王仁三郎は語る。
『愛には善あり、悪あり、大あり、小あり。神の愛は愛善にして、世間一切の愛は愛悪なり。神の愛は大愛にして世間の愛は小愛なり。わが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国土を愛するは所詮自己愛にして、神の愛と雲泥の相違あり。故に小愛は我情我慾の心を増長せしめ、遂には自己愛のために他人を害し、他家を破り、他郷と争ひ、他の国と戦ひ、遂に彼我共に惨禍の洗礼を受くるに至る。』
私はこの土地に来て教えられた。郷土愛の強さを。そして、そこから生じる破壊と停滞を。
愛国だとか郷土愛とかは一見、美しい精神のように思える。そこからは、向上しようとする気持ちさえ生じるかのように見える。
しかし、その心のもたらすものは違う結果を出すのである。知名度の高い所というのは、その知名度ゆえにプライドを持っている。だから、自慢できるところ、良いところは率先してアピールをするし、また気がつくものである。
だが、その反面、マイナスイメージとなることは見て見ぬ振りであったり、他へ責任転嫁をしようとしたり、表へ出させまいと押さえる。
仮に知名度が高くなくても、愛国や郷土愛が強い人というのはそこへ固執して、客観的に物事が見れなくなっている。つまり、盲目同然なのだ。
本当に国や郷土を良くしたいのなら、闇の部分まで照らす光―――全ての人を生かす努力や公平な裁量―――が求められるのではないだろうか。
それには、やはり「物事に囚われない」という心が必要になってくる。そして、物事に囚われないということは、「大愛」の心がなければ難しいこと。
霊界物語には『もっとも美しきものは愛の発動なり。大虚空中に愛の発動ありて初めてスの言霊生れ、天地の万象は生る。』とある。
一部の人間達は、やたら言霊、言霊と言う。しかし、大愛の養われていない人間に生きた言霊など出せやしない。理論と形だけでは決して出すことの出来ないものが、力強く根強く生かす為の言霊の姿。
今、NHKの大河ドラマで篤姫を放映しているが、前回のストーリーの中で、於一が島津斉彬に「なぜ、反逆した者達にお咎めなしで、手助けをしようとした者達はいまだに許されないのか」と聞いたとき、斉彬は「力で押さえつける事は容易いことだ。しかし、争いは争いを生むだけだ。」と答え、まず第一に民達のことを考える政策をとり始めたという内容であった。
私はこの言葉に素直に頷けた。今回、長という立場に立たされたが、自分が動かさなければならないメンバーの中には、かつて徹底的に反目した相手がいた。その人のやり方で、子どもに危害が加えられもした。
しかし、反目したままでは統制が執れない。自分の方に一点の非さえなくとも、全体のためには長という立場にたった人間の方から歩み寄らねばならないのだ。
私は私情を抑えて歩み寄った。その人も、自分の方に非があることが分かっていたようなので、こちらの態度に一瞬驚いた様子だったが、その後は積極的に協力してくれるようになった。
罰するという姿勢は何も発展することはない。要は、相手が自分のやってきたことを反省し、しかも、頼りにされているという思いを抱かせることこそ、敵を見方に変える秘訣なのである。そこに家族愛などの自己愛というものが幅を占めていたら駄目なのである。
大愛とは、少しずつ教えられていくものだ。そして、その過程に於いて、真摯に霊学を研鑽しようという姿勢がなければ、いつまでたっても自己愛である小愛から先へは進めないように思う。
私は、天祥地瑞を日本語で読めることを幸せに思った。日本語で読むからこそ生きる言霊。天祥地瑞は、まさに禊。
今朝、例の鳥が久しぶりに姿を見せた。地上に居たのだろうか、それとも低空飛行をしていたのだろうか、窓を開けようとしたその時に、すぐ下のほうからゆっくりと上昇して、たおやかに雨の中を真っ直ぐ前方に飛んで行った。
また、榊。三年目に入った榊からも三枚の葉が出始めている。薔薇の棘の様な殻の中に新芽があるというのは、あれは、一番天辺に生える葉のようだ。
側面から見え始めた葉は、柔らかい葉として成長している。まだ小さくて写真にはっきりと写らないので、もう少ししたらUPしたいと思う。
2008年01月29日
2008年01月26日
言霊〜受胎
シュタイナーの説明は、霊界物語の天祥地瑞を読む上でも非常に参考になる。『神殿伝説と黄金伝説』から少し抜粋してみよう。
さて、発生の力と性的な生産力は、オカルト的に関連しています。「言葉」は、すべてをもたらしました。原初、言葉は人間の中に生きていました。そして人間から言葉が失われました。言葉が欠けているので、人間はもはや独自に創造することはできません。創造の場に居合わせた者だけが、その言葉を知ることができるのです。
トバル・カインはそれを知っていて、ヒラムに伝えました。生産力をふたたび得ようとする者は、この言葉を手中に収めなければなりません。本当の生産力は、言葉とひとつにならなければなりません。
言葉は未来の人間を生じさせるでしょう。その時には、ヒラムの息子を本当に見ることができるようになります。神の力である火が、新しい仕方で生じるでしょう。新しい性が、古い性に取って代わるでしょう。―――古代ヘブライ語のマントラには、それを十分力強く発生すれば宇宙を生み出す、といわれているものがあります―――言葉が十分に高められたとき、人間は言語そのものを通して霊的な人間を生み出すでしょう。
シュタイナーはまたフリーメーソンが目指した理想は、男の喉頭部での力でヒラムの新しい息子を生み出すことだとも述べている。男の声変わりは、この先触れと見做してもいた。
また面白いことに、王仁三郎は変性女子・変性男子ということも打ち出しているが、シュタイナーは霊的な自然が分裂したときに、女の個体の場合、霊は男性的特徴と男性的色合いをもち、男の場合の霊は、女性的な特徴を持っていると述べている。
シュタイナーのこういった見解の流れを読んでいくと、天祥地瑞の流れがすーっと理解し易くなるのだ。
シュタイナーの整然とした理論と、王仁三郎の感覚の両面からの受胎。
さて、発生の力と性的な生産力は、オカルト的に関連しています。「言葉」は、すべてをもたらしました。原初、言葉は人間の中に生きていました。そして人間から言葉が失われました。言葉が欠けているので、人間はもはや独自に創造することはできません。創造の場に居合わせた者だけが、その言葉を知ることができるのです。
トバル・カインはそれを知っていて、ヒラムに伝えました。生産力をふたたび得ようとする者は、この言葉を手中に収めなければなりません。本当の生産力は、言葉とひとつにならなければなりません。
言葉は未来の人間を生じさせるでしょう。その時には、ヒラムの息子を本当に見ることができるようになります。神の力である火が、新しい仕方で生じるでしょう。新しい性が、古い性に取って代わるでしょう。―――古代ヘブライ語のマントラには、それを十分力強く発生すれば宇宙を生み出す、といわれているものがあります―――言葉が十分に高められたとき、人間は言語そのものを通して霊的な人間を生み出すでしょう。
――――――――――――――――
シュタイナーはまたフリーメーソンが目指した理想は、男の喉頭部での力でヒラムの新しい息子を生み出すことだとも述べている。男の声変わりは、この先触れと見做してもいた。
また面白いことに、王仁三郎は変性女子・変性男子ということも打ち出しているが、シュタイナーは霊的な自然が分裂したときに、女の個体の場合、霊は男性的特徴と男性的色合いをもち、男の場合の霊は、女性的な特徴を持っていると述べている。
シュタイナーのこういった見解の流れを読んでいくと、天祥地瑞の流れがすーっと理解し易くなるのだ。
シュタイナーの整然とした理論と、王仁三郎の感覚の両面からの受胎。
2008年01月23日
霊体の最良の薬
出口ナオの居た所というのは、その辺り全体の磁場のようなものがおかしかったという。精神に異常をきたす人の割合も多かったと。
その土地の持つエネルギーというのか、磁場というのか、それは確かにあると思う。
私は様々な土地に住んできた。土地柄というものだけで片付けられない所もあるということを肌で感じ取っている。
特に、今住んでいるところ。表向きのイメージとはかなりかけはなれており、複雑な家庭環境の人間が多い。
また、警察署や役所や郵便局などの公共機関でも信じられないような手続きミスが多いのだが、それが表面化されて問題視されないのがここの特徴でもある。
学校の校庭では時々、カマイタチなるものが起こるし、校内で大怪我をする子も比較的多い。だが、これも表面化されることはない。
おまけに町長にはかねてから金銭の流れの疑惑があり、はっきりした証拠があるのに町長選には当選してきているという状況。金銭の個人的な癒着のある人間たちが多いのだろうし、また、声をあげて改善しようという気持ちを持つ人間が少ないのだろう。
過去にはPTA会長兼町会議員という人間がいたが、学校のPTA活動であるのに、べらぼうなPTA会費の使い方をした輩もいた。他にも、PTA会長という立場を私的に利用しようと考える人間は多い。
教育委員会などは、まさにダークな癒着の温床。
私はここへ来てから、気の休まる日というのが無い。旅行で出かけるときだけが安らぎにもなっている。
とにかく、疲れるのだ。一日一日を過ごしていくのに、あまりにも多くのエネルギーを必要とする。バリヤーを張るかのように、常に気を張っていないと危険なのだ。
夫はまた転勤で単身赴任となる。彼だけは外へ出て行ける。安全圏へと。私は子どもたちを守らねばならない。抵抗しようにも抵抗しようのない大きな力をもつ磁場。でも、その中で生きねばならない。
私は、かつてから感じていることがある。「霊界物語」を音読しなければならない必要性を。自分の為に読んでいるのではない。自分の為の音読なら続かないだろう。ここまで、読んではこれなかっただろう。
何かを期待しているという訳でもないし、何かを期待するから読んでいるという訳でもない。
ただ、とにかく最後まで音読しなければならないと、何かが背中を押すのだ。
あ・・と、ここでちょっと邪魔が入った。下の子が「自分の部屋には蜘蛛が生息している。」と言ってきたので、「部屋を綺麗にしていないからよ。」と私。
すると、「なんで、山には蜘蛛が生息していると思う?」と聞いてきたので、「山は綺麗だから全ての生き物が生息できるのでしょう。」と答えた。
そうしたら、なんと、子どもは頷いて、こう切り替えしてきた。「それと一緒。自分の部屋も山と同じだから蜘蛛が居るんだよ。」
な、な、なんだ―――! 相変わらずこう言えば、ああ言うで、人を煙に巻くんだから。まあ、エネルギーの強い子で良かったといえば良かったのだが・・・・。
だが、そこで、ふと思い出し、理解できたのが、霊界物語に書かれてあったこと。ちょっと、抜粋。
『総て宇宙一切のものは霊的にも、体的にも表裏あり、善悪美醜混じて交はりて、而して後に確乎不動の霊物は創造さるヽものなり。神は至善至美至愛にましませども、年処を経るに従って醜悪分子の湧出するは、恰も清水の長く一所に留まれば、次第に混濁して腐敗し、昆虫を発生するが如し。』
この世は神の似姿。神が全くの善・愛・美を持っていたとしても、肉体を持っている人間が年とともにその体に不具合を生じてくるが如くに、醜悪分子が発生してくるということを、妙に納得したのである。
だからこそ、それを取り除こう、正そう、直そうとすることは、これまた自然なこと。そうしなければならない。
自浄化作用。神と人は一体故の自浄化作用、その行為。言霊が最良の薬。霊体の最良の薬。
実に面白いものである。何気ないジョークの様な会話からインスピレーションがもたらされるのだから。
それから、出口王仁三郎が、政府からあれほどまでに酷い迫害や、大規模な破壊行為を受け、ある意味、日本を震撼とさせるものであったのに、なぜ歴史の教科書には掲載がないのだろうか。
吾々は、近い過去のことでもじっとしていたのでは情報を得られないという、政府の検閲下の中にいまだに置かれ、情報操作の社会に生きているということをしっかり認識しなければならない。
事実は、自らの手で捜し求めて行かねばならないのだ。
さて、最後まで霊界物語を音読しようか。
その土地の持つエネルギーというのか、磁場というのか、それは確かにあると思う。
私は様々な土地に住んできた。土地柄というものだけで片付けられない所もあるということを肌で感じ取っている。
特に、今住んでいるところ。表向きのイメージとはかなりかけはなれており、複雑な家庭環境の人間が多い。
また、警察署や役所や郵便局などの公共機関でも信じられないような手続きミスが多いのだが、それが表面化されて問題視されないのがここの特徴でもある。
学校の校庭では時々、カマイタチなるものが起こるし、校内で大怪我をする子も比較的多い。だが、これも表面化されることはない。
おまけに町長にはかねてから金銭の流れの疑惑があり、はっきりした証拠があるのに町長選には当選してきているという状況。金銭の個人的な癒着のある人間たちが多いのだろうし、また、声をあげて改善しようという気持ちを持つ人間が少ないのだろう。
過去にはPTA会長兼町会議員という人間がいたが、学校のPTA活動であるのに、べらぼうなPTA会費の使い方をした輩もいた。他にも、PTA会長という立場を私的に利用しようと考える人間は多い。
教育委員会などは、まさにダークな癒着の温床。
私はここへ来てから、気の休まる日というのが無い。旅行で出かけるときだけが安らぎにもなっている。
とにかく、疲れるのだ。一日一日を過ごしていくのに、あまりにも多くのエネルギーを必要とする。バリヤーを張るかのように、常に気を張っていないと危険なのだ。
夫はまた転勤で単身赴任となる。彼だけは外へ出て行ける。安全圏へと。私は子どもたちを守らねばならない。抵抗しようにも抵抗しようのない大きな力をもつ磁場。でも、その中で生きねばならない。
私は、かつてから感じていることがある。「霊界物語」を音読しなければならない必要性を。自分の為に読んでいるのではない。自分の為の音読なら続かないだろう。ここまで、読んではこれなかっただろう。
何かを期待しているという訳でもないし、何かを期待するから読んでいるという訳でもない。
ただ、とにかく最後まで音読しなければならないと、何かが背中を押すのだ。
あ・・と、ここでちょっと邪魔が入った。下の子が「自分の部屋には蜘蛛が生息している。」と言ってきたので、「部屋を綺麗にしていないからよ。」と私。
すると、「なんで、山には蜘蛛が生息していると思う?」と聞いてきたので、「山は綺麗だから全ての生き物が生息できるのでしょう。」と答えた。
そうしたら、なんと、子どもは頷いて、こう切り替えしてきた。「それと一緒。自分の部屋も山と同じだから蜘蛛が居るんだよ。」
な、な、なんだ―――! 相変わらずこう言えば、ああ言うで、人を煙に巻くんだから。まあ、エネルギーの強い子で良かったといえば良かったのだが・・・・。
だが、そこで、ふと思い出し、理解できたのが、霊界物語に書かれてあったこと。ちょっと、抜粋。
『総て宇宙一切のものは霊的にも、体的にも表裏あり、善悪美醜混じて交はりて、而して後に確乎不動の霊物は創造さるヽものなり。神は至善至美至愛にましませども、年処を経るに従って醜悪分子の湧出するは、恰も清水の長く一所に留まれば、次第に混濁して腐敗し、昆虫を発生するが如し。』
この世は神の似姿。神が全くの善・愛・美を持っていたとしても、肉体を持っている人間が年とともにその体に不具合を生じてくるが如くに、醜悪分子が発生してくるということを、妙に納得したのである。
だからこそ、それを取り除こう、正そう、直そうとすることは、これまた自然なこと。そうしなければならない。
自浄化作用。神と人は一体故の自浄化作用、その行為。言霊が最良の薬。霊体の最良の薬。
実に面白いものである。何気ないジョークの様な会話からインスピレーションがもたらされるのだから。
それから、出口王仁三郎が、政府からあれほどまでに酷い迫害や、大規模な破壊行為を受け、ある意味、日本を震撼とさせるものであったのに、なぜ歴史の教科書には掲載がないのだろうか。
吾々は、近い過去のことでもじっとしていたのでは情報を得られないという、政府の検閲下の中にいまだに置かれ、情報操作の社会に生きているということをしっかり認識しなければならない。
事実は、自らの手で捜し求めて行かねばならないのだ。
さて、最後まで霊界物語を音読しようか。
2008年01月22日
4年目の新生児
今朝、榊の水を替えていたら、なんと、4年目に突入した榊の新芽が膨らみ始めているではあ〜りませんか。
実は、そろそろ駄目かなと思っていたのです。小さな芽が出ているものの、そのまま化石になってしまうのかなと。
しかし、しかし、新芽はその生命力を見せ始めたのです。他の葉も枝も、新芽を支えているのに感動しました。
あ、もちろん、今日の祝詞奏上は、かなり弾んでしまいました。(笑)
写真をクリックして拡大して御覧下さいませ。
実は、そろそろ駄目かなと思っていたのです。小さな芽が出ているものの、そのまま化石になってしまうのかなと。
しかし、しかし、新芽はその生命力を見せ始めたのです。他の葉も枝も、新芽を支えているのに感動しました。
あ、もちろん、今日の祝詞奏上は、かなり弾んでしまいました。(笑)
写真をクリックして拡大して御覧下さいませ。
2008年01月20日
心と言霊
また、吾が人生に於いて大きな変動がもたらされることになった。あまりにも目まぐるしく環境は変化し行く。つかの間の融合。
きっと、こんな調子で突然に人生の幕も降ろされる時がやってくるのだろう。だから、「今」を生きなければならない。潔くない目を気にしている暇はない。
環境の変化に伴って、それが考えさせられるものだったり大変なものだったるする時とは、得てして言霊が低下してしまうようだ。
自分との戦い。言霊が低下しているときとか、良くない言霊を使ってしまっとき、私には祝詞の奏上が出来なくなる。なぜなら、清涼な赤心に一点の曇りでもあったなら、それは祝詞を奏上する資格がないからだ。神を寿ぐのではなく、神を穢すこととなってしまう。そのぐらいは弁えている。
霊界物語第七十三巻第二十六章より抜粋。
『わが心曇れば忽ち言霊も濁りて 神代は乱れんとすも
恐るべきものは心よ言霊よ 朝な夕なに洗い清めむ』
どんな状況に於いても心が乱れないように努力しなければならない。もし、心が乱れかかったら、決して言霊に出さないように自制しなければならない。沈黙。それでもいいのだろう。とにかく、濁った言霊を出さないようにすることだ。
私は潔い人間でありたいと思う。私は気高い人間になりたい。人としての尊厳を大切にしたい。
きっと、こんな調子で突然に人生の幕も降ろされる時がやってくるのだろう。だから、「今」を生きなければならない。潔くない目を気にしている暇はない。
環境の変化に伴って、それが考えさせられるものだったり大変なものだったるする時とは、得てして言霊が低下してしまうようだ。
自分との戦い。言霊が低下しているときとか、良くない言霊を使ってしまっとき、私には祝詞の奏上が出来なくなる。なぜなら、清涼な赤心に一点の曇りでもあったなら、それは祝詞を奏上する資格がないからだ。神を寿ぐのではなく、神を穢すこととなってしまう。そのぐらいは弁えている。
霊界物語第七十三巻第二十六章より抜粋。
『わが心曇れば忽ち言霊も濁りて 神代は乱れんとすも
恐るべきものは心よ言霊よ 朝な夕なに洗い清めむ』
どんな状況に於いても心が乱れないように努力しなければならない。もし、心が乱れかかったら、決して言霊に出さないように自制しなければならない。沈黙。それでもいいのだろう。とにかく、濁った言霊を出さないようにすることだ。
私は潔い人間でありたいと思う。私は気高い人間になりたい。人としての尊厳を大切にしたい。
2008年01月18日
時の道
時が過ぎ行く。息を潜めても、時は足音をたてて過ぎて行く。
二度と振り返ることのない時の歩み。前だけを向いて、道なき道に道を描いて行く。
今の私が願うことに、今の私の思考が動き始め、今の私は歩き始める。
でも、どんなに違うことを願ったとしても、やはり、いつも同じ方向を向いている自分の姿がある。
手をどんなに伸ばしても届かない白の世界。遠すぎて、遠すぎて、霧がかかっているかのよう。しかし、大好きな霧の世界。だから、歩き続けられる。
過去を振り返る暇があったなら、私は先へ進むことを選ぶ。「今」から始る可能性の中に生きたいから。道端に転がっている素適な石を集めながら、先へ進みたい。
二度と振り返ることのない時の歩み。前だけを向いて、道なき道に道を描いて行く。
今の私が願うことに、今の私の思考が動き始め、今の私は歩き始める。
でも、どんなに違うことを願ったとしても、やはり、いつも同じ方向を向いている自分の姿がある。
手をどんなに伸ばしても届かない白の世界。遠すぎて、遠すぎて、霧がかかっているかのよう。しかし、大好きな霧の世界。だから、歩き続けられる。
過去を振り返る暇があったなら、私は先へ進むことを選ぶ。「今」から始る可能性の中に生きたいから。道端に転がっている素適な石を集めながら、先へ進みたい。
2008年01月17日
世紀末〜最終章
昨日の新聞に掲載されていた。日米共同研究において、米にいる猿が歩けば、日本にある二足歩行ロボットが同じように脚を動かすことに成功したと。
脳信号で、遠隔操作が可能。これから、更に研究は進められていく。
この記事を読んだ時、アトランティスのことが思い出された。人間の研究欲は尽きることなく次から次へと開発に走り、それが危険な人間の欲望と結びついたときには破壊へと向かう。
原爆以上の危険性を持つものが、どんどん、どんどん研究され、開発され、実用化されていく。
人間は、ある段階に来たらセーブする決断力と意志を持たねばならない。今は、まさにアトランティス末期のよう。神の領域まで侵そうとしている。
脳信号で、遠隔操作が可能。これから、更に研究は進められていく。
この記事を読んだ時、アトランティスのことが思い出された。人間の研究欲は尽きることなく次から次へと開発に走り、それが危険な人間の欲望と結びついたときには破壊へと向かう。
原爆以上の危険性を持つものが、どんどん、どんどん研究され、開発され、実用化されていく。
人間は、ある段階に来たらセーブする決断力と意志を持たねばならない。今は、まさにアトランティス末期のよう。神の領域まで侵そうとしている。
2008年01月16日
言霊ゆえに
王仁三郎は、天祥地瑞を読む時には、手を洗い、口を浄め柏手をし、正座をして行うようにと、信者達に厳しく言い渡していたという。
言霊の天照る国よ言霊よ
真言濁れば国は乱れむ
朝夕に生言霊の響きなくば
この天界は曇り乱れむ
言霊は総てのものヽ力なり
心清めて朝夕宣れよ
澄みきらふスの言霊の御水火より
正しき尊き神はうまれむ
濁りたる神の言霊世に凝りて
曲神達は生れ出づるなり
高照山醜の大蛇も神々の
言霊濁れる酬いとこそ知れ
「初めに言葉ありき」とは、聖書の中の一説。霊界物語では、次のように書かれてある。
言霊の水火より成り出でましヽ神霊すべてを神と称へ、神と神との嫁ぎによりて生れませる神霊を命と言ふ。
言霊の重要性。天祥地瑞を音読し続けるうちに、発音する一音一音がとても大切なものと思えてきた。一音一音に心をこめて言わなければならないと。
脳裏を流れ行く光景。その中に入り込み、でも、客観的に見ている自分がいる。
この天祥地瑞そのものが、まるで祝詞のように思える。ふと、思った、かつての斎王のように、整えられた環境で音読することが出来たら、どんなにいいことだろうかと。
しかし、現実は現実。その中で音読する時には、自分の周りの空間を斎庭とするべく、自身を清めなければならない。自身を清めることによってのみ、この天祥地瑞の世界に入ることが許されるのだろう。そう、思った。
私は、今、天祥地瑞を前にして、畏怖という滝に打たれているかのようだ。あまりにも張り詰めていて透明。球体であることが繊細。ほんの少しの穢れでも、その球体は粉々に壊れてしまいそう。
だから、納得のいかなかった箇所は、何度でも繰り返し音読してから先へ進んでいる。
真摯に、ただひたすら真摯に一点の曇りも持たずに向かわなければならない。向かいたい。
言霊の天照る国よ言霊よ
真言濁れば国は乱れむ
朝夕に生言霊の響きなくば
この天界は曇り乱れむ
言霊は総てのものヽ力なり
心清めて朝夕宣れよ
澄みきらふスの言霊の御水火より
正しき尊き神はうまれむ
濁りたる神の言霊世に凝りて
曲神達は生れ出づるなり
高照山醜の大蛇も神々の
言霊濁れる酬いとこそ知れ
「天祥地瑞」より抜粋
「初めに言葉ありき」とは、聖書の中の一説。霊界物語では、次のように書かれてある。
言霊の水火より成り出でましヽ神霊すべてを神と称へ、神と神との嫁ぎによりて生れませる神霊を命と言ふ。
言霊の重要性。天祥地瑞を音読し続けるうちに、発音する一音一音がとても大切なものと思えてきた。一音一音に心をこめて言わなければならないと。
脳裏を流れ行く光景。その中に入り込み、でも、客観的に見ている自分がいる。
この天祥地瑞そのものが、まるで祝詞のように思える。ふと、思った、かつての斎王のように、整えられた環境で音読することが出来たら、どんなにいいことだろうかと。
しかし、現実は現実。その中で音読する時には、自分の周りの空間を斎庭とするべく、自身を清めなければならない。自身を清めることによってのみ、この天祥地瑞の世界に入ることが許されるのだろう。そう、思った。
私は、今、天祥地瑞を前にして、畏怖という滝に打たれているかのようだ。あまりにも張り詰めていて透明。球体であることが繊細。ほんの少しの穢れでも、その球体は粉々に壊れてしまいそう。
だから、納得のいかなかった箇所は、何度でも繰り返し音読してから先へ進んでいる。
真摯に、ただひたすら真摯に一点の曇りも持たずに向かわなければならない。向かいたい。
2008年01月13日
天祥地瑞〜音楽
天祥地瑞。幽体隠神の比古比女の物語。
音〜音楽
歌なのだ。
クラシックでもあり、ロックでもあり、ジャズやフュージョンでもあり、フォークでもあり、民族音楽でもある。
繊細で壮大な音楽が奏でられる。
音読する私の中に、音楽の世界が展開される。美しい調べ。感性を甦らせる調べ。
理論的に把握するよりも、感性として把握して行きたい。感覚として把握して行きたい。
私は歌う。
音〜音楽
歌なのだ。
クラシックでもあり、ロックでもあり、ジャズやフュージョンでもあり、フォークでもあり、民族音楽でもある。
繊細で壮大な音楽が奏でられる。
音読する私の中に、音楽の世界が展開される。美しい調べ。感性を甦らせる調べ。
理論的に把握するよりも、感性として把握して行きたい。感覚として把握して行きたい。
私は歌う。
2008年01月12日
神の子
夕食の時、下の子とこんな会話をした。
子「学生かばんに新しく付けたお守りをみんなが可愛いと言ってきたんだけど、その中の一人が、そのお守りを指でピンとはじいたんだ。それで、お守りにそんなことをするとバチが当たるんだよ、と言ってあげたら、その子ったら面白いんだよ。え〜、本当?と言って、一生懸命お守りにごめんなさいって謝っているのだもの。あ〜、面白かった。」
私「純粋ないい子ね。」
子「基本的に、自分は神様存在を信じているからね。」
私「へ〜、意外ね。なんで?」
子「幼稚園生だった時、お金が両手いっぱい、たくさんもらえますようにって毎日神様にお願いしていたんだけど、全然聞き届けてくれないから、それならもう神様なんていないんだろうから、明日ゲロ吐いて身体の具合が悪くなりますようにって祈ったんだ。そうしたら、本当に翌日ゲロ吐いて具合が悪くなるんだもん。前日までは元気だったのにね。だから、もうかなり驚いて焦ってしまった。それ以来、やっぱり神様はいるんだと思って、その存在を信じているんだ。でも、神様って、なんでいいことは叶えてくれないんだろう?」
私「それはね、善神と悪神がいてね、善神というのはその人の成長を願うものだからそうそう甘やかしてはくれないのよ。それに比べて悪神は人間の欲望を比較的叶えてくれるかも知れないけれど、それによってその人は退廃して行ったり、または、最後にドーンと地獄へ突き落としたりして喜ぶのよね。でも、大丈夫よ。その人にとって本当に必要なお願いだったら、善神は手助けしてくれるから。」
子どもはふ「ふ〜ん」と納得したようだった。
今日、ふと、思った。私は子どもの頃、母が作ってくれるお弁当にいつも安心していた。労苦を惜しまず愛情だけで作ってくれていたからだろう。
そして、そんな母を見てきたせいだろうか、今、私は子どもたちのお弁当を作るとき、やはり早起きをして愛情を注いだものを作っている。
だが、時代は変り、今の子供たちに同情をするケースは多い。共働きの反動だろうか、それとも便利な時代に麻痺してしまったからだろうか、お弁当も朝食も作ってもらえない子どもたちが増加している。
親が朝起きれないからと、コンビニで昼食を容易する子が多い、しかも、パンだけとか、おにぎりだけという、育ち盛りの子には良くない栄養の偏ったもの。
日曜日や祝日に何かあった場合、子どもが出かけるときにまだ親が寝ているということもよく聞く。
何かが歪んできてしまっているのではないか?
親が親でなくなってきてしまっているのではないか?
子どもを溺愛はするが、実際は親自身が親になりきれずに子どもの感覚のままなのではないだろうか。
人間は、一日一日変化していく。成長もするが、後退もする。親になるということは、自分の欲求を抑えられる自制心を持つということ。家族のための犠牲心を持って動けれるということ。忍耐強い人間になるということ。
人一人、育て上げるのである。中途半端な覚悟では出来やしない。もし、自分だけを可愛いと思うなら、決して子どもを産んではならない。子どもは、アクセサリーでも老後の保障でもないのだから。人間なのだ。この世の中にたった一人しかいない人間なのだ。そこにスペアなど存在しない。親は、子どもを正しく健全に育てる責務があるのだ。
子「学生かばんに新しく付けたお守りをみんなが可愛いと言ってきたんだけど、その中の一人が、そのお守りを指でピンとはじいたんだ。それで、お守りにそんなことをするとバチが当たるんだよ、と言ってあげたら、その子ったら面白いんだよ。え〜、本当?と言って、一生懸命お守りにごめんなさいって謝っているのだもの。あ〜、面白かった。」
私「純粋ないい子ね。」
子「基本的に、自分は神様存在を信じているからね。」
私「へ〜、意外ね。なんで?」
子「幼稚園生だった時、お金が両手いっぱい、たくさんもらえますようにって毎日神様にお願いしていたんだけど、全然聞き届けてくれないから、それならもう神様なんていないんだろうから、明日ゲロ吐いて身体の具合が悪くなりますようにって祈ったんだ。そうしたら、本当に翌日ゲロ吐いて具合が悪くなるんだもん。前日までは元気だったのにね。だから、もうかなり驚いて焦ってしまった。それ以来、やっぱり神様はいるんだと思って、その存在を信じているんだ。でも、神様って、なんでいいことは叶えてくれないんだろう?」
私「それはね、善神と悪神がいてね、善神というのはその人の成長を願うものだからそうそう甘やかしてはくれないのよ。それに比べて悪神は人間の欲望を比較的叶えてくれるかも知れないけれど、それによってその人は退廃して行ったり、または、最後にドーンと地獄へ突き落としたりして喜ぶのよね。でも、大丈夫よ。その人にとって本当に必要なお願いだったら、善神は手助けしてくれるから。」
子どもはふ「ふ〜ん」と納得したようだった。
今日、ふと、思った。私は子どもの頃、母が作ってくれるお弁当にいつも安心していた。労苦を惜しまず愛情だけで作ってくれていたからだろう。
そして、そんな母を見てきたせいだろうか、今、私は子どもたちのお弁当を作るとき、やはり早起きをして愛情を注いだものを作っている。
だが、時代は変り、今の子供たちに同情をするケースは多い。共働きの反動だろうか、それとも便利な時代に麻痺してしまったからだろうか、お弁当も朝食も作ってもらえない子どもたちが増加している。
親が朝起きれないからと、コンビニで昼食を容易する子が多い、しかも、パンだけとか、おにぎりだけという、育ち盛りの子には良くない栄養の偏ったもの。
日曜日や祝日に何かあった場合、子どもが出かけるときにまだ親が寝ているということもよく聞く。
何かが歪んできてしまっているのではないか?
親が親でなくなってきてしまっているのではないか?
子どもを溺愛はするが、実際は親自身が親になりきれずに子どもの感覚のままなのではないだろうか。
人間は、一日一日変化していく。成長もするが、後退もする。親になるということは、自分の欲求を抑えられる自制心を持つということ。家族のための犠牲心を持って動けれるということ。忍耐強い人間になるということ。
人一人、育て上げるのである。中途半端な覚悟では出来やしない。もし、自分だけを可愛いと思うなら、決して子どもを産んではならない。子どもは、アクセサリーでも老後の保障でもないのだから。人間なのだ。この世の中にたった一人しかいない人間なのだ。そこにスペアなど存在しない。親は、子どもを正しく健全に育てる責務があるのだ。
2008年01月08日
雑感〜香り・匂い
新入りの榊というのは、他の切花と同じように、最初は水を取り替えるとき、独特の腐敗しかけているような匂いとぬめりがあり、榊立てもまた花瓶と同じようにぬめりが付着している。
しかし、それも数日経つと、匂いもぬめりも無くなるのだ。
まるで、海と同じように榊自身も自浄化作用を行っているかのよう。ん?少し違うかしら。榊自身と水と榊立て全てが汚れないのだもの。そうね、たぶん、榊は自身のみだけでなく、周りも浄化してしまう力を持っているのかも知れない。
東京では、今日から95パーセントのタクシーが禁煙車にしたという。関東以北では、結構、禁煙活動を進めているようだが、西日本は、まだまだの状態らしい。利己的な人間が多いということだろうか。
今回の伊勢は泊まりで行ったのだが、急なことだったので、私の泊まる部屋は禁煙ルームを取れなかった。
部屋に染み付いた煙草の匂い、隙間から入り込んでくる煙草の匂い。
それはもう、一晩中、拷問を受けているようなものだった。匂いが気持ち悪く息が詰りそう。そして、喉はカラカラと乾燥するし。ほとんど眠ることが出来なかった。
あれほどまでに時間が経つのが遅く感じた事は近年、そうないことだった。
ただ、救いは、最上階の角部屋だったこと。隣の部屋に夫。もし、両隣が見ず知らずの他人でヘビースモーカーだったら、それこそ最悪だっただろう。
これほど受動喫煙の害が報道されているのに、いまだに歩きながらの喫煙だとか、車からのポイ捨てをする人間をよく見かける。
まさに、自分の欲求を抑えられない愚かで弱く、そしてかっこ悪い人間として目に映る。自制心のない人間は醜いとしか言いようがない。
また、喫煙者は、赤ちゃんや子どもや妊婦、病弱な人のいるところで喫煙することが、どれほど酷い暴力となるかをきちんと認識すべきである。
その匂いや煙は、胃痛や頭痛、動悸息切れ、呼吸困難などの不快感を起こさせる。喫煙者がどうなろうと自業自得だが、吸わない人間に害を及ぼす事は許せるものではない。
それに、霊学の道を学び、歩んでいるのに喫煙をする人間もどうかと思う。霊学が進めば進むほど、自ずと身体は敏感になってくるものだからだ。
生きている細胞を殺すこと、苦しめることは、そう出来るものではない。
花や草木の香り、雨の匂い、晴れた日の太陽の匂い・・・・。いろいろな大自然の香りは心を活かしてくれる。それは、害がないから。そして、生きた香りだからだ。精霊達と共にある香り。
しかし、それも数日経つと、匂いもぬめりも無くなるのだ。
まるで、海と同じように榊自身も自浄化作用を行っているかのよう。ん?少し違うかしら。榊自身と水と榊立て全てが汚れないのだもの。そうね、たぶん、榊は自身のみだけでなく、周りも浄化してしまう力を持っているのかも知れない。
東京では、今日から95パーセントのタクシーが禁煙車にしたという。関東以北では、結構、禁煙活動を進めているようだが、西日本は、まだまだの状態らしい。利己的な人間が多いということだろうか。
今回の伊勢は泊まりで行ったのだが、急なことだったので、私の泊まる部屋は禁煙ルームを取れなかった。
部屋に染み付いた煙草の匂い、隙間から入り込んでくる煙草の匂い。
それはもう、一晩中、拷問を受けているようなものだった。匂いが気持ち悪く息が詰りそう。そして、喉はカラカラと乾燥するし。ほとんど眠ることが出来なかった。
あれほどまでに時間が経つのが遅く感じた事は近年、そうないことだった。
ただ、救いは、最上階の角部屋だったこと。隣の部屋に夫。もし、両隣が見ず知らずの他人でヘビースモーカーだったら、それこそ最悪だっただろう。
これほど受動喫煙の害が報道されているのに、いまだに歩きながらの喫煙だとか、車からのポイ捨てをする人間をよく見かける。
まさに、自分の欲求を抑えられない愚かで弱く、そしてかっこ悪い人間として目に映る。自制心のない人間は醜いとしか言いようがない。
また、喫煙者は、赤ちゃんや子どもや妊婦、病弱な人のいるところで喫煙することが、どれほど酷い暴力となるかをきちんと認識すべきである。
その匂いや煙は、胃痛や頭痛、動悸息切れ、呼吸困難などの不快感を起こさせる。喫煙者がどうなろうと自業自得だが、吸わない人間に害を及ぼす事は許せるものではない。
それに、霊学の道を学び、歩んでいるのに喫煙をする人間もどうかと思う。霊学が進めば進むほど、自ずと身体は敏感になってくるものだからだ。
生きている細胞を殺すこと、苦しめることは、そう出来るものではない。
花や草木の香り、雨の匂い、晴れた日の太陽の匂い・・・・。いろいろな大自然の香りは心を活かしてくれる。それは、害がないから。そして、生きた香りだからだ。精霊達と共にある香り。
2008年01月03日
真柱
あらたまの 年の初めに
ご祝詞を 申し上げます
今回の私の旅程は次のようなものでした。
(一日目)斎宮歴史博物館 → 斎宮の森 → 伊勢神宮外宮にある茜社 → (二日目)伊勢神宮外宮 → 伊勢神宮内宮 → 伊雑宮 → 香良洲神社 → 大神神社
斎宮歴史博物館では、いろいろなことを知りました。
斎王のいる時代の天皇や貴族は、正月元旦に山海の食べ物に箸を付ける「歯固」という儀式を行っており、斎宮でも行われていました。これは、おせち料理の原型だとのことです。
不思議なものです。私は、市販のおせち料理は高いだけで美味しくないので、決して頼む事はないだろうなと思っていたのです。
しかし、今年はなぜだか自分でもわかりません、料亭のおせち料理を頼みました。初めてのことです。
また、映像展示室では、「斎王群行」、「斎宮を歩く」、「今よみがえる幻の宮」の3本の映像を交互に上映しており、この日は「斎王群行」を上映していました。
斎王は、天皇の皇女の中から占いで選ばれるのです。そして選ばれると、まず自室で世間から切り離された生活を送ることになります。
次に、日を選んで平安宮の中に用意された一室に移り、翌年の秋には京外の「野宮」という仮説の宮殿に移って一年を過ごすのです。
こうした「お籠もり」は斎王の清浄性を高めるものだったとのこと。
そして、いよいよ翌年の秋、伊勢神宮で9月15日〜17日に行われる「神嘗祭」に合わせて、斎王は旅立つのです。
旅立つ最後の日、天皇と対面して「別れのお櫛」といわれる儀式を行います。
天皇は「都の方におもむきたもうな」と声をかけ、斎王の髪に櫛をさします。そして、斎王は後ろを振り向くことも許されずに、そのまま
旅立つのです。もしかしたら、これが天皇との永遠の別れとなるかも知れないのに。
斎王が任を解かれて都へ帰るのは、天皇が譲位したり、亡くなったり、斎王の肉親に不幸があったときだけに限られていました。
斎王の中には、わずか八歳で斎王に選ばれた方もいました。孤独という宿命。しかし、天皇の名代という重責。決して、逃げる事は出来ません。ひたすら、真摯に神事を行い、祈ること。
斎王が暮らしていた斎宮は幻の宮と呼ばれていたのですが、近年、その全貌が姿を現しはじめています。とても広大なものであったそうです。
斎宮の森の写真をUPします。
また、左近の桜の成立には、斎王が関わっていたのですね。重明親王の娘である徽子(よしこ)女王。
さて、次は茜社。稲荷神社です。外宮外苑にある勾玉池のところにあります。なんと、オーブがまた写っています。かつて、京都の伏見稲荷で取った写真にも同じようなオーブが写っていましたが。稲荷の特徴なのでしょうか。
この後、勾玉池周辺を散策しました。すると、どこからか、「あっはっはっは、あっはっはっは」という大きな大きな声が聞こえてきたのです。思わず、天狗の声?などと思ってしまいました。だって、人間の声ではなかったのですもの。
薄暗い湖面を目を凝らして見てみました、すると、沢山の鴨がいるじゃありませんか。しかも、水上を飛んだり、鴨同士でくるくる回ってじゃれあったり。なんと、賑やかなことでしょうか。
昼間が人間主体の世界、そして、夜は鴨たちの世界。そんな感じでした。
また、夜の闇が降りてくればくるほど、鴨たちの笑う声があちらからもこちからも聞こえてきたのです。不思議な楽しくなる空間でした。
翌日は、朝6時前のまだ暗いうちに参拝に出かけました。最初に外宮に行きました。しかし、夜明け前でしたので、御垣内に入っての参拝は出来ませんでしたが、外宮の中から見上げる月の輝きは美しかったです。
帰るとき、なぜか、守衛さんに呼び止められて「お車でお越しですか?」と聞かれました。正月三が日の伊勢神宮への参拝は、近くに宿を取って、タクシーかバスで移動するのがお薦めですよ。
次に内宮へと行きました。ここでは日が昇りましたので、御垣内へ入っての参拝が出来ました。
やはり御垣内だと、世界や日本のことのみしか祈る気持ちにはなれないものですね。
風日祈宮へ繋がる橋の下を流れている五十鈴川の写真です。内宮に入る時、最初にある大きな橋の下を流れている川は、本来の五十鈴川ではないとのこと。そこは、三つの川が合流しているからだそうです。
この風日祈宮のところに流れている川が、本来の五十鈴川。
お次は、伊雑宮。駐車場に山鳩がいたので、パチリ!
そして、香良洲神社。午前中は晴れていたのですが、お昼ごろには再び雪を降らしそうな雲が空全体を覆っていました。
でも、ここへ着いたら、あら、不思議。太陽が顔を出しました。
香良洲神社では、御神前に沢山の鏡餅がお供えされていました。なんか、あたたかな感じ。
本殿の手前に小香良洲神社というお社もありました。御祭神名は書いてなかったので分からないのですが、このお社の前に立った時には、さらに日の光が強く射して来て、はっきり出来た自分の影に思わず驚きました。
最後は大神神社。こちらも灰色の雲に覆われていました。しかし、近くまで来た時、三輪山だけに太陽の光が投げかけられているという姿になったのです。
大神神社へ来た時には、私の気分は低下していました。思わず、自分の感情を御神霊にぶつけてしまいました。
でも、やさしく包み込むように、軽やかな風が頬を撫でていきました。
とても、厳しい年になるかも知れません。伊勢神宮内宮の御垣内の中だけと自分だけという状態。伊勢神宮といえども、御垣内から一歩外へ出れば茨のようなとでもいいましょうか、そんな感じがしました。
そして、頼りにしている夢が、昨年の暮れから、見ても内容を覚えられないという状況へと追いやられています。
また、茜社というところへ始めて行きましたが、香良洲神社でも、「茜」という言葉に出会いました。茜と言えば、茜大神。最後の御出まし。
大神神社で引いた御神籤の中に書かれてあった歌。
うまないた
たたくな
ゆきそ
けたぐりて
みても
わがゆく
しがに
あらなく
ご祝詞を 申し上げます
今回の私の旅程は次のようなものでした。
(一日目)斎宮歴史博物館 → 斎宮の森 → 伊勢神宮外宮にある茜社 → (二日目)伊勢神宮外宮 → 伊勢神宮内宮 → 伊雑宮 → 香良洲神社 → 大神神社
斎宮歴史博物館では、いろいろなことを知りました。
斎王のいる時代の天皇や貴族は、正月元旦に山海の食べ物に箸を付ける「歯固」という儀式を行っており、斎宮でも行われていました。これは、おせち料理の原型だとのことです。
不思議なものです。私は、市販のおせち料理は高いだけで美味しくないので、決して頼む事はないだろうなと思っていたのです。
しかし、今年はなぜだか自分でもわかりません、料亭のおせち料理を頼みました。初めてのことです。
また、映像展示室では、「斎王群行」、「斎宮を歩く」、「今よみがえる幻の宮」の3本の映像を交互に上映しており、この日は「斎王群行」を上映していました。
斎王は、天皇の皇女の中から占いで選ばれるのです。そして選ばれると、まず自室で世間から切り離された生活を送ることになります。
次に、日を選んで平安宮の中に用意された一室に移り、翌年の秋には京外の「野宮」という仮説の宮殿に移って一年を過ごすのです。
こうした「お籠もり」は斎王の清浄性を高めるものだったとのこと。
そして、いよいよ翌年の秋、伊勢神宮で9月15日〜17日に行われる「神嘗祭」に合わせて、斎王は旅立つのです。
旅立つ最後の日、天皇と対面して「別れのお櫛」といわれる儀式を行います。
天皇は「都の方におもむきたもうな」と声をかけ、斎王の髪に櫛をさします。そして、斎王は後ろを振り向くことも許されずに、そのまま
旅立つのです。もしかしたら、これが天皇との永遠の別れとなるかも知れないのに。
斎王が任を解かれて都へ帰るのは、天皇が譲位したり、亡くなったり、斎王の肉親に不幸があったときだけに限られていました。
斎王の中には、わずか八歳で斎王に選ばれた方もいました。孤独という宿命。しかし、天皇の名代という重責。決して、逃げる事は出来ません。ひたすら、真摯に神事を行い、祈ること。
斎王が暮らしていた斎宮は幻の宮と呼ばれていたのですが、近年、その全貌が姿を現しはじめています。とても広大なものであったそうです。
斎宮の森の写真をUPします。
大来皇女の歌が書かれた石碑と、井戸跡
斎宮のあったときからの道路跡
また、左近の桜の成立には、斎王が関わっていたのですね。重明親王の娘である徽子(よしこ)女王。
さて、次は茜社。稲荷神社です。外宮外苑にある勾玉池のところにあります。なんと、オーブがまた写っています。かつて、京都の伏見稲荷で取った写真にも同じようなオーブが写っていましたが。稲荷の特徴なのでしょうか。
この後、勾玉池周辺を散策しました。すると、どこからか、「あっはっはっは、あっはっはっは」という大きな大きな声が聞こえてきたのです。思わず、天狗の声?などと思ってしまいました。だって、人間の声ではなかったのですもの。
薄暗い湖面を目を凝らして見てみました、すると、沢山の鴨がいるじゃありませんか。しかも、水上を飛んだり、鴨同士でくるくる回ってじゃれあったり。なんと、賑やかなことでしょうか。
昼間が人間主体の世界、そして、夜は鴨たちの世界。そんな感じでした。
また、夜の闇が降りてくればくるほど、鴨たちの笑う声があちらからもこちからも聞こえてきたのです。不思議な楽しくなる空間でした。
翌日は、朝6時前のまだ暗いうちに参拝に出かけました。最初に外宮に行きました。しかし、夜明け前でしたので、御垣内に入っての参拝は出来ませんでしたが、外宮の中から見上げる月の輝きは美しかったです。
帰るとき、なぜか、守衛さんに呼び止められて「お車でお越しですか?」と聞かれました。正月三が日の伊勢神宮への参拝は、近くに宿を取って、タクシーかバスで移動するのがお薦めですよ。
次に内宮へと行きました。ここでは日が昇りましたので、御垣内へ入っての参拝が出来ました。
やはり御垣内だと、世界や日本のことのみしか祈る気持ちにはなれないものですね。
内宮の参道にいた鶏です
伊勢神宮内宮
風日祈宮へ繋がる橋の下を流れている五十鈴川の写真です。内宮に入る時、最初にある大きな橋の下を流れている川は、本来の五十鈴川ではないとのこと。そこは、三つの川が合流しているからだそうです。
この風日祈宮のところに流れている川が、本来の五十鈴川。
お次は、伊雑宮。駐車場に山鳩がいたので、パチリ!
伊雑宮
そして、香良洲神社。午前中は晴れていたのですが、お昼ごろには再び雪を降らしそうな雲が空全体を覆っていました。
でも、ここへ着いたら、あら、不思議。太陽が顔を出しました。
香良洲神社では、御神前に沢山の鏡餅がお供えされていました。なんか、あたたかな感じ。
本殿の手前に小香良洲神社というお社もありました。御祭神名は書いてなかったので分からないのですが、このお社の前に立った時には、さらに日の光が強く射して来て、はっきり出来た自分の影に思わず驚きました。
最後は大神神社。こちらも灰色の雲に覆われていました。しかし、近くまで来た時、三輪山だけに太陽の光が投げかけられているという姿になったのです。
大神神社へ来た時には、私の気分は低下していました。思わず、自分の感情を御神霊にぶつけてしまいました。
でも、やさしく包み込むように、軽やかな風が頬を撫でていきました。
とても、厳しい年になるかも知れません。伊勢神宮内宮の御垣内の中だけと自分だけという状態。伊勢神宮といえども、御垣内から一歩外へ出れば茨のようなとでもいいましょうか、そんな感じがしました。
そして、頼りにしている夢が、昨年の暮れから、見ても内容を覚えられないという状況へと追いやられています。
また、茜社というところへ始めて行きましたが、香良洲神社でも、「茜」という言葉に出会いました。茜と言えば、茜大神。最後の御出まし。
大神神社で引いた御神籤の中に書かれてあった歌。
うまないた
たたくな
ゆきそ
けたぐりて
みても
わがゆく
しがに
あらなく

