2008年05月12日

言葉=霊性=行為

ルドルフ・シュタイナーは、太古の人類は「はじめに言葉ありき」と言ったと述べる。
つまり、その当時の人間は、言葉の波動の上に乗って霊性が進んでいくということに対して、生きた感情を持っていたからだと。

そして、霊性とは常に行為であると語っているのだ。

生きた感情を持てれるということ。だからこその言葉。そして、言葉は行為である。

誰かの発した言葉によって心の浮き沈みを味わうことは、誰でもが経験していること。そして、同じ言葉でも、それを言う人によって差がある。
反対に同一人物が発した言葉でも、受ける側によって差がある。


シュタイナーは、子どもは感覚器官そのものだと語る。
「おとなのそばで成長していく子どもは、教育者の持つこういうごくかすかな物質的な状態をも、模倣いたします。子どもは、おとなの表情や、おとなが不安げに話したり、不安げに感じたりする、その様子を感じとって、すっかりそれに自分を合わせてしまいます。」

このように、おとなと子ども間には、量ることのできない相互関係が生じるのだと。

「おとなが心配ごとを持っていますと、心意現象そのものが直接に外に現れることはなくても、それは肉体的な状態に影響を及ぼし、この影響が外に現れます。

模倣者である子どもは、この肉体上に現れた結果を感知し、ちょうど目が光の作用で満たされるのと同じように、自分の内部を、この知覚したものそっくりに形成するのです。(略)その子どもの全体機構をとおして、おとなの心意的な体験の肉体的な表現が、成長していきます。」

さらに、その影響がどのような重大なことを生じさせるのか例をあげての説明が続く。

「不安をもつおとなの青白い長い顔を、子どもは受けとります。しかし、心痛の心意的内容を自分の中に受け入れることは、子どもにはできません。

心痛の物質的な結果だけを、模倣するのです。その結果として、この子どもにおきましては、感覚神経中に座を占めている霊的な形成力をになう肉体上の機構が、直接に冒されることになります。

この子どもが心痛の物質的投影を知覚して、自分の内に採り入れたものをよりどころに、自分を形成いたします。

するとこの子どもは、心痛に向けて傾向づけられた肉体構造をもっことになり、これは後になって、この子どもと違った肉体機構をもつ者には何の影響も与えないような人生の印象をも、不安をもって受けとるようになるのです。」

親や教育者の在り方が、どれほど大切かということだ。
ただ子どもが欲しいから作って自分の為に育てる、出来ちゃった婚だからなんとなく育てる、或は、安定職だから教師になる、なんとなく教師という職業がいいからなる・・・・、などという安易な理由だけで子どもに接するのは、あまりにも無謀なことであり、そして子どもに対して失礼なことである。

シュタイナーは教師の心得及び注意しなければならない点をを次のように語っている。

『学級の中へ入っていくとき、私たちはみずからに次のように言い聞かせます。「私が教育しなければならない子どもたちのなかには、非常にすぐれた人間がいるかもしれない。将来、私よりはるかにすぐれた人間になる生徒がいるに違いない。」と。もし私たちが、私たち自身よりはるかにすぐれた者になる素質を持っている人間を、私たち自身と同じ程度の利口さに達するように教育しようと思ったとするならば、私たちによって教育される人間は、その人間が本来到達することができるはずであった地点よりも、低いところにとどまるように教育されることになってしまいます。」

今の教師達の中で、いったいどれだけの人間が上記のような意識を持っていることだろうか。ほとんどの教師は、上から下を見下ろす感じではないだろうか。特に、小学校教諭は。
一番大切な時期が、日本では義務教育である小学校時代だと思う。その小学校教諭の質の低さには悲しいものがある。
だが、そうしているのは国の責任。質の高い教師教育が成されて来ていなかったからであるし、杜撰な制度であったからだ。また、教員資格を与える時には、その人間のそれまで生きてきた人生全般を見る必要性もあるのではないだろうか。

また、記憶力に働きかけるような教え方は、瞬間的には大変な効果をあげることが出来るが、これは人間の一生を通しての歩みを計算に入れていないとも述べている。

このことに関しては、私自身、子育ての中で何度となく教師達の無責任な発言に対して子どもの軌道を正してきていたことでもある。

子どもが「だって、先生がそう言ったんだ。」ということに対して、「先生は一時的なことでしか物事を考えられないし教えない。謂わば、あなたの今がよければそれでいいのであって、将来のことまで考えているわけでも責任を持ってくれているわけでもない。」と。

親は、子どもの将来まで考えて子育てをしなければならないし、そうするものである。

また、海外に住んでいた時には、数多くのいろいろなパターンの幼稚園があり、日本人の殆どは教育――例えば英語とかリトミック体操とか――を熱心にやるところに入れたがっていたが、私は教師の質こそ最も大切なことだと考え、華やかな教育指導を取り入れているところではなく、教師陣にすぐれた人間達がいるところに子ども達を入れていた。

その頃はまだシュタイナーのことは知らなかった。ただ、私の育ってきた環境から得ていた感覚と認識から、周りの大人たちの影響の大きさを見逃すことは出来なかったからである。

よりすぐれた言葉を発すること。そして、その言葉=霊性に生きた感情を持つことの出来る人間になること。だからこそ、言葉は大切なのだ。大切にしなければならないのである。言葉は行為であるから。
posted by ミューシャ at 22:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ミューシャさん、こんばんは

色々と興味ある引用ありがとうございます。
職業柄、人と接する機会が多いですが
良きにしろ、悪しきにしろ、その人自身よりも
その人の親や受けた教育者をついつい想像する癖が
ありますが、読んでてなるほどと思いました。
これで又一つ人に対してやさしくなれそうです。
有難うございました。
Posted by ひつじ at 2008年05月14日 23:28
ひつじさん、おはようございます。

シュタイナーの述べることを見ていると、いったいどうしたらこれほどまでに人間というものを深く的確に洞察できるのだろうかと、いつも思うのです。
人に対しての裏切らない愛、神に対しての一途な愛と感謝、そういうことが揺るぎないものとしてあるからこそなのかも知れませんね。

ディランがウッディー・ガスリーを深く尊敬し、人生観が変ったように、もし身近にすぐれた教育者や親がいないのだったなら、優れた尊敬できる人を探すことも出来るわけですし、そういう意味では諦める必要はどこにもないのかなとも思ったりもします。

あ、でもディランの両親はやはり優れた人間性を持っていたようですし、良い人間関係の中で子ども時代を過ごしたようですね。

また、親を見て子を見る、子を見て親を見る、そしてどういう教育者に出会ったかを見る。それは、私も同じように人を見るときしてしまうことです。

それにしても、教育に携わる人間には、このシュタイナーの教育論を読んで理解し、そしてから教壇に立って欲しいなと常に思うのです。
Posted by ミューシャ at 2008年05月15日 10:55
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