2007年07月30日

政権交代

参院選。予想以上に自民党が議席を失った。そして、民主党の圧勝。与党が過半数にも満たず、これから先、衆議院で可決されても参議院で否決されるというパターンの繰り返しという可能性は大きくなった。

結局、物事を進みにくくしてしまっただけではないだろうか。

安倍政権のときに、国民年金などの、たまたまいろいろな古い問題が持ち上がっただけであり、安倍政権が悪いというわけではない。
むしろ、安倍政権だからこそ、多くのことが明るみに出て、そしてそれに対する問題対処が素早くなされていると、私の目には映る。

本来の姿が逆転された状態は、今後の日本はさらに混沌とした状態へ向かうということではないだろうか。
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2007年07月24日

番外編

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この登彌神社と唐招提寺に於いて、私にとってはとんでもないことが起きていたのである。

それは、 蚊 であった。

普段、私は蚊に刺されにくい体質。周りにいる人たちが刺されて痒がっているのを面白がって見ているという状態。

しかし、ここでは違っていた。私だけが刺され、みんなは涼しい顔。いつもとは全く逆の立場になってしまった。
もう、あちこち赤くプクッと膨れ上がり、おまけに額のど真ん中まで刺され、一体全体この時空はおかしくなっているのではないだろうかと思われたほどである。

また、写真の池は、御廟のある塀の中へ入ったところにあるもので、お参りする前に撮ったものであるが、蛇は帰りがけに現われ、この池の畔でじっとしていた。
記念に写真を撮ったのだが、やはり蛇が苦手の私はそれを削除してしまった。

蛇に背を向けて帰る時、後ろを着いてくるのではないかとの恐怖心から、急いで子どもたちの間に割って入り、前後を歩いてもらった。な〜んと小心者のミューシャであろうか。

しかし、すごい献血をしてしまったものである。その夜、私は酷い貧血にな・・・・・・・・・・・・らなかった。
posted by ミューシャ at 21:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年07月23日

瓊花

唐招提寺の売店の人が語っていた。「瓊花」という花は、この唐招提寺と皇居にしかないと。
まあ、実際には他所でも生息しているかと思われるが、それでも瓊花は特別の花のようである。
         ↓
http://www.tbs.co.jp/p-guide/daiji/project/08_53.html

この文字から、思わず瓊瓊杵尊を連想した。天照大神の孫ということになっているから、皇居にこの花があってもおかしくない。

饒速日命縁の登彌神社へ行き、その後、この唐招提寺へ導かれたということは非常に興味深いことである。
posted by ミューシャ at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

愛の十字

今日は一日、家で本でも読んでゆっくりしてようと思っていた。しかし、いつもそうだが、突然に予定は変更される。

私を外へ連れ出すために、あの手この手の策略に乗せられてしまった。
神社へ行けばいいじゃないかと。しかし、この時間から出かけられるところで行きたい神社が思いつかない。

そこで、ネットで探した。写真を見て、ここだと私の何かが反応したところ。それは登彌神社であった。


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車の往来が激しい道路から少し入ったところにあったが、この鳥居から見える向こう側の光景は静寂そのものであった。
そして、由緒書きを読んで驚いた。重要なところだったんだなと。



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意外と長い階段が続いていた。なんか、いい感じ。




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一羽のカラスがよく鳴いていた。人があまり訪れない感じの神社であるが、参拝を終えようとしたとき、赤いTシャツにベージュ色のズボンをはいた一人の老女が階段を上って来た。




次は、なぜか成り行き上、唐招提寺に行くことになった。でも、現在は金堂の大修理が行われていて、残念ながらそこを見ることは出来なかった。


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戒壇である。張り詰めた空間が心地よい。そこに立っていると、自分が若い修行僧のような気分になる。



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鑑真和上の御廟を囲む塀





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その塀の中には、色鮮やかな苔の絨毯が広がっていた。やわらかく、やさしく。




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この御廟の前では、鑑真は愛で貫かれていた人なのであることを確信した。
そして、どこからともなく一羽の大きな黒揚羽蝶が側へ舞って来た。暫らく、私の周りを舞っていたが、その後、またどこかへ行った。

そしてまた、帰り道では、一匹の蛇に出会った。体調60〜70センチぐらいの茶色の蛇。
蛇は苦手だが、不思議なことに、可愛い姿だと思った。
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2007年07月22日

タヒチ号

今、ルワンダ出身のミュージシャンであるコルネイユの歌を聴いている。
あれほどまでに恐ろしく悲しい体験をしたと思えないほど軽やかな歌声。そして、どことなく気品を感じさせる。

その気品を感じさせることの出来る人は素適だ。そう、人間としての尊い品性を。
もしかしたら、そんな素適な品格があるからこそ、地獄から愛の中へ生還出来たのかも知れない。



今年は、なかなかブログを更新することが出来ない。いろいろな人達と関わらなければならなくて、いろいろな思念や感情が絡み合って、疲れている暇もない。
ただ、現実を正しく後悔のないように突き進むだけ。私は私だから。私が善いと思うことを信じて進むだけ。

でも、そんな中で、自分の醜さや、穢さや、弱さや、そんなことに直面させられて、乗り越えなきゃ、駄目だよ、そんな感情はと自身を諌める。

相手を責めることは簡単なこと。相手の欠点を言うことは簡単なこと。相手を見下すのは簡単なこと。相手を突き放すのは簡単なこと。

でも、受け入れることは、結構難しい。許して、愛情を抱いて受け入れることは難しい。
が、少しずつ出来てきていると思う。
過去のことは許そうと・・・・。私のプライドが、人を憎み続けることを善しとしないから。私は、私が醜い姿でいることを激しく拒絶するから。

だから、自分が理想とする姿を追求し続ける。



コルネイユの歌声は、やさしく深い。まるで、生まれながらにして天使であったかのように。

久しぶりに思い出した真っ白な帆船。タヒチ号。気高く美しい。青い海原がよく似合う。ほんとうに、青い海原がよく似合う。
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2007年07月17日

言葉は芸術

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言葉が芸術だったということを知る。

ネイティブ・アメリカン達の言葉は美しく、その表現は生きた創造のよう。

言葉を芸術までに高めている人々は確実に存在してきたし、そしてこれからも存在するだろう。

どの言葉を使うのか、どの言葉と言葉をつなげるのか、それはまるでバラの香りが醸し出されるかのような素適な作業。


つい少し前までは見知らぬ人々だったのに、メールのやりとりでここまで人の心情は変わるものだろうか。
メールをする度に、相手の心が変化していくのをその文字の上に見る。

ただ、一生懸命であればいい。そして、感情のコントロール。常に何かを発展させるための言葉を探せばいいのだ。

ある人に言われた。「すごいね。人を育てているんだ。」と。
自分では全く気がつかなかったし、そんなことは思いもしなかったが、結果として相手の人々は成長している。

だが、これは私の実力ではなく、単にまわりの霊的存在が手助けをしているからに他ならないのである。それはたぶん、今、私という存在を使えるからにすぎないというだけのこと。

言葉というものがもたらすことの大きさを少しずつ知って、現実にすぐ身近でその変化を知る。
口先では何とでも言えるが、それが行動にまで現われた時、初めて物事の成就の道へと向かう。

人間の尊厳としてのプライドは持ち続けたいが、虚栄や利己的なものからくるくだらないプライドは足枷となる。
言葉を芸術にするには、身軽になることだ。
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2007年07月13日

御手の中で

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利己的なプライドを捨てることは心地よい。
一つ、また一つ捨てるたびに私は身軽になり、
そして風を呼ぶことが出来る。
風と友達になることが出来る。

利己的なプライドを捨てることは何も失わないということ。
利己的なプライドを捨てるということは新たなものを得るということ。

そして、それは気高い道への歩み。
私が本当に欲している姿への歩み。

自分を誇示するものがなくなるということは
透明になっていくということ。

透明度の高い魂になりたい。
そうなるための努力は楽しくて、
踊りたくなる。
笑みがこぼれる。
月と星の戯れの中で。
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2007年07月12日

価値観

昨日、中学生の子どもがぷんぷん怒って帰ってきた。なんでも、担任の教師が自分の価値観を強引に押し付けようとするのだという。

子どもは言う。「大会で優勝することに意義があるという先生もいれば、優勝しなくても頑張ったという過程に意義があるという先生もいて、先生だってみんな違う価値観を持っているのに、こうだ、ああだと自分だけの価値観が正しいかのように押し付けてくるなんておかしい。」と。

確かに価値観の押し付けというものほど息苦しいものはない。価値観というものは幾つかの例を挙げて選択させるか、考えさせるかして導き出していくもの。ましてや、教師という職についている人々の社会経験の乏しさに壁を見ることは多々あるというのに。

が、また面白いことに出来ない教師ほど「忙しい」という言葉を他者に対して使いたがる。まあ、教師でなくてもその傾向はあるが。

と、ちょっと脱線してしまったが、何事も押し付けがましい言動は避けたいものである。

子どもは、今学期初めて欠席した。よっぽど嫌だったのだろう。だが、子どもだけが言われたのではなく、クラス全員に対して言った言葉だという。
そして言う。「塾の先生にはいろいろなことを話してもいいけれど、学校の先生には余計なことを喋らないで。子どものことをちゃんと見ている先生とそうでない先生がいるんだから。」

この時期、塾でも学校でも懇談がある。いつも思うことだが、塾の講師は態度も礼儀正しいし、本当によく子どもの性格を見抜いているなと。

また、上の子が高校生の時、某有名進学校の私立高校から教師が一年間の交換ということで来て、子どものクラスの副担任を受け持っていた。
彼は、公立高校の教師とは全然雰囲気も素質も違っていた。やはり言動が礼儀正しく、そしてみんなを引き込む話し方が出来ていた。一本すっと筋が通っているかのように。

明らかに公立と私立の教師の質に違いはあるのだろうと思う。公立の教師たちは「忙しい」という言葉を使えば逃れられることを知っている。だから、進歩が無いのである。無駄なことが多すぎるのである。
そしてまた、その言葉は生徒たちを遠ざける言葉でもある。

塾に通わせるのは勉強のことはもちろんだが、もう一つの理由は、子どもことをしっかり見てくれているし、子どもも講師のことを信頼出来ているから安心だという思いがあるからである。

いつになったら日本の教育現場は変わるのだろうか。混沌とした教育界。子どもの為の貯蓄は必要不可欠な時代。
posted by ミューシャ at 21:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年07月08日

五濁

「霊界物語」を読む上での心得。(第六十巻序文 より)

『この物語もまた神示の所作なれば、五濁を除去し以てこれに向かふ時は、神命垂示のマハービジニヤーナーヘアー(大通智勝)を感受し、マハービューバ(大荘厳)の神理を味わひ、神霊のラトナーヷ・バーサ(宝音)に接し、無等々正覚を得て人生の本分を全うし、不老不死 天国の生涯を生きながら楽しむことが出来る案内書となるのであります。』

※ 五濁:劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁

(五濁を清め去り、清浄無垢 赤子の心境に立って、初めて神霊界の真義に歩を向くることが出来るのであると王仁三郎は述べている。)



また、私が今最も剣の刃のようだと強く感じていることがある。それは、言葉・言霊である。
時には、剣の刃が月の光を反射して美しく煌くかのように呼吸したり、或は、剣の刃が鈍く重く息の詰るかのようになるのを感じ、そして知る。


第六十巻総説 より抜粋

『この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ聞き直せ身の過ちは宣り直せ、と吾人は日夜この神示を楯として、ヒシヒシと押し寄せ来る激浪怒涛を浴びながら、善言美詞の言霊の武器を持って凡ての外道を言向け和す覚悟である。何程多勢の敵といへども驚くに及ばない。

ただ一言の善辞、即ち言霊の善用によりて強敵は忽ち化して強気味方となり、また多勢の味方といへども、ただ一つの悪言暴語の依つて直ちに怨敵となる。

言霊のもつとも慎むべきを明示したのは、本書霊界物語を通しての大眼目であります。』



たった一言添えるだけで、たった一言思いやりの言葉をかけるだけで人は変わる。

たった一言添えることをしなかっただけで、ほんの少しの思いやる心を持てなかっただけで人は心を閉じる。

ただ、言葉・言霊を用いる以前に大切なのは心。その心の五濁がどの程度除去されているかである。
謙虚であるということは当然のことであるが、他者に愛を惜しみなく与えられているか、自分のことよりも他者を守ることが出来ているかである。

ほんとうに、剣の刃の美しい煌きのように、美しい言葉・言霊を使いたいものである。

『山鳥の尾のしだり尾の長々しくも撓まず屈せず・・・・』という王仁三郎の表現に、私の心は透明になる。
posted by ミューシャ at 22:39| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年07月05日

如意宝珠

私は、面白がっている。
私は、楽しんでいる。
そう、今の状況を。

私は、知った。
真っ直ぐに、純に、どれだけ他者の為に動いたかがもたらすことを。

おそらく、過去の不幸だった出来事は、自分の盾や矛がもたらしたことであり、他者の為に真剣に動いていなかったことへの戒め。

私は、自分以外のことに無心になるという状態が、どれほど周りの人間たちを無言の内に動かすかを知った。

心の世界。魂の世界。それ故に、大きく動いていく。
天使存在は、いつでも力を貸したがっている。呼吸をしたがっている。

人の為に何かをするということは、損をするということではなく、
生きた有益な宝を授かるということなのである。
それが、きっと如意宝珠の極意なのだろう。ふと、そう思った。
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2007年07月03日

銀色の星

夕食を作っているとき、心に響く音が聞こえてきた。それは、点けっぱなしにしていたテレビからであった。
私は夕食を作る手が止まり、その音・・・・、いや、その心に魅了されていた。

ルワンダ人であるコルネイユという男性シンガーの歌声であった。
あの大虐殺の中、彼は家族全員を失ったという。悲しみと、怒りと、絶望と・・・・・・。気の遠くなるような時を過ごし、そして今、その歌声は限りない透明性を持って輝いている。まるで、澄み切った高い夜空に輝く銀色の星のように。

ワンフレーズだけでも引き込まれる彼の歌声。絶望という地獄から生還し、深い愛の歌を、透明な目線で見た世の中の歌を、今、歌っている。

どんなに泥まみれ、傷だらけになっても、人間って、こんなにも美しく輝けるんだと。
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2007年07月01日

直観を自由に生かすこと

自由を実現するためには、人間本性の中で意志が直感的思考によって担われていなければならない、という点である。勿論、意志が直観以外の何かによって左右されることもある。しかし人間本性から流れてくる直観を自由に生かすことによってのみ、道徳価値は生み出される。

倫理的個体主義はそのような道徳性のまったき尊厳を表現するのにふさわしい立場である。その立場は、意志を規範に外から合わせることが道徳的な態度なのではなく、道徳意志が自分の存在の一部分になるように、それを自分の内部からおのずと生じてくるようにすることが、道徳的な態度なのだ、と考える。

したがって不道徳な行為は人間存在の奇形であり、不具であるとしか考えない。

―― ルドルフ・シュタイナー  ――




人間の中には泉がある。その泉がどのような状態であるかによって道徳意志に違いが生じてきてしまう。

「直観を自由に生かす」ということ。とても難しく、だが、喜びと希望に満ちている。

その泉の根源は、生まれたときからの教育環境によるのだと思う。
どれだけの愛情を注いだか、どれだけの時間を子どものために割き、一緒に過ごしたか、どれだけ子どもと共に泣いて笑ったか。一つ一つの積み重ね。

そして一番大切なことは、どれだけ一緒に大地の音を聴いたかである。
大地に住む吾々。自然の音と反響しあう大地のこだま。大地の心に沿ってこそ、人は泉の源泉を豊かにすることが出来るのではないだろうか。

正しき直観を自由に生かせられる自分自身の王者になりたいものである。
posted by ミューシャ at 00:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする