2007年11月28日

徳は知である

プラトン著「メノン」の解説のところに、次のようなことが書かれてある。


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すなわち、われわれはプラトンの真意を、こう言うことができるであろう。

―――「徳は知である」というソクラテスの教は真実である。真の知であるような徳こそが、唯一のほんとうの徳である。そしてそのような徳であってこそはじめて、ほんとうの意味で他に教えることのできるものである。しかし現実には、そのような真の徳=知をそなえた人は、これまで存在しなかった―――

おそらくソクラテスその人をのぞいては。したがってまた、有徳の士といわれる政治家たちも、徳の教師を名のるソフィストたちも、ほんとうの意味で徳を教えることはできなかった。

けれども、ソクラテスの説いた教えは、それが真実である以上、あくまでその実現に向かって努力されなければならない。それが哲学の指示する道である。

ポリスという場における具体的な課題としていえば、他人にもほんとうの意味で自らの能力を授けることの出来るような政治家、すなわち、真の知としての徳を確実にそなえた政治家こそが、育成されなければならない。換言すれば、必要なのは、哲人政治家の教育なのである・・・・・


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普通に暮らし、普通の人として生きている人々。しかし、そんな状態でも、生きてきた環境や交友関係によって、価値観というものが大きく違うこともあるのである。それが、教育機関であってもである。

もうすぐ導入される裁判員制度。もし、裁判員に選ばれたら、きっと、多くの価値観に出会うことだろう。そして、その中で求められるのは、高い精神性と人としてのあり方なのだ。裁く側こそが求められるもの。

他者の立場に立って物事を見て考える。それから再び客観的に総括して答えを出して行かなければならない。

また、こういうことは大人になっていきなり出来るものでもなく、子どもの頃からの積み重ね。
やがて、子どもが裁判員の対象となったとき、いつでもきちんと対応できるように育てていかなければならないのだ。

「徳は知である(教えられるもの)」
子ども達に教えられる知があるであろうか? 真の知を得るには、多くの様々な価値観を知らなければならない。そして、それは積み重ねなのだ。 
posted by ミューシャ at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年11月25日

甘露なる試練

今、霊界物語六十八巻まできたが、ここで再び一巻を読んでいる。すると、自分の読解力のなさ、記憶力のなさを痛感するのである。あ、こんなことが書いてあったのかとか、ここはこうだったのかというふうに。

あの頃は理解できないことでも、今は理解できる。あの頃は咀嚼できなくても、今は咀嚼できる。だから、たぶん、こんな感じでどこまでも行くのかも知れない。

また、それと同時に確証を得られることもある。たとえば、言霊。
ここまでずっと霊界物語を音読してくると、物語を読む自分の声の変化に気付く。そして、音読することが楽しく心地好く感じるのだ。

そして、環境にも変化が起きる。たぶんこれは、真摯に読んでいるからだろうか。
かといって、それは他者の為に動くという環境。でも、これは神のお望みになるところだと思う。自分が試されているのかな?


「日本は言霊の国といへども、身も魂も本当に清浄となつた人が、その言霊を使つて始めて、世の中を清めることが出来得るのである。これに反して身魂の汚れた人が言霊を使へば、その言霊には一切の邪悪分子を含んでゐるから、世の中はかへつて暗黒になるものである。」


他者の為に奉仕の心で動くことは、即ち、身魂の掃除。どれだけ無条件に愛の心で動けるか。それが、第一関門なのだろう。その心がなければ、偽善者にすぎない。そのような心がない人間には、神の意志を継ぐことは出来ない。

だから、私に訪れた予期せぬ劇的な状況は、喜んで受け入れるべき神の恩恵。

いつか、私も美しい言霊を使いたい。そのための甘露なる試練。
posted by ミューシャ at 00:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年11月22日

心魂の流れ

夕方、空を眺めていた。そこに遊ぶ雲たちは、形を変えて楽しんでいるかのよう。時には、瞬時にして変化してしまう。その緊張感と、わくわく感が好きだ。

そして、寒い季節の訪れは、心地よい空気をもたらす。冷たくなる頬は凍らずに、かえって細胞を甦らせるかのよう。張り詰めた空間は、あまりにも透明なのだ。




面白い形の雲が現われた


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どんなふうに見える?
私の目には、最初は巨大な魚と手に見えた。また、写真を子ども達に見せた。下の子は、横たわっている人と燕だと言った。上の子は、横たわっている人とマジックハンドに見えると言う。



今度は北の方角に見知らぬ山が出現???


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一瞬、前からそこにあったかのように錯覚を起こした。だが、雲のいたずら。あっという間に形を変えた。



すべては瞬間の連続ゆえに、その瞬間を大切にしたい。二度と戻らぬ瞬間だから。
そして、時として、その瞬間は永久に流れ続けたりもする。瞬間が永遠になるとき・・・・・・・大切にしたいのだ。
posted by ミューシャ at 22:40| Comment(3) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

教師が招く大罪

最近のニュースで、41歳の元教師が、ストーカー行為で逮捕されたという。その教師は、父親も教師、姉も教師という教員一家。

私も多くのくだらない教師を見てきたが、何度も書くが、今の教師のレベルは低すぎる。もちろん優れた教師もいる。だが、そういう教師は少ないし、そういう教師に出会えれば幸運なことだとさえ言えるのだ。

また、特に地方などでは縁故関係で採用されることが多い。だから、本当に優秀な人間が教師になれずに、どうでもいい人間が採用されるという現象が起きている。

秋田県においては、少子化や過疎化などの影響で、教員として採用されることが狭き門となっているらしい。だが、それだけより優秀な人材を採用できるとも言える。

子どもの通う中学校でも3年生のあるクラスは荒れているという。最初はそうでもなかったが、担任がやる気のない女性教師ということが原因してか、他のクラスの子どもたちが少しおかしいのではないかと言い始めてから2ヶ月の間にだいぶ深刻化していった。

最近も、こんなことがあったらしい。おとなしい女の子が、いじめっ子二人にトイレに呼びだされて泣いていたと言う。そこへ、その担任の教師が通りかかったのだが、首をかしげながら見て見ぬ不利をして行ってしまったと言うのだ。
まず、その教師の場合、ほとんど生徒に注意することをしないので、多くの子どもたちが馬鹿にしてしまっているらしいのである。
ただ、こういうタイプの教師が多いのが気にかかる。見て見ぬ不利、面倒なことには関わりたがらないという教師。

また、その二人には、軽い暴力的行為も見られるようになってきているという。

毎年、クラス替えを行うが、わが子の場合、いつも平和なクラスに当たるからラッキーだとも言っている。カゲ番的存在の娘。と言っても、悪ではないが。教師にはその存在が分かっていないようだが(子ども曰く、あえて教師の前では目だたないようにしているとのことだ)、友人達からは台風のイメージとさえ言われ、友人達を自分の渦に巻き込んでしまう子。いつも笑いの中心にいる。頭の良い子から悪い子まで、元気な子からおとなしい子まで幅広い交友関係。
だから、そのいじめっ子たちも、わが子には普通に良い感じの態度で接してくるという。
だったら、少し被害にあっている子の為に手助けしてあげたらと私は言うのだが、よそのクラスだと、それも難しいらしい。

また、そのいじめっ子のいるクラスは、休み時間になると、教室にはその二人がいるだけで、他の子ども達はいっせいによそのクラスに遊びに行ったり、あるいは廊下へ出ていたりしているとのことだ。

ただ、その二人とも去年までは良い子にしていたらしい。担任の教師がビシッとした怖い人だったということが要因だったのではないかと子どもは見ている。

それから、校長の考え方にも大きなマイナス要因がある。とにかく、目に見える実績を残す子が好きで、そういう子を評価してあげようと公言し続けている。

これは、大変に間違った思考である。スポーツや芸術で入賞したとか、勉強が出来るということ=良い生徒であるとは限らない。
それはあたかも、一生懸命働いて高価な服を買い、それを身に付けていることと同じにすぎないからだ。

教育現場では、人間性を重要視しなければならない。服を取り除いて人そのものを見たとき、どれだけ美しいかを問わなければならないかである。

人間としての価値は何か? それは、人として正しい目を持ち、他者を思いやれるような美しく深い心を持ち、勇気を持っていることではないだろうか。

その校長にとっては、生徒の服は即ち自分を飾る服なのである。だから、教育現場はさらに混沌としていく。

教員の質を向上させなければ、いつまでたっても発展はない。民間企業でもリストラが行われた時期があった。公務員にだってあって当たり前。
しばらくの猶予を与え、その期間に向上しようとする教師は死に物狂いで頑張るだろう。
教員試験のハードルをもっと高くし、優秀な人材をを確保すべきである。そして、縁故関係での採用は無くすべきなのだ。

安倍前総理の手によって、やっとはじまった教育改革の大きな波が、今は静かになり始めている。教育こそ国家の根幹をなすもの。そのことを、もっと重要視すべきである。



PS:一昨日、子どもの携帯に男友達から「ぺちゃぱいの歌」なるものが送信されてきた。また、塾のアルバイト講師でイケメンの人が入れば入ったで、テスト前の自習においては、男の子から「あの先生、今日、来ているからはよ来い」とメールが来るし。いったい、わが子は、どんな子だろうかと、母親ながら今一つかめないのであった。
posted by ミューシャ at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年11月20日

妙善と霊山

調べる気もないのに、ふとしたことから出会う過去の人物像。

玉林の国の水都に誕生したと言われている王女妙善。
彼女は危機一髪のおり、白象に助けられている。そして、その後、白象とともに須彌山(カイラス山)に登り、得度して観世音菩薩の尊称を約束されたと伝えられているとのことだ。

また、霊山三蔵法師。仏教の奥義を学ぶ為に、空海、最澄と共に渡唐したが、その才能を皇帝に認められ、また信頼されて帰る事が出来ず、その後、政変に巻き込まれて遂に日本へ帰ることが出来なかったと言う人物。また、日本人では稀な三蔵法師という尊称をも与えられている。

しかし、今まで、空海や最澄は知っていても、霊山三蔵法師のことはまったく知らなかった。これほどまでに能力があった人物にも関わらずにである。

王女妙善、そして霊山三蔵法師。この二人のことが気にかかる。なんか、久しぶりのドキドキ感だ。

そして、なぜか、室生寺と龍穴神社も気にかかるのである。
posted by ミューシャ at 22:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年11月18日

裁判員制度

裁判員制度が2009年5月までに施行されることになっている。だが、まだまだそれに対する国民の意識は低い。

確かに仕事を持っている人にしたら、非常に迷惑な法律である。中には、日当を支払ってもらっても、そんな額で済まない人も多いし、一日仕事を空けるだけで大きな支障を来たしてしまう人もいる。ましてや、法律の専門家でもない。

だが、私は思った。これは神の理に叶っていることかも知れないと。

今の世の中は、あまりにも混沌としている。秩序も道徳心も低下して、まさにわれ良しの世界。その中で、他人の為にボランティア精神で動ける人が、いったいどれだけいるというのだろうか?

教職に就く人々でさえ、そのほとんどは計算づくで動いている。身を挺してまで生徒の為に真剣に向き合える人間は少ない。

この裁判員制度というものは、まさに我々人間に突きつけられた挑戦状ではないだろうか。
裁く側ではあるが、裁く側こそが人としてのあり方を求められるからである。

見知らぬ人の為に真剣に見つめ、考える。その事件に関わるすべての人々の人生が否応なしに見え、そして答えを出していかねばならないのだ。それは、とても重い責任。

人を殺したから一律に終身刑、人を殴って2週間の怪我をさせたから、はい、禁固3年というわけにはいかない。
闇の部分まで詳細に見て、公平な判断をしなければならない。それは、まさに神の天秤と同じこと。

この制度を、国民はどれだけ生かすことが出来るのだろうか?
道徳教育としても、この裁判員制度は大きな意義を成す。それを生かすことの出来た学校は、きっと素晴らしい教育の種を撒けることだろう。
posted by ミューシャ at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年11月15日

霊学と実生活

霊学とは、実生活に活きるものである。

私は、このことを今年に入って実感した。だから、余計に真摯な姿勢で霊学を学んで行きたいとも思っている。

予想だにしなかった長という責任ある立場に立たされ、有無を言わさずに動かなければならなくなったし、長という立場は人に動いてもらわなければ、その職責を果たすことは出来ないものである。

前任者はその重圧に、一時、耳が聞こえなくなるという症状さえ起きてしまったという。
今年は、○○周年というものが二つも重なり、そのための記念行事も多く、それに伴って振り回されることも多い大変な年。
また、なぜ、そんなにも精神的な重圧があるかといえば、今までの体制が杜撰すぎたことが大きな要因となっているのだ。
その杜撰な体制は、長という立場になった人だけに重く圧し掛かってくるもの。

でも、私は精神的に追い込まれない。最初こそ、このメンバーでやっていけるのかと心配だったが、人は変り行くものであるから。
次第に協力体制になり、何人もの人が、やる仕事があれば自分達に振って下さいと言ってくれるようになった。
だから、いろいろ決めていかなければならないことを決められるし、きちんとした体制作りへの歩みが出来るのである。

また、神も霊人たちも応援してくれる。その一つが、私のサポート役の交代。突然のアクシデントでの交代となったが、新たに決まったサポート役は、自分から率先してその役に就いてくれたし、多くの気遣いもしてくれる。
それ以来、かなりスムーズに進むようにもなった。

神や霊人たちは、真摯に直向に正しく歩む人を手助けしたくてしょうがないんだなと思う。それはもちろん、実際にやっている人間も苦労はするが、神は、たぶん、苦労もさせるが応援もするという存在だと思う。

本来だったら、人間恐怖症でもあり、不当なことで大変な思いをさせられたこの土地で、積極的にこの土地のために有益なことをやろうなんて、大抵の人は思わないだろう。
でも、私には霊学という大きな財産があった。だから、その財産によって、今、行動出来ているのである。

本気で霊学を学ぼうとするなら、それは当然、現実の生活に反映されるものであるし、そうでなければならないものなのだ。
それは、まず、人との和に現われる。

現実の側にいる人間を感化できるか? 望ましいものに感化できるか?
不平不満や、他者を攻撃するような言動をしない、望ましい人間に感化できるか?
発展的な人間に感化できるか?

長という立場は、どんなことがあっても他者にとって不利益となることは、自分の胸の内だけに留めておくもの。
そして、一番弱い立場にある人や、一番大変な状況にある人に心を置くもの。また、そうでない満足な状態にある人が、自らの意志で弱い立場にある人の手助けをしようと思えるように導くこと。
また、長は不平不満や愚痴、他者を悪く言うことは決してしないこと。
そして、率先して働くこと。

私がこのように現実生活において下座の行に徹することが出来るのは、霊学を真剣に学んでいるからである。
だから、精神的に追い込まれる人がいる中で、私は今までの体制の改善すら出来るのである。
また、これは私の力ではない。神が私という存在を通してお働きになっているから出来ることなのである。

前回の記事の中にUPした、出口王仁三郎の歌。

    れい学をまなぶは良けれどたましひを
              洗ひ清めしその上にせよ

魂を清めることの大切さ。常に謙虚でなければならない。我の強いという状態は言語同断。常に自分を省みながら、至らないところを反省するのは基本中の基本。

他者に要求ばかりして依存しているのでは、何も変らない。

だが、この下座の行も、ほんの入り口に立ったにすぎない。まだまだ先は長く、遠い。

謙虚でありたい。謙虚であることの美しさ。それは、涙が溢れるほど憧れるもの。
posted by ミューシャ at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年11月13日

野に咲く花

霊界物語の第六十六巻をやっと読み終えた。春から予想外のドラマが展開されて来た為に、ずいぶんペースダウンとなっている。

八幡書店発行のものを読んでいるが、一輯六巻収録で、全部で14輯ある。
だが、十二輯を取り出したとき、残り三輯であることに、やっとここまで来れたという思いと共に、なぜか哀愁が生じた。

私は私なりに霊界物語に真摯に向かい合ってきたつもりである。それが、あと三輯で離れることになるのだ。
そして、これを読み終えたら、再びシュタイナーをベースとして、他の様々な文献を読むことになるだろう。

旅立ちを伴う卒業。そう、なんか卒業式を迎えるときの気分と似ている。

まあ、先に一度、天祥地瑞は読んでいるので、実質的には、残り六巻というところだが、やはり、最初から読んでくると、このまま天祥地瑞を読みたくなるから不思議である。

たぶん、音読でずっと来て、いつの間にか発する音に変化が生じてきているからだと思う。
そういえば、いつか見ていたテレビの中で外国人の男性が言っていた。日本語はそれぞれの言葉に音があるから好きだと。

日本人に生まれたなら、日本語を美しく話したい。日本に生まれた幸せ。十分に堪能しよう。



さて、霊界物語の余白歌。けっこう、心に響いてくるものが多い。少し、抜粋しよう。



  みわたせば野にも山にも皇神の 
          恵の花は咲きみちてあり

  いやたかき神の恵みは仰ぎ見る
          天つ御空も及ばざりけり

  むつまじく教の友のよりあひて
          誠の道をかたるうれしさ

  魂は神のさずけし宝なり
          夢おろそかにあつかひそ人

  れい学をまなぶは良けれどたましひを
          洗ひ清めしその上にせよ

  常闇の世なりと人は悲しめど
          真人の目には神世なりけり



まず第一に魂を洗い清めなければ、いくら霊学を学んだとてなんら意味がないこと。だって、濁った魂では何も分からないでしょ。汚れた鏡が、被写体をきちんと写すことなど出来やしないから。細部まで見ることなど出来ないからね。

それには、自分の魂も他者の魂にも礼節を尽くし大切にすること。もちろん、霊人たちにも。霊人とは、ほんとうに礼節を重んじ、律儀であるから。打てば響くもの。そういう世界が霊人と共にある。

神の恵はいたるところにあって、ちょっと心を澄まして見ると、涙が出るほど溢れていることに気付く。ああ、神様は大きすぎるんだな、すごく大きくて大きくて、見上げている首が痛くなるほどだ。

だから、ほんとうに心から誠の道を語り合える友といられるということは、最高の幸せ。語り合えるということの幸せ。きっと、神様も、そんな人間達の姿を微笑ましく見ているんだろうなと。

希望。どんなに暗闇の世界、絶望とも思える世の中でも、闇があるなら当然光はあり、光で照らすことは可能なのである。
真人の目には、どんな状況でも神世なのだ。なぜって、希望があるから。
posted by ミューシャ at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年11月12日

総持

「一見して再見せず」




なんて素適な理念だろうか。そんな境地に居たい。凝縮された瞬間の煌き。

毅然とした姿勢。観音菩薩。
posted by ミューシャ at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

向日葵のように

同じことを繰り返すのは、もうしたくない。
同じことだけを繰り返すのも、もうしたくはない。

時間は限られているから。
肉体という物質は、そのあまりにも短すぎる時の中に存在し、そして消滅する。

だが、その短い時こそ霊魂にとって大切な時間なのである。身体を纏う霊魂が生きる今が。

だから、向日葵が太陽を見続けるが如く、無邪気に真っ直ぐ神の差し出す御手に、我が手を伸ばし続けたい。

他者の欠点を探そうとする行為は、悲しいこと。
他者を論破しようとすることも、悲しいこと。
そして、他者を自分と同じ考えにさせようとするのは、とても醜い行為。
価値観は、それぞれ違うから。自身は絶対存在ではないから。

また、誰かに期待し続けることもしない。人はそれぞれのカルマを持ち、この短い生涯の中でそれを果たせるように努力しなければならないからだ。自分のカルマは自分自身でしか向かえないもの。
だから、他者を縛り付けることは出来ない。

人を見つめる時、私は、春ののどかな田園風景のようでありたいと思う。
でも、その田園風景を壊そうとする人が、もし現われたとしたら、私は再び消えなければならない。その覚悟はいつでも出来ている。

そして、たとえ崖から飛び降りても、いつでも、ちゃんと上手く着地する自信があるから。

無から始まり、無に帰す。だが、それは、あまりにも凝縮された時間。輝けるもの。
posted by ミューシャ at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

ペルシャの流れ

白ダルマとペルシャの織物のヴィジョン。
あれから、時々関連したHPに出会う。

また、今日も出会った。
    ↓
http://barclay.free100.tv/oldhist/persia3.html

結局、結構みんな知っていたことだったのね。
な〜んか、馬鹿みたいな私。
でも、今まで知らなかったのだから、これは大いなる副産物ということだろう。

未盗掘。なるほどね。
それだけ大事にされ、愛されていた証拠。
posted by ミューシャ at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

責任回避

最近、中学生の男の子が教師を殴って怪我をさせるという事件が起きた。
学校側は被害届を出し、校長は緊急全校集会の席で生徒達に、決して被害届は撤回しないと言った。

その男子生徒は、普段から授業中に携帯電話をしていたり、授業がつまらないと、勝手に教室を出て行く状態だったそうである。

そして、そんな彼を、教師達は担任を除いてみんな注意することもしていなかったという。させたいままにさせていたと。

その事件が起きたときの授業でも、「オレ、帰るわ」というのに対し、教師は「おお」と答えたのだが、出際に軽く教師の腹を叩いた為、その教師が怒り出し、男子生徒もキレてめちゃくちゃに殴りだしたという。
また、教師は生徒に手を出せない為に止めるだけだったので、どうしてもやられっぱなしになってしまったらしい。

そこへ、担任の男性教師と、もう一人の男性教師が駆けつけた。担任は止めに入ったが、もう一人の教師はオロオロと見ているだけで、結局、担任一人でなんとか押さえ込み、それを見たその教師はすごすごとそのまま帰って行ったという。



と、こんな事件が起きたのだが、以前からそんな状態の子であるなら、事件を起こす前に学校側としてはもっと何かをするべきだったと思う。いいや、何か出来たはずだ。

ほとんど放置状態。また、軽く教師の腹を叩いたというのも、きっと、その生徒には、どこか甘えたい、なんとか真っ直ぐ見てもらいたいという幼い気持ちの現われだったように思う。

だが、警察沙汰の事件が起これば、学校側は自分達に責任はなかったと言わんばかりに突き放す。

何か違ってはいないか?
何かずるくはないか?
核心を外すな!

その子をそういう状態に追い込んだのは、もちろん親の責任でもあるが、見て見ぬふりをしてきた教師達、学校側にもあるのではないだろうか。

事件を起こしたら、はい、さようなら。おまえがすべて悪いんだ・・・・。冷たすぎるよね。

学校は、もっと自分達の在り方を反省するべきであるし、改善しようとしなければ、また同じことを起こす生徒が一人、二人と生まれるだろう。

親も反省し、学校も反省すべきである。

今年受験生のその子は、これで大きく人生が変わってしまうだろう。

なんで、なんで、子どもたちの心を、大人たちは理解して包もうとはしないのだろうか。

もっと、教育できたはずだろう。もっと、本当の意味での教育が出来たはずだろうにと。
本当に悲しい出来事であった。



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ベランダに出たら、「キュウー」という鳴き声がした。
あ、あの鳥だ。
ちょっと待っていたら、やっぱり来た。
すぐ上を、風に乗って、すーっと飛んで行った。
思わず、お腹をくすがしたくなった。
だって、暖かな体温を感じたのだから。
posted by ミューシャ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2007年11月07日

ヴィーナス

また一つ、現実の仕事が終り、そのたびに安堵をして行く。
みんな好意的だ。いつの間にか、まとまりのある良い雰囲気になっていた。誰も愚痴を言わず、不平不満も言わず、他者のことを批判することも無い。
そして、例年になく集まりもいい。平日は絶対に出られないと言っていた人もよく参加してくれる。
みんな、大きな無理はせず、少しずつ無理しての協力。でも、そんな状態が大きなパワーを呼ぶ。
急速に勢いよく回転している。あと半年を切り、そろそろ纏め上げる時期へと突入。最後は笑って解散したい。
現実にどっぷりと浸かりながらも、霊的に正しく生きる。これって、案外、楽しいことかも知れない。



安堵したところで精神的なゆとりが生まれ、今日は再びタゴール。ヘレン・ケラーがタゴールに送った手紙の一部を抜粋してみよう。


―――――――――――――


詩人の生の甘美な孤独のうちで貴方は貴方の同胞の人々の心の裡を眺め、かれら自身がつくり出したグロテスクな神々から救い出す方法を探すように告げる大いなる声を聞きました。

貴方は闘争が激しく、無智が深い人々がたくさんいる住み処に入り込まれました。小さな子どもたちの手をとって、貴方はかれらを喜びの庭に導き入れ、かれらに美しいものすべてと共感して生きるように、また愛する値打ちのあるすべてのものと共に生きるように教えられました。

再び大いなる声が貴方に知恵を求めて国から国へと行くように告げました。観察する眼と聴く耳を持って貴方は旅されました。

そして分裂の呪いと偏見の暗闇に満ち、憎しみで何も聞こえないところで、人々が見知らぬ人や敵として生きているのをご覧になりました。

けれど長い間忍耐強く御覧になり、人類の中に隠されている愛のダイナミックな力を見つけられ、その力はかれらの自己破滅の生を、創造的な仕事と平和の生に変える力であると理解されました。恐怖の掟の下に生きている世界にとって、貴方は愛の掟の預言者です。


―――――――――――――




美しいもの、愛する値打ちのあるものとの共感して生きる。このことの、なんと素晴らしいことであろうか。
ヴィーナスは、そんな人間の憧憬から生まれたのかも知れない。
だから、いつも、いつでも、遥か彼方の希望を、真っ直ぐ見つめていたい。
posted by ミューシャ at 23:13| Comment(4) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2007年11月06日

秋色の中で

秋色の世界が、ゆるやかに訪れて来た。
晴れた日には、ちょっと出かけてみるのも楽しい。
様々な顔と出会う。


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posted by ミューシャ at 21:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2007年11月05日

霊の賛歌

久々にルドルフ・シュタイナーの本をパラパラとめくってみた。さすが、シュタイナーだ。意表をつくような新たな見方で、ずばっと確信を述べている。ちょっとだけ抜粋。


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実際は、人間の身体が両親・祖父母・曾祖父母などに由来するように、精神・心魂は自らもたらしたものです。

精神・心魂が身体より前に存在したことを洞察しない者は、精神・心魂が死後も存在することを認識できません。せいぜい、精神・心魂は死後も存在する、と信じるだけです。「心魂は受胎以前に存在していた」と知ることによってのみ、人間の心魂の不滅が明らかになります。

神が人間を創造したのなら、人間が死ぬと、心魂も消えるでしょう。しかし、心魂が最初に存在し、それから身体が構築されるなら、身体が死んでも心魂は存在します。

「正しく観察できるものごとから、人間の心魂が存在することが、なんなく明らかになる」と思うことができます。

心魂が死すべきものを構築したのなら、心魂は死ぬものではありません。心魂が死ぬものだと相洞察するのは、まったく不可能です。心魂は身体を構築したものであり、身体とともに死ぬことはありません。


―――――――――――――




子どもの頭の中には、多くの見えない力が働いており、それが彫刻家のように人体を構築する。そして、新たに構築する力は心魂的・精神的な力であり、人間はその力を両親とはまったく別のところから持ってきていると彼は述べる。

そう、精神的・心魂的な力は両親から遺伝されるのではなく、母胎のなかに存在する以前に、精神的・心魂的人間として存在していたと。

何らかの縁で、今の両親から生まれた。しかし、個々の人間の流れは、それぞれ個々のものゆえに、輪廻が存在し、輪廻の目的がある。

長いスパンで霊魂というものをとらえたとき、それは時として、現実の苦しみさえ心地よく感じることがある。
希望。それは、人間に与えられた恩恵。
posted by ミューシャ at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

風火家人

『風火家人』という卦が出た。
なるほど、と思う私であった。家内安全、火の用心。ではないが、自分の霊性を大切にするにこしたことはない。

今月も忙しい月。次から次へと新たな展開がもたらされ、現実にやらなけれなならない仕事は山のよう。

収入なしのボランティア的仕事。現実は、自腹で出ている金額も発生。政府では一円から領収書を、なんていうことを提案している党もあるが、実際問題としてそれは不可能。

ま、その分、クジが当たったり、抽選であたったりと、なんか他からの補充があるので、神様も、ほんと、よくしたもんね。
posted by ミューシャ at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

美しい円環〜流れ

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実光院の桜。この桜は、紅葉の時期に満開になるという。『不断桜』と言う。
また、このお寺は地蔵菩薩、不動明王と毘沙門天像を安置している。
魚山。仏教儀式音楽である声明。

藤ノ木古墳の次は、不動明王にばかり出会う。大日如来を扇に例えるなら、不動明王は風。

三日の文化の日に車を運転していたら、子猫が道路の真ん中で死んでいた。車にはねられたようだった。
でも、その姿はまるで眠るようにあどけなく静かであった。そして、今にも眠りから醒めて、そこから歩き出すようにさえ見えた。
また、二車線の真ん中あたりだったので、通る車はみんな避けることが出来たのが幸いしてもいたのだろう。

だが、その姿は生ある時と同じでも、すでに生命はこの世には無い。


数日前から、私の心の中を過ぎる思いがあった。今は生命ある水の流れでも、かつては澱んでいた水の流れのことを。

使命感という思いの裏返しは、自惚れ。
何かをやらなければならないのなら、その思いは使命感などという傲慢なものへと向かわない。
人は小さな者ゆえに、自分の力を過信できない。だから、他者のことをあれこれ言うことは出来はしないし、要求してもならない。
だって、ただ自分が今出来ることをするだけだから。そして、それに共鳴する人々の輪が、自然に拡がっていくのが最良のこと。

霊魂の存在を否定する人々に関わり続けるのは、その輪が円くならないで歪んだ輪になってしまう。そして、自分もまた傷だらけのボロボロになる。自分にとっても他者にとっても、なんら有益なことはないのだ。

一つのところに縛り続けられるのは、自分の生命の死をも意味する。世界は広く、様々な人々が居て、だから、より多くのことを知りたいし、出会いたい。

正しい円環を描きたいのだ。自分の霊魂を大切にしたいのだ。それが、他者の霊魂にも影響していくことであり、希望でもある。

水の流れは清らかでなければならない。汚れた水との合流は、歩む足を止めさせるから。

私は今、美しい円環を描き続けたい。
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2007年11月03日

聖徳の謎

藤ノ木古墳の埋葬品や作り方などから、秦氏と紀氏の流れも窺えるようだ。
また、未盗掘という状態は、幾つもの氏族の力がなければ可能ではないだろう。
守られるべき存在。

白達磨とペルシャ。取り合えず、ペルシャには繋がったかな?
蘇我小姉君はペルシャ人だったのではないかという見解を目にした。まあ、被葬者は当時の人にしては背が高いし、百済観音像も背の高い仏像。
もし、ペルシャ人の血が入っていたら、遺伝的に背は高くなる可能性はある。

また、聖徳太子自身も守ろうとしていたことが窺える藤ノ木古墳。仏教=ダルマ=法、白=白人=ペルシャ、織物=ハタか?

とにかく、完全に守られるべき大切なところだったということだけは確かなこと。

謎だらけの聖徳太子。答えは聖徳太子の中かも知れない。
posted by ミューシャ at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

自己認識

自分が歪んでいないか!
自分は醜くなっていないか!
古びた人間になっていないか!
感覚が錆びていないか!
不満の世界へと向かっていないか!
頭の硬い人間になっていないか!
自分勝手な心の持ち主になっていないか!


嫌だなー、知らず知らずの内に汚れてしまっていたら。
嫌だなー、いつの間にか自己中の人間になっていたとしたら。

人は現状に満足すると、新たな不満を生む。新たな欲求を持つ。果てしない追いかけっこ。

だから、どんな小さなことにでも感謝できる自分でありたい。
それに気付く人間でありたい。

過去のキラキラしたものを忘れたくない。

純粋でありたい。ただ、それだけでいいから
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2007年11月01日

白達磨 ペルシャ

昨日の夜、就寝時に布団に入ってから眠気の為に意識がなくなるまで、藤ノ木古墳のことに意識を集中していた。
その時、白達磨とペルシャを思わせる織物のヴィジョンが見えた。

聖徳太子と達磨大師の話し。片岡。仏教。尼寺。釈迦三尊像。玉虫厨子。いろいろ繋がっていく。

もし、藤ノ木古墳の被葬者が天皇だったとしたら、今の状態の保存や祀り方は、あまりにも酷いものということになるだろう。

知人にヘリを操縦する人がいるが、法隆寺辺りの上空を飛ぶと、すぐに苦情の電話がかかって来るそうである。なんでも、日本でも特に煩いところだとのこと。
posted by ミューシャ at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする