維により風水火の醗酵作用によって、人が生まれ出たことも珍しくない。また猿などはずいぶん沢山に発生したものである。

天狗を木精(こだま)といふのは木の魂といふことであって、樹木の精魂より発生する一種の動物である。天狗は人体に似たものもあり、あるひは鳥族に似たものもある。近代に至っても巨大なる樹木は、これを此の天狗の止まり木と称へられ、地方によっては非常に恐れられてゐるところもある。現代においても、大森林の大樹には天狗の種類が可なり沢山発生しつつあるのである。

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そして、その後、丹生都比売神社の「花盛祭(渡御の儀)」の祭事においての行程が、丹生都比売神社〜玉津島〜日前宮であることを知った。
そこで、なぜ玉津島へ行くのだろうか、遥拝するのだろうか、という疑問が沸き起こった。

出口王仁三郎関連を探しても、丹生都比売について語られているものは見当たらない。もちろん、私が探す限りの史実の文献の中にも見当たらない。

ならば、行ってみたいと。

そう思ったら、まるで随分前から計画でも立てていたかのように、行く為の条件が一瞬のうちに整ってしまった。細部に至るまで。

そして今、その行程を歩いたのは、誰か別人だったような、夢の中だったような気がしている。
そして、人間は精霊の器、神の器であるということが、少し分かりかけてきた感じでもある。

自分の為、人の為という何かの為という気持ちを神々は喜ばない。ただ純粋に行きたい、会いたいと思う心を尊いものとして受け入れてくださるようだ。

また、未だに仏教に関しては全面的に入っていけないが、面白いもので、高野山を2回訪れている。
一回目は、最初の子を身篭っているときだった。妊娠7ヶ月目の頃、夫の転勤に伴い、大阪へと引っ越したばかりのときである。そして、成り行き上、最初に訪れたのが高野山だったのだ。
その時の写真を見て笑ってしまった。私は、白いつなぎのような服を着ていた。まるで、お遍路さんか山伏のよう。別に、意図した訳でもないのだが。



丹生に関しては、多くの学者や研究者の方々が調べられているようなので、事実が明るみに出てくることを楽しみに待っていたい。
また、私は自分の想像や感覚の中で、丹生の雰囲気を感じていたいと思う。そして、今回、五ノ室谷にある影向明神社の存在を知ることが出来たことは大きな収穫であった。いつか、訪れてみたいと思う。
posted by ミューシャ at 12:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年05月04日

塩槌翁尊

前回の記事で、塩槌翁尊は、天御中主もしくは伊邪那岐命に対応するのではないかと書いたが、現実的には武内宿禰のイメージも受ける。
なぜか私の中では、武内宿禰という人物は、白髭のお爺さんというイメージが定着しているのだ。

塩竈神社の空間は、まるで母の胎内を思わせる。空間の振動。
posted by ミューシャ at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

祓戸大神

出口王仁三郎の、天津祝詞解及び大祓い祝詞解を見てみた。


【高天原】

一音づつの意義を調ぶれば、「タ」は対照力なり、進む左なり、火なり、東北より鳴る声なり、父なり。

また「カ」は輝くなり、退く右なり、水なり、西南より鳴る声なり、母なり。

父を「タタ」といひ、母を「カカ」と唱うるのもこれから出るのである。

また「ア」は現はれ出る言霊、「マ」は球の言霊、「ハ」は開く言霊、「ラ」は螺旋の言霊。

すなはち「タカアマハラ」の全意義は全大宇宙の事である。


と、ここで「カマ」「鎌」の意味を見た場合、「水の球」、「母の球」ということが出て来る。
丹生都比売は水の神としての性格。そして、玉津島は文字通り「玉」という文字が入っているし、そこの御神紋は如意宝珠を用いた「玉に割り菊」。
私の想像であるが、玉津島神社の御祭神は丹生都比売の母君ではないかと思うのだが・・・・。
また、御神紋は後世に出来たものと思われるが、それでも割り菊にしたことは理由あってのことだと思う。
丹生都比売は天照大神の妹とされているが、どうも天照大神に反する立場であったような気がする。


【焼鎌の敏鎌】

焼鎌とは、鎌で焼きて造る故にいふ。敏鎌は利き鎌の義。


【祓戸の大神達】

祓戸四柱神、すなはち瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売の四神である。すべて大修跋執行に際しては八百万の神々は、常にこの四方面に分かれて活動を開始し、諸々の枉事罪穢れを払ひ清め給ふので、天津神たると国津神たるとを問はず、また宇宙全体たると、地球全体たると、また一郷一村一身一家たるとを論ぜずして、四方面の修跋が起こるのである。地球の大修跋、世の大立替へが開始さるる時には、神諭のいはゆる雨の神、岩の神、風の神、地震の神の大活動となる。


大修跋に際して、神の御活動は大別して四方面に分かれる。いはゆる祓戸四柱の神々のお働きである。祓戸の神といふ修跋専門の神様が別に存在するのではない、正神界の神々が修跋を行ふ時には、この四方面に分かれて御活動あることを指すのである。



塩竈神社。そこの御祭神は塩槌翁尊と祓戸四柱の神。海に面した岩屋である。
寄せては返す波の音。祓いと鎮魂には適した場所。
私は、この岩屋と夢殿がオーバーラップする。(関係ないかも知れないが、法隆寺五重塔の相輪には四本の鎌がかけられている)
また、シュタイナーは、人間の体の中には神の要素が組み込まれていると言う。
神託を得るにも適した場所ではないだろうか。

この塩槌翁尊は、天御中主もしくは、伊邪那岐命に匹敵するようにも思う。



影向明神社。丹生氏は、彼の文章の中で最も大きな写真で最初に持ってきている。その時に伺うことが出来れば良かったのだが、後から気がついたので時は遅しというところ。また、いつも丹生氏に出会えるとは限らない。なぜなら、最初に訪れたときは、まだ若くナイーブな感じの神職の方がおられただけだったからである。

しかし、「影向」という意味は、神が降臨されたところという意味がある。また、影向石は平らでピカピカになり、鏡のようにもなるという。
非常に、意味深なことではなかろうか。

ただ、こういった一連から見ると、丹生都比売の存在が、当時、如何に大きかったかが伺えるし、また、神武天皇の流れが、如何に武力に頼ってきたものであるかも伺える。

ああ、それにしても天野米は美味しい〜。おむすびで食べたいと思えるお米で〜す。
posted by ミューシャ at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年05月03日

高野山の守護神と丹生氏族

こちらにUPしたタイトルの全文は、著作権侵害に当たるかと思われますので、削除させていただきました。

読まれた人はラッキー、読めなかった人はごめんなさい。
posted by ミューシャ at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

木の国

和歌山はまた紀の国、木の国とも呼ばれる。
名草の持っていた希望、輝き。
木は火を表す。
当時、名草は大きな力を持っていた一族であったのだろう。
posted by ミューシャ at 08:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

鎌打ち神事

鎌打ち神事。流れからいえば、尤もなこと。長野県にもあった。
七年に一度 諏訪大社御柱祭の前年に行われる式年薙鎌打ち神事である。子どもの頃、数年のことだが、諏訪湖の近くに住んでいて、何度も諏訪大社に行ったことがあるのに知らなかった。

また、諏訪の神は蛇の姿で現われるとも言われている。ミシャクジ信仰だろうか。蛇=水。

でも、なぜ木に鎌を打ち込むのか、もう一つ理解できない。ただ、鎌は建御名方の国土開拓の道具であり、明神のシンボルであるらしい。
posted by ミューシャ at 00:05| Comment(12) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年05月02日

名草

今回の小旅行のルートは、丹生都比売の歩いた順路での行程であった。だから、ある神社に関しては勉強不足でもあった。

丹生都比売神社、玉津島神社、日前國懸神宮の三つのお札を頂いてきた。
そして、わが家の神棚に納めようとしたとき、伊勢神宮の天照大神のお札が嫌がった。激しい抵抗、何かを恐れるかのように。
だが、丹生都比売神社のお札については、前回参拝したときのものに対しては何の抵抗も見られなかった。だから、当然、玉津島神社のお札に対してでもない。
となると、残るのは日前國懸神宮のお札? そこから気になって、いろいろと調べることが始った。

日前國懸神宮では、日像鏡と日矛鏡が祀られている。しかし、それは伊勢神宮の八咫鏡の前身として作られたもの。しかも、御意に合わないということで、いわゆる失敗作としての鏡である。なぜ、そういうものが祀られているのであろうか?

また、中言神社には名草彦・名草姫が祀られているが、ここで私は、とても透明ですっとしているのに、なぜかはかなく悲しげな印象を受けていた。
しかし、天道根命神社は陽の印象として入ってきていた。

私は、今しがた調べて初めて知った。神武東征の際、名草戸畔への大虐殺が行われたことを。力での制圧。平和で知的な民への迫害。
だから、天照大神のお札は、あれほどまでに抵抗したのかと。

丹生都比売と空海。神社と仏教。もしかしたら、丹生都比売は名草戸畔への弔いという思いも持っていたのではなかろうか。

また、丹生酒殿神社にあった鎌八幡宮。能登にある鎌の宮諏訪神社というところでも、風鎮のために木に鎌を打ち込むという鎌打ち神事があるという。
そこの御祭神は建御名方。大国主と糸魚川付近の奴奈川姫との間に出来た子。奴奈川姫は翡翠の玉を操る姫とも言われていたそうである。
今回行った玉津島神社の御神紋は如意宝珠を用いた「玉に割り菊」。
私は、なんとなく、奴奈川姫と丹生都比売の繋がりを感じるのだが。また、石川県立美術館蔵の白山権現像では、その右端には丹生高野御子大神が、左端には丹生都比売大神が描かれている。石川から新潟、そして長野を経て和歌山へ。

消された古代史の事実はあまりにも多く、わからないことばかり。いろいろな諸説があって、そんななかで、私は実際に歩いた道の中で感じていくだけ。だから、これもただの妄想の類かも知れないのだが。

ただ、今は、名草彦・名草姫に思いを馳せたい。

PS:嫌がった天照大神のお札だが、それでも強引に一つの神棚の中に納まって頂いた。今は、静かに落ち着いているようだ。
posted by ミューシャ at 12:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年05月01日

塩竈神社の松

塩竈神社の写真に人が写ってしまっているとはいえ、何もUPしないのは少々残念な気がするので、とりあえず神社の御神木となっていた松を掲載します。確か、『和合の松』と書かれていました。
ただ、逆光となったために暗く、また全体像ではありません。

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posted by ミューシャ at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

夢と情動

夢が回転していくかのよう。
夢というものの存在の力強さを思う。

先程も、ふと気がついた。幾つかの夢が、連動しながら表現されていることに。

そして、「情動」というものの成すがままに動いている自分の姿を、何かを通り過ぎた後に見つける。

夢の存在を意識すればするほど、大切に思えば思うほど、その願いと共に流れて行くことが出来るのかも知れない。
posted by ミューシャ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする