2007年06月27日

神廼司

神木曾比惠立而世廼魁於知須
(シンボクソビエタチテヨノサキガケヲシラス)

香気於受而人・霊加久於給宇
(コウキヲウケテヒト レイカクヲタマウ)

神廼司人民尓接須留止木
(カミノツカサジンミンニセツスルトキ)

曾廼霊気於保止古志阿多倍
(ソノレイキヲホドコシアタエ)

置可是救廼御手廼保助奈利止知可
(オクベシコレスクイノミテノホジョナリトシルベシ)

一人茂々良?須意気於浮利加毛 《?のところの文字は「佐」の工の部分にヒが入るもの》
(ヒトリモモラサズイキヲフリカケ)

心尓神於祈留可必也貫鉄廼時来
(ココロニカミヲイノルベシカナラズヤカンテツノトキキタル)

波須留可加良津
(ワスルベカラズ)

「出口王仁三郎 救世の賦」 より抜粋




まず、自分が清まること。その想念の無駄な部分をこれでもかというほどに削ぎ落とし、清らかな意思を持つこと。

そして、溢れんばかりの愛する心を養うこと。

とにかく全き人となるように努力すること。それしかない。

人を善く感化しようと思っても力では出来ない。神を知る者が黙していても自然と出されている香気が他者の霊衣を厚くし、そして、神を知るその霊気は神の初発の意志を相手の中に留めることが出来る。

純化された者がそこに一人居ただけで、その空間は整えられていくのではないだろうか。

神と共にあり、神に祈り、信じること。決して、疑うなかれ。
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2007年06月26日

童子

「出口王仁三郎 救世の賦」を読んでいたら、あるヴィジョンが展開された。

横山大観の「無我」に描かれているような童子が数人、漆黒の闇の中で清けき月の光を浴びながら、手を繋いで円くなって踊っている。
無邪気に、楽しげに。

壊れそうなほど繊細で、無垢で、童子の心そのもの。

「霊界物語」は強く、「救世の賦」は涙。


PS:その後、円山応挙の作品を見ていたら、横山大観の童子より
   も、円山応挙の描く童子の方が、見えたヴィジョンに似てい
   た。月光の戯れ。
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2007年06月24日

サンカの目

メディスマン、狩人、サンカ。

サンカが望んだこと。サンカが願ったこと。サンカが見た未来。

サンカの存在。


     高い山でも心でひくい
       遠い道でもちかくなる
         思ひ一つで楽になる
     毎日毎日来るのもつらい
       つらい中でも
         画も御ちそふよ
           又ごちそうよ
     なんでもかんでもみなうれしい
       琴になるなる今ふの膳
     雨晴れて水田のいきもすかすかし
       また来る道も涼しかりける
     はるはると登りて来たが
       後の世の水仕の業も
         神のみつかひ
     宝山登りし者はかしこくも
       千代の住かもあたへたまはむ
     豆に来てよしあしきゝてにこにこと
       かへるたをやめいと愛らしき

「救世の賦」 より
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台湾

知り合いが、台湾の南部へ出かけたときの話をしてきた。

日本が統治をしていたころ、台湾各地には多くの神社が建てられたという。知人が訪れたところは、本殿が焼けた後にお寺が建立され、社務所はそのまま残っており、今はそこが資料館として使われているとのこと。
雰囲気としては、森の入り口のようだと。

もし、中国人のように日本人を強く敵対視していたら、おそらく全ての神社は跡形もなく破壊されていただろう。

しかし、台湾人は残している。そして、このように今も何らかの形で使っているのだ。
台湾人の日本に対する思いを窺い知ることができるのではないだろうか。

台湾に行くと日本へ帰ってくるのが嫌になるという。親切な人が多く、やさしいのだと。

日本人が忘れつつある心を取り戻しに台湾へ行くのもいいかも知れない。そう、日本がどのように台湾を統治していたのかを、実際に事実を知る為にも。
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2007年06月21日

菫の如く

今朝、出かける時、車のところに薄茶色の大きな揚羽蝶が舞っていた。珍しい色の蝶だなと思ったが、「やはり」とも思った。

夕刊に、渡辺豊和さんという、建築設計を手がける京都造形大学教授の記事が載っていた。

夢と仲良くなれば人生が充実すると語る。また、夢を取り入れた授業でも成果を上げているという。
夢をしっかり覚えておけば感受性も耕されるし、豊かな人生も送れる。そして、本当の夢を見方にすればより心が豊かになると。



世の中は、次第に本来あるべきもののことを語れるようになってきている。かつては白い目で見られていたことも、いろいろな分野の人が実績を挙げ、そして自信に満ちて、表に出て語ることが出来るようになってきた。


それは、静かに静かに水の波紋が拡がるかのように。
やさしく、無抵抗に、菫の花のように。
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2007年06月19日

天地の花

ネットの世界。
文字だけに表されるその人の内面。
たまに、人間そのものが芸術だなと思える人の世界に出会える。

相当辛い経験をしてきているのに、その目はどれほど悲惨なことを見てきたか知れないのに、その世界は深山のように奥深く、清流のようにクリア。
そんな人の文章を読むとき、人間として生きていることの価値を思い知る。

霊界物語の第五十六巻第六章に、「総て悪を罰するものは悪人でなければならぬ。虚偽、譎詐、獰猛、峻酷等の悪徳なきものは、到底悪人を罰することは出来得ないのである。」とある。

悪を知らぬが故に、悪を行う人の心の在り方に悩み、自ら悪を行う思いがない故に、悪を行う人との接し方に悩む。

全く正しいのに悉く傷付けられたときに心に響き、心を癒すのは、やはりそれと同じ思いをし、そしてそれを乗り越えた人の言葉である。

なぜなら、その心の動きを知っているからである。
「自ら知っている」ということの価値。
それは知識というもので補えるものではない。知識というもので代替りは出来ぬものなのだ。


また、同じく第五十六巻第十四章に次のように書いてある。

「なにほど悪人でも見捨ててゆくわけにはゆきませぬ。吾々が悪人か、この男が悪人か、たうてい人間では分かりませぬ。仁慈の神様は吾々の心を矯め直さむと、これら両人をお使ひ遊ばし、お前に心はこのやうなものだとお示しになってるのかも知れませぬ。これら両人を使って、われわれに苦集滅道の真諦をお示しになつたのかも知れませぬ。さうすればこの両人は、われわれの絶好唯一のお師匠様と思はねばなりませぬ。あヽ惟神霊幸倍坐世」

悪を行うものを前にして慟哭する。でも、その悪人が罪を犯したから、極刑に処せよとか生きる価値がないとかは決して言えないのである。
そう願えば、吾もまた同じ罪人となるのだ。人の命を軽んじる同じ仲間となる。


       善と愛とは主の神の 珍の身体なればなり
       善の自体は害悪を 決して加ふるものならず
       愛と仁とは何人も 排斥すべき理由なし
       万一神が罪びとに 背き斥け怒りまさば
       仁慈と愛に背反し その本性に戻りまし
       神格自体に反くべし

       それゆえ神はどこまでも 人の精霊に接しますや
       善と仁慈と愛により 臨ませ玉はぬことはなし


ただ、ひたすら潔く生きたいものである。
忍耐は、愛と平行するのかも知れない。

天地の花。人は誰もみな天地の花。
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2007年06月16日

精霊の集結

さて、少し現実的な内容のものが続いたので、少しでも時間があるときには、本来の目的であるところのものを書こうと思う。

分魂というものがあるが、人間の生まれ変わりについて、霊界物語五十五巻第十二章にも興味深い記述があった。


『舅殿、この谷底を御覧なさいませ。沢山な妖怪や毒蛇が焼き亡ぼされてゐるでせう。これは皆テームス家の祖先が作った罪業の化生した悪魔でございますよ。

またこの万公は貴方の祖先代々に苦しめられた憐れな人民の霊が凝結して万公となり、この世に生まれ来たものです。

私はそれ故どうしてもテームス家の後を継いで、このテームス家の財産を人民に平等に分配し罪を亡ぼさねば、舅殿をはじめ祖先の罪は赦されますまい。

お気がつきましたかな。万民の精霊が集まって万公と名を負ひ限界に生まれてきたのですよ』


この一説からも霊界の在り方が分かるような気がする。人間にとって一番大切で重要なものは霊魂。そして、その霊魂は想念や意志を養分として作られていく。

だからもし、同じ強い思いが終結したなら、それらが望むことが現界に現われる。

つい最近、わが家ではヒトラーについての会話があった。
下の子が、学校でヒトラーのことを学んできたようだ。しかし、まだユダヤ人への迫害までは進んでいないようだった。

そこで言う。
「ヒトラーってかっこいいよね。」

私はいつもの如く、ヒトラーの犯した悲惨な出来事を説明した。

それを聞いていた上の子は次のような意見を言う。
「でも、ヒトラーという存在が現われなかったら、今のドイツにおける医学の発展はなかったかも知れないし、また、ドイツだけを悪者にして多額の賠償金を払わせたのもおかしい。周りの国々も同罪だと思う。」

ヒトラーについても三者三様の意見。
ただ、地球上の流れを長いスパンで見たなら、悪だと思っていたものが実は必要なことをもたらしていたり、反対に善だと思っていたものがマイナス方向へ導いていたりすることもある。

そして、多くの人間が強く同じことを求めていたなら、それは良きにしろ悪しきにしろ何らかの人間をこの地上に生じさせるのだろうと思う。

さてさて、現代はどのような人間を生じさせるのだろうか。終末思想、メシア待望論・・・・・・。
もしかしたら、多くの地球上の人間たちが終結してメシアとなる時なのかも知れない。
posted by ミューシャ at 00:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年06月15日

国民年金

設置されたフリーダイヤルへ年金の問い合わせをしてみた。繋がりにくいということだったが、4、5回ほどで繋がったから、いい方なのだろう。

案の定、結婚前のものが統合されていなかった。つまり、宙に浮いた状態になっていたのだ。
故に、社会保険事務所まで出向いて、統合する手続きをとってこなければならない。それも、証明書云々とか言っているようなのでどうなるか分からないのだが。

相変わらず、公務員の昼行灯的杜撰体制には辟易する。こんな記入という類のものは、まさに初歩的なこと。しっかり仕事をしてもらいたいものである。
posted by ミューシャ at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

詐欺集団

東京第一財務局というところから民事訴訟裁判告知という葉書が届き、それと共にジャックス・キャピタル・クレジット(株)というところからも、特別キャンペーンと称して大幅な融資可能限度額を提示した案内の葉書が届く。

この二つは、恐らく同一の詐欺集団から送付されてきたものだと思われる。

身に覚えのない訴訟が起こされたと聞いて気が動転する。そして、電話をかけたら多額の金銭を払う方向に誘導され、そんな時にもし金策に困ればローンでお金を借りる。と、このような考えのもとに二重三重に網が張られているという訳である。

さーて、この名簿はどこから売買されたものであろうか。住所を少し変えておけば、大体の察しがつくというもの。郵便とは、多少の記載の相違があっても届くものであるし、いろいろな登録にしても手続き可能のものが殆どであるから。
posted by ミューシャ at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年06月14日

ジャックス・キャピタル・クレジット(株)詐欺集団

また、ジャックス・キャピタル・クレジット(株)というジャックスの名を語った詐欺集団からの葉書も届いた。
この葉書は、二つ折りになっていて剥がして見るタイプのものである。

中には、VISAタイプのジャックスのクレジットカード(青色と黄色の2枚)の写真が見本として掲載されてあり、融資可能限度額として500万円のプランが紹介されてあった。

また、私の住所も、前回の記事にのせた東京第一財務局という詐欺集団からの葉書に書かれてあるものと同じであった。
私は元来、法的に大切なものへの住所と、普段それほど大切でないものの住所の書き方を若干変えてあるので、それが本物か偽物か分かるのである。

とにかく、金銭の絡むものは、悪質な詐欺集団が横行している世の中ゆえに、ネットや消費者センター、もしくは警察に相談してから行動に移さねばならない。被害にあってからでは遅いのだから。

ジャックスのHPにも、ジャックスの名を語る悪質集団の一覧が載っていたので貼っておこう。
http://www.jaccs.co.jp/information/attent_ruiji.html
posted by ミューシャ at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

財団法人 東京第一財務局(詐欺集団)

今日、次のような葉書が届いた。

〒128-0011
東京都港区赤坂3−7−1
財団法人 東京第一財務局
03-3831-4164(管理部)
電話受付時間 9:00〜18:00(土・日・祝日を除く)


(文面)

民事訴訟裁判告知
今回、貴方に対する民事訴訟裁判の訴状が提出された事を通達いたします。貴方は回収業者及びお取引契約会社に対しての契約不履行につき原告側が提出した訴状を管轄裁判所が受理した事をご報告致します。下記の裁判取下げ期日を過ぎますと改めて出廷通知が届きますので記載期日に出廷して頂くようお願い致します。こちら民法188条に基づいた財務省認可書となっておりますので出廷拒否されますと原告側の主張が全面的に受理され裁判後の処置と致しましては被告の給与及び、動産物、不動産物の差し押さえを執行官立会いの下強制執行させて頂きます。また、履行執行官による〔執行証明書の交付〕を承諾して頂くと同時に債権譲渡証明書を1通郵送させていただきますので個人情報保護の為詳しい詳細は当職員までご連絡ください。
※ご連絡なき場合には本書を勤務先に郵送させて頂きます。


記載期日ぎりぎりか、当日に届くように、この詐欺集団は送るようである。
もし、このような葉書が届いたら無視しなければならない。
そしてまた、本来、裁判所からのものは「特別送達」というもので封書で届くそうである。決して葉書で届くようなものではない。

この詐欺集団は、驚いて問い合わせの電話をしてきた相手に、お金を口座に振り込むように誘導してきたり、もっともらしく弁護士を紹介すると言って来るそうである。
下記のHPには同様の被害を受けた人たちのコメントや情報が載っているので参照して下さい。

http://www.yumenara.com/kaku/data_html/k466562d4ca600-138.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411862434


財務省からも、この架空請求詐欺の葉書に関して注意喚起の報道発表が出されている。
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/direct170825.htm


また、楽天に登録してある住所の書き方と同じだったという情報もあったが、私も楽天を利用しているし、登録住所の書き方も楽天に登録してあるのと同じである。もしかしたら、楽天から名簿が漏れたか、流された可能性もあるかも知れない。

とにかく、裁判だとか、警察だとか、そういう言葉を使って言ってくるものには注意が必要である。記載先にすぐ電話をするのではなく、ネットで調べたり、最寄の警察に問い合わせたりしなければならない。

だが、これだけたくさんの被害が出ているのに、警察は何も動いてはいないのだろうか。まったく同じ文面で、同じ住所・電話番号のものであるというのに。
もし、これが一人暮らしの老人だとか、生活苦の人だったらそれこそ大変なことになる。
一刻も早く、この悪質詐欺集団を逮捕して欲しいものである。
posted by ミューシャ at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年06月12日

美しい調べ

なんの飾り気もないけれど、清らかで美しい調べを求めている時、テレーズの世界は心を潤うす。



『私は裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。』(イザヤ書41・18)

『あけぼのがたちそめるころの静かな夜、沈黙の調べ、響き渡る孤独、愛に酔わす楽しい夕餉』(十字架のヨハネ 「霊の賛歌」)



テレーズは言う。

『私はいつも大聖女になれるという同じ大胆な信頼を感じます。なぜなら、私は自分の功徳を少しも当てにしておりません。無に等しいものですから・・・・・。ただ、徳と聖そのものでいらっしゃるおかたに期待しています。みあるじだけが弱々しい努力で満足なさり、私を自分にまで高め、その無限の御功徳で包み、聖女にしてくださるのです。』


ストレートな飾り気のない言葉、思い。そこには何の不純物も入り込む隙はなく、ただ一つの光で繋がれている。
ほのぼのと小さくて、そして大きい。
テレーズの世界は花の香り。
posted by ミューシャ at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

憐れな人々

最近、また私のブログに、風俗系サイトへ誘導するトラバックが貼られるようになった。
気がついた時に削除しているが、実に可哀想な人間たちだと思う。

その霊体の異臭は、なんとも言えないほど気持ちが悪い。
そのまま罪を重ねて年老いていくのだろうか。
目に見える世界しか分からない人々。だから、人の心を平気で穢す。

今の自分の置かれている霊界の状態を知るなら、そして、その一つ一つが記録されていることを知るなら、決して悪しきことには染まれないというのに。

死んで初めて気がつくだろう。霊界があるということに。
後悔先に立たず。
自分で撒いた種は自分で刈り取らねばならない。
誰も身代わりにはなれないのだから。
それが、カルマの法則。
posted by ミューシャ at 14:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

感情の芸術

昨日、久しぶりに石笛を吹いてみた。ずっと忙しくて、一ヶ月ほど吹けないでいた。

一番最初にどんな音が出るのか、私はそれを気にする。自分のあるがままが、たぶん、表されるだろうから。

石笛の内部からの振動が指先に伝わってきた。振動。初めて感じた。
そして、生きていることを知る。

石笛とは、それなりの時が来たら、川や海や神社などで自然と出会うものらしい。

かつて、笠地山や恵那神社へ行ったとき、その近くの河原で穴の開いた石を見た。
ただ、その時は石笛のことを知らなかったので、石を掘る虫でもいるのかと思い、そのまま拾ってくることはしなかった。今思えば、あの穴の開き方は石笛だったのだろうと思う。


自分の心の中に、美しい光景を思い浮かべることは楽しい。煌く夏の海、荘厳な空の雲・・・・・。そして、その時、私はその中を呼吸して生きているのだ。

また、私は輝く感情の芸術を心行くまで感じている。現実には、ほんの一時のことかも知れないが、その一瞬は深い泉のよう。

私は私であるから、私以外の何者でもないから。
posted by ミューシャ at 14:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年06月10日

人間社会の矛盾と教育界の連鎖

コンスティテューション:人間が、体的客観世界の対象を自分の中に作用させるとき、自分を作用させるときのフィルターのようなもの。コンスティテューションはフィルターとして、特に味覚、触覚、臭覚、視覚、聴覚のような感覚器官の中でも働いている。

ルドルフ・シュタイナーの本の訳者でもある高橋巌は次のように述べている。

『いま人間社会の最も矛盾した部分は、教育の中に集中して現われています。初めは大学闘争という形で、大学生が社会の矛盾を指摘したわけですが、その大学闘争が挫折し、力を失っていくにつれて、代わりにその闘争を担っている部分がもっとも若くなってきまして、高校、中学、小学校、更には幼稚園にまで移ってきています。

 ついこの前、府中のある小学校で4年生の子が自殺しました。自分や他人に向けての子どもの暴力は、かつての大学闘争を必死になって代行し続けている行為であるかのようにも受け取れると思うのです。

その子どもに対する教師の側の理解の仕方を見ますと、家庭に問題があるとか、戦後の教育のシステムに問題があるとかいう発想になっているのです。

けれども本来からいうと、一人一人の子どもの内部のコンスティテューション、その子どもが例えば多血質なのか粘液質なのか、一体その子どもにとって対象の世界がどう作用してきているのかをまったく無視して、知的に画一的に教育をおしつけようとすることが先ず問題があるのではないかと思います。そしてそのような傾向は教育に限らず、社会のいたるところに現われています。

 コンスティテューションというのは、要するに、一人一人の人間の魂が対象に対するときの、その対し方というふうに考えられるわけです。そうしますと、その対象というのは自分以外でもあるし、自分自身でもあるわけです。一体自分がどういう肉体を担っているのか、男なのか女なのか、あるいは既に年を取った肉体なのか、まだ若い肉体なのか等々もコンスティテューションの問題として出てきます。

 このコンスイティテューションに相対するものとして、シュタイナーが考えたのは「意識」です。人間の精神が主体性を獲得するために大切なのは意識の働きであって、コンスティテューションはむしろそのための手段にすぎないというのがシュタイナーの立場です。

どんなに自分、あるいは他人が頭が良く記憶力があっても、芸術性が優れていても、それは、生きるぎりぎりのところでは、常に手段であるにすぎず、目的はもっぱら意識によって定められる、というのです。

 意識が何を求めているのか、意識が自分自身をどう受け止めようとしているのか、各人のそのような意識を互いに共有することで共同体が生まれてきます。しかしコンスティテューションを基にして共同体を作ろうとしたら、その共同体は確かな基礎を失ってしまうというのです。

意識というのは、要するに、コンスティテューションをどのように作り変えていくかという、内的変革の闘いの主体です。そこで、シュタイナーはこの意識のことを「意識魂」と言ったり、「自我」と言ったりしています。そしてこの意識の守護霊を「ミカエル」と呼んでいます。』



今の教育現場は、あまりにも混沌としている。指針さえ無い状態。そして、何をどうしたらいいのかさえも分からなくなっているのではないだろうか。

教育者たるべき教師たちの資質にも疑問はあり、また、モラルを逸した要求や非常識な言動をとる保護者たちの増加にも問題はある。

もはや一から新たに組み立ててて行かねばならない状態。だが、その模索には、なかなか光明が見えてこない。

だからこそ、「人間」というもののあり方を根本から見つめなおさなければならないのではないだろうか。
人間としての存在価値。それが明確になっていなければ何にもならない。

シュタイナー学の確実性に、もっと目が向けられなければならない。もし、シュタイナー学が教師になるべき人の必須科目となるなら、どれだけ大きな改革が出来るだろうか。
そして、そういう教師たちを、無謀な要求をする親たちから守る管理体制も作り上げられなければならない。

ここまで地に落ちた日本の教育界。まさに、高橋巌の述べるように、人間社会の最も矛盾した部分が、教育界に集中して現われているようだ。
そういう意味でも、フィンランドの在り方は一つの希望かも知れない。

日本の教育界が良くなるときは、日本社会も良くなっているのだろう。安倍総理の掲げる大きな指針の一つである教育改革。表面だけを整えようとするのではなく、根本からメスを入れてほしいものである。
posted by ミューシャ at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年06月09日

言霊における音の振動

『至高の芸術表現の栄光、文学の光明の輝きは単純である。単純より善いものはない、実相の誇張や欠乏を矯正し得るものは単純を除いて他にない』

――― 出口王仁三郎―――




『神秘修行者は睡眠中にも意識の持続性を獲得することを学ぶのですが、その状態は夢のいとなみの時間にではなく、夢のない、まったく意識を失っている時間に生じるのです。これまではまったく何も知りえなかった世界の中で、意識的になることを学ぶのです。この新しい世界は光と色の世界ではなく、はじめは音の世界として現われてきます。ですからこの状態に達しますと、霊的に聴くことができるようになります。肉の耳には聞こえぬ霊界での結び合い、霊妙な音の様々な響き合いが聞こえてきます。この世界をデヴァカン界(神界)と呼んでいます。』

―――ルドルフ・シュタイナー―――




『大自然の諸領界は文字であり、人間はこの文字から合成された言葉である。』

―――パラケルズス―――




赤ちゃんの発する言葉。あー、あー。その「あ」は単純だが、凝縮されている。その「あ」には、あまりにも多くの輝きが伴い、可能性への希望が見える。

言葉が発する音の振動。その振動に、人の細胞は敏感に反応する。血の中に存在する「私」がそれをどのように受け取るのか、その「私」自身の存在がどのような状態にあるかによって、受け入れるか、拒絶するのかの違いが生じるように思う。

今日、娘が友人を家に連れて来た。台所で夕食の仕度をしている時、その友人の声が聞こえてきたが、その声から、私は少しくたびれているようなものを感じた。そう、少しお腹が空いているような。そして、なんとなく家庭的に寂しいような声。

そこで私は、暑い日であったので、フルーツポンチにアイスクリームをのせて出してあげた。

「わー、こんなの初めて!いつも、こんな感じでだしてもらえているの?いいなー。」という声がする。

また、それを食べてからは元気な声になり、帰るときには生き生きとした顔で礼儀正しくお礼を言って帰って行った。

その後、娘に聞いた。あの子は、もしかして母子家庭の子かと。
案の定、その通りであった。

声の持つ振動。そこに集約されたもの。

また、その子はとても素直ないい子である。娘もその子のことを、性格はかなりいい子だと評していた。
素直ということの素晴らしさを、また感じる一時であった。
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2007年06月07日

高次なものへ

霊界と違って、善き人も悪しき人も、美しい人も醜い人もみんなシャッフルされて存在している世の中。
いろんな色が交じり合っている。それでも、意識のある人は、自分の色を確実に創り上げていく。

世の中は、正しいことが正しいといつも受け入れられる訳でもなく、時には間違ったことが普通のことだとして受けいれらていることがある。
それは間違ったことなんだと呼びかけてみても、どこが過ちなのかさえ分からない。
古い概念を、人間はなかなか打ち壊すことが出来ない。だから、柔軟な思考を持った人は幸であるとも言える。

だが、そういう世の中で、自分の意識を低次なものに合わせるのはナンセンス。
低次なものに合わせれば合わせるほど、自分の全てが混濁したものへと落ちていく。

だから、人は、時々高次なものを見る努力をしなければならない。低次なものが底なし沼のように限度がないものであるが故に、高次なものもまた、どこまでも高い極みへと昇り行くものだからである。

人間であるが故に際限のない美しさを追求でき、崇高なものを見つめることができるのだ。
深山の渓谷のような空間で出会える神秘な美しさの中で、魂が目覚めるような香りを感じ、透明な呼吸をしていたいものである。
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2007年06月05日

真摯に生きること

『正しくある』ということが、どれほど大切なことなのかを我々は考えなければならない。

シュタイナーの文献から抜粋してみよう。


――――――――――――――


ある人が特別、嘘をつく傾向を持っていたとしましょう。意識的な人生のなかに存在するものだけに夢中になっていれば、本来、嘘をつくことはありません。

無意識から働きかける情動、感情のみが、嘘を誘発するのです。無意識のなかに、何か深いものが存在しているのです。

嘘をつく傾向のあった人は、死後、自分自身に対する激しい情動を感じ、嘘に対する強い傾向が示されます。その結果、次の人生においては、たんに虚弱な身体ではなく、異常な構築のされ方をした身体組織を持つことを精神科学は示しています。精妙な組織の内的器官が不規則に構築されるのです。それは、前世における嘘をつく傾向によるものです。

嘘をつく傾向は、どこから発するのでしょうか。嘘をつく傾向があるということは、すでにどこか調子があっていないということです。

わたしたちは、さらにさかのぼらねばなりません。献身や愛というものを知らず、浮ついた人生を送った人が、つぎの人生で嘘をつく傾向を持つようになるのです。そして、嘘をつく傾向が、そのつぎの人生において、正常でない身体組織として示されるのです。

このように三つの人生のなかにカルマの作用を見ることができます。第一の人生で軽率だった人は、第二の人生において嘘をつく傾向を持つようになり、第三の人生において病気への素因を有するようになります。

――――――――――――――



愛と真がどれほど大切なものなのかを考えなければならない。
人として美しい状態とはどういうことを指すのかを考えなければならない。
自分で自分と向き合ったとき、その自分の姿が黒い汚点のない白い姿でなければならない。
微妙なずれは、そのまま放っておくなら、次第に大きく歪んでいくもの。気づいた時に正さねばならない。

身体に損傷のある人を指差して、蔑む気持ちで、カルマだからだと、もし言うなら、その指差した人間は悪魔に等しい。
現時点のその不具者の霊魂は、はるかに高まり清まっているかも知れないからだ。

人間はあらゆることを経験し、成長するために幾度も輪廻を繰り返す。
今、例え聖人君子であろうとも、次の輪廻では自分に足りないところを補う為に貧困者として生まれ変わるかも知れない。

必要なことは唯一つ。真摯に生きること。
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2007年06月04日

裏を見抜く目

以前にも書いたかも知れないが、パソコンの危険性への対処能力もなく始められたパソコン導入の授業。それが子どもたちの中にいじめを生じさせる要因となっていることも少なくない。

パソコンには履歴が残る。だから誰がどこを見ていたのかが生徒間で分かり易くなっている。

例えば実際の実例として、ある生徒の使った後、他の生徒が何気なくその子のアクセス先を見ていた。そして、その子のHPを見つけてしまったのだ。

子どもというのは、まあ大人もそうだが、自分だけの世界ではヒーローやヒロインになりたがる傾向にある。また、自分を正当化したいものである。それは、ある程度は仕方がないことかも知れないが。

その子の場合もそうであった。そして、友達の悪口が書かれおり、自分を美化するような嘘ばかりが書かれてあったという。
そこから、クラスメートたちの反感を買い、相手にされなくなったのである。

だが、これは学校のパソコンを使った授業の管理体制に問題があるのである。いわば、学校がいじめを誘発したと言っても過言ではない。


他の事例としては、友人の少ない子Aがメル友に好きな音楽バンドのコンサートへ行こうと誘い、チケットを予約しようとした矢先、やっぱり他のバンドのコンサートへ行きたくなったから行かないと言い出したのである。
そして、そのメル友の子はドタキャンに当然の如く怒り、またそのつもりで用意していたため一人だけでは行けないから困ったということになった。
が、メル友の子は、たまたまAと同じ学校の子と知り合いで、その子Bにどうしようかと相談を持ちかけた。
Bは友人の多い子で、Aとも同じクラスであったために、なぜかAからも慕われていた。そこで、BはAにドタキャンでは相手の子が困っていること、またこれはAから誘ったからメル友の子も行く気になたこと等を話して、それでも行かないのかともう一度確認をした。

が、Aは行かないと言う。そこでBもあまりの薄情さに怒り、一人だけになってしまったメル友のために自分が他数人の子を集めて一緒に行くことにしたのである。

当然、その後、BはAに話しかけることもなくなり、Aはもともと友人が少ないことも原因して孤立して行った。だが、BはAが一言でいいから謝るなら許してあげようと思っていたらしい。

また、Aはもともと不登校気味の子であったため、次第に不登校となった。そこで、担任教師が関わってくるのだが、Aの言い分のみしか聞かない状態であったため、なかなかクラス全体の理解が得られなかった。
そしてまた、Bが悪いと思い込んだらしい。

その後、Aは転校して行ったが、その転校先でも馴染めずに不登校になっているという。

また、Bの立場に立たされると、そこで潰される子も多いだろう。だが、その子の場合、教師の裏面を嫌と言うほど見てきているため、教師より一歩上に立ち、そう思うのも仕方がないということで、相変わらず多くの友人たちに囲まれて、休まずに登校しているようだ。

このケースも、担任のやり方一つでどうにでもなった問題である。Aの言い分のみを聞いていたことの間違い。Aを甘やかせすぎたことの間違い。事実を知ろうと努力しなかったことの過ち。つまり、生徒との間に信頼感を築けなかったことが大きな汚点なのである。

いろいろな事例を挙げたらキリがないが、人を見抜く目を持った教師が少ないという現実は否めないだろう。

また、不良傾向にある人の場合、大人でも子どもでもそうだが、話していて一瞬目が真っ直ぐに見開くような感じになるときがある。
その時を見逃してはならない。そういう時は、こちらを認めたときであるからだ。
真っ直ぐに、嘘偽りなく、真剣に話していると、必ずそういう場面がいつかは訪れる。その時、相手の心に入っていくことが出来、そして信頼されるチャンスが訪れるのである。
また、その時から相手は大きく変わり始める。大きく動き出すのである。

人と人との関係は、真摯なものでなければならない。対等なものでなければならない。もし少しでも上に立っている思うなら、それは何も変えられないことを意味するのだ。
認めること。その存在そのもを認めること。これが土台である。
posted by ミューシャ at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

水面下の生徒たち

学校は問題のある子だけを重点的にケアしようとしている傾向があるようだ。目につく、明らかに問題だと思われる子だけを。
問題のある子へのケアは当然。担任だけでなく、教頭が直にその子の親と接触を持っているという話も聞いている。

だが、明らかに問題だと思われない子ほど辛い立場に立たされている事実も多々存在している。
なまじっか問題がないと思われているから、担任から無理難題や避けたい友達を押し付けられ、そして不登校へとなってしまった子もいる。
だが、その理由を学校は知らない。

かつても書いたが、小学校のあるクラスでリストカットが流行ったが、担任教師の上から押さえつけようとする性格や指導方法もあるが、その担任が問題児だけを特別扱いしていたがために、他の子どもたちのストレスや不満が高じた結果でもあった。

小学校でも中学校でも、教師たちの目が向けられない闇の部分で苦しむ生徒たちがいる現実。
ただそれも、教師たちの未発達の部分――人間の心理というものを理解できていない状態――の要素は大きいように思う。

子どもたちは思っている。すべて平等に接して欲しいと。そして、それは基本なのである。

だが、多くの教師たちは自分の好き嫌いをもろに出している。そして、それがまかり通る世界。

この土地の中学校では、最近15年間ほどその中学校へ勤務した教師が退職した。生徒たちの評価は著しく悪く、また教え方が下手だという評判であった。

この教師以外にも10年以上移動なしに勤務している教師はいる。この状態は独裁というものを作りやすい。
社会経験が乏しく、いきなり先生と呼ばれ、そしてずっと同じ現場で勤務する状況は、まさに教師たちにとっての温床。
また、新たな見識も入りにくい。だから、何が常識的なものか、何を優先させるべきなのか、何が求められているのかを分からずに無知な勤務状況が続き、その結果、生徒たちがその弊害を被るのである。

それぞれの市町村の裁量に任せることには、限度や規制が必要ではないだろうか。
そして、教師を採点する専門職も必要だと思う。
外の世界を知らない、そこだけの小さなエリアのことだけしか知らない人々の集まりは、いつになっても新しい風を見出せないものなのである。

また、明らかに問題がある子への対応はしているが故に、そういう子は返って大きな問題も起こさずにすんでいる。
しかし、さほど問題がないと思われている子の犯罪や、自殺も多い。ということは、先程書いたように、その子の内面が理解されずに、またされようともせずに放置されているからではないだろうか。
平等ということの大切さを、教職者たちには徹底してもらいたいものである。

が、それでも基本は家庭にある。家庭さえしっかり機能していれば、たとえ学校で不満が高じたとしてもなんとか消化できるのではないだろうか。

とはいえ、今は家庭環境が複雑な子も多い。だからこそ、学校に求められることも大きくなっている。正常な学校運営を期待したいものである。
posted by ミューシャ at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする