2007年08月31日

闘いの幕開け

9月からの本格的な活動を前に、何種類もの書類作成。今朝は、目に少し充血が見られた。

子どもの通う塾講師に、やや問題ありかなという講師がいる。とにかく血の気が多く、ヤンキーであろうと怯まないような度胸は買うが、暴走的独善的な傾向を持つ女性。また、話しによると、この町の出身者だとか。

こんな話しを子どもがしてきた。

○○町(この町)の人間は、よそ者が来るとみんなで寄ってたかって突つきたがる性格だとその先生が言っていたよ。この前も、沖縄と書かれたTシャツを着て歩いている二人の女の子がいたから、「なんだー、このよそ者はー」と睨みつけたら、塾の生徒だったんだって。

その話しを聞いてなるほどと思った。そんなよそ者を不当なことでいびりぬいて、挙句の果てには、そのよそ者に改善をしてもらおうとしているとはなんとも情けない町民たち。

やってやろうじゃないの。あんたらと同じレベルには成り下がりたくない。低次の自我に支配されている雑魚連中は眼中にはない。
私は私のプライドで進む。
posted by ミューシャ at 12:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

雷雨の幕開け

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ここ最近、日本各地で激しい雷雨が発生している。温暖化してきたために、日本でもスコールの様な降り方が多くなってきているのだろう。

でも、私にとっての雷は感覚の冴えと、エネルギーをもたらしてくれる。
カメラを持ちながらベランダに出る。そして、稲妻の姿を撮りたいと構えているのだが、なかなかこれが難しい。結局、一枚も撮れなかった。

あたり一面に轟く雷鳴。激しい雨。暗い雲が空の中を移動していく。突然現われる雲の姿もあり、まさに別世界のドラマを見ているかのよう。

そして、9月からの活動開始前の一時の安らぎを、私は雷と雨の壮大な空間の中で感じていた。


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2007年08月28日

変化し行く顔つき

再び私の顔つきが変化してきている。数日前に美容院へ行ったせいかも知れないが。
ある意味、注目される立場になったり、自分の名前が記載された配布物が大勢の人々の目に触れる状況にあると、一挙手一投足、及び外見にも気をつけなければならない。

それでなくても、なぜか普段から目立つようなので、いつもは地味な服装を心がけているのだが、今年度ばかりは目立つなら目立つなりに整えなければならないと思っている。

もうすぐ完全な幕開け。過去の杜撰な体制・やり方に驚き、戸惑い、だから自らの手で闇の部分を浮き彫りにさせようと思う。
そして、細部に至るまで肌理細やかな体制を整えたい。人の思いを大切にし、どんな立場の人も平等に得られる権利を作りあげたい。

私は私が良いと思う正しいことをするだけ。個人的な感情は押さえ、全体を見ること。
posted by ミューシャ at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

空の花

また、途轍もない孤独感が包む。世の中に自分一人だけになってしまったかのような、深い深い虚空の中。

それが目覚める時のものであったなら、私はしばらく焦りの世界を彷徨い、やがて現実が呼び戻しに訪れる。

幼い頃から何度も味わってきた感覚。子ども時代は、母の姿が少しでも見えないと不安で、心配で自分が自分でいられなくなっていた。なぜなのか分からないが。

しかし、今は誰かを守る立場となり、そして強くなった。そんな深い孤独感に襲われても、もし、そういう時が訪れたら覚悟をすればいいことであって、今は自分がやれることを直向にやり続けようと。
そう、孤独と背中合わせでいることを受け入れた。あがくことをやめた。これが私なのだからと。

瞬間を後悔したくはない。
瞬間の連続を生きたい。
瞬間の命を輝かせたい。

醜い心とは、さようなら。
醜い言葉とは、さようなら。
醜い思念とは、さようなら。

私は私であり続けるために、清らかな安らぎを追い求め続けようと思う。

愛したい。
愛したい。
愛したい。

すべて命あるものを愛することが出来たなら、どれほど幸せであろうか。

花の清らかさには程遠く、
花の可憐さにも程遠く、
花の直向さにも敵わない。

しかし、追い求め続けることは出来るはず。
そんな心を抱いたとて、罪にはならないだろうから。
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2007年08月23日

聖徳太子

日本の象徴的存在とも、代表的人物ともされている聖徳太子。そしてまた、その存在自体が疑問視もされている謎多き人物像。

ひょんなことから遭遇したのだが、ホツマツタヱによれば、聖徳太子は日本の歴史を書き換え、古代文献を焚書にした張本人である悪意を持つ渡来人とのこと。

「和を持って尊しとなす」という精神。聖徳太子縁の地ではどんな状態なのであろうか。おそらく、聖徳太子なる人物が実在していたなら、あるいは実在しなくてもモデルとなった人物の在り方は古代から延々と流れ続けているはずである。
本当に和を持って尊しとなすという精神に相応しい土地柄になっているであろうか。表向きだけのイメージに惑わされるのではなく、その内部や影の部分に光を当てて観なければならない。

法隆寺の七不思議とされている九輪の四本の鎌。以前から、ひっかかっている疑問。

ただ、夢殿に篭るということも理解できる。それは、シュタイナーの血統の考察からも、聖徳太子なる人物の血統の濃さというものから容易なことかと思われるからである。

また、法隆寺にある百済観音と救世観音の対比も気になるところである。そして、この百済観音は、いつから法隆寺にあるのか謎であるとのこと。法隆寺の一番古い記帳書には百済観音のことが書かれていないそうである。

かつて、この二体を実際に見たとき、私は百済観音の美しさと、なぜか涙を感じるものに惹かれたが、救世観音は人間的な欲のようなものを感じた。

ただ、この聖徳太子問題は複雑すぎるし、また調べようとするとなぜだか疲れる。今回のように、調べる気もないときに遭遇していくのが気楽でいい。
posted by ミューシャ at 21:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

白い王者

わが家は、JRと私鉄の両方が一緒のところにある駅と、私鉄だけある駅のどちらからも歩いて25〜30分ぐらいのところにある。先の駅からはバスに乗って5分ほど。バス停からは3分。しかし、後の私鉄の駅からは、わが家方面にバスは出ていない。

子どもの家庭教師は、私鉄だけある駅を使って通うように言われたらしい。そこで、わが家の会話。

私「あの駅からではバスも通っていないし、変質者も時々出るから夜だと危ないわね。」

夫「確かに、あそこからでは大変だろう。」

長女「女の子なのに、可哀想。あれだけ歩くのは、けっこう大変だよね。」

次女「○○駅からバスで来ればいいのに。」

そこで、私は家庭教師に言った。「○○駅からバスに乗ってきた方がいわよ。時間的にもそれほど変わらないから。」

その後、家庭教師はバスを使う経路で来ることとなった。ま、交通費も当初は一回につき500円だったものが1000円ほど出してあげることになったが、身の安全を考えたらそうしてあげるのが当然のこと。

ちなみに、我が娘達は、時々、駅まで歩いたり、反対に駅から歩いて来ることはある。それでも、歩いても安全な条件のときに限るが。

私は、実際に出会ったこれからの若い感性の人たちには、より良い感覚を養って欲しいと思っている。人の思いやり、やさしさ、気遣いなど、自分で受けて実感したなら、その感覚は必ずどこかに残る。だから、それを、また他者に伝達して行ってもらえれば、それはなんと素適なことだろうかと。

今の私には、何か人にしてあげて惜しいという感情はなくなった。むしろ、良いと思うこと、正しいと思うことを率先して行動に移したい。

確かに過去のあまりにも辛かった経験を思うなら、自分さえ良ければそれでいいという感情へと傾倒してしまうだろう。あんな醜い人間達にプラスになることをしなくてもいいし、したくはないと。

時々、激しい葛藤に襲われる。それでも、自分が正しいと思う道を歩きたい。私は地獄の王者ではなく、自身の白い王者でありたいから。
posted by ミューシャ at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年08月21日

火の玉

夜の10時半頃、駅前で家族を待っていた。車の中にいたのだが、ふと、空を見上げた時、低空を火の玉が流れ去るのが視界に入ってきた。

赤に近いオレンジ色。低空といえども、この距離から換算すればかなりの大きさになると思う。長い尾を引いていた。

火の玉状のものを見るのは初めてだが、なんとなく嫌な感じを受けた。

また、今日は少し外出をしたりしたが、なんとなく一日中、微妙に歯車がずれている感覚であった。

混沌。そんな言葉が支配。
posted by ミューシャ at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

日常的雑感

ここのところ、またブログの更新が滞ってしまっているが、つらつらと日常的雑感を書こうかな。

とにかく、昨日は、なぜこんなにも体がだるいのだろうかと思うほどきつかった。誰か、変な念でも飛ばしているのかしら??L

私は匂いというものに敏感だが、同時にそれはうるさいということも意味している。
洗濯洗剤のボールド。この香りがなぜか好きで、発売当初からのファン。変なこだわりかも。

下の子の家庭教師については三人見たが、最終的に京大の女の子に決定。一浪して入っていて、また、家庭的にもそれほど裕福ではなさそうだが、とにかく素朴で嫌味のない、しっかりした根性のありそうな子。
見た目は色白で細身だが、内面は逞しい感じ。将来、有望な人材かなと。
そしてまた、アルバイトではあるが、本当の教師という素質を持っているように思えた。そこらへんの公立学校のベテラン教師といわれる教師100人よりも、彼女一人のほうが価値がありそうだ。

私は、思った。教師の水準がもっと高いものに設定されたなら、どれほど日本のレベルは上がるだろうかと。とにかく、今の公立学校の教師達のレベルは低すぎる。モラルの面でもね。

一番最初に来て断わった京大の男子学生は真面目そうな性格だが、なぜピントがずれる感じがするのだろうかと思ったが、それはきっと、親のすねをかじったままでいるからだろうと思われる。自宅に住み、自分の車を持ち・・・・。?????[???i???j

私は、大学生になってまでも親に物を買ってもらったり、旅行費用を出してもらっている学生は敬遠する。周りを見ても、そういう子たちというのは、将来があまり軌道に乗っていない確率が多いようだ。

ちなみに、自分の大学生の娘には昼食代込みで月2万しか渡していない。あとは、バイトで稼ぎなさいと。その貯まったバイト代でもうすぐサークルの旅行に参加するようだ。

下の子も、三人目の家庭教師はいたく気に入ったようだ。教え方も上手だし、いい感じの人だと。意外とあの子は見る目があるのかな?????????
posted by ミューシャ at 10:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

自有/供犠

夜、自分が運転する誰も乗せていない車の中で歌うのが好き。なぜ好きなんだろうかと、今日、ふと思った。

たぶん、現世に存在しながらも、現世という枠の中だけに存在しない自分を、その時は感じているからかも知れない。

魂だけの感覚。だから、クリアなま〜るい玉の中にいるような状態を楽しんでいるのだろう。

透明な空間と、それに呼応し、そして振動する歌声に、私の魂は私の魂の存在を確認し、呼吸する。



霊界物語第六十三巻第十章に、次のように書かれてある。

――――――――――――――


想念なるものは意志より来たり、意志なければ何人といへども想念なるものはありませぬ。

また意志および想念といふ時は、この意志の裡にもまた情動、愛、およびこれらより起来する歓喜や悦楽をも含んでをります。以上のものは何れも意志と関連してをるからです。

何故なれば人はその欲するところを愛し、これによって歓喜悦楽の情を生ずるものだからです。

また想念といふことは、人が由り以ってその情動即ち愛を確かむるところの一切を言ふのです。なんとなれば想念は意志の形式に過ぎないものです。即ち意志が由りて以って自ら顕照せむと欲するところのものに過ぎないからであります。

この形式は種々の理性的解剖によって現はれるもので、その源泉を霊界に発し人の精霊に属するものであります。

―――――――――――――




意志と想念についての口述は、あまりにも理路整然としていて、眉間に皺を寄せて考えていた時期があったことを懐かしく思う。

シュタイナーも、「意志」というものの大切さを述べているが、「意志」を如何に育成するかが人間の課題でもある。

また、霊界は想念の世界とも言うが、すべては意志あってのこと。ならば、今、現世において肉体を持ち、また自由に自分の意志で歩める時に、どこまで高められるか、また確実なものに出来るか頑張りたいと思う。



さらに、霊界物語の口述は続く。

―――――――――――――――


凡ての人間の人間たる所以は全くその内面にあつて、内面を放れたところの外面にあらざることを知らねばならない。

内面は人の霊に属し、人の生涯なるものは、この内面なる霊(精霊)の生涯に他ならないからです。人の身体に命あるのは、この精霊に由るものです。この理によつて人はその内面のごとくに生存し永遠に渉りて変らず、不老不死の永世を保つものです。

されど外面はまた肉体に属するが故に、死後は離散し消滅し、その霊に属してゐた部分は眠り、ただ内面のために、これが平面となるに過ぎないのです。

かくて人間の自有に属するものと属せざるものとの区別が明らかになるのであります。

悪人にあつてはその言説を起こさしむるところの外的想念と、その行動を起こさしむるところの外的意志とに属するものは、一ももつて彼等の自有と為すべからざるものと知り得るでありませう。

ただその内面的なる想念と意志との属するもの而己(のみ)が、自有を為し得るのであります。

故に永遠の生命に入りたる時 自有となるべきものは、神の国の栄えのために努力した果実ばかりで、その他の一切のものは、中有界において剥奪されるものであります。

―――――――――――――




一番大切なこと。一番あたたかいこと。一番尊いこと。一番平等なこと。そして、一番理に適っていること。それが、自有となるべきもの。
また、この「自有」とは、シュタイナーの言う「供犠」と同じことではないだろうか。

人間達が住まわせてもらっている地球。即ち、神の国。それをより美しく、一人でも多くの人々が心から笑える国になれるように、どんな小さなことでもいいからしたい。

そんな小さな想いでも、確固たる意志から発せられたものであるなら、現実に行えるはず。口先だけで終わらせられない。

一点の曇りもなく、脂肪をつけてしまった感情でもなく、クリアな想いで、この瞬間の連続を生きていきたい。
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2007年08月14日

血はまったくの特性ジュース

ルドルフ・シュタイナーの「血はまったく特性のジュースだ」から抜粋・引用しながら書いていきたいと思う。

ファウストが血で誓約書に署名したことについて、シュタイナーは次のように述べている。

『悪の力の代表者は、ファウストの血の少なくとも一滴を、自分のものにすることで、ファウストを完全に掌中に収めることができると信じており、したがって血の敵だからではなく、血を奪い取る必要があったからこそ、ファウストに血の署名を要求したのである。

或る人間の血を奪い取れば、その人間を支配できるという点で、血は悪魔の特別愛好するジュースなのだ、という注目すべき感じがこの箇所の根底に存在している。

善と悪とをめぐる人間と悪魔との戦いに際しては、血が決定的役割を演じる、ということをこの箇所は示唆している。』



昔から、よく血判書というものがあったが、それらの背景には一滴の血でさえも欲しがる悪魔の性質が隠されていたのだろう。
そして、そのたった一滴の血の重さは、計り知れないほど大きなものである。



『脳髄を通して外なる世界が内面化されたように、血を通してこの内面世界が外面化されたものが、今日の人間の姿なのである。 (略) 脳髄を通して内面化され、個体的性格を与えられた外界の像を血が摂取すると、それらの像は血の中で生命を形成する力に変化する。そしてこの形成力によって、現在の人体が作り出される。その意味では、血は人体を形成する実質であるともいえる。

しかし血の人体に対する働きは、このことと並んで、もう一つ別のプロセスをも辿っている。

血は直接外界に向けて開かれている。そして外界における極上の成分である酸素を直接摂取し、それによって繰り返して自己を賦活し、新しい活力を得ている。

血における人体形成のための以上二つのプロセスによって、われわれは、一方では外界から内面世界を通過して血にいたる道、他方では直接外界から血にいたる道の二つをもっていることになる。』



血が人体を形成する実質であるということは、思慮深く生活しなければならないということへの再認識を促す。

私は、目に映るもの、耳に聞こえてくるもの、肌が感じ取ることなどを重要視してきた。否、というよりも気をつけたかった。
入ってくるものが一つ残らず吸収されて、血となり肉となるのを感じていたからである。
それが善いもの、美しいものであるならいい。しかし、醜いもの、穢れたものであるなら、私はどこまでも苦しまなければならないからだ。やがて、その記憶が消え、感覚が薄らいだ時、やっと酸素を思いっきり摂取できる。



また、シュタイナーは、混血についても次のように語る。

『異族婚による新しい血の混入は、種族のこれまでの生活原則を崩壊させる。どの民族にも遅かれ早かれ、現われてくるこの異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした時点なのである。』

『純粋な血においては、祖先たちの権力が、混血においては、自分自身の体験の権力が支配している。 (略) 民族伝統の権力は、もはや血に作用することができなくなったとき、そして外からの血の混入によって、新しい血がもはや祖先たちの権力を受け継ぐことができなくなったとき、消えていくしかない。

この事実は、あらゆる範囲に亘って現われている。人間を支配する権力は、それがどのような権力であれ、血にまでその支配力が及ぶのでなければ、まだ意識の表面を支配するにとどまり、まだ決定的なものとはいえない。

したがって悪の権力も、人間に支配力を及ぼそうとするとき、血を入れることがどうしても必要だったのである。

これがわれわれのテーマである「ファウスト」の言葉の深い意味である。だから悪の原理の体現者は次のようにいう。―――「血で誓約書に署名しろ。お前の血で書かれたお前の名前を手に入れたら、俺はお前の急所を手に入れたことになる。お前を俺の手もとまで引き寄せた訳だ。血の由来するところに、人間も人間の【私】も由来する。」』



『動物界では、異なる血が異なる血を殺す。人間界でも、異なる血が同族の血と結びついた見霊能力を殺す。同族婚の精神生活は進化の過程で殺された。しかしその代わりに、異族婚から新しいもの、知性、つまり外へ向けられた判断力が誕生した。』

『人間の血の中には「私」の本質が生きている。 (略) 物質的原則、エーテル体、アストラル体は「上なるもの」であり、人間の血と「私」とは中間の存在であり、そして肉体、生命組織、神経組織は「下なるもの」である。したがって自我を支配しようとすれば、その血を支配しなければならない。』



世の中の様々な形態に、その本質は隠されているもの。外面的にでてきているものの中に、その流れの本質・秘められたことを見出す努力をしなければならない。
洞察力の必要性を痛感するのである。

本当に、血はまったく特性のジュースである。



PS:今、この記事を書いている最中にも、私の心は安倍総理のことで占められている。彼は何も悪いことをした訳でもないのに、執拗な攻撃で潰されようとしている。
彼は、国の為に必要な改革を行ってきた。善のサラブレッド。にも関わらず、国民の多くはメディアに洗脳され、攻撃に向かっている。昨日のNHKの支持率調査でも、さらに低下したという。

冷静に考えてみればいい。なぜ、安倍総理に近い人たちだけのスキャンダルが出てくるのか。
政治家達の多くは、民主党にしても公明党にしても、共産や社会党にしても、皆、何かしら悪いことをしているはず。なのに、その方面の政治家たちのスキャンダルは出てこない。
非常におかしな状態となっているのではないだろうか。

そこまでして安倍総理を潰さないと、自分達の私利私欲の為の目標が達せられないということは明白なこと。愚かな煽動に乗ってはならない。
もし、安倍総理が潰されれば、また長い停滞が続き、ダークな政治を復活させてしまう懸念がある。私は、それを深く憂慮する。
posted by ミューシャ at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

生國魂神社と遊仙窟

昨日は、掃除洗濯と、家族のための食事作りだけやって、後はほとんど眠りの中だった。
必ず毎日入浴するのだが、昨日は、夕食を片付けた後、眠りの中に入ってしまい、早朝の入浴となってしまった。

家族は私のことが心配らしく、入れ替わり立ち代わり、そっと部屋のドアを開けては覗いていた。
ただ、私はすぐに人の気配で目を覚ましてしまうので、その気持ちはありがたいのだが、かえってそっとしておいて欲しいといつも思うのである。

夢は幾つも見た。その時は鮮明に覚えているのだが、最終的に起きた時点では、その殆どを覚えていない。ただ、感覚のみが残っているぐらいだろうか。

とても大切な夢だと、そのときには思ったものが忘れられている。女性と男性が語った言葉。そして、もう一つの重要なキーワード。ただ、そのことのみしか記憶には残っていない。

あとは、外国の中の日本的で近代的な海辺の街並み。心地良かったという感覚があるだけ。やはり、メモしておく必要性を感じる。

御幸森神社から生國魂神社へはタクシーで向かったが、白髪の初老の運転手は感じの良い人であった。
だが、生國魂神社のすぐ側まで来て、「このまま行って信号待ちをしていると時間がかかるから」と裏通りを走ったのだが、なんと、そこは風俗専門通り。
タクシーを見た店の人たちがやたらと手招き。こういうところは、タクシーで来る人が多いのかと、嫌悪感を感じながらも、ちょっと面白がってしまった。

しかし、神社のすぐ側に風俗専門の場所があるということに、ふと、面白いシンクロを見た。
木島明神に纏わる「遊仙窟」の話し。以下のHPに大体のことが書かれてある。
       ↓
http://www.bunet.jp/world/html/12_3/12_3tansa/12_3tansa.html

生國魂神社、遊仙窟。奥に秘められた何かがありそうな気がする。

薪能の為、普段の神社の姿を見ることは出来なかったが、社殿の奥のほうまで開け放ち、明かりが点けられていた。
そして、最初に舞台と観客の祓い清めが神主さんによって執り行われた。
私の座っている椅子がカタカタいうと思ったら、参道の石畳の上だった。比較的前のど真ん中の席。意識してその席にした訳ではなく、人の流れに添ってのものだったのであるが。それにしても、真正面に沈み行く夕日は熱く眩しかった。久々の正面からの太陽光であった。
posted by ミューシャ at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年08月13日

私の我儘

薪能には、ほとんど年配の人たちで占められていた。子どもの頃、とは言っても19歳か20歳ぐらいの時であったが、母に連れられて能を見に行ったことがあるが、あの当時はただひたすら眠くなってしまった。
ただ、その場の気迫だけは、今も鮮明に心に残っている。

今回、家族で出かけた。子どもたちは興味ないだろうなとは思いながらも、一日ぐらいは家族ででかけようと、中学生の子を半ば強引に説得して連れて行った。

案の定、最初はこっくりこっくりと居眠り。しかし、辺りが暗くなるにつれ、舞台を見るようになっていった。
終ってからの感想は、面白いのか面白くないのかよく分からないというものであったが、面白くないと言い切らなくてよかったかなと。3時間半の薪能。

大学生の子は古典が得意だっただけに、のめり込むようにしてその世界に見入っていった。終ってから、面白かったねと。私のその年齢の頃とは全く違うものであった。母として、古典も娘に劣らないように頑張らねばと思うのであった。

夫は、ストーリーを知っておかないと分からないだろうと、パンフレットに書かれてある内容をしっかり読んでいた。
ただ、国内外への出張が続き、休日出勤も当たり前の状態。仕事もかなりのハードさを極める中での、私の我儘に付き合ってくれたが、さすがに帰る頃の夫の目の下には大きな隈が。
忍耐と努力の人で、ほとんどまったくと言っていいほど愚痴をこぼすことのない人。時間もほとんど無駄にすることもない。だから、その様子を見て、かなり体がきついのだろうと察することしばしば。

家族あっての私の状態。感謝に尽きるのである。


PS: そんな夫に、私が以前、「学校の先生って、すぐ忙しいという言葉を使って逃れようとするのよね。」と、話したとき、「忙しいということを言う前に、いかにそれをこなせるかの段取りを考えるのが当然のことだし、やらなければならないことならやって当たり前。やる前に、忙しいというのはおかしなことだ。」と、語ったのである。
posted by ミューシャ at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

時空を越えた共存

八月十二日は、生國魂神社の薪能を見に行ってきた。その前には、文献に残る日本最古の橋と言われている「つるの橋跡公園」と、仁徳天皇縁の神社「御幸森神社」へ参拝してきた。



まず、つるの橋跡公園から写真のUP。

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小野小町の詠った歌の歌碑があった。




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御幸森神社




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仁徳天皇が鷹狩りなどのおりに休憩された石




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謎の石。境内にありながら、なんの説明も書いてなかった。




さて、お次は生國魂神社であるが、この日は撮影禁止となっていた為、神社の写真は一枚も取れなかったし、境内には舞台が作られていたので、いつもの神社の光景は見れなかった。

天気の良い、暑い一日だった。夕方の境内には数匹の赤とんぼが飛んでいた。なぜか、生國魂神社には赤とんぼが似合なと、私は思っていた。

薪能の演目は、「放下僧」、「飛越」、「井筒」、「鞍馬天狗」であった。

能が始まり、社殿の真後ろ上空にあった太陽はゆっくりと屋根の向こうへ沈んでいった。まるで、うしろの正面だ〜れと言わんばかりの光景。

空は、様々な青色に変化し、そして夜の漆黒の背景を演出して行く。神社の御神火から移された火が、舞台の篝火に点火される。暑い夜の情熱の火。
夜の闇が辺りを覆うほど、火と人の存在が大きく大きくなる。笛や鼓や謡の声が独特の空間を演出し、舞う姿に魅了されていった。

最後の演目「鞍馬天狗」の姿の後ろの空には、たぶん金星と思われる一つの明るい星が輝いていた。

生國魂神社の中を反響する薪能の音、声。これからの到来する時代を物語るかのよう。

私は、ふと、感じた。この空間に昔から今までどれほどの人たちが訪れていたかを。日時は違っても、同じ空間。幾重にも重なり合った時空。
その中で、誰か一人でも清涼で慈愛に満ちた思いでその場を浄化したなら、それは重なり合った幾重もの時間を貫く。時空を越えた共存。



実際の生國魂神社の写真は撮れなかったので、御札と、今日の薪能のチケット及び団扇の写真をUP。

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2007年08月10日

上等の御魂だなんて思うなよ

霊界物語の中に、「神素盞鳴の大神が山上の神訓」というものが書かれてある。
その一つに、次のようなものがある。


一、愛善の徳に住し信真の光に住し、神を愛し神を信じ神の為に
  尽すものは天界の住民となり、悪と虚偽とに浸りて魂を曇ら
  すものは地獄に自ら堕落するものぞ。


ふと、思った。至って簡単なことではないかと。ただ、天真爛漫に素直に愛に従い、人間の良心として善いと思うことをし、謙虚に学ぶ姿勢を持ち続け、そして、神が喜ばれることをすればいいだけのこと。

な〜んだ、力まなくていいんだと思ったとたん、肩の力が抜けて、心が軽くなる。

そしてまた、地獄に落ちるのは人のせいとか、何かのせいではなく、自分自身が選んだこと。文句なんて言えない。

ボブ・ディランの詞の中にもあったっけ。上等な人間じゃないって。自分が上等だなんてもし思っている人間がいるとしたら、それこそ道化師の世界。
上等じゃないから、向上しようとがんばるのだから。
posted by ミューシャ at 11:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

学歴・実力・人間性

今回、下の子の家庭教師ということで二人の人間を見ることが出来ている。
大学は違うものの、共に同学年、同学部。一人は二浪して京大、一人は一浪して同志社大。また、二人とも出身高校はそれほど上位の高校ではなかった。

京大生の教え方は、公式を覚えなくてもいいと言いながらも公式ばかり出してくるという教え方。
同志社大生は、一つの問題でもいろいろな方面から考え方を導き出させていくという教え方。

おそらく、京大生は公式を暗記することで合格したタイプだろう。
同志社大生というと、次のように言っていた。「大学に落ちたとき、公式だけを暗記する勉強方法では覚えるのにも限界があって駄目だということに気がついた。だから、基礎を一から勉強しなおした。」と。

学歴社会ではなくなりつつあるとはいえ、まだまだそういうことが蔓延っている社会だが、この二人を目の前にして比較してみた時、学歴とはそれほどたいしたことではないなと思うのであった。

その京大生の方は、たぶんその後も京大という名だけできているのだろうが、どことなく頼りなさを感じさせた。もちろん真面目そうでいい人だとは思うが。

同志社大生の方は、やや押しの強さを感じさせるものの、頼れる感じ、いろいろなことを任せられる感じのする人である。

また、京大・阪大を落ちた人も同志社大へ進学するケースは多いようだが、同志社大のゼミでもそういう人ばかりが中心に集まるようなゼミがあるという。
そのゼミというと、もう雰囲気も全然違うし、内容も高度で普通の学生では近寄れない様子だとのこと。

私の上の子はトップレベルの高校であったが、そういう高校で上位を占めている子達の意識というのは、大学は浪人してまで入るものではないという考えが大半を占めるという。
たぶん、それなりの実力を備え、自信もあるだろうし、一年間を浪人生として費やすよりも先へ進むことを優先させるということなのかも知れない。
それでも、関西で言うなら、京大・阪大は仕方ないとしても、神戸大・大阪市大・関関同立は浪人してまで入る価値がないと思っているようなので、たぶん、同志社のそのようなゼミというのは、そういう生徒達が集まっていることと思われる。

そして、まさに紙一重だったり、運不運で落ちた状態は、その後も一種の屈辱感や、或は負けてたまるかという気迫に変わったりしていると思うので、同じ大学でも近寄れないほどのものとなっているのだろう。

私はもともと結婚するつもりもない人間だったが、子どもを持ってみて、いろいろと大変だけれど、それと共に様々な人々のことを知ることができ、自分の目が多くのことを見つめられてきたということが、なんと尊いことだろうかと今は思っている。

ちなみに、子どもは京大生の家庭教師はわかりにくいし、性格的にも相性が合わないということで、さっさと断わってしまった。
posted by ミューシャ at 10:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年08月09日

無題

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歌と静寂は心地よい。誰もいない深閑とした山の中が好き。

大地の歌に耳を傾け、空の中に舞い、生きていることの実感。

記憶は流れ行くもの。

記憶は忘れ去られるためにあるもの。
posted by ミューシャ at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

鳥の姿

昨日、子どもを連れて車で出かけた帰りのことだった。
家のすぐ近くの交差点で信号待ちをしていた。すると、子どもは、いきなり「鳥、鳥だよ。」と言う。鳥がどうしたのだろうかと思い、訪ねた。

「今、車の真上を飛んで行ったよ。大きな鳥だね。あんなに大きいのは珍しいね。」

私は、飛んで行った方向を見た。すると、例の鳥だった。
私は言った。「あれが、いつも言っている鳥だよ。」

最近、またよくよく見かけるようになった。たおやかに力強く飛ぶ姿に、心は勇気付けられる。がんばらねばと。
posted by ミューシャ at 12:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

政治家達の顔・裏心

7日、第167回臨時国会が開会された。そして、自民党内から安倍首相へ公然と退陣要求の発言が相次いだ。

その様子を見ていると、自民党員なのに、まるで野党と同じではないかと思ってしまう。
本当に党のことを考え、思っての思索ではなく、ただ単に私利私欲が絡んでいたり、個人的な腹いせからの発言であったり、はたまた派閥復活の古い自民党体質に戻そうとするような動き。

これでは、益々、国民の自民党離れが進むのではないだろうか。本来あるべき姿は批判するのではなく、一致団結して良い方向性を模索することであり、山済みにされている諸問題を片付けて行く事である。
同じ党内での足の引っ張り合いこそ、国民の税金の無駄遣いとしか言いようがない。

また、民主党も相変わらず実力が備わっていない。まず、やり始めたことといったら、一円から領収書をというもの。そんなことより、もっとやらなきゃならない大きな問題があるというのに。目線が低すぎ。
それから、イラクから復興支援を行っている自衛隊の撤退? 簡単に決めなさんな。世界情勢や、本当に必要であることを見極めて欲しい。
まさに、民主党のやりはじめたことは停滞をもたらしているだけ。

本当に、見ていて歯がゆい政界である。だいたい、政治のこと、経済のことを全く分からない人間が投票するということにも、もしかしたら問題があるのかも知れないし、メディア側の操作に乗せられてしまうことも問題なのかも知れない。

ただ、言えることは、今の自民党内には安倍首相に代わるべき人材はいないし、彼ほど迅速に物事に対処出来る人物もいない。
そして、民主党の小沢は自民党の古い体質を体に染み込ませた人間であるということだけは確かなことだと思う。

安倍晋三という、希有の逸材を潰してはならない。
posted by ミューシャ at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年08月07日

原爆投下は人体実験

米軍による日本への原爆投下の真相について、「夢の主との語らい掲示板」に書かれてある内容を読んでからというもの、ここまで国民が騙されてきたことに朝から腹だしかった。いいや、腹立たしいを通り越して、怒りが込み上げていた。

朝、起きてきた子どもに早々言った。
「あの原爆投下はアメリカによる人体実験だったんだって。長崎と広島は違う種類の原爆を落とされているし、日本は投降の準備をしていて、原爆を使われなくても降伏するつもりだったということよ。」

そうしたら、子どもはあっさりと言った。
「知っているよ。日本史で習ったから。でも、教科書には載っていないよ。先生が話してくれただけだから。」

その教師というのは、日本史の世界では結構有名な人らしい。夢見る坊やがそのまま大きくなったという感じで、全然剣のない感じの人。

でも、私は思った。去年は高校における日本史の履修問題が発覚し、全国の高校三年生が不安の中に突き落とされたが、それは意図的なことにしろ、意図的でないにしろ、日本人でありながら日本史を学ばないことの恐ろしさ、また、事実を隠蔽され、間違ったことを事実として教えられていることの恐ろしさを。

それにしても、アメリカの原爆投下による人体実験は、ナチス・ドイツのユダヤ人の人体実験と同じ残虐な行為。こういったことを許してはならないし、事実は事実としてもっとクローズアップすべきである。

そういう意味でも、安倍首相のあらゆることを正そうとしている姿勢を応援したいし、頑張ってほしい。日本の為に。
posted by ミューシャ at 20:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 世相 | 更新情報をチェックする

政界の正統派

「負けるな晋ちゃんまんじゅう」? だっただろうか。安倍総理のお饅頭が発売されるという話題がテレビから流れていた。
その姿はスーパーマンの服に身を包んだ絵で描かれていた。

ひつじさんから頂いたコメントで、政界の動きを垣間見ることが出来た。そして、ネットサーフィンをしていたら、これまた真相と思える内容を書いているブログを見つけた。
        ↓
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/04/post_ffdc.html

小泉純一郎元首相と安倍現首相。この二人が、汚れきった政界にメスを入れ、立て直しを行ってきたのである。この二人の流れを断ち切ってはならない。
安倍首相を失脚させようと、どんどん足を救うことばかりしている輩達。ネタになりそうなことを暴露することばかりに神経を傾けている反対勢力に、日本を良くすることなど出来ない。自分達の利益ばかりを追求する汚れきった連中。

私は、安倍首相を応援するし、「美しい国 日本」を名実ともに実現してくれることを願う。そして、もちろん自分自身も「美しい国 日本」に相応しい日本人となりたい。

「美しい国 日本」
なんと、素晴らしい響きなのだろうか。
posted by ミューシャ at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする