霊界物語の第六十六巻をやっと読み終えた。春から予想外のドラマが展開されて来た為に、ずいぶんペースダウンとなっている。
八幡書店発行のものを読んでいるが、一輯六巻収録で、全部で14輯ある。
だが、十二輯を取り出したとき、残り三輯であることに、やっとここまで来れたという思いと共に、なぜか哀愁が生じた。
私は私なりに霊界物語に真摯に向かい合ってきたつもりである。それが、あと三輯で離れることになるのだ。
そして、これを読み終えたら、再びシュタイナーをベースとして、他の様々な文献を読むことになるだろう。
旅立ちを伴う卒業。そう、なんか卒業式を迎えるときの気分と似ている。
まあ、先に一度、天祥地瑞は読んでいるので、実質的には、残り六巻というところだが、やはり、最初から読んでくると、このまま天祥地瑞を読みたくなるから不思議である。
たぶん、音読でずっと来て、いつの間にか発する音に変化が生じてきているからだと思う。
そういえば、いつか見ていたテレビの中で外国人の男性が言っていた。日本語はそれぞれの言葉に音があるから好きだと。
日本人に生まれたなら、日本語を美しく話したい。日本に生まれた幸せ。十分に堪能しよう。
さて、霊界物語の余白歌。けっこう、心に響いてくるものが多い。少し、抜粋しよう。
みわたせば野にも山にも皇神の
恵の花は咲きみちてあり
いやたかき神の恵みは仰ぎ見る
天つ御空も及ばざりけり
むつまじく教の友のよりあひて
誠の道をかたるうれしさ
魂は神のさずけし宝なり
夢おろそかにあつかひそ人
れい学をまなぶは良けれどたましひを
洗ひ清めしその上にせよ
常闇の世なりと人は悲しめど
真人の目には神世なりけり
まず第一に魂を洗い清めなければ、いくら霊学を学んだとてなんら意味がないこと。だって、濁った魂では何も分からないでしょ。汚れた鏡が、被写体をきちんと写すことなど出来やしないから。細部まで見ることなど出来ないからね。
それには、自分の魂も他者の魂にも礼節を尽くし大切にすること。もちろん、霊人たちにも。霊人とは、ほんとうに礼節を重んじ、律儀であるから。打てば響くもの。そういう世界が霊人と共にある。
神の恵はいたるところにあって、ちょっと心を澄まして見ると、涙が出るほど溢れていることに気付く。ああ、神様は大きすぎるんだな、すごく大きくて大きくて、見上げている首が痛くなるほどだ。
だから、ほんとうに心から誠の道を語り合える友といられるということは、最高の幸せ。語り合えるということの幸せ。きっと、神様も、そんな人間達の姿を微笑ましく見ているんだろうなと。
希望。どんなに暗闇の世界、絶望とも思える世の中でも、闇があるなら当然光はあり、光で照らすことは可能なのである。
真人の目には、どんな状況でも神世なのだ。なぜって、希望があるから。
2007年11月13日
2007年11月05日
霊の賛歌
久々にルドルフ・シュタイナーの本をパラパラとめくってみた。さすが、シュタイナーだ。意表をつくような新たな見方で、ずばっと確信を述べている。ちょっとだけ抜粋。
実際は、人間の身体が両親・祖父母・曾祖父母などに由来するように、精神・心魂は自らもたらしたものです。
精神・心魂が身体より前に存在したことを洞察しない者は、精神・心魂が死後も存在することを認識できません。せいぜい、精神・心魂は死後も存在する、と信じるだけです。「心魂は受胎以前に存在していた」と知ることによってのみ、人間の心魂の不滅が明らかになります。
神が人間を創造したのなら、人間が死ぬと、心魂も消えるでしょう。しかし、心魂が最初に存在し、それから身体が構築されるなら、身体が死んでも心魂は存在します。
「正しく観察できるものごとから、人間の心魂が存在することが、なんなく明らかになる」と思うことができます。
心魂が死すべきものを構築したのなら、心魂は死ぬものではありません。心魂が死ぬものだと相洞察するのは、まったく不可能です。心魂は身体を構築したものであり、身体とともに死ぬことはありません。
子どもの頭の中には、多くの見えない力が働いており、それが彫刻家のように人体を構築する。そして、新たに構築する力は心魂的・精神的な力であり、人間はその力を両親とはまったく別のところから持ってきていると彼は述べる。
そう、精神的・心魂的な力は両親から遺伝されるのではなく、母胎のなかに存在する以前に、精神的・心魂的人間として存在していたと。
何らかの縁で、今の両親から生まれた。しかし、個々の人間の流れは、それぞれ個々のものゆえに、輪廻が存在し、輪廻の目的がある。
長いスパンで霊魂というものをとらえたとき、それは時として、現実の苦しみさえ心地よく感じることがある。
希望。それは、人間に与えられた恩恵。
―――――――――――――
実際は、人間の身体が両親・祖父母・曾祖父母などに由来するように、精神・心魂は自らもたらしたものです。
精神・心魂が身体より前に存在したことを洞察しない者は、精神・心魂が死後も存在することを認識できません。せいぜい、精神・心魂は死後も存在する、と信じるだけです。「心魂は受胎以前に存在していた」と知ることによってのみ、人間の心魂の不滅が明らかになります。
神が人間を創造したのなら、人間が死ぬと、心魂も消えるでしょう。しかし、心魂が最初に存在し、それから身体が構築されるなら、身体が死んでも心魂は存在します。
「正しく観察できるものごとから、人間の心魂が存在することが、なんなく明らかになる」と思うことができます。
心魂が死すべきものを構築したのなら、心魂は死ぬものではありません。心魂が死ぬものだと相洞察するのは、まったく不可能です。心魂は身体を構築したものであり、身体とともに死ぬことはありません。
―――――――――――――
子どもの頭の中には、多くの見えない力が働いており、それが彫刻家のように人体を構築する。そして、新たに構築する力は心魂的・精神的な力であり、人間はその力を両親とはまったく別のところから持ってきていると彼は述べる。
そう、精神的・心魂的な力は両親から遺伝されるのではなく、母胎のなかに存在する以前に、精神的・心魂的人間として存在していたと。
何らかの縁で、今の両親から生まれた。しかし、個々の人間の流れは、それぞれ個々のものゆえに、輪廻が存在し、輪廻の目的がある。
長いスパンで霊魂というものをとらえたとき、それは時として、現実の苦しみさえ心地よく感じることがある。
希望。それは、人間に与えられた恩恵。
2007年09月17日
新羅の金の冠
出会った。いつか見た金の冠のヴィジョン。この写真よりももっと背の高いものだったが、よく似ている。
新羅の金の冠。慶州の天馬塚古墳から出土したものだという。
藤ノ木古墳から出土された冠は、どのような形態のものだったのだろうか。
お遊び的思考
NHKの大河ドラマを見ていたら、生島足島神社の存在を知った。信州上田にある。北向きのその神社は皆神山を向いている。また、大阪の生国魂神社。そこも、生島神足島神を祀る。
建御名方はスサノオ? 神武、仁徳天皇は新羅? 丹生都比売も新羅系?
新羅と百済。百済と藤ノ木古墳の埋葬者?
高句麗は丹波? 仁徳天皇の時代、丹波からのスパイが入り込んできていたという。そして、そのことを仁徳天皇は見破ったとのことだ。
丹波と出口王仁三郎を結び付けていたために、その枠から出られなかったが、もしかしたらその当時の丹波から日本が混沌としていく不穏な流れが入り込んだのかも知れない。
だが、まだまだ勝手な推測の段階。分からないことだらけのミステリーな古代史だから面白いのだろう。
建御名方はスサノオ? 神武、仁徳天皇は新羅? 丹生都比売も新羅系?
新羅と百済。百済と藤ノ木古墳の埋葬者?
高句麗は丹波? 仁徳天皇の時代、丹波からのスパイが入り込んできていたという。そして、そのことを仁徳天皇は見破ったとのことだ。
丹波と出口王仁三郎を結び付けていたために、その枠から出られなかったが、もしかしたらその当時の丹波から日本が混沌としていく不穏な流れが入り込んだのかも知れない。
だが、まだまだ勝手な推測の段階。分からないことだらけのミステリーな古代史だから面白いのだろう。
2007年08月16日
自有/供犠
夜、自分が運転する誰も乗せていない車の中で歌うのが好き。なぜ好きなんだろうかと、今日、ふと思った。
たぶん、現世に存在しながらも、現世という枠の中だけに存在しない自分を、その時は感じているからかも知れない。
魂だけの感覚。だから、クリアなま〜るい玉の中にいるような状態を楽しんでいるのだろう。
透明な空間と、それに呼応し、そして振動する歌声に、私の魂は私の魂の存在を確認し、呼吸する。
霊界物語第六十三巻第十章に、次のように書かれてある。
想念なるものは意志より来たり、意志なければ何人といへども想念なるものはありませぬ。
また意志および想念といふ時は、この意志の裡にもまた情動、愛、およびこれらより起来する歓喜や悦楽をも含んでをります。以上のものは何れも意志と関連してをるからです。
何故なれば人はその欲するところを愛し、これによって歓喜悦楽の情を生ずるものだからです。
また想念といふことは、人が由り以ってその情動即ち愛を確かむるところの一切を言ふのです。なんとなれば想念は意志の形式に過ぎないものです。即ち意志が由りて以って自ら顕照せむと欲するところのものに過ぎないからであります。
この形式は種々の理性的解剖によって現はれるもので、その源泉を霊界に発し人の精霊に属するものであります。
意志と想念についての口述は、あまりにも理路整然としていて、眉間に皺を寄せて考えていた時期があったことを懐かしく思う。
シュタイナーも、「意志」というものの大切さを述べているが、「意志」を如何に育成するかが人間の課題でもある。
また、霊界は想念の世界とも言うが、すべては意志あってのこと。ならば、今、現世において肉体を持ち、また自由に自分の意志で歩める時に、どこまで高められるか、また確実なものに出来るか頑張りたいと思う。
さらに、霊界物語の口述は続く。
凡ての人間の人間たる所以は全くその内面にあつて、内面を放れたところの外面にあらざることを知らねばならない。
内面は人の霊に属し、人の生涯なるものは、この内面なる霊(精霊)の生涯に他ならないからです。人の身体に命あるのは、この精霊に由るものです。この理によつて人はその内面のごとくに生存し永遠に渉りて変らず、不老不死の永世を保つものです。
されど外面はまた肉体に属するが故に、死後は離散し消滅し、その霊に属してゐた部分は眠り、ただ内面のために、これが平面となるに過ぎないのです。
かくて人間の自有に属するものと属せざるものとの区別が明らかになるのであります。
悪人にあつてはその言説を起こさしむるところの外的想念と、その行動を起こさしむるところの外的意志とに属するものは、一ももつて彼等の自有と為すべからざるものと知り得るでありませう。
ただその内面的なる想念と意志との属するもの而己(のみ)が、自有を為し得るのであります。
故に永遠の生命に入りたる時 自有となるべきものは、神の国の栄えのために努力した果実ばかりで、その他の一切のものは、中有界において剥奪されるものであります。
一番大切なこと。一番あたたかいこと。一番尊いこと。一番平等なこと。そして、一番理に適っていること。それが、自有となるべきもの。
また、この「自有」とは、シュタイナーの言う「供犠」と同じことではないだろうか。
人間達が住まわせてもらっている地球。即ち、神の国。それをより美しく、一人でも多くの人々が心から笑える国になれるように、どんな小さなことでもいいからしたい。
そんな小さな想いでも、確固たる意志から発せられたものであるなら、現実に行えるはず。口先だけで終わらせられない。
一点の曇りもなく、脂肪をつけてしまった感情でもなく、クリアな想いで、この瞬間の連続を生きていきたい。
たぶん、現世に存在しながらも、現世という枠の中だけに存在しない自分を、その時は感じているからかも知れない。
魂だけの感覚。だから、クリアなま〜るい玉の中にいるような状態を楽しんでいるのだろう。
透明な空間と、それに呼応し、そして振動する歌声に、私の魂は私の魂の存在を確認し、呼吸する。
霊界物語第六十三巻第十章に、次のように書かれてある。
――――――――――――――
想念なるものは意志より来たり、意志なければ何人といへども想念なるものはありませぬ。
また意志および想念といふ時は、この意志の裡にもまた情動、愛、およびこれらより起来する歓喜や悦楽をも含んでをります。以上のものは何れも意志と関連してをるからです。
何故なれば人はその欲するところを愛し、これによって歓喜悦楽の情を生ずるものだからです。
また想念といふことは、人が由り以ってその情動即ち愛を確かむるところの一切を言ふのです。なんとなれば想念は意志の形式に過ぎないものです。即ち意志が由りて以って自ら顕照せむと欲するところのものに過ぎないからであります。
この形式は種々の理性的解剖によって現はれるもので、その源泉を霊界に発し人の精霊に属するものであります。
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意志と想念についての口述は、あまりにも理路整然としていて、眉間に皺を寄せて考えていた時期があったことを懐かしく思う。
シュタイナーも、「意志」というものの大切さを述べているが、「意志」を如何に育成するかが人間の課題でもある。
また、霊界は想念の世界とも言うが、すべては意志あってのこと。ならば、今、現世において肉体を持ち、また自由に自分の意志で歩める時に、どこまで高められるか、また確実なものに出来るか頑張りたいと思う。
さらに、霊界物語の口述は続く。
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凡ての人間の人間たる所以は全くその内面にあつて、内面を放れたところの外面にあらざることを知らねばならない。
内面は人の霊に属し、人の生涯なるものは、この内面なる霊(精霊)の生涯に他ならないからです。人の身体に命あるのは、この精霊に由るものです。この理によつて人はその内面のごとくに生存し永遠に渉りて変らず、不老不死の永世を保つものです。
されど外面はまた肉体に属するが故に、死後は離散し消滅し、その霊に属してゐた部分は眠り、ただ内面のために、これが平面となるに過ぎないのです。
かくて人間の自有に属するものと属せざるものとの区別が明らかになるのであります。
悪人にあつてはその言説を起こさしむるところの外的想念と、その行動を起こさしむるところの外的意志とに属するものは、一ももつて彼等の自有と為すべからざるものと知り得るでありませう。
ただその内面的なる想念と意志との属するもの而己(のみ)が、自有を為し得るのであります。
故に永遠の生命に入りたる時 自有となるべきものは、神の国の栄えのために努力した果実ばかりで、その他の一切のものは、中有界において剥奪されるものであります。
―――――――――――――
一番大切なこと。一番あたたかいこと。一番尊いこと。一番平等なこと。そして、一番理に適っていること。それが、自有となるべきもの。
また、この「自有」とは、シュタイナーの言う「供犠」と同じことではないだろうか。
人間達が住まわせてもらっている地球。即ち、神の国。それをより美しく、一人でも多くの人々が心から笑える国になれるように、どんな小さなことでもいいからしたい。
そんな小さな想いでも、確固たる意志から発せられたものであるなら、現実に行えるはず。口先だけで終わらせられない。
一点の曇りもなく、脂肪をつけてしまった感情でもなく、クリアな想いで、この瞬間の連続を生きていきたい。
2007年08月14日
血はまったくの特性ジュース
ルドルフ・シュタイナーの「血はまったく特性のジュースだ」から抜粋・引用しながら書いていきたいと思う。
ファウストが血で誓約書に署名したことについて、シュタイナーは次のように述べている。
『悪の力の代表者は、ファウストの血の少なくとも一滴を、自分のものにすることで、ファウストを完全に掌中に収めることができると信じており、したがって血の敵だからではなく、血を奪い取る必要があったからこそ、ファウストに血の署名を要求したのである。
或る人間の血を奪い取れば、その人間を支配できるという点で、血は悪魔の特別愛好するジュースなのだ、という注目すべき感じがこの箇所の根底に存在している。
善と悪とをめぐる人間と悪魔との戦いに際しては、血が決定的役割を演じる、ということをこの箇所は示唆している。』
昔から、よく血判書というものがあったが、それらの背景には一滴の血でさえも欲しがる悪魔の性質が隠されていたのだろう。
そして、そのたった一滴の血の重さは、計り知れないほど大きなものである。
『脳髄を通して外なる世界が内面化されたように、血を通してこの内面世界が外面化されたものが、今日の人間の姿なのである。 (略) 脳髄を通して内面化され、個体的性格を与えられた外界の像を血が摂取すると、それらの像は血の中で生命を形成する力に変化する。そしてこの形成力によって、現在の人体が作り出される。その意味では、血は人体を形成する実質であるともいえる。
しかし血の人体に対する働きは、このことと並んで、もう一つ別のプロセスをも辿っている。
血は直接外界に向けて開かれている。そして外界における極上の成分である酸素を直接摂取し、それによって繰り返して自己を賦活し、新しい活力を得ている。
血における人体形成のための以上二つのプロセスによって、われわれは、一方では外界から内面世界を通過して血にいたる道、他方では直接外界から血にいたる道の二つをもっていることになる。』
血が人体を形成する実質であるということは、思慮深く生活しなければならないということへの再認識を促す。
私は、目に映るもの、耳に聞こえてくるもの、肌が感じ取ることなどを重要視してきた。否、というよりも気をつけたかった。
入ってくるものが一つ残らず吸収されて、血となり肉となるのを感じていたからである。
それが善いもの、美しいものであるならいい。しかし、醜いもの、穢れたものであるなら、私はどこまでも苦しまなければならないからだ。やがて、その記憶が消え、感覚が薄らいだ時、やっと酸素を思いっきり摂取できる。
また、シュタイナーは、混血についても次のように語る。
『異族婚による新しい血の混入は、種族のこれまでの生活原則を崩壊させる。どの民族にも遅かれ早かれ、現われてくるこの異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした時点なのである。』
『純粋な血においては、祖先たちの権力が、混血においては、自分自身の体験の権力が支配している。 (略) 民族伝統の権力は、もはや血に作用することができなくなったとき、そして外からの血の混入によって、新しい血がもはや祖先たちの権力を受け継ぐことができなくなったとき、消えていくしかない。
この事実は、あらゆる範囲に亘って現われている。人間を支配する権力は、それがどのような権力であれ、血にまでその支配力が及ぶのでなければ、まだ意識の表面を支配するにとどまり、まだ決定的なものとはいえない。
したがって悪の権力も、人間に支配力を及ぼそうとするとき、血を入れることがどうしても必要だったのである。
これがわれわれのテーマである「ファウスト」の言葉の深い意味である。だから悪の原理の体現者は次のようにいう。―――「血で誓約書に署名しろ。お前の血で書かれたお前の名前を手に入れたら、俺はお前の急所を手に入れたことになる。お前を俺の手もとまで引き寄せた訳だ。血の由来するところに、人間も人間の【私】も由来する。」』
『動物界では、異なる血が異なる血を殺す。人間界でも、異なる血が同族の血と結びついた見霊能力を殺す。同族婚の精神生活は進化の過程で殺された。しかしその代わりに、異族婚から新しいもの、知性、つまり外へ向けられた判断力が誕生した。』
『人間の血の中には「私」の本質が生きている。 (略) 物質的原則、エーテル体、アストラル体は「上なるもの」であり、人間の血と「私」とは中間の存在であり、そして肉体、生命組織、神経組織は「下なるもの」である。したがって自我を支配しようとすれば、その血を支配しなければならない。』
世の中の様々な形態に、その本質は隠されているもの。外面的にでてきているものの中に、その流れの本質・秘められたことを見出す努力をしなければならない。
洞察力の必要性を痛感するのである。
本当に、血はまったく特性のジュースである。
PS:今、この記事を書いている最中にも、私の心は安倍総理のことで占められている。彼は何も悪いことをした訳でもないのに、執拗な攻撃で潰されようとしている。
彼は、国の為に必要な改革を行ってきた。善のサラブレッド。にも関わらず、国民の多くはメディアに洗脳され、攻撃に向かっている。昨日のNHKの支持率調査でも、さらに低下したという。
冷静に考えてみればいい。なぜ、安倍総理に近い人たちだけのスキャンダルが出てくるのか。
政治家達の多くは、民主党にしても公明党にしても、共産や社会党にしても、皆、何かしら悪いことをしているはず。なのに、その方面の政治家たちのスキャンダルは出てこない。
非常におかしな状態となっているのではないだろうか。
そこまでして安倍総理を潰さないと、自分達の私利私欲の為の目標が達せられないということは明白なこと。愚かな煽動に乗ってはならない。
もし、安倍総理が潰されれば、また長い停滞が続き、ダークな政治を復活させてしまう懸念がある。私は、それを深く憂慮する。
ファウストが血で誓約書に署名したことについて、シュタイナーは次のように述べている。
『悪の力の代表者は、ファウストの血の少なくとも一滴を、自分のものにすることで、ファウストを完全に掌中に収めることができると信じており、したがって血の敵だからではなく、血を奪い取る必要があったからこそ、ファウストに血の署名を要求したのである。
或る人間の血を奪い取れば、その人間を支配できるという点で、血は悪魔の特別愛好するジュースなのだ、という注目すべき感じがこの箇所の根底に存在している。
善と悪とをめぐる人間と悪魔との戦いに際しては、血が決定的役割を演じる、ということをこの箇所は示唆している。』
昔から、よく血判書というものがあったが、それらの背景には一滴の血でさえも欲しがる悪魔の性質が隠されていたのだろう。
そして、そのたった一滴の血の重さは、計り知れないほど大きなものである。
『脳髄を通して外なる世界が内面化されたように、血を通してこの内面世界が外面化されたものが、今日の人間の姿なのである。 (略) 脳髄を通して内面化され、個体的性格を与えられた外界の像を血が摂取すると、それらの像は血の中で生命を形成する力に変化する。そしてこの形成力によって、現在の人体が作り出される。その意味では、血は人体を形成する実質であるともいえる。
しかし血の人体に対する働きは、このことと並んで、もう一つ別のプロセスをも辿っている。
血は直接外界に向けて開かれている。そして外界における極上の成分である酸素を直接摂取し、それによって繰り返して自己を賦活し、新しい活力を得ている。
血における人体形成のための以上二つのプロセスによって、われわれは、一方では外界から内面世界を通過して血にいたる道、他方では直接外界から血にいたる道の二つをもっていることになる。』
血が人体を形成する実質であるということは、思慮深く生活しなければならないということへの再認識を促す。
私は、目に映るもの、耳に聞こえてくるもの、肌が感じ取ることなどを重要視してきた。否、というよりも気をつけたかった。
入ってくるものが一つ残らず吸収されて、血となり肉となるのを感じていたからである。
それが善いもの、美しいものであるならいい。しかし、醜いもの、穢れたものであるなら、私はどこまでも苦しまなければならないからだ。やがて、その記憶が消え、感覚が薄らいだ時、やっと酸素を思いっきり摂取できる。
また、シュタイナーは、混血についても次のように語る。
『異族婚による新しい血の混入は、種族のこれまでの生活原則を崩壊させる。どの民族にも遅かれ早かれ、現われてくるこの異族婚による混血のはじまりこそ、理性もしくは外的知性の誕生を人類にもたらした時点なのである。』
『純粋な血においては、祖先たちの権力が、混血においては、自分自身の体験の権力が支配している。 (略) 民族伝統の権力は、もはや血に作用することができなくなったとき、そして外からの血の混入によって、新しい血がもはや祖先たちの権力を受け継ぐことができなくなったとき、消えていくしかない。
この事実は、あらゆる範囲に亘って現われている。人間を支配する権力は、それがどのような権力であれ、血にまでその支配力が及ぶのでなければ、まだ意識の表面を支配するにとどまり、まだ決定的なものとはいえない。
したがって悪の権力も、人間に支配力を及ぼそうとするとき、血を入れることがどうしても必要だったのである。
これがわれわれのテーマである「ファウスト」の言葉の深い意味である。だから悪の原理の体現者は次のようにいう。―――「血で誓約書に署名しろ。お前の血で書かれたお前の名前を手に入れたら、俺はお前の急所を手に入れたことになる。お前を俺の手もとまで引き寄せた訳だ。血の由来するところに、人間も人間の【私】も由来する。」』
『動物界では、異なる血が異なる血を殺す。人間界でも、異なる血が同族の血と結びついた見霊能力を殺す。同族婚の精神生活は進化の過程で殺された。しかしその代わりに、異族婚から新しいもの、知性、つまり外へ向けられた判断力が誕生した。』
『人間の血の中には「私」の本質が生きている。 (略) 物質的原則、エーテル体、アストラル体は「上なるもの」であり、人間の血と「私」とは中間の存在であり、そして肉体、生命組織、神経組織は「下なるもの」である。したがって自我を支配しようとすれば、その血を支配しなければならない。』
世の中の様々な形態に、その本質は隠されているもの。外面的にでてきているものの中に、その流れの本質・秘められたことを見出す努力をしなければならない。
洞察力の必要性を痛感するのである。
本当に、血はまったく特性のジュースである。
PS:今、この記事を書いている最中にも、私の心は安倍総理のことで占められている。彼は何も悪いことをした訳でもないのに、執拗な攻撃で潰されようとしている。
彼は、国の為に必要な改革を行ってきた。善のサラブレッド。にも関わらず、国民の多くはメディアに洗脳され、攻撃に向かっている。昨日のNHKの支持率調査でも、さらに低下したという。
冷静に考えてみればいい。なぜ、安倍総理に近い人たちだけのスキャンダルが出てくるのか。
政治家達の多くは、民主党にしても公明党にしても、共産や社会党にしても、皆、何かしら悪いことをしているはず。なのに、その方面の政治家たちのスキャンダルは出てこない。
非常におかしな状態となっているのではないだろうか。
そこまでして安倍総理を潰さないと、自分達の私利私欲の為の目標が達せられないということは明白なこと。愚かな煽動に乗ってはならない。
もし、安倍総理が潰されれば、また長い停滞が続き、ダークな政治を復活させてしまう懸念がある。私は、それを深く憂慮する。
2007年08月10日
上等の御魂だなんて思うなよ
霊界物語の中に、「神素盞鳴の大神が山上の神訓」というものが書かれてある。
その一つに、次のようなものがある。
一、愛善の徳に住し信真の光に住し、神を愛し神を信じ神の為に
尽すものは天界の住民となり、悪と虚偽とに浸りて魂を曇ら
すものは地獄に自ら堕落するものぞ。
ふと、思った。至って簡単なことではないかと。ただ、天真爛漫に素直に愛に従い、人間の良心として善いと思うことをし、謙虚に学ぶ姿勢を持ち続け、そして、神が喜ばれることをすればいいだけのこと。
な〜んだ、力まなくていいんだと思ったとたん、肩の力が抜けて、心が軽くなる。
そしてまた、地獄に落ちるのは人のせいとか、何かのせいではなく、自分自身が選んだこと。文句なんて言えない。
ボブ・ディランの詞の中にもあったっけ。上等な人間じゃないって。自分が上等だなんてもし思っている人間がいるとしたら、それこそ道化師の世界。
上等じゃないから、向上しようとがんばるのだから。
その一つに、次のようなものがある。
一、愛善の徳に住し信真の光に住し、神を愛し神を信じ神の為に
尽すものは天界の住民となり、悪と虚偽とに浸りて魂を曇ら
すものは地獄に自ら堕落するものぞ。
ふと、思った。至って簡単なことではないかと。ただ、天真爛漫に素直に愛に従い、人間の良心として善いと思うことをし、謙虚に学ぶ姿勢を持ち続け、そして、神が喜ばれることをすればいいだけのこと。
な〜んだ、力まなくていいんだと思ったとたん、肩の力が抜けて、心が軽くなる。
そしてまた、地獄に落ちるのは人のせいとか、何かのせいではなく、自分自身が選んだこと。文句なんて言えない。
ボブ・ディランの詞の中にもあったっけ。上等な人間じゃないって。自分が上等だなんてもし思っている人間がいるとしたら、それこそ道化師の世界。
上等じゃないから、向上しようとがんばるのだから。
2007年08月05日
観照
人類の大部分の中に、真の思考の存在しない、ただ単に言葉の中で考えたものが注入されているのです。
言葉で考えるのはミカエルへの道ではありません。
言葉に頼らずに言葉を貫いて真の内的な霊体験へと至ったときにのみ、ミカエルに至るのです。言葉を超えて霊体験にいたるというのが正しい秘儀参入の秘密です。
言葉によって思考しなくなったとき、人間は言葉を感じ、言葉を知覚要素として自らの内と外へ注ぐことができるようになるのです。これが今日、人間が努力すべきことです。
これは、最初、言葉ではなく、文字を通して修得されることかもしれません。
文字に関しても、人間が文字を有しているのではなく、文字が人間を有しているのです。
人間は手の中に一定の筆跡を持っています。人間は機械的に手から書きます。これは人間を拘束します。
絵を描くように、素描するように文字を書くと、拘束されません。文字を一つ一つ素描するように並べていくと束縛から自由になります。
自分の筆跡で書くのではなく、文字の携帯を素描し、文字に対して客観的に接すると、本質的な観照が得られます。
シュタイナーは、頭でなく、自分のすべてを活動させれば、人間を把握することのできる認識が生じ、また、肉眼で見るものにあまり重きを置かず、活動を重視するものはアストラル光を見る能力を損なわないと述べている。
文字ではなく、アストラル光を読むことが大切であるとのこと。
こういったシュタイナーの見解を知るにつれ、なんだろうか、自分がどんどん芸術的な深みを体験して行っているように感じる。
そして、文字がやさしく感じられ、一つ一つの文字が発する言語の歌が、体に刻印されていくように感じられる。
ふと、「耳なし芳一」のことを思い出した。体中に般若心経を書いて悪霊から身を守ったという姿。
般若心経の文字の持つアストラル光。そして、それは素描のように描かれていった文字なのだろう。
すべてが生命をもったもの。尊い存在。
言葉で考えるのはミカエルへの道ではありません。
言葉に頼らずに言葉を貫いて真の内的な霊体験へと至ったときにのみ、ミカエルに至るのです。言葉を超えて霊体験にいたるというのが正しい秘儀参入の秘密です。
言葉によって思考しなくなったとき、人間は言葉を感じ、言葉を知覚要素として自らの内と外へ注ぐことができるようになるのです。これが今日、人間が努力すべきことです。
これは、最初、言葉ではなく、文字を通して修得されることかもしれません。
文字に関しても、人間が文字を有しているのではなく、文字が人間を有しているのです。
人間は手の中に一定の筆跡を持っています。人間は機械的に手から書きます。これは人間を拘束します。
絵を描くように、素描するように文字を書くと、拘束されません。文字を一つ一つ素描するように並べていくと束縛から自由になります。
自分の筆跡で書くのではなく、文字の携帯を素描し、文字に対して客観的に接すると、本質的な観照が得られます。
――― ルドルフ・シュタイナー ―――
シュタイナーは、頭でなく、自分のすべてを活動させれば、人間を把握することのできる認識が生じ、また、肉眼で見るものにあまり重きを置かず、活動を重視するものはアストラル光を見る能力を損なわないと述べている。
文字ではなく、アストラル光を読むことが大切であるとのこと。
こういったシュタイナーの見解を知るにつれ、なんだろうか、自分がどんどん芸術的な深みを体験して行っているように感じる。
そして、文字がやさしく感じられ、一つ一つの文字が発する言語の歌が、体に刻印されていくように感じられる。
ふと、「耳なし芳一」のことを思い出した。体中に般若心経を書いて悪霊から身を守ったという姿。
般若心経の文字の持つアストラル光。そして、それは素描のように描かれていった文字なのだろう。
すべてが生命をもったもの。尊い存在。
2007年06月16日
精霊の集結
さて、少し現実的な内容のものが続いたので、少しでも時間があるときには、本来の目的であるところのものを書こうと思う。
分魂というものがあるが、人間の生まれ変わりについて、霊界物語五十五巻第十二章にも興味深い記述があった。
『舅殿、この谷底を御覧なさいませ。沢山な妖怪や毒蛇が焼き亡ぼされてゐるでせう。これは皆テームス家の祖先が作った罪業の化生した悪魔でございますよ。
またこの万公は貴方の祖先代々に苦しめられた憐れな人民の霊が凝結して万公となり、この世に生まれ来たものです。
私はそれ故どうしてもテームス家の後を継いで、このテームス家の財産を人民に平等に分配し罪を亡ぼさねば、舅殿をはじめ祖先の罪は赦されますまい。
お気がつきましたかな。万民の精霊が集まって万公と名を負ひ限界に生まれてきたのですよ』
この一説からも霊界の在り方が分かるような気がする。人間にとって一番大切で重要なものは霊魂。そして、その霊魂は想念や意志を養分として作られていく。
だからもし、同じ強い思いが終結したなら、それらが望むことが現界に現われる。
つい最近、わが家ではヒトラーについての会話があった。
下の子が、学校でヒトラーのことを学んできたようだ。しかし、まだユダヤ人への迫害までは進んでいないようだった。
そこで言う。
「ヒトラーってかっこいいよね。」
私はいつもの如く、ヒトラーの犯した悲惨な出来事を説明した。
それを聞いていた上の子は次のような意見を言う。
「でも、ヒトラーという存在が現われなかったら、今のドイツにおける医学の発展はなかったかも知れないし、また、ドイツだけを悪者にして多額の賠償金を払わせたのもおかしい。周りの国々も同罪だと思う。」
ヒトラーについても三者三様の意見。
ただ、地球上の流れを長いスパンで見たなら、悪だと思っていたものが実は必要なことをもたらしていたり、反対に善だと思っていたものがマイナス方向へ導いていたりすることもある。
そして、多くの人間が強く同じことを求めていたなら、それは良きにしろ悪しきにしろ何らかの人間をこの地上に生じさせるのだろうと思う。
さてさて、現代はどのような人間を生じさせるのだろうか。終末思想、メシア待望論・・・・・・。
もしかしたら、多くの地球上の人間たちが終結してメシアとなる時なのかも知れない。
分魂というものがあるが、人間の生まれ変わりについて、霊界物語五十五巻第十二章にも興味深い記述があった。
『舅殿、この谷底を御覧なさいませ。沢山な妖怪や毒蛇が焼き亡ぼされてゐるでせう。これは皆テームス家の祖先が作った罪業の化生した悪魔でございますよ。
またこの万公は貴方の祖先代々に苦しめられた憐れな人民の霊が凝結して万公となり、この世に生まれ来たものです。
私はそれ故どうしてもテームス家の後を継いで、このテームス家の財産を人民に平等に分配し罪を亡ぼさねば、舅殿をはじめ祖先の罪は赦されますまい。
お気がつきましたかな。万民の精霊が集まって万公と名を負ひ限界に生まれてきたのですよ』
この一説からも霊界の在り方が分かるような気がする。人間にとって一番大切で重要なものは霊魂。そして、その霊魂は想念や意志を養分として作られていく。
だからもし、同じ強い思いが終結したなら、それらが望むことが現界に現われる。
つい最近、わが家ではヒトラーについての会話があった。
下の子が、学校でヒトラーのことを学んできたようだ。しかし、まだユダヤ人への迫害までは進んでいないようだった。
そこで言う。
「ヒトラーってかっこいいよね。」
私はいつもの如く、ヒトラーの犯した悲惨な出来事を説明した。
それを聞いていた上の子は次のような意見を言う。
「でも、ヒトラーという存在が現われなかったら、今のドイツにおける医学の発展はなかったかも知れないし、また、ドイツだけを悪者にして多額の賠償金を払わせたのもおかしい。周りの国々も同罪だと思う。」
ヒトラーについても三者三様の意見。
ただ、地球上の流れを長いスパンで見たなら、悪だと思っていたものが実は必要なことをもたらしていたり、反対に善だと思っていたものがマイナス方向へ導いていたりすることもある。
そして、多くの人間が強く同じことを求めていたなら、それは良きにしろ悪しきにしろ何らかの人間をこの地上に生じさせるのだろうと思う。
さてさて、現代はどのような人間を生じさせるのだろうか。終末思想、メシア待望論・・・・・・。
もしかしたら、多くの地球上の人間たちが終結してメシアとなる時なのかも知れない。
2007年06月09日
言霊における音の振動
『至高の芸術表現の栄光、文学の光明の輝きは単純である。単純より善いものはない、実相の誇張や欠乏を矯正し得るものは単純を除いて他にない』
『神秘修行者は睡眠中にも意識の持続性を獲得することを学ぶのですが、その状態は夢のいとなみの時間にではなく、夢のない、まったく意識を失っている時間に生じるのです。これまではまったく何も知りえなかった世界の中で、意識的になることを学ぶのです。この新しい世界は光と色の世界ではなく、はじめは音の世界として現われてきます。ですからこの状態に達しますと、霊的に聴くことができるようになります。肉の耳には聞こえぬ霊界での結び合い、霊妙な音の様々な響き合いが聞こえてきます。この世界をデヴァカン界(神界)と呼んでいます。』
『大自然の諸領界は文字であり、人間はこの文字から合成された言葉である。』
赤ちゃんの発する言葉。あー、あー。その「あ」は単純だが、凝縮されている。その「あ」には、あまりにも多くの輝きが伴い、可能性への希望が見える。
言葉が発する音の振動。その振動に、人の細胞は敏感に反応する。血の中に存在する「私」がそれをどのように受け取るのか、その「私」自身の存在がどのような状態にあるかによって、受け入れるか、拒絶するのかの違いが生じるように思う。
今日、娘が友人を家に連れて来た。台所で夕食の仕度をしている時、その友人の声が聞こえてきたが、その声から、私は少しくたびれているようなものを感じた。そう、少しお腹が空いているような。そして、なんとなく家庭的に寂しいような声。
そこで私は、暑い日であったので、フルーツポンチにアイスクリームをのせて出してあげた。
「わー、こんなの初めて!いつも、こんな感じでだしてもらえているの?いいなー。」という声がする。
また、それを食べてからは元気な声になり、帰るときには生き生きとした顔で礼儀正しくお礼を言って帰って行った。
その後、娘に聞いた。あの子は、もしかして母子家庭の子かと。
案の定、その通りであった。
声の持つ振動。そこに集約されたもの。
また、その子はとても素直ないい子である。娘もその子のことを、性格はかなりいい子だと評していた。
素直ということの素晴らしさを、また感じる一時であった。
――― 出口王仁三郎―――
『神秘修行者は睡眠中にも意識の持続性を獲得することを学ぶのですが、その状態は夢のいとなみの時間にではなく、夢のない、まったく意識を失っている時間に生じるのです。これまではまったく何も知りえなかった世界の中で、意識的になることを学ぶのです。この新しい世界は光と色の世界ではなく、はじめは音の世界として現われてきます。ですからこの状態に達しますと、霊的に聴くことができるようになります。肉の耳には聞こえぬ霊界での結び合い、霊妙な音の様々な響き合いが聞こえてきます。この世界をデヴァカン界(神界)と呼んでいます。』
―――ルドルフ・シュタイナー―――
『大自然の諸領界は文字であり、人間はこの文字から合成された言葉である。』
―――パラケルズス―――
赤ちゃんの発する言葉。あー、あー。その「あ」は単純だが、凝縮されている。その「あ」には、あまりにも多くの輝きが伴い、可能性への希望が見える。
言葉が発する音の振動。その振動に、人の細胞は敏感に反応する。血の中に存在する「私」がそれをどのように受け取るのか、その「私」自身の存在がどのような状態にあるかによって、受け入れるか、拒絶するのかの違いが生じるように思う。
今日、娘が友人を家に連れて来た。台所で夕食の仕度をしている時、その友人の声が聞こえてきたが、その声から、私は少しくたびれているようなものを感じた。そう、少しお腹が空いているような。そして、なんとなく家庭的に寂しいような声。
そこで私は、暑い日であったので、フルーツポンチにアイスクリームをのせて出してあげた。
「わー、こんなの初めて!いつも、こんな感じでだしてもらえているの?いいなー。」という声がする。
また、それを食べてからは元気な声になり、帰るときには生き生きとした顔で礼儀正しくお礼を言って帰って行った。
その後、娘に聞いた。あの子は、もしかして母子家庭の子かと。
案の定、その通りであった。
声の持つ振動。そこに集約されたもの。
また、その子はとても素直ないい子である。娘もその子のことを、性格はかなりいい子だと評していた。
素直ということの素晴らしさを、また感じる一時であった。
2007年06月03日
祓い清め
レトロな風景写真。明治時代の建物のよう。木の窓枠と木の床。光と影の陰影。
窓から床へと注がれた陽射し。なぜか心の中に、昔懐かしい穏やかな、それでいて甘酸っぱい感覚が湧き上がってくる。
希望の詰った呼吸がそこにはあるから、そして忘れたくないから、私はその感覚の中へ夢見る瞳を漂わせる。
今日、記憶から忘れ去られていた本が、ふとしたことから目に留まり、改めてその内容の濃さに感嘆した。
水谷清の「大祓講話」。
天皇が行う節折の御儀について、以下の説明が書かれてある。
『彼の明治天皇の御製に「罪あらば我を咎めよ天つ神、民はわが身のうみし子なれば」と仰せある通り、至仁至愛の大御親心を以って、萬民を我が子とみそなはせられ、その罪穢れの一切を、御一身の上に全部引き受け給ふて、之を節折の神秘的御儀を以って、祓い清めて下さるといふ、眞に涙ぐましいほど、有難く忝い御儀であると承ってゐます。』
全ての民の罪を自分のこととして一切引き受けるという覚悟、大愛。そして、それを御儀を以って祓い清めるということ。
それが、天皇たるべき人の完遂せねばならない使命の一つ。
愛と覚悟。
象徴天皇と言われるが、象徴であるからこそその影響や意義はあまりにも大きい。
その時の天皇の重圧。その時の天皇の霊魂如何によっても大きく左右される。だからこそ、天皇になるべき人の持っている資質は重要なのである。
だが、今の時代は、一人でも多くの人々がこのような天皇と同じ気持ちで向かう時。あまりにも世の中が混沌として荒廃してきているからこそ、一人でも多くの人間たちの自覚が必要となってくる。
最後の戦い。まさに、その時代に突入している。
自分勝手な感情で人を裁くのではなく、和を大切にし、そして受け入れることに努力しなければならない。
インディアンの言葉を思い出した。
「この地球は子孫から借りているのだ」
輪廻は続き、もしかしたら人によってはもう生まれ変わることはないかも知れないが、自分がこの世を穢して渡すのではなく、少しでも良くして返したい。
私は子どもの頃から引越しが多かったが、母はいつも借りた家を、来た時よりも出て行くときの方をはるかに綺麗な状態にしていた。それはもう隅から隅までぴかぴかに磨き、庭も手入れの行き届いた美しい庭にしていた。
そんな母の姿を見てきたせいか、私もまた引越しをする時は飛ぶ鳥後を濁さず。家への感謝、人間としての当然の姿。
そして、祓い清めるという行為は、きっとそれもまた当然のことなのだろう。人間であるなら、天皇でなくてもすべきこと。
窓から床へと注がれた陽射し。なぜか心の中に、昔懐かしい穏やかな、それでいて甘酸っぱい感覚が湧き上がってくる。
希望の詰った呼吸がそこにはあるから、そして忘れたくないから、私はその感覚の中へ夢見る瞳を漂わせる。
――――――――――――――
今日、記憶から忘れ去られていた本が、ふとしたことから目に留まり、改めてその内容の濃さに感嘆した。
水谷清の「大祓講話」。
天皇が行う節折の御儀について、以下の説明が書かれてある。
『彼の明治天皇の御製に「罪あらば我を咎めよ天つ神、民はわが身のうみし子なれば」と仰せある通り、至仁至愛の大御親心を以って、萬民を我が子とみそなはせられ、その罪穢れの一切を、御一身の上に全部引き受け給ふて、之を節折の神秘的御儀を以って、祓い清めて下さるといふ、眞に涙ぐましいほど、有難く忝い御儀であると承ってゐます。』
全ての民の罪を自分のこととして一切引き受けるという覚悟、大愛。そして、それを御儀を以って祓い清めるということ。
それが、天皇たるべき人の完遂せねばならない使命の一つ。
愛と覚悟。
象徴天皇と言われるが、象徴であるからこそその影響や意義はあまりにも大きい。
その時の天皇の重圧。その時の天皇の霊魂如何によっても大きく左右される。だからこそ、天皇になるべき人の持っている資質は重要なのである。
だが、今の時代は、一人でも多くの人々がこのような天皇と同じ気持ちで向かう時。あまりにも世の中が混沌として荒廃してきているからこそ、一人でも多くの人間たちの自覚が必要となってくる。
最後の戦い。まさに、その時代に突入している。
自分勝手な感情で人を裁くのではなく、和を大切にし、そして受け入れることに努力しなければならない。
インディアンの言葉を思い出した。
「この地球は子孫から借りているのだ」
輪廻は続き、もしかしたら人によってはもう生まれ変わることはないかも知れないが、自分がこの世を穢して渡すのではなく、少しでも良くして返したい。
私は子どもの頃から引越しが多かったが、母はいつも借りた家を、来た時よりも出て行くときの方をはるかに綺麗な状態にしていた。それはもう隅から隅までぴかぴかに磨き、庭も手入れの行き届いた美しい庭にしていた。
そんな母の姿を見てきたせいか、私もまた引越しをする時は飛ぶ鳥後を濁さず。家への感謝、人間としての当然の姿。
そして、祓い清めるという行為は、きっとそれもまた当然のことなのだろう。人間であるなら、天皇でなくてもすべきこと。
2007年05月27日
大愛の中で
人は自身の外面のことで悩んだりする。時には、それが肉体的ハンディや、または病気や怪我のため、現実生活を送るのに不自由な思いをする人もいる。
だが、それを思い悩むことなかれ。かえって美しくなれるチャンスでもあるかも知れないからである。
霊界物語にもそれは書かれてある。第五十二巻第九章より抜粋。
すべて現界に在つて耳の遠き者、あるひは手足の自由の利かぬ者、その他いろいろの難病に苦しんでゐた者、霊肉脱離の関門を経て霊界に入る時は、肉体の時のごとき不具者ではない。すべての官能はますます正確に明瞭に活動するものである。
しかしながらたとへ円満具足せる肉体人といへども、その心に欠陥ありし者は、霊肉脱離の後に聾者となり盲目となり、あるひは痴呆者となり不具者となり、その容貌はたちまち変化して妖怪のごとくなるものである。
すべて人間の面貌は心の索引ともいふべきなるものがゆゑに、その心性の如何はただちに霊界においては暴露さるるものである。
現界においても悪の最も濃厚なる者は、なにほど立派な容貌といへども、これを熟視する時は、どこかにその妖怪的面相を認め得るものである。形態は申し分なき美人にして、凄くあるひは厭らしく見える者もあり、またどことなくお化けのやうな気持ちのする人間は、その精霊の悪に向かふこと最もはなはだしきを証するものである。
神の法則は、まったく公平なもの。ただ、輪廻の段階で自身が作ったカルマや目標のために、現界での状態が生じている。
だが、どんな状況設定の中に自分が置かれていようとも、その霊魂の姿はあるがままなのである。嘘偽りの利かない世界。正しき天秤の世界。
だから、苦しい中で悩み泣いている人は、真っ直ぐ前を向けばいいだけ。そして、自分の心魂を美しく育てようと努力すればいいだけなのである。
この世は、全ての人間たちにとっての学校なのだ。誰も先生にはなれない。誰もが生徒なのである。
ふと、思った。王仁三郎が造った耀わん。それは、世の中そのものなのかも知れないと。すなわち、王仁三郎の知り得る世の光。なんとなく、そんな気がした。
光を身に纏える人間となりたいものである。
だが、それを思い悩むことなかれ。かえって美しくなれるチャンスでもあるかも知れないからである。
霊界物語にもそれは書かれてある。第五十二巻第九章より抜粋。
―――――――――――――――
すべて現界に在つて耳の遠き者、あるひは手足の自由の利かぬ者、その他いろいろの難病に苦しんでゐた者、霊肉脱離の関門を経て霊界に入る時は、肉体の時のごとき不具者ではない。すべての官能はますます正確に明瞭に活動するものである。
しかしながらたとへ円満具足せる肉体人といへども、その心に欠陥ありし者は、霊肉脱離の後に聾者となり盲目となり、あるひは痴呆者となり不具者となり、その容貌はたちまち変化して妖怪のごとくなるものである。
すべて人間の面貌は心の索引ともいふべきなるものがゆゑに、その心性の如何はただちに霊界においては暴露さるるものである。
現界においても悪の最も濃厚なる者は、なにほど立派な容貌といへども、これを熟視する時は、どこかにその妖怪的面相を認め得るものである。形態は申し分なき美人にして、凄くあるひは厭らしく見える者もあり、またどことなくお化けのやうな気持ちのする人間は、その精霊の悪に向かふこと最もはなはだしきを証するものである。
――――――――――――――
神の法則は、まったく公平なもの。ただ、輪廻の段階で自身が作ったカルマや目標のために、現界での状態が生じている。
だが、どんな状況設定の中に自分が置かれていようとも、その霊魂の姿はあるがままなのである。嘘偽りの利かない世界。正しき天秤の世界。
だから、苦しい中で悩み泣いている人は、真っ直ぐ前を向けばいいだけ。そして、自分の心魂を美しく育てようと努力すればいいだけなのである。
この世は、全ての人間たちにとっての学校なのだ。誰も先生にはなれない。誰もが生徒なのである。
ふと、思った。王仁三郎が造った耀わん。それは、世の中そのものなのかも知れないと。すなわち、王仁三郎の知り得る世の光。なんとなく、そんな気がした。
光を身に纏える人間となりたいものである。
2007年05月18日
ウルとグラ
ウル・シュメール語で「ディンギル・イム・ドゥグゥドゥ・フ」(神・風・旋風・鳥)という、頭がライオンになっている神鳥がメソポタミアにはあった。
それと対をなすように存在していたのが、大角鹿とかウルと呼ばれていた子牛ほどの大きさの犬であるという。
いろいろな言語の流れや姿のイメージは、謎を紐解く鍵となるようだ。
狛犬。これもメソポタミアからの流れかも知れない。
また、古代メソポタミアでは、現在の星座の原型が作られたという。そのなかで、興味を惹かれるのがグラ座。これは、水瓶座の原型といわれている。
グラは水の女神。古代の残されている石標に彫刻されているものに、椅子に座っている女性と、その膝元にうずくまる犬の姿がある。
これは、犬の像をグラに捧げると、病気の治癒や予防に効果があるからだということだ。
丹生都比売もその流れではないだろうか。人類の正統派の流れ。古代からの叡智を継承していく流れ。
ちなみに、古代メソポタミアでは、獅子座のことを大きな犬という意味でウル・グラと呼んでいたという。
それと対をなすように存在していたのが、大角鹿とかウルと呼ばれていた子牛ほどの大きさの犬であるという。
いろいろな言語の流れや姿のイメージは、謎を紐解く鍵となるようだ。
狛犬。これもメソポタミアからの流れかも知れない。
また、古代メソポタミアでは、現在の星座の原型が作られたという。そのなかで、興味を惹かれるのがグラ座。これは、水瓶座の原型といわれている。
グラは水の女神。古代の残されている石標に彫刻されているものに、椅子に座っている女性と、その膝元にうずくまる犬の姿がある。
これは、犬の像をグラに捧げると、病気の治癒や予防に効果があるからだということだ。
丹生都比売もその流れではないだろうか。人類の正統派の流れ。古代からの叡智を継承していく流れ。
ちなみに、古代メソポタミアでは、獅子座のことを大きな犬という意味でウル・グラと呼んでいたという。
2007年05月04日
祓戸大神
出口王仁三郎の、天津祝詞解及び大祓い祝詞解を見てみた。
【高天原】
一音づつの意義を調ぶれば、「タ」は対照力なり、進む左なり、火なり、東北より鳴る声なり、父なり。
また「カ」は輝くなり、退く右なり、水なり、西南より鳴る声なり、母なり。
父を「タタ」といひ、母を「カカ」と唱うるのもこれから出るのである。
また「ア」は現はれ出る言霊、「マ」は球の言霊、「ハ」は開く言霊、「ラ」は螺旋の言霊。
すなはち「タカアマハラ」の全意義は全大宇宙の事である。
と、ここで「カマ」「鎌」の意味を見た場合、「水の球」、「母の球」ということが出て来る。
丹生都比売は水の神としての性格。そして、玉津島は文字通り「玉」という文字が入っているし、そこの御神紋は如意宝珠を用いた「玉に割り菊」。
私の想像であるが、玉津島神社の御祭神は丹生都比売の母君ではないかと思うのだが・・・・。
また、御神紋は後世に出来たものと思われるが、それでも割り菊にしたことは理由あってのことだと思う。
丹生都比売は天照大神の妹とされているが、どうも天照大神に反する立場であったような気がする。
【焼鎌の敏鎌】
焼鎌とは、鎌で焼きて造る故にいふ。敏鎌は利き鎌の義。
【祓戸の大神達】
祓戸四柱神、すなはち瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売の四神である。すべて大修跋執行に際しては八百万の神々は、常にこの四方面に分かれて活動を開始し、諸々の枉事罪穢れを払ひ清め給ふので、天津神たると国津神たるとを問はず、また宇宙全体たると、地球全体たると、また一郷一村一身一家たるとを論ぜずして、四方面の修跋が起こるのである。地球の大修跋、世の大立替へが開始さるる時には、神諭のいはゆる雨の神、岩の神、風の神、地震の神の大活動となる。
大修跋に際して、神の御活動は大別して四方面に分かれる。いはゆる祓戸四柱の神々のお働きである。祓戸の神といふ修跋専門の神様が別に存在するのではない、正神界の神々が修跋を行ふ時には、この四方面に分かれて御活動あることを指すのである。
塩竈神社。そこの御祭神は塩槌翁尊と祓戸四柱の神。海に面した岩屋である。
寄せては返す波の音。祓いと鎮魂には適した場所。
私は、この岩屋と夢殿がオーバーラップする。(関係ないかも知れないが、法隆寺五重塔の相輪には四本の鎌がかけられている)
また、シュタイナーは、人間の体の中には神の要素が組み込まれていると言う。
神託を得るにも適した場所ではないだろうか。
この塩槌翁尊は、天御中主もしくは、伊邪那岐命に匹敵するようにも思う。
影向明神社。丹生氏は、彼の文章の中で最も大きな写真で最初に持ってきている。その時に伺うことが出来れば良かったのだが、後から気がついたので時は遅しというところ。また、いつも丹生氏に出会えるとは限らない。なぜなら、最初に訪れたときは、まだ若くナイーブな感じの神職の方がおられただけだったからである。
しかし、「影向」という意味は、神が降臨されたところという意味がある。また、影向石は平らでピカピカになり、鏡のようにもなるという。
非常に、意味深なことではなかろうか。
ただ、こういった一連から見ると、丹生都比売の存在が、当時、如何に大きかったかが伺えるし、また、神武天皇の流れが、如何に武力に頼ってきたものであるかも伺える。
ああ、それにしても天野米は美味しい〜。おむすびで食べたいと思えるお米で〜す。
【高天原】
一音づつの意義を調ぶれば、「タ」は対照力なり、進む左なり、火なり、東北より鳴る声なり、父なり。
また「カ」は輝くなり、退く右なり、水なり、西南より鳴る声なり、母なり。
父を「タタ」といひ、母を「カカ」と唱うるのもこれから出るのである。
また「ア」は現はれ出る言霊、「マ」は球の言霊、「ハ」は開く言霊、「ラ」は螺旋の言霊。
すなはち「タカアマハラ」の全意義は全大宇宙の事である。
と、ここで「カマ」「鎌」の意味を見た場合、「水の球」、「母の球」ということが出て来る。
丹生都比売は水の神としての性格。そして、玉津島は文字通り「玉」という文字が入っているし、そこの御神紋は如意宝珠を用いた「玉に割り菊」。
私の想像であるが、玉津島神社の御祭神は丹生都比売の母君ではないかと思うのだが・・・・。
また、御神紋は後世に出来たものと思われるが、それでも割り菊にしたことは理由あってのことだと思う。
丹生都比売は天照大神の妹とされているが、どうも天照大神に反する立場であったような気がする。
【焼鎌の敏鎌】
焼鎌とは、鎌で焼きて造る故にいふ。敏鎌は利き鎌の義。
【祓戸の大神達】
祓戸四柱神、すなはち瀬織津比売、速秋津比売、気吹戸主、速佐須良比売の四神である。すべて大修跋執行に際しては八百万の神々は、常にこの四方面に分かれて活動を開始し、諸々の枉事罪穢れを払ひ清め給ふので、天津神たると国津神たるとを問はず、また宇宙全体たると、地球全体たると、また一郷一村一身一家たるとを論ぜずして、四方面の修跋が起こるのである。地球の大修跋、世の大立替へが開始さるる時には、神諭のいはゆる雨の神、岩の神、風の神、地震の神の大活動となる。
大修跋に際して、神の御活動は大別して四方面に分かれる。いはゆる祓戸四柱の神々のお働きである。祓戸の神といふ修跋専門の神様が別に存在するのではない、正神界の神々が修跋を行ふ時には、この四方面に分かれて御活動あることを指すのである。
塩竈神社。そこの御祭神は塩槌翁尊と祓戸四柱の神。海に面した岩屋である。
寄せては返す波の音。祓いと鎮魂には適した場所。
私は、この岩屋と夢殿がオーバーラップする。(関係ないかも知れないが、法隆寺五重塔の相輪には四本の鎌がかけられている)
また、シュタイナーは、人間の体の中には神の要素が組み込まれていると言う。
神託を得るにも適した場所ではないだろうか。
この塩槌翁尊は、天御中主もしくは、伊邪那岐命に匹敵するようにも思う。
影向明神社。丹生氏は、彼の文章の中で最も大きな写真で最初に持ってきている。その時に伺うことが出来れば良かったのだが、後から気がついたので時は遅しというところ。また、いつも丹生氏に出会えるとは限らない。なぜなら、最初に訪れたときは、まだ若くナイーブな感じの神職の方がおられただけだったからである。
しかし、「影向」という意味は、神が降臨されたところという意味がある。また、影向石は平らでピカピカになり、鏡のようにもなるという。
非常に、意味深なことではなかろうか。
ただ、こういった一連から見ると、丹生都比売の存在が、当時、如何に大きかったかが伺えるし、また、神武天皇の流れが、如何に武力に頼ってきたものであるかも伺える。
ああ、それにしても天野米は美味しい〜。おむすびで食べたいと思えるお米で〜す。
2007年05月03日
高野山の守護神と丹生氏族
こちらにUPしたタイトルの全文は、著作権侵害に当たるかと思われますので、削除させていただきました。
読まれた人はラッキー、読めなかった人はごめんなさい。
読まれた人はラッキー、読めなかった人はごめんなさい。
2007年04月21日
フィルター
いつもは見ない時間に、ほんの少しの時間待ちという程度のときに目に入ってくるテレビの映像。そんな時は、なぜか素敵なことがもたらされる。
コブクロは、ミスターチルドレンの桜井のファンなのだろうか。こんなことを、まるで子どものように無邪気に目を輝かせて言っていた。
コブクロの歌を、彼が歌ったときの追想である。
「自分の歌が、ミスターチルドレンというフィルターを通して流れるんだよ。これは、凄いことだよ。
『桜』という歌を、桜井さんが少し違う歌い方をしたのだが、本来のものとは違うけれど、それ以来、桜井さんが歌った歌い方をしている。」
フィルターという表現に、私は感銘を受けた。人間という器。同じものでも、その器によって様々な流れとなる。
例えば、霊界物語。音読で、やっと48巻まで読み終えたが、それまでの私という器はどうであっただろうかと。
神の書と言われる霊界物語。それを私という器は、その書の資質を損なうことなく、不純物を付け加えることなく出来ていたであろうか。そばで聞いている精霊たちに、十分に伝えることが出来たであろうか。
自分という器を、より純化させねばならない。善きものは、さらに善く、悪しきものは善きものに浄化させ、そして外に流していかなければならない。
自分は世界の中の小さな点に過ぎないが、その小さな点も重要な通過点の一つなのである。
コブクロは、ミスターチルドレンの桜井のファンなのだろうか。こんなことを、まるで子どものように無邪気に目を輝かせて言っていた。
コブクロの歌を、彼が歌ったときの追想である。
「自分の歌が、ミスターチルドレンというフィルターを通して流れるんだよ。これは、凄いことだよ。
『桜』という歌を、桜井さんが少し違う歌い方をしたのだが、本来のものとは違うけれど、それ以来、桜井さんが歌った歌い方をしている。」
フィルターという表現に、私は感銘を受けた。人間という器。同じものでも、その器によって様々な流れとなる。
例えば、霊界物語。音読で、やっと48巻まで読み終えたが、それまでの私という器はどうであっただろうかと。
神の書と言われる霊界物語。それを私という器は、その書の資質を損なうことなく、不純物を付け加えることなく出来ていたであろうか。そばで聞いている精霊たちに、十分に伝えることが出来たであろうか。
自分という器を、より純化させねばならない。善きものは、さらに善く、悪しきものは善きものに浄化させ、そして外に流していかなければならない。
自分は世界の中の小さな点に過ぎないが、その小さな点も重要な通過点の一つなのである。
2007年04月18日
想念
霊界物語によると、霊界は想念そのものであるとも言えるようだ。人間の肉体としての面貌は、父母からの遺伝によるが、人間の精霊の面貌は、愛の情動如何によって決まるという。
確かにこの状態は理に適っているし、何より公平である。公平であるということは神の御心そのものだし、規則正しい法則性に貫かれているということではないだろうか。
また、人は過去の嫌な記憶を思い出すと、なんとなくその時の感情が甦ったり、悪しき感情が湧いてきてしまうことは多少なりとも誰もが経験していることだと思う。
その反対に、良い記憶からは、どんどん善なる感情や思念が湧いてくるものである。
それについて、霊界物語ではこのように述べられている。悪しき想念は記憶から入り込んでくると。そして、その悪しき思いというのは自分から生じているものではなく、地獄から流れ入るものであると。
まず、想念の世界であるということを把握すること。そして、普段の自分を見つめること。
そうすれば、理性と愛情があり、それをコントロール出来ているのに、なぜ嫌な記憶が甦ると良からぬ想念が生じてくるのか見えてくる。
そういった想念は決して自分が発しているのではなく、地獄界から流れ入ってくることに気付くのではないだろうか。
そうしたら、後は簡単。記憶について、ほんの少し注意深くなっているだけでいいのだ。嫌な記憶が表に出てきたら、そこでシャットアウトしてしまえばいい。
また、善くない思いが湧き上がって来たときも同じこと。それも、地獄界から自分の中へ流れ込もうとしているものだから。
想念の世界は、人間の持つ意志力によってなんとでも出来ると思う。意志力は、神から与えられた如意宝珠のようなものだから。
確かにこの状態は理に適っているし、何より公平である。公平であるということは神の御心そのものだし、規則正しい法則性に貫かれているということではないだろうか。
また、人は過去の嫌な記憶を思い出すと、なんとなくその時の感情が甦ったり、悪しき感情が湧いてきてしまうことは多少なりとも誰もが経験していることだと思う。
その反対に、良い記憶からは、どんどん善なる感情や思念が湧いてくるものである。
それについて、霊界物語ではこのように述べられている。悪しき想念は記憶から入り込んでくると。そして、その悪しき思いというのは自分から生じているものではなく、地獄から流れ入るものであると。
まず、想念の世界であるということを把握すること。そして、普段の自分を見つめること。
そうすれば、理性と愛情があり、それをコントロール出来ているのに、なぜ嫌な記憶が甦ると良からぬ想念が生じてくるのか見えてくる。
そういった想念は決して自分が発しているのではなく、地獄界から流れ入ってくることに気付くのではないだろうか。
そうしたら、後は簡単。記憶について、ほんの少し注意深くなっているだけでいいのだ。嫌な記憶が表に出てきたら、そこでシャットアウトしてしまえばいい。
また、善くない思いが湧き上がって来たときも同じこと。それも、地獄界から自分の中へ流れ込もうとしているものだから。
想念の世界は、人間の持つ意志力によってなんとでも出来ると思う。意志力は、神から与えられた如意宝珠のようなものだから。
2007年04月15日
神愛・神智
「神善」という文字を見ていたら、善女龍王とオーバーラップした。善女龍王といえば、その姿は雲に乗って冠を戴き、中国の衣服をまとう男性の姿で描かれる国宝・善女龍王像が有名だとのこと。
思わず、厳霊を内包する瑞霊を、見事に表しているのではないかと思ってしまった。
また、善女龍王といってすぐ思い浮かべたのが室生寺の近くにある竜穴神社。ここは、室生寺よりも先にあったという。でも、なぜか室生寺の方が有名であるが。
そして、善女龍王といえば豊玉姫。神善の流れ。
この竜穴神社。そして、もう一つ千葉県の館山へ行ったときに立ち寄った神社。残念ながら、その頃はさほど神社に興味はなく、たまたま偶然通りかかったとき、なぜか寄ってみたくなった所である、だから、神社名は覚えていない。
その二つの神社は、不思議な空間であった。どちらも一人だけになる時間がもたらされたが、その時の極度の畏怖の気持ちと、そして、そのままもう少しそこにいたなら、そこに重なって存在している別の空間に引き込まれてしまうのではないかという思いに襲われた。今、思い出しても、その感じは色褪せることなく強い。
と、ちょっと脱線したが、愛は生命の水。愛がなくては芽は出ないのである。霊界物語の中には、このように書かれてある。
「すべて情動なるものは、愛に属し、愛は人間生命の本体である。」
また、これも当然のことであるが、死後の有り様。
「人の精霊は、肉体の脱離期すなはち最後の死期に当たって、その瞬間抱持たところの、最後の想念をは、死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るに従って、精霊は、もと世にあった時、平素抱持したる諸々の想念のうちに復帰するものである。
さてこれらのもろもろの想念は、かれ精霊が、全般的情動すなはち主とするところの愛の情動より来るものである。」
「愛」ということが、如何に大切で重要なものであるかということ。肉体を離れる時までに、愛を深め、高め、そしてその情動により、善のための善を行いたいものである。
私は、思う。神愛を育んでいる人の言葉は心に響くし、浸透してくる。しかし、神愛を二の次にしている人の言葉は、それがどれほど学術的であり知的なものであろうとも、心の奥の鏡は撥ね返してしまう。
神愛から生じる神智だけが必要なのである。
思わず、厳霊を内包する瑞霊を、見事に表しているのではないかと思ってしまった。
また、善女龍王といってすぐ思い浮かべたのが室生寺の近くにある竜穴神社。ここは、室生寺よりも先にあったという。でも、なぜか室生寺の方が有名であるが。
そして、善女龍王といえば豊玉姫。神善の流れ。
この竜穴神社。そして、もう一つ千葉県の館山へ行ったときに立ち寄った神社。残念ながら、その頃はさほど神社に興味はなく、たまたま偶然通りかかったとき、なぜか寄ってみたくなった所である、だから、神社名は覚えていない。
その二つの神社は、不思議な空間であった。どちらも一人だけになる時間がもたらされたが、その時の極度の畏怖の気持ちと、そして、そのままもう少しそこにいたなら、そこに重なって存在している別の空間に引き込まれてしまうのではないかという思いに襲われた。今、思い出しても、その感じは色褪せることなく強い。
と、ちょっと脱線したが、愛は生命の水。愛がなくては芽は出ないのである。霊界物語の中には、このように書かれてある。
「すべて情動なるものは、愛に属し、愛は人間生命の本体である。」
また、これも当然のことであるが、死後の有り様。
「人の精霊は、肉体の脱離期すなはち最後の死期に当たって、その瞬間抱持たところの、最後の想念をは、死後しばらくの間は保存するものであるが、時を経るに従って、精霊は、もと世にあった時、平素抱持したる諸々の想念のうちに復帰するものである。
さてこれらのもろもろの想念は、かれ精霊が、全般的情動すなはち主とするところの愛の情動より来るものである。」
「愛」ということが、如何に大切で重要なものであるかということ。肉体を離れる時までに、愛を深め、高め、そしてその情動により、善のための善を行いたいものである。
私は、思う。神愛を育んでいる人の言葉は心に響くし、浸透してくる。しかし、神愛を二の次にしている人の言葉は、それがどれほど学術的であり知的なものであろうとも、心の奥の鏡は撥ね返してしまう。
神愛から生じる神智だけが必要なのである。
2007年04月14日
霊界物語第四十七巻
霊界物語第四十七巻はまだ読み途中であるが、いろいろな発見がある素適な巻である。
例えば第十二章に書かれてある視覚力ということについて。
「わが内分の視覚力 すなはち想念界の視覚力は なほも遠方に相達し なほも進んで内辺の 視力のいたる極みには その眼界はなほさらに 遠大なるべきことを知る (略) 神的視力は現実に 一切視力のいと深き 内的にして高上なるものぞ 想念中の かくのごとき 延長の力あるゆゑに (略) 」
私はこの箇所を読んだ時、北光神のことが脳裏に浮かんだ。一つ目の神。そこに秘められた重要性。
また、霊国の天人と、天国の天人は、まったく別の流れにあるものだと今まで思っていた。というのも、霊国は月の国に対応し、瑞霊に対応するが、天国は日の国と厳霊に対応するからであるからだ。
しかし、どうも天国天人の要素を通過して行けるところが霊国なのかなという気がする。
一見すると、天国は愛善、霊国は信真及び知恵証覚に対応するように思えるが、霊界物語の中には、すべて高天原には、順序が第一に重んぜられいると書かれてあるし、また、そう考えるのが普通のことでもある。
真信というものは、愛善の要素がなければ本当の信真にはなり得ないもの。神への愛、隣人への愛があってこそ成立するものではないだろうか。
知識ばかりを追い求めても、愛善という養分を養っていなければ、その知識は神の流れの中のものではなく、それこそアーリマンの欲しがるものとなり、利用されるものとなる。
と、ちょっとここで休憩。また、後で続きを書きたいと思う。
例えば第十二章に書かれてある視覚力ということについて。
「わが内分の視覚力 すなはち想念界の視覚力は なほも遠方に相達し なほも進んで内辺の 視力のいたる極みには その眼界はなほさらに 遠大なるべきことを知る (略) 神的視力は現実に 一切視力のいと深き 内的にして高上なるものぞ 想念中の かくのごとき 延長の力あるゆゑに (略) 」
私はこの箇所を読んだ時、北光神のことが脳裏に浮かんだ。一つ目の神。そこに秘められた重要性。
また、霊国の天人と、天国の天人は、まったく別の流れにあるものだと今まで思っていた。というのも、霊国は月の国に対応し、瑞霊に対応するが、天国は日の国と厳霊に対応するからであるからだ。
しかし、どうも天国天人の要素を通過して行けるところが霊国なのかなという気がする。
一見すると、天国は愛善、霊国は信真及び知恵証覚に対応するように思えるが、霊界物語の中には、すべて高天原には、順序が第一に重んぜられいると書かれてあるし、また、そう考えるのが普通のことでもある。
真信というものは、愛善の要素がなければ本当の信真にはなり得ないもの。神への愛、隣人への愛があってこそ成立するものではないだろうか。
知識ばかりを追い求めても、愛善という養分を養っていなければ、その知識は神の流れの中のものではなく、それこそアーリマンの欲しがるものとなり、利用されるものとなる。
と、ちょっとここで休憩。また、後で続きを書きたいと思う。
神の川
谷川健一の「神に追われて」という本は、ユタについて詳細に書かれたノンフィクションの書である。
そのなかで、もし霊能力を間違った使い方をしたり、霊能者自身の行いが悪しきものである場合、その末路は精神に異常をきたす方向へ向かうとが書かれてある。
霊界物語にも、同じようなことが書かれてあった。抜粋してみよう。
「真の神は、月の国においては、瑞の御霊の大神と現はれ給ひ、日の国においては、厳の御霊の大神と現われ給ふ。
さうして、厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の御霊を否むがごとき信条の上に、安心立命を得むとするものは、残らず高天原の圏外に放り出される。
かくのごとき人間は、高天原より嘗て内流なきゆゑに、次第に思索力を失ひ、何事につけても、正当なる思念を有し得ざるに立ち至り、つひには精神衰弱して唖のごとくなり、あるひはその言ふところは、痴呆のごとくなって歩々進まず、その手は垂れてしきりに慄(ふる)ひ戦(をのの)き、四肢関節は全く力を失ひ、餓鬼、幽霊のごとくなってしまふものである。
また瑞の御霊の神格を無視し、その人格のみを認むるものも同様である。」
神ということを口にしながら、それでも現実的な目に見える形のみに重点を置き、そこから安心立命を得ようとすること。
それは、偽善である。神を利用しているにすぎない。結局は、利己的な幸福さえあればいいと思う人間であろう。
よく、神社仏閣において、物品の寄進者の名前が書かれてあるものを目にする。それを見て、人はどう思うだろうか?
決して、清々しい気分にはなれないのではないだろうか。むしろ、自己顕示欲、名誉欲の強い人たちだなと思うだろうし、そういうことを平然と行っている神社仏閣の在り方に疑問を持つのではないだろうか。
霊界物語には、そういうことについても書いてある。
「また偽りの信仰とは、いはゆる偽善者どものその善行を飾る武器として、内心に悪を包蔵しながら、表面宗教を神じ神を礼拝し、あるひは宮司などに寄付金をなし、その金額を石または立札に記さしめて、自分の器量を誇るところの信仰である。
あるひは商業上の便利のために、あるひはわが処世上の都合のために、表面信仰を装ふ横着者の所為を称して、偽りの信仰といふのである。
ようするに、神仏を松魚節(かつおぶし)として、自愛の道を遂行せむとする悪魔の所為をいふのである。かくのごとき信仰は、神に罪を重ね、自ら地獄の門扉を開く醜行である。」
このようなことも、理性的に考えればすぐにわかること。己のどういう情動から出るものであるか、それは自分自身が一番よく知っていること。
神仏は、穢れたものを忌み嫌う。純化されたものだけを受け取るのである。なぜなら、神は純化そのものであるからだ。
また、霊界物語には、体主霊従は悪しきことであり、霊主体従を善しとしている。それも、霊五体五で、少しだけ霊が勝っている状態が善いとのことであるが、これだけ出口王仁三郎が言いながらも、その信奉者たちの中には、霊に重点を置きすぎている人々をけっこう見かける。実に、不思議なことである。
ネットの世界は、面白いようにその流れを見ることが出来、そして、時としてその結末までも見れてしまう。決して、霊に溺れたくないものである。
そして、器としての自分が神の内流を受け、善きことが出来たとしたなら、それは神の内流ゆえに出来たことであり、決して自分の力で出来たものではないのだ。
ただ、内流を得るべく、自分の器を整える努力をしているだけ。それは、水の流れのようなもの。如何にして、上流から流れてきた水を下流へと流せることが出来るかというだけのこと。
だから、決して流れを止めない自分になりたいものである。流れる神の水と同じように・・・・。
そのなかで、もし霊能力を間違った使い方をしたり、霊能者自身の行いが悪しきものである場合、その末路は精神に異常をきたす方向へ向かうとが書かれてある。
霊界物語にも、同じようなことが書かれてあった。抜粋してみよう。
「真の神は、月の国においては、瑞の御霊の大神と現はれ給ひ、日の国においては、厳の御霊の大神と現われ給ふ。
さうして、厳の御霊の大神のみを認めて、瑞の御霊の御霊を否むがごとき信条の上に、安心立命を得むとするものは、残らず高天原の圏外に放り出される。
かくのごとき人間は、高天原より嘗て内流なきゆゑに、次第に思索力を失ひ、何事につけても、正当なる思念を有し得ざるに立ち至り、つひには精神衰弱して唖のごとくなり、あるひはその言ふところは、痴呆のごとくなって歩々進まず、その手は垂れてしきりに慄(ふる)ひ戦(をのの)き、四肢関節は全く力を失ひ、餓鬼、幽霊のごとくなってしまふものである。
また瑞の御霊の神格を無視し、その人格のみを認むるものも同様である。」
神ということを口にしながら、それでも現実的な目に見える形のみに重点を置き、そこから安心立命を得ようとすること。
それは、偽善である。神を利用しているにすぎない。結局は、利己的な幸福さえあればいいと思う人間であろう。
よく、神社仏閣において、物品の寄進者の名前が書かれてあるものを目にする。それを見て、人はどう思うだろうか?
決して、清々しい気分にはなれないのではないだろうか。むしろ、自己顕示欲、名誉欲の強い人たちだなと思うだろうし、そういうことを平然と行っている神社仏閣の在り方に疑問を持つのではないだろうか。
霊界物語には、そういうことについても書いてある。
「また偽りの信仰とは、いはゆる偽善者どものその善行を飾る武器として、内心に悪を包蔵しながら、表面宗教を神じ神を礼拝し、あるひは宮司などに寄付金をなし、その金額を石または立札に記さしめて、自分の器量を誇るところの信仰である。
あるひは商業上の便利のために、あるひはわが処世上の都合のために、表面信仰を装ふ横着者の所為を称して、偽りの信仰といふのである。
ようするに、神仏を松魚節(かつおぶし)として、自愛の道を遂行せむとする悪魔の所為をいふのである。かくのごとき信仰は、神に罪を重ね、自ら地獄の門扉を開く醜行である。」
このようなことも、理性的に考えればすぐにわかること。己のどういう情動から出るものであるか、それは自分自身が一番よく知っていること。
神仏は、穢れたものを忌み嫌う。純化されたものだけを受け取るのである。なぜなら、神は純化そのものであるからだ。
また、霊界物語には、体主霊従は悪しきことであり、霊主体従を善しとしている。それも、霊五体五で、少しだけ霊が勝っている状態が善いとのことであるが、これだけ出口王仁三郎が言いながらも、その信奉者たちの中には、霊に重点を置きすぎている人々をけっこう見かける。実に、不思議なことである。
ネットの世界は、面白いようにその流れを見ることが出来、そして、時としてその結末までも見れてしまう。決して、霊に溺れたくないものである。
そして、器としての自分が神の内流を受け、善きことが出来たとしたなら、それは神の内流ゆえに出来たことであり、決して自分の力で出来たものではないのだ。
ただ、内流を得るべく、自分の器を整える努力をしているだけ。それは、水の流れのようなもの。如何にして、上流から流れてきた水を下流へと流せることが出来るかというだけのこと。
だから、決して流れを止めない自分になりたいものである。流れる神の水と同じように・・・・。

