2007年10月05日

芸術と宗教〜法悦

霊界物語第65巻の総説に書かれてある、「芸術と宗教」について抜粋しながら書きたいと思う。



芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の私情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。

人生に離れ難き趣味を抱かしむるのは、ただこの二つの姉妹の存在するが故である。

そもそも此の二つのものは、共に人生の導師たる点においては相一致してゐる。しかしながら芸術は一向(ひたすら)に美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に至らしめむとする点において、少しく立場の相違があるのである。

形、色、声、香などといふ自然美の媒介を用ひて、吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。

宗教は即ち然らず、霊性内観の一種神秘的な洞察力に由りて、直ちに人をして神の生命に接触せしむるものである。


(ミューシャは、次の言葉にはっとして、大きな感動を得た。)

芸術の対象は美そのものであり、而も美は神の姿にして、その心では無い。その衣であって、その身体では無い。『神は霊なれば之を拝するものも亦、霊と真とを以って之を拝すべし』と言ったキリストの言葉は万古不易の断案である。美を対象とする芸術は、よく人をして神の御姿を打ち眺めしむる事を得るも、未だ以って其の心を知り、其の霊と交はり、神と共にあり、神と共に動き、神と共に活きる、の妙境に達せしむることは出来ない。たとへば僅かに神の裳裾に触らしめることは出来得るも、その温かき胸に抱かれ、その生命の動機に触れしむることは、到底望まれない。


(ミューシャは、ここで、テレジアやテレーズなどの得ていた法悦のことを思った。次の言葉は、その法悦の真相である。)

宗教的生活の渇迎憧憬して已まざるところのものは、自然美の悦楽ではなく、精神美の実現である。その憧憬の対象は形態美ではなくて人格美である。神の衷に存する真と善とを我が身に体現して、永遠無窮に神と共に活き、神と共に動かむと欲する、霊的活動の向上発展は、即ちこれ宗教的生活の真相であろうと思ふ。

飽くまでも現実世界を聖化し、自我の霊能を発揮して、清く気高き人格優美を、吾と吾が身に活現せなくては止まないのが即ち宗教家の日夜不断の努力奮闘であり、向上精進である。

宗教家の悦楽は、単に神の美はしき御姿を拝する而已でなく、その聖善の美と合体し、契合し、融化せむと欲して進みゆく途上の、向上的努力にあるのである。

活ける温かき自己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めむとする、偉大なる真の芸術家なのである。

故にその生命のあらむ限りは、その悦楽は常住不変のもので、その慰安もまた空想の世界より来たるに非ず。最も真実なる神の実在の世界より来るものである。

真の芸術なるものは生命あり、活力あり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ。

そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。


* * * * * * * * * * * * *



以上のことが、王仁三郎の宗教と芸術に対する見解である。

人として生まれたからには、精神美を追求し、人格優美なる状態へとなれるように努力しなければならない。それは、ごくごく当たり前のこと。

その生きる道において、形態美ではなく、神の霊性に溶け込むことこそが生きた芸術となり、生きた芸術を生み出すことが出来るのではないだろうか。

体現するということ。それは、持続する永遠の感覚。

人は自身が芸術作品とならなければならない。そうなれれば、他者をも真善美の世界へと感化でき、それは言うなれば、その言動が他者を感動させるからである。

感動するということ。それが芸術の目的。そして、真に生きる道を知らしむるということは、他者の生き方までもに影響を与える生きた芸術あってのこと。

人間こそが、神の最も優れた芸術作品である。自由意志を持つ、形に囚われない、計り知れない可能性を秘めた芸術なのだ。

だから、歓喜をその生涯に得られ続けたテレジアやテレーズたちは美しいのである。

PS:2007年3月3日の記事に、シュタイナーの宗教と芸術観について書いた。これで、王仁三郎とシュタイナーの見解が一致していることが分かった。

また、この記事は666回目の記事。意識したわけではないが、この内容になった。そして、コメントも、「雛形としての心」という記事の自分で書いたものが666回目となっていた。不思議なものである。
posted by ミューシャ at 12:57| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>(ミューシャは、次の言葉にはっとして、大きな感動を得た。)
美が神の姿であり心でないとするならば、では心よりも重要ではない
美や姿が何ゆえ存在するのかの疑問もでると思いますが、
これに対して十字架のヨハネが面白い答えを持ってきています。
要約すれば、未だにその妙境に達し得ない人がその生命・心を知る
上でのステップ・入門の為に美や姿があると。
だからこそ形態的な姿や美が必要であって、それをクリヤーして
その心に達するのではないかと思います。出口王仁三郎聖師も
このことについてミューシャさんが引用されたように
「美の門より入る」と簡単に言っておりますが、
十字架のヨハネは出口王仁三郎聖師の言をさらに噛み砕いて
説明していますが、ほんとシュタイナー、十字架のヨハネ・
出口王仁三郎聖師の三哲人はいつもながらすごいです。

PS
 芸術と宗教の関係を心から理解することによってミューシャさんの心の中の霊人たちもきっとその理解に触れて向上すると思います。
Posted by ひつじ at 2007年10月05日 22:10
十字架のヨハネの引用要約をありがとうございました。

一足飛びにその境地には到底行けないものですし、また、形態美に触れることから、その芸術家の持つ神の領域を知り、考え、悟りながら昇って行くのでしょう。

周りにいる人たちの美しいところをお手本としたいし、そして、浄化された清らかな美をを感じられる芸術には、どんどん触れていきたいです。

今日、アヴェ・マリアを検索していて、その過程で、今は亡き本田美奈子の歌を視聴したのですが、綺麗な声をだすな、美しい情感をだしているなと思って、私もついしばし歌ってしまいました。

感動して、真似をして・・・・。そして、自分らしさを出していく。自分の納得するものを創り出そうとして。
でも、それって、結局、神への回帰なのかなとも思ったのです。
Posted by ミューシャ at 2007年10月06日 00:38
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/58992020

この記事へのトラックバック