2008年07月05日

聖別のための祈り

死というものは、やがて誰にでも訪れること。

深い悲しみの気持ちは死者が抱くのではなく、まだこの物質界に生きている人間が感じること。そして、その悲しみの感情は、死者の進歩の妨げとなる。死者も霊界で学び、向上したいのである。

シュタイナーは述べる。

『死者の側から見ると、死の瞬間とは肉体を失った死者に、生命が存続していることを教えるもっとも重要な出来事なのです。死に直面したとき、人は死後にも自我意識が存在するということをはっきりと悟るのです。』

最近の記事にも書いたが、「天界からの音楽」という書は、まさにわれわれに希望と勇気を与えてくれる本でもある。

霊界に戻ったジークヴァルトが、この世に生きている家族に伝えた聖別のための祈り。

彼は、言う。

「あなたたちが悲しみを克服してくれたことによって、わたしの墓には聖別のための偉大な神殿の礎石が据えられました。わたしはいままで以上に親密にあなたたちとともにいることができます。すべては肥沃な大地の上に降りたちました。このことがあなたたちとの意思疎通をさらに容易なものにしてくれるでしょう。

あなたたちはみな、ともにわたしとの意思疎通にとりくんでいるので、わたしはすぐにあなたたちを特殊な事柄に導くことができるようになるでしょう。

あなたたちは自らの確信をとおして、ある力を作りだしています。あなたたちが確信を抱いているおかげで、わたしは以前には伝えることのできなかった多くの事柄をあなたたちに教えることができるようになりました。」


また、ジークヴァルトは言う。
死者にとって遺体は重要ではない。大切なのは遺族が死者に向ける、愛情であり、思考であると。
遺体以上に価値があるのは、遺体が横たわっている場所で家族達が作り出す思考だけである。
また、死者に対する嘆きではなく、高貴な思考だけが死者のための献身の神殿を建てる手伝いになるのだからと。

そして、死者のための祈りを唱えるように伝えてきている。それが、『聖別のための祈り』である。



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世界の主は偉大です

主は死者であるあなたを創造し、再びあなたを呼び戻しました

ここでわたしは聖別された場所に立ち、

主であるあなたに祈りを捧げます

すべての物質は消滅し、すべての崇高なものは残ります

主であるあなたの翼は広げられ、あなたの子どもを受けとります

すべての贖罪は神聖なものとなり、

死はたんなる変化にすぎません――そのほかのものはすべて実現しました

わたしの父よ、あなたを拝ませてください

あなたの意志はすべてのものを包み込みます

あなた自身のなかにわたしを受け入れてください

あなたのものである天を開いてください

ついに時が来ました

わたしの神であるあなたは、わたしのすぐそばにいてくださいます

あなたがわたしとともにいてくださるとき、死はなんと輝かしいものになるのでしょう

――――――――――――――――


※訳注
ここで告げられているのは、アストラル界に存在する「聖別の場所」で、死者のために唱えられる祈りの言葉である。二行目の「あなた」とは死者を、四行目以降の「あなた」は主である神をさす。また九行目以降は、この詩を朗誦する者と死者が一体になって、神への祈りを捧げるように語られている。
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2008年07月02日

封印

シュタイナーは『封印』ということについて次のよう述べている。(自分勝手な要約ではあるが)

封印とは霊的なものであり、強い力を持つものである。なぜなら封印には宇宙全体が組み込まれていて、宇宙の秘密から創られている。そしてそれは、秘儀参入者によって描かれているのである。

だから、このような封印に対して正しい観想を通して向かうなら、無限の叡智が開かれる。また、霊的に浄化された場所で、活き活きとした神聖な語らいが行われているところにその封印を掲げるなら、その作用はより深く強いものとなり、人間の魂に最高度の光や啓発をもたらすだろう。

だが、反対に、俗っぽい言葉が語られていたり、霊的なことが語られないところに封印を掲げると、マイナス作用が及ぼされる。この場合、肉体組織を破壊する作用が働き、病気を誘発させてしまう。

封印とは世俗化されることを嫌うものである。封印とは霊的なものから生まれたものであり、霊的なものの記号は霊的なことが活き活きと語られ、生じる場所に置かれることが、本来の在り方なのである。



このように封印について述べているが、これは日本で言う『護符』なども同じことだと思う。
畏怖の心を持ち、世俗的なことを一切排除した神聖な言動・精神で向き合うことが如何に必要なことであるかが明確に理解できる。そして己の欲がある限り、それは両刃の剣となる。

霊学の探求は、生きるか死ぬかの二者択一なのかも知れない。だが、私は霊学を探求し続ける道を迷うことなく選ぶ。なぜなら、己の欲というものに魅力を感じないからである。

私はいつも上を見上げていたい。
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2008年06月26日

天界からの音楽

「天界からの音楽(メッセージ)天国の兄から地上のスピリチュアル・レターズ」という本を読み終えた。
霊界へ行った兄のジークヴァルトの繊細な波動があまりにも心地良くて、今も尚、薔薇の香りに包まれているようだ。

この霊界通信はルドルフ・シュタイナーもめったにお目にかかれない種類のものだと述べ、喜びに満ちたようだったという。

私は家族に死ぬまでに必ずこの本を読むようにと勧めた。それだけ魂の内部にまで入り込んでくるバイブレーションを伴った内容だからである。
ただ、今は絶版になっているが、古書としてはまだ何冊も出回っているようだ。このような素晴らしい本は再版されるべき価値あるものだと思う。

ジークヴァルトは語る。霊界ではこの世以上に感受性が強いものとなると。だからなのだろうか、霊界で大切なものは感情と心情なのだと。

そして、死者にとって遺体とはそれほど大切なものではなく、まだこの世に生きている人々の死者への感情や思索こそが大切であると語る。
死者にとって生きている人々の悲しみの感情はとても苦しく辛いものとして入ってくるし、霊界での進歩の妨げにもなるとも。

また、霊界においては祈りだけが助けとなるということについても通信してきている。

われわれは本当に霊界のことに関して無智である。なぜ人間が生きているのか、生きることが出来ているのかを考えたなら、それをたんなる物質として見ることだけでは説明できないというが分かりきっているのに、悲しいことに、今も尚、一部の非常に遅れた知性の人々は唯物論だけに支配されている。唯物論は限界を知る学問でしかないというのに。

また、愛する人を失った人は何も悲しむことはない。抜粋する。

「魂がお互いに親密な関係にあるとき、優しい糸が人と人を一つに結び合わせます。この糸は時間の経過とともにいっそう強いものになるので、たとえ誰か一人がこの世を去ったあとにも、生きている者と死んだ者のあいだにつながりが持続します。

そして同じ種類の思考、感情、願望を抱く人びとがサークルを創るときには、このような人と人の結びつきが非常に重要な意味と力をもつようになります。」

ジークヴァルトが語るように、魂に於いて親密な関係だったものは霊界へ移行したとしても持続される。
それと同時に、嫌な相手、憎む相手などに強い意識を持ち続ければ、それはその相手との絆を深めてしまう。
だから、負の感情のある相手を許すのが理想だが、そう出来なければ意識から外すことだ。もう、過ぎ去ったことなのだとね。

この地上に生きているわれわれは、希望を内包する未来を構築していかねばならないのだ。それが人類のためでもあり、愛する者のためでもあり、自分個人のためでもあるのだ。

また、霊界へ赴いた霊は地上でもそうであったように、さらに学びたい、成長したいという思いが強いと言う。だからわれわれは霊人達と共に学ぶことが求められている。

ジークヴァルトは地上の家族達に求める。霊的な努力をし続けてくれることがお互いに影響を与えながら、仕事を続けられることだと。

そして、自分の物質体に気を配ることは人間の役目だとも語る。

「霊界の偉大なマスターたちは、かつて地上にいたころ、高次の霊の価値ある乗り物として自らの肉体を愛し、育ててきました。ですから自分の物質体に気を配る事は人間の役目なのです。なぜならもし物質体が病的で、ひ弱なものであるならば、霊は肉体のなかにいても幸せを感じないからです。もしそうなれば、完了しなくてはならない人生の時間は、その人にとってあまりにも長い、いわば拷問のようになってしまうでしょう。

肉体を霊的なもののために役立てるためには、霊はそれにふさわしいものとなるように肉体を養わなくてはなりません。ただし、肉体を楽しむために感覚的な快楽にふけることは間違いです。霊が自らの衣裳である肉体に満足するような方法で、自分自身に気をくばってください。

人間の魂は繊細で優しいものです。それはあらゆる思考に反応し、思考によって色を変えていきます。魂は簡単に傷つきます。嫌悪の思考ですら、魂の優しい網を傷つけます。」

いつも夢解釈をしてくださっているひつじさんも、よくおっしゃること。夢の主は体のことを一番心配している、と。
たかが肉体ではなく、それがもつものの意味はあまりにも大きく深遠なものなのだ。

私は自分の肉体を霊的なもののために役立てたい。だから、大事にしよう。ふさわしいものとして養おう。そう、思う。

それから、人生のどんな小さな出来事も、地上に降りる時に自分で決めてきたことだとジークヴァルトは語る。
だから、ある種の短絡的な思考の人びとは、持っている波動がどうの、類は類を呼ぶとか、前世の因縁がどうのと非常に稚拙な思考で簡単に纏めたがるが、実際、主管をなすものは霊界における自分の意思決定なのだ。

故に、何か事にぶちあたったなら、それをどうしたらよりよく成し遂げることが出来るか、なのである。それには霊的な深い洞察力も必要になってくるのではないだろうか。

次に、本の中に書かれてある「三つの道」というのを抜粋する。人間はそのうちのどれか一つを自由に選べるのだと。

―――――――――――――――


三つの木の頂は、樹冠とともにエーテルの青の中に到達する

三つの道は太陽に照らされた頂上へと続いていく

その三つの道とは

 愛、あるいは譲歩の道

 信仰、あるいは謙虚さの道

 苦しみ、あるいは断念の道


―――――――――――――――


最後の道を歩む人はほとんどいないが、この道を選んだ孤独な魂たちは、すばやく上へと昇っていく。彼らは勝利をおさめようとする強い意志から生まれる力によって運ばれていき、そして彼らはすでに低次の自我、つまり勝利にいたるための乗り物として利用してきた地上の覆いを脱ぎ捨ててしまったのであるという。

きっと、十字架のヨハネや出口王仁三郎はこの最後の道を選んだのだろう。



私はこの書を読んで心が軽くなった。先を見て生きるということを心深く感じたからである。そして、たぶん、これからは一つ一つの小さなことに勝利をおさめる努力をし続けるだろう。

この書のかなで好きな言葉。「真理こそ主音である」
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2008年06月25日

飛翔

まず感じてください。次にあなたたち自身が神の啓示の杯になることをめざしてください。この杯の澄んだ水のなかに、創造主はみずからの姿を映しだすことができるのです。

「天界からの音楽」 より抜粋


また、この本のなかには、霊界で物事を理解するのに役立つのは、感情と心情だけだという霊界通信が書かれてあった。高次の感情のみによって物事を理解し、あらゆることを判断するのだと。

この重い肉体は足枷のようだけれど、だからこそ、今、養っていくことの出来る感情や心情はどんな宝石よりも尊く、ダイヤモンドよりも堅く強い。

より深く、より豊かになるように自分を高めたい。ボロボロになってしまっている傷だらけの感情もあるだろうが、でも、私は上を見上げ続ける自信がある。強くなれる自信がある。

私には翼がある。翼があると思う。飛翔。
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2008年06月06日

弥勒

今日、何気なく、持っている王仁三郎に関する書を見ていた。そして、その中の一冊である『弥勒下生』をパラパラとめくっていたら、「六六六の大神・五六七の大神」というタイトルに目が止まった。(なんといっても、書は買うものの全く目を通していないものも数多くあるのだ。)

そこで初めてはっきりと六六六の大神と五六七の大神のことを知った。

少し抜粋してみよう。

「天も水(六)中界も水(六)下界も水(六)で世界中の天地中界三才が水(六)ばかりでありた世に一番の大将神の御位でお出であそばしたので六(水)を三つ合わせてミロクの大神と申のであるが、天の水の(六)の中からヽの一霊が地に下りて五(火)と天とが固まり地の六(水)にヽの一霊が加はりて地は七(地成)となりたから、世の元から申せばミロクは六六六なり今の世の立直しの御用から申せばミロクは五六七と成るのであるから六百六十六の守護は今までのミロクで、これからのミロクの御働きは五六七となるのであるぞよ。」



思わず、今月の卦に出た「坎為水」のことを思い出した。そして気がつけば、今日は6月6日。妙なるかな。
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2008年06月02日

聖杯

ルドルフ・シュタイナーは語る。

『人間のアストラル体は将来、自由になります。そして、物質的身体の外から働きかけます。今、地球のアストラル体が薔薇に働きかけているのと同じです。いま、薔薇という植物として低次の段階にあるものが、人間薔薇として高次の段階で現われます。

黒い木の十字架を取り囲む薔薇の花輪は、本当に人間の進化の印です。黒い木は私たちに、死滅するものを示します。それは人間においても、死滅するものの像です。

赤い薔薇は、さらに進化するものを私たちに示します。それは、植物の萼が太陽に向かってみずからを差し出すように、精神的な日光にみずからを差し出す聖杯にまで進化するでしょう。

赤い薔薇に取り囲まれた黒い十字架、薔薇十字がこの過程を私たちに、イメージで示します。

大切なのは、その象徴をただ単に考えるのではなく、その象徴を感じることです。赤い薔薇を感じるときにのみ、赤い薔薇は私たちに「君たちはいつか、このイメージのようになるのだ。このイメージは人間進化の目標を示している」と語ります。

その際、心魂が開き、私たちの感情が純粋になると、私たちを高次の世界に導く力が、私たちのなかに解き放たれます。

そのように、この象徴は私たちの心魂に働きかけます。この象徴は私たちの心魂を力づけ、私たちの心魂を練り上げます。この象徴は人間を教育する、最も偉大で最も効力あるものです。』



黒い木を取り囲む赤い薔薇の花輪。人間薔薇としての自分。死滅するものと進化するもの。

瑞々しい赤い薔薇。胸の空くような芳香。溺れてしまいそうなほどの甘美。それでいて張り詰めた透明な感覚。若々しく、希望に満ち、そして太陽を真っ直ぐ見ている。日の光に全てを委ねる安心感。

イメージすること。そうすれば感じる。
感じること。そうすればイメージはより豊かなものへと変化してゆく。



また、シュタイナーは、薔薇は植物の性質を有し、赤い血の色も有していると述べ、薔薇が赤いのは、地球のアストラル体の集中的な作用の結果であり、薔薇十字の赤い薔薇は、血液によって到達されるものを示すと語っている。

低次から高次への移行。

黒い木を取り囲む赤い薔薇の花輪。純化への道。
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2008年05月25日

人間創造

シュタイナーは、昼間に体験したことについて次のように述べている。


「アストラル体と自我は、眠ってから目覚めるまでの間、別の世界に赴きます。そこではアストラル体と自我が昼間体験したことのすべてが、余韻をひびかせています。そこではアストラル体と自我は、はるかに霊化されており、はるかに自由な仕方で、オイリュトミーや音楽の体験を追体験しているのです。すべてをもう一度やっているのです。」


霊界物語を音読していた時、その日に読んだ箇所が夢の中で何度も繰り返されるのを体験していたのだが、なぜ霊界物語だけこのように強烈に引き起こされるのだろうかと不思議に思っていた。

「霊界物語」が「神の書」と言われる所以がこういうことにもあるのだろう。
眠っている間の追体験。

それと同時に、如何に吾々人間の目覚めている時の姿勢が大切であるかということ。
時は刻まれ続け、そして瞬間の連鎖という永久は霊体に刻まれ続ける。

創造。
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2008年04月24日

人魚の涙

霊界物語八十一巻の音読を終えた。
だが、八幡書店から出版されているものは、「山河草木 入蒙記」という特別篇が最後に入っているので、それを読んで終了ということになるかと思われる。

今は、八十一巻を読み終えての感想を書こうと思う。

日本は世界の雛型と言われ、日本列島は五大陸と相応しているとのことだが、特に八十巻、八十一巻では、元来言われている場所とは違うところとも重なり合い、何か幾つもの空間がオーバーラップしているかのような不思議な感覚を覚えた。

それと同時に、大変な動力を要した最後の二巻でもあった。まさに、自分の霊・体の立て直しを図っているかのようでもあり、試されているようでもあった。
音読することにより音霊が飛び出て、実体となり、それが再び自分に返って来る。それを、どう受け止め、どう対処するか。

美なるものも醜なるものも、善なるものも悪なるものも全て己の血の中に内包されている。それをどのように配分させ、抑え、昇華させて行くかということへの直面。

そんな中で八十一巻では指針が次々と示されていく。第五章では、イドムのアヅミ王が「エールス王も主の神の貴の御子なりたゞに許せよ 吾御霊神に離れし罪なれば エールス王を怨むに及ばじ」と、己の罪を認めて改心し、侵略者のサールのエールス王を許している。

また、第十六章では、アヅミ王の娘チンリウが、乳母とその娘センリウの邪悪な奸計により殺されるところだったが、琴平別の化身の亀に救われて次のように歌っている。

「アララギの深き奸計は憎けれど 吾は忘れむ今日を限りに たのみなき人の心を覚りけり 乳母アララギの為せし仕業に センリウは吾身に全くなりすまし 后となりてゑらぎ居るらむ 外国の仇の王の妻となる センリウ姫は憐れなりけり 吾霊魂身体共に汚さるヽ 真際を救ひし彼なりけり かく思へばアララギとても憎まれじ 吾操をば守りたる彼 暫くの栄華の夢を結ばむと 仇に従ふ心の憐れさ 吾は又心の弱きそのまヽに 仇に身魂をまかさむとせし ありがたし神の恵の深くして 吾が身体は汚さずありけり (略)」 

人魚達を苦しめ泣かせて流させた涙は真珠となり、その真珠によって美や長寿を得てきたイドム国の国津神達。

私は、思った。人魚は純化された存在。人魚達の犠牲によって得られ保たれてきたもの。人魚の涙がもたらしたもの。その大きさを、その厳格なる力の恐ろしさを、希望を。

また、第十七章では次のようなことが書かれてある。
「悪人の栄えて善人の亡ぶべき例は神代にあらじと思ふ」と歌う、アララギ等の奸計を王に知らせようとしてかえって怒りに触れ島流しにされたサール国の朝月の確信、信念。 

そして最後は敵国などということは関係なく、超越し、正義に基づく正しき人々が集い主の神を奉り祈願して国政を布いていく。

奇しくも、光市母子殺害事件判決によって、世の中は混沌とした中から何らかの道しるべを模索しようとし始めている。

朝香比売の火による洗礼、顕津男の神の国魂生み。霊と体共に回転し、大きな聖なる渦を巻き起こす。そして、それは、やっと始ったばかりなのだ。

PS:私の誕生石は真珠。しかし、かつては真珠が嫌いだった。真珠を美しいとは思えなかった。しかし、ある時期から真珠が好きになった。誕生石でよかったと思えるようになった。それは、霊界物語に出会うよりずいぶん前のことではあったが。
また、外国人は真珠の豊富な日本を羨ましがっているという話を聞いたことがある。真珠を欲しがると。
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2008年04月15日

聖火

今、霊界物語八十巻を読んでいる最中だが、第十三章からの火炎山の描写は、現在の聖火リレーとも重なる。

中国のチベット問題に対して、世界規模で抗議運動や妨害が起きているが、それが聖火というものに集中している。その状況がやけに霊界物語と重なるのだ。
posted by ミューシャ at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2008年04月03日

祈りの清泉

シュタイナーの「精神科学から見た死後の生」より抜粋。


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比較的最近まで。生者と死者とのあいだのいきいきとした交流が、今日よりずっと活発だったことが見出されます。生者と死者との交流は、次第に困難になってきました。中世のキリスト教徒、何百年か昔のキリスト教徒は、祈るとき、先祖や亡くなった知人のことを思ったものです。当時は、祈る人の感情が今日よりもずっと力強いものであり、死者の心魂へと突き進んでいったのです。

昔は祈りのなかに、死者のことを思う人々から、暖かい愛の息吹が流れてくるのを、死者たちの心魂は、容易に感じることができました。

今日のような外的なことばかりが重要視される文化では、死者はそのような愛の息吹を感じられなくなっています。今日では、死者たちは生者から断絶されています。地上に生きている者たちの心魂のなかで何が生じているのかを見るのが、死者たちには大変困難になっています。

これは人類の進化に原因があることなのですが、生者と死者との生き生きとした交流を、再び可能にしなくてはなりません。

かつては、完全に意識的なものではなかったとしても、死者とのいきいきとした関係が、人間の心魂には自然に備わっていました。

かなり以前から、人間には透視的なまなざしがなくなっていたので、死者との関係を完全に意識することはできませんでした。しかし太古には、生きている者が透視的なまなざしを死者に向けることができ、精神世界における死者の人生を追っていけました。

かつては、死者といきいきと交流できることが、人間の心魂にとって自然なことだったのです。

今日、私たちの心魂は高次の世界、精神世界についての思惟と理念を身に付けることによって、再び死者といきいきと交流できる力を見出すことができます。精神科学をとおして生者と死者とのあいだに再び橋を架けるのが、人智学(アントロポゾフィー)的な生活の実践的な課題の一つなのです。


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祈りとは何か? 祈りというものの本質は何か? それをシュタイナーの見解は明快に教えてくれる。

自分の外的なことへの祈りは欲望から発せられている。それは祈りとは呼べない。むしろ神を冒涜し、死者を冒涜した行為。

祈りとは死者との交流をし続けるための愛の行為。死者を敬い、生きとし生けるものとして死者に対し礼節を尽くして向かうべき行為。
だからこそ神へと繋がることが出来るのだ。

死者を蔑ろにしていたなら、死者を生ける霊人として対せなかったなら、それは当然神へと繋がらない。途中の糸を切ってしまったのと同じことだから。
蜘蛛の糸。そんな話しがあるが、自分のことだけしか考えられずに他の死者の霊を見捨てたなら、神からの糸は失われる。教訓的物語。

この世は多重構造。物質だけの世界で成り立ってはいない。そして霊人というのは、常に肉体を持つ吾々と共に生きたいと願っている。
また愛の息吹は、大きな流れを生み出す可能性を秘めた希望となるのだ。
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2008年03月10日

安心立命

この一年を振り返って思う。全く予期せぬ環境の中へと放り込まれ、他の人たちがして来たようにように、ただ仕事をこなすということだけに留めることもできた。

だが私はその杜撰な体制を目の前にして黙っていることは出来なかった。まず、形を整えなければと。そして、後任者のためにマニュアルも作り上げなければならないと思った。それと同時に、意義あることも成功させなければならないと。

全くの公としての生き方だった。自分のことなど構っている暇はない。後ろを向いている暇はない。限られた時の中でやれることをやらなければならないと。

そして最後はとんでもない難題が降りかかり、私はスパークしたのだが。

だが、そんな歩みをしていると、中には私の足を引っ張ろうとする輩も出てくる。その心の動きは手に取るように分かるのだが、敢えて私は何もしなかった。

昨日のブログで、スウェーデンボルグの『悪霊から身を守るためには、「心を正しくし、行いを正しくする」という一語に尽きる。』という言葉を紹介したが、これはまさにその通りなのだ。

足を引っ張ろうとする輩には、それをやろうとすること全てが、その人自身に帰された。結局は、自分が大変な思いをする状況を作り上げただけなのだった。

私はそんな状態を見ていて思った。善霊は人間が善なる心で正しい行いをしている時は、それこそ全身全霊で守ってくれるものだなと。

この一年間で学んだこと。それは正しく生きるなら、いつでも安心していてよいということ。神に委ねる平穏な気持ち。安心立命。
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純化〜天の理

先日買ってきたスウェーデンボルグの本を読み終えた。面白いもので、今は理解出来る。実感できる。納得できる。そういうことが多々あった。

例えば、私はブログの中でも教育について書くことが多い。特に、教育者の質を問題にしている。

スウェーデンボルグは、霊界では子どもを教育する専門の霊がいて、そういう霊は善霊の中でもとくに高級な霊だという。

霊界でも現界でも同じ。だからこそ、人間にとって教育が最重要課題となるのだ。
まず、教師の質。それを向上させなければ始らない。

また、子どもに危害を加える者には、霊界ではとくに厳しい刑罰が課されているという。その刑罰を受けた悪霊は、それ以降危害を加える能力を失ってしまうほど凄まじい刑罰のようだ。

この世でもその罪の重さは同じこと。弱い立場の子どもに危害を加えることは決して許せるものではない。現実界の法律が甘くても、その罪は重い。

教師の生徒へのいじめ。これは、まさに恐ろしいこと。また、えこひいきによる差別。これも残虐な行為。

教師も親も、その立場は重要なものだと真摯に受け止め、歩まねばならない。

また、善霊と信頼関係を築きたいなら、真摯に純化への道を歩まねばならない。

スウェーデンボルグは次のように語っている。要約抜粋してみる。

『霊は善霊、悪霊を問わず、人間の中に自分と似た性質を見出すとうれしがるという基本的な性質がある。その人間の中に、もともと善があればそれを発見して善霊はうれしがり、、一層その人間に対する力を強める。逆に悪霊は悪を見出せば一層力を強める。だから、悪霊から身を守るためには、「心を正しくし、行いを正しくする」という一語に尽きる。』

また、彼は高いレベルの霊に次の質問をした。
「天国では何もしないでのんびり暮らせるのが楽しみか」

高いレベルの霊は答える。
「そんな怠情な生活には何の喜びもない。それでは喜びも消えてしまい、生は嫌悪すべきものになってしまう」

私は、この点にも頷ける。娯楽に耽ったり、酒を呑んだりして、なんら向上出来ない時間を費やすことの虚しさ。
人は言うかも知れない。酒を呑めば気晴らしが出来る、コミュニケーションを取るには必要不可欠だなどと。
だが、それは言い訳にすぎない。本当に霊学の道を歩む人間なら、実のある、秩序ある生活の中に生きているはず。そう、生きている。

スウェデンボルグは言う。霊の世界は「天の理」によってつくられた世界で、その「天の理」をどれだけそれぞれの霊が認識し、理解し、それを自分の中に受け入れているかによって、いろいろなレベルの国が作られている。そして、霊の生活の目的とは「天の理」にどれだけ近づき、どれだけ霊的人格を完成させるかという一点にしぼられていると。

また、霊界には絶対的な秩序があり、その秩序は根本的には「天の理」によってつくられて運営されているとも語る。

霊界も現実界も同じ。ただ、霊界は同じレベルの霊たちで作られる集団であるのに対し、現実界では様々な人間達が共存している世界。
だからこそ、そのなかで「天の理」に叶った秩序をどれだけ自分の体のなかに染み込ませることが出来るか、それが霊学の道を歩む人間のしなければならないことなのだ。

天界では止むことのない純化、いってみれば新たな創造が常に続けられているというのだから。
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2008年02月03日

禊と瞑想

禊の振魂の行事というのは、瞑想と同じことなのかと思った。シュタイナーもまた瞑想について言及しているが、不純物の除去には形から入るというのは人間には適した方法なのだろう。
ただ、安易に瞑想と言っても間違った瞑想法は危険極まりないもののようだが。


霊界物語から抜粋。

――――――――――――――


此の振魂の行事に由りて、精神内包の妄念邪想を鎖鎮すると共に、身体各部の反対的孤立的の活動を制御し、自己の根本精神を中心としたる全身の統一的活動を為すなり。

―――――――――――――




また、禊の間の食生活のことも述べているが、私もそのうち自分だけの時間が多く持てるようになったら徹底してチャレンジしてみたいと思っている。

しかし面白いものだ。ほぼ同時代に生きていたシュタイナーと王仁三郎。一見違うかのように見えて、実は同じようなことを述べていることが多いのだから。
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2008年02月02日

霊の息〜水火

今日は一日のほとんどを料理に費やした。中国から輸入した冷凍餃子が問題になっているが、便利な世の中とは危険ともまた隣り合わせということなのだろう。

霊学を研鑽していると体が敏感になる。食生活においても然り。冷凍食品や、市販されている惣菜を食した場合、体のリズムや精神状態の不足感を覚える。

自分の目で確かめた食材で一から作る時、その労力は大変だが、満たされ、活力が湧く。

わが家の榊は長く生き続けている。何も特別なことはしていない。普通に毎日、水道水で水を替え、枝を手でやさしく洗うだけ。

料理人〜料理〜食する人。この流れはとても大切なこと。人間の持つエネルギー。それについて真剣に考えるべきだ。

食育という言葉が頻繁に聞かれるようになってきたが、共働きの家庭が普通となり、結局は利便性の良いものへと流れる。
子どもたちは精神的に不足を感じ、それが蓄積されて行く。子どもを育成することが柱とならない時代が現代。お金で解決しようとするのが現代。



救急患者のたらい回しが問題となっている。医者の数が足りない、病院勤務は敬遠されるなどの報道がされている。

医者になりたくても、大学の医学部は他の学部に比べて授業料は高く、経済的に余裕のある子どもでなければ進学できないのが現状。
国は医者不足を解消しようと本気で考えるなら、医学部の授業料を低く設定し、本当に志のある人間だけが卒業し、資格を得られるようなシステムにするべきではないだろか。


教育で今、話題の中にあるのがフィンランドの教育現場のこと。フィンランドの教師は尊敬される高い地位にあるという。それには、日本で言う大学院を卒業し、しかも半年の研修期間が義務付けられている。その研修も日本の付け足しの様な研修ではなく、チェックする専門家が付いているのだ。人によっては、その研修の厳しさに耐えられずに教師になることを断念する人もいるという。

高度な知能と、強い忍耐力、そして人間を見る目を持つ。それが教師に求められること。
教師の質で、子どもたちは大きく影響を受ける。日本の教師の質は、もっと上げられるべきである。今の日本の教師達には幻滅を感じさせる人間が多い。他の世界の多くの人間達を見て来れば来るほど、それは明らかなこととして目に映る。

また、各市町村での採用において、縁故関係が大きな関わりをもつことは避けるべきだ。その時の教育委員会の人間や校長の発言権の大きさに驚かされる。まさに、独裁政治のよう。
こういった恐ろしい状態を無くすには、国レベルで採用し、各市町村に振り分けることがいいように思う。縁故関係の採用が続く限り、本当に志の高い素晴らしい人間を失うことになるだろうから。

日本には、教師の能力を裁定する専門家が存在しないこと。それは、おかしな状態ではないだろうか。



その人間を見抜く材料というものは、けっこうあるものだ。食生活はどうしているか、飲酒や煙草はどうか、他者と自分とどちらをより優先的に考えることが多いか、空腹時の状態はどうか、飲酒したときにどのように変化するか、歩いていて人とぶつかりそうになったときどうするか、切羽詰った時にどういう言動に出るか・・・・・などなど、あまりにも多くの判断材料は転がっている。

もし、霊学に関わっているといっても、自制心が無く、他者を振り回してばかりというのでは、むしろ霊学に関わることを断念したほうがいいだろう。それは、罪を重ねているに等しいからだ。霊学に無智でいる方が、かえってその人間には幸せなこと。

霊学というのは、ふざけた心構えでは出来ないということ。まさに、真剣勝負だからだ。

祝詞にしろ読経にしろ、一人で奏上する時と、みんなで一緒に奏上する時とどちらが気持ちよく、そして集中できるだろうか?

私は一人で奏上するのが好きだ。他の人たちと一緒だと、自分のリズムや音程、イントネーション、すべてが乱されてしまうから非常に疲れるし、気分も悪くなる。
また、自分に穢れを感じた時には、祝詞は奏上できなくなる。

そうしたら、霊界物語を読んでいて確証が得られた。そこの箇所を抜粋しよう。


――――――――――――――――


 言霊の水火の全く澄み切りあらざる神の水火を交ふる時は、宇宙に混乱を起し、修理固成の神業成り難ければ、斯く取計らひ給へるなりき。

 吾曾て四尾山に登り、数多の信徒と共に天津祝詞を奏上し、神言を宣り、七十五声の言霊の限りを尽くして奏上しけるに、山麓を隔て丶程遠き大本の事務所に明瞭に聞こえたるは、吾言霊のみにして、其他の人々の声音は混乱其極に達し、只ワアワアと聞こゆるのみなりしと、大本の役員等は吾に語りたることあり。

斯の如く濁りたる言霊を異口同音に一度に唱ふるは、反って天地の水火を乱すものなることを知るべし。

朝夕神前に唱へ奉る神言と雖も、常に信徒の濁れる声音にかき乱されて、清澄なる言霊を奏上し得ざるを以って、大本大祭の他は信徒と共に奏上する事を神に恐るヽが故に、中止し居るものなり。


――――――――――――――




出口王仁三郎の真似をするなら完璧に真似る努力をすることだ。しかし、霊界物語をろくに読まずに、しかも自分勝手な解釈でやろうとする輩は、まさに罪深き人間であり悲しむべき人間である。

斯く言う私も、しっかり真摯に霊界物語を読むことから始めたいと思う。
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2008年01月26日

言霊〜受胎

シュタイナーの説明は、霊界物語の天祥地瑞を読む上でも非常に参考になる。『神殿伝説と黄金伝説』から少し抜粋してみよう。



さて、発生の力と性的な生産力は、オカルト的に関連しています。「言葉」は、すべてをもたらしました。原初、言葉は人間の中に生きていました。そして人間から言葉が失われました。言葉が欠けているので、人間はもはや独自に創造することはできません。創造の場に居合わせた者だけが、その言葉を知ることができるのです。

トバル・カインはそれを知っていて、ヒラムに伝えました。生産力をふたたび得ようとする者は、この言葉を手中に収めなければなりません。本当の生産力は、言葉とひとつにならなければなりません。

言葉は未来の人間を生じさせるでしょう。その時には、ヒラムの息子を本当に見ることができるようになります。神の力である火が、新しい仕方で生じるでしょう。新しい性が、古い性に取って代わるでしょう。―――古代ヘブライ語のマントラには、それを十分力強く発生すれば宇宙を生み出す、といわれているものがあります―――言葉が十分に高められたとき、人間は言語そのものを通して霊的な人間を生み出すでしょう。


――――――――――――――――


シュタイナーはまたフリーメーソンが目指した理想は、男の喉頭部での力でヒラムの新しい息子を生み出すことだとも述べている。男の声変わりは、この先触れと見做してもいた。

また面白いことに、王仁三郎は変性女子・変性男子ということも打ち出しているが、シュタイナーは霊的な自然が分裂したときに、女の個体の場合、霊は男性的特徴と男性的色合いをもち、男の場合の霊は、女性的な特徴を持っていると述べている。

シュタイナーのこういった見解の流れを読んでいくと、天祥地瑞の流れがすーっと理解し易くなるのだ。
シュタイナーの整然とした理論と、王仁三郎の感覚の両面からの受胎。
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2008年01月16日

言霊ゆえに

王仁三郎は、天祥地瑞を読む時には、手を洗い、口を浄め柏手をし、正座をして行うようにと、信者達に厳しく言い渡していたという。


言霊の天照る国よ言霊よ
     真言濁れば国は乱れむ

朝夕に生言霊の響きなくば
     この天界は曇り乱れむ

言霊は総てのものヽ力なり
     心清めて朝夕宣れよ

澄みきらふスの言霊の御水火より
     正しき尊き神はうまれむ

濁りたる神の言霊世に凝りて
     曲神達は生れ出づるなり

高照山醜の大蛇も神々の
     言霊濁れる酬いとこそ知れ

「天祥地瑞」より抜粋




「初めに言葉ありき」とは、聖書の中の一説。霊界物語では、次のように書かれてある。

言霊の水火より成り出でましヽ神霊すべてを神と称へ、神と神との嫁ぎによりて生れませる神霊を命と言ふ。



言霊の重要性。天祥地瑞を音読し続けるうちに、発音する一音一音がとても大切なものと思えてきた。一音一音に心をこめて言わなければならないと。
脳裏を流れ行く光景。その中に入り込み、でも、客観的に見ている自分がいる。

この天祥地瑞そのものが、まるで祝詞のように思える。ふと、思った、かつての斎王のように、整えられた環境で音読することが出来たら、どんなにいいことだろうかと。

しかし、現実は現実。その中で音読する時には、自分の周りの空間を斎庭とするべく、自身を清めなければならない。自身を清めることによってのみ、この天祥地瑞の世界に入ることが許されるのだろう。そう、思った。

私は、今、天祥地瑞を前にして、畏怖という滝に打たれているかのようだ。あまりにも張り詰めていて透明。球体であることが繊細。ほんの少しの穢れでも、その球体は粉々に壊れてしまいそう。
だから、納得のいかなかった箇所は、何度でも繰り返し音読してから先へ進んでいる。

真摯に、ただひたすら真摯に一点の曇りも持たずに向かわなければならない。向かいたい。
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2008年01月12日

神の子

夕食の時、下の子とこんな会話をした。

子「学生かばんに新しく付けたお守りをみんなが可愛いと言ってきたんだけど、その中の一人が、そのお守りを指でピンとはじいたんだ。それで、お守りにそんなことをするとバチが当たるんだよ、と言ってあげたら、その子ったら面白いんだよ。え〜、本当?と言って、一生懸命お守りにごめんなさいって謝っているのだもの。あ〜、面白かった。」

私「純粋ないい子ね。」

子「基本的に、自分は神様存在を信じているからね。」

私「へ〜、意外ね。なんで?」

子「幼稚園生だった時、お金が両手いっぱい、たくさんもらえますようにって毎日神様にお願いしていたんだけど、全然聞き届けてくれないから、それならもう神様なんていないんだろうから、明日ゲロ吐いて身体の具合が悪くなりますようにって祈ったんだ。そうしたら、本当に翌日ゲロ吐いて具合が悪くなるんだもん。前日までは元気だったのにね。だから、もうかなり驚いて焦ってしまった。それ以来、やっぱり神様はいるんだと思って、その存在を信じているんだ。でも、神様って、なんでいいことは叶えてくれないんだろう?」

私「それはね、善神と悪神がいてね、善神というのはその人の成長を願うものだからそうそう甘やかしてはくれないのよ。それに比べて悪神は人間の欲望を比較的叶えてくれるかも知れないけれど、それによってその人は退廃して行ったり、または、最後にドーンと地獄へ突き落としたりして喜ぶのよね。でも、大丈夫よ。その人にとって本当に必要なお願いだったら、善神は手助けしてくれるから。」

子どもはふ「ふ〜ん」と納得したようだった。



今日、ふと、思った。私は子どもの頃、母が作ってくれるお弁当にいつも安心していた。労苦を惜しまず愛情だけで作ってくれていたからだろう。
そして、そんな母を見てきたせいだろうか、今、私は子どもたちのお弁当を作るとき、やはり早起きをして愛情を注いだものを作っている。

だが、時代は変り、今の子供たちに同情をするケースは多い。共働きの反動だろうか、それとも便利な時代に麻痺してしまったからだろうか、お弁当も朝食も作ってもらえない子どもたちが増加している。

親が朝起きれないからと、コンビニで昼食を容易する子が多い、しかも、パンだけとか、おにぎりだけという、育ち盛りの子には良くない栄養の偏ったもの。
日曜日や祝日に何かあった場合、子どもが出かけるときにまだ親が寝ているということもよく聞く。

何かが歪んできてしまっているのではないか?
親が親でなくなってきてしまっているのではないか?
子どもを溺愛はするが、実際は親自身が親になりきれずに子どもの感覚のままなのではないだろうか。

人間は、一日一日変化していく。成長もするが、後退もする。親になるということは、自分の欲求を抑えられる自制心を持つということ。家族のための犠牲心を持って動けれるということ。忍耐強い人間になるということ。

人一人、育て上げるのである。中途半端な覚悟では出来やしない。もし、自分だけを可愛いと思うなら、決して子どもを産んではならない。子どもは、アクセサリーでも老後の保障でもないのだから。人間なのだ。この世の中にたった一人しかいない人間なのだ。そこにスペアなど存在しない。親は、子どもを正しく健全に育てる責務があるのだ。
posted by ミューシャ at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年12月19日

最近は、天皇は男系か女系かということがあまり話題に上らなくなったが、霊界物語には、はっきりと書かれていた。



六十九巻第七章より抜粋。

『三五教教にも女のお世継ぎが良いと示されてあるではないか。女の世継としておけば、腹から腹へ伝わつてゆくのだから、その血統に少しも間違いはない。もし男子の世継とすれば、一方の妻の方において、夫に知らさず第二の夫を拵へてゐた場合、その生まれた子は何方の子か分からぬやうになつて来る。それだから却つて女の方が確実だ。』



むか〜しむかしは、お世継のためにいろいろな策略が渦巻いていた。だから、男系としてきた天皇家が確かな血統を受け継がせて来たかどうかは定かではないだろう。

私は以前から女系賛成派だったが、人は女のお腹の中から生まれ出でて来る。これは、とても重要なこと。




話は変るが、最近、面白いことに遭遇した。かつて、この町の小学校の教師だった人が書いた本を随分前に読んだことがある。その本を読む限りでは、なんといい雰囲気で良いところだったのだろうか、なんという素晴らしい師弟関係が築かれていたのだろうかと思わされる。

しかし、その教師の教え子の話を聞く機会があった。そして、その教師は大変な暴力教師だったということを知る。訳もなく暴力を振るっていて、子供たちは恐怖に怯えた日々を送っていたと。

日本書紀も古事記も、時の権力者の意向に沿って書かれたもの。きっと、こんなふうに書き上げられたのだろう。
真相を知るということは、本当に難しいことである。
posted by ミューシャ at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年12月15日

石笛と精霊

久しぶりに石笛を吹いた。
吹き方を知らないが、その時々の思いのままに任せている。

今日は、腹の底から息を出して強い音を出した。とてもとても大きな音。不思議なことに、様々な音階が出て、一種のメロディーとなった。

気がつくと、この町の悪しき人々の面々が流れていき、私は平和を願っていた。

朝から風の強い寒い日。窓はガタガタと音をたてていた。
だが、どうしたことだろうか、石笛を吹き終わると風は弱まり、窓は音をたてなくなっていた。

石笛は大自然の精霊達を動かすのだろうか。それとも、偶然か。
だが、確かなことは、悪しき心がほんの少しでもある時は、決して吹いてはならないということ。
石笛を吹くには、それに相応しいだけの透明体になっていなければならないということ。
恐ろしくもあり、希望でもある。
posted by ミューシャ at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする

2007年11月25日

甘露なる試練

今、霊界物語六十八巻まできたが、ここで再び一巻を読んでいる。すると、自分の読解力のなさ、記憶力のなさを痛感するのである。あ、こんなことが書いてあったのかとか、ここはこうだったのかというふうに。

あの頃は理解できないことでも、今は理解できる。あの頃は咀嚼できなくても、今は咀嚼できる。だから、たぶん、こんな感じでどこまでも行くのかも知れない。

また、それと同時に確証を得られることもある。たとえば、言霊。
ここまでずっと霊界物語を音読してくると、物語を読む自分の声の変化に気付く。そして、音読することが楽しく心地好く感じるのだ。

そして、環境にも変化が起きる。たぶんこれは、真摯に読んでいるからだろうか。
かといって、それは他者の為に動くという環境。でも、これは神のお望みになるところだと思う。自分が試されているのかな?


「日本は言霊の国といへども、身も魂も本当に清浄となつた人が、その言霊を使つて始めて、世の中を清めることが出来得るのである。これに反して身魂の汚れた人が言霊を使へば、その言霊には一切の邪悪分子を含んでゐるから、世の中はかへつて暗黒になるものである。」


他者の為に奉仕の心で動くことは、即ち、身魂の掃除。どれだけ無条件に愛の心で動けるか。それが、第一関門なのだろう。その心がなければ、偽善者にすぎない。そのような心がない人間には、神の意志を継ぐことは出来ない。

だから、私に訪れた予期せぬ劇的な状況は、喜んで受け入れるべき神の恩恵。

いつか、私も美しい言霊を使いたい。そのための甘露なる試練。
posted by ミューシャ at 00:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 神、霊 | 更新情報をチェックする