例えば、霊界物語から次のところを抜粋しよう。
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惟神的道徳上の義務に服し、天界に奉仕し、自己を制して自己以外に寛大なる神人は、其実際に於いて精神上の自由を有し、一切万事 公共の為、何一つ成らざるはなきものである。之に反し、惟神的道徳上の義務を省みず、自己の欲望にのみ執着し、自己に寛大に、他に対して残忍である所の神人は、其の実 運命の手に縛られてゐるのである。
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以前だったら、前者に於いては、あたかも信仰というものに縛られ、自分を抑えなければならないという非常に窮屈なイメージを受けていたが、今は違う。
心が縛られないのである。即ち、それは王仁三郎の語る「精神上の自由」なのだ。
不必要なものに囚われないし、些細なことに執着することもなく、無駄のないピンポイントの状態に近づいて行く。それは、以前に比べたら格段に心が楽なのである。
また、後者の場合は、様々なことに執着心があるが為に、ちっぽけなことに常時心が波立っている。つまり、カルマから逃れられないでいるのだ。
所有欲や名誉欲などの欲望というものを満たす事は、決して目的達成と言えるものではない。欲望は新たな欲望を生み、その欲望の為に心は荒んでいく。
そして、生きているうちに少しでもカルマを解消しようとしないなら、またそれを来世まで引きずってしまう。なんと不自由なことだろうか。まさに、運命の奴隷。
自己を制するということは、歪んでいたものが矯正されるということでもある。歪んでいたものが矯正されていくなら、それは次第に惟神的道徳の道へと修正され、その義務がまったく自然なこととして把握できるようになってくるのではないだろうか。
漠然としていた自由というものが輝き始めるのを覚えた時、それはカルマからの解放を意味する。


私も少し書き込んでみます。
>一切万事 公共の為、何一つ成らざるはなきものである。
これと似たような意味において、逆説的ですが聖テレジアは
欲望に駆られた人間が行なう所業は(実を結ぶには
実を結びますが)「その実は一体どんな実を結ぶので
しょうか」と述べています。どんなに霊学を研鑽しても
右手に徳利を持ちながらの研鑽では結局は中途半端に
終わるのはあきらかで、少しでも良き実が成るように
下級の欲望を律しながらの研鑽に努めていきたいと思います。
また自己を制するということで
今日、読んだ本の中でエドガーケイシーが面白いことを
述べていました。少しだけ紹介しますと「意志は神様からの
贈り物である」と。意志を活用すれば自己を制することも
可能になるだろし、悪習慣を断ち切ることもできるのでは
と思いました。
欲望とか、自分がという思いでやったことと、その反対に無私無欲でやったこととでは、流れや、また最終的に成されたことが随分違うなということが、実体験を通して理解に至っていくなと思う今日この頃です。
また、エドガー・ケイシーの意志についての見解。ああ、なるほどなと深く感じ入りました。
神の恵み故に不可能だと諦めていたことも可能にさせることが出来るのですね。
今しかない人生だからこそ、意志を活用して悔いのない歩み方をしたいです。
為になるコメントを、いつもありがとうございます。