2008年05月29日

白い木

広大で上質の黒の空間

そこに存在する美しき星々

まるで天女たちがその羽衣をたなびかせて舞っているかのよう

宇宙

私はすべてを遮断してその中に入り込む

そこのなんと崇高で、そして落ち着く空間なのだろうかと

全ての穢れを落とし

そして無になる

そこに宇宙があって、

その中に私だけが居る

一人だけの美しき孤独の空間

まるで故郷に戻ったような安らぎ

極上の甘美
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2008年05月17日

真珠の心

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榊の花の蕾

過去にも一度、神棚の榊に花が咲いたことがあった

あの時は、幾つもの小さな白い花


今年は三つの蕾が出来ていた

しかし、その二つは幼くあまりにも繊細な時に、私の不注意から生命を奪ってしまった

双子の蕾を

そして、たった一つ、葉の裏側にその生命を暖めていた蕾

次第にふっくらと膨らんでいく姿に、私は女神の姿を重ねていた

真っ白な真珠の様な蕾

輝くほどの純白

どれほど美しい花が咲くのだろうかと


しかし、その生命は開くことなく、

消えた

消えた理由は、たぶん、私には分かっている

蕾が悲しんだ理由

私の心

どうしようもない
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2008年04月26日

本当の気持ち

やはり、本音を書こう。

人を殺したら死刑になって当然だというその考え方は間違っている。

人を殺害するという行為は決して許されることではない。あまりにも残虐なこと。

殺したら殺されて当然だという考え方は、まさに「目には目を歯には歯を」というハンムラビ法典の復活を彷彿させる。

また、死に対して死ぬことを突きつける法律は、命の尊厳を守ることに反逆する思考。

法治国家であるから、また死刑という刑法が存在するから犯罪者の命を奪って当然だと叫ぶ姿は、本当に正しいのだろうか?
法という名の元の殺人行為のように、私の目には映る。

私憤を晴らす。被害者家族の心情の救済はとても大切なこと。しなければならないこと。しかし、死刑は、それを越えた次元。私憤を晴らす為に存在するかのように見える。

ふと、思った。深い思慮と、深い叡智と、深い人間愛の中に生き、そしてあまりにも惨い迫害を受け続けてきたホピ達は、死刑制度をどのように捉えているのであろうかと。
果たして命に対して命で償えと声を上げるだろうか。

今回の事件は、弁護団の戦略ミスのマイナス要因や、世論の高まり、それに対してびくびくしている裁く側のマイナス要因などの全ての負の要素が元少年一人だけに向けられた、あまりにも不条理な判決。

私は、今回の事件で、世の中の弱さや矛盾、歪みというものを感じざるを得ないのである。

元少年への死刑判決は、あまりにも不当な求刑。私は、死刑判決が撤回されることを祈って止まない。

そして、如何なる理由にせよ、法という名の元に死刑という命を奪う行為があってはならないと思う。
人間は神ではない。神から授かった命を、人間が聖人君子の顔をして奪うことをしてはならない。

また、犯罪に対して厳罰化したところで何も変わらない。厳罰化は犯罪に対して然したる抑止力はないのだから。むしろ、死刑というものは、人々の脳裏に命を軽んじる傾向を植えつけてしまう。そう、まるで命が物か何かのように。

私の目には死刑と叫ぶ人間達が、まるで心を失った鬼のように映るのだ。
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2008年03月06日

霊の粒子

気がつけば、もう3月6日。あまりにも慌しい日々の中、なんと固定資産税を払うのをすっかり忘れていて、急いで役場の窓口へ。
これも面白いもので、ぼーっとしていた時に、急にはっと思い出したのだ。固定資産税のこの字も忘れていたので、その時の焦りようったら、ははは・・・・。でも、これもきっと霊界からのフォローだなと。

今日の夕方、久しぶりに書店に立ち寄ってみた。そして、今村光一がスウェデンボルグの霊界著述から最重要ポイントを纏めた「完全版 スウェデンボルグの霊界からの手記」という本を買ってきた。

その後、夕刊を読んでいて驚いた。8歳のときのヘレ・ケラーとサリバン女子の写った写真が見つかったという記事が、写真と共に掲載されていたのだ。

そう、ヘレン・ケラーにとってスウェデンボルグの書は、まさに光そのものだったのだから。

その写真を見る限りでは、決して三重苦などには見えない。まさに、何か偉大な力で守られているかのよう。
そしてサリバン女子の真剣な眼差し。彼女の忍耐と知性と愛に支えれられていたヘレン。

時は過ぎ去り、そして過去のものとなっていても、写真からあふれ出すエネルギーは生き続けている。その時の、霊子は今も尚躍動し続けている。




霊界物語第七十八巻に入った。戦いを前にした朝香比女の胸中。今は、その心の動き、気持ちに同調出来る。

朝香比女は、面白い、愉快だと言う。そして、嵐の前の静けさとでも言うのだろうか、落ち着き払い、心に波風一つ立たない。

私の今回の戦いも同じ質の思いだった。自分の利己的な戦いではなく、まったくの公的な戦い。そして、相手をやっつけようとするものではなく、憎くもない。むしろ、そのことによって相手が傷つくかも知れないということに心は痛んでいた。

だが、間違った方向に流れているものを、正しい流れに導かなければならない。ただ、それだけなのだ。

万全の準備。正しいという確信。物事を正す楽しみ。
その時が来るのが待ち遠しかった。逸る気持ちを抑え、そして愉快で愉快で笑みがこぼれていた。

朝香比女と女男四柱の神々の言葉の音読。独特な雰囲気の中、神々の意志や感情を垣間見れたような感覚を覚えた。



ふと、思い出した物語があった。若草物語。登場人物は四人姉妹だが、私は三姉妹。その末っ子が私。なぜか、この物語が好きでよく読んでいた記憶がある。まさに、幻想曲への誘い。
posted by ミューシャ at 20:42| Comment(4) | TrackBack(1) | | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

真空管

詩がその唇から流れ出す時

瑞々しい精霊達が踊りだす

愉快そうに、微笑みながら

おまえの過去に何があったか知らないが

何をどうやって生きてきたか知らないが

今の姿がすべて

もしかしたら流した涙は湖ができるぐらいかも知れないが

精霊達は踊っている

暗闇の中の月が美しいように

深い闇の中の星が美しいように

金銀の光は弾む

おまえが翼を持つ鳥のように飛び立つ時

辺りは真空のようになり

何か未知なるものが展開されるのではないかと

私はいつもどきどきしている

その唇から語られる詩に

神話の世界だったこともやけに身近なことのように感じられ

何か こう 懐かしい気持ちになる
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2008年01月29日

大愛と小愛

王仁三郎は語る。

『愛には善あり、悪あり、大あり、小あり。神の愛は愛善にして、世間一切の愛は愛悪なり。神の愛は大愛にして世間の愛は小愛なり。わが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国土を愛するは所詮自己愛にして、神の愛と雲泥の相違あり。故に小愛は我情我慾の心を増長せしめ、遂には自己愛のために他人を害し、他家を破り、他郷と争ひ、他の国と戦ひ、遂に彼我共に惨禍の洗礼を受くるに至る。』

私はこの土地に来て教えられた。郷土愛の強さを。そして、そこから生じる破壊と停滞を。
愛国だとか郷土愛とかは一見、美しい精神のように思える。そこからは、向上しようとする気持ちさえ生じるかのように見える。

しかし、その心のもたらすものは違う結果を出すのである。知名度の高い所というのは、その知名度ゆえにプライドを持っている。だから、自慢できるところ、良いところは率先してアピールをするし、また気がつくものである。

だが、その反面、マイナスイメージとなることは見て見ぬ振りであったり、他へ責任転嫁をしようとしたり、表へ出させまいと押さえる。

仮に知名度が高くなくても、愛国や郷土愛が強い人というのはそこへ固執して、客観的に物事が見れなくなっている。つまり、盲目同然なのだ。

本当に国や郷土を良くしたいのなら、闇の部分まで照らす光―――全ての人を生かす努力や公平な裁量―――が求められるのではないだろうか。

それには、やはり「物事に囚われない」という心が必要になってくる。そして、物事に囚われないということは、「大愛」の心がなければ難しいこと。

霊界物語には『もっとも美しきものは愛の発動なり。大虚空中に愛の発動ありて初めてスの言霊生れ、天地の万象は生る。』とある。
一部の人間達は、やたら言霊、言霊と言う。しかし、大愛の養われていない人間に生きた言霊など出せやしない。理論と形だけでは決して出すことの出来ないものが、力強く根強く生かす為の言霊の姿。



今、NHKの大河ドラマで篤姫を放映しているが、前回のストーリーの中で、於一が島津斉彬に「なぜ、反逆した者達にお咎めなしで、手助けをしようとした者達はいまだに許されないのか」と聞いたとき、斉彬は「力で押さえつける事は容易いことだ。しかし、争いは争いを生むだけだ。」と答え、まず第一に民達のことを考える政策をとり始めたという内容であった。

私はこの言葉に素直に頷けた。今回、長という立場に立たされたが、自分が動かさなければならないメンバーの中には、かつて徹底的に反目した相手がいた。その人のやり方で、子どもに危害が加えられもした。
しかし、反目したままでは統制が執れない。自分の方に一点の非さえなくとも、全体のためには長という立場にたった人間の方から歩み寄らねばならないのだ。

私は私情を抑えて歩み寄った。その人も、自分の方に非があることが分かっていたようなので、こちらの態度に一瞬驚いた様子だったが、その後は積極的に協力してくれるようになった。

罰するという姿勢は何も発展することはない。要は、相手が自分のやってきたことを反省し、しかも、頼りにされているという思いを抱かせることこそ、敵を見方に変える秘訣なのである。そこに家族愛などの自己愛というものが幅を占めていたら駄目なのである。

大愛とは、少しずつ教えられていくものだ。そして、その過程に於いて、真摯に霊学を研鑽しようという姿勢がなければ、いつまでたっても自己愛である小愛から先へは進めないように思う。



私は、天祥地瑞を日本語で読めることを幸せに思った。日本語で読むからこそ生きる言霊。天祥地瑞は、まさに禊。



今朝、例の鳥が久しぶりに姿を見せた。地上に居たのだろうか、それとも低空飛行をしていたのだろうか、窓を開けようとしたその時に、すぐ下のほうからゆっくりと上昇して、たおやかに雨の中を真っ直ぐ前方に飛んで行った。

また、榊。三年目に入った榊からも三枚の葉が出始めている。薔薇の棘の様な殻の中に新芽があるというのは、あれは、一番天辺に生える葉のようだ。
側面から見え始めた葉は、柔らかい葉として成長している。まだ小さくて写真にはっきりと写らないので、もう少ししたらUPしたいと思う。
posted by ミューシャ at 14:48| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

心と言霊

また、吾が人生に於いて大きな変動がもたらされることになった。あまりにも目まぐるしく環境は変化し行く。つかの間の融合。

きっと、こんな調子で突然に人生の幕も降ろされる時がやってくるのだろう。だから、「今」を生きなければならない。潔くない目を気にしている暇はない。

環境の変化に伴って、それが考えさせられるものだったり大変なものだったるする時とは、得てして言霊が低下してしまうようだ。
自分との戦い。言霊が低下しているときとか、良くない言霊を使ってしまっとき、私には祝詞の奏上が出来なくなる。なぜなら、清涼な赤心に一点の曇りでもあったなら、それは祝詞を奏上する資格がないからだ。神を寿ぐのではなく、神を穢すこととなってしまう。そのぐらいは弁えている。



霊界物語第七十三巻第二十六章より抜粋。

『わが心曇れば忽ち言霊も濁りて 神代は乱れんとすも
   恐るべきものは心よ言霊よ 朝な夕なに洗い清めむ』



どんな状況に於いても心が乱れないように努力しなければならない。もし、心が乱れかかったら、決して言霊に出さないように自制しなければならない。沈黙。それでもいいのだろう。とにかく、濁った言霊を出さないようにすることだ。

私は潔い人間でありたいと思う。私は気高い人間になりたい。人としての尊厳を大切にしたい。
posted by ミューシャ at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2008年01月18日

時の道

時が過ぎ行く。息を潜めても、時は足音をたてて過ぎて行く。
二度と振り返ることのない時の歩み。前だけを向いて、道なき道に道を描いて行く。

今の私が願うことに、今の私の思考が動き始め、今の私は歩き始める。

でも、どんなに違うことを願ったとしても、やはり、いつも同じ方向を向いている自分の姿がある。
手をどんなに伸ばしても届かない白の世界。遠すぎて、遠すぎて、霧がかかっているかのよう。しかし、大好きな霧の世界。だから、歩き続けられる。

過去を振り返る暇があったなら、私は先へ進むことを選ぶ。「今」から始る可能性の中に生きたいから。道端に転がっている素適な石を集めながら、先へ進みたい。
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2007年12月25日

神の器

霊界物語の音読も、やっと第七十一巻の終わりまで来た。この物語は、心の持ち方を教えているように思える。

この世では自分にまったく落ち度がないのに、不当なことで残酷な目に会わされた時、また、最も愛する者が傷付けられたとき、決してその人間を許すことは出来ないだろう。
その感情は憎しみへと変り、挙句の果てには呪いへと変化し、相手の不幸を願い、時には死まで願う。

しかし、それでは何も解決はしない。解決しないどころか、自分自身をも地獄へ落とすこととなる。

これに関して、霊界物語ではさらりと因果応報故に起こる事だと書いてある。
また、シュタイナーのカルマ論は、かなり奥深く詳細に解き明かしているので、興味のある方はルドルフ・シュタイナーのカルマ論を学べばよいかと思う。

私はこの町へ来て、あまりにも壮絶な体験をさせられた。本来なら、憎しみだけの感情が支配するのかも知れない。

だが、霊学は、私を地獄の感情から抜け出させてくれた。どんな酷いことをした人間にでも愛の目を向けられるように導いてくれた。

確かに、いまだに、ふと、慟哭の世界へと引き戻させられることはある。
だが、恨みつらみの世界に居るよりは、前へ歩くことの方がどんなにか楽であろうか。前へ歩き続けることの方が、価値あるものを生みだしているから。そして、人を憎むよりも愛した方がずっといい。心が軽くなる。

人間は、本来、愛の世界から出でたのだと思う。だからこそ、愛の理に叶った生き方が性に合っているのだ。

悪意のある者たちが嘘で作り上げたことは必ず崩されて、やがて真実の姿が現われてくる。そして、その真なる姿が世間からも認められるのだ。

私は、この法則を知った。だから、正しくありたいと思うし、悪人達を許したいと思う。また、悪人というのは、とても弱い人。弱いから悪に染まるのである。手助けが無くては一人では歩けないのだ。

霊界物語に描かれているそれぞれの宣伝使の姿からは、許すという気持ちと、素直な物の考え方を教えられる。そして、一点の曇りもない状態が呼ぶ大きな助け。大きな大きな希望。神の器となれるように日々頑張りたいものである。
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2007年11月22日

心魂の流れ

夕方、空を眺めていた。そこに遊ぶ雲たちは、形を変えて楽しんでいるかのよう。時には、瞬時にして変化してしまう。その緊張感と、わくわく感が好きだ。

そして、寒い季節の訪れは、心地よい空気をもたらす。冷たくなる頬は凍らずに、かえって細胞を甦らせるかのよう。張り詰めた空間は、あまりにも透明なのだ。




面白い形の雲が現われた


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どんなふうに見える?
私の目には、最初は巨大な魚と手に見えた。また、写真を子ども達に見せた。下の子は、横たわっている人と燕だと言った。上の子は、横たわっている人とマジックハンドに見えると言う。



今度は北の方角に見知らぬ山が出現???


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一瞬、前からそこにあったかのように錯覚を起こした。だが、雲のいたずら。あっという間に形を変えた。



すべては瞬間の連続ゆえに、その瞬間を大切にしたい。二度と戻らぬ瞬間だから。
そして、時として、その瞬間は永久に流れ続けたりもする。瞬間が永遠になるとき・・・・・・・大切にしたいのだ。
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2007年10月28日

光彩

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   月が空にある。
   月が雲との光彩を楽しむ。
   月が語り、
   雲が語る。

   月は、雲が側にいると、
   力強い光景を描いたり、
   やさしい光景を描いたりする。

   雲は、月がいると、
   自分の姿をどう表現しようかと
   素適な芸術家になる。

   私は地上から見上げる。
   なぜか、月と心が通うから。
   雲と同化出来るから。

   こんな静寂で、透明な空間が好き。
   不純物が無い世界は、呼吸が楽だから。




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   雲が通り過ぎたよ。
   お月様、まんまる。
   情緒ある芸術の世界は流れ、
   今、月の輝きは真っ直ぐ私に向かってくる。
   月の光に抱かれて、
   私は目を閉じる。
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2007年10月11日

光と闇の律動

民族主義歌 第三    タゴール


ない 惧れはない 勝利があるだろう

勝利があるだろう この扉は開かれるだろう

私は知っている 私は知っている

お前の束縛の綱は何度となく 断ち切られるだろう

瞬間瞬間お前は自らを失い ねむい真夜中を過ごした―――

くり返しくり返し、お前は 世界の権利を得るべきである。

陸に水に お前の呼び掛けがある。

人々の住むところ呼び掛けがある。

とこしえにお前は 歌を歌うだろう

幸福につけ、苦しみにつけ 恥の中に 惧れの中に

花と若葉 川と滝の調べ調べに お前のメロディーを合わせる―――

お前の韻律に 光と闇が律動するだろう




タゴール。好きな人物。
「お前の韻律に 光と闇が律動するだろう」
この言葉の持つ煌き。

私は、夜、誰も乗せていない自分が運転する車の中で歌うのが好きだ。
その張り詰めた空間の中に反響する声と、思索と、凝縮された人生の魂が心地よく幾重にも織り重なり、それでいて透明であるから。
まさに、光と闇が律動しているかのよう。

その空間を保てれるのは、きっと、この詩のような情景を何度となく過ごしてきたからかも知れない。

諦め、絶望、小さな光への確信、自由、勝利。
それらは大自然の生命と共にあり、共鳴しあっていたから。そして、いつしかその流れに身を包まれていたからだろう。
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2007年10月05日

芸術と宗教〜法悦

霊界物語第65巻の総説に書かれてある、「芸術と宗教」について抜粋しながら書きたいと思う。



芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の私情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。

人生に離れ難き趣味を抱かしむるのは、ただこの二つの姉妹の存在するが故である。

そもそも此の二つのものは、共に人生の導師たる点においては相一致してゐる。しかしながら芸術は一向(ひたすら)に美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に至らしめむとする点において、少しく立場の相違があるのである。

形、色、声、香などといふ自然美の媒介を用ひて、吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。

宗教は即ち然らず、霊性内観の一種神秘的な洞察力に由りて、直ちに人をして神の生命に接触せしむるものである。


(ミューシャは、次の言葉にはっとして、大きな感動を得た。)

芸術の対象は美そのものであり、而も美は神の姿にして、その心では無い。その衣であって、その身体では無い。『神は霊なれば之を拝するものも亦、霊と真とを以って之を拝すべし』と言ったキリストの言葉は万古不易の断案である。美を対象とする芸術は、よく人をして神の御姿を打ち眺めしむる事を得るも、未だ以って其の心を知り、其の霊と交はり、神と共にあり、神と共に動き、神と共に活きる、の妙境に達せしむることは出来ない。たとへば僅かに神の裳裾に触らしめることは出来得るも、その温かき胸に抱かれ、その生命の動機に触れしむることは、到底望まれない。


(ミューシャは、ここで、テレジアやテレーズなどの得ていた法悦のことを思った。次の言葉は、その法悦の真相である。)

宗教的生活の渇迎憧憬して已まざるところのものは、自然美の悦楽ではなく、精神美の実現である。その憧憬の対象は形態美ではなくて人格美である。神の衷に存する真と善とを我が身に体現して、永遠無窮に神と共に活き、神と共に動かむと欲する、霊的活動の向上発展は、即ちこれ宗教的生活の真相であろうと思ふ。

飽くまでも現実世界を聖化し、自我の霊能を発揮して、清く気高き人格優美を、吾と吾が身に活現せなくては止まないのが即ち宗教家の日夜不断の努力奮闘であり、向上精進である。

宗教家の悦楽は、単に神の美はしき御姿を拝する而已でなく、その聖善の美と合体し、契合し、融化せむと欲して進みゆく途上の、向上的努力にあるのである。

活ける温かき自己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めむとする、偉大なる真の芸術家なのである。

故にその生命のあらむ限りは、その悦楽は常住不変のもので、その慰安もまた空想の世界より来たるに非ず。最も真実なる神の実在の世界より来るものである。

真の芸術なるものは生命あり、活力あり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ。

そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。


* * * * * * * * * * * * *



以上のことが、王仁三郎の宗教と芸術に対する見解である。

人として生まれたからには、精神美を追求し、人格優美なる状態へとなれるように努力しなければならない。それは、ごくごく当たり前のこと。

その生きる道において、形態美ではなく、神の霊性に溶け込むことこそが生きた芸術となり、生きた芸術を生み出すことが出来るのではないだろうか。

体現するということ。それは、持続する永遠の感覚。

人は自身が芸術作品とならなければならない。そうなれれば、他者をも真善美の世界へと感化でき、それは言うなれば、その言動が他者を感動させるからである。

感動するということ。それが芸術の目的。そして、真に生きる道を知らしむるということは、他者の生き方までもに影響を与える生きた芸術あってのこと。

人間こそが、神の最も優れた芸術作品である。自由意志を持つ、形に囚われない、計り知れない可能性を秘めた芸術なのだ。

だから、歓喜をその生涯に得られ続けたテレジアやテレーズたちは美しいのである。

PS:2007年3月3日の記事に、シュタイナーの宗教と芸術観について書いた。これで、王仁三郎とシュタイナーの見解が一致していることが分かった。

また、この記事は666回目の記事。意識したわけではないが、この内容になった。そして、コメントも、「雛形としての心」という記事の自分で書いたものが666回目となっていた。不思議なものである。
posted by ミューシャ at 12:57| Comment(2) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

雛形としての心

ネット上に公開されている出口和明氏の講演ビデオを見た。2回、見た。最初は音声が聞き取りにくかった為、2回目はイヤホンで聞いた。イヤホンを使うと、かなりはっきり聞き取れる。

その中で、心にずしんときたことが一つだけあった。それは、日出麿が王仁三郎の位置に取って代わろうとしたとき、王仁三郎が、「お前に神の仕組みの何が分かるか」と、怒ったという説明のところだった。

王仁三郎の、その思い。あまりにも重く、あまりにも辛いこと。心がはち切れそう。

雛型、雛形と人々は簡単に言う。ある種の人々にとっては、その重みを知ることもなく、自分は出来る、自分が選ばれし者と思ってしまう様子も目にする。

だが、雛形とは、ほんの少しの歪みも狂いも許されないこと。それは、まるで高い断崖から断崖へと架けられた一本の綱を渡っているようなもの。
しかし、どんな突風が吹いたとしても落ちることは決して許されない。それほど緊迫したものではないだろうか。

まさに、ぎりぎりの精神状態を持続させねばならない。分かっている故に、辛いこと。そう簡単に雛型など出来やしない。

もし吾々が雛形として出来ものがあるとするなら、それは自分の周りに於いてのことだけ。自分の周りを善きものに変えようと努力することだけ。
でも、それだって素晴らしいこと。そんな輪が広がっていけば、それはやがて大きなうねりとなるから。
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2007年09月13日

対極からの目

安倍総理のことを思うと心がズシンと重くなるが、総理としてトップの座に立った深い思いやりのある人間の心情は。

自分だけを潰そうとしている勢力。その為に同胞達が次から次へと些細なことさえも穿り出されて窮地に追い込まれて行く。中には、死へと追いやってしまった大臣もいて。

もし総理で居続けるなら、こんな状態は続き、有能な人間達が前途を閉ざされてしまう。それは、国にとって大きな損失であり、また遅滞をもたらすかも知れない。

政治と金の総理として報道されているが、安倍総理自身は一番クリーンな政治家。故に潰されてしまったのだろう。

そして、決断したのだと思う。対極から物事が見れる人ゆえに。
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2007年08月23日

白い王者

わが家は、JRと私鉄の両方が一緒のところにある駅と、私鉄だけある駅のどちらからも歩いて25〜30分ぐらいのところにある。先の駅からはバスに乗って5分ほど。バス停からは3分。しかし、後の私鉄の駅からは、わが家方面にバスは出ていない。

子どもの家庭教師は、私鉄だけある駅を使って通うように言われたらしい。そこで、わが家の会話。

私「あの駅からではバスも通っていないし、変質者も時々出るから夜だと危ないわね。」

夫「確かに、あそこからでは大変だろう。」

長女「女の子なのに、可哀想。あれだけ歩くのは、けっこう大変だよね。」

次女「○○駅からバスで来ればいいのに。」

そこで、私は家庭教師に言った。「○○駅からバスに乗ってきた方がいわよ。時間的にもそれほど変わらないから。」

その後、家庭教師はバスを使う経路で来ることとなった。ま、交通費も当初は一回につき500円だったものが1000円ほど出してあげることになったが、身の安全を考えたらそうしてあげるのが当然のこと。

ちなみに、我が娘達は、時々、駅まで歩いたり、反対に駅から歩いて来ることはある。それでも、歩いても安全な条件のときに限るが。

私は、実際に出会ったこれからの若い感性の人たちには、より良い感覚を養って欲しいと思っている。人の思いやり、やさしさ、気遣いなど、自分で受けて実感したなら、その感覚は必ずどこかに残る。だから、それを、また他者に伝達して行ってもらえれば、それはなんと素適なことだろうかと。

今の私には、何か人にしてあげて惜しいという感情はなくなった。むしろ、良いと思うこと、正しいと思うことを率先して行動に移したい。

確かに過去のあまりにも辛かった経験を思うなら、自分さえ良ければそれでいいという感情へと傾倒してしまうだろう。あんな醜い人間達にプラスになることをしなくてもいいし、したくはないと。

時々、激しい葛藤に襲われる。それでも、自分が正しいと思う道を歩きたい。私は地獄の王者ではなく、自身の白い王者でありたいから。
posted by ミューシャ at 00:38| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2007年08月09日

無題

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歌と静寂は心地よい。誰もいない深閑とした山の中が好き。

大地の歌に耳を傾け、空の中に舞い、生きていることの実感。

記憶は流れ行くもの。

記憶は忘れ去られるためにあるもの。
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2007年07月08日

五濁

「霊界物語」を読む上での心得。(第六十巻序文 より)

『この物語もまた神示の所作なれば、五濁を除去し以てこれに向かふ時は、神命垂示のマハービジニヤーナーヘアー(大通智勝)を感受し、マハービューバ(大荘厳)の神理を味わひ、神霊のラトナーヷ・バーサ(宝音)に接し、無等々正覚を得て人生の本分を全うし、不老不死 天国の生涯を生きながら楽しむことが出来る案内書となるのであります。』

※ 五濁:劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁

(五濁を清め去り、清浄無垢 赤子の心境に立って、初めて神霊界の真義に歩を向くることが出来るのであると王仁三郎は述べている。)



また、私が今最も剣の刃のようだと強く感じていることがある。それは、言葉・言霊である。
時には、剣の刃が月の光を反射して美しく煌くかのように呼吸したり、或は、剣の刃が鈍く重く息の詰るかのようになるのを感じ、そして知る。


第六十巻総説 より抜粋

『この世を造りし神直日、心も広き大直日、ただ何事も人の世は、直日に見直せ聞き直せ身の過ちは宣り直せ、と吾人は日夜この神示を楯として、ヒシヒシと押し寄せ来る激浪怒涛を浴びながら、善言美詞の言霊の武器を持って凡ての外道を言向け和す覚悟である。何程多勢の敵といへども驚くに及ばない。

ただ一言の善辞、即ち言霊の善用によりて強敵は忽ち化して強気味方となり、また多勢の味方といへども、ただ一つの悪言暴語の依つて直ちに怨敵となる。

言霊のもつとも慎むべきを明示したのは、本書霊界物語を通しての大眼目であります。』



たった一言添えるだけで、たった一言思いやりの言葉をかけるだけで人は変わる。

たった一言添えることをしなかっただけで、ほんの少しの思いやる心を持てなかっただけで人は心を閉じる。

ただ、言葉・言霊を用いる以前に大切なのは心。その心の五濁がどの程度除去されているかである。
謙虚であるということは当然のことであるが、他者に愛を惜しみなく与えられているか、自分のことよりも他者を守ることが出来ているかである。

ほんとうに、剣の刃の美しい煌きのように、美しい言葉・言霊を使いたいものである。

『山鳥の尾のしだり尾の長々しくも撓まず屈せず・・・・』という王仁三郎の表現に、私の心は透明になる。
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2007年06月12日

美しい調べ

なんの飾り気もないけれど、清らかで美しい調べを求めている時、テレーズの世界は心を潤うす。



『私は裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。』(イザヤ書41・18)

『あけぼのがたちそめるころの静かな夜、沈黙の調べ、響き渡る孤独、愛に酔わす楽しい夕餉』(十字架のヨハネ 「霊の賛歌」)



テレーズは言う。

『私はいつも大聖女になれるという同じ大胆な信頼を感じます。なぜなら、私は自分の功徳を少しも当てにしておりません。無に等しいものですから・・・・・。ただ、徳と聖そのものでいらっしゃるおかたに期待しています。みあるじだけが弱々しい努力で満足なさり、私を自分にまで高め、その無限の御功徳で包み、聖女にしてくださるのです。』


ストレートな飾り気のない言葉、思い。そこには何の不純物も入り込む隙はなく、ただ一つの光で繋がれている。
ほのぼのと小さくて、そして大きい。
テレーズの世界は花の香り。
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2007年03月28日

鳥の心

あの鳥。ずいぶん前から姿が見えなかった。たまに、どうしたのだろうかと思うこともあったが、忙しいこともあって心の声を投げかけることをしていなかった。

でも、今朝、あることへの答えを聞きたくて、もしそうであるなら姿を見せてと発した。

すると、どうだろうか、あの鳥は姿を見せたのだ。まるで春の日を楽しむかのように、ゆっくりとたおやかに飛んでいた。
そして、やや遠くの畑へと舞い降りた。
その白い体からは、まるで温もりが伝わってくるかのようだった。

私は、今、思っている。
透明な心でありたいと。透明な輝きで、悪なるものや醜いものを遠ざけたい。そして、決して自分の中からそういうものを作り出したくないと。真っ直ぐでありたい。

今の私にとっては、あまり人のことは気にならない。ただ、より高い芸術性を持ったものや人間に目が奪われる。
より高いもの、より透明なもの、より美しいもの・・・・・。そこから何かを学びたい。
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