2008年04月29日

心を開け放つということ

下の子は私の血を受け継いだのか、ギターをやりたくて、エレキギターにしようか、アコースティックギターにしようかと悩んでいた。

私も高校へ入ってすぐにエレキを買った。そして、独学。その経験から、アコギの方を勧めていたのだが、やっぱりエレキを購入してしまった。

さてさて買ったはいいものの、チューニングの仕方から梃子摺っている。挙句の果てに購入3日目で弦を切る。馬鹿者〜!

買ってきたばかりの時、「どんなのを買ってきたの?見せて。」という私の言葉に、「勝手に触らないで、汚れる。いいから、あっちへ行って。」と、なんとまあ、ぞんざいなものの言い方。

が、その言葉を既に忘れてしまったかのように頼ってくる。分からなくなると「プロに聞かなくては」と聞こえよがしに喚いている。それで、仕方がないわねと行くと、「あれ、お母さん、プロだっけ?自分はプロって言ったんだけど。」と。だから、「あ、そ。」と自分の仕事へ戻ろうとすると「いいから教えて。」と。本当にゲンキンすぎる・・・・。

かと言って、私も上手くはないし、ましてや結婚してからというもの遠ざかっていたこと。
過去の記憶を思い出しながら初歩的なことを教える。

また、今日は一緒にエレキを買った子が家に来て練習。違う高校へ進学した子だが、家が近いので気軽に行き来できる。
母子家庭の子だが、最初に家に遊びに来たのは2年ほど前だっただろうか。おやつを出したとき、かなり遠慮をしてなかなか食べようとしなかった。

この町の母子家庭の子の傾向は、他人から何かしてもらうことを拒絶する。拒絶するというより、親にそのように強く言われているような感じだ。
だから、母子家庭の親も他人が何か親切なことや手助けをしてあげようとすることを跳ね除けようとする。

なぜなら、この町では片親の子と遊ぶなと言う親が多いからだ。最初、夫婦揃っている親達からそのことを聞いたときには大変驚いた。なぜ、そのようなことを言うのか私には理解できない。ただ、偏見と差別意識、そしてくだらない優越意識を持つ土地柄のようだということは分かる。

だが、私の子ども達は二人とも、そのような偏見で友人を選ばない。どんな家庭環境の子とでも気が合えば付き合ってきている。

だから、母子家庭の親でも、最初の頑なまでに拒否していた態度が次第に変わって行くのを何度も経験してきている。
私もまた、相手が大変だと分かっていても、向こうから申し出てきてくれることには適度に甘えてお願いしたりもしてきた。ギブ・アンド・テイク。そういう関係がお互い気が楽なことだからだ。子を思う親の心。

それで、話は戻るが、その下の子の友人。今では、明るく「ありがとうございまーす。いただきまーす。わー、嬉しい。」とすぐに素直に受け入れてくれるようになった。

今日は学校が終ってから来ることが分かっていたのだが、ちょうど夕食時でお腹も空いている時間。その子の夕食事情も私は知っている。かといって、これは適度にしなければならないこと。相手が負担に思わない程度に。

だから、大き目の肉じゃが風味のコロッケを作ってわが子とその子とに一個ずつ、「出来立てのあつあつのコロッケだから熱いうちに食べてね。」とさりげなく出す。

「とても、美味しかったです。ありがとうございました。」と、その子はいつも明るく礼儀正しく帰って行く。

何事もさりげなく、ということが大切。その子も、わが子のようにかわいいのだから。

こちらが心を開け放てば、向こうもそれに答えてくれる。
posted by ミューシャ at 00:44| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年04月27日

傍観者

傍観者ほど勝手な者はない。

なるべく関わりたくないと、見て見ぬ振りをする者ほど嫌な者はない。

言いたい放題、あっちでもこっちでも評論家のオンパレード。

人の命について、やれ死刑だ、死刑は当然だと目に見えない殺人を行い続ける。

そして、そういう人間達に限って、被害者や被害者家族が笑って暮らすことを白い目で見る。差別感情を持つ。時には、あなた方にも何らかの非があったのだろうと冷酷無非な言葉を平気で投げつけたりもする。
何にも分かっちゃいないのに。



「心から本当に悔い改めた人間を、法というものが残虐にもその命を奪う。そういうことによって命の尊さを人々は考える。」

その考えは、とても恐ろしく、そしてとても悲しい。悔い改めることへの脱力感、無意味さをもたらす。改心しても、どんな贖いをしても許されない。それが人間社会というものなのだろうか。

戦場で味方を殺した兵士が白旗を掲げ、手を上げて降伏して来ているのに、無情にも打ち殺す。あなたは味方を殺したのだから当然のことだと言って。

「人間」は、ただの「物」なのだろうか?

そしてまた、私も死刑反対論者としての評論家にすぎないのなのだろう。
だが、もし裁判員制度で裁判員に選ばれたら、断固として死刑に反対するだろう。如何なるものの命でも守られるのが人間社会だと思うから。そして、本心から悔い改めるということが最も大切なことなのだから。それが、犠牲者への最大の供養。

元少年は不幸な生い立ち、あまりにも壮絶な酷い環境の中で生きてきて、人を殺め、そして九年という長い間ずっと死を突きつけられてきた。その上での死刑判決。ああ、無情。
posted by ミューシャ at 23:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

死刑のもたらす影響

原田正治氏。彼は弟を殺され、そしてその犯人は死刑となった。

だが、原田氏は死刑廃止を訴え続けている。

被告の為に「今は死刑を望まない」と書いた上申書を最高裁に郵送し、法務省には何度も死刑停止の嘆願書を出し、当時の高村法務大臣には直接会って上申書を渡している。

しかし、それから数ヵ月後、死刑は執行された。

原田氏の言葉は重く、そして人間として素晴らしい。彼は暗夜の中の光を知り得た人なのだと思った。

        ↓

http://www.jinken.ne.jp/other/harada
posted by ミューシャ at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月26日

本当の気持ち

やはり、本音を書こう。

人を殺したら死刑になって当然だというその考え方は間違っている。

人を殺害するという行為は決して許されることではない。あまりにも残虐なこと。

殺したら殺されて当然だという考え方は、まさに「目には目を歯には歯を」というハンムラビ法典の復活を彷彿させる。

また、死に対して死ぬことを突きつける法律は、命の尊厳を守ることに反逆する思考。

法治国家であるから、また死刑という刑法が存在するから犯罪者の命を奪って当然だと叫ぶ姿は、本当に正しいのだろうか?
法という名の元の殺人行為のように、私の目には映る。

私憤を晴らす。被害者家族の心情の救済はとても大切なこと。しなければならないこと。しかし、死刑は、それを越えた次元。私憤を晴らす為に存在するかのように見える。

ふと、思った。深い思慮と、深い叡智と、深い人間愛の中に生き、そしてあまりにも惨い迫害を受け続けてきたホピ達は、死刑制度をどのように捉えているのであろうかと。
果たして命に対して命で償えと声を上げるだろうか。

今回の事件は、弁護団の戦略ミスのマイナス要因や、世論の高まり、それに対してびくびくしている裁く側のマイナス要因などの全ての負の要素が元少年一人だけに向けられた、あまりにも不条理な判決。

私は、今回の事件で、世の中の弱さや矛盾、歪みというものを感じざるを得ないのである。

元少年への死刑判決は、あまりにも不当な求刑。私は、死刑判決が撤回されることを祈って止まない。

そして、如何なる理由にせよ、法という名の元に死刑という命を奪う行為があってはならないと思う。
人間は神ではない。神から授かった命を、人間が聖人君子の顔をして奪うことをしてはならない。

また、犯罪に対して厳罰化したところで何も変わらない。厳罰化は犯罪に対して然したる抑止力はないのだから。むしろ、死刑というものは、人々の脳裏に命を軽んじる傾向を植えつけてしまう。そう、まるで命が物か何かのように。

私の目には死刑と叫ぶ人間達が、まるで心を失った鬼のように映るのだ。
posted by ミューシャ at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2008年04月25日

人として〜光市事件に思う

光市の事件は、目を向ければ向けるほど、考えれば考えるほどに胸が痛くなる。

被告の元少年は、首吊り自殺をした母の遺体の処理から掃除まで全てを一人で父親にさせられたという。
その時の悲しみや苦しみ、やるせなさ、怒り、絶望・・・・。張り裂けそうな心。それは想像を絶する思い。
こんな酷いことがあっていいものだろうか。

罪として社会では認められない残虐な行為。だから、罰も与えられない。
だが、人を殺せば罪として、それに対して罰を与えることが出来る。

元少年は、自分の生い立ちをなかなか弁護団に語ろうとしなかったという。刑を軽減してもらいたいのだったら最初から言うだろう。それを言わなかったのは、彼には普通に損得を考える能力がなかったということでもあるのではないだろうか。
また、そういう状況の中で生きて来なければならなかった人間の精神状態を、普通の人と同じように考えるのはおかしいのではないだろうか。

そして、彼は安心というものの中に生きたことがない。人として生まれてきたのに、安心できる場所がどこにもなかったのだ。

いったい、彼の人生とはなんだったのだろうか。苦しむ為に生まれ、人を殺し、そして自分も刑法というもので命を奪われる。

私は思う。彼の犯した罪は重い。とても重く軽蔑すべき行為。決して許すことは出来ないこと。
しかし、それでも、ほんの一時でいいから、安心の中で、愛されるということを知ってほしいと願う。人として生まれてきたのだもの。人としての感情を知って欲しいと。

被害者のご主人は戦った。あらゆる種類の苦しみと戦い、世論を動かし、制度の改革へと道を開いた。そして、今、求めてきた死刑を勝ち取った。
だが、それと同時に、元少年を救えるのも彼しかいないのではないだろうか。とても酷な言い方かも知れない。しかし、そう思うのだ。

私は、やはり、それでも元少年のことを思うと涙が溢れ出る。それはきっと、子どもを持つ母だからかも知れない。不条理なことで子ども達を傷付けられ、それに対して戦ってきた母親だからかも知れない。
許すということが、最終的には自分も子ども達も救うということ知っているからかも知れない。

そして、刑法とは、犯した罪に対して無表情に機械的に判決を下すという事が正しいとは思えないのだ。
posted by ミューシャ at 14:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月24日

人魚の涙

霊界物語八十一巻の音読を終えた。
だが、八幡書店から出版されているものは、「山河草木 入蒙記」という特別篇が最後に入っているので、それを読んで終了ということになるかと思われる。

今は、八十一巻を読み終えての感想を書こうと思う。

日本は世界の雛型と言われ、日本列島は五大陸と相応しているとのことだが、特に八十巻、八十一巻では、元来言われている場所とは違うところとも重なり合い、何か幾つもの空間がオーバーラップしているかのような不思議な感覚を覚えた。

それと同時に、大変な動力を要した最後の二巻でもあった。まさに、自分の霊・体の立て直しを図っているかのようでもあり、試されているようでもあった。
音読することにより音霊が飛び出て、実体となり、それが再び自分に返って来る。それを、どう受け止め、どう対処するか。

美なるものも醜なるものも、善なるものも悪なるものも全て己の血の中に内包されている。それをどのように配分させ、抑え、昇華させて行くかということへの直面。

そんな中で八十一巻では指針が次々と示されていく。第五章では、イドムのアヅミ王が「エールス王も主の神の貴の御子なりたゞに許せよ 吾御霊神に離れし罪なれば エールス王を怨むに及ばじ」と、己の罪を認めて改心し、侵略者のサールのエールス王を許している。

また、第十六章では、アヅミ王の娘チンリウが、乳母とその娘センリウの邪悪な奸計により殺されるところだったが、琴平別の化身の亀に救われて次のように歌っている。

「アララギの深き奸計は憎けれど 吾は忘れむ今日を限りに たのみなき人の心を覚りけり 乳母アララギの為せし仕業に センリウは吾身に全くなりすまし 后となりてゑらぎ居るらむ 外国の仇の王の妻となる センリウ姫は憐れなりけり 吾霊魂身体共に汚さるヽ 真際を救ひし彼なりけり かく思へばアララギとても憎まれじ 吾操をば守りたる彼 暫くの栄華の夢を結ばむと 仇に従ふ心の憐れさ 吾は又心の弱きそのまヽに 仇に身魂をまかさむとせし ありがたし神の恵の深くして 吾が身体は汚さずありけり (略)」 

人魚達を苦しめ泣かせて流させた涙は真珠となり、その真珠によって美や長寿を得てきたイドム国の国津神達。

私は、思った。人魚は純化された存在。人魚達の犠牲によって得られ保たれてきたもの。人魚の涙がもたらしたもの。その大きさを、その厳格なる力の恐ろしさを、希望を。

また、第十七章では次のようなことが書かれてある。
「悪人の栄えて善人の亡ぶべき例は神代にあらじと思ふ」と歌う、アララギ等の奸計を王に知らせようとしてかえって怒りに触れ島流しにされたサール国の朝月の確信、信念。 

そして最後は敵国などということは関係なく、超越し、正義に基づく正しき人々が集い主の神を奉り祈願して国政を布いていく。

奇しくも、光市母子殺害事件判決によって、世の中は混沌とした中から何らかの道しるべを模索しようとし始めている。

朝香比売の火による洗礼、顕津男の神の国魂生み。霊と体共に回転し、大きな聖なる渦を巻き起こす。そして、それは、やっと始ったばかりなのだ。

PS:私の誕生石は真珠。しかし、かつては真珠が嫌いだった。真珠を美しいとは思えなかった。しかし、ある時期から真珠が好きになった。誕生石でよかったと思えるようになった。それは、霊界物語に出会うよりずいぶん前のことではあったが。
また、外国人は真珠の豊富な日本を羨ましがっているという話を聞いたことがある。真珠を欲しがると。
posted by ミューシャ at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

命と法

光市の母子殺害事件による加害者への判決が出された。死刑。
最高裁が差し戻した段階で死刑は決まっていたようなもの。

残虐非道な犯罪。その犯罪行為は決して許せられるものではない。犯した犯罪に対して死を持って償うという姿勢はあって当たり前のこと。

しかし、実際は、死刑という判決が妥当だったのだろうか。今までの他の数々の裁判例から見て妥当なものだったのだろうか。元少年Aの心理状態から妥当だったのだろうか。

私には分からない。弁護団が変わったとたんに供述を覆している。元少年A自身の言葉が全く見えないのだ。弁護団の戦略に振り回された、そんな印象を受ける。

日常的に父親から暴力を振るわれ、中学一年の時には母親が自殺している。どちらの親からも見捨てられた中で、おそらく、彼はどんどん壊れていったのだろう。

また、何度か面会に訪れた記者に彼が話していた自分の心境。

今回の事件は、元少年Aの言葉が見えない。そして、この死刑判決はもうすぐ始る裁判員制度を睨んだものともいえる。

また、被害者のご主人のされてきたことは、日本にとってあまりにも有意義なこと、必要なことを開拓し、そしてもたらしてきた。
閉鎖的だった裁判というものが開かれ、被害者の気持ちや立場を尊重するという当たり前のことがされていなかったことを当たり前のこととした。

裁判員制度はよいことだと思う。しかし、そのやり方があまりにもお粗末過ぎる。
初公判から3日間で判決まで出すという異常なやり方。そして、極刑に値する裁判だけに参加が限られているということ。

こんなやり方の裁判員制度では、正しい判断をすることなど出来やしない。検察側の思う壺。

やり方をもっと熟慮してから施行に踏み切るべきなのだ。
posted by ミューシャ at 23:25| Comment(4) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2008年04月21日

勇者

下の子の高校ではこの時期、個人懇談が行われているらしい。子どもはその時の様子をこう語っていた。

「先生ったら私の事を聞くのではなく、クラスの様子ばかり聞いてくるのだもの。だから、今の状況を詳しく教えてあげたけれど、そこで先生がどんなクラスにしたい?と聞いたので、私は中学3年の時のようにクラス一丸となって団結して盛り上がるクラスがいいと答えたんだ。そうしたら先生、それはあなた次第ね。頑張ってね。だって。」

確かに下の子については過去、例の二人の教師を除いたほとんどの教師達から言われてきたこと。クラスの雰囲気を作り上げる子であり、クラスに居るのと居ないとでは全然違う、と。

ただ、このようなものを持った子でも、担任の教師が最悪な人間だと全てが壊される。だから、教師とは能力のある人間、人格的に認められるべき人間でなければならないのだ。

今こうしている時でも、人として最低の人間性の教師が何人も教壇に立っているのかと思うとぞっとする。

子どもは例の二人の教師のせいで、女の教師が苦手となっていた。女教師の前では決して自分を出せない子となっていた。
だから、高校入学の時も最初から女の先生だったら嫌だなと言っていたのだ。

しかし、担任も副担任も女教師であった。だが、これも神の計らいだろうか、二人とも何か腹に一物を持つという事の無い性格の良さそうな人間性。一人はおっとりとしてやさしく、もう一人はサバサバとはっきりした誰にでも公平に接する人。
だから、子どもは言っていた。「最初は女の先生で嫌だなと思ったけれど、二人ともいい性格の先生でよかった。特に、性格のサバサバしている先生の方は、ほんと好きだね。だから、率先してお手伝いもしているけど。」

過去の二人の最低の女教師に出会う前の状態に戻った。戻ったが、チック症まで発症させた辛い経験の中で、決して逃げることを微塵も考えなかったあの子は賢さを備えて戻ったのだ。
もう、彼女を誰も止められない。
posted by ミューシャ at 12:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

忍耐

上の子に「体が持たないから、もう、バイトを辞めたら。」と、再三言っているのだが、それに対しては次のように答えている。

「バイトは唯一のストレス解消になっている。バイトをしている時は本当に幸せ。だって、こんなに難しく大変な勉強をしなくていい一時を過ごすことが出来るのだもの。」

大学と資格取得のための専門学校の両立。しかも、どちらも家から遠い。その中において、休みなど全く無い状態。それでも、僅かに空いている時間に週一回だけ塾の講師のバイトを入れている。

また、彼女は専門学校に通うまでは、塾のバイトがしんどいと思っていたと言う。しかし、今は、難易度の高い勉強漬けで見解が変化したようだ。

そして、睡眠時間は4時間ほどしか取れないという日々。
そんな姉を見て、下の子は感心していた。
「お姉ちゃん、あんなにも勉強に忙しいのに、食事の時とか、勉強している時とかでも話しかけると普通に話しをするもんね。すごいよね。自分だったら、イライラして怒るけど。」と。

男女同権と言われるようになった現代ではあるが、それでも就職においては女性の方が不利なようだ。
だから、ある意味、同じ条件の仕事に於いても就職活動では男性以上の能力とか、資格取得ということが必要になってくる。
また、女性の場合、出産や育児などで休職しなければならないこともある訳で、そういった諸々のことを考えた人生設計では、やはり何らかの資格を得ておいた方がいい。

子ども達がこれからどういう人生を送るのかは分からない。社会制度も刻々と変わって行っている。
その中で、仕事に生きるのか、結婚して家庭に入るのか、それとも両立してやって行くのか。
ただ、如何なる場合でも困らないような人生の指針は根底に持っていて欲しいと願っている。

砂の上に築かれた城は脆いが、磐石の上に建てられた城は簡単には崩れない。

また、その要素の一つとしては夫婦のあり方も重要となってくる。父母が簡単に離婚してしまうとか、娯楽や嗜好品に時間を費やすことが多いとか、お互いに尊重することなく罵りあうとか、まさに譲ることもせず、自分の意見だけを我儘に主張し続けていたのでは、子どもに忍耐というものを学ばせることは出来ないのではないだろうか。

忍耐。それは、とても重要なこと。

親は常に反省の連続。そう、親といえども、子どもに劣ることは多々あるのだから。
己のマイナス要因を把握し、改善し、子どもと共に成長するものなのだ。子どもは決して親の所有物ではない。

私は最近、思う。
しっかり子どもを育て上げること。社会にとって有益な人間となるように育て上げること。それが、親として子どもを授かった故の仕事だと。

離婚は、まさに仕事を放棄する行為。ただ、暴力や、どちらかの親が育児放棄をするなどのどうしてもやむを得ない理由の離婚は別だが。

結婚とは安易にするものではなく覚悟の上ですること。だから、忍耐と開拓は必要不可欠なことで、安易な離婚は認められるものではない。
そして、子どもにとっては、両親に離婚して欲しくないもの。どちらかの親と離れ離れに暮らすのは、とても悲しく辛いこと。

また、最近、子どもの友人の親がもうすぐ離婚するという話が耳に入ってきた。
本当に、よく聞く。離婚の話を。子どもたちの心より、親は自分の心の方が大切なのだろうか。
私には理解できないし、したくもない。子どもを持つ親となったからには、親は常に子どもの犠牲になる覚悟でいるのが当たり前のことだと思っているからだ。

また、時間ほど妙薬は無い。その時を我慢して発展的な努力をし続けるなら、かならず反目しあっていた伴侶と理解し合える時が来るはず。
だって、人間なのだから。心を持つ人間なのだから。まだ出来るはずの努力もしないで離婚するのは、とても卑怯なこと。子どもまで犠牲にする行為。それは、酷く悲しいこと。
posted by ミューシャ at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月19日

人間と野獣

最近、子どもたちのネットでの現状を調べた結果が公表されていた。学校裏サイトや2チャンネル、また個人のブログなどで使われている人を傷付ける言葉の多さが注目されていた。

きもい、うざい、死ねなどという言葉の羅列。本来なら、決して、やたらと人に対して言うべき言葉ではない。

学校教育と家庭教育の低下。道徳心も敬愛心も人間愛も責任感も、すべて人として大切なことなのに、それが失われつつある。

人を誹謗中傷する酷い言葉の発生は、まさに野獣が吠えているのと同等のように感じる。なぜなら、相手を傷つけ殺そうとしていることに変わりがないものだから。そして、それだけの知能しかないと証明しているのと一緒。

人間には繊細で豊かな心が備わっているもの。そういった心の能力の欠如でしかない。実に、悲しむべき状態である。

もし、そのような言葉を、子どもを持つ親が言っていたとしたらどうだろうか。こんな恐ろしいことはないのではないだろうか。
子どもを教え導き、そしてしっかりとした人間性に形成出来るようにサポートすべき親が自ら他者を傷つける言葉を発していたとしたら・・・。

他者を平気で傷付けるような親には、決して立派な子育ては出来ない。そのような精神は伝播する。そして、家族の負なるカルマを形成していく。

自分を律すること、自分を高める努力をすること、徳のある人間になろうと常に吾が身を振り返り、そして行動すること。

子どもは親の背を見て育つ。だからこそ、親は自らを正していなければならない。

精神と心という内面と共に、礼節という外面に現れるものを一致させてこそ、初めて親と呼ばれるに相応しい存在となれるのではないだろうか。

中国では七代かけて優秀な人材を生み出そうとするということを聞いたことがあるが、それは確かに正しいのだと思う。
家族の負なるカルマを解消して行き、そして善きカルマを作り出していく。それは、基本。

シュタイナーは、カルマには過去世からのものの他に、未来の新たな事をなす為に作られるカルマもあると述べている。
善き事をなす為に、現世で貯金をしておくもの。

吾々人間は、個人のカルマ、家族のカルマ、民族のカルマ、世界のカルマという全てのカルマに関わっている。
だからこそ、個人と家族のカルマぐらいきちんとしておきたいものである。そして、出来れば貯金をしたいものである。

PS:もし私が他者を傷付ける醜い暴言を吐いたとしたら、その時、思うだろう。家族に対して申し訳ない、と。そして、そんな自分を許すことが出来ないだろうし、恥ずかしくてしょうがないだろう。

そして、霊学に携わる者として、神に顔向け出来ないほどの羞恥心を感じるし、ものすごく穢れたものとして自分を見つめるだろう。それはまた、激しい慟哭をももたらす。
posted by ミューシャ at 14:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2008年04月16日

以心伝心

子どもを迎えに車で駅まで出かけた。その時、目の前を、何本もの太い丸太を積んだ大型トラックが走っていた。
私は思わず「与作は木を切る〜♪ ヘイヘイホー ヘイヘイホー♪」と口ずさんでいた。

そしてその後、車に乗り込んできた子どもがいきなり「ヘイヘイホー♪ ヘイヘイホー♪」と歌いだしたのだ。

このあまりにも偶然の同調に驚いた。私は演歌というものをほとんど口ずさむ事はない。また、子どもも「与作」という歌を知らない。今回も、「なんとなく ヘイヘイホ〜 というフレーズが出てきた」というだけのことだったという。

そういえば、以前にもあの子が「知らない与作のフレーズ」をなんとなく口ずさんだことが一度だけあった。

それにしても想念の世界の繋がりの速さに驚くばかりである。
posted by ミューシャ at 22:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

からくり

霊界物語第八十巻を読み終えたが、その最後の方に口述されている朝香比売が朝霧比売の所へ行く場面で、私は若草山の山焼きの光景へと誘われた。

そして、若草山を調べてみた。すると、若草山は火山であったとのことだ。
というのは、若草山の南斜面から鈴石と呼ばれる石が採取され、その鈴石は火山地方に特有の石だという。
またこの石は、石の中には砂とか水が入っているそうで、振るとからからと音がするという。これは火山の爆発のときに溶岩が砂や水蒸気を巻きこんで、そのまま冷えて固まったものだとのことだ。

ただ、面白いことに、霊界物語を読んでいると、異なってはいるが同質の空間が縦に重なり合っているようなものを感じる。そして、それが互いに反響し合い、一つになる。

また、「いざさらば」という言葉がよく出てくるが、これも今になってふと感じたのだが、タイ語の「パイ レーオ」というニュアンスと似ているなとも思った。
「パイ レーオ」を直訳すれば、「行く すでに」というもの。まあ、「いってきます」という意味で使われる言葉であるが。
日本語の「いってきます」というものより、タイ語の「パイ レーオ」の方が「霊界物語の「いざさらば」に非常に合っているように感じられる。


DSC00577.JPG

第八十巻を読み終えたら、朝からの曇り空がにわかに明るくなってきた。その時、空と雲の色が同じような白色をしていることに、なぜか綺麗だなと思って撮った。
posted by ミューシャ at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2008年04月15日

聖火

今、霊界物語八十巻を読んでいる最中だが、第十三章からの火炎山の描写は、現在の聖火リレーとも重なる。

中国のチベット問題に対して、世界規模で抗議運動や妨害が起きているが、それが聖火というものに集中している。その状況がやけに霊界物語と重なるのだ。
posted by ミューシャ at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

いじめ〜無能な人間

高校生活をスタートさせた下の子が言っていた。

「最初は仲の良いグループでも、そのうち誰か一人を除け者にしようとし始めるんだよね。そういうところが女子って嫌なんだよね。でも、自分は基本的にはいじめをすることは嫌いだからそういうことはしないけれどね。それに、同級生なら自分の方がみんなより上に立っているから抑えられる自信はある。」

また、上の子はいじめについて次のように述べていた。

「いじめなんかしてなんの得になるのかしら。時間の無駄でしかない。」

二人ともこの町では大変な思いをさせられたが、だからといってそういった弱い人間達と同レベルには成り下がらなかったし、悪影響も受けてはいない。
まさに唯我独尊というところだろうか。

いじめをするということは、確かに時間の無駄でしかない。客観的に見ても、それがどのように自分の利益となっているのだろうか。
ただ、醜悪で邪悪なものを増殖させ、自分の霊体を取り返しのつかないほど汚しているだけ。霊体を汚すことの恐ろしさや悲しさを知らないというあまりにも無智な状態。

大人であろうと子どもであろうと、無智ということは憐れなこと。今は職場でもいじめがあるという。そして、教師同士のいじめや、教師の生徒へのいじめ等。

大人がいじめを行うなら、それはまさに職務怠慢なこと。自分に与えられた仕事が出来ないということの証明でもある。

アメリカでは太っている人は昇進できないということをしばしば耳にするが、それならば、いじめに時間を割いている人間は仕事をいい加減にしか出来ない能力の無い人間ということになる。それはクビにしてもいいし、社会的立場を認めなくてもいいのではないだろうか。

いじめをおこなう人間は時間を大切に出来ない無能な人間。そんな人間に仕事を任せてはいけない。
posted by ミューシャ at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月12日

夢と希望

子どもも入学式から数日たったが、相変わらず目をキラキラさせてテンションは高い。

入学式当日、登校する時も下校する時も友人達と行動するからと親とは別行動。そして、新入生入退場の時に顔を見ただけで、その後はクラスで。
そして、クラスで見たとき、既に主という顔になって周りの子達と話していたので、てっきり知っている子達と一緒のクラスになったのかと思った。だが、それは違っていた。

それどころか、同じクラスには誰も知っている子は居ず、また、同じ学校の子同士でグループが出来ていたらしいが、入学式当日からクラスのほとんどの子とメールアドレスの交換をし、しかもクラスの雰囲気を作ってしまい、元気なクラスという評判になっているという。
また、入学式当日だというのに、仲良くなった子5、6人を引き連れて他のクラス探検に出かけ、そこでも新たな友達を作ったとのこと。

その翌日は翌日で、廊下でワイワイとおしゃべりをしていたら、楽しそうだから仲間に入れてと、よそのクラスの子たちが声をかけてきたり、部活見学では、あるスポーツ部の女子の先輩達にめちゃ可愛いと気に入られて、頭をくしゃくしゃと撫でまくられたとか。

また、とある男子の部活見学では、かっこいい先輩がいたので目がハートになって話していたらマネージャーの女子から睨みつけられて怖かったとか・・・・。

はたまた、学校全体での対面式では元気よく挨拶をしたのは自分だけだったので、めちゃくちゃ目立ってしまい、上級生からは爆笑が起こるし、校長先生からは感動したと言って褒められるしと・・・・。(ハァー 溜息)

ただ、子どもを見ていて思うのが、相変わらず情報収集の豊富さだ。入学前から携帯サイトで、同校の上級生や同級生たちとメールのやりとり。通学し始めたらし始めたで、またその情報量は凄まじいものがある。

そして、最初のうちというのは本性を隠している子もいるのだが、そういう子たちの情報ももたらされるようだ。
ただ、そういう時、あの子は決まって言う。「いろんなタイプの人間は見てきたから、ややこしい子が居ても、それをどう扱ったらいいかは分かっている。」と。

また、あの子の面白いところは、綺麗な顔立ちや可愛い顔立ちの女子にはすぐ声をかけて友達になるところ。本人曰く「見ていて癒される。」とのこと。ただ、その後で性格的に嫌だと思うとすぐに離れてもしまうが。

そして、男子の場合は声のいい人が第一条件だという。目を瞑っていれば顔なんか関係ない。声さえよければそれでいいと。そういうわりには、イケメン、イケメンと騒ぐ。だが、彼女の言うイケメンは、本当にイケメン?と、私は思うのだが・・・・・。

まあ、なんやかんやと楽しい学校生活をスタートさせたようだ。目下の悩みと言ったら、このままだとリーダー的存在になってしまうということらしい。
なんでも、リーダーではなく、ナンバー2の立場であれやこれやと言いたいことを言って、リーダーがそれに対してまとめて動いてくれるのがいいというのだが。また、今まではそういう状態でやってきたとのことだが、今度ばかりはリーダーになってくれそうな人がいないと。さあ、これは困った。自分がリーダー的存在になったら大変だと。
しかし、それも人生。一回りも二回りも成長して欲しいし、その糧となるのだったら頑張りなさいよと。

また、上の子の方も人生で始めての壁に突き当たっているようだ。大学の他に資格取得のための専門学校へ通い始めたのだが、みんなより2ヶ月ほど遅れてのスタートとなってしまった。他のコースを選んでも良かったのだが、勧められたのがそのコースだったのだ。
また、大学三回生、四回生が多い中で子どもは二回生。遅れをとっている分、解説を読めば理解できるが、すぐに回答を出せない。こんな屈辱感、初めて味わうと。

確かに、過去から現在の大学でも出来る子として優等生的立場だった。劣等感とか屈辱感というのは経験したことがなかったのだろう。
それが、専門学校ではスタートが遅れているからと言っても、本人としては納得できないのかも知れない。
夏休みまで耐えるしかない、夏休みの間に遅れを取り戻す。そのようなつもりみたいだ。おそらく、人生の中で始めて真剣に勉学に取り組んでいるように見える。

また資格試験も、一発合格できる割合が受験者の一割。不合格だった人の三分の一は、その難しさにリタイヤするという。

親の私としては、わが子が壁にぶち当たるのを喜ばしいことと思っている。自分より優れた人は沢山居る。社会に出れば出たで、そのことをもっと実感するだろう。だから、一度は血の滲むような努力をしなさいよと。

何はともあれ、みんな体が資本。その健康を司るのが私の仕事。家族それぞれの夢と希望の為に、今しばらく、私もがんばらなくては。
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2008年04月09日

道法礼節

私は「道法礼節」ということを大変重んじている。それは、家族間であっても厳しく線を引くもの。むしろ、家族だからこその厳しさでもあるのかも知れない。

子ども達には昔からよく言われてきた。「お母さんは厳しすぎる。よそのお母さん達は、もっといい加減だよ。」と。

中間層の多くの人たちを対象として考えるのではなく、どこに出ても恥ずかしくない立ち居振る舞いが出来て当然の人間に育て上げなければならないというのが私の母親としての役目だと思っている。

もちろん、その根底には愛という根が無ければならないものでもある。

人の目に触れるところでも、人の目が無いところでも同じように自身を律することの出来る人間。それは当たり前のこと。

他人という存在は、もし、その人間が著しく道法礼節に欠けた人間性であるなら、簡単に切ったり切られたりする。それが大人の社会。
そして、そういう人間とは、おそらく二度と向き合うことも無い。

甘えた感情やものの考え方で、子ども達を社会に送り出したくはない。基本となる姿勢の教育は保護者がすることなのだ。そして、それは一石二鳥という簡単なものでもない。幼い頃からの教育の積み重ねなのである。
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2008年04月07日

総決算

総決算という意味でこの土地で経験してきたことを書いてみよう。

まず、転校手続きの為に小学校の事務室を訪れた。もちろん事前に電話をしてアポイントを入れてからだが。
事務員の女性が対応したが、諸費用のための銀行振り込みの用紙が見当たらず、しばらく探したが無いので見本としてあったものを消しゴムで消されて渡された。

また、制服であった為、それを販売している店を教えてもらったが、行ってみるとすでに半年前に閉店になっていた。
そのときの事務員はその後、役場へ転任になった。

次の事務員の時には、9月初め、運動会の練習が連日のようにあったのだが、ある日、水筒を忘れたので朝そうそう事務員に渡してくれるように頼んだ。
しかし、渡されたのが午後2時ぐらいの、すでに授業が終る頃だった。

また、学校で体調が悪くなり吐いてしまった為、迎えに来るようにとの連絡を受けて行ってみると、保健室で、背もたれも無い堅い椅子に座らされていた。
本人は、その状態がとても苦しかったと述べていた。

所属している地区の自治会長は古くから地元に住んでいる公務員だった。しかし、町会議員になりたがっていた。やることなすこと理論性の無い力ずくのやり方。
教育委員会とも癒着していたが、そのうち詐欺横領罪で逮捕。また、そんな自治会長の取り巻き連中もわんさと居た。その不条理な言動には再三呆れ帰っていたが。

そして、元校長の息子の嫁は子ども会の役員をしていた折には、祭りの時に貰ったご祝儀を着服。最後までしらをきりとおし、しかも居直っていた。

新築して最初の年、マンションの理事長職に就きたい人間が自分から管理会社にやりたいと申し出て理事長になったが、組合費の杜撰な使用と帳簿の改竄をやって問題となった。しかし、再三の事情説明への出席要求に対して欠席を押し通し、かえって、その事実を知らない人間を上手く取り込んで裏ルートの繋がりを強化した。また、その人間はこの土地の地元の人間。
そして去年、再びその人間が動き出して、マンションの中は完全に分裂。
私は今ではどちらにつく気もない。ただ、自分のライフスタイルを押し通すだけ。そういう意味では、どちらにも敵対している人間はいない。

先日の記事の中に書いた小学校の酷い女教師。自分のクラスの子だけかわいがって、他のクラスの子には冷たいということは子ども達の中では有名な話だったが、中学校の結婚適齢期をすでに過ぎたある女教師も同じ。まあ、本人は、未だにもてて結婚の申し込みはたくさんあると生徒達に言っているらしいのだが。
彼女の場合は、男の子を可愛がって女の子には冷たいというもの。また、やはりそれでも、自分の受け持ちのクラスや部活の出来のいい女の子は可愛がるが、その他の子には歴然としたえこひいきをする。これも、子どもたちの中では有名な話。

例えば、プリントを配る時、男の子や可愛がっている女の子には手渡しで渡すが、その他の女の子にはもらおうと生徒が手を出しているにも関わらず、机の上に素早く投げるように置いていくらしい。
また、嫌いな子に対しては、その存在が居なかったかのように平気で無視して配らずに通り過ぎることもしているという。
彼女は英語の教師だが、発音の悪さを指摘する生徒はけっこういて、また、同時通訳が出来ないらしく、そういう時は調子よく逃げるということも聞いている。

ただ、生徒達は、そんな状況の中、完全に諦めて冷め切ってしまっている。そういう先生だから仕方がないと。とりあえず、卒業までの我慢だから当たり障り無く行けばいいと。

また、ある男性教師はセクハラ問題で注意を受けたが、その後の行き先は知的障害児のクラスの受け持ち。
どうやら、この土地の教育方針は、何か問題がある教師を、すぐに知的障害児の指導に回すというやり方のようだ。とは言っても、問題が噴出しないように、良い教師と組ませるようでもあるが。

まあ、他にもいろいろとあるが、あまり書くと個人が特定されるおそれがあるのでこのぐらいにしておこう。

何もこんな土地のこんな学校の為に真剣に取り組まなくてもよいのだが、なんの因果か、去年一年はより良くする為に動き回った。自分でも思う。そこまでやらなくてもいいものなにと。また、人からも言われた。そこまでやる必要ないのにと。適当にやっておけばいいのにと。
そう、すべては適当に。それが大方の人間たちの考えることなのだ。自分さえよければそれでいいとね。

何もかもが汚濁しきっている土地。しかし、世間体を取り繕うのが上手い土地柄。本当に恐ろしいところ。

ただ、私は気高く生きたい。人間として生まれたからには輝くべきなのだ。不純物だらけの汚れた人間にはなりたくない。透明体になること。それが目標。

泥の中に投げ込まれて泥だらけになったままなんて、みっともない。挙句の果てに泥そのものになったら、それこそお終い。

泥にまみれても、白い翼は誰にも汚させない。決して。
posted by ミューシャ at 11:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

自由な人間

下の子のことについて補足しておくが、彼女はどんな状況下でも決して逃げようとはしなかった。否、逃げることなど微塵も考えなかったのだ。
むしろ学校を休むことなど決してしたくはない子だったのである。三年生の時の担任の陰湿ないじめ、4年生の時の劣悪なるクラスであっても、他のクラスには友人達が大勢いた。
辛いことや苦しいことよりも、希望のある方向を見続けていた。

また、上の子も5年生の時にこの土地へ引っ越してきたのだが集団登下校では苦労させられた。グループには6年生がいない為にわが子がリーダーとなっていたが、誰一人としてルールを守らない状況。平気で車での送迎など日常茶飯事。集合時間は守らず、遅刻するにも欠席するにも連絡をしない親ばかり。そのくせ、いつまで待っても来ないから先へ行ったら行ったで文句を言う自分勝手な親たち。まさに地獄の住人たちの集まりだった。私は何度となく話し合いを行い、まるで亀の様なスピードだったが少しずつ改善されてはいったのだが。

そんな状況下の中でもわが子は、誰か行く人がいたら可哀想だから、自分がリーダーである以上は責任を持ってやると言って、いつも集合時間の5分前には行っているようにしていた。だが、毎朝出かけるときは腹痛。

私は学校に改善を求めた。しかし、校長も教頭も「集団登下校に関しては、ルールが守られていなくても、また、たとえその中でいじめが起きていても学校側としては一切口を挟むことが出来ないから地区で解決してくれ」というものだった。

その後、こういった酷い学校の改革が行われて教頭は外へ出されたが、校長は定年退職後は教育委員会へ天下りとなった。
こういった責任能力も改善能力もない人間が教育委員会で仕事をしているわけである。学校とそこの市町村の教育委員会とはぐるである。隠蔽が日常茶飯事に行われるのは当然の系図。

まあ、こんな酷い土地や環境の中でも、私の二人の子ども達は逃げることは一切考えなかった。先へ進むことを優先させ、自分を信じていた。

また、上の子のもつ雰囲気というものは特別なものがあるようでもある。クラスのほとんどの子からいじめられている子でも、わが子はその子に非がないと見て取れば友人として普通に接していた。そして、そのようにいじめられている子がわが子の傍に居る時は誰も手出しをしてこないという様子であったようだ。だから、担任の教師に会うといつも感謝の言葉を頂いていた。

だから、大の大人が不平不満ばかりつらつら言うのを見ると情けなくなるし、自分が善なる行為もしないのに他者のあら探しばかりをしている人を見ると、そんな人間と関わるのは時間の無駄だと思ってしまうのである。私は外的衝動に囚われない毅然とした気高い態度の人を評価する。

シュタイナーの語る自由な人間ということについて抜粋してみよう。


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個人がそれぞれ個的な観察を通して他の存在を知るときにのみ、個性が尊重される。私と私の隣人との相違は、互いに異なる精神世界を所有していることにあるのではなく、共通の理念界の中から私の隣人が私と異なる直感内容を受け取る、という点にある。

私の隣人はその人自身の直感内容を生かそうとし、私は私自身のそれを生かそうとする。ふたりとも理念から糧を得ようとして、物質的にせよ、精神的にせよ、外的な衝動には従おうとしないならば、私たちふたりは同じ努力、同じ意図の中で互いに出会うことができるであろう。

道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。

行為への愛において生きること、他人の意志を理解しつつ生かすこと、これが自由な人間の基本命題である。そのような人が認める「あるべき態度」とは、その「あるべき態度」が直感を通して意志と結びつくような場合に限られる。個々の場合にどのように意志するのかを告げるのは、その人の理念能力なのである。

(略)


自由な人は隣人に同意を求めたりしない。同意することは人間の本性にとって当然だと思って、同意を期待するのである。このことは、特定の外的制度の問題ではなく、心構えや魂の在り方の問題である。自分が評価する隣人と魂の在り方を通して共に生きる人は、人間の尊厳を最もよく理解するのである。

(略)


人間は道徳の為に存在するのではなく、人間によって道徳行為は存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提である。


―――――――――――――




他者から自分の意にそぐわないことに対して強制的に同意を求められたとき人は反発する。
それが正しいものであるなら、いつかは理解しあえるもの。にも関わらずやっきになって同意を求めてくる人間は自由人ではないのだ。本当の自由がなんであるのか知らないのである。そして、人間の尊厳を理解していない為に、人を大切に出来ないのである。


本当に自由な人間。それは、まさに天使の姿のヴィジョンとなって目に見えるようだ。
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2008年04月03日

祈りの清泉

シュタイナーの「精神科学から見た死後の生」より抜粋。


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比較的最近まで。生者と死者とのあいだのいきいきとした交流が、今日よりずっと活発だったことが見出されます。生者と死者との交流は、次第に困難になってきました。中世のキリスト教徒、何百年か昔のキリスト教徒は、祈るとき、先祖や亡くなった知人のことを思ったものです。当時は、祈る人の感情が今日よりもずっと力強いものであり、死者の心魂へと突き進んでいったのです。

昔は祈りのなかに、死者のことを思う人々から、暖かい愛の息吹が流れてくるのを、死者たちの心魂は、容易に感じることができました。

今日のような外的なことばかりが重要視される文化では、死者はそのような愛の息吹を感じられなくなっています。今日では、死者たちは生者から断絶されています。地上に生きている者たちの心魂のなかで何が生じているのかを見るのが、死者たちには大変困難になっています。

これは人類の進化に原因があることなのですが、生者と死者との生き生きとした交流を、再び可能にしなくてはなりません。

かつては、完全に意識的なものではなかったとしても、死者とのいきいきとした関係が、人間の心魂には自然に備わっていました。

かなり以前から、人間には透視的なまなざしがなくなっていたので、死者との関係を完全に意識することはできませんでした。しかし太古には、生きている者が透視的なまなざしを死者に向けることができ、精神世界における死者の人生を追っていけました。

かつては、死者といきいきと交流できることが、人間の心魂にとって自然なことだったのです。

今日、私たちの心魂は高次の世界、精神世界についての思惟と理念を身に付けることによって、再び死者といきいきと交流できる力を見出すことができます。精神科学をとおして生者と死者とのあいだに再び橋を架けるのが、人智学(アントロポゾフィー)的な生活の実践的な課題の一つなのです。


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祈りとは何か? 祈りというものの本質は何か? それをシュタイナーの見解は明快に教えてくれる。

自分の外的なことへの祈りは欲望から発せられている。それは祈りとは呼べない。むしろ神を冒涜し、死者を冒涜した行為。

祈りとは死者との交流をし続けるための愛の行為。死者を敬い、生きとし生けるものとして死者に対し礼節を尽くして向かうべき行為。
だからこそ神へと繋がることが出来るのだ。

死者を蔑ろにしていたなら、死者を生ける霊人として対せなかったなら、それは当然神へと繋がらない。途中の糸を切ってしまったのと同じことだから。
蜘蛛の糸。そんな話しがあるが、自分のことだけしか考えられずに他の死者の霊を見捨てたなら、神からの糸は失われる。教訓的物語。

この世は多重構造。物質だけの世界で成り立ってはいない。そして霊人というのは、常に肉体を持つ吾々と共に生きたいと願っている。
また愛の息吹は、大きな流れを生み出す可能性を秘めた希望となるのだ。
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2008年04月02日

私が教育問題に入れ込む理由

私の下の子について書こうと思う。あの子は小学校2年生まで周りからなんと言われていたかというと、教師達からは「明るくて友達も多く思いやりもあって本当に良いお子さんです。何も言うことはありません。お母さんが本当に上手に育てられてきたのですね。」と。
友達の母親達からは「明るくてはきはきしていて元気なお子さんですね。」と。
そして、事実、男女問わずに多くの友人達がいた。友達と遊ばない日が珍しいほどに。

だが、それも小学校3年生の時の担任の女教師によって一変させられてしまった。自己顕示欲の強い女性だった。だから、子どもたちの調べ学習の発表も全部自分で手がけてしまう為に他のクラスの中でも群を抜いて素晴らしいものとなっていた。
だから、その事実を知らない多くの保護者達からは優秀な教師だと思われていた。

わが子はなんでもくったくなく思ったことを話す子であった。だから、ご褒美を目の前にチラつかせて内緒よと生徒達に口止めをしていたことが漏れてしまう。そんなことが気に触ったのだろう。彼女による陰湿ないじめが始った。その詳細は省こう。ただ、人によったら自殺に追い込まれたか、もしくはその教師が殺害されてもおかしくないものだったとだけ言っておこう。

そして、年度末に生徒達に好きな子嫌いな子の名前を書かせた。4年生のクラス。それは、わが子にとって酷いものだった。好きな子全員と引き離され孤立させられた。しかも、問題児ばかり集めたクラス。子どもにとっては苦手な子ばかり。付き合ったことのないタイプばかり。保護者達においても、私にとっては異世界の人が多かった。親子共に唖然としたクラス。

今から一年ほど前だっただろうか。子どもが始めて口にした。4年生の時、クラスの女の子達からいじめられていたと。男の子にもてていたし、いい子ぶっていると思われて、それが女の子達には気に入らなかったようだったと。

そして、自分の性格を無理やり変えようと努力して変えたと。だから今はよく言われるらしい。「小学校の頃はあんなに女の子らしかったのに、今は全然違うね。別人みたいだ。」と。

その後の5年生、6年生は普通のクラスだったし、担任もその教師ではなかった。だから、後にも先にもその3年と4年の時だけの悪夢。
また、その教師は実体を暴露されて指導を受けることとなったのだが。

だが4年生時からは学校自体に問題があるということで県教育委員会が乗り出した年でもあった。そして、選ばれてきたという教師が4年生の時のクラス担任になったが、その女教師は力で押さえつけようとする典型的なタイプだった。だから一見、成果を上げているかのように錯覚させるもの。世間知らずの教育者達にはそれを見抜くことは到底出来ないものだったのだろう。

だから、問題児ばかり集められたクラスの内情はより見えないところで陰湿なことが行われるようになった。リストカットの蔓延。カッターナイフを平気で友達に突きつける行為。

そんな中、まだ幼かった吾が子は無理やり性格を変えようと自分で努力をして変えた。問題児ばかりのクラスの中では普通に良い子では受け入れられない。良い子はいじめの対象になる。
そして、そんな状況を作ったのは教師なのだ。その教師を殺人者と呼んでもいいだろう。残虐な殺人愛好家。教師という仮面を被り、その特権を我が物顔に己の欲望のために使う。本当に恐ろしいこと。

しかし、今、あの子はいろいろなタイプの子達から慕われている。良い子から問題児や登校拒否の子、良家の子から家庭環境の複雑な子、勉強の出来る子から出来ない子まで。それはそれは幅の広い層だ。なんといっても中学校ではカゲ番的な存在だったのだから。
また、親達からも気に入られることが多いようだ。あの子だったらお泊りに来てもらってもいいよとか、あの子と一緒なら許可するとか、子どもの友人達の中ではあの子だけがかわいいとか。

だが、小学校の頃の傷はいえてはいないようだ。今回、家の中の片づけをしていて小学校の頃のものが出てきたが、すかさず「気持ち悪いから捨てて」と言う。だから、あの子の小学時代のものは全て家の中から消えた。だが、中学校のものの多くは大切にとってあるのだが。

自分で努力して手に入れた宝。輝ける中学校の3年間。凝縮された幸せ。

だからこそ、私は教育のことには熱が入る。教師達の実態、教育委員会の実体。それは、あまりにも酷いものだから。

人殺し。大人が、しかも教師という職業についている人間が自分の感情をコントロール出来ずに幼い子ども達を平気で傷付けている。こんなおぞましいことが許されていいものだろうか。そんな低俗な人間が教職についてはならない。そのためには教師の質を上げる為の制度及び資格の改正が必要なのだ。

最近、ペアレントモンスターと呼ばれる保護者が問題になっているが、それも今までの教育現場に原因の根源があるのだ。
今までの教育の在り方、教師の質に問題があったからこそその結果として生じてきていること。
特権を前面に出し弱い立場の子ども達を教職についている大人達が力で押さえつけ、そして不条理なことを行ってきたことの結果。力こそすべてという感覚や意識が植えつけられたとしても当然のことなのだ。

教育現場を変えることを最優先しなければ、日本は獣的人間を量産してしまうだろ。子どものことを本当に考えた教育。それが大切なこと。

また、私は中学校ではPTAの役員の仕事をしたが、そこから見えた教師達の姿はというと、多くの教師の中で本当に熱くなれるのはごく数人しか居なかったというものだった。あとの教師達は極力面倒なことには関わりたくないという姿勢。転任を希望せずにそこの古株になっている教師の中には公然とえこひいきをし、また自分勝手な要求でルールを変えてしまう人間も居た。

これが学校現場の実体なのだ。臭いものには蓋をしろという隠蔽体質。世間体を取り繕うのが上手いのが教育現場。

ただ、素晴らしい教師も居る。そのことも、私の目は直に見てきた。だが、その数はごくごく少数ではあるが。そして、そういう素晴らしい教師というのは、教師になろうとしたその最初の動機が既に意義あるものでもあった。だからこその教育。

ちなみに、私の結婚式の仲人は校長先生をされていた人であった。
posted by ミューシャ at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする