2007年10月30日

トップに立つ人間

あの酷い状態の小学校でも定年間際の校長だった。しかも、教頭が悪の権化と化していたのだが、中学校でも定年間際の校長。まあ、教頭はまともではあるが。

その校長のやり方には、さすがに子ども達もおかしいと首を傾げることが多々あるようだ。
実態を知れば知るほど、協力体制をとることに足踏みをしたくなる。校長と特定の教師との癒着。校長一人の特権及び嗜好で物事が動き、特定の教師の信じられない我儘が罷り通ってしまう。

定年間際の校長は自分の母校で錦を飾って終り、その後、教育委員会へ天下りとなる。それが、この地域のやり方とのことだ。

おそらく、実際に教員として採用されるのも縁故関係によるものがほとんどだろう。特に、地方や古い地域では、そういう状態であるということを聞く。
だから、この土地では十年以上も同じ学校で勤務のまま移動しない教師達が多い。
まさに、活性化には程遠い状態。しかも、校長がそのような状態ではどうしようもないだろう。

子ども達は不条理なことを見せ付けられ、不正に対して怒る気力もなくなり、諦め、ただことなかれ主義でいれば時は何事もなかったかのように流れて行くことに慣れてしまっている。
そして一番恐いのが、同じような人間になっていくことだ。問題点に目を瞑るということは、これから先、いろいろな問題があっても気付かずに行ってしまうということ。

教育改革において、まず一番先にしなければならない事は、学校のトップである校長を教育しなおすこと。倫理道徳に十分な能力のある人間を就けること。そこからしないと、なかなか教育現場は良くならない。

今日も、あきらかにおかしいと思う校長の趣味で作った配布物が手元に届いた。それを見たほとんどの人が、きっと変だと思うのではないだろうか。
トップの座に着くと、私利私欲に傾倒してしまう人間が多いのがこの土地の特徴。倫理道徳に外れた人間は教育者であってはならないし、またトップの立場に立つべきではない。
私の心の中にも、もう極力協力したくはないという思いが湧いてきてしまっている。でも、そこで足を止めたら、それもそれで後悔することになるだろう。感情の整理をしつつ歩んでいこう。
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2007年10月28日

光彩

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   月が空にある。
   月が雲との光彩を楽しむ。
   月が語り、
   雲が語る。

   月は、雲が側にいると、
   力強い光景を描いたり、
   やさしい光景を描いたりする。

   雲は、月がいると、
   自分の姿をどう表現しようかと
   素適な芸術家になる。

   私は地上から見上げる。
   なぜか、月と心が通うから。
   雲と同化出来るから。

   こんな静寂で、透明な空間が好き。
   不純物が無い世界は、呼吸が楽だから。




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   雲が通り過ぎたよ。
   お月様、まんまる。
   情緒ある芸術の世界は流れ、
   今、月の輝きは真っ直ぐ私に向かってくる。
   月の光に抱かれて、
   私は目を閉じる。
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2007年10月26日

彗星

すっかり忘れていたが、昨日のニュースで彗星のことが流れていた。
なんと、今、いつもの40万倍の明るさになっているとのこと。だから、肉眼でもはっきり見えるそうだ。
天文関係の人の話では、このようなことは始めてのことではないか、そして、もしあるとすれば、あと一回あるかないかとのこと。

果たして、この彗星の意味するところとは?
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2007年10月25日

再生

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「ホピ物語」をパラパラと読んでいた。ホピたちのグレイトスピリットに対する思い。そして、その道に従うことの覚悟。

強い勇気と、生きとし生けるものすべての浄化。母なる地球を癒すこと。



吾々は、この地球を家として住まわせてもらい、教育してもらい、叡智を学ばせてもらっている。
だからこそ、この地球を隅々まで浄化しなければならないのだ。美しい星であらねばならない。陽の光を繁栄させる涙、風と語らえる頬、雨を受け入れる心・・・・。

空は、いったいどれほど多くの色を見せてくれるのだろうか。そして、耳を澄ませば、色の奏でる音が聞こえてくるかのよう。

この地上で泥にまみれ傷だらけになっても、空を見上げれば、偉大な神の形象はすべてを洗い流し、空の羽衣にやさしく包み込んでくれる。
だから、再び地上に降りて来れるのだ。

少しずつ、少しずつでいいから、今、自分が立っている場所がより良くなれば、それでいい。
posted by ミューシャ at 23:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月24日

茜色の不思議

昨日、不思議なことが起きた。
検索ワードを打ち込んでいないのに、いきなり、「いきものがかり」というワードが勝手に入力されて検索されていたのだ。

とりあえず、一番最初に挙げられていたところをクリック。
3人組の音楽バンドのグループ名だったということを知る。

「茜色の約束」
取り合えず、視聴。素敵な曲! なんと、10月24日発売となっている。

ん〜、この歌は大ヒット間違いないだろう。

また、このグループは「SAKURA」という歌でもヒットしたようだ。

それにしても、世の中、不思議なことがいっぱいあるものである。
posted by ミューシャ at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月20日

根本的な相違

一つ、また一つと終えられて行く。最初こそ大変だと思う感情があったが、何度も様々な形態のことを経験していくと、それほど大変だとは思わなくなってくる。むしろ、本番は楽しんでいる感情が支配する。

ただ、やはり公立学校の教師というのは社会経験が乏しいなと、その都度思うのである。ものの考え方、洞察力、予測、計画性などの未熟さは歴然として見える。とにかく、効率の悪さというものは、どうしてもあるのだ。
無駄な空回り、無駄な気配りなどがあるから、教師というのはすぐに大変だ大変だと口にするのである。

教師になるには、民間で10年ぐらい働くという条件が必要に思える。根本的に教員育成及び教員免許の見直しは図られるべきであるし、また、今のレベルというのは、簡単に教員免許を取得し易いので、もっと取得出来るレベルを引き上げるべきでもある。

ただ、最近、希望だなと思えることがある。それは、シュタイナー教育が、日本にもどんどん浸透してきているようだからである。いずれ、草の根が広がるように、本来あるべき姿の教育体制が敷かれるのかも知れない。
posted by ミューシャ at 23:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年10月19日

クリスタル

私は、人間という楽器になりたい。

不器用で何も出来ない私だけれど、

人間という楽器になることで、

美しい調べを奏でられるかも知れない。
posted by ミューシャ at 07:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月18日

憧れ

目を瞑り、すっと透明な感覚でトンネルを抜けるような感じになった時には、いろいろなヴィジョンが見える。

中でも、見知らぬ人物が面白い。老若男女問わず、時代を問わず、人種を問わずにリアルに出てくるのだもの。まるで、すぐ目の前に生きているかのように、鮮やかに。

だから、その時、私は記憶しようとするのだが、数日もすると、なぜか記憶に残照が残っていないことが多い。

きっと、人の道は、人に出会うことが大切なのかなと思うのである。

そして、人間としての気高さは、他者をどれだけ大切に思えるかなのだろう。だから、誰も不当に傷付けてはならない。愛の育成こそ、気高さへの基本。

気高い人間になりたい。それは、私には憧れのようなもの。わくわくする憧れ。まるで、星に辿りつこうとするような感覚。
posted by ミューシャ at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月11日

もしも、のとき

さっき、自分のこのブログを開こうとしたら、「削除されたか、名前が変更されたかなどでページを表示できない」とのことだった。

えッ、うそ〜。まさに、そんな感じ。ちょっと焦ってしまったが、クッキーを消してから、もう一度アクセスしなおしたら表示が出来た。

でも、以前、過去に書いた記事を見ていたら、自分の書いたものではないものに書き換えられていたことがあった。

たまに聞く。自分のブログにサインインしたのに、他の人のブログに入ってしまったということを。

だから、もしかしたら、万が一、悪しき人が入り込んだ場合、このブログを消されることもあるのかなと。
そんなときは、たぶん、また一からやり直し。
予告なしに突如消えたら、誰かのいたずらだと思ってくださいな。
posted by ミューシャ at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

光と闇の律動

民族主義歌 第三    タゴール


ない 惧れはない 勝利があるだろう

勝利があるだろう この扉は開かれるだろう

私は知っている 私は知っている

お前の束縛の綱は何度となく 断ち切られるだろう

瞬間瞬間お前は自らを失い ねむい真夜中を過ごした―――

くり返しくり返し、お前は 世界の権利を得るべきである。

陸に水に お前の呼び掛けがある。

人々の住むところ呼び掛けがある。

とこしえにお前は 歌を歌うだろう

幸福につけ、苦しみにつけ 恥の中に 惧れの中に

花と若葉 川と滝の調べ調べに お前のメロディーを合わせる―――

お前の韻律に 光と闇が律動するだろう




タゴール。好きな人物。
「お前の韻律に 光と闇が律動するだろう」
この言葉の持つ煌き。

私は、夜、誰も乗せていない自分が運転する車の中で歌うのが好きだ。
その張り詰めた空間の中に反響する声と、思索と、凝縮された人生の魂が心地よく幾重にも織り重なり、それでいて透明であるから。
まさに、光と闇が律動しているかのよう。

その空間を保てれるのは、きっと、この詩のような情景を何度となく過ごしてきたからかも知れない。

諦め、絶望、小さな光への確信、自由、勝利。
それらは大自然の生命と共にあり、共鳴しあっていたから。そして、いつしかその流れに身を包まれていたからだろう。
posted by ミューシャ at 12:41| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

PTA 補足編

その教師である母親についてだが、その後、2回、有給休暇をとってPTAの仕事に参加してくれた。

最初は、仕事をしているから平日は絶対に無理だと言い切り、たぶん、それで押し切れると思っていたかも知れない。

だが、母子家庭の人や、他にも仕事を持っている人たちがそれなりにもPTAの仕事というものを受け止めてやろうとしてくれているのに、自分は教師です、出来ませんでは許されないこと。

だからと言って強制したわけでもなく、強い態度で出たわけでもない。
ただ、現状がどうであるかを説明し、私が作る配布物をトップレベルの高校で配布されているような趣にしただけのこと。それと、ちょっとだけ芸術的要素を取り入れたりしているのだが。

この配布物ということ。私はかつてから、この町の小学校や中学校で出されていた手紙類は、誤字脱字や、日にちの間違いなどが見られ、また子どもじみたものであったため、嫌気がさしていたし、なぜ、こんなミスプリが多いのかと疑問にも思っていた。特に、学校側が出すものにミスプリが多い。
だから、意識的に高めている。

ま、一応、そういう意味では評価される言葉が耳にも入ってきているのだが。

本当にPTAの仕事が出来るか出来ないか、それは分かること。だから、実際に大変な状況にある人には、みんなの理解を得て仕事から外している。
私の管轄外にいる人の中には、どんな状況であろうと、子どもを学校に通わせている以上、同じだけ仕事をやらせるべきだと、口から泡を飛ばすかのように喚く人々も多いのだが。
しかし、聞くところによれば、そういう意見の多いところでは問題が多く、運営が上手く行っていないようだ。

自分に厳しくあること。そして、本当の意味で公平であること。それが、大切だと思う。
まさに、それは剣の刃のようでなければならないと。
posted by ミューシャ at 12:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

安倍晋三

月刊現代11月号に、安倍晋三前首相についての記事が掲載されている。
安倍晋三の友人が書いた、彼の350日の苦悩。そして、田原総一郎の書いた、安倍晋三の功績。

もちろん、彼を批判するだけしか脳のない立花隆の書いたものも載っているが。

まさに、敵は本能寺にあり。

公務員制度改革という誰もが手をつけられなかったことをやり、安倍・塩崎コンビが環境問題で決裂していた欧米を取りまとめて世界の危機を救うという方向性を築いた。
この他にも、多くの功績がある。安倍総理であったからこそ出来得たこと。

だが、足を引っ張るのは野党よりも自民党内の人間達であった。もし、選挙で勝っていれば、彼らも大人しかっただろう。
その選挙で答えを出したのは、国民の責任。マスコミに煽動され、何も核心を見ようとはせずに、ただ面白がって批判するだけに成り下がっていた国民の責任。

安倍晋三という素晴らしい政治家を失った日本の損失は大きい。
彼の辞任の仕方についてとやかく言われているが、選挙後に新しく任命した側近たちが、あれほどまでの安倍落しのために足を引っ張っていたのでは、もはや何も出来ない。
政治家として何も出来ないし、全てが停滞してしまうという状況に苦しんだ結果だと思う。
そして、事実、もし彼が続投していたとしても、余計に混沌としていっただろう。
まさに、誰も手助けをしない、側近は足を引っ張る状況。改革について話し合い、共に動ける人々も遠ざけられてしまった。
これで、何をやれというのだろうか。

彼の、決断は勇断であった。
私は、そう思う。

本当の政治家としての政治家、安倍晋三。彼が、やがて再びその力を発揮出来ることを願っているし、期待もしている。
そして、いつか、国民達も分かるときが来るだろう。彼の行った偉業を。
posted by ミューシャ at 12:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 世相 | 更新情報をチェックする

PTA

PTAの仕事というのは、大体の人が嫌がる仕事。共働きが多くなってきた昨今では、それが正社員であろうがパートであろうが仕事にある程度の支障がもたらされる。

私も今年は大変な役をやることになってしまっているが、なればなったで、いろいろなことが見える。

その中でも呆れかえることは、委員になった母親が教師であったり、またはご主人が教師であるところの妻である。
とにかく、前者は忙しいという理由で逃げる。後者はPTAの仕事の自覚があまりないらしく、非協力的。
そして、連絡はメールかFAXでしたいということに対し、教職についている母親は、メールもFAXもないと言い切る。(そんなわけないでしょ!)

こんな調子だから教師の質が問われるのだし、いつまでたっても学校は良くならない。しかも、安倍総理の退陣によって、教育改革もどうなることやら・・・。

ま、私としては他の委員の人たちの不満を高じさせない為にも、共働きが多いという状況を話し、また、そういう人たちが役についた場合、どれだけ一生懸命に仕事をしてくれているかを話すことによって、取り敢えずは「忙しいから」という理由に口封じをさせることが出来ている。
そして、出来るという仕事を優先的にやってもらうことによって、なんとか公平さを保っているのである。

この学校では、母子・父子家庭に対しての委員の免除も、病気の家族を抱えていたり、あるいは自身が病気であっても、一切免除は無い。実に、酷い状態なのである。
まさに、公平という名のものとの不公平。

だが、母子家庭の人たちも今回は何名かいるが、そういう人たちほどしっかり活動に参加しようとしてくれているのだ。出来るものはするからと。
でも、無理をしている状況。だから、長という立場である以上、気配りをして負担にならないように仕事を回している。

恥ずかしくないだろうか、教師や、教師の妻達は。だから、教師たちの子どもには悪が多いと言われても、それは仕方がないだろう。まさに、親からして教師という仮面を被った自己中な偽善者なのだから。
posted by ミューシャ at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年10月09日

八瀬の人々

後醍醐天皇が比叡山へ行幸されるとき、村を上げて尽力した功から、その後、地租所役免除の論旨を与えられたという八瀬の人々。

また、八瀬の人々は比叡山門跡が閻魔王宮から帰るとき、神輿を担いできた鬼の子孫である」とも言われてきた。

そして、地租所役を免除される代わりに、天皇家の葬儀に関する雑役を担ってきたとのことである。

「八瀬赦免地踊」という祭りがある。男の子が女装するらしい。

また、睦仁親王の母は、八瀬出身の慶子であるとのことだ。

その後、睦仁親王は暗殺され、南朝皇胤の大室寅之祐とすり替えられたという。北朝から南朝へ。正統系へと戻ったということだろう。

過去から延々と血統を守り続けようとしてきた一団がいた。いろいろなところで、様々な人々が関わって。

調べていけばいくほど、楽しい迷宮。
posted by ミューシャ at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月08日

何ゆえ?

秋季特別展
 「金の輝き、ガラスの煌めき−藤ノ木古墳の全貌−」

先ほど検索していたら、10月6日〜11月25日まで、橿原考古学研究所付属博物館において、藤ノ木古墳からの出土品が一堂に会する展示会が行われているとのこと。

タイミングがよすぎる。この目で実物を見たいと思っていたから。
posted by ミューシャ at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

紅花

今日、偶然にも藤ノ木古墳のことについてテレビで放映されていた。
六世紀の藤ノ木古墳。二体の男性と見られるミイラは、内臓を取り除くというエジプトと同じ手法で作られていたという。

また、石棺の中には紅花がいっぱいに入れられ、水銀朱で染められた布で包まれていた。
紅花の発祥地はエジプト。

また、10月2日、桜井市教育委員会が、纒向遺跡で、3世紀前半の溝跡にたまった土から大量の紅花花粉が見つかったと発表した。

エジプトからのルート。その流れから来る王族。

そして、政権交代? 藤ノ木古墳の埋葬から、混沌とした時代へ突入か?
祭祀。守り続ける人々。

出雲。大和朝廷は出雲の国造を任命する時に限って、他の国の任命では行わない祝詞をあげるなどの特別扱いをしていたという。



PS:2〜3週間前だろうか、全身真っ白な大きな鳥を見た。その白さの鮮やかさに、私は、しばし見惚れた。
posted by ミューシャ at 20:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月05日

芸術と宗教〜法悦

霊界物語第65巻の総説に書かれてある、「芸術と宗教」について抜粋しながら書きたいと思う。



芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の私情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。

人生に離れ難き趣味を抱かしむるのは、ただこの二つの姉妹の存在するが故である。

そもそも此の二つのものは、共に人生の導師たる点においては相一致してゐる。しかしながら芸術は一向(ひたすら)に美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に至らしめむとする点において、少しく立場の相違があるのである。

形、色、声、香などといふ自然美の媒介を用ひて、吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。

宗教は即ち然らず、霊性内観の一種神秘的な洞察力に由りて、直ちに人をして神の生命に接触せしむるものである。


(ミューシャは、次の言葉にはっとして、大きな感動を得た。)

芸術の対象は美そのものであり、而も美は神の姿にして、その心では無い。その衣であって、その身体では無い。『神は霊なれば之を拝するものも亦、霊と真とを以って之を拝すべし』と言ったキリストの言葉は万古不易の断案である。美を対象とする芸術は、よく人をして神の御姿を打ち眺めしむる事を得るも、未だ以って其の心を知り、其の霊と交はり、神と共にあり、神と共に動き、神と共に活きる、の妙境に達せしむることは出来ない。たとへば僅かに神の裳裾に触らしめることは出来得るも、その温かき胸に抱かれ、その生命の動機に触れしむることは、到底望まれない。


(ミューシャは、ここで、テレジアやテレーズなどの得ていた法悦のことを思った。次の言葉は、その法悦の真相である。)

宗教的生活の渇迎憧憬して已まざるところのものは、自然美の悦楽ではなく、精神美の実現である。その憧憬の対象は形態美ではなくて人格美である。神の衷に存する真と善とを我が身に体現して、永遠無窮に神と共に活き、神と共に動かむと欲する、霊的活動の向上発展は、即ちこれ宗教的生活の真相であろうと思ふ。

飽くまでも現実世界を聖化し、自我の霊能を発揮して、清く気高き人格優美を、吾と吾が身に活現せなくては止まないのが即ち宗教家の日夜不断の努力奮闘であり、向上精進である。

宗教家の悦楽は、単に神の美はしき御姿を拝する而已でなく、その聖善の美と合体し、契合し、融化せむと欲して進みゆく途上の、向上的努力にあるのである。

活ける温かき自己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めむとする、偉大なる真の芸術家なのである。

故にその生命のあらむ限りは、その悦楽は常住不変のもので、その慰安もまた空想の世界より来たるに非ず。最も真実なる神の実在の世界より来るものである。

真の芸術なるものは生命あり、活力あり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ。

そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。


* * * * * * * * * * * * *



以上のことが、王仁三郎の宗教と芸術に対する見解である。

人として生まれたからには、精神美を追求し、人格優美なる状態へとなれるように努力しなければならない。それは、ごくごく当たり前のこと。

その生きる道において、形態美ではなく、神の霊性に溶け込むことこそが生きた芸術となり、生きた芸術を生み出すことが出来るのではないだろうか。

体現するということ。それは、持続する永遠の感覚。

人は自身が芸術作品とならなければならない。そうなれれば、他者をも真善美の世界へと感化でき、それは言うなれば、その言動が他者を感動させるからである。

感動するということ。それが芸術の目的。そして、真に生きる道を知らしむるということは、他者の生き方までもに影響を与える生きた芸術あってのこと。

人間こそが、神の最も優れた芸術作品である。自由意志を持つ、形に囚われない、計り知れない可能性を秘めた芸術なのだ。

だから、歓喜をその生涯に得られ続けたテレジアやテレーズたちは美しいのである。

PS:2007年3月3日の記事に、シュタイナーの宗教と芸術観について書いた。これで、王仁三郎とシュタイナーの見解が一致していることが分かった。

また、この記事は666回目の記事。意識したわけではないが、この内容になった。そして、コメントも、「雛形としての心」という記事の自分で書いたものが666回目となっていた。不思議なものである。
posted by ミューシャ at 12:57| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年10月04日

赤い仏像

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今日の空。夕方の空。久しぶりに写真を撮ってみたくなった。
淡い色彩が心地よい。柔らかく、すっきりとした太陽光。



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高校生の頃、骨董美術品が好きだった母と一緒に入った店に、この赤い仏像があった。
その頃の私は、仏教美術には興味がなかった。というよりも、好きではなかった。
だが、なぜか、この赤い仏像に心を奪われて、小遣いを叩いて購入した。
材質が何なのか分からない。今もずっとお香の香りがする。
日の光が当たると、それはそれは燃えるように美しい朱色を醸し出す。

王仁三郎の宗教と芸術観について書きたいと思う。しかし、今日は書く気になれない。でも、きっと、明日は書けるかも知れない。
posted by ミューシャ at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年10月02日

分からないことだらけ

藤ノ木古墳での祭祀を行っていたという宝積寺。宝積寺は大黒天。大黒天というと出雲大社。

藤ノ木古墳の形状は、まるで蛇がとぐろを巻いたようにも見える。出雲は蛇。
が、女性の乳房のようにも見える。

百済は蛇、新羅は熊? 分からない。

流れ。民族の流れ。

最近、爾保津神社が全焼してしまったという。何の意味がある?

イザナギ、イザナミ、淡路島。その二神の子。

神功皇后が一目置く丹生都比売。神託。

卑弥呼、ひみこ、ヒミコ、日巫、日実子。

祭祀、神託。

高句麗、高麗、句抜き。鼻、耳、口。香具山、耳成山、畝傍山。

とにかく解らないが、3という数字はいつも付き纏う。

富士と鳴門。フジとナルト。阿波自志摩。
posted by ミューシャ at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする