2008年02月29日

冬から春へ

とりあえずは一段落。大きな大きな雷を落さなければならなかったとは・・・・・。
私の発言に硬直してしまった人、書くペンが止まってしまった人、その後、数日間自分を見直し反省した人・・・・。

その場に居た会う人、会う人、みんな言う。大変でしたね、と。なかには、切れているよね、絶対に爆発したんじゃない、なんて言う人たちも。
ま、ここらへんの人たちにしてみたら、標準語というのはそれでなくてもきつく聞こえるらしい。あんなこと、やんわりと言える訳がないし、私の性格では真っ直ぐにしか言えないしね。

あ〜あ、これでまたまた私のイメージはどうなったことやら。校長まで、あの気の使ったものの言いよう。はぁ〜、溜息。

でも、物事は正された。正しいレールが敷かれた。後は、それを真っ直ぐなまま走ってほしいと思う。

それにしても、目立ちたくないと思う人間が目立つ。変な世の中。ひっそりと空気の様な状態でいたいのに。

明日からは3月。春の風の中へ。

そうそう、去年の3月に罹ったインフルエンザ。それで、物事の到来を予見し、さらにホロスコープで示されていた天王星の強い影響を覚悟した。
意識した時から、そういった影響力にもさらなる生命力が加わった感じもする。

また、霊界物語。第七十七巻の白馬ヶ岳と田族比女の物語を読み終えて迎えた戦いであったが、もし、霊界物語を読んで何かが起こると言うのなら、私の場合、物語のストーリーに連動した現実となっていたということだろうか。

天祥地瑞を音読していて思う。比女、比古の言葉を自分の口から発声できることの幸せを。



今、嵐の様な一年にピリオドは打たれようとしている。そして、それをなんとか乗り越えられたのも、ひつじさんによる夢解釈が大いなる手助けとなっていたからである。
こういった動乱の時ほど、夢の鋭さは増すようにも思える。そして、これほどまでに霊界の住人である夢の主が「生きている」と思えたことは、今までになかった。夢の主がどれほど偉大な存在か、大愛に満ちているか。

春到来。私は、今度はどんな舞いをするのだろうか。
posted by ミューシャ at 14:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

小栗判官

みなべ〜カグツチ〜高野山〜〜鞍馬寺〜小栗判官

面白い。高野山の御社。雪の御社を見たとき、思わず鞍馬寺の光景が浮かび上がった。

初めて鞍馬寺を訪れたとき、季節はずれの雪が降り始めて、みるみるうちにあたり一面、雪景色となった。
朱と白のコントラスが美しくて、鮮明に記憶に残っている。

小栗判官と照手姫。
posted by ミューシャ at 00:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

現実〜春を迎えるために

私にしてはずいぶんとブログの更新が出来ないでいるが、今は現実との戦いの真っ最中である。
自分の為ではないことの戦い。自分の家族のことでもない戦い。なんの私利私欲も打算もない戦い。

だからこそ、大切な戦いなのである。

最初は、もう関わりたくないと思っていた。多少の憤りを感じていても、あと少しだし、このまま軽く流してもいいのではないかと。

自分で言うのもなんだが、いつまでたっても壊れそうな繊細な心を持っている私にはとうてい出来やしないことだと、少し前まではそう思っていた。
だが、私がやるしかない、私が一人悪者になってでも厳しく言及していかなければならないことだと覚悟した時から、少しずつそれに向けてもう一人の自分の人格形成が成されていっている。

私の星の位置では、このことは予測されていた。そして、本来の私の気質でいては、この難局を乗り切ることは出来ないとの警告も出されていた。今までの自分であっては出来ない。だが、それを乗り越えて成し遂げねばならないのである。

最後の戦いの時が近づいてきている。正しいことのためであったとしても、誰かを傷付けることはしたくはない。でも、この不正行為を正すためには涙を呑んでやるしかない。今、正さねば、この偽装工作は何年も続くことになるだろう。そして、いつか法の手で裁かれるかも知れない。
そうならないために、あの人々の代わりに正してあげねばならないのだ。

敵は作りたくない。誰にも涙を流させたくはない。しかし、やらねばならないこと。
それで、私一人が悪者にされたとしても。憎まれたとしても。
posted by ミューシャ at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2008年02月14日

寿ぐ

やどりぎ。古代は「ホヨ」と呼んだという。そして、大伴家持たちは、宴会でめでたいホヨを髪飾りにして千年の長寿を祝ったという。

万葉歌に大伴家持の詠んだ歌がある。

あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取りて 插頭(かざ)しつらくは 千年寿(ほ)くとそ



黒石寺の蘇民祭。なんだかんだと騒がれた。でも、1200年受け継がれてきた素晴らしい伝統。周りの外野がくだらないことを言って騒いでも、そんなことではびくともしない。

問題のシーンでは、配慮して灯りを消したと報道しているが、本来は暗闇でやるのが慣わしだという。それが、近年はメディアなどの影響でライトが点けられたりしていた。

その祭りに臨む人は、一週間前から卵などの乳製品を断つなどして身を清めるという。神聖な祭り。神聖な祭りに於いての裸には、なんら違和感などないもの。
変な目で見る人間の方が穢れているのである。

打たれて世に出る。まさに、スサノオの証。
posted by ミューシャ at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2008年02月10日

暗黒の中の灯火

裁判員制度が導入されるまで、あと僅か。国家権力との戦いの火蓋が切って落とされようとしている。

確かに裁判員制度は、道徳教育としてはもってこいの教材である。それによって、下降線を辿っていた人間教育が向上するだろう。確かな目を持つ人間達が増えるだろう。

だが、その反面、冤罪の片棒を担がされる危険性を伴っている。犯人を確定させる為に、警察側は事実でないことまで作り上げ、それを公表し、メディアはそれをそのまま報道する。
証人喚問する証人は、警察側に都合の良い証人だけに限られ、警察側が作成したストーリーを裁判官は信じ込んだ振りをして進行させる。
犯罪者にされた半分は、冤罪によるものではないかと言われている。

弁護士といえども、国家に対峙しようとする共産党側の弁護人なら、ある程度はまともなやり方が出来るかも知れないが、ほとんどの弁護人は、警察側のストーリーの中を歩んでいるようだ。

今は裁判員制度が導入されるということで、その裏事情が書かれた本がたくさん出回るようになった。
国民は、やっと事実を知ることの出来る入り口へと立ったのだ。

この裁判員制度は、まさに国民が国家権力の奴隷にされるか、それとも歪んだ国家権力を是正していけるかの大きな戦い。
そして、冤罪を無くせるかの長い茨の道。

だが、私は、これを神の恵みと見ている。道徳教育として取り入れていくことによって、人間性の向上が見込まれ、それによって正しい見つめ方が出来る人間達が増えるかもしれないという希望。それは、一所に留まることなく、多方面へと影響がもたらされていくだろう。

でも、万が一、国家権力の片棒を担ぐだけの状態となってしまったら、そのとき、人間社会は崩壊するだろう。
警察などの役所は、まさに悪の巣屈となっている。ハルマゲドンの戦いは始ったのだ。
posted by ミューシャ at 21:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2008年02月06日

自由

霊学を研鑽していると面白いもので、自分の中の以前の見解と今の見解の違いが歴然として見えてくるし、時には正反対の受け取り方になっていたりもする。

例えば、霊界物語から次のところを抜粋しよう。


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惟神的道徳上の義務に服し、天界に奉仕し、自己を制して自己以外に寛大なる神人は、其実際に於いて精神上の自由を有し、一切万事 公共の為、何一つ成らざるはなきものである。之に反し、惟神的道徳上の義務を省みず、自己の欲望にのみ執着し、自己に寛大に、他に対して残忍である所の神人は、其の実 運命の手に縛られてゐるのである。

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以前だったら、前者に於いては、あたかも信仰というものに縛られ、自分を抑えなければならないという非常に窮屈なイメージを受けていたが、今は違う。

心が縛られないのである。即ち、それは王仁三郎の語る「精神上の自由」なのだ。

不必要なものに囚われないし、些細なことに執着することもなく、無駄のないピンポイントの状態に近づいて行く。それは、以前に比べたら格段に心が楽なのである。

また、後者の場合は、様々なことに執着心があるが為に、ちっぽけなことに常時心が波立っている。つまり、カルマから逃れられないでいるのだ。
所有欲や名誉欲などの欲望というものを満たす事は、決して目的達成と言えるものではない。欲望は新たな欲望を生み、その欲望の為に心は荒んでいく。

そして、生きているうちに少しでもカルマを解消しようとしないなら、またそれを来世まで引きずってしまう。なんと不自由なことだろうか。まさに、運命の奴隷。

自己を制するということは、歪んでいたものが矯正されるということでもある。歪んでいたものが矯正されていくなら、それは次第に惟神的道徳の道へと修正され、その義務がまったく自然なこととして把握できるようになってくるのではないだろうか。

漠然としていた自由というものが輝き始めるのを覚えた時、それはカルマからの解放を意味する。
posted by ミューシャ at 00:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

禊と瞑想

禊の振魂の行事というのは、瞑想と同じことなのかと思った。シュタイナーもまた瞑想について言及しているが、不純物の除去には形から入るというのは人間には適した方法なのだろう。
ただ、安易に瞑想と言っても間違った瞑想法は危険極まりないもののようだが。


霊界物語から抜粋。

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此の振魂の行事に由りて、精神内包の妄念邪想を鎖鎮すると共に、身体各部の反対的孤立的の活動を制御し、自己の根本精神を中心としたる全身の統一的活動を為すなり。

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また、禊の間の食生活のことも述べているが、私もそのうち自分だけの時間が多く持てるようになったら徹底してチャレンジしてみたいと思っている。

しかし面白いものだ。ほぼ同時代に生きていたシュタイナーと王仁三郎。一見違うかのように見えて、実は同じようなことを述べていることが多いのだから。
posted by ミューシャ at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

根本からの問題

医学部の授業料についてのコメントが入っていたので、誤解が無いように私の一個人としての見解を書こうと思う。

確かに防衛医科大学など授業料免除・給料支給という大学もあるが、卒業後は自衛官として9年だか10年だか、そのぐらいの勤務が義務付けられている。
私は、そういう構造にはどうも拒絶反応が生じる。なぜなら、自由な研究が出来ないし、自由に技術を磨く道が閉ざされてしまっているように思えるからだ。

しかし、私立大学ではどうだろうか。私の知る限りではかなり高いのだが。

また、今の日本の大学というのは入試時が大変である。合格できなければどうにもならない。
難易度の高い大学に入ろうと思うなら、中学・高校でのハイレベルな教育を受ける必要がある。
例えば、進学校と言われる公立高校で上位の成績をとっていても、もし塾や予備校へ通っていなかったなら難易度の高いところには合格出来にくいのが実情。公立高校での授業内容と、塾・予備校でやるレベル的な内容は違う。

ただ、そういった塾や予備校に通わせるにもかなりの費用がかかってくる。特待制度もあるが、それを受けられるのには高い成績が求められてくる。

要するに、大学受験をするまでに多額の費用がかかるわけで、経済的に大変な家庭の子どもではその段階で振り落とされてしまう。
難易度の高い大学には、経済的に余裕のある家庭の子どもの方が合格率が高いという調査結果も出ている。

だが、人間とは高度な生き物。志の高い人間は伸びる。大学に入ってから伸びる人間はいくらでもいるだろう。だから入学時だけの成績で判断してしまうのはもったいないと思う。

また、たんなる医者になることだけを希望する人間と、医学を究めたい人間においても雲泥の差がある。医学を究めたいと思う人間は研究もしたいし、高度な技術を求めて外へ学びに行きたくなるもの。それには、今の日本の体制では、やはり個人の経済力が問われてしまうのではないだろうか。

学部とかに関わらず、今の日本の教育体制は根本的におかしいと思う。学びたいものを学べる状況を誰にでも等しく設定しておくのが教育現場のあり方ではないだろうか。私はそう思うのだが。

ただ、格差社会といわれる今日。収入の少ない家庭は、大学のだの字も出ないほど切羽詰った状態に追い込まれている子ども達も多い。そういう人たちに、どうやって手を差し伸べたらいいのだろうか。そいういう家庭の子どもたちになんと声をかけたらいいのだろうか。

格差社会は弱者と呼ばれる範囲の人間達から希望を奪っている。


PS:他人のブログというのは家と同じこと。相手の家にはじめて訪れるのに挨拶の一つもせずに入るというのは如何なものかと思う。人間、最低限の礼節は必要。それが、人間社会のルール。
posted by ミューシャ at 15:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

真空管

詩がその唇から流れ出す時

瑞々しい精霊達が踊りだす

愉快そうに、微笑みながら

おまえの過去に何があったか知らないが

何をどうやって生きてきたか知らないが

今の姿がすべて

もしかしたら流した涙は湖ができるぐらいかも知れないが

精霊達は踊っている

暗闇の中の月が美しいように

深い闇の中の星が美しいように

金銀の光は弾む

おまえが翼を持つ鳥のように飛び立つ時

辺りは真空のようになり

何か未知なるものが展開されるのではないかと

私はいつもどきどきしている

その唇から語られる詩に

神話の世界だったこともやけに身近なことのように感じられ

何か こう 懐かしい気持ちになる
posted by ミューシャ at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2008年02月02日

霊の息〜水火

今日は一日のほとんどを料理に費やした。中国から輸入した冷凍餃子が問題になっているが、便利な世の中とは危険ともまた隣り合わせということなのだろう。

霊学を研鑽していると体が敏感になる。食生活においても然り。冷凍食品や、市販されている惣菜を食した場合、体のリズムや精神状態の不足感を覚える。

自分の目で確かめた食材で一から作る時、その労力は大変だが、満たされ、活力が湧く。

わが家の榊は長く生き続けている。何も特別なことはしていない。普通に毎日、水道水で水を替え、枝を手でやさしく洗うだけ。

料理人〜料理〜食する人。この流れはとても大切なこと。人間の持つエネルギー。それについて真剣に考えるべきだ。

食育という言葉が頻繁に聞かれるようになってきたが、共働きの家庭が普通となり、結局は利便性の良いものへと流れる。
子どもたちは精神的に不足を感じ、それが蓄積されて行く。子どもを育成することが柱とならない時代が現代。お金で解決しようとするのが現代。



救急患者のたらい回しが問題となっている。医者の数が足りない、病院勤務は敬遠されるなどの報道がされている。

医者になりたくても、大学の医学部は他の学部に比べて授業料は高く、経済的に余裕のある子どもでなければ進学できないのが現状。
国は医者不足を解消しようと本気で考えるなら、医学部の授業料を低く設定し、本当に志のある人間だけが卒業し、資格を得られるようなシステムにするべきではないだろか。


教育で今、話題の中にあるのがフィンランドの教育現場のこと。フィンランドの教師は尊敬される高い地位にあるという。それには、日本で言う大学院を卒業し、しかも半年の研修期間が義務付けられている。その研修も日本の付け足しの様な研修ではなく、チェックする専門家が付いているのだ。人によっては、その研修の厳しさに耐えられずに教師になることを断念する人もいるという。

高度な知能と、強い忍耐力、そして人間を見る目を持つ。それが教師に求められること。
教師の質で、子どもたちは大きく影響を受ける。日本の教師の質は、もっと上げられるべきである。今の日本の教師達には幻滅を感じさせる人間が多い。他の世界の多くの人間達を見て来れば来るほど、それは明らかなこととして目に映る。

また、各市町村での採用において、縁故関係が大きな関わりをもつことは避けるべきだ。その時の教育委員会の人間や校長の発言権の大きさに驚かされる。まさに、独裁政治のよう。
こういった恐ろしい状態を無くすには、国レベルで採用し、各市町村に振り分けることがいいように思う。縁故関係の採用が続く限り、本当に志の高い素晴らしい人間を失うことになるだろうから。

日本には、教師の能力を裁定する専門家が存在しないこと。それは、おかしな状態ではないだろうか。



その人間を見抜く材料というものは、けっこうあるものだ。食生活はどうしているか、飲酒や煙草はどうか、他者と自分とどちらをより優先的に考えることが多いか、空腹時の状態はどうか、飲酒したときにどのように変化するか、歩いていて人とぶつかりそうになったときどうするか、切羽詰った時にどういう言動に出るか・・・・・などなど、あまりにも多くの判断材料は転がっている。

もし、霊学に関わっているといっても、自制心が無く、他者を振り回してばかりというのでは、むしろ霊学に関わることを断念したほうがいいだろう。それは、罪を重ねているに等しいからだ。霊学に無智でいる方が、かえってその人間には幸せなこと。

霊学というのは、ふざけた心構えでは出来ないということ。まさに、真剣勝負だからだ。

祝詞にしろ読経にしろ、一人で奏上する時と、みんなで一緒に奏上する時とどちらが気持ちよく、そして集中できるだろうか?

私は一人で奏上するのが好きだ。他の人たちと一緒だと、自分のリズムや音程、イントネーション、すべてが乱されてしまうから非常に疲れるし、気分も悪くなる。
また、自分に穢れを感じた時には、祝詞は奏上できなくなる。

そうしたら、霊界物語を読んでいて確証が得られた。そこの箇所を抜粋しよう。


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 言霊の水火の全く澄み切りあらざる神の水火を交ふる時は、宇宙に混乱を起し、修理固成の神業成り難ければ、斯く取計らひ給へるなりき。

 吾曾て四尾山に登り、数多の信徒と共に天津祝詞を奏上し、神言を宣り、七十五声の言霊の限りを尽くして奏上しけるに、山麓を隔て丶程遠き大本の事務所に明瞭に聞こえたるは、吾言霊のみにして、其他の人々の声音は混乱其極に達し、只ワアワアと聞こゆるのみなりしと、大本の役員等は吾に語りたることあり。

斯の如く濁りたる言霊を異口同音に一度に唱ふるは、反って天地の水火を乱すものなることを知るべし。

朝夕神前に唱へ奉る神言と雖も、常に信徒の濁れる声音にかき乱されて、清澄なる言霊を奏上し得ざるを以って、大本大祭の他は信徒と共に奏上する事を神に恐るヽが故に、中止し居るものなり。


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出口王仁三郎の真似をするなら完璧に真似る努力をすることだ。しかし、霊界物語をろくに読まずに、しかも自分勝手な解釈でやろうとする輩は、まさに罪深き人間であり悲しむべき人間である。

斯く言う私も、しっかり真摯に霊界物語を読むことから始めたいと思う。
posted by ミューシャ at 21:54| Comment(2) | TrackBack(1) | 神、霊 | 更新情報をチェックする