そのことについて、霊界物語第三十巻第十章に書かれてあるので抜粋してみる。
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三五教だとか、バラモン教だとか、ウラル教だとか、いろいろ小さき雅号をこしらへ、各自にその区劃の中に詰め込まれて、蝸牛角上の争いをしてゐるやうなことでは、たうてい大慈大悲の大神の御神慮には叶ひませぬ。
誠の道は古今に通じ、東西に亘り、単一無雑にして悠久かつ宏大なもの、決して教会とか霊場とか、左様な名に囚われてゐるやうなことでは、誠の神の御心はわかるものではござりませぬ。
あなたも三五教の中に宜しいという点がお認めになれば、そこをお用ゐになり、バラモン教で宜しいから、悪いと気のついたことところは削り、また良いことがあれば、誰の言った言葉でも少しもかまひませぬ。長を採り短を補ひ、完全無欠の神様の御教を、なにとぞ天下に拡充されむことを希望いたします。
妾(わらは)も三五教の宣伝使などと言われる度ごとに、何だか狭苦しい箱の中へでも押し込められるやうな心持ちがいたしまして、実に苦しうございます。
すべて神の教は自由自在に解放されて、一つの束縛もなく、惟神的でなくてはならないものですよ。どうぞそのおつもりで今後は世界のために、神様の御為に力一杯誠をお尽くし下さいませ。
これがこの世を造り玉ひし元津御祖の大神、国治立命様その外の尊き神々様に対する三五の道の真相でございますから・・・・・。
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霊界物語にはこのように口述されてある。
しかし、それならこれを口述した出口王仁三郎や、もしくは出口直が唯一優れているかといえば、それはやはり違う。他にも優れた人々は存在してきた。
また、霊界物語を読まない人は救われないとか、あるいはそれを読まなければ立派な人間になれないかなどと問えば、やはりそんなこともない。
神の教えは自由に解放されて、惟神的でなければならないとはっきり口述されているではないか。一つだけが絶対なるものであるという考え方は間違っている。
私は今は集中して霊界物語を読んでいるので、その関連で書くことが多いが、個人的にはシュタイナーをベースとしていたいし、スウェーデンボルグや大石凝真素美、平田篤胤、川面凡児などももっと学びたいと思っている。
そしてまた、多角的にあらゆる方面から研鑽して行きたい。
ただ、思ったことは、霊界物語を読み終えた時には、もっと自由な発想になっているのが普通であろうし、手取り足取り教が説かれている霊界物語を卒業できなければならないと思うのである。
まあ、それだけ霊界物語が素晴らしい書でもあるということであるが。
日の光を受けて輝く、碧い大海のような心。それが目標。


とはいうもののやはり自分の心の中ではどこか差別している。
たとえばバラモンというと差別・形式宗教というイメージが
付き纏いますが、バラモンも研究すると本当に参考となる
良い点が見つかります(笑)
また一つの団体に属していれば、たとえば、霊界物語の団体に
属すれば、どこかで出口王仁三郎聖師を他の先人達よりも
知らず知らずに上位にしてしまう。霊界物語がすばらしい書で
あればあるほど卒業(抜け出すのは)大変です。
以前、2chで面白いことを書いている人が居ました。
「霊界物語とは月を指している指である。しかし、月を指す
指に見とれるのでなく指が指している月を見よと」。
霊界物語の代わりに自分が崇敬している先人を当てはめても
良かろうと思います。先人が指差している月を見なければと。
まさに至言であると思いました(笑)
その言葉にはっとさせられました。
ともすれば、その先人が何を見つめているかではなく、どういう見解を持ち、どういう人物であるかなどということに囚われ、そのことに終始しがちになってしまいますが、それでは理解に至らないわけですものね。
月そのものを見つめることを念頭に置いて研鑽して行きたいです。ありがとうございました。
「ここにあると ゆれる草木言葉聞く さす指見ず(瑞)に 月をながむる」
「意を得たと 掴む真理は 月の影 水面映る月ではすくえず」
なんという素適な詩なのでしょうか。
美しく、そして心に沁みこんで来て、ドックンドックン鳴るようです。
月は月でも、水面に映る月ではすくえない・・・・・。
厳しいですね。でも、その通りなのですもの、月そのものを見れるようにがんばりたいです。
見ず(瑞)に 月をながむる ですね。イメージが心地よく湧いてきました。