2008年04月22日

命と法

光市の母子殺害事件による加害者への判決が出された。死刑。
最高裁が差し戻した段階で死刑は決まっていたようなもの。

残虐非道な犯罪。その犯罪行為は決して許せられるものではない。犯した犯罪に対して死を持って償うという姿勢はあって当たり前のこと。

しかし、実際は、死刑という判決が妥当だったのだろうか。今までの他の数々の裁判例から見て妥当なものだったのだろうか。元少年Aの心理状態から妥当だったのだろうか。

私には分からない。弁護団が変わったとたんに供述を覆している。元少年A自身の言葉が全く見えないのだ。弁護団の戦略に振り回された、そんな印象を受ける。

日常的に父親から暴力を振るわれ、中学一年の時には母親が自殺している。どちらの親からも見捨てられた中で、おそらく、彼はどんどん壊れていったのだろう。

また、何度か面会に訪れた記者に彼が話していた自分の心境。

今回の事件は、元少年Aの言葉が見えない。そして、この死刑判決はもうすぐ始る裁判員制度を睨んだものともいえる。

また、被害者のご主人のされてきたことは、日本にとってあまりにも有意義なこと、必要なことを開拓し、そしてもたらしてきた。
閉鎖的だった裁判というものが開かれ、被害者の気持ちや立場を尊重するという当たり前のことがされていなかったことを当たり前のこととした。

裁判員制度はよいことだと思う。しかし、そのやり方があまりにもお粗末過ぎる。
初公判から3日間で判決まで出すという異常なやり方。そして、極刑に値する裁判だけに参加が限られているということ。

こんなやり方の裁判員制度では、正しい判断をすることなど出来やしない。検察側の思う壺。

やり方をもっと熟慮してから施行に踏み切るべきなのだ。
posted by ミューシャ at 23:25| Comment(4) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ミューシャさん、こんばんは、
今回もまた興味深く読ませていただきました。
この事件については加害者の環境も考慮に入れると
大変に難しく一言ではいえないものがあります。
被害者のご主人が会見で言っていたように
「三人を犬死にさせてはいけない」と。社会というものに
対しても問題を提起していました。たしかに
このまま社会のシズテムが何ら改善されないのなら
それこそが本当に悲しいことではないかと思います。

昨今の凶悪事件は加害者の幼い精神性が目立ってきている
ようにも思います。一昔前までは大家族があり
そういう中で子どもも成長していたし誰か一人がDVを
働いたとしても別の誰かが注意したし、けっこう
バランスは取れていました。現代は核家族化が進み
育てるということも以前には比べ物にならないくらい
大変になっているような気もします。

加害者の少年もまたそうした社会システムの犠牲者の
ような気がします。生まれたての赤ちゃんは
皆かわいいいものでまさか死刑になるため生まれて
くる人など・・・・。そう思うと悲しくてなりません。
例の大弁護団は加害者の幼い精神性を強調していたが
これによってなんとかしようとは理解できるものの
あまりにも姑息な手段によってかえって逆効果を
及ぼしたようにも思います。いずれにせよこの幼い
精神性では反省とか謝罪というのは到底無理なわけで
事件の根というのは本当に深い気がします。

シュタイナーがよく言っていることに
「もしわたし達がそうならないとしたら何故
そうならなかったのか考えてみるべきだ」というのは
至言と思います。幼いときにDVをふるわれて
母親が自殺という環境に置かれたら、はたして
我々は精神を正常に保つことが出来たであろうかと思います。
少年と同じ運命を辿ったかも知れないです。

単に運が良いからだとか意志が強いからとか思いたいが
絶対にそういうわけでも無く、この社会の負の面は
放っておけば様様な形で現に今の私たちにも襲い掛かって
きています。昨今の貧困、病気、孤独死、自殺・・・。
この少年の犯罪はこうした要因が終局点に達した結果で
あって私達も何もしなければ少年と同じように
いずれ負の終局点に達するのではないか思います。

少年に何が欠落していて、そして私達にも欠落している
何かがある。この事件を期に本当は考えたいところですが
事件の遺族・加害者の少年の心情を思えば軽々しくも
いえるものでも無し、今はただ彼らの魂を神様が
救ってくれることをお祈りします・・・。

裁判員制度については何をどうしようとするのか
未だに見えてきません。ましては人が人を裁く材料に
なるべきものが他人から与えられたものをベースに
する限りにおいては与える側の巧拙によって
判決はどのようにでも変えられる。今回のように
少年の生い立ちまで遡っての判断を迫られるときは
死刑になるならないは判断を下す側の価値観にも
左右させられ、制度においてさらなる歪みを起こすことは
避けられないのではと思います・・・。

判断(判決)に全てを委ねるのではなくて、いみじくも
被害者のご主人が問題提起したように
それ(不幸な事件や不幸は判決)が起らない平和な
社会・国をどのように作っていくかが
単に奇麗事ではなくて本当に一人一人が真剣に考えて
いかなくてはと思います。
もう既に尻に火がついているのを自覚しつつ・・・。
またまたの長文・駄文失礼しました。
Posted by ひつじ at 2008年04月23日 20:10
ひつじさん、こんばんは。

身近に問題を起こす子を見たり聞いたりしてきた中で、やはり精神性の未熟さということが現代における大きな問題の一つのように思います。

人の体を傷付けるような危害を加えても、その精神性の未熟さゆえに事の重大さが分からず、安易に許してくれるだろうと思ったり、或は謝ることがかっこ悪いと思って開き直ったり、自分をヒーロー、ヒロインのように思い込んだり・・・。
あまりにも幼稚な思考のままに留まってしまっているように思います。

普通の人としての年齢相応の感覚が正常に養われてきていない人間が増えてきているのが現状のように見えます。

そして、どんどん人としての絆が失われ、世の中は様々な不条理な環境へと進み、孤立した人間達が増えていく。なんとかしなければ人類はとんでもない終末を生み出してしまうのではないかと・・・。

裁判員制度と、この事件、そして被害者のご主人の問題提起した言葉。その重なりにより、国民の関心は更に大きなものとなってきているかと思われます。それ故に、今のこの時が人々にとって大きなチャンスなのだろうとも思うのです。

そしてひつじさんがおっしゃるように、一人でも多くの人が、これから何をすべきか、何をどうしたらいいのか真剣に考えなければならないと私もそう思います。

貴重なコメントをありがとうございました。
Posted by ミューシャ at 2008年04月23日 22:22
>自分をヒーロー、ヒロインのように思い込んだり・・・。

事件の本質をどのように考えるかですが、私も又
ミューシャさんのおっしゃるところのヒーロー、ヒロインが
根にあるのではと推察です。社会システムのあり方にも
勿論問題はあるが、私たちが何をなすべきかであるのか
という焦点で捕らえると、一般の人がすぐに社会システムに
貢献するということは大変。私はそれよりもこのヒーロー
ヒロインの問題を考えていきたいと思いました。

ヒーローヒロインというのは誰でもなれるものではなく
そのほとんどはなれない。しかしながら人間には自己実現と
いう基本欲求があります、今のシステムでは自己実現は
中々難しい時代。一方ではこうした欲求が頭をもたげる。
そうしたゆがんだ自己実現がこうした犯罪を招く要因に
なっているのではないかとも思いました。

私たちが犯罪を食い止めるにはそうした自己実現がゆがんだ
形で顕現するのでなく自然な形で生じさせるということ。
一人一人がいかに自然な形での自己実現力を目指すのか。
それには人間同士の輪とか隣人愛が大切なのではと思います。

ミューシャさんが時折お子さんの話をされますが
友人知人を持つことは本人もさることながら、周りの人も
感化され、こういった輪の中で己の与えられた役割を
果たして行くことと思います。人というものは優しい声を
かけられればそれなりにうれしいもので、こうした楽しい
思い出が沢山あることがつまりはお互いに自己実現を
行なっていることでもあるし、犯罪(歪んだ自己実現から
来るもの)というものは私たちの今の心のあり様・変革に
よっては今からでも十分防ぐことが出来るし、誰でも着手
できると思っています。

悩み苦しんでいる人を直接助けるというのも価値あること
ですが、いざ実行となるとお金もかかるし時間もかかる、それよりも
人と人との輪から一人一人の自己実現、完全にはできなくても
楽しい思い出作りが出来たならば、犯罪者が将来犯罪を
起こすであろうときに、過去の楽しい思い出を思い出して
犯すであろう犯罪をを踏みとどまるかもしれない・・・。

長々とカキコした割りにはうまくはいえませんでしたが、
子どもさんのように友人の輪が広がっていくことは
犯罪防止の観点から考えても効果があるのでは思いました。
Posted by ひつじ at 2008年04月24日 12:57
ひつじさん、こんばんは。

かつて裁判を傍聴した一つに、窃盗未遂事件を犯した若い女性の公判がありました。
その被告人は両親を突然の事故で亡くし、兄弟姉妹も居らず、親戚付き合いも無く、そして友人もいないとのことでした。全くの孤独な状態。
そして、文字通り精神的な病にかかり医者に見てもらっていたそうです。

私は被告人を見ていて思いました。回りには手を差し伸べる人が一人もいなかったという状況に、もし、一人だけでも優しい目を向けて接してあげていればそのような事件を犯す事は無かったかも知れないのにと。現代の社会の在り方に酷く悲しさを感じました。

また、どんどん隣人との間に距離が出来ていく現代。個性の尊重といいながら、それは自由というものを履き違えたただの我儘。
国際感覚を養うべきだと言いながら、実際は表面的な希薄なものに留まり、学校では道徳教育と言いながら、それは教師の虚栄や思い込み、またはあまりにも保守的な感覚で進められている。
何か、本質を見つめることをせずに、今にも壊れそうな形だけを整えていっているように思える今の社会のように感じます。

そして、そのような虚無感の中で人に認められたいというあがきや、自分に自信が持てれない不安。底の深い病理が人間社会に蔓延しているのではないかと。

ひつじさんがおっしゃるように、人と人との輪というものはとても大切なことだと思います。人に感化されたり、また認めたり認められたりしていく中で、他者の命の尊さや重さを認識出来て行くのではないかと思います。
また、自分を本当の意味で大切に出来る人は他者をも大切に出来る人だとも思うのです。

命ということについて真剣に考えることが広がっていくことを願うばかりです。
Posted by ミューシャ at 2008年04月24日 21:56
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