2008年07月19日

いじめ〜戦い抜くこと

このブログでは、検索ワードが“いじめ”に関するものもしばしば見られる。

いじめる側の人間というのは、はっきり言って「くだらない低俗な人格の持ち主」でしかない。つまり、人間として弱いということでもある。
そんな人間をまともに相手をしていても時間の無駄でしかないのだが、そうは言っても現実にいじめられている側の人間にとっては深刻極まりないものである。

もし、いじめられる側の立場だったらどうするか。

戦い抜くしかない。

黙っていたり、耐え忍ぶだけでは、いじめはエスカレートする。黙っていたり、耐え忍ぶだけでは状況は悪化する。

今以上に辛くならない為には、徹底的に戦うしかない。人間、捨て身になった時というのは、本当に大きなパワーが出るもの。自殺するぐらいなら、戦った方がはるかにいい。だって、希望の光が確実に存在するのだから。

身近に相談できる人がいるなら相談すればいいし、もしいなければ外に探せばいい。相談センター、文科省、市町村ではなく都道府県の教育委員会、ネット等、必ずどこかに突破口を開いてもらえるところがある。

自分がどう思われようが、今以上に悪化させない為には捨て身になる覚悟が必要。自分に非がないのなら、徹底的に戦うべきなのだ。

四面楚歌の状態を怖れるな。
毅然とした強い態度で戦い続けるなら、必ず状況は変化していくものだから。

だが、一人だけで悩むのはよくない。手当たり次第、思いつくまま、どんどん話しを持っていくことだ。

そして、自分に自身を持つこと。自分だけが自分を最も大切に出来る存在なのだから。自分で自分を裏切ってはならない。

戦い抜くこと。それしか道はないし、そうすることが最も有効なことなのだ。

また、愛する者がいじめられているとき、やはり捨て身なって守り抜くことだ。行動しかないのだから。

だが、人体を傷つけてはならない。それは、犯罪だから。反対に肉体を傷つけられたら、すぐに警察へ被害届を出すことだ。精神的なものは、なかなか犯罪と立証してもらえないが、肉体的なもは犯罪として立証される。

戦うことを怖れてはならない。むしろ、戦わないことを怖れるべきだ。
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2008年07月12日

精神生活と経済形態

今はシュタイナーの「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」という本を読みはじめているのだが、彼の洞察力の鋭さに身が凍るような感じだ。

まだ冒頭部分しか読んでいないが、少し抜粋してみよう。

『科学的思考方式がそれまでの生活秩序の中から取り出せなかったもの、それは科学的思考方式も精神の一種の働きとして、精神世界に根を下ろしている、という意識である。

近代的科学性のこの性格について、支配階級は無視してきた。なぜならその生活は古い伝統で充たされていたからである。

プロレタリアートはそうではなかった。彼らの新しい生活状況は、古い伝統を魂から追い出した。支配階級から遺産として受け取った科学的思考方式が、人間存在を考える上での基礎となった。

しかし彼らの魂の内なるこの「精神内容」は、自分が本当の精神生活から生じたことについては何も知っていなかった。プロレタリアが支配階級から受け取った唯一の精神生活は、精神からの由来を否定していたのである。』


『近代の精神生活は支配階級からプロレタリア的民衆へ移行して行ったが、その際この民衆意識には、精神本来の力が遮断されていたのである。

社会問題を解決する力のことを考えるときには、この点をまず前提にしなければならない。この事情が相変わらず生き続けていく限り、人間社会における精神生活の働きは現在と未来の社会要求の前で、その無力さを暴露されなければならないだろう。事実、プロレタリアートの大部分はそれを無力であると確信している。そしてマルクス主義の信奉者はその確信をはっきり公言してはばからない。』


『プロレタリアでない人は、自分たちが作り出した近代精神生活のイデオロギー的性格の下で苦しんでいないからである。プロレタリアはその下で苦しんでいる。彼らに伝えられた精神生活のこのイデオロギー的性格が、精神そのものを現実的な力を信じさせようとしないのである。

現在の社会状況の混乱から抜け出せる道を見出すためには、この事実を正しく洞察しなければならない。

支配階級の影響の下に、近代の経済形態の成立と共に現われた社会秩序によって、このような道への通路が閉ざされてしまった。われわれはそれを開くための力を獲得しなければならない。

 精神生活をイデオロギーと見做す社会生活には、社会有機体を生かす力がないということ、この事実の重大な意味を実感できたときはじめて、われわれは現在の自分の思考を変革しようとするであろう。

現在の社会有機体は精神生活の無力化に病み苦しんでいる。その病状はこの事態を認めたがらないことによって、ますます悪化する。この事態を認めるときこそ、社会運動にふさわしい思考を発展させるための基礎が獲得できる。

 現在、プロレタリアは階級意識について語ることで、魂の原動力に触れたと思っている。しかし本当は、そのプロレタリア自身が資本主義経済秩序の中に組み込まれた魂の要求に応えて、人間の尊厳の意識を与えてくれるような精神生活を求めているのである。

イデオロギー的に理解された精神生活では、人間の尊厳を生み出すことができない。

プロレタリアはこのような意識を求めてきた。そしてそれが見出せなかったので、経済生活から生まれた階級意識でそれを代償させて北のである。』




精神生活をイデオロギー的に捉えるのか、捉えないのかは、それによってまさに雲泥の差が生じる。上に行くか、下に行くかというほどに。

そして今もなお、階級意識で代償させるという精神の動きは多くの人びとの中に定着してしまっているのではないだろか。

その階級意識は経済生活から生じたもの。経済形態が変われば人間の意識も変わる。だが、いつまでたっても充たされることのない餓えた欲求は、経済を発展させることに必死で、それによってやがていつかは充たされるのだと妄信しているのだ。そして、さらにその中に求め続けている。

しかし人間は本当は薄々気付いている。今のこの状態が飢えを充たすことにはなり得ないと。だが、認めたくはないのだ。なぜ?

シュタイナーは次のように述べる。

『技術と資本主義の時代は彼らに対して、支配階級に対するのとは別の作用を及ぼした。支配階級はまだ魂を生かすことのできる衝動を持ち、それによって生活秩序を形成してきた。近代の為し遂げた成果をこの生活秩序の枠内で受け取ろうとした。

プロレタリアの魂はこのような生活秩序から引き離されてきた。この生活秩序は、プロレタリアに対しては、人生は人間にふさわしい内容を持っている、とは感じさせてはくれなかった。

科学的思考方式、これだけが人間としての尊厳を感じさせてくれた。それは信仰を目覚めさせる力を持っており、古い生活秩序を超える可能性を与えてくれるように思えた。』



時代背景、その根底に流れてきたもの、状況が人間に及ぼしてきた作用を的確に見ることの大切さを痛感するのである。

何が、どんなことが人間にとって楽に呼吸できることなのか、そして、そのようになるためには精神生活をイデオロギー的に見ることが正しいことなのか、そこから考えることが必要なのではないだろうか。

精神生活というものをどう捉えるかは、ほんとうに経済形態をも変える大きなことのように思えるのである。
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2008年06月30日

価値観

最近、下の子と話すことが多いが、親は子育てをしながらもう一度人生を勉強しなおしているように感じる今日この頃だ。

高校で違う中学校出身の子と話した時のこと。最初、その子の言動にカチンときて、喧嘩を売っているのかと思ったという。
しかし、事前にその子の噂を聞いていたので、自分の感情を抑えて暫く観察していたらしい。なんでも、表現の仕方が下手で中学校では虐められていたというのだ。

観察した結果、その子はたんに思ったことをそのまま言ってしまう子で、悪気がないようだと。確かに、もっと相手がどう受け取るのか考えて話す必要はあるが、根はいい子のようだから今は普通に接しているし、そのうち変わっていくのではないかと言うのだ。

人はどうも自分を基準にして判断し、感情が左右されてしまうが、子どもの話しを聞いていると、相手を見るということの大切さを再発見させられるのであった。

また、以前から「価値観」というものについては熱く話す子であった。特に教師というものは自分の価値観を生徒に押し付けてくることが多く、子どもはだいぶ辟易していた。

だから、次第に多くの表現を用いて言語を使えるようになってくると、そういうことについても明確に自分の意見を言えるようになってくる。

子どもは言う。「価値観なんて人それぞれに違うものでしょ。育ってきた環境にもよるし、何が自分にとって幸せなのかの基準も違う。一律に同じ価値観なんてあり得ないよ。だから、相手の話をきちんと聞いてあげなければならないし、その上で話し合わなくちゃ。」と。

やたらと友人達から相談を受けている彼女らしい考えだ。自分の主張を押し付けることは簡単だ。しかし、忍耐強く、価値観の違う相手の話しを聞く事はそう簡単に出来るものではない。

目の前に居る人を認める。それが出来るからこそ、きっと相手の話しを受け入れることが出来るのだろう。

子育ては大変だが、真摯に向かうなら、まさに得るものが多い素晴らしい修行となる。そして、結果は子どもが自ら表してくれるのではないだろうか。
まだまだ何が起こるかわからないが、一日一日をしっかりと子どもに向き合っていきたいと思うのである。

また、最近ではイタリアの世界遺産に登録されているところにある大聖堂にいたずら書きをしたとして、短大生や大学生、はたまた野球部の顧問などがクローズアップされているが、こういう教育とは親が子どもにしてこなければならないことである。

私も親からは公共のものは大切にしなさい、重要文化財や美術工芸品などの見学の際には慎重にしなさいと幼い頃から言い聞かされてきた。だから、自分の子育てに於いても当然、そういう教育は行ってきている。

このあいだも、神社の境内にある牛の像の頭が何者かによって壊されたという事件があったが、そのニュースを見て子どもは憤慨していた。「あんなことしたらいけないよ。ましてや神社にある牛だよ。絶対にバチが当たるよ。」と。

畏怖の心。その心を正しく養って来れなかった人間は、本当に悲しいことだと思う。感情や道徳的理念は親が導いていくもの。親が、子どもが生まれたその時から一つ一つ観察して正しく接しなければならない。

それが、だんだん希薄になってきてしまったのが現代。女性の社会進出と共に、共働きは普通のこととなり、子どもは保育園や託児所に預け、一つ一つ出会っていく出来事にどう対処したらいいかを親が見せる機会が少なくなってしまった。それと同時に、親もどう対処したらいいのか分からなくなり・・・。

だが、国が推し進めている事は、共働きは当たり前。定年後も老人の労働力を確保せよと。
子どもを取り巻く環境の整備が整わぬまま、劣悪なるものへと進んでいる。
そして、そんな国政の中、私も子ども達に、女ではあっても将来ずっと続けて行くことのできる仕事を持つようにと言い、育てなければならないことの苦痛。
子育ての為に家庭に入りなさいとは決して言えないご時勢。

日本は何に向かって、どういう形を理想国家として歩んでいるのだろうか。食べて行くことが出来なければ死ぬだけ。だから、食べていく為に国政に沿った歩みをしなければならない。何かが、歪んでいる。
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2008年06月17日

無意識の反復

ルドルフ・シュタイナーは、次のように述べている。


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繊細な感受性を持っていると、他人が美しく語るのを聞くのは、とても心地よいものです。

しかし他人が、鶏が鳴くように話したり、豚がブーブー鳴くように話したりするのを聞くのは、心地よいものではありません。なにを話しているのか理解したとしても、心地よいものではありません。だれかが鳥のようにカーカー話したり、豚のようにブーブー話したりするのを聞くのは不快なことです。とくに、かすれた声だと、その人の話しを聞くのは胸が締めつけられるような重苦しい感じがします。

人の話を聞くときにそのように感じるのは、どうしてなのでしょうか。

その原因は、私たちは他人が語るのを、いつも微妙な方法で真似して、くりかえしているからなのです。

人の話しを聞くというのは、ただ聞くのではありません。口に出さずに、相手が語っていることを真似して語っているのです。わたしたちは相手が話すことを、ただ聞くのではありません。わたしたちの音声器官のなかで、わたしたちもその人の真似をして語っているのです。

わたしたちはいつも真似するのです。人が話しているのを聞くと、その人が語ることを、わたしたちは内的に真似します。

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シュタイナーの指摘があって自分を振り返ってみると、確かに常時真似をしている。反復しているのだ。

時々、耳障りな話し方に出会うと、やはり不快になる。胸がもやもやしてくる。無意識のうちに真似をすることによって、それがあたかも自分が発しているかのようなものとなるからだろう。疑似体験。まさに、それかも知れない。

反対に美しい話し方に出会ったときは心地よくなる。気分が高揚する。清々しくなる。私は個人的に、美智子皇后の声と話し方が好きだ。まあ、私はただの民間人なので、あのようなゆったりとした話し方は出来ないが、本当に美しいと感じる。

もしかしたら、世の中のメディアが美しい話し方で埋め尽くされたなら、それに伴って人間達の言動も美しくなるのかも知れない。

だから、まず、自分の心を美しくすることから始めたい。
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2008年06月13日

王仁三郎の煙草

出口王仁三郎の口述した霊界物語は素晴らしいものだと思う。しかし、彼の日常の言動にはつまづくこともある。とはいっても、人間的には大きな人物だ。神ではなく、人間である。そのことを考慮しなければならない。

昨今では受動喫煙の害ということが証明されたわけであるが、こともあろうか、王仁三郎はタバコの利益などということを説いている。

「タバコは吸うものではない。吹かすものである。それは体内から出る邪気、臭気は病気の時や、気分の悪い時に出てくる性質のものだが、それを祓い清めるためのものであり、また、他人が吹きかける邪気や悪気を払いのけるのによい。だから、多くの人に接する者は、吹かしたほうがよい。」


が、シュタイナーは煙草が人体へ及ぼす悪影響についての見解を述べている。2007年2月3日の記事に少し書いたので、そちらを参照していただければと思う。

煙草の煙には主流煙と副流煙があり、副流煙とは煙草の火のついている口から立ちのぼる煙で、こちらの方が喫煙者が吸う主流煙よりもはるかに害があると言う。

参 照
 ↓
http://www.ahv.pref.aichi.jp/kinen/comment/expl4.html


邪気がどうのこうのと言うまえに、周りに居る人たちへ人体的な危害を加えることを考えるのが先なのではないだろうか。
謂わば、邪気は払うが、罪もない周りの人に暴力をふるっているということになる。

そこで、思った。王仁三郎は、何か物を使わなければ祓い清めることの出来ない曇った霊魂の人たちを対象に述べただけなのではないかと。そうでもしなければ、なかなか神の御用に使える人材が育成できない。やたらめったらに邪気にやられて、悪霊に憑依されていたのでは仕組みを進めることが出来ないのだと。

常に自発的に自分を清浄に保ち、そのことによって周囲の邪気をも祓い清めることが出来る人間には煙草は必要ない。それは、あたりまえのこと。

受動喫煙の害が解明された今、王仁三郎の居た時代とは違う空間へと引き上げられたようにも思う。
時代は変るものである。いつまでも害を伴う化石にしがみ付いていたのでは取り残される。

自分の意志で歩きたいものである。
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2008年05月27日

頭が・・・。

「十四歳からのシュタイナー教育」に、また偏頭痛についての記述があった。


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子どもを退屈させてはいけません。そうしたならば、興味をもたすことができないので。融けない塩分が作られ、それが体内の方々に送りこまれる結果、あとになっていろいろな代謝系疾患を生じさせてしまうのです。特に少女に対して、このことが留意されなければなりません。

偏頭痛は、喜びがもてるように物語ることなく、一方的に学習内容を子どもの頭にたたきこもうとしたことの結果です。偏頭痛は融けない小さなとげがいっぱい生じた結果なのです。

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も、も、もういいです・・・・・・・・・。何も語りたくありません。振り返れば頷けることのオンパレード。

そして、私自身のことはもはやどうでもいいが、自分の子育てにおいてはどうであっただろうかと振り返る。

まあまあ合格か。が、上の子に対しては強制的な学習もさせてしまった。しかし、本人はそれほど嫌がる様子はなかったのと、自発的な取り組みが多かったことは救いか。そのバランスは果たしてどうでるかだが。

そういえば、シュタイナーは歴史などの暗記の必要な事柄においては、子どもが感情を働かせて耳を傾け、取り組むことが大切だと述べている。

そして、この歴史ということについて、上の子の態度で驚いたことがある。歴史上の人物や起きた事柄に対して非常に感情移入をしていることであった。
それは高校へ行って更に強いものとなった。また、たまたまその時の歴史の教師が県下でも有名な人物であったということも幸いしていたのだろう。
また、私自身、史実とは違う内容の話しを子どもにしていたが、その時に必ず「私のいうことは学校で習うこととは違っているからごちゃ混ぜにしないようにね。」と。しかし、「成績が落ちたらどうするの。」と笑いながら言うものの、子どもは面白がって聞いていた。
トップ校の、しかも学年で10番以内にいつも入っているということで、常に成績優秀者として名前を挙げられている子であったが、ユーモアのセンスもあったせいか、まあ、それ故に私も気軽にそんな話しが出来ていたのかも知れない。

それから下の子については一筋縄で行く子ではなかった。気が向かないと強引にスルリと抜け出して、いつの間にか親を自分の思う方へ誘導していた。まあ、当然、大きな雷を落すことも度々あったが。
そういう意味では、ゴーイングマイウェイ。今でもそうだが。

とにかく、子ども達には偏頭痛持ちにはなってほしくないと願うのである。
しかし、原因が分かったなら、治す方法もあるということ。そうか、シュタイナーは治療についてもいろいろなことを語っていたな。さすが、シュタイナー!
posted by ミューシャ at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年05月16日

表現の瞬間

シュタイナーは次のことを述べている。

「もし個人的なことを話させていただけるなら、こういうことであります。私が講演をする場合には、ふつうにいう講演とは事情が違っております。ふつうは記憶から取り出してきて話すということがよくあり、かつて学んだことや考えたことを、記憶から引き出してくることが多いのです。

超感覚的な真実を語る者は、本当は、つねに真実を内面から引き出すその瞬間に語らねばなりません。

私自身まったく同じ講演を、何十回も行うことができるといたしましても、私にとりましては、それは一度として前と同じものではありません。

別の場合でも当然同じことだ、と言われるかもしれませんが、しかし、もっと高い次元の意味においてこれは記憶が独立しているということであり、記憶の内面化の階程がたどられたときには、記憶が内面的生のなかへ移しこまれるということを示しています。」



ボブ・ディランが歌うとき、同じ歌なのに全く同じ歌ではない。彼は、その時、その瞬間に湧き出てくるままに歌う。だから、いつも「生の躍動」を感じる。そして、いつも「新鮮」であるのだ。


また、シュタイナーはこのような状態になったとき、宇宙に対しての態度そのものが、まったく独特のものと化すとも述べている。

「いわば自分自身の肉体性を失いながら、しかし、自分が宇宙のなかへ自分の生を入り込ませて行っているのを感じます。(略) またとりわけ自分以外の人間のいのちのなかへ入り込んでいくことができるようになります。他人の顔に現われるほんのわずかな表情すらが、私たちを、いわばその人の魂の生活全体のなかへ導いていき、この超感覚的認識の行われている最中には、自分が自分の外にあることを感じるのです。」


ディランが代弁者と言われるほど、人々の心を揺り動かす強い衝動をもたらす詞を作り続けられるのは、まさにシュタイナーの述べるこの状態にあるからなのだろうと思う。

しかし、ディランは精神世界の何かに没頭したというわけでも、修行というものをしたわけでもない。

彼の父が十六歳のとき、たまたま事故を起こし、火だるまになっている車を目撃して、その車の中から運転手を引きずり出し、からだに覆いかぶさって火を消したことがあるという。

両親に連れられて政治集会に出かけたときの興奮。

ウッディー・ガスリーを知って人生観が変った。

そういったもろもろの積み重ねや、そして、彼の目が見てきた様々なことが、彼の資質を目覚めさせ、成長させ、そして超感覚的な真実をキャッチ出来る代弁者のような存在にさせているのだろうと思う。

シュタイナーやディランからは、あまりにもやさしすぎる愛を感じる。ディランの詞の中には風刺的な表現もあるけれど、それでも深い確信に満ちた愛を感じるから、心に鋭く入ってくるのだ。魅了されて止まないのだ。
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2008年05月07日

どうするべきか

DVDの「NO DIRECTHION HOME」の内容から。

ボブ・ディランの人種差別をテーマとした「しがない歩兵」という歌について、彼は歌を通してみんなに考えることを投げかけたかったのだろうと。

黒人活動家が殺されたことについては、殺人の罪だけを考えるな、状況全体を考えろと。

そして、ディランの口からは次の言葉が語られた。

「苦しむ側につく者が、政治的人間とは限らない」

彼の直感・・・、そう呼ぶのが相応しいと思うのだが、その直感はすべての本質を見通しているかのようだ。あまりにもシャープで、まるで煌く矢のよう。
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2008年04月27日

死刑のもたらす影響

原田正治氏。彼は弟を殺され、そしてその犯人は死刑となった。

だが、原田氏は死刑廃止を訴え続けている。

被告の為に「今は死刑を望まない」と書いた上申書を最高裁に郵送し、法務省には何度も死刑停止の嘆願書を出し、当時の高村法務大臣には直接会って上申書を渡している。

しかし、それから数ヵ月後、死刑は執行された。

原田氏の言葉は重く、そして人間として素晴らしい。彼は暗夜の中の光を知り得た人なのだと思った。

        ↓

http://www.jinken.ne.jp/other/harada
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2008年04月25日

人として〜光市事件に思う

光市の事件は、目を向ければ向けるほど、考えれば考えるほどに胸が痛くなる。

被告の元少年は、首吊り自殺をした母の遺体の処理から掃除まで全てを一人で父親にさせられたという。
その時の悲しみや苦しみ、やるせなさ、怒り、絶望・・・・。張り裂けそうな心。それは想像を絶する思い。
こんな酷いことがあっていいものだろうか。

罪として社会では認められない残虐な行為。だから、罰も与えられない。
だが、人を殺せば罪として、それに対して罰を与えることが出来る。

元少年は、自分の生い立ちをなかなか弁護団に語ろうとしなかったという。刑を軽減してもらいたいのだったら最初から言うだろう。それを言わなかったのは、彼には普通に損得を考える能力がなかったということでもあるのではないだろうか。
また、そういう状況の中で生きて来なければならなかった人間の精神状態を、普通の人と同じように考えるのはおかしいのではないだろうか。

そして、彼は安心というものの中に生きたことがない。人として生まれてきたのに、安心できる場所がどこにもなかったのだ。

いったい、彼の人生とはなんだったのだろうか。苦しむ為に生まれ、人を殺し、そして自分も刑法というもので命を奪われる。

私は思う。彼の犯した罪は重い。とても重く軽蔑すべき行為。決して許すことは出来ないこと。
しかし、それでも、ほんの一時でいいから、安心の中で、愛されるということを知ってほしいと願う。人として生まれてきたのだもの。人としての感情を知って欲しいと。

被害者のご主人は戦った。あらゆる種類の苦しみと戦い、世論を動かし、制度の改革へと道を開いた。そして、今、求めてきた死刑を勝ち取った。
だが、それと同時に、元少年を救えるのも彼しかいないのではないだろうか。とても酷な言い方かも知れない。しかし、そう思うのだ。

私は、やはり、それでも元少年のことを思うと涙が溢れ出る。それはきっと、子どもを持つ母だからかも知れない。不条理なことで子ども達を傷付けられ、それに対して戦ってきた母親だからかも知れない。
許すということが、最終的には自分も子ども達も救うということ知っているからかも知れない。

そして、刑法とは、犯した罪に対して無表情に機械的に判決を下すという事が正しいとは思えないのだ。
posted by ミューシャ at 14:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月21日

勇者

下の子の高校ではこの時期、個人懇談が行われているらしい。子どもはその時の様子をこう語っていた。

「先生ったら私の事を聞くのではなく、クラスの様子ばかり聞いてくるのだもの。だから、今の状況を詳しく教えてあげたけれど、そこで先生がどんなクラスにしたい?と聞いたので、私は中学3年の時のようにクラス一丸となって団結して盛り上がるクラスがいいと答えたんだ。そうしたら先生、それはあなた次第ね。頑張ってね。だって。」

確かに下の子については過去、例の二人の教師を除いたほとんどの教師達から言われてきたこと。クラスの雰囲気を作り上げる子であり、クラスに居るのと居ないとでは全然違う、と。

ただ、このようなものを持った子でも、担任の教師が最悪な人間だと全てが壊される。だから、教師とは能力のある人間、人格的に認められるべき人間でなければならないのだ。

今こうしている時でも、人として最低の人間性の教師が何人も教壇に立っているのかと思うとぞっとする。

子どもは例の二人の教師のせいで、女の教師が苦手となっていた。女教師の前では決して自分を出せない子となっていた。
だから、高校入学の時も最初から女の先生だったら嫌だなと言っていたのだ。

しかし、担任も副担任も女教師であった。だが、これも神の計らいだろうか、二人とも何か腹に一物を持つという事の無い性格の良さそうな人間性。一人はおっとりとしてやさしく、もう一人はサバサバとはっきりした誰にでも公平に接する人。
だから、子どもは言っていた。「最初は女の先生で嫌だなと思ったけれど、二人ともいい性格の先生でよかった。特に、性格のサバサバしている先生の方は、ほんと好きだね。だから、率先してお手伝いもしているけど。」

過去の二人の最低の女教師に出会う前の状態に戻った。戻ったが、チック症まで発症させた辛い経験の中で、決して逃げることを微塵も考えなかったあの子は賢さを備えて戻ったのだ。
もう、彼女を誰も止められない。
posted by ミューシャ at 12:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

忍耐

上の子に「体が持たないから、もう、バイトを辞めたら。」と、再三言っているのだが、それに対しては次のように答えている。

「バイトは唯一のストレス解消になっている。バイトをしている時は本当に幸せ。だって、こんなに難しく大変な勉強をしなくていい一時を過ごすことが出来るのだもの。」

大学と資格取得のための専門学校の両立。しかも、どちらも家から遠い。その中において、休みなど全く無い状態。それでも、僅かに空いている時間に週一回だけ塾の講師のバイトを入れている。

また、彼女は専門学校に通うまでは、塾のバイトがしんどいと思っていたと言う。しかし、今は、難易度の高い勉強漬けで見解が変化したようだ。

そして、睡眠時間は4時間ほどしか取れないという日々。
そんな姉を見て、下の子は感心していた。
「お姉ちゃん、あんなにも勉強に忙しいのに、食事の時とか、勉強している時とかでも話しかけると普通に話しをするもんね。すごいよね。自分だったら、イライラして怒るけど。」と。

男女同権と言われるようになった現代ではあるが、それでも就職においては女性の方が不利なようだ。
だから、ある意味、同じ条件の仕事に於いても就職活動では男性以上の能力とか、資格取得ということが必要になってくる。
また、女性の場合、出産や育児などで休職しなければならないこともある訳で、そういった諸々のことを考えた人生設計では、やはり何らかの資格を得ておいた方がいい。

子ども達がこれからどういう人生を送るのかは分からない。社会制度も刻々と変わって行っている。
その中で、仕事に生きるのか、結婚して家庭に入るのか、それとも両立してやって行くのか。
ただ、如何なる場合でも困らないような人生の指針は根底に持っていて欲しいと願っている。

砂の上に築かれた城は脆いが、磐石の上に建てられた城は簡単には崩れない。

また、その要素の一つとしては夫婦のあり方も重要となってくる。父母が簡単に離婚してしまうとか、娯楽や嗜好品に時間を費やすことが多いとか、お互いに尊重することなく罵りあうとか、まさに譲ることもせず、自分の意見だけを我儘に主張し続けていたのでは、子どもに忍耐というものを学ばせることは出来ないのではないだろうか。

忍耐。それは、とても重要なこと。

親は常に反省の連続。そう、親といえども、子どもに劣ることは多々あるのだから。
己のマイナス要因を把握し、改善し、子どもと共に成長するものなのだ。子どもは決して親の所有物ではない。

私は最近、思う。
しっかり子どもを育て上げること。社会にとって有益な人間となるように育て上げること。それが、親として子どもを授かった故の仕事だと。

離婚は、まさに仕事を放棄する行為。ただ、暴力や、どちらかの親が育児放棄をするなどのどうしてもやむを得ない理由の離婚は別だが。

結婚とは安易にするものではなく覚悟の上ですること。だから、忍耐と開拓は必要不可欠なことで、安易な離婚は認められるものではない。
そして、子どもにとっては、両親に離婚して欲しくないもの。どちらかの親と離れ離れに暮らすのは、とても悲しく辛いこと。

また、最近、子どもの友人の親がもうすぐ離婚するという話が耳に入ってきた。
本当に、よく聞く。離婚の話を。子どもたちの心より、親は自分の心の方が大切なのだろうか。
私には理解できないし、したくもない。子どもを持つ親となったからには、親は常に子どもの犠牲になる覚悟でいるのが当たり前のことだと思っているからだ。

また、時間ほど妙薬は無い。その時を我慢して発展的な努力をし続けるなら、かならず反目しあっていた伴侶と理解し合える時が来るはず。
だって、人間なのだから。心を持つ人間なのだから。まだ出来るはずの努力もしないで離婚するのは、とても卑怯なこと。子どもまで犠牲にする行為。それは、酷く悲しいこと。
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2008年04月15日

いじめ〜無能な人間

高校生活をスタートさせた下の子が言っていた。

「最初は仲の良いグループでも、そのうち誰か一人を除け者にしようとし始めるんだよね。そういうところが女子って嫌なんだよね。でも、自分は基本的にはいじめをすることは嫌いだからそういうことはしないけれどね。それに、同級生なら自分の方がみんなより上に立っているから抑えられる自信はある。」

また、上の子はいじめについて次のように述べていた。

「いじめなんかしてなんの得になるのかしら。時間の無駄でしかない。」

二人ともこの町では大変な思いをさせられたが、だからといってそういった弱い人間達と同レベルには成り下がらなかったし、悪影響も受けてはいない。
まさに唯我独尊というところだろうか。

いじめをするということは、確かに時間の無駄でしかない。客観的に見ても、それがどのように自分の利益となっているのだろうか。
ただ、醜悪で邪悪なものを増殖させ、自分の霊体を取り返しのつかないほど汚しているだけ。霊体を汚すことの恐ろしさや悲しさを知らないというあまりにも無智な状態。

大人であろうと子どもであろうと、無智ということは憐れなこと。今は職場でもいじめがあるという。そして、教師同士のいじめや、教師の生徒へのいじめ等。

大人がいじめを行うなら、それはまさに職務怠慢なこと。自分に与えられた仕事が出来ないということの証明でもある。

アメリカでは太っている人は昇進できないということをしばしば耳にするが、それならば、いじめに時間を割いている人間は仕事をいい加減にしか出来ない能力の無い人間ということになる。それはクビにしてもいいし、社会的立場を認めなくてもいいのではないだろうか。

いじめをおこなう人間は時間を大切に出来ない無能な人間。そんな人間に仕事を任せてはいけない。
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2008年04月09日

道法礼節

私は「道法礼節」ということを大変重んじている。それは、家族間であっても厳しく線を引くもの。むしろ、家族だからこその厳しさでもあるのかも知れない。

子ども達には昔からよく言われてきた。「お母さんは厳しすぎる。よそのお母さん達は、もっといい加減だよ。」と。

中間層の多くの人たちを対象として考えるのではなく、どこに出ても恥ずかしくない立ち居振る舞いが出来て当然の人間に育て上げなければならないというのが私の母親としての役目だと思っている。

もちろん、その根底には愛という根が無ければならないものでもある。

人の目に触れるところでも、人の目が無いところでも同じように自身を律することの出来る人間。それは当たり前のこと。

他人という存在は、もし、その人間が著しく道法礼節に欠けた人間性であるなら、簡単に切ったり切られたりする。それが大人の社会。
そして、そういう人間とは、おそらく二度と向き合うことも無い。

甘えた感情やものの考え方で、子ども達を社会に送り出したくはない。基本となる姿勢の教育は保護者がすることなのだ。そして、それは一石二鳥という簡単なものでもない。幼い頃からの教育の積み重ねなのである。
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2008年04月05日

自由な人間

下の子のことについて補足しておくが、彼女はどんな状況下でも決して逃げようとはしなかった。否、逃げることなど微塵も考えなかったのだ。
むしろ学校を休むことなど決してしたくはない子だったのである。三年生の時の担任の陰湿ないじめ、4年生の時の劣悪なるクラスであっても、他のクラスには友人達が大勢いた。
辛いことや苦しいことよりも、希望のある方向を見続けていた。

また、上の子も5年生の時にこの土地へ引っ越してきたのだが集団登下校では苦労させられた。グループには6年生がいない為にわが子がリーダーとなっていたが、誰一人としてルールを守らない状況。平気で車での送迎など日常茶飯事。集合時間は守らず、遅刻するにも欠席するにも連絡をしない親ばかり。そのくせ、いつまで待っても来ないから先へ行ったら行ったで文句を言う自分勝手な親たち。まさに地獄の住人たちの集まりだった。私は何度となく話し合いを行い、まるで亀の様なスピードだったが少しずつ改善されてはいったのだが。

そんな状況下の中でもわが子は、誰か行く人がいたら可哀想だから、自分がリーダーである以上は責任を持ってやると言って、いつも集合時間の5分前には行っているようにしていた。だが、毎朝出かけるときは腹痛。

私は学校に改善を求めた。しかし、校長も教頭も「集団登下校に関しては、ルールが守られていなくても、また、たとえその中でいじめが起きていても学校側としては一切口を挟むことが出来ないから地区で解決してくれ」というものだった。

その後、こういった酷い学校の改革が行われて教頭は外へ出されたが、校長は定年退職後は教育委員会へ天下りとなった。
こういった責任能力も改善能力もない人間が教育委員会で仕事をしているわけである。学校とそこの市町村の教育委員会とはぐるである。隠蔽が日常茶飯事に行われるのは当然の系図。

まあ、こんな酷い土地や環境の中でも、私の二人の子ども達は逃げることは一切考えなかった。先へ進むことを優先させ、自分を信じていた。

また、上の子のもつ雰囲気というものは特別なものがあるようでもある。クラスのほとんどの子からいじめられている子でも、わが子はその子に非がないと見て取れば友人として普通に接していた。そして、そのようにいじめられている子がわが子の傍に居る時は誰も手出しをしてこないという様子であったようだ。だから、担任の教師に会うといつも感謝の言葉を頂いていた。

だから、大の大人が不平不満ばかりつらつら言うのを見ると情けなくなるし、自分が善なる行為もしないのに他者のあら探しばかりをしている人を見ると、そんな人間と関わるのは時間の無駄だと思ってしまうのである。私は外的衝動に囚われない毅然とした気高い態度の人を評価する。

シュタイナーの語る自由な人間ということについて抜粋してみよう。


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個人がそれぞれ個的な観察を通して他の存在を知るときにのみ、個性が尊重される。私と私の隣人との相違は、互いに異なる精神世界を所有していることにあるのではなく、共通の理念界の中から私の隣人が私と異なる直感内容を受け取る、という点にある。

私の隣人はその人自身の直感内容を生かそうとし、私は私自身のそれを生かそうとする。ふたりとも理念から糧を得ようとして、物質的にせよ、精神的にせよ、外的な衝動には従おうとしないならば、私たちふたりは同じ努力、同じ意図の中で互いに出会うことができるであろう。

道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。

行為への愛において生きること、他人の意志を理解しつつ生かすこと、これが自由な人間の基本命題である。そのような人が認める「あるべき態度」とは、その「あるべき態度」が直感を通して意志と結びつくような場合に限られる。個々の場合にどのように意志するのかを告げるのは、その人の理念能力なのである。

(略)


自由な人は隣人に同意を求めたりしない。同意することは人間の本性にとって当然だと思って、同意を期待するのである。このことは、特定の外的制度の問題ではなく、心構えや魂の在り方の問題である。自分が評価する隣人と魂の在り方を通して共に生きる人は、人間の尊厳を最もよく理解するのである。

(略)


人間は道徳の為に存在するのではなく、人間によって道徳行為は存在するのである。自由な人間が道徳的な態度をとるのは、道徳理念を所有しているからである。しかしその人は道徳を成立させるために行為するのではない。個的な人間の本質に属する道徳理念こそが道徳的世界秩序の前提である。


―――――――――――――




他者から自分の意にそぐわないことに対して強制的に同意を求められたとき人は反発する。
それが正しいものであるなら、いつかは理解しあえるもの。にも関わらずやっきになって同意を求めてくる人間は自由人ではないのだ。本当の自由がなんであるのか知らないのである。そして、人間の尊厳を理解していない為に、人を大切に出来ないのである。


本当に自由な人間。それは、まさに天使の姿のヴィジョンとなって目に見えるようだ。
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2008年04月02日

私が教育問題に入れ込む理由

私の下の子について書こうと思う。あの子は小学校2年生まで周りからなんと言われていたかというと、教師達からは「明るくて友達も多く思いやりもあって本当に良いお子さんです。何も言うことはありません。お母さんが本当に上手に育てられてきたのですね。」と。
友達の母親達からは「明るくてはきはきしていて元気なお子さんですね。」と。
そして、事実、男女問わずに多くの友人達がいた。友達と遊ばない日が珍しいほどに。

だが、それも小学校3年生の時の担任の女教師によって一変させられてしまった。自己顕示欲の強い女性だった。だから、子どもたちの調べ学習の発表も全部自分で手がけてしまう為に他のクラスの中でも群を抜いて素晴らしいものとなっていた。
だから、その事実を知らない多くの保護者達からは優秀な教師だと思われていた。

わが子はなんでもくったくなく思ったことを話す子であった。だから、ご褒美を目の前にチラつかせて内緒よと生徒達に口止めをしていたことが漏れてしまう。そんなことが気に触ったのだろう。彼女による陰湿ないじめが始った。その詳細は省こう。ただ、人によったら自殺に追い込まれたか、もしくはその教師が殺害されてもおかしくないものだったとだけ言っておこう。

そして、年度末に生徒達に好きな子嫌いな子の名前を書かせた。4年生のクラス。それは、わが子にとって酷いものだった。好きな子全員と引き離され孤立させられた。しかも、問題児ばかり集めたクラス。子どもにとっては苦手な子ばかり。付き合ったことのないタイプばかり。保護者達においても、私にとっては異世界の人が多かった。親子共に唖然としたクラス。

今から一年ほど前だっただろうか。子どもが始めて口にした。4年生の時、クラスの女の子達からいじめられていたと。男の子にもてていたし、いい子ぶっていると思われて、それが女の子達には気に入らなかったようだったと。

そして、自分の性格を無理やり変えようと努力して変えたと。だから今はよく言われるらしい。「小学校の頃はあんなに女の子らしかったのに、今は全然違うね。別人みたいだ。」と。

その後の5年生、6年生は普通のクラスだったし、担任もその教師ではなかった。だから、後にも先にもその3年と4年の時だけの悪夢。
また、その教師は実体を暴露されて指導を受けることとなったのだが。

だが4年生時からは学校自体に問題があるということで県教育委員会が乗り出した年でもあった。そして、選ばれてきたという教師が4年生の時のクラス担任になったが、その女教師は力で押さえつけようとする典型的なタイプだった。だから一見、成果を上げているかのように錯覚させるもの。世間知らずの教育者達にはそれを見抜くことは到底出来ないものだったのだろう。

だから、問題児ばかり集められたクラスの内情はより見えないところで陰湿なことが行われるようになった。リストカットの蔓延。カッターナイフを平気で友達に突きつける行為。

そんな中、まだ幼かった吾が子は無理やり性格を変えようと自分で努力をして変えた。問題児ばかりのクラスの中では普通に良い子では受け入れられない。良い子はいじめの対象になる。
そして、そんな状況を作ったのは教師なのだ。その教師を殺人者と呼んでもいいだろう。残虐な殺人愛好家。教師という仮面を被り、その特権を我が物顔に己の欲望のために使う。本当に恐ろしいこと。

しかし、今、あの子はいろいろなタイプの子達から慕われている。良い子から問題児や登校拒否の子、良家の子から家庭環境の複雑な子、勉強の出来る子から出来ない子まで。それはそれは幅の広い層だ。なんといっても中学校ではカゲ番的な存在だったのだから。
また、親達からも気に入られることが多いようだ。あの子だったらお泊りに来てもらってもいいよとか、あの子と一緒なら許可するとか、子どもの友人達の中ではあの子だけがかわいいとか。

だが、小学校の頃の傷はいえてはいないようだ。今回、家の中の片づけをしていて小学校の頃のものが出てきたが、すかさず「気持ち悪いから捨てて」と言う。だから、あの子の小学時代のものは全て家の中から消えた。だが、中学校のものの多くは大切にとってあるのだが。

自分で努力して手に入れた宝。輝ける中学校の3年間。凝縮された幸せ。

だからこそ、私は教育のことには熱が入る。教師達の実態、教育委員会の実体。それは、あまりにも酷いものだから。

人殺し。大人が、しかも教師という職業についている人間が自分の感情をコントロール出来ずに幼い子ども達を平気で傷付けている。こんなおぞましいことが許されていいものだろうか。そんな低俗な人間が教職についてはならない。そのためには教師の質を上げる為の制度及び資格の改正が必要なのだ。

最近、ペアレントモンスターと呼ばれる保護者が問題になっているが、それも今までの教育現場に原因の根源があるのだ。
今までの教育の在り方、教師の質に問題があったからこそその結果として生じてきていること。
特権を前面に出し弱い立場の子ども達を教職についている大人達が力で押さえつけ、そして不条理なことを行ってきたことの結果。力こそすべてという感覚や意識が植えつけられたとしても当然のことなのだ。

教育現場を変えることを最優先しなければ、日本は獣的人間を量産してしまうだろ。子どものことを本当に考えた教育。それが大切なこと。

また、私は中学校ではPTAの役員の仕事をしたが、そこから見えた教師達の姿はというと、多くの教師の中で本当に熱くなれるのはごく数人しか居なかったというものだった。あとの教師達は極力面倒なことには関わりたくないという姿勢。転任を希望せずにそこの古株になっている教師の中には公然とえこひいきをし、また自分勝手な要求でルールを変えてしまう人間も居た。

これが学校現場の実体なのだ。臭いものには蓋をしろという隠蔽体質。世間体を取り繕うのが上手いのが教育現場。

ただ、素晴らしい教師も居る。そのことも、私の目は直に見てきた。だが、その数はごくごく少数ではあるが。そして、そういう素晴らしい教師というのは、教師になろうとしたその最初の動機が既に意義あるものでもあった。だからこその教育。

ちなみに、私の結婚式の仲人は校長先生をされていた人であった。
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2008年02月06日

自由

霊学を研鑽していると面白いもので、自分の中の以前の見解と今の見解の違いが歴然として見えてくるし、時には正反対の受け取り方になっていたりもする。

例えば、霊界物語から次のところを抜粋しよう。


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惟神的道徳上の義務に服し、天界に奉仕し、自己を制して自己以外に寛大なる神人は、其実際に於いて精神上の自由を有し、一切万事 公共の為、何一つ成らざるはなきものである。之に反し、惟神的道徳上の義務を省みず、自己の欲望にのみ執着し、自己に寛大に、他に対して残忍である所の神人は、其の実 運命の手に縛られてゐるのである。

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以前だったら、前者に於いては、あたかも信仰というものに縛られ、自分を抑えなければならないという非常に窮屈なイメージを受けていたが、今は違う。

心が縛られないのである。即ち、それは王仁三郎の語る「精神上の自由」なのだ。

不必要なものに囚われないし、些細なことに執着することもなく、無駄のないピンポイントの状態に近づいて行く。それは、以前に比べたら格段に心が楽なのである。

また、後者の場合は、様々なことに執着心があるが為に、ちっぽけなことに常時心が波立っている。つまり、カルマから逃れられないでいるのだ。
所有欲や名誉欲などの欲望というものを満たす事は、決して目的達成と言えるものではない。欲望は新たな欲望を生み、その欲望の為に心は荒んでいく。

そして、生きているうちに少しでもカルマを解消しようとしないなら、またそれを来世まで引きずってしまう。なんと不自由なことだろうか。まさに、運命の奴隷。

自己を制するということは、歪んでいたものが矯正されるということでもある。歪んでいたものが矯正されていくなら、それは次第に惟神的道徳の道へと修正され、その義務がまったく自然なこととして把握できるようになってくるのではないだろうか。

漠然としていた自由というものが輝き始めるのを覚えた時、それはカルマからの解放を意味する。
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2007年12月10日

生きること

五体満足であるということが、本当に幸せなことなのだろうか。

五体満足であるということの幸せに麻痺し、神の恩恵を忘れてしまっているのではないだろうか。

五体満足であるということが、あたかも普通のことであるかのように錯覚し、感覚を失っていく。

五体満足であるということは、使い方を間違えれば悪に染まり易いということ。

五体満足であるということは、使い方を間違えれば他者を傷付けるということ。



目が見えない人のその耳は、広く深い音の世界を知る。

耳が聞こえない人のその目は、フィルターのない世界を知る。

目も見えず、耳も聞こえない人のその肌は、クリアな心の世界を知る。

五体満足の人間よりも、もっともっと高い、神に近い世界を知る。




五体満足であるということが、本当に幸せなことなのだろうか。

五体満足でない人の世界が、ひどく羨ましく思えるときがある。

その研ぎ澄まされた感覚が、肉体を持ちながら神の領域の中に居ることが。



五体満足なら、五体満足の人間がやらなければならないことをしなければならない。

泥まみれなりながらも、泥を取り除き、きれいにしていくことを。クリアな世界にしていくことを。
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2007年11月28日

徳は知である

プラトン著「メノン」の解説のところに、次のようなことが書かれてある。


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すなわち、われわれはプラトンの真意を、こう言うことができるであろう。

―――「徳は知である」というソクラテスの教は真実である。真の知であるような徳こそが、唯一のほんとうの徳である。そしてそのような徳であってこそはじめて、ほんとうの意味で他に教えることのできるものである。しかし現実には、そのような真の徳=知をそなえた人は、これまで存在しなかった―――

おそらくソクラテスその人をのぞいては。したがってまた、有徳の士といわれる政治家たちも、徳の教師を名のるソフィストたちも、ほんとうの意味で徳を教えることはできなかった。

けれども、ソクラテスの説いた教えは、それが真実である以上、あくまでその実現に向かって努力されなければならない。それが哲学の指示する道である。

ポリスという場における具体的な課題としていえば、他人にもほんとうの意味で自らの能力を授けることの出来るような政治家、すなわち、真の知としての徳を確実にそなえた政治家こそが、育成されなければならない。換言すれば、必要なのは、哲人政治家の教育なのである・・・・・


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普通に暮らし、普通の人として生きている人々。しかし、そんな状態でも、生きてきた環境や交友関係によって、価値観というものが大きく違うこともあるのである。それが、教育機関であってもである。

もうすぐ導入される裁判員制度。もし、裁判員に選ばれたら、きっと、多くの価値観に出会うことだろう。そして、その中で求められるのは、高い精神性と人としてのあり方なのだ。裁く側こそが求められるもの。

他者の立場に立って物事を見て考える。それから再び客観的に総括して答えを出して行かなければならない。

また、こういうことは大人になっていきなり出来るものでもなく、子どもの頃からの積み重ね。
やがて、子どもが裁判員の対象となったとき、いつでもきちんと対応できるように育てていかなければならないのだ。

「徳は知である(教えられるもの)」
子ども達に教えられる知があるであろうか? 真の知を得るには、多くの様々な価値観を知らなければならない。そして、それは積み重ねなのだ。 
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2007年11月15日

霊学と実生活

霊学とは、実生活に活きるものである。

私は、このことを今年に入って実感した。だから、余計に真摯な姿勢で霊学を学んで行きたいとも思っている。

予想だにしなかった長という責任ある立場に立たされ、有無を言わさずに動かなければならなくなったし、長という立場は人に動いてもらわなければ、その職責を果たすことは出来ないものである。

前任者はその重圧に、一時、耳が聞こえなくなるという症状さえ起きてしまったという。
今年は、○○周年というものが二つも重なり、そのための記念行事も多く、それに伴って振り回されることも多い大変な年。
また、なぜ、そんなにも精神的な重圧があるかといえば、今までの体制が杜撰すぎたことが大きな要因となっているのだ。
その杜撰な体制は、長という立場になった人だけに重く圧し掛かってくるもの。

でも、私は精神的に追い込まれない。最初こそ、このメンバーでやっていけるのかと心配だったが、人は変り行くものであるから。
次第に協力体制になり、何人もの人が、やる仕事があれば自分達に振って下さいと言ってくれるようになった。
だから、いろいろ決めていかなければならないことを決められるし、きちんとした体制作りへの歩みが出来るのである。

また、神も霊人たちも応援してくれる。その一つが、私のサポート役の交代。突然のアクシデントでの交代となったが、新たに決まったサポート役は、自分から率先してその役に就いてくれたし、多くの気遣いもしてくれる。
それ以来、かなりスムーズに進むようにもなった。

神や霊人たちは、真摯に直向に正しく歩む人を手助けしたくてしょうがないんだなと思う。それはもちろん、実際にやっている人間も苦労はするが、神は、たぶん、苦労もさせるが応援もするという存在だと思う。

本来だったら、人間恐怖症でもあり、不当なことで大変な思いをさせられたこの土地で、積極的にこの土地のために有益なことをやろうなんて、大抵の人は思わないだろう。
でも、私には霊学という大きな財産があった。だから、その財産によって、今、行動出来ているのである。

本気で霊学を学ぼうとするなら、それは当然、現実の生活に反映されるものであるし、そうでなければならないものなのだ。
それは、まず、人との和に現われる。

現実の側にいる人間を感化できるか? 望ましいものに感化できるか?
不平不満や、他者を攻撃するような言動をしない、望ましい人間に感化できるか?
発展的な人間に感化できるか?

長という立場は、どんなことがあっても他者にとって不利益となることは、自分の胸の内だけに留めておくもの。
そして、一番弱い立場にある人や、一番大変な状況にある人に心を置くもの。また、そうでない満足な状態にある人が、自らの意志で弱い立場にある人の手助けをしようと思えるように導くこと。
また、長は不平不満や愚痴、他者を悪く言うことは決してしないこと。
そして、率先して働くこと。

私がこのように現実生活において下座の行に徹することが出来るのは、霊学を真剣に学んでいるからである。
だから、精神的に追い込まれる人がいる中で、私は今までの体制の改善すら出来るのである。
また、これは私の力ではない。神が私という存在を通してお働きになっているから出来ることなのである。

前回の記事の中にUPした、出口王仁三郎の歌。

    れい学をまなぶは良けれどたましひを
              洗ひ清めしその上にせよ

魂を清めることの大切さ。常に謙虚でなければならない。我の強いという状態は言語同断。常に自分を省みながら、至らないところを反省するのは基本中の基本。

他者に要求ばかりして依存しているのでは、何も変らない。

だが、この下座の行も、ほんの入り口に立ったにすぎない。まだまだ先は長く、遠い。

謙虚でありたい。謙虚であることの美しさ。それは、涙が溢れるほど憧れるもの。
posted by ミューシャ at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | 更新情報をチェックする