2008年05月29日

白い木

広大で上質の黒の空間

そこに存在する美しき星々

まるで天女たちがその羽衣をたなびかせて舞っているかのよう

宇宙

私はすべてを遮断してその中に入り込む

そこのなんと崇高で、そして落ち着く空間なのだろうかと

全ての穢れを落とし

そして無になる

そこに宇宙があって、

その中に私だけが居る

一人だけの美しき孤独の空間

まるで故郷に戻ったような安らぎ

極上の甘美
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2008年05月28日

経済

シュタイナーの「職業とカルマ」という本の冒頭部分に、西川隆範の訳者緒言が書かれてあるが、非常に興味深いので抜粋したい。


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シュタイナーは40代のとき、「賃金とは何か」について語っています。労働に対して賃金が支払われると、労働者は自分を商品として資本家に売っていることになり、労働者は人間としての尊厳を傷つけられるので、労働と賃金を切り離す必要がある、とシュタイナーは考えました。

まず「私の仕事はどのように人の役に立つか」という観点に立つとよい、と彼は言います。そして、「人のために働くことと収入を得ることとは、まったく別個のことがらだ。労働力は商品ではない。労働に対して金銭が支払われると、労働者の人間的尊厳が損なわれる。雇い主は労働に感謝して、労働者の生活のために金銭を贈るのである」と語っています。

柳宗悦は、日本の芸術家は「どれほどの値で買ってくれと主張したことがない。・・・・店の方では、こんな謙遜深い作家のものは、なるべく有利に作者に酬いるようにすべきだと考え、店の利益を出来るだけ少なくして、作家たちに酬いる。それで双方の権利の主張の妥協点できまるのではなく、双方の無慾と感謝との接触点できまる」と、書いています(「東洋的解決」)。
高く売りたい作り手と、安く買いたい店が妥協するという「西洋での解決」よりも「東洋の解決の方が、もっと互いの幸福を約束する」というのです。

(略)


シュタイナーは50代になって、社会を〈経済・政治・文化〉に三分説する必要を説きました。その三つは別々の原理で動いており、どれかが他の領域に干渉すると社会という生きものは病む。

経済領域では、知識と経験の豊かな生産者と流通・販売業者と消費者で構成されるアソシエーションが需要を見極めて適度の生産をもたらし、公正価格を形成するという案を彼は出しています。三者で協議すれば、自分の利益の主張ではなく、社会の維持。発展という観点から話し合いがなされるというのです。

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今の社会の仕組みは、政治家が経済も文化も手中に収めてしまっている。そこに、あらゆる種類の欲望が渦巻き、混沌としたものを生じさせている。まさに、シュタイナーが語るように、「病んでいる」のだ。

そういえば出口王仁三郎も、未来において経済の在り方は大きく変るし、そうならなければならないというようなことを言っていたと記憶しているが、人間というものを尊厳と愛で見つめた場合、何をどうしたら良いのか、自ずと明確に分かってくるのではないだろうか。

現代人は、あまりにも多くのことを我慢している。それは、もうどうにもならないという諦めと、こうあるべきだという固定観念を植え付けられてしまっているからこそ生じる見えない我慢。

心の底から人間生活をしたいものである。
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2008年05月27日

人智学=教育学

シュタイナーの翻訳者である高橋巌は、「十四歳からのシュタイナー教育」の解説の中で、次のように述べている。


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自由ヴァルドルフ学校設立のころ、シュタイナーは、「社会問題の中でもっとも緊急の課題は教育問題であり、教育問題の中でもっとも緊急な課題は教師の養成である」と語ったが、現在のわれわれは、HIVに対するときとまったく同じように、この緊急の課題に対して、解決すべき方策を何ももたずにいる。本書は、76年後のそのようなわれわれに対して、もっとも根本的な、多分唯一有効な提言を行っている。わが国の各地で活躍している「人類進化の前衛たち」に、この呼び声がとどくことを、願わずにいられない。

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この書が日本で出版されたのは1997年のことである。そして、やっと教育改革の声が上がってきたが、なかなか進展してはいない。

教育改革を最重要課題にしていた前安倍総理は、くだらない個人の利益しか考えていない政治家達と、目先のことしか考えられない一部の国民達に追い詰められ辞任。再び火が燃えるのはいつのことだろうか。

人智学は一つの教育学だと、シュタイナーは言う。
「人智学は、教育実践の領分まで及ぶときこそ、本来のありようを示すのです。教育学としての人智学を通して他の人の魂の中に働きかけるもの、それはまさに、自分の魂の真相から取り出してきたものなのです。すべての人の中にあるどんな可能性も、教育的に方向づけることができますが、そのためにも、人智学による人間認識は教育学になるのです。」
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頭が・・・。

「十四歳からのシュタイナー教育」に、また偏頭痛についての記述があった。


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子どもを退屈させてはいけません。そうしたならば、興味をもたすことができないので。融けない塩分が作られ、それが体内の方々に送りこまれる結果、あとになっていろいろな代謝系疾患を生じさせてしまうのです。特に少女に対して、このことが留意されなければなりません。

偏頭痛は、喜びがもてるように物語ることなく、一方的に学習内容を子どもの頭にたたきこもうとしたことの結果です。偏頭痛は融けない小さなとげがいっぱい生じた結果なのです。

――――ー―――――――――――



も、も、もういいです・・・・・・・・・。何も語りたくありません。振り返れば頷けることのオンパレード。

そして、私自身のことはもはやどうでもいいが、自分の子育てにおいてはどうであっただろうかと振り返る。

まあまあ合格か。が、上の子に対しては強制的な学習もさせてしまった。しかし、本人はそれほど嫌がる様子はなかったのと、自発的な取り組みが多かったことは救いか。そのバランスは果たしてどうでるかだが。

そういえば、シュタイナーは歴史などの暗記の必要な事柄においては、子どもが感情を働かせて耳を傾け、取り組むことが大切だと述べている。

そして、この歴史ということについて、上の子の態度で驚いたことがある。歴史上の人物や起きた事柄に対して非常に感情移入をしていることであった。
それは高校へ行って更に強いものとなった。また、たまたまその時の歴史の教師が県下でも有名な人物であったということも幸いしていたのだろう。
また、私自身、史実とは違う内容の話しを子どもにしていたが、その時に必ず「私のいうことは学校で習うこととは違っているからごちゃ混ぜにしないようにね。」と。しかし、「成績が落ちたらどうするの。」と笑いながら言うものの、子どもは面白がって聞いていた。
トップ校の、しかも学年で10番以内にいつも入っているということで、常に成績優秀者として名前を挙げられている子であったが、ユーモアのセンスもあったせいか、まあ、それ故に私も気軽にそんな話しが出来ていたのかも知れない。

それから下の子については一筋縄で行く子ではなかった。気が向かないと強引にスルリと抜け出して、いつの間にか親を自分の思う方へ誘導していた。まあ、当然、大きな雷を落すことも度々あったが。
そういう意味では、ゴーイングマイウェイ。今でもそうだが。

とにかく、子ども達には偏頭痛持ちにはなってほしくないと願うのである。
しかし、原因が分かったなら、治す方法もあるということ。そうか、シュタイナーは治療についてもいろいろなことを語っていたな。さすが、シュタイナー!
posted by ミューシャ at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年05月26日

人間認識の形成

最近、このようなことがあった。
下の子が、あまりのことに動揺してバスを乗り間違えてしまったと言って帰ってきた。

別の高校へ進学した中学時代の同級生に駅前で会ったというのだが、その変りように酷く驚嘆したらしい。

「昨日、あそこに居る男と寝たんだ。」

指差す方向を見ると、20歳ぐらいの金髪に染めたニートの様なグループがたむろしていた。その中の一人だったという。

私も小学校の頃からその子を知っているが、最後に見た中学3年生までは素直ないい子だった。そして、親御さんも二人ともおおらかな子ども思いの人たち。

しかし問題は、共働きの為、夜の8時ぐらいまで親が帰ってこない事は度々あったようで、しかも、アダルトビデオや雑誌がすぐ見つかるようなところに置いてあったらしく、18歳以下禁止のものをすでに小学生の頃から見ていたらしい。

また、子ども思いと言っても、それが履き違えられた子ども思い。放任主義をとっていたというが、女の子だったら勉強なんかしなくてもいいし、嫌だったら高校に行かなくてもいいということを常日頃から言っていたようで、子どもが一人で夜中の1時、2時にビデオショップやコンビに行くのを許していたという。

性の乱れで傷つき、ダメージが大きいのは女の方。精神年齢は幼いのに、小学生の頃からアダルト関連のものに触れ、身体だけが成熟し、そして、この先どうなって行くのだろう。

わが子は言っていた。「今度一緒に遊ぼうと誘われたけれど、もう、まったく会話が噛みあわない。まだ卒業して二ヵ月しか経っていないのに、人って変れば変るものだね。」と。

このような意味のない放任主義に走る親もいれば、お受験に目の色を変える親もいる。
ただ、問題なのは、子どもたちの心が見えていないということ。子どもたちが人間であるということを忘れてしまっているということだ。



シュタイナーは述べる。
『教育は、人間全体を活気づけ、感情にも意志にも火をともすことができる人間認識を形成しなければなりません。』



また、ミカエル・ハウス・シュタイナー学校の教師を勤め、その後、トロントにカナダで最初のシュタイナー学校を設立したアラン・ハワードは次のように語る。

『子どもは独立した個体であり、自分の使命を果たし、自分の人生を生きるのであって、誰の「所有物」でもないのである。私たちはこのように自分たちの子どもを見、愛することを学ばなければならない。子どもが、私たちの期待を満たすかどうかは、まったく取るに足りないことである。

私たちのなすべきことは、子どもを愛し、保護し、子どもが地上でよりよい境遇に生きることができるようにすることである。

いかなる所有も許されない。両親が子どもを所有していると考えるのは、家庭生活の災いである。この考えは両親の権利という伝統的な考えに反するが、輪廻転生の観点に立てば、まず子どもの権利を考えねばならないのである。

子どもを甘やかすべきだというのではなくて、ワーズワースがいうように「人間の父」として子どもに接すべきなのである。』


『「契約」という言葉は、結婚に結びついている神聖さやロマンティックな感情を切り離すように思われるかもしれない。両親の子どもに対する社会的、そして霊的な責任は、養育、保護、教育よりもはるかに大きなものである。

最高の愛、夫婦間と子どもへのこの人生における愛だけではなく、来世へと成長してゆく愛が問題なのである。

愛は何らかの契約によって生み出されたり、保証されたりするものではない。愛は人間の霊の自由な贈り物である。しかし、両親としての責任を担うことによって、このような契約が愛という贈り物を守り、育ててゆけるのである。このような契約が喜びの土台となる。』

『私たちは自分の運命と子どもの運命をとを結びつける。私たちの意志ではなく、霊界が子どもを地上にもたらしたのである。

それゆえ、家族を形成する目的で結ばれる婚姻は神聖なものである。男と女が子どもを持ち、子どもに可能な限り好ましい環境を与えるという目的で共に暮らすときに、婚姻は成立する。』



今やっている大河ドラマの篤姫ではないが、嫁ぐということは覚悟、女の道は一本道、という言葉がけっこうしっくりくる。
自分のことを振り返っても、とにかく独身時代に思い残すことなく納得のいく生き方をした上で初めて結婚というものを視野に入れられるものだと思っていたし、そうでなければしたくはなかった。
そして、いざ、結婚。それは、まさに覚悟だった。子どもを作り家庭を築き上げること。私にとっては酷くつまらないことのように思えていた結婚。
だが、結婚は、そんな私が引き返すことを許さないものだった。先を見るしかない。だから、覚悟なくして結婚は出来ない。

不思議なもので、二人の子ども達は、そんな私の考え方と近い。

やりたい仕事がある。でも、結婚は子どもという神から預けられた尊い命を正しく育むこと。それを軸に置くことこそが、親としての生きる道。
posted by ミューシャ at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2008年05月25日

人間創造

シュタイナーは、昼間に体験したことについて次のように述べている。


「アストラル体と自我は、眠ってから目覚めるまでの間、別の世界に赴きます。そこではアストラル体と自我が昼間体験したことのすべてが、余韻をひびかせています。そこではアストラル体と自我は、はるかに霊化されており、はるかに自由な仕方で、オイリュトミーや音楽の体験を追体験しているのです。すべてをもう一度やっているのです。」


霊界物語を音読していた時、その日に読んだ箇所が夢の中で何度も繰り返されるのを体験していたのだが、なぜ霊界物語だけこのように強烈に引き起こされるのだろうかと不思議に思っていた。

「霊界物語」が「神の書」と言われる所以がこういうことにもあるのだろう。
眠っている間の追体験。

それと同時に、如何に吾々人間の目覚めている時の姿勢が大切であるかということ。
時は刻まれ続け、そして瞬間の連鎖という永久は霊体に刻まれ続ける。

創造。
posted by ミューシャ at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

最初の一歩

あいにくの天気。雨、雨、雨。雨が好きなのだーれ?龍神様?

そうね、最近、ちょっと大変な心境。だからこそ活動的に行かなければ。独立独歩。意外と昔から好きな言葉。

雨に誘われて出かけた先は長弓寺。先代旧事本紀に記されている内容に誘われた。


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本堂。萱葺きの屋根が美しい。そして、雨が似合った。




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本堂の右手前にあった鐘楼。自由に撞けたので、もちろん、ご〜うぉ〜ん、ごうぉ〜ん。とてもよく反響する鐘の音。饒速日に思いを馳せて撞いた。




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善女龍王の祠。室生寺の近くにあった竜穴神社に祀られてあった善女龍王と同じ空間を感じた。まあ、同じ善女龍王なので同じと言えば同じであって当たり前ですね。(笑)




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長弓寺境内にある伊弉諾神社。


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そこの由緒書き。御祭神に、な〜るほど。




生駒市デジタルミュージアム。
      ↓
http://www.city.ikoma.lg.jp/dm/index.php




【番外編】

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友人の見ている方向には、なんと、またまたオーブが。彼女を写した写真には他にも上に昇って行くような四つの白い柱というのか帯というのかそういう感じの尾をつけた透明感のある水色のオーブや、本堂の中央に真っ直ぐ立ち昇る白光色の太い柱などが一緒に写されていた。
だが、UPしてもよいという承諾を得られたのは、この一枚だけであった。

十一面観音。なんか、好きになりそう。やっと、親近感を覚えてきた今日この頃である。心の誠、尽くしたい。
posted by ミューシャ at 01:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2008年05月19日

本当の教育

人間にとって教育ということがどれほど重要なものであり、また希望であるかがルドルフ・シュタイナーの見解及び実践を通して理解できる。

例えば一つの例として、彼は水頭症の子どもをあずかって教育し、その後、その子は医者になった。

ある種の時代遅れの迷信好きな人は言うだろう。霊がとり憑いていたのだろうとか、祈祷やまじないで治したのだろう。また、霊能者はそういうことが出来るのだろうと。

しかし、シュタイナーはそんな迷信じみた非医学的な人間ではない。彼は述べる。一人一人を見て、その子にあった教育をしなければならないと述べるのだ。
その子の気質に合った教育をすることが大切であり、また、本当の教師とは授業や教育活動のなかで生じることだけに限らず、いろいろな面で正しく導いていくことができ、そうなって初めて子どもの肉体的な面においても、本当に健康にかつ強壮にしていくことが出来るのだと。

日本の教育現場は混沌としている。だからこそ、本当の教師の育成が最重要課題だと思う。

「オックスフォード教育講座」 ルドルフ・シュタイナー著

非常に分かり易く纏められている本である。これもまたお薦めの一品。

今の教育現場では道徳教育・人間教育ということも行われているが、この本を読むことによって、それがいかに間違ったやり方であるかも分かる。

いろいろとブログに書きたいのだが、あまりにも多すぎるので、やはりこの本を読まれることをお薦めしたい。



さてと、すでに違う書へと入っている。もちろん、シュタイナーの本であるが。

それによると、精神が成長すれば、それに伴って試練に遭遇しなければならないという法則があるとのこと。
新たな試練がもたらされるということは、それはまさに自分の成長の証だったのだ。
がんばらなくては!
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2008年05月18日

後遺症と人間性確立

シュタイナーは偏頭痛に関しても述べていた。
私は海外生活が始った時から偏頭痛が時々起きるようになった。それまでは頭痛とは無縁だったのに、いったいどうしたことだろうかと。

偏頭痛とはその痛みが進むと、まるでつわりの時のように匂いに敏感になり、少し動いただけで吐いてしまう。そして、頭の痛みは気がおかしくなりそうなほど痛い。もし、その時、簡単に死ねる薬があったなら、おそらく手を出してしまうかも知れない。

さて、その原因である。シュタイナーは述べる。


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私たちは子どもの体内に、どんな筋肉がありどんな神経があるかを、すっかり知っております。ところが、循環系がどのように筋肉系や骨格系のなかへ働きを送り込むかは知りません。

これを理解するためには、人間の構造、すなわち人間の内部の姿についての私たちの捉え方を、芸術的な捉え方に変えなければならないのです。

そして教師たるものは子どもを芸術的に、つまり教師は芸術家として、子どもを体験することができなければなりません。すなわち教師にとっては、子どものなかにあるすべてが、内面的に躍動していなければならないのです。

ここに哲学が顔を出し、こう言うかもしれません。「だがしかし、何かを認識しようとするならば、論理的でなければならない」と。まったくその通りであります。

ですがそれは、私たちが世界と相対するとき、生み出される芸術作品は論理的でなければならない、というのと同じことでありまして、世界を自分の内部に再現できるのは、芸術的な捉え方によってのみ可能なのです。

したがって私たちは、まさにこのような芸術的な把握の仕方に習熟する必要があるのでありまして、「世界は論理をとおしてのみ把握されねばならぬ」という独断を、鵜呑みしてはなりません。

教師は自分自身の感性や表象や感情を、内面的に高度に活発化するときにのみ、次のような事実を見通すことができるようになります。

「もし私が十一才になるより以前の子どもに動力学・静力学的表象をつめこむならば、これらの表象は脳のなかにたまりたまって、脳を硬化させてしまう。その結果、脳はのちに成年期を迎えてから偏頭痛を生じるようになり、さらに後年にいたってからは硬化現象を起こす。

これに反し、もし私が十一歳になる前の子どもの歴史上のできごとを、それぞれまとまった像として与えてやり、自然の中に生育する植物をイメージとして描いてやるとするならば、その表象像は、脳のなかへ入ってはいくが、しかしそれらは神経系を通過して、肉体全体のなかへと広がっていく。このような表象は全肉体と結びつき、柔らかい筋肉系と一体となる。

私は子どものなかに生じているものを、私の側からも愛情をもって育て上げていくことになるのだ。いのちのない解剖学や生理学に頼っている限り不透明な石灰塊にすぎない子どもは、このとき透明になるのだ」と。

教師自身が自分自身の感性や表象で感情を内面的に高度に活発化いたしますと、そのとき教師には、自分の前の椅子に座っているのが何者なのか、一人の子どものなかに何が起きているのかが、ありありと見えるようになります。

あれやこれやの教育学上の原理など思い出す必要はなくなり、何を子どもに対してしなければならないかを、子ども自身が語ってくれるようになるのです。

もし不適当なことを子ども対して行いますと、子どもは椅子にもたれかかってしまい注意散漫になりますし、その反対に子どもが必要としていることをいたしますと、子どもは生き生きとしてくるものであります。

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シュタイナーは教師の在り方として語っているが、それは親についても言えることなのだ。

私の父は自分の考え方・願望をそのまま頭から私に入れ込もうとしていた。さらに、彼は芸術性に欠けていた。祖母(父方)も、自分だけの思いや感情で私を押さえ込もうとしてきた。やはり、芸術性に欠けた人間であった。
情感も自由も創造性も感じられない現実的に大人が考える論理で、これはこうであるべきだと一方的に流し入れようとしていた。

しかし、母は芸術的感性の優れた人である。創造性や許容量や正義感も普通の人に比べたら格段にある人。まさに、美女と野獣。(笑)
そんな母は父のやり方について時々静止しようとしていた。「この子のような芸術肌の子にそんなことをしたら壊れてしまう。」と。

また、幼稚園の時の先生はというと、いつも眉間に皺を寄せている人で、怒ったり文句を言ったりというイメージしか残っていない。
ただ、小学校低学年の時に3年間担任だった教師は良い人間性の方であった。

そして私は、父や幼稚園の先生の前では忍耐のない落ち着きのない子であった。

だから、子どもの頃の父の教育のやり方や、幼稚園の先生のやり方が、今の偏頭痛をもたらしていたのだ。成人してから苦しめられる肉体的苦痛。

ただ、私は幼い頃から動植物を対等の命あるものとして話しかけるということをしていたし、動植物同士を会話させるということもしていた。謂わば、私の心の友人。そんな感じだった。
これについてもシュタイナーは述べている。


―――――――――――――


九歳以前の子どもの教育におきましては、人間という内面と自然という外界の間に、まだ境界が存在していないかのごとく、すべてを取り扱わなければならないのです。

このことを可能とするためには、私たちは授業をできるだけイメージ豊かに形成し、植物を人間と同じように取り扱い、植物たちをお互いに人間と同じように会話させ、太陽と月が言葉をかわすようにし、いっさいのもののなかへ、人間の持つ特性を移し入れていかなければなりません。

今日では一般に、いわゆる擬人観照法に対して極端な忌避が支配しております。しかしながら、環境世界と自分との関連において擬人観照的体験をしたことのない子どもは、後になって人間としての本質の一部に欠落が生じます。

でありますから教師は、自分自身もまた環境世界全体のなかへ、生き生きと霊と心をもって入りこんでいくことに、喜びをもっていなければなりません。そうなって初めて、子どもは自分自身の内にあるものをもちいて、教師とともに歩み進むことができるのです。

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この動植物に対しての行為は、その後ずっと今でも私の中にあたたかくやわらかな感覚を残している。
そして、こういう思いというのは、私自身の子育てにおいても、子ども達に擬人観照法を自然とよく用いることとなったのである。
また、上からの圧力によって嫌な思いをしたことは、やはり子ども達にはそうしたくないという思いから避けてきたことでもある。

私自身が傷だらけになったことは、子どもたちの成育の土台となっている。そして、今度は、子ども達はさらにより良い子育てが出来るのではないだろうか。希望への連鎖は自らの手で作り出すもの。



子ども達がここまで成長してきた今、私も、再び、一人で行動し始めようか。そう、思った今日である。
さらなるパワーアップ。来週、行ってみようかな。どこへって?それは内緒。あははははは・・・・・・・・・・・。
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2008年05月17日

真珠の心

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榊の花の蕾

過去にも一度、神棚の榊に花が咲いたことがあった

あの時は、幾つもの小さな白い花


今年は三つの蕾が出来ていた

しかし、その二つは幼くあまりにも繊細な時に、私の不注意から生命を奪ってしまった

双子の蕾を

そして、たった一つ、葉の裏側にその生命を暖めていた蕾

次第にふっくらと膨らんでいく姿に、私は女神の姿を重ねていた

真っ白な真珠の様な蕾

輝くほどの純白

どれほど美しい花が咲くのだろうかと


しかし、その生命は開くことなく、

消えた

消えた理由は、たぶん、私には分かっている

蕾が悲しんだ理由

私の心

どうしようもない
posted by ミューシャ at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2008年05月16日

表現の瞬間

シュタイナーは次のことを述べている。

「もし個人的なことを話させていただけるなら、こういうことであります。私が講演をする場合には、ふつうにいう講演とは事情が違っております。ふつうは記憶から取り出してきて話すということがよくあり、かつて学んだことや考えたことを、記憶から引き出してくることが多いのです。

超感覚的な真実を語る者は、本当は、つねに真実を内面から引き出すその瞬間に語らねばなりません。

私自身まったく同じ講演を、何十回も行うことができるといたしましても、私にとりましては、それは一度として前と同じものではありません。

別の場合でも当然同じことだ、と言われるかもしれませんが、しかし、もっと高い次元の意味においてこれは記憶が独立しているということであり、記憶の内面化の階程がたどられたときには、記憶が内面的生のなかへ移しこまれるということを示しています。」



ボブ・ディランが歌うとき、同じ歌なのに全く同じ歌ではない。彼は、その時、その瞬間に湧き出てくるままに歌う。だから、いつも「生の躍動」を感じる。そして、いつも「新鮮」であるのだ。


また、シュタイナーはこのような状態になったとき、宇宙に対しての態度そのものが、まったく独特のものと化すとも述べている。

「いわば自分自身の肉体性を失いながら、しかし、自分が宇宙のなかへ自分の生を入り込ませて行っているのを感じます。(略) またとりわけ自分以外の人間のいのちのなかへ入り込んでいくことができるようになります。他人の顔に現われるほんのわずかな表情すらが、私たちを、いわばその人の魂の生活全体のなかへ導いていき、この超感覚的認識の行われている最中には、自分が自分の外にあることを感じるのです。」


ディランが代弁者と言われるほど、人々の心を揺り動かす強い衝動をもたらす詞を作り続けられるのは、まさにシュタイナーの述べるこの状態にあるからなのだろうと思う。

しかし、ディランは精神世界の何かに没頭したというわけでも、修行というものをしたわけでもない。

彼の父が十六歳のとき、たまたま事故を起こし、火だるまになっている車を目撃して、その車の中から運転手を引きずり出し、からだに覆いかぶさって火を消したことがあるという。

両親に連れられて政治集会に出かけたときの興奮。

ウッディー・ガスリーを知って人生観が変った。

そういったもろもろの積み重ねや、そして、彼の目が見てきた様々なことが、彼の資質を目覚めさせ、成長させ、そして超感覚的な真実をキャッチ出来る代弁者のような存在にさせているのだろうと思う。

シュタイナーやディランからは、あまりにもやさしすぎる愛を感じる。ディランの詞の中には風刺的な表現もあるけれど、それでも深い確信に満ちた愛を感じるから、心に鋭く入ってくるのだ。魅了されて止まないのだ。
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2008年05月12日

言葉=霊性=行為

ルドルフ・シュタイナーは、太古の人類は「はじめに言葉ありき」と言ったと述べる。
つまり、その当時の人間は、言葉の波動の上に乗って霊性が進んでいくということに対して、生きた感情を持っていたからだと。

そして、霊性とは常に行為であると語っているのだ。

生きた感情を持てれるということ。だからこその言葉。そして、言葉は行為である。

誰かの発した言葉によって心の浮き沈みを味わうことは、誰でもが経験していること。そして、同じ言葉でも、それを言う人によって差がある。
反対に同一人物が発した言葉でも、受ける側によって差がある。


シュタイナーは、子どもは感覚器官そのものだと語る。
「おとなのそばで成長していく子どもは、教育者の持つこういうごくかすかな物質的な状態をも、模倣いたします。子どもは、おとなの表情や、おとなが不安げに話したり、不安げに感じたりする、その様子を感じとって、すっかりそれに自分を合わせてしまいます。」

このように、おとなと子ども間には、量ることのできない相互関係が生じるのだと。

「おとなが心配ごとを持っていますと、心意現象そのものが直接に外に現れることはなくても、それは肉体的な状態に影響を及ぼし、この影響が外に現れます。

模倣者である子どもは、この肉体上に現れた結果を感知し、ちょうど目が光の作用で満たされるのと同じように、自分の内部を、この知覚したものそっくりに形成するのです。(略)その子どもの全体機構をとおして、おとなの心意的な体験の肉体的な表現が、成長していきます。」

さらに、その影響がどのような重大なことを生じさせるのか例をあげての説明が続く。

「不安をもつおとなの青白い長い顔を、子どもは受けとります。しかし、心痛の心意的内容を自分の中に受け入れることは、子どもにはできません。

心痛の物質的な結果だけを、模倣するのです。その結果として、この子どもにおきましては、感覚神経中に座を占めている霊的な形成力をになう肉体上の機構が、直接に冒されることになります。

この子どもが心痛の物質的投影を知覚して、自分の内に採り入れたものをよりどころに、自分を形成いたします。

するとこの子どもは、心痛に向けて傾向づけられた肉体構造をもっことになり、これは後になって、この子どもと違った肉体機構をもつ者には何の影響も与えないような人生の印象をも、不安をもって受けとるようになるのです。」

親や教育者の在り方が、どれほど大切かということだ。
ただ子どもが欲しいから作って自分の為に育てる、出来ちゃった婚だからなんとなく育てる、或は、安定職だから教師になる、なんとなく教師という職業がいいからなる・・・・、などという安易な理由だけで子どもに接するのは、あまりにも無謀なことであり、そして子どもに対して失礼なことである。

シュタイナーは教師の心得及び注意しなければならない点をを次のように語っている。

『学級の中へ入っていくとき、私たちはみずからに次のように言い聞かせます。「私が教育しなければならない子どもたちのなかには、非常にすぐれた人間がいるかもしれない。将来、私よりはるかにすぐれた人間になる生徒がいるに違いない。」と。もし私たちが、私たち自身よりはるかにすぐれた者になる素質を持っている人間を、私たち自身と同じ程度の利口さに達するように教育しようと思ったとするならば、私たちによって教育される人間は、その人間が本来到達することができるはずであった地点よりも、低いところにとどまるように教育されることになってしまいます。」

今の教師達の中で、いったいどれだけの人間が上記のような意識を持っていることだろうか。ほとんどの教師は、上から下を見下ろす感じではないだろうか。特に、小学校教諭は。
一番大切な時期が、日本では義務教育である小学校時代だと思う。その小学校教諭の質の低さには悲しいものがある。
だが、そうしているのは国の責任。質の高い教師教育が成されて来ていなかったからであるし、杜撰な制度であったからだ。また、教員資格を与える時には、その人間のそれまで生きてきた人生全般を見る必要性もあるのではないだろうか。

また、記憶力に働きかけるような教え方は、瞬間的には大変な効果をあげることが出来るが、これは人間の一生を通しての歩みを計算に入れていないとも述べている。

このことに関しては、私自身、子育ての中で何度となく教師達の無責任な発言に対して子どもの軌道を正してきていたことでもある。

子どもが「だって、先生がそう言ったんだ。」ということに対して、「先生は一時的なことでしか物事を考えられないし教えない。謂わば、あなたの今がよければそれでいいのであって、将来のことまで考えているわけでも責任を持ってくれているわけでもない。」と。

親は、子どもの将来まで考えて子育てをしなければならないし、そうするものである。

また、海外に住んでいた時には、数多くのいろいろなパターンの幼稚園があり、日本人の殆どは教育――例えば英語とかリトミック体操とか――を熱心にやるところに入れたがっていたが、私は教師の質こそ最も大切なことだと考え、華やかな教育指導を取り入れているところではなく、教師陣にすぐれた人間達がいるところに子ども達を入れていた。

その頃はまだシュタイナーのことは知らなかった。ただ、私の育ってきた環境から得ていた感覚と認識から、周りの大人たちの影響の大きさを見逃すことは出来なかったからである。

よりすぐれた言葉を発すること。そして、その言葉=霊性に生きた感情を持つことの出来る人間になること。だからこそ、言葉は大切なのだ。大切にしなければならないのである。言葉は行為であるから。
posted by ミューシャ at 22:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2008年05月10日

祝福する能力

ディランの「NO DIRECTHON HOME」というDVDはお薦めだ。税込みで2,625円。見ごたえがあって、こんなに安い値段でいいの?と思わず思ってしまった。

そして、今はシュタイナーの教育論へと。本当にディランとシュタイナーは、細胞の隅々まで爽やかな躍動感を与えてくれる。

シュタイナーは、「教育問題は第一義的に教師問題である」とズバリと語っている。

「子どもにとって自分はごく当然の権威でなければならず、子どもがまったく自然に仰ぎ見ることのできる存在でなければならない」

今の教師達の姿はどうであろうか?力で権威を得ようとしているのではないだろうか?子ども達が自然に仰ぎ見ることは出来ない姿なのではないか?
だから、あまりにも教師達の不祥事や犯罪が多い。歪んだ力の蜜の味を覚え乱用する。いったいどれだけの教師達が犯罪を犯したのだろうか?教職に就く人間達にそういう行為の数が多いということは何が原因かを真剣に追求していかねばならないのではないだろうか。

また、シュタイナーは学校は学校であってはならず、予備校でなければならないと語る。

「いかなる学校も、人生という人間にとっての大きな学校に通じる、予備校でなければならないからです。私たちは本当のところ学校では、何かができるようになるためにものを学ぶのではなく、人生からつねに学びとることができるようになることを、そこで学ばねばならないのです。」

そして、次に語ることは最高だ。

「ある特定の年代になったときに、自分の同胞たちに対して幸せをもたらすような、そういう人たちが存在します。このような人たちは――そう言ってよろしいと思うのですが――祝福する能力があるのです。こういう人たちは、何も話す必要はなく、ただそこにいるだけで、その人から祝福が発散します。」

それは何故か?

「もしこのような祝福を与える力のある人間を、その全生涯をとおして観察することができれば、彼らが子ども時代にどのように教育されたかが、くっきりと際立って目につくことでしょう。こういう人たちは、誰かのはっきりした意図のもとに教育を受けたか、あるいは彼ら自身が本能的に特定の教育者、ないしは教師に自分の身をゆだねたか、であります。そして彼らは子ども時代に、畏敬の念をもつことを学ぶように教育を受けたのであり、言葉のもつ広い意味において、高いものを見あげ祈りを捧げることを教えられたのでした。」

その結果として生じることは?

「このような体験があって初めて、人間には下に降りていく力もまた後に生じるのです。つまり始めに、見あげ、尊敬し、権威にすっかり包み込まれることを学んだ者だけが、祝福し、影響を与え、みずから権威となり、それもまったく自然な権威となる可能性を得るのであります。」

今の社会では、教師の子どもが必ずしも優れた人間性を持っているとは言えない。教職間での庇い合い、隠すという行為はよくあること。自然の権威を身に備えている教師が、いったいどれくらい存在しているのだろうか?

また、シュタイナーは、「単なる人生観にとどまるものではない一つの内在的な生のあり方自体が、教育の精神的な根底とならねばならないということであります。」と、語る。

「教師となる場合にも要求される、あの精神的(霊的)な基盤を捜し求め、イマジネーションとインスピレーションとイントゥイション(直覚)から行動する状態へと身をおくように努力し、精神(霊性)によって考えるのではなく、精神(霊性)によって行為する域に達しなければならないのです。」

シュタイナーが語っているこの状態の典型的な人間が、ボブ・ディランだと私は思う。
冒頭に挙げたDVD、絶対にお薦め! 
posted by ミューシャ at 17:17| Comment(10) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

悪魔に思える時

時々、自分が悪魔のように思えるときがある。

それは、自分の置かれている状況だけしか考えられずに、他にはもっと大変な人がいるにも関わらず、自分が大変だからと、その人に目を向けられなくなる時だ。

まだ自分の方がましなのに、だからこそもっと動けたり、してあげられたりするのに、低いハードルの前で背を向けてしまう。

なんと情けなく、なんという悪魔的な精神なのだろうかと。

自分が大変だという暇があったなら動けばいい。そして、倒れてから考えればいいこと。まだ、動けるのだから。

祈りも同じ。ただ祈っていただけでは何も動かない。本当の祈る姿勢とは、自発的に動こうとする意志であり、行動が伴うから「祈り」となるのだ。行動が伴わない祈りは、ただのオママゴトであり、自己満足の世界。

そういえば、ディランが駆け出しの頃、彼だけが同じステージで歌うシンガーの中で聴く人々を惹き付けたのは、強い意志があったからだと感想を述べていた人がいた。

意志。揺るぎない意志。確信に満ちた意志。意志はやる気。行動。
posted by ミューシャ at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

どうするべきか

DVDの「NO DIRECTHION HOME」の内容から。

ボブ・ディランの人種差別をテーマとした「しがない歩兵」という歌について、彼は歌を通してみんなに考えることを投げかけたかったのだろうと。

黒人活動家が殺されたことについては、殺人の罪だけを考えるな、状況全体を考えろと。

そして、ディランの口からは次の言葉が語られた。

「苦しむ側につく者が、政治的人間とは限らない」

彼の直感・・・、そう呼ぶのが相応しいと思うのだが、その直感はすべての本質を見通しているかのようだ。あまりにもシャープで、まるで煌く矢のよう。
posted by ミューシャ at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年05月03日

メディアに翻弄される感情

放送倫理・番組向上機構(BPO)の「放送倫理検証委員会」は2008年4月15日、山口県光市の母子殺害事件の裁判を扱ったテレビ各局の報道について、「多くが極めて感情的に制作されていた」と批判する意見書を発表した。

意見書では、「なかには出演者が被告・弁護人の発言や姿勢に対して、明らかに罵詈雑言と思われる言葉を浴びせかけたり、激しいバッシングを加えるようなものもあった」「被告がたんに荒唐無稽で、奇異なことばかり言っているという印象が強調されることとなった」などとし、ほぼ全ての番組が被告側の「荒唐無稽さと異様さ」に反発し、「被害者遺族」に共感する内容だった、と指摘。「画面には、取材し、考察し、表現する者の存在感が恐ろしく希薄である。そのような番組しかなかったことに、委員会は強い危惧を覚えないわけにはいかない」としている。

同委は、市民団体から放送倫理上の問題点を検証するよう求められ、8放送局、20番組、33本の番組を調査していた。

(J−CASTニュースより)



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ふとしたことから目に飛び込んできた記事である。

吾々国民は、如何にメディアの力によって振り回され、真実が見えなくなっているかということだ。一方的に入ってくることを少ししか見ないで決め付けてしまう。メディアの言うことは正しいのだと言わんばかりに。
まるで、今の中国人が叫ぶ短絡的な愛国心の大合唱のよう。



同じJ−CASTニュースには、次のことも書かれてあった。

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判決に先立つ08年4月3日、TBS系のJNNが元少年の被告に面会・取材していたことがわかった。JNNによれば、「死刑もやむを得ないと思う?」という記者の問いに対し、元少年は

「はい。僕は死刑存置主義者ですから。終身刑も検討して欲しいと思っていますけどね。ただ判例として僕が死刑になるのは避けたい。ほかの少年少女の事件にも大きく影響するんですから」
と答えたという。また、「どんな判決を望んでいますか?」という問いに対しては、

「判例になる以上、死刑は受けたくない」
と語ったというのである。少年は、「死刑判決はやむを得ない」としながらも、将来死刑判決を受ける人のことを考えると「先例になるから受けたくない」ということだったらしいのだ。

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いったい吾々の目は何を見て、吾々の耳は何を聞いて答えを出しているというのだろう。自分に接点の無い人間の事など、本当はほんの少しも見えていないというのに。

ただ、今の吾々がしなければならないことは、この事件の成り行きを最後まで見届けることと、網の目を潜るようにしてあらゆる情報を知ろうとすることだろう。

そして、「人間」というものを見つめなおすこと。「人間」という言葉の持つ響きがとてもあたたかく感じられるように歩むこと。
posted by ミューシャ at 20:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2008年05月02日

霊界物語完読

今日の夕刻6時13分頃、霊界物語全巻を音読し終えた。その後、7時のニュースで、ダライラマの特使と中国政府とが話し合いを行うことになったということについて流れていた。
また、オリンピックの聖火リレーが中国の最初の地、香港で行われた日でもあった。

この書を手にしてからどのぐらいだろうか、4、5年ぐらいだろうか。なかなか本気で最後まで読もうという気になれなかったのだが、ある時、覚悟を決めた。最後まで音読しようと。
それからは長かったような短かったような、どちらともつかない感じがする。

また、最後の音読の巻であった入蒙記。これを読んでいる時、夢を見るのだが内容を憶えていない、しかし、登場人物の名や地名は夢の中で復唱されていたのだ。
まるで、大海原の中、海中を漂っているような感覚を目覚めの時に感じていた。

そしてまた、入蒙記の中では、出口王仁三郎自身が見た夢とそれについての解釈も述べられていたが、私自身、ひつじさんという方に出会えて、そして解釈をして頂いているということに神の恩恵を深く感じたものである。

それからひつじさんには、霊界物語を読む上で、時々さりげないフォローや気付きへの導きの示唆を頂いて、本当に心から感謝しています。

おそらく、一人だけだったなら最後まで完読出来たかどうかは分からない。間違った受け取り方や自分の中の傲慢性に火がついたら、それこそ物語を読まない方が良かったということにでもなっていただろう。
これに関しても、私のようなど素人に気長に付き合って下さった方がいたということは、やはり神の恩恵に感謝せざるを得ないのである。

また、面白いことに、霊界物語を読み進めていく上でいくつものシンクロが起きたこと。そして、そのシンクロによってより深く入り込むことも出来た。

そして、音読するということが ―――真摯に無心に音読し、その物語の中に入り込むことによって――― 何か歯車が動き出すのを感じた。

出口王仁三郎が、霊界物語を不屈の精神を持って最後まで読むようにと言っていたとのことであるが、たぶん、それは「動く」のだ。そう、感じた。

また、入蒙余禄では、開祖の次男とその娘蘿龍のことについて書かれてあったが、貫かれた血統というものを心が痛いほどに感じた。
そしてまた、私の夢の中を復唱されていた人物、白凌閣。その二人の信念と勇猛心に心が洗われ、そして奮い立たされるようでもあった。

この八十一巻八十三冊という膨大な書。長く、そして話しが前後していたりするので一度だけでは把握しきれない。
また、いつかもう一度読みたいと思う。
posted by ミューシャ at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | 更新情報をチェックする