2008年03月31日

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大規模な部屋の片付けもそろそろ終焉に近づいてきた。今日は最後の砦である台所に取り掛かった。

種々様々な調味料や食材。私は以前は手の込んだ料理をよく作っていた。そう、そんな記憶を忘れていた九年間だったのだ。

平成十一年と記されたものが多く眠っていた。この土地へ来たその年のもの。
期待に胸を膨らませていた。明るい未来を築ける予定だった。確かに、あの時は希望の中に居た。

だが、それも引っ越してきた当日から不穏な空間の中へと取り込まれてしまっていたのだ。
あれから九年。いろいろなことを経験した。まったく予想だにしなかったことを。

しかし不思議なもので、あまりにも多くのことを経験したというのに、私の感性は変わっていない。あの頃よりも強くなったかも知れないが、私の感性はそのままなのだ。

だから、すべての出来事が昨日のことのようにさえ感じる。感情の荒波を鎮めて見つめられた昨日の出来事というように。

動乱の歩みの中、それでも九年目は成功で締めくくることが出来た。そして今、10年目に突入した。タロットカードでは10は運命の輪。おそらく今度は違ったサイクルの運命が待ち構えているのだろう。

私は運命に逆らおうとはしない。逆らっても逆らいきれないものだから。だから、その運命の波に上手く乗って行きたいと思う。そして、逃げずに厳然として立ち向かって行きたい。歩み続ける限り、希望という可能性は生み出され続けるものだから。
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2008年03月28日

母親たるもの

昨日寝たのが1時。今日、起きたのが5時半。睡眠時間が4時間半。家族が早く出かけるなら、それにあわせて食事を作ってあげなければならない。それが主婦の役割。家族の健康を守るのが母親の仕事。

母親たるもの、自分に甘えてはならない。
母親たるもの、自己犠牲は愛の証でなければならないし、それは当然のこと。
母親たるもの、家族のメンタル面をサポートするのは当然のこと。
母親たるもの、いつも希望に燃えていなければならない。
母親たるもの、常に無邪気でなければならない。
母親たるもの、自己利益を超越した他人への奉仕を実践するもの。
母親たるもの、常に調節の役割をしなければならない。
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価値ある霊学

来る日も来る日も大掃除。また、いつ何時どんな運命が訪れるか分からないゆえ、出来る時に出来ることをするだけ。

さすがに一昨日は体がオーバーヒートしてしまった。人間の体って華奢なんだなと。
肩が凝るのを通り越すと、鈍痛のような裂傷のようななんともいえない痛みが起こるということを知った。そして、37度4分ほどの熱がずっと続き、寒気と暑さが交互にやってくる。それから、とにかく体がだるいし、食べ物を受け付けなくなる。内臓機能が急速に衰えるんだなと。

だが、ペースダウンをすればいいものを、昨日からまたフル回転。どうも、性格的なものはどうしようもない。再びダウンした時はそれはそれで仕方がない。

まあ、今回は徹底的に片づけをしているので、思わぬところから完全に忘れ去っていたものが出てきたりしている。

ああ、そうそう、今朝は自分の部屋の窓際で片づけをしていたら、小鳥が開けてある窓の桟のところまで遊びに来た。人懐こい小鳥。可愛い声で囀っているので、私もしばし一緒にお話しを。
朝日と小鳥。素適な光景。
野生の小動物が警戒心を持たずに寄ってきてくれるときだけ、私は自分に少しだけ自信を持つことが出来る。

それで、その忘れ去っていたものの中には、かつての宗教遍歴をしたときの、ある団体の書籍やらカセット、CD、メモを取ったノートなどが残っていた。
「他見を許さず」とか「極秘」とか、そんなものが何点も・・・・。

もちろん、今回は全部処分した。

自分の歩んできた過程に後悔はしていないし、また自分にはその経験は必要なことだったと思っている。
しかし、物はいらない。ましてや、中心軸をどんどんぶれさせて行き、そして悪の手中に落ちた人間のものなど一切残す必要はない。例え中には良いことが書かれてあったとしても、その人間の向かった先が悪であるなら全てがNGなのだ。
そして、悪に向かうには、最初の動機・意志にすでに歪みがあったからだ。悪の入り込む隙があったから。純化されていない動機・意志。

そして、それらは今の私には必要ないもの。初めが悪のように見えていても最後は善なら、その人間の語ってきたことや思考過程には意味がある。
だから、善で終った人間の語った霊学にのみ価値がある。

かくいう私も先は分からない。霊学を志そうと思ったその動機・意志が本当に純化されていないなら、私の最後は悪で終るだろう。反対に純化されていたものだったなら善で終るはず。まさに賭けの様。

どんどんスリム化して行きたい。不必要なものはいらない。
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2008年03月22日

前を見つめ続ける姿

フィギュアスケートの世界選手権。昨日の女子フリーには感動とエネルギーをもらえたような気がする。

浅田真央。心身ともにあれだけの衝撃を受けたのに、その後のパーフェクトな滑り。試合直後には左足付け根付近から出血していたという。なんと強い精神力とフィギュアスケートへの愛を持っているのだろうか。
無我の境地。何か別の時空間ででも滑っていたような感じを受けた。次回のテーマは「弥勒菩薩」なんていうのも素適だななんて思わせるスケーター。それにしても、計り知れないものを持っている。

そして、中野友加里。あの気迫のある滑り。鳥肌が立った。完全に魅了された。自分にはこれといって特別な何かがあるというわけではないので、努力と根性でやって来たと本人は言うが、彼女の持つすっと立つ凛とした滑りは他の誰も持ち合わせていないものだと感じる。何度でも見たい演技。

次に、キム・ヨナ。彼女も故障だらけで痛いだろうに、演技となると張り詰めた美しさを見せる。浅田真央が弥勒菩薩の舞いなら、キム・ヨナは天女の舞いというところだろうか。

この三選手は自分に負けないし、マイナス要因があったとしても言い訳をしない。それはきっと自分を信じているからだろう。滑ることが好きで好きでたまらないからだろう。その果敢に進んでいく姿は、見ていて本当に気持ちがいいし、見る側もエネルギーをもらえる。

久々にフィギュアスケートの感想を書いたが、やっぱり素適なものは素適なのだ。だから、書きたくなる。
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2008年03月21日

梅と榊

今年のわが家の榊は元気いっぱいだ。四年選手から新一年生まで、なんとまあ春爛漫。正月用榊の梅の枝まで、御覧のとおり。



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正月用榊としては、過去に二回、花を咲かせたことがある。そして、やはり過去に一回、花を咲かせるのかなと思っていたら葉が出てきたことがあった。
今年のものは、葉のようだ。それにしても、なんか熊の手みたい・・・・・。



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これも新一年生の榊。新米なのに素晴らしい! 堅い殻?の中から脱皮しました。



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これは三年生の榊。まるで接木したように枝が伸びて葉を芽吹かせている。年月を重ねた榊は、ゆっくりゆっくりと成長していく。



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これは、新一年生の榊を二つ並べて撮ったものだ。梅の枝のある方の榊は、悲しいことに病気になるなどして葉を落としてしまっている。やはり、梅を支える為の榊なのだろうか。



偶然にも朱智神社というところを知った。とても面白いなと思ったのだが、ここは清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷し、毎年7月13日、“榊遷し”の行事を行っていたという。でも、それはいつの頃からかなくなってしまったというのだ。

榊、朱、牛頭天王・・・・・。
また、玉津島神社と津島神社。
壮大なロマン。
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新生活

子どもは希望していた高校に合格した。その後の合格者説明会及び制服や書籍等の購入やらで、何かとばたばたと忙しい日々。やっと一息つけたという気の緩みか、親の私はどっと疲れが。しかし、子どもは新たな希望に燃えている。

また、子どもの携帯には試験日終了からメールの嵐のようだ。ひっきりなしの着信音。それと共にいろいろな悲喜劇を知る。

別の高校を受験した子が不合格だったので、慰め会をして欲しいという本人からの申し出メール。
中学受験でそのままエスカレーター式に高校へ進学できるはずなのに、どういう事情なのかまだ行く高校が決まっていないという悩みメール。
また、塾の祝賀会で友人達のそれぞれのもくろみを事前に聞かされて楽しんでいたりもする。
もちろん、一緒に遊ぼうメールの数々に、入学式後にみんなで集まって、それぞれの高校の制服を着てみようなどという予定まで組んでいる。
いったい、あの子の交友関係はどこまで広いのか見当もつかない。問題はお小遣い。親は決して金のなる木ではない。自分の小遣いの中で交友を考えなさいよと。

だが、確かにあの子は頑張ったと思う。
夏休み前までは内申なんか関係ないと、人の言うことも聞かずに好き勝手なことばかりしていたが、いよいよ受験が目前に迫ってきて、しかも、今の成績では希望している高校には行けないと塾長から言われたショック。おそらく、目の前が真っ暗になったのではないだろうか。

また、姉がガリ勉というわけではなかったのに勉強が出来てトップ校へとすんなりと進んでいる状況を見ていて、自分もそれほど勉強しなくても行けるものだと思っていたというのだからめでたい人間と言わざるを得ないのだが。

でも、姉はやることはやっていた。ただ、それだけだが、そのやることをやっていなかったのが妹。だから、取り敢えず、通告を受けてからの持続力は褒めてあげたいと思う。

結局、最終的には偏差値を15近く上げることが出来た。塾長からは、内申点さえ稼いでおけば、今の実力だったらもっと上の高校に行けたのに残念だねと言われたとか。
でも、もともと彼女の場合、最初から行きたい高校は決まっていた。だから、それで良かったのだと思う。

また、それぞれの都道府県にもよるのだろうが、同じ公立でも設備投資が違うなと思った。上の子の行った高校は伝統と近代的なものが融合して、素晴らしい設備も幾つか具えられていた。
だが、下の子の高校は、県からの補助金やPTA会費からの補助で最低限必要な設備を整えるのにも四苦八苦しているようだ。全部で30校ほどの公立高校があるが、ランク的には上から5、6番目ぐらいである。

やはり、トップ校はトップ校という一つのブランドになっているのだろうか、社会的にも活躍している人間を数多く輩出してきていることや、そういったOBからの補助もあるだろうし、PTA会長もその高校出身者が代々就任してきている。そういったことが設備にも大きな影響を与えているのが現実か。

格差社会は教育現場へも否応なしに反映されている。そのことは否めないようだ。

だが、設備が多少劣っていたとしても、子ども達はそれはそれなりに逞しくなれるのだろう。綺麗な花であるよりも、雑草の様な逞しさが人間には必要なこと。
まあ、下の子の通う学校は周りの環境も良さそうなので、親としては安心している。有意義な高校生活を送って欲しいと願っている。
ただ、はみ出した事だけはやるなよ〜とハラハラ。本人曰く「生徒会の役をやって、この高校をもっと元気で明るく自由な高校に変えるんだ」などと言っているのだ。でも、あなたのいう自由は、おそらく・・・・、否、絶対に自由すぎる自由・・・・・。
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2008年03月16日

太陽光

かつて、藤ノ木古墳の被葬者は誰かということに意識が向いていたとき、偶然にも埋葬品の展示があり、なんと被葬者の骨まで目にすることとなってしまった。
また、今回は、最後の見納めとする為に藤ノ木古墳の写真を撮ってきた。

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現在、工事中。
二億円だっただろうか、ちょっとうろ覚えだが、かなり多額なお金をかけて藤ノ木古墳の展示場を作るという案が進行中だという事を聞いたことがある。

それにしても、周りは田畑と住宅。一時期は、それこそこの古墳を遊び場としていた子ども達は多かったのだろう。知らぬとはいえ、ある意味、被葬者への侮辱行為かな。

また、以前は陰鬱な印象だった古墳も、今は明るく感じる。不思議なものだ。こういうのを、きっと、日の目を見るというのだろうか。
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2008年03月10日

神の御手

地球の様々な姿の中に神の姿が見える。神の心が見える。神の愛が見える。

なんと荘厳な姿、なんと純朴な姿、なんと美しい心なのかと。

私はその中に溶け込みたくなる。抱かれたくなる。

神の愛が大愛だということが、わかる。わかるのだ。

瞬間に凝縮された美。そのなんと緊迫した崇高さなのだろうか。
一瞬の変り行く姿に、どれほど多くの意志が込められているのだろう。

例えば、降り続く雨の舞いが手を休めた時、清涼な霧が辺りを多い、その隙間から柔らかな金色の光が降り注ぐ。その幻想的な光景に見惚れ、思考する。

私は生きながらにして天国を見れることの幸せを、つくづく思うのである。
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安心立命

この一年を振り返って思う。全く予期せぬ環境の中へと放り込まれ、他の人たちがして来たようにように、ただ仕事をこなすということだけに留めることもできた。

だが私はその杜撰な体制を目の前にして黙っていることは出来なかった。まず、形を整えなければと。そして、後任者のためにマニュアルも作り上げなければならないと思った。それと同時に、意義あることも成功させなければならないと。

全くの公としての生き方だった。自分のことなど構っている暇はない。後ろを向いている暇はない。限られた時の中でやれることをやらなければならないと。

そして最後はとんでもない難題が降りかかり、私はスパークしたのだが。

だが、そんな歩みをしていると、中には私の足を引っ張ろうとする輩も出てくる。その心の動きは手に取るように分かるのだが、敢えて私は何もしなかった。

昨日のブログで、スウェーデンボルグの『悪霊から身を守るためには、「心を正しくし、行いを正しくする」という一語に尽きる。』という言葉を紹介したが、これはまさにその通りなのだ。

足を引っ張ろうとする輩には、それをやろうとすること全てが、その人自身に帰された。結局は、自分が大変な思いをする状況を作り上げただけなのだった。

私はそんな状態を見ていて思った。善霊は人間が善なる心で正しい行いをしている時は、それこそ全身全霊で守ってくれるものだなと。

この一年間で学んだこと。それは正しく生きるなら、いつでも安心していてよいということ。神に委ねる平穏な気持ち。安心立命。
posted by ミューシャ at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

純化〜天の理

先日買ってきたスウェーデンボルグの本を読み終えた。面白いもので、今は理解出来る。実感できる。納得できる。そういうことが多々あった。

例えば、私はブログの中でも教育について書くことが多い。特に、教育者の質を問題にしている。

スウェーデンボルグは、霊界では子どもを教育する専門の霊がいて、そういう霊は善霊の中でもとくに高級な霊だという。

霊界でも現界でも同じ。だからこそ、人間にとって教育が最重要課題となるのだ。
まず、教師の質。それを向上させなければ始らない。

また、子どもに危害を加える者には、霊界ではとくに厳しい刑罰が課されているという。その刑罰を受けた悪霊は、それ以降危害を加える能力を失ってしまうほど凄まじい刑罰のようだ。

この世でもその罪の重さは同じこと。弱い立場の子どもに危害を加えることは決して許せるものではない。現実界の法律が甘くても、その罪は重い。

教師の生徒へのいじめ。これは、まさに恐ろしいこと。また、えこひいきによる差別。これも残虐な行為。

教師も親も、その立場は重要なものだと真摯に受け止め、歩まねばならない。

また、善霊と信頼関係を築きたいなら、真摯に純化への道を歩まねばならない。

スウェーデンボルグは次のように語っている。要約抜粋してみる。

『霊は善霊、悪霊を問わず、人間の中に自分と似た性質を見出すとうれしがるという基本的な性質がある。その人間の中に、もともと善があればそれを発見して善霊はうれしがり、、一層その人間に対する力を強める。逆に悪霊は悪を見出せば一層力を強める。だから、悪霊から身を守るためには、「心を正しくし、行いを正しくする」という一語に尽きる。』

また、彼は高いレベルの霊に次の質問をした。
「天国では何もしないでのんびり暮らせるのが楽しみか」

高いレベルの霊は答える。
「そんな怠情な生活には何の喜びもない。それでは喜びも消えてしまい、生は嫌悪すべきものになってしまう」

私は、この点にも頷ける。娯楽に耽ったり、酒を呑んだりして、なんら向上出来ない時間を費やすことの虚しさ。
人は言うかも知れない。酒を呑めば気晴らしが出来る、コミュニケーションを取るには必要不可欠だなどと。
だが、それは言い訳にすぎない。本当に霊学の道を歩む人間なら、実のある、秩序ある生活の中に生きているはず。そう、生きている。

スウェデンボルグは言う。霊の世界は「天の理」によってつくられた世界で、その「天の理」をどれだけそれぞれの霊が認識し、理解し、それを自分の中に受け入れているかによって、いろいろなレベルの国が作られている。そして、霊の生活の目的とは「天の理」にどれだけ近づき、どれだけ霊的人格を完成させるかという一点にしぼられていると。

また、霊界には絶対的な秩序があり、その秩序は根本的には「天の理」によってつくられて運営されているとも語る。

霊界も現実界も同じ。ただ、霊界は同じレベルの霊たちで作られる集団であるのに対し、現実界では様々な人間達が共存している世界。
だからこそ、そのなかで「天の理」に叶った秩序をどれだけ自分の体のなかに染み込ませることが出来るか、それが霊学の道を歩む人間のしなければならないことなのだ。

天界では止むことのない純化、いってみれば新たな創造が常に続けられているというのだから。
posted by ミューシャ at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2008年03月08日

公の腐敗

刑務所の看守や医師などによる受刑者への暴行が多発している。

看護士による患者へのいじめも多発している。ヘルパーの老人への虐待も多発している。

教師による子どもたちへのいじめも多い。そして、教師同士のいじめも多く、職場内でのいじめも多い。

そのほとんどが弱い者いじめ。自分の立場を利用したいじめや暴行。その権力がなければ、ただの弱くくだらない人間。そういう人間だからこそ、いじめなどという低俗な行為を平気でするのだ。一人じゃ何も出来ない人間だからこその証。

たまに役所関係に出向くと、うんざりする。あの覇気のなさ、たらたらした雰囲気。ミスがあれば言い訳の連続。
公務員改革は絶対に必要なこと。国家の根本をなす公務員が、あのような状態では国は衰退する。それは当然のこと。
安全を保障された人間の哀しい姿。上司には意見を言うことも逆らうことも出来ない。ただ、時の過ぎ行くままに流されているだけ。

そして、その発端は学校教育にある。小学校からの基本的な教育がきちんとなされていないからだ。子どもを導く教師の質が低いからだ。

優秀な教師の育成は必要不可欠なこと。人間的にも能力的にも優秀な教師には、どれほど高い給与を払っても惜しいということはない。

子どもたちの育成には、実際に関わる時間の多い大人達の影響が大きいのだから。

現代は、教師も親も言い逃ればかり。やれ教師がすべて悪い、やれ親が悪いと責任転嫁合戦。どっともどっち。
だから、友人達から良い評価をされている子どもにきちんと育てた親と、生徒達から信頼されている教師の意見をよく聞くべきだと思う。

子ども達は教師達の顔色を伺っている。教師達のご機嫌を損ねないように気を使っている。
教師達は、教師というものの持つ力を悪用する馬鹿が多い。えこひいきというものをする教師は馬鹿の象徴。馬鹿が教壇に立つのは、まさに滑稽としか言いようがない。

人間だから好き嫌いはあって当然。しかし、教師という職業を選んだからには、すべての生徒に対して平等な精神をつように努力をして当たり前なのだ。そして、人の嫌がることは率先して、積極的にやるのが当たり前。教師なのだから。そんな当然のことすら出来ない教師は、馬鹿の骨頂。

すべての学校を一斉に改革というのは難しいこと。だから、せめて、どこかモデル校というものを作って、少しずつでも高めて行って欲しいと願う。

そして、ペアレントモンスターという怪物を生じさせたのも、今までの学校教育が生んでしまったこと。そのことに気付くべきだ。
また、ペアレントモンスターを無くすのは、学校とPTAの共同作業。PTAが弱体化していたり、腐敗していたのでは学校は片翼の鳥なのだ。
posted by ミューシャ at 12:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2008年03月06日

霊の粒子

気がつけば、もう3月6日。あまりにも慌しい日々の中、なんと固定資産税を払うのをすっかり忘れていて、急いで役場の窓口へ。
これも面白いもので、ぼーっとしていた時に、急にはっと思い出したのだ。固定資産税のこの字も忘れていたので、その時の焦りようったら、ははは・・・・。でも、これもきっと霊界からのフォローだなと。

今日の夕方、久しぶりに書店に立ち寄ってみた。そして、今村光一がスウェデンボルグの霊界著述から最重要ポイントを纏めた「完全版 スウェデンボルグの霊界からの手記」という本を買ってきた。

その後、夕刊を読んでいて驚いた。8歳のときのヘレ・ケラーとサリバン女子の写った写真が見つかったという記事が、写真と共に掲載されていたのだ。

そう、ヘレン・ケラーにとってスウェデンボルグの書は、まさに光そのものだったのだから。

その写真を見る限りでは、決して三重苦などには見えない。まさに、何か偉大な力で守られているかのよう。
そしてサリバン女子の真剣な眼差し。彼女の忍耐と知性と愛に支えれられていたヘレン。

時は過ぎ去り、そして過去のものとなっていても、写真からあふれ出すエネルギーは生き続けている。その時の、霊子は今も尚躍動し続けている。




霊界物語第七十八巻に入った。戦いを前にした朝香比女の胸中。今は、その心の動き、気持ちに同調出来る。

朝香比女は、面白い、愉快だと言う。そして、嵐の前の静けさとでも言うのだろうか、落ち着き払い、心に波風一つ立たない。

私の今回の戦いも同じ質の思いだった。自分の利己的な戦いではなく、まったくの公的な戦い。そして、相手をやっつけようとするものではなく、憎くもない。むしろ、そのことによって相手が傷つくかも知れないということに心は痛んでいた。

だが、間違った方向に流れているものを、正しい流れに導かなければならない。ただ、それだけなのだ。

万全の準備。正しいという確信。物事を正す楽しみ。
その時が来るのが待ち遠しかった。逸る気持ちを抑え、そして愉快で愉快で笑みがこぼれていた。

朝香比女と女男四柱の神々の言葉の音読。独特な雰囲気の中、神々の意志や感情を垣間見れたような感覚を覚えた。



ふと、思い出した物語があった。若草物語。登場人物は四人姉妹だが、私は三姉妹。その末っ子が私。なぜか、この物語が好きでよく読んでいた記憶がある。まさに、幻想曲への誘い。
posted by ミューシャ at 20:42| Comment(4) | TrackBack(1) | | 更新情報をチェックする