ネットの世界。
文字だけに表されるその人の内面。
たまに、人間そのものが芸術だなと思える人の世界に出会える。
相当辛い経験をしてきているのに、その目はどれほど悲惨なことを見てきたか知れないのに、その世界は深山のように奥深く、清流のようにクリア。
そんな人の文章を読むとき、人間として生きていることの価値を思い知る。
霊界物語の第五十六巻第六章に、「総て悪を罰するものは悪人でなければならぬ。虚偽、譎詐、獰猛、峻酷等の悪徳なきものは、到底悪人を罰することは出来得ないのである。」とある。
悪を知らぬが故に、悪を行う人の心の在り方に悩み、自ら悪を行う思いがない故に、悪を行う人との接し方に悩む。
全く正しいのに悉く傷付けられたときに心に響き、心を癒すのは、やはりそれと同じ思いをし、そしてそれを乗り越えた人の言葉である。
なぜなら、その心の動きを知っているからである。
「自ら知っている」ということの価値。
それは知識というもので補えるものではない。知識というもので代替りは出来ぬものなのだ。
また、同じく第五十六巻第十四章に次のように書いてある。
「なにほど悪人でも見捨ててゆくわけにはゆきませぬ。吾々が悪人か、この男が悪人か、たうてい人間では分かりませぬ。仁慈の神様は吾々の心を矯め直さむと、これら両人をお使ひ遊ばし、お前に心はこのやうなものだとお示しになってるのかも知れませぬ。これら両人を使って、われわれに苦集滅道の真諦をお示しになつたのかも知れませぬ。さうすればこの両人は、われわれの絶好唯一のお師匠様と思はねばなりませぬ。あヽ惟神霊幸倍坐世」
悪を行うものを前にして慟哭する。でも、その悪人が罪を犯したから、極刑に処せよとか生きる価値がないとかは決して言えないのである。
そう願えば、吾もまた同じ罪人となるのだ。人の命を軽んじる同じ仲間となる。
善と愛とは主の神の 珍の身体なればなり
善の自体は害悪を 決して加ふるものならず
愛と仁とは何人も 排斥すべき理由なし
万一神が罪びとに 背き斥け怒りまさば
仁慈と愛に背反し その本性に戻りまし
神格自体に反くべし
それゆえ神はどこまでも 人の精霊に接しますや
善と仁慈と愛により 臨ませ玉はぬことはなし
ただ、ひたすら潔く生きたいものである。
忍耐は、愛と平行するのかも知れない。
天地の花。人は誰もみな天地の花。
2007年06月19日
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