2008年07月16日

反映・萌え芽

この土地へ来て10年目になるが、なぜかよく間違い電話がかかってくる。それも、実にバラエティーにとんでいるのだ。

農協、葬儀屋、町長の家、福祉事務所、介護の○○さん・・・・エトセトラ。

昨日はスターバックス、今日は○○(現在住んでいる都道府県の名)建設。

なんでだろうね。なかには、まったく違う番号というのもあった。でも、ここまで種々様々なものだと、間違い電話も楽しくなるから不思議だ。

ああ、それにしてもシュタイナーの「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」という本。本当にすごすぎる。
そして現在の社会の動きが、まさにシュタイナーの見解の萌え芽ではないかと思われることもあるのだ。もう少しで読み終るが、図書館への返却日までに間に合えば、後日、内容について書いてみたいと思う。

しかし、このような有益な本が絶版とは悲しいばかりだ。今だからこそ、再版して欲しいと願って止まない。
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2008年07月04日

翻訳〜分身

翻訳。今まで、私は翻訳ということにそれほど重点を置いていなかった。しかし、ここ最近、思うのだ。翻訳は原作を生かすことも殺すことも出来るものだと。

私はルドルフ・シュタナーが好きだ。出版されているものは主に高橋巌氏や西川隆範氏の翻訳したものが多いが、本当に素晴らしい翻訳であったが為に、私はすんなりとシュタイナーの見解を受け入れることが出来たのかなと。

このシュタイナーの翻訳は難しいと思う。彼の思想・意識・心情など一体となって理解していないと翻訳しきれるものではない。専門用語も多い。訳者が真摯な一求道者として高潔な精神で汲み取って消化しない限り出来るものではないなと。

シュタイナーの翻訳は、言語が出来るからといって訳すことが出来るものではないということがつくづく分かったのである。

まだシュタイナーに関しては日本語に訳されていないものも多い。少しでも多くのものを読みたい。
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大蛇と本

最近、巨大な大蛇の夢を見た。あまりにも大きすぎて、そのごく一部しか視界には入らなかったのだが。

私は大の蛇嫌い。だから、山へ行って何が怖いかというと蛇なのだ。あ、今、思い出したが、去年の今頃、唐招提寺の鑑真和尚の御廟へ行った帰り、その御廟のすぐ近くで一匹の蛇に出会ってしまったっけ。

だが、よくしたもので、霊学の探求の中に於いては、しばしば蛇が出てくる。だから、時には絵をまじまじと見なければならない。この蛇嫌いというのは幼い頃からだが、何ゆえ?といつも思うのである。嫌いになるような事件はこれといって思い当たらないのだが。

そうそう、その大蛇の夢を見た直後、記憶から消えていた一冊の本が目に飛び込んできた。
T女史という、教祖まがいのことをやっていた霊能者が書いたケーキブックである。

私は料理の本だけは処分したことがない。だから、だいぶ古い本や雑誌や新聞などからの切抜きがある。そこが、盲点であった。

私には、T女史=蛇というように目に映っていた。だから、宗教関連の無意味な書物をすべて処分した時、記憶に残っていなかったこのT女史の本には気がつかなかったのだ。もちろん、料理関連の本を置いてある所にその本もあったわけだが、はっきりいって本通りに作ったものは美味しくなかったので、意識の中から消え去り、それと同時に無意識の内に目にも留めなかったのだろう。

まあ、だいたいはどの本も、本通りに作っても美味しくはいかないので、材料の量を加減したり、スパイスを付け加えたりして自分の満足のいく味に仕上げるのだが、そのケーキブックだけは手の施しようがなかった。いや、なかったというより、あまりにも手を加えることや省くことが多すぎて嫌になったという方が適格だろう。とはいっても、人それぞれに味覚は違うので、「私にとっては」という言葉を付け加えるのが正しいようだ。

そこで、この本の存在に気がついた私は、さっさと処分した。私にとっては生まれて初めて処分する料理本ということになったのだが。自分に必要ないものは取って置いても無意味。これでこんどこそきれいさっぱり!
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2008年06月22日

天使が動く時

もたらされるシンクロニシティーの数々。その全てが、たぶん、素適なことや自分に必要なこと。

最近起きたこともそうだ。
ベランダにキアゲハが遊びに来た。綺麗なクリーム色の大きな揚羽蝶。その珍しい現象と美しさに何かあるのかなと思っていた。

それから数日後、それは起きた。
キアゲハという名を伴って一冊の本が間違って届けられた。それは、天使に関する本であった。
送り返そうかと思った。しかし、その偶然性と、またパラパラと中を見た内容は私のそんな思いを留まらせ、代金を支払うことにした。もちろん、注文していた本も無事に手元に届いた。

損得勘定や自分自身の救いの為に探求している霊学ではない、無欲で真摯な探求はシンクロニシティーをもたらせ易いのだということが、最近わかってきたことだ。



また、下の子を見ていると、とてもダイナミックな人生だと思う。彼女の持つエネルギーの強さや大きさは、時々私をへとへとにさせるが、面白い。

ある傾向があって、昔から小さな子どもに好かれやすい。外を歩いていると、やたらと小さな子どもがそばへ寄ってきて遊んで欲しがる。
昨日もあったようだ。バス停でベンチに座って待っている時、中国人らしき親子がやって来たという。
すると、幼い女の子は「お姉ちゃん」と言って、やたらとからだにまとわりついて来た。母親は何か言っているのだが、日本語ではなかったので理解できない。
が、まだよだれをたらしているような幼い子どもの扱い方は分からないので、とりあえず犬をあやすように頭をくしゃくしゃ撫でたり、顎を撫でたりしてあげていた。
すると、「お姉ちゃん、好きー」と言って、なお、まとわりついてくる。

そこへバスが到着したので、やっと離れられると思って、さっと乗り込み通路側の席に座った。が、子どもとは無邪気なもの。なんと、バッグがあるのにも関わらず、膝の上に座ってきて「お姉ちゃん、もっと好きー」と。
結局、目的地の駅に到着するまで子どもをあやし続けたと言う。まあ、当然のことながら、そういう状態であったので、バスを降りてからも「お姉ちゃん、好きー」と半べそになりながら必死で後を着いてきたがったというが、行き先は別々、目的も別々。その子の母親はしきりにわからない言語を発しながら申し訳なさそうに頭を何度も下げていたという。

しかし、子どもに好かれるのだが、彼女は子どもが苦手である。でも、いつも突っぱねることなく相手をするのだ。
彼女は、決まって言う。「苦手だけど、相手に悪気はないからね。」と。

その他にも、外人や老人に道を聞かれやすいという特徴もある。多くの友人がいるが、その全てと言っていいだろう、かなり個性的な人間が多く、実にバラエティーに富んでいる。ただ、共通していることは、みんな根のいい素直で約束を守るという子ども達だ。

また、ここに来て急速に自分の進路の目標を見定めた。それには、かなり驚いた。まさか、この子が!という感じだった。
そして目標が定まると、それに向けた道を描くのも早い。確かに、彼女の生きた来た今までの人生の中での経験が活かされるという明確な目標。私も、妙に納得してしまった。

そして、私の中で日増しに強く感じられていくことがある。まだ高一だが、すでに独立した周りに流されない確固とした考え方や自立精神が強いということ。もはや、手元を離れたような感覚。
彼女は過ぎ去ったことに囚われることもなく、常に前方を見つめて前進し続けている。その強さは、いつの間にか、私の中に放っておいても大丈夫、自分でなんとかやるだろうという思いを抱かせるようになった。

また、口ではドライなことを言っても、関わった友人を見捨てない優しさもある。例えば、いつかの他のクラスの男の子をモテるようにしてあげたが、その後、暴走してナルシストと言われるようになってしまったという子の話しを書いたが、その後、再び助言し始めて改善してあげたという。

人と人との絆を大切にし、比較で人を見ない子で良かったと、私はつくづく思うのである。

私自身は物心ついたときから人間関係で傷つくことが多かった。だから、子育てにおいては、自分の子どもたちが良い人間関係を築けるような強さを身に付けて欲しいと願いながら自分の心に鞭打って育ててきたが、二人の子ども達は二人とも良い有益な人間関係を築けるように成長した。

土台を作るのが親。それからは本人次第。どんな花を咲かせるのか楽しみだ。
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2008年06月09日

運命

秋葉原。かつて東京に住んでいた頃、そこはまだ電化製品が安いというだけの所だった。そして、それを購入したい時にだけ訪れていた。

だが、今は街並みは大きく変わった。

そこで、昨日、あまりにも痛ましい事件が起こった。悪魔が乗り移ったとしか思えないような狂行。

常連も多い中で、たまに訪れたとか、初めて訪れたという人々が犠牲になった。人の運とはなんなのだろうか。

シュタイナーは、戦争や災害などに会ってしまった人々のことについても言及している。吾々人類の未来の為に犠牲になるということもあるということを。

夫は今日、東京へ出張。そして、秋葉原にあるホテルへ宿泊することになっている。
だが、今回の仕事のスケジュールであったなら前日から宿泊することが多いパターンだったのだ。

先週の日曜日に夫に告げた。今度の土曜日、一人で山登りをしてくるからと。もちろん、一日かけて一人での山登りは初めてのこと。夫は心配したのだろうか。普段なら土曜日が休みでも会社へ出かける人なのに、その時は家で仕事をしていた。おそらく万全を期して日曜日から出張に出かけることを止めたのかも知れない。まあ、口数の少ない人なので何も語りはしなかったのであるが。

だが、もし日曜日から出かけていたとしたら、コンピューターなどの機械物が好きな人なだけに秋葉原の街を見て歩いていたかも知れない。

今回の山登りも、体調を崩してまだ完全に快復してはいなかったので止めるつもりでいたのだ。しかし、弾みというものは私を押し出した。

人の運命ということに、つくづく考えさせられる今回の事件であった。亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。





また、今日から私は新たなことを始めた。とうとう四つの名前を持つことになった。これ以上、たぶん、増えない・・・・・だろうと思うのだが。

ふと思った時、それが間違っていないものだったなら実行に移したいと。
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2008年06月01日

暗黒の中の光

気がつけば6月1日。久々に易をやってみた。6月の世界の動向。

「坎為水」

卦としては悪いもの。

ただし、【光は正しい者の前には暗黒の中からもあらわれる】という意味合いを含んでいるらしい。

混沌の中からの希望の動き。諦めるということほど、損失を招くことはない。信じることと不断の意志力が必要。
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二者択一の世界

規模の大きな地震やサイクロン、そして竜巻、豪雨などの自然災害があちこちで起き、人間がやったとは思えない残虐な犯罪が横行している。

悪魔がほくそ笑む。悪魔はそそのかしただけ。そして、それに乗ったのが人間。だから、すべては人間が招いた結果の数々。

美しい地球が破壊されていく。
美しい地球が汚れて行く。

人類の故郷なのに。

国同士が争っているのは可笑しいこと。地球は一つ。そのたった一つだけの地球は国境や人種を越えたところの人類のものなのに。

憎みあったり牽制しあうよりも、手を取り合った方がどれだけ進展するだろうか。どれほどの利益を生むことだろうか。
なのに、すべての国は自国のことだけに固執する。

人種がどうの、国がどうの、などとくだらないことは、もう、まっぴら。ましてや、だれそれの予言がどうだなどということは、退廃以外の何ものでもない。

今、出来ること。今、自分に出来ること。

心が透明になること。透明になった心が良いと思うことをするだけ。

穢れた空気が充満する世の中。だからこそ、その中で透明な流れを見つけ、見続けなければならない。
そして、既に、そういった流れの中で活動している人々は、これまた多く存在しているのだから。

悪魔に使われる人間の道を選ぶのか、それとも真実の愛に目覚めた人間として生きるのか。それは二者択一の世界でしかないのだ。
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2008年05月08日

悪魔に思える時

時々、自分が悪魔のように思えるときがある。

それは、自分の置かれている状況だけしか考えられずに、他にはもっと大変な人がいるにも関わらず、自分が大変だからと、その人に目を向けられなくなる時だ。

まだ自分の方がましなのに、だからこそもっと動けたり、してあげられたりするのに、低いハードルの前で背を向けてしまう。

なんと情けなく、なんという悪魔的な精神なのだろうかと。

自分が大変だという暇があったなら動けばいい。そして、倒れてから考えればいいこと。まだ、動けるのだから。

祈りも同じ。ただ祈っていただけでは何も動かない。本当の祈る姿勢とは、自発的に動こうとする意志であり、行動が伴うから「祈り」となるのだ。行動が伴わない祈りは、ただのオママゴトであり、自己満足の世界。

そういえば、ディランが駆け出しの頃、彼だけが同じステージで歌うシンガーの中で聴く人々を惹き付けたのは、強い意志があったからだと感想を述べていた人がいた。

意志。揺るぎない意志。確信に満ちた意志。意志はやる気。行動。
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2008年04月27日

傍観者

傍観者ほど勝手な者はない。

なるべく関わりたくないと、見て見ぬ振りをする者ほど嫌な者はない。

言いたい放題、あっちでもこっちでも評論家のオンパレード。

人の命について、やれ死刑だ、死刑は当然だと目に見えない殺人を行い続ける。

そして、そういう人間達に限って、被害者や被害者家族が笑って暮らすことを白い目で見る。差別感情を持つ。時には、あなた方にも何らかの非があったのだろうと冷酷無非な言葉を平気で投げつけたりもする。
何にも分かっちゃいないのに。



「心から本当に悔い改めた人間を、法というものが残虐にもその命を奪う。そういうことによって命の尊さを人々は考える。」

その考えは、とても恐ろしく、そしてとても悲しい。悔い改めることへの脱力感、無意味さをもたらす。改心しても、どんな贖いをしても許されない。それが人間社会というものなのだろうか。

戦場で味方を殺した兵士が白旗を掲げ、手を上げて降伏して来ているのに、無情にも打ち殺す。あなたは味方を殺したのだから当然のことだと言って。

「人間」は、ただの「物」なのだろうか?

そしてまた、私も死刑反対論者としての評論家にすぎないのなのだろう。
だが、もし裁判員制度で裁判員に選ばれたら、断固として死刑に反対するだろう。如何なるものの命でも守られるのが人間社会だと思うから。そして、本心から悔い改めるということが最も大切なことなのだから。それが、犠牲者への最大の供養。

元少年は不幸な生い立ち、あまりにも壮絶な酷い環境の中で生きてきて、人を殺め、そして九年という長い間ずっと死を突きつけられてきた。その上での死刑判決。ああ、無情。
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2008年04月16日

以心伝心

子どもを迎えに車で駅まで出かけた。その時、目の前を、何本もの太い丸太を積んだ大型トラックが走っていた。
私は思わず「与作は木を切る〜♪ ヘイヘイホー ヘイヘイホー♪」と口ずさんでいた。

そしてその後、車に乗り込んできた子どもがいきなり「ヘイヘイホー♪ ヘイヘイホー♪」と歌いだしたのだ。

このあまりにも偶然の同調に驚いた。私は演歌というものをほとんど口ずさむ事はない。また、子どもも「与作」という歌を知らない。今回も、「なんとなく ヘイヘイホ〜 というフレーズが出てきた」というだけのことだったという。

そういえば、以前にもあの子が「知らない与作のフレーズ」をなんとなく口ずさんだことが一度だけあった。

それにしても想念の世界の繋がりの速さに驚くばかりである。
posted by ミューシャ at 22:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

からくり

霊界物語第八十巻を読み終えたが、その最後の方に口述されている朝香比売が朝霧比売の所へ行く場面で、私は若草山の山焼きの光景へと誘われた。

そして、若草山を調べてみた。すると、若草山は火山であったとのことだ。
というのは、若草山の南斜面から鈴石と呼ばれる石が採取され、その鈴石は火山地方に特有の石だという。
またこの石は、石の中には砂とか水が入っているそうで、振るとからからと音がするという。これは火山の爆発のときに溶岩が砂や水蒸気を巻きこんで、そのまま冷えて固まったものだとのことだ。

ただ、面白いことに、霊界物語を読んでいると、異なってはいるが同質の空間が縦に重なり合っているようなものを感じる。そして、それが互いに反響し合い、一つになる。

また、「いざさらば」という言葉がよく出てくるが、これも今になってふと感じたのだが、タイ語の「パイ レーオ」というニュアンスと似ているなとも思った。
「パイ レーオ」を直訳すれば、「行く すでに」というもの。まあ、「いってきます」という意味で使われる言葉であるが。
日本語の「いってきます」というものより、タイ語の「パイ レーオ」の方が「霊界物語の「いざさらば」に非常に合っているように感じられる。


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第八十巻を読み終えたら、朝からの曇り空がにわかに明るくなってきた。その時、空と雲の色が同じような白色をしていることに、なぜか綺麗だなと思って撮った。
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2008年04月12日

夢と希望

子どもも入学式から数日たったが、相変わらず目をキラキラさせてテンションは高い。

入学式当日、登校する時も下校する時も友人達と行動するからと親とは別行動。そして、新入生入退場の時に顔を見ただけで、その後はクラスで。
そして、クラスで見たとき、既に主という顔になって周りの子達と話していたので、てっきり知っている子達と一緒のクラスになったのかと思った。だが、それは違っていた。

それどころか、同じクラスには誰も知っている子は居ず、また、同じ学校の子同士でグループが出来ていたらしいが、入学式当日からクラスのほとんどの子とメールアドレスの交換をし、しかもクラスの雰囲気を作ってしまい、元気なクラスという評判になっているという。
また、入学式当日だというのに、仲良くなった子5、6人を引き連れて他のクラス探検に出かけ、そこでも新たな友達を作ったとのこと。

その翌日は翌日で、廊下でワイワイとおしゃべりをしていたら、楽しそうだから仲間に入れてと、よそのクラスの子たちが声をかけてきたり、部活見学では、あるスポーツ部の女子の先輩達にめちゃ可愛いと気に入られて、頭をくしゃくしゃと撫でまくられたとか。

また、とある男子の部活見学では、かっこいい先輩がいたので目がハートになって話していたらマネージャーの女子から睨みつけられて怖かったとか・・・・。

はたまた、学校全体での対面式では元気よく挨拶をしたのは自分だけだったので、めちゃくちゃ目立ってしまい、上級生からは爆笑が起こるし、校長先生からは感動したと言って褒められるしと・・・・。(ハァー 溜息)

ただ、子どもを見ていて思うのが、相変わらず情報収集の豊富さだ。入学前から携帯サイトで、同校の上級生や同級生たちとメールのやりとり。通学し始めたらし始めたで、またその情報量は凄まじいものがある。

そして、最初のうちというのは本性を隠している子もいるのだが、そういう子たちの情報ももたらされるようだ。
ただ、そういう時、あの子は決まって言う。「いろんなタイプの人間は見てきたから、ややこしい子が居ても、それをどう扱ったらいいかは分かっている。」と。

また、あの子の面白いところは、綺麗な顔立ちや可愛い顔立ちの女子にはすぐ声をかけて友達になるところ。本人曰く「見ていて癒される。」とのこと。ただ、その後で性格的に嫌だと思うとすぐに離れてもしまうが。

そして、男子の場合は声のいい人が第一条件だという。目を瞑っていれば顔なんか関係ない。声さえよければそれでいいと。そういうわりには、イケメン、イケメンと騒ぐ。だが、彼女の言うイケメンは、本当にイケメン?と、私は思うのだが・・・・・。

まあ、なんやかんやと楽しい学校生活をスタートさせたようだ。目下の悩みと言ったら、このままだとリーダー的存在になってしまうということらしい。
なんでも、リーダーではなく、ナンバー2の立場であれやこれやと言いたいことを言って、リーダーがそれに対してまとめて動いてくれるのがいいというのだが。また、今まではそういう状態でやってきたとのことだが、今度ばかりはリーダーになってくれそうな人がいないと。さあ、これは困った。自分がリーダー的存在になったら大変だと。
しかし、それも人生。一回りも二回りも成長して欲しいし、その糧となるのだったら頑張りなさいよと。

また、上の子の方も人生で始めての壁に突き当たっているようだ。大学の他に資格取得のための専門学校へ通い始めたのだが、みんなより2ヶ月ほど遅れてのスタートとなってしまった。他のコースを選んでも良かったのだが、勧められたのがそのコースだったのだ。
また、大学三回生、四回生が多い中で子どもは二回生。遅れをとっている分、解説を読めば理解できるが、すぐに回答を出せない。こんな屈辱感、初めて味わうと。

確かに、過去から現在の大学でも出来る子として優等生的立場だった。劣等感とか屈辱感というのは経験したことがなかったのだろう。
それが、専門学校ではスタートが遅れているからと言っても、本人としては納得できないのかも知れない。
夏休みまで耐えるしかない、夏休みの間に遅れを取り戻す。そのようなつもりみたいだ。おそらく、人生の中で始めて真剣に勉学に取り組んでいるように見える。

また資格試験も、一発合格できる割合が受験者の一割。不合格だった人の三分の一は、その難しさにリタイヤするという。

親の私としては、わが子が壁にぶち当たるのを喜ばしいことと思っている。自分より優れた人は沢山居る。社会に出れば出たで、そのことをもっと実感するだろう。だから、一度は血の滲むような努力をしなさいよと。

何はともあれ、みんな体が資本。その健康を司るのが私の仕事。家族それぞれの夢と希望の為に、今しばらく、私もがんばらなくては。
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2008年04月02日

シンクロそのU

八橋蒔絵螺鈿硯箱には燕子花があわび貝で描かれている。
面白いもので、一昨日読んだ霊界物語には燕子花が子を産む場面が書かれてあった。

また、この硯箱は「伊勢物語」第九段の在原業平が三河の国の川辺で望郷の歌を詠んだという情景をテーマとして作られている。
そして在原業平といえば、斎宮の森を訪れた時にビデオで彼のことについて流れていたので記憶に残ってもいた。

無我と老猿。そして子年と昭和23年に起きた出来事、蒋介石の死去、台湾。

清らかな川の流れの為に生すべきこと。私には無意味なことに関わっている暇はない。現実のやるべき仕事をこなしながらの歩み。
posted by ミューシャ at 08:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

シンクロ

自分の持ち物の整理をしていた。また、記憶に残っていなかったものが思いもしないところから出てきた。今回はどれもこれも何かに挟まっていた状態となっていたのだが。

昭和23年の無孔の五円硬貨
昭和59年のお年玉切手
1996年のタイ国王在位50周年記念切手
エリザベス女王即位25周年記念硬貨
中華民国64年の伍圓硬貨
高村光雲の老猿の切手
横山大観の無我の切手
尾形光琳の八橋蒔絵螺鈿硯箱の切手

上3つはなんと子年。そして、下3つはどれも国宝シリーズ。そして、中華民国64年は蒋介石が死去した年。
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2008年03月31日

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大規模な部屋の片付けもそろそろ終焉に近づいてきた。今日は最後の砦である台所に取り掛かった。

種々様々な調味料や食材。私は以前は手の込んだ料理をよく作っていた。そう、そんな記憶を忘れていた九年間だったのだ。

平成十一年と記されたものが多く眠っていた。この土地へ来たその年のもの。
期待に胸を膨らませていた。明るい未来を築ける予定だった。確かに、あの時は希望の中に居た。

だが、それも引っ越してきた当日から不穏な空間の中へと取り込まれてしまっていたのだ。
あれから九年。いろいろなことを経験した。まったく予想だにしなかったことを。

しかし不思議なもので、あまりにも多くのことを経験したというのに、私の感性は変わっていない。あの頃よりも強くなったかも知れないが、私の感性はそのままなのだ。

だから、すべての出来事が昨日のことのようにさえ感じる。感情の荒波を鎮めて見つめられた昨日の出来事というように。

動乱の歩みの中、それでも九年目は成功で締めくくることが出来た。そして今、10年目に突入した。タロットカードでは10は運命の輪。おそらく今度は違ったサイクルの運命が待ち構えているのだろう。

私は運命に逆らおうとはしない。逆らっても逆らいきれないものだから。だから、その運命の波に上手く乗って行きたいと思う。そして、逃げずに厳然として立ち向かって行きたい。歩み続ける限り、希望という可能性は生み出され続けるものだから。
posted by ミューシャ at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする

2008年03月22日

前を見つめ続ける姿

フィギュアスケートの世界選手権。昨日の女子フリーには感動とエネルギーをもらえたような気がする。

浅田真央。心身ともにあれだけの衝撃を受けたのに、その後のパーフェクトな滑り。試合直後には左足付け根付近から出血していたという。なんと強い精神力とフィギュアスケートへの愛を持っているのだろうか。
無我の境地。何か別の時空間ででも滑っていたような感じを受けた。次回のテーマは「弥勒菩薩」なんていうのも素適だななんて思わせるスケーター。それにしても、計り知れないものを持っている。

そして、中野友加里。あの気迫のある滑り。鳥肌が立った。完全に魅了された。自分にはこれといって特別な何かがあるというわけではないので、努力と根性でやって来たと本人は言うが、彼女の持つすっと立つ凛とした滑りは他の誰も持ち合わせていないものだと感じる。何度でも見たい演技。

次に、キム・ヨナ。彼女も故障だらけで痛いだろうに、演技となると張り詰めた美しさを見せる。浅田真央が弥勒菩薩の舞いなら、キム・ヨナは天女の舞いというところだろうか。

この三選手は自分に負けないし、マイナス要因があったとしても言い訳をしない。それはきっと自分を信じているからだろう。滑ることが好きで好きでたまらないからだろう。その果敢に進んでいく姿は、見ていて本当に気持ちがいいし、見る側もエネルギーをもらえる。

久々にフィギュアスケートの感想を書いたが、やっぱり素適なものは素適なのだ。だから、書きたくなる。
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2008年03月21日

梅と榊

今年のわが家の榊は元気いっぱいだ。四年選手から新一年生まで、なんとまあ春爛漫。正月用榊の梅の枝まで、御覧のとおり。



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正月用榊としては、過去に二回、花を咲かせたことがある。そして、やはり過去に一回、花を咲かせるのかなと思っていたら葉が出てきたことがあった。
今年のものは、葉のようだ。それにしても、なんか熊の手みたい・・・・・。



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これも新一年生の榊。新米なのに素晴らしい! 堅い殻?の中から脱皮しました。



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これは三年生の榊。まるで接木したように枝が伸びて葉を芽吹かせている。年月を重ねた榊は、ゆっくりゆっくりと成長していく。



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これは、新一年生の榊を二つ並べて撮ったものだ。梅の枝のある方の榊は、悲しいことに病気になるなどして葉を落としてしまっている。やはり、梅を支える為の榊なのだろうか。



偶然にも朱智神社というところを知った。とても面白いなと思ったのだが、ここは清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷し、毎年7月13日、“榊遷し”の行事を行っていたという。でも、それはいつの頃からかなくなってしまったというのだ。

榊、朱、牛頭天王・・・・・。
また、玉津島神社と津島神社。
壮大なロマン。
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2008年03月16日

太陽光

かつて、藤ノ木古墳の被葬者は誰かということに意識が向いていたとき、偶然にも埋葬品の展示があり、なんと被葬者の骨まで目にすることとなってしまった。
また、今回は、最後の見納めとする為に藤ノ木古墳の写真を撮ってきた。

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現在、工事中。
二億円だっただろうか、ちょっとうろ覚えだが、かなり多額なお金をかけて藤ノ木古墳の展示場を作るという案が進行中だという事を聞いたことがある。

それにしても、周りは田畑と住宅。一時期は、それこそこの古墳を遊び場としていた子ども達は多かったのだろう。知らぬとはいえ、ある意味、被葬者への侮辱行為かな。

また、以前は陰鬱な印象だった古墳も、今は明るく感じる。不思議なものだ。こういうのを、きっと、日の目を見るというのだろうか。
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2008年03月10日

神の御手

地球の様々な姿の中に神の姿が見える。神の心が見える。神の愛が見える。

なんと荘厳な姿、なんと純朴な姿、なんと美しい心なのかと。

私はその中に溶け込みたくなる。抱かれたくなる。

神の愛が大愛だということが、わかる。わかるのだ。

瞬間に凝縮された美。そのなんと緊迫した崇高さなのだろうか。
一瞬の変り行く姿に、どれほど多くの意志が込められているのだろう。

例えば、降り続く雨の舞いが手を休めた時、清涼な霧が辺りを多い、その隙間から柔らかな金色の光が降り注ぐ。その幻想的な光景に見惚れ、思考する。

私は生きながらにして天国を見れることの幸せを、つくづく思うのである。
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2008年02月29日

冬から春へ

とりあえずは一段落。大きな大きな雷を落さなければならなかったとは・・・・・。
私の発言に硬直してしまった人、書くペンが止まってしまった人、その後、数日間自分を見直し反省した人・・・・。

その場に居た会う人、会う人、みんな言う。大変でしたね、と。なかには、切れているよね、絶対に爆発したんじゃない、なんて言う人たちも。
ま、ここらへんの人たちにしてみたら、標準語というのはそれでなくてもきつく聞こえるらしい。あんなこと、やんわりと言える訳がないし、私の性格では真っ直ぐにしか言えないしね。

あ〜あ、これでまたまた私のイメージはどうなったことやら。校長まで、あの気の使ったものの言いよう。はぁ〜、溜息。

でも、物事は正された。正しいレールが敷かれた。後は、それを真っ直ぐなまま走ってほしいと思う。

それにしても、目立ちたくないと思う人間が目立つ。変な世の中。ひっそりと空気の様な状態でいたいのに。

明日からは3月。春の風の中へ。

そうそう、去年の3月に罹ったインフルエンザ。それで、物事の到来を予見し、さらにホロスコープで示されていた天王星の強い影響を覚悟した。
意識した時から、そういった影響力にもさらなる生命力が加わった感じもする。

また、霊界物語。第七十七巻の白馬ヶ岳と田族比女の物語を読み終えて迎えた戦いであったが、もし、霊界物語を読んで何かが起こると言うのなら、私の場合、物語のストーリーに連動した現実となっていたということだろうか。

天祥地瑞を音読していて思う。比女、比古の言葉を自分の口から発声できることの幸せを。



今、嵐の様な一年にピリオドは打たれようとしている。そして、それをなんとか乗り越えられたのも、ひつじさんによる夢解釈が大いなる手助けとなっていたからである。
こういった動乱の時ほど、夢の鋭さは増すようにも思える。そして、これほどまでに霊界の住人である夢の主が「生きている」と思えたことは、今までになかった。夢の主がどれほど偉大な存在か、大愛に満ちているか。

春到来。私は、今度はどんな舞いをするのだろうか。
posted by ミューシャ at 14:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 呟き | 更新情報をチェックする