ネット上に公開されている出口和明氏の講演ビデオを見た。2回、見た。最初は音声が聞き取りにくかった為、2回目はイヤホンで聞いた。イヤホンを使うと、かなりはっきり聞き取れる。
その中で、心にずしんときたことが一つだけあった。それは、日出麿が王仁三郎の位置に取って代わろうとしたとき、王仁三郎が、「お前に神の仕組みの何が分かるか」と、怒ったという説明のところだった。
王仁三郎の、その思い。あまりにも重く、あまりにも辛いこと。心がはち切れそう。
雛型、雛形と人々は簡単に言う。ある種の人々にとっては、その重みを知ることもなく、自分は出来る、自分が選ばれし者と思ってしまう様子も目にする。
だが、雛形とは、ほんの少しの歪みも狂いも許されないこと。それは、まるで高い断崖から断崖へと架けられた一本の綱を渡っているようなもの。
しかし、どんな突風が吹いたとしても落ちることは決して許されない。それほど緊迫したものではないだろうか。
まさに、ぎりぎりの精神状態を持続させねばならない。分かっている故に、辛いこと。そう簡単に雛型など出来やしない。
もし吾々が雛形として出来ものがあるとするなら、それは自分の周りに於いてのことだけ。自分の周りを善きものに変えようと努力することだけ。
でも、それだって素晴らしいこと。そんな輪が広がっていけば、それはやがて大きなうねりとなるから。
2007年09月30日
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最近読み直している本にカルメル山登攀という本。
その中の一節に「神様はいきなりの大きな事を
大変に嫌う」とあります。簡単に言えば
「人類救済神業」など。
またエドガーケーシーもまた言っていました。
「大きな大望を懐くよりも身の周りのことから」と。
そういう意味では巷の雛形論理には非常な焦りを感じます。
さらに十字架のヨハネは能力以上のことには興味を
持つなとそれはそれは厳しく誡めています。
従ってミューシャさんの言われた「自分の周りを
良きものに変える」そういった輪を作ることが
本当に大切だと思うと同時にそれがまた神様の
願いでもあるような気がします。
今なら、すんなりと受け入れられますし、また、そういう状態にもし自分がなったとしたら、すごく恥ずかしいことだなと思ってしまいます。
どんなに背伸びをしても自分は自分。高みに居る人を見て憧れても、その人に成り代わることは出来なくて。
だからこそ、そんな高山にはなれなくても、せめて、高山に咲く一輪の小さな花でありたいと思います。