シュタイナーは次のことを述べている。
「もし個人的なことを話させていただけるなら、こういうことであります。私が講演をする場合には、ふつうにいう講演とは事情が違っております。ふつうは記憶から取り出してきて話すということがよくあり、かつて学んだことや考えたことを、記憶から引き出してくることが多いのです。
超感覚的な真実を語る者は、本当は、つねに真実を内面から引き出すその瞬間に語らねばなりません。
私自身まったく同じ講演を、何十回も行うことができるといたしましても、私にとりましては、それは一度として前と同じものではありません。
別の場合でも当然同じことだ、と言われるかもしれませんが、しかし、もっと高い次元の意味においてこれは記憶が独立しているということであり、記憶の内面化の階程がたどられたときには、記憶が内面的生のなかへ移しこまれるということを示しています。」
ボブ・ディランが歌うとき、同じ歌なのに全く同じ歌ではない。彼は、その時、その瞬間に湧き出てくるままに歌う。だから、いつも「生の躍動」を感じる。そして、いつも「新鮮」であるのだ。
また、シュタイナーはこのような状態になったとき、宇宙に対しての態度そのものが、まったく独特のものと化すとも述べている。
「いわば自分自身の肉体性を失いながら、しかし、自分が宇宙のなかへ自分の生を入り込ませて行っているのを感じます。(略) またとりわけ自分以外の人間のいのちのなかへ入り込んでいくことができるようになります。他人の顔に現われるほんのわずかな表情すらが、私たちを、いわばその人の魂の生活全体のなかへ導いていき、この超感覚的認識の行われている最中には、自分が自分の外にあることを感じるのです。」
ディランが代弁者と言われるほど、人々の心を揺り動かす強い衝動をもたらす詞を作り続けられるのは、まさにシュタイナーの述べるこの状態にあるからなのだろうと思う。
しかし、ディランは精神世界の何かに没頭したというわけでも、修行というものをしたわけでもない。
彼の父が十六歳のとき、たまたま事故を起こし、火だるまになっている車を目撃して、その車の中から運転手を引きずり出し、からだに覆いかぶさって火を消したことがあるという。
両親に連れられて政治集会に出かけたときの興奮。
ウッディー・ガスリーを知って人生観が変った。
そういったもろもろの積み重ねや、そして、彼の目が見てきた様々なことが、彼の資質を目覚めさせ、成長させ、そして超感覚的な真実をキャッチ出来る代弁者のような存在にさせているのだろうと思う。
シュタイナーやディランからは、あまりにもやさしすぎる愛を感じる。ディランの詞の中には風刺的な表現もあるけれど、それでも深い確信に満ちた愛を感じるから、心に鋭く入ってくるのだ。魅了されて止まないのだ。

