2008年07月20日

人間らしい生活への回帰

また、子どもによる親の殺人事件が起きた。国家が求めて推進してきた学歴社会。人間一人一人の個性や生命を重視するのではなく、国益の為に必要なロボットを育成しようとしてきた結果が今の混沌とした状態を引き起こしている。

競争で勝者のみが優遇される社会。心よりもお金の力の方が強い社会。
人は幼い頃から競争社会の中へ追い込まれる。もっともっと親に見つめて欲しいのに、仕事だからと託児所や保育所に入れられ、思う存分のスキンシップを得られない。
もっともっと友達と遊びたいのに勉強しろと小学生の頃から塾へ追い立てられる。そして、高学歴な人間こそ価値があるのだと歪んだ思想を植えつけられ、引かれたレールの上を歩かされる子ども達。

何をやりたいのか、何になりたいのかを見つける暇も与えられずに勉強、勉強。

今になって、国家は慌てふためいている。こんなはずではなかったのにと。人間としての尊厳を踏みにじってきた政策は、多くの不満を噴出し始め、そして溢れかえっている。

世の中にはあらゆる仕事をしてくれる人びとがいるから成り立っているのだ。政治家であろうと、弁護士であろうと、清掃員であろうと、誰が偉く、誰が偉くないなんてことはない。みんな等しく平等なのである。みんな同じ価値なのである。

シュタイナーが述べる社会有機体三分節化の一つである法的生活についても、そのポジションはすべての人が対等な関係を保てるように守る機関でなければならないと述べている。

すべての人が対等ということは、ごくごく当たり前のことであり、そういう精神こそ人の尊厳を大切に出来るものなのである。

家庭という言葉が昨今では非常に軽い意味となってきているように思える。国策で共働きの家庭は増加した。国が経済を管理しようとしてきた諸々の歪。
そしてその皺寄せは、一番弱い立場の子ども達にもたらされ、子ども達はどんどんストレスを溜めていく。甘えたいのに甘えられない、もっと一緒にいてほしいのに居てもらえない、友達と遊びたいのに友達と遊ぶことを制限され、家へ連れてくることを拒まれる。そして、勉強、勉強。

これでは、人間らしい人間に成長できるわけがない。蓄積されたストレスは、やがて、いつか爆発する。

人間らしい暮らしへの回帰。それこそ、今の時代に求められていることではないだろうか。
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社会有機体三分節化Y

環境問題が深刻化する中、京都議定書、そして最近の洞爺湖サミットで二酸化炭素の排出権取引市場の導入が進んでいる。

が、これもシュタイナーの述べている「余剰価値」とも連動しているように思う。


『人びとが個的能力に基づいてあげた利潤の余剰部分を公共のものにし、能力を十分に発揮できない人びとの不足分に対する正当な補助を、この公共のものから供給する。

「余剰価値」は個人の不当な楽しみのためにではなく、社会有機体に魂的、物質的な財をより多く提供できるために生み出される。

障害のために社会に直接役立つことができない人でも、この社会有機体の体内から生じた人であるなら、どんな人のためにもその財を提供しなければならない。』


国民年金や国民健康保険も国家が管理しているから問題が生じたり、不公平になったりするのではないだろうか。
シュタイナーの見解なら、苦しむ人々も極端に少なくなるだろうし、人間にやさしい生活がもたらされるのではないだろうか。

まだまだ書きたい事はあるが、あとは個々人がこの本を図書館から借りて読むなり、高いお金を払って古書を入手するなりして読まれたら良いのではないだろうか。願わくば、再版を望むのであるが。

以上、これにて終了。
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社会有機体三分節化X

日本でも、いよいよ来年の5月から裁判員制度が導入される。これは、もともと裁判官の常識のなさをなんとかしなければならないということから動き始めたようだが、シュタイナーは、裁判官制度を国家制度から切り離さねばならないと述べている。

『国家制度は、人間もしくは集団相互の間に存するべき法律を守ることを義務として課せられている。

しかし裁定そのものは、精神組織から生じる。正しい判断は、裁判官が裁かれる者の個的状況に対する感受性と理解力を持っていることに高度に依存している。そのような感受性や理解力は、人びとが精神に対して持っている信頼の絆から裁判官を任命するのでなければ、生じ得ない。』


上記のような観点から、裁判官は、一定の範囲内、期間内で様々な職業や身分の人たちの中から他者から信頼されている人間を選ぶべきであり、特殊な法律知識を必要とする場合には、その専門家が惜しみない協力をするという体制が望ましいという見解を、シュタイナーは示している。

人間というものをより深く愛の目で見つめられ、そして人生の深い洞察力を備えている人間こそが裁判官というものに相応しい。そうは思わないだろうか?

人一人を殺したら死刑・・・というような一律的な物事の見方こそ、人間の精神生活を否定するものであり、希望は無いように思う。

日本における裁判員制度が、これからどのように展開されていくか、まさに神側に向かうか、悪魔側に向うかの分水嶺。

また、昨今では、教員採用問題や、教員昇進問題で、国会議員や県会議員などの議員たちが圧力をかけている実体が浮き彫りにされてきたが、あらゆる分野で、あらゆる都道府県で、議員達は自分たちの特権を利用して圧力をかけている。

これ一つを見ても、社会有機体の三分節化が如何に必要かが理解できるのではないだろうか。

続く
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社会有機体三分節化W

学校について更に次のように述べている。

『近代国家の社会構造は、人生の要求に応えておらず、人びとの経済要求をも満足させられないでいる。そして時代のその立ち遅れを学校制度に背負わせている。

国家は学校制度を宗教団体から奪い取り、それを自分にまったく依存させ、そして小学校から大学まで、教育の全施設を国家が必要とする人材を育成する場にしてしまった。だから今日の学校の中には、国家の諸要求が映し出されている。

 人びとは「一般的な人間性の育成」について語るけれども、現代人は無意識の中で、あまりにも強く自分を国家秩序に依存させているので、自分たちの言う人間性の育成が、実は国家の必要とする人間の育成なのだ、ということに、まったく気づいていない。』



以前、子どもの育成において、国策に沿った育成をせざるを得ない状況下であるというようなことをブログへ書いたが、それは、まさにシュタイナーが指摘している恐ろしい状態なのである。

そして、シュタイナーは、学校が経済組織の一分枝である限りは、その学校が立派になりうるはずがないと断言しているのだ。

『現在のわれわれにとって大切なのは、学校をまったく自由な精神生活の中に留めておくことである。

何を教育したらいいのかは、成長期の子どもたちの個的素質を認識することからのみ見出されねばならない。真の人間学が教育と授業の基礎であらねばならない。


「子どもに何を教えたらいいのか、何が現代社会のために役立つのか」問うべきではない。

「何がこの子の素質なのか、この子の何を発達させることができるのか」問うべきである。

そうすれば、成長しつつある若い世代の新しい力を、社会にその都度導入することができるようになるであろう。』


続く
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社会有機体三分節化V

宗教・教師・芸術家については次のように述べている。

『近代人の宗教生活はまったく自由な精神生活と結びついてこそ、人びとの魂を担うのにふさわしい力を発達させることができる。

 精神生活を生み出すだけでなく、受け入れることをも、自由な魂は述べている。

教師、芸術家等の社会的地位は立法、行政の在り方に左右されているが、これらの人びとの職業は精神生活そのものから出て、精神生活から発する衝動だけに担われているべきである。

一方、彼らの仕事の成果を受け入れる人びとも、労働を強制されることから政治国家によって守られ、かつ精神的財の理解を目覚めさせるには十分な余暇をも法律によって保障されていなければならない。その場合のみ、教師や芸術家たちの仕事に対する感受性を発揮させることが出来る。』


私は、この見解を呼んでなるほどなと深く納得した。また、この見解に対して批判的な人々に対しても、これまた痛快で的を得た主張が展開されている。抜粋する。


『「実際家」であると自認している人は、このような主張を聞くと、次のように考えるだろう。―――「人間というものは余暇があれば、酒を飲んで過ごしてしまう。国家が学校へ行くことを子どもの自由な選択にまかせたら、文盲の状態へ逆戻りするだろう」。

世界はそのような「実際家」の考えるとおりだろうか。そういう「悲観者」には、世界がどうなるか、ただ待ってもらいたいものだ。

この種の悲観論者は、自分が余暇をどう過ごしてきたか、自分が少しばかりの「教養」を身につけたとき、何が必要だったかを、貧弱な思い出だけをふりかえって、このような考えにいたったのだ。そのような人は、本当に自由な精神生活を社会の中で送ったことがないので、精神の熱のこもった力を考えることができない。その人たちの知っている拘束された精神生活は、熱のこもった力を発揮したことがないのだ。』


如何だろうか。実に痛快な洞察ではないだろうか。自分自身が余暇という自由な時間を過ごす中で、何をして、どのように過ごしたかで、それこそ天と地との差ほど大きなものが生じる。

内なる衝動や、探究心、また、より広く深い世界を知ろうと努力する過程では、尽きることない向上が存在するのだ。それが、どれほどの活き活きとした精神生活をもたらすことだろうか!



また、シュタイナーは次のように語り続ける。

『政治国家も経済生活も、自主管理する精神生活からの働きかけを必要としている。経済生活に必要な教養もまた、経済生活と精神生活との自由な共同作業によってはじめて、十分な内容を得ることができる。

ゆたかな精神生活の中でふさわしい準備をしてきた人は、経済生活においても自由な精神力を活用することができるであろう。そこで獲得された経験もまた、精神生活の中へ流れていき、精神生活のために必要な果実を実らせるであろう。そして政治国家の領域でも、必要とされる健全な立場が自由な精神の力によって形成される。』



そして、教育、学校は自由な精神生活の中でこの社会理解を促し、それぞれの個的能力を思う存分発揮しようとする衝動を人びとに持たせる社会的役割を持っているとも述べる。

『法治国家自身が精神生活を管理したり経済活動をしたりしないですむようになるために、私立の教育活動や独立した経済活動を抑えないようにする必要がある。

公立学校の教育や国有の企業活動を今日明日のうちに廃止する必要はないが、国家による学校や企業活動を整理していかなければならない。小さな発端から始めて、次第に大きな規模にまでもっていけばよい。

しかしとりわけ必要なのは、本書で主張されている社会理念の正しさを確信できた人が、その理念の普及に協力することである。この理念が理解されれば、現在の状態を弊害のない状態へ転化させる可能性に希望を繋ぐことができる。そしてその希望だけが、本当に健全な社会を発展させることが出来るのである。』

続く
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2008年07月19日

社会有機体三分節化U

シュタイナーは、社会の指導層は郵便、鉄道などの経済分野を国家の中に取り込んだが、今それを逆の方向に持っていかなければならないと語る。
すべての経済活動を政治的国家体制から引き離さなければならないと言うのだ。

社会有機体の三分節化についてまとめると、

一つは、経済生活。
これは、神経と感覚の働きを含んだ組織であり、その働きが集中している主要機関は頭部である為に、頭部系と呼ぶ。

二つ目は、公法の生活。
これは、呼吸と血液循環、もしくは人体の中でリズミカルな経過を辿るすべての分野であり、律動系と呼ぶ。

三つ目は、精神生活。
これは、本来の新陳代謝機能に関わるすべての機関活動であり、代謝系と呼ぶ。


シュタイナーは次のように述べる。

『きわめて近い将来に、人間有機体をこのような観点から考察し、頭部系、循環系(もしくは胸部系)、代謝系の三つが一定の独立した働きをしていること、生体が絶対的な集中化を示しているのではなく、各組織が外界に対してもそれぞれ独自の関係を作っていることを理解するようになるであろう。頭部系は感覚により、循環系は呼吸により、代謝系は栄養器官と運動器官により、人体と外界との関係を保っている。』

続く
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社会有機体三分節化

ルドルフ・シュタイナーの「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」という本のなかから、幾つかに分けて書いていこうと思う。

高橋巌氏の訳者あとがきから、まず抜粋してみたい。


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ヨーロッパ社会は第一次大戦後、資本主義的市場経済への道と社会主義的統制経済の道の二つを模索していた。

しかしシュタイナーはそのいずれの中にも、癌細胞に犯されている病んだ社会生命体の末期的症状しか見出すことができなかった。

一方の資本主義的経済秩序は社会の領域の中に商品だけしか認めようとしない。したがってその社会では、人間の労働力も商品としてしか評価されず、そこに込められた人間の思いはすべて商品化され、金銭で評価される。

それのみならず、権利もまた金銭による購買の対象にされることによって、生きる権利そのものまでが商品化されるようになる。

この人間の尊厳への冒涜のつぐないをつけるには、社会を三分節化して、精神生活、法=国民生活、経済生活(生活という言葉でシュタイナーは社会のいとなみがすべて生命体の有機的活動なのだということを暗示している)に分けなければならない。

そしてすべての労働力が、精神労働も肉体労働も、経済生活ではなく、精神生活に属している、ということも明らかにし、同時に経済生活と法組織との徹底して分離をも追及しなければならない。それを時代の本質的な課題としてうけとめるのでなければ、社会の未来に救いはない。


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また、シュタイナーは、社会主義的体制にも徹底的な批判を繰り返し、マルクス主義については次のような見解を示していたという。


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マルクス主義が人間関係を経済組織から切り離そうとする正しい目標を持ちながら、人間精神の自主管理を徹底させる方向ではなく、官僚中心の政治機構の中に人間管理のシステムを組み込む方向に向わざるをえず、その結果信じられぬような人間精神の頽廃を生じさせるであろう、ということを予見していた。

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さて、もうすぐNHKのドラマ「監査法人」が始ってしまうので、ちょっと中断。失礼。
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2008年07月13日

教育現場の腐敗

大分県教育委員会における教師の不正採用や昇進問題、そしてそれに伴う賄賂がクローズアップされているが、このようなことは大分県だけではなく、全国のあちこちで昔から囁かれてきたこと。特に、地方では日常茶飯事の如く行われていると思われる。

大分県以外の他の都道府県の教育委員会では、きっと今頃は、どうしたら発覚されずに済むのか、万が一漏れた場合には誰に責任を被せるかを必死に検討している最中だろう。

そもそも教師の採用を地方採用という狭い枠組みで行っていること自体がおかしいのではないだろうか。その方式は汚職を蔓延させる。

また、まだ記憶にも新しい高校での必須科目の履修問題。それについても、それぞれの都道府県の体質や隠蔽工作が上手い下手、教育委員会の結束度の強さなどによって、だいぶ違った数字がでていたように思われる。

どの高校を犠牲にさせるか。たとえば県教育委員会が隠蔽工作が上手く結束力も強ければ、私学が槍玉にあげられたりということもあったのではないだろうか。

そして、学校側から生徒達へは内部告発から崩れるから言わないようにと口頭で通告したところもかなりあるように思われる。

ただ、あの時の国の対応もお粗末だった。受験を控えている大切な時期に、正直に申告した学校や、槍玉として上げられた学校の生徒達が犠牲になり、隠蔽工作に成功した学校の生徒達はそれを逃れている。そして、勿論、それまでの卒業生は何も問われない。
当然、そんなことは分かりきっていることなので、国は生徒達に対してもっと公平な対応策を取るべきだったと思う。

また、教育実習は母校や出身地域にある学校で行うと採点が甘くなる為、今度からそれ以外のところで教育実習を行うという方針に決まったようだが、依然として私の住んでいるところでは母校で教育実習を行わせている。

まさに、教育現場は汚職の温床。教員の採用にしても昇進にしても、今までのやり方や管轄区域の大改革が早急に求められる。

一度、公立小中高の教師を全て解雇して、新たな制度の下に再試験を行い配置して欲しいぐらいである。

そして、不正によって採用や昇進をさせてきた事実は、自分たちの子孫も駄目にし、日本、そして世界までも駄目にしたという大きな罪であるという事実。

人を教え導く人間たちがしたそのことは、まさに悪の所業以外の何ものでもない。そして、まだ発覚されていなからと隠蔽工作に必死の教育現場の人間達はさらに罪を犯し続けているのだ。

早急な大改革が教育現場に求められている。今までの構造システムの大改革をである。
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2008年07月01日

符号

斑鳩町といえば、そうだった。今年の5月10日に中国の胡錦濤国家主席が法隆寺を訪れ、今回の事件の容疑者である大野管長に案内を受けていたっけ。確か、冷たい雨が降りしきる日だった。しかも、4月23日には、わざわざ唐国務委員が下見に訪れている。

また、胡錦濤国家主席が訪問したその二日後には、あの四川大地震。

そして、藤ノ木古墳の初めての一般公開が、やはり5月に行われた。
私もかつて一時期、藤ノ木古墳の被葬者に興味を惹かれていたが、それも自分の中では一段落がついたので、もう意識する必要はないかなと最後の藤ノ木古墳の写真を撮ってきたのが3月。その後、初めて行われた古墳内の一般公開にはわざわざ出向く必要もないかなと行かなかったのだが。

また、平成14年5月28日には、天皇皇后が斑鳩町を訪問。しかし、その時は第二慈母園とかいう福祉施設だけの訪問だったらしい。

なんか、凄い霊界の動きというものの印象を受ける。ちょっと鳥肌。
posted by ミューシャ at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

金と権力の行く末

日本人の世界遺産へのいたずら書きが問題になっているが、日本国内でも世界文化遺産に指定されている法隆寺のある斑鳩町が汚職まみれで新聞に載っていた。

数日前には斑鳩町長が、最高裁から、土地無償譲渡違法で2200万円の賠償命令が下され、今日は法隆寺管長が廃棄物処理法違反で書類送検。

まあ、斑鳩といえば聖徳太子。しかし、どろどろした歴史のあるところ。おそらく、これらの続く不祥事は氷山の一角なのかも知れない。それにしても、要職にある人間達への裁き。嘆かわしいことでもあり、希望でもある。

また、世界遺産ということでのシンクロ。これも、妙なことだ。
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2008年05月28日

経済

シュタイナーの「職業とカルマ」という本の冒頭部分に、西川隆範の訳者緒言が書かれてあるが、非常に興味深いので抜粋したい。


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シュタイナーは40代のとき、「賃金とは何か」について語っています。労働に対して賃金が支払われると、労働者は自分を商品として資本家に売っていることになり、労働者は人間としての尊厳を傷つけられるので、労働と賃金を切り離す必要がある、とシュタイナーは考えました。

まず「私の仕事はどのように人の役に立つか」という観点に立つとよい、と彼は言います。そして、「人のために働くことと収入を得ることとは、まったく別個のことがらだ。労働力は商品ではない。労働に対して金銭が支払われると、労働者の人間的尊厳が損なわれる。雇い主は労働に感謝して、労働者の生活のために金銭を贈るのである」と語っています。

柳宗悦は、日本の芸術家は「どれほどの値で買ってくれと主張したことがない。・・・・店の方では、こんな謙遜深い作家のものは、なるべく有利に作者に酬いるようにすべきだと考え、店の利益を出来るだけ少なくして、作家たちに酬いる。それで双方の権利の主張の妥協点できまるのではなく、双方の無慾と感謝との接触点できまる」と、書いています(「東洋的解決」)。
高く売りたい作り手と、安く買いたい店が妥協するという「西洋での解決」よりも「東洋の解決の方が、もっと互いの幸福を約束する」というのです。

(略)


シュタイナーは50代になって、社会を〈経済・政治・文化〉に三分説する必要を説きました。その三つは別々の原理で動いており、どれかが他の領域に干渉すると社会という生きものは病む。

経済領域では、知識と経験の豊かな生産者と流通・販売業者と消費者で構成されるアソシエーションが需要を見極めて適度の生産をもたらし、公正価格を形成するという案を彼は出しています。三者で協議すれば、自分の利益の主張ではなく、社会の維持。発展という観点から話し合いがなされるというのです。

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今の社会の仕組みは、政治家が経済も文化も手中に収めてしまっている。そこに、あらゆる種類の欲望が渦巻き、混沌としたものを生じさせている。まさに、シュタイナーが語るように、「病んでいる」のだ。

そういえば出口王仁三郎も、未来において経済の在り方は大きく変るし、そうならなければならないというようなことを言っていたと記憶しているが、人間というものを尊厳と愛で見つめた場合、何をどうしたら良いのか、自ずと明確に分かってくるのではないだろうか。

現代人は、あまりにも多くのことを我慢している。それは、もうどうにもならないという諦めと、こうあるべきだという固定観念を植え付けられてしまっているからこそ生じる見えない我慢。

心の底から人間生活をしたいものである。
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2008年05月03日

メディアに翻弄される感情

放送倫理・番組向上機構(BPO)の「放送倫理検証委員会」は2008年4月15日、山口県光市の母子殺害事件の裁判を扱ったテレビ各局の報道について、「多くが極めて感情的に制作されていた」と批判する意見書を発表した。

意見書では、「なかには出演者が被告・弁護人の発言や姿勢に対して、明らかに罵詈雑言と思われる言葉を浴びせかけたり、激しいバッシングを加えるようなものもあった」「被告がたんに荒唐無稽で、奇異なことばかり言っているという印象が強調されることとなった」などとし、ほぼ全ての番組が被告側の「荒唐無稽さと異様さ」に反発し、「被害者遺族」に共感する内容だった、と指摘。「画面には、取材し、考察し、表現する者の存在感が恐ろしく希薄である。そのような番組しかなかったことに、委員会は強い危惧を覚えないわけにはいかない」としている。

同委は、市民団体から放送倫理上の問題点を検証するよう求められ、8放送局、20番組、33本の番組を調査していた。

(J−CASTニュースより)



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ふとしたことから目に飛び込んできた記事である。

吾々国民は、如何にメディアの力によって振り回され、真実が見えなくなっているかということだ。一方的に入ってくることを少ししか見ないで決め付けてしまう。メディアの言うことは正しいのだと言わんばかりに。
まるで、今の中国人が叫ぶ短絡的な愛国心の大合唱のよう。



同じJ−CASTニュースには、次のことも書かれてあった。

――――――――――――――――


判決に先立つ08年4月3日、TBS系のJNNが元少年の被告に面会・取材していたことがわかった。JNNによれば、「死刑もやむを得ないと思う?」という記者の問いに対し、元少年は

「はい。僕は死刑存置主義者ですから。終身刑も検討して欲しいと思っていますけどね。ただ判例として僕が死刑になるのは避けたい。ほかの少年少女の事件にも大きく影響するんですから」
と答えたという。また、「どんな判決を望んでいますか?」という問いに対しては、

「判例になる以上、死刑は受けたくない」
と語ったというのである。少年は、「死刑判決はやむを得ない」としながらも、将来死刑判決を受ける人のことを考えると「先例になるから受けたくない」ということだったらしいのだ。

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いったい吾々の目は何を見て、吾々の耳は何を聞いて答えを出しているというのだろう。自分に接点の無い人間の事など、本当はほんの少しも見えていないというのに。

ただ、今の吾々がしなければならないことは、この事件の成り行きを最後まで見届けることと、網の目を潜るようにしてあらゆる情報を知ろうとすることだろう。

そして、「人間」というものを見つめなおすこと。「人間」という言葉の持つ響きがとてもあたたかく感じられるように歩むこと。
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2008年04月22日

命と法

光市の母子殺害事件による加害者への判決が出された。死刑。
最高裁が差し戻した段階で死刑は決まっていたようなもの。

残虐非道な犯罪。その犯罪行為は決して許せられるものではない。犯した犯罪に対して死を持って償うという姿勢はあって当たり前のこと。

しかし、実際は、死刑という判決が妥当だったのだろうか。今までの他の数々の裁判例から見て妥当なものだったのだろうか。元少年Aの心理状態から妥当だったのだろうか。

私には分からない。弁護団が変わったとたんに供述を覆している。元少年A自身の言葉が全く見えないのだ。弁護団の戦略に振り回された、そんな印象を受ける。

日常的に父親から暴力を振るわれ、中学一年の時には母親が自殺している。どちらの親からも見捨てられた中で、おそらく、彼はどんどん壊れていったのだろう。

また、何度か面会に訪れた記者に彼が話していた自分の心境。

今回の事件は、元少年Aの言葉が見えない。そして、この死刑判決はもうすぐ始る裁判員制度を睨んだものともいえる。

また、被害者のご主人のされてきたことは、日本にとってあまりにも有意義なこと、必要なことを開拓し、そしてもたらしてきた。
閉鎖的だった裁判というものが開かれ、被害者の気持ちや立場を尊重するという当たり前のことがされていなかったことを当たり前のこととした。

裁判員制度はよいことだと思う。しかし、そのやり方があまりにもお粗末過ぎる。
初公判から3日間で判決まで出すという異常なやり方。そして、極刑に値する裁判だけに参加が限られているということ。

こんなやり方の裁判員制度では、正しい判断をすることなど出来やしない。検察側の思う壺。

やり方をもっと熟慮してから施行に踏み切るべきなのだ。
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2008年03月08日

公の腐敗

刑務所の看守や医師などによる受刑者への暴行が多発している。

看護士による患者へのいじめも多発している。ヘルパーの老人への虐待も多発している。

教師による子どもたちへのいじめも多い。そして、教師同士のいじめも多く、職場内でのいじめも多い。

そのほとんどが弱い者いじめ。自分の立場を利用したいじめや暴行。その権力がなければ、ただの弱くくだらない人間。そういう人間だからこそ、いじめなどという低俗な行為を平気でするのだ。一人じゃ何も出来ない人間だからこその証。

たまに役所関係に出向くと、うんざりする。あの覇気のなさ、たらたらした雰囲気。ミスがあれば言い訳の連続。
公務員改革は絶対に必要なこと。国家の根本をなす公務員が、あのような状態では国は衰退する。それは当然のこと。
安全を保障された人間の哀しい姿。上司には意見を言うことも逆らうことも出来ない。ただ、時の過ぎ行くままに流されているだけ。

そして、その発端は学校教育にある。小学校からの基本的な教育がきちんとなされていないからだ。子どもを導く教師の質が低いからだ。

優秀な教師の育成は必要不可欠なこと。人間的にも能力的にも優秀な教師には、どれほど高い給与を払っても惜しいということはない。

子どもたちの育成には、実際に関わる時間の多い大人達の影響が大きいのだから。

現代は、教師も親も言い逃ればかり。やれ教師がすべて悪い、やれ親が悪いと責任転嫁合戦。どっともどっち。
だから、友人達から良い評価をされている子どもにきちんと育てた親と、生徒達から信頼されている教師の意見をよく聞くべきだと思う。

子ども達は教師達の顔色を伺っている。教師達のご機嫌を損ねないように気を使っている。
教師達は、教師というものの持つ力を悪用する馬鹿が多い。えこひいきというものをする教師は馬鹿の象徴。馬鹿が教壇に立つのは、まさに滑稽としか言いようがない。

人間だから好き嫌いはあって当然。しかし、教師という職業を選んだからには、すべての生徒に対して平等な精神をつように努力をして当たり前なのだ。そして、人の嫌がることは率先して、積極的にやるのが当たり前。教師なのだから。そんな当然のことすら出来ない教師は、馬鹿の骨頂。

すべての学校を一斉に改革というのは難しいこと。だから、せめて、どこかモデル校というものを作って、少しずつでも高めて行って欲しいと願う。

そして、ペアレントモンスターという怪物を生じさせたのも、今までの学校教育が生んでしまったこと。そのことに気付くべきだ。
また、ペアレントモンスターを無くすのは、学校とPTAの共同作業。PTAが弱体化していたり、腐敗していたのでは学校は片翼の鳥なのだ。
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2008年02月10日

暗黒の中の灯火

裁判員制度が導入されるまで、あと僅か。国家権力との戦いの火蓋が切って落とされようとしている。

確かに裁判員制度は、道徳教育としてはもってこいの教材である。それによって、下降線を辿っていた人間教育が向上するだろう。確かな目を持つ人間達が増えるだろう。

だが、その反面、冤罪の片棒を担がされる危険性を伴っている。犯人を確定させる為に、警察側は事実でないことまで作り上げ、それを公表し、メディアはそれをそのまま報道する。
証人喚問する証人は、警察側に都合の良い証人だけに限られ、警察側が作成したストーリーを裁判官は信じ込んだ振りをして進行させる。
犯罪者にされた半分は、冤罪によるものではないかと言われている。

弁護士といえども、国家に対峙しようとする共産党側の弁護人なら、ある程度はまともなやり方が出来るかも知れないが、ほとんどの弁護人は、警察側のストーリーの中を歩んでいるようだ。

今は裁判員制度が導入されるということで、その裏事情が書かれた本がたくさん出回るようになった。
国民は、やっと事実を知ることの出来る入り口へと立ったのだ。

この裁判員制度は、まさに国民が国家権力の奴隷にされるか、それとも歪んだ国家権力を是正していけるかの大きな戦い。
そして、冤罪を無くせるかの長い茨の道。

だが、私は、これを神の恵みと見ている。道徳教育として取り入れていくことによって、人間性の向上が見込まれ、それによって正しい見つめ方が出来る人間達が増えるかもしれないという希望。それは、一所に留まることなく、多方面へと影響がもたらされていくだろう。

でも、万が一、国家権力の片棒を担ぐだけの状態となってしまったら、そのとき、人間社会は崩壊するだろう。
警察などの役所は、まさに悪の巣屈となっている。ハルマゲドンの戦いは始ったのだ。
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2007年11月18日

裁判員制度

裁判員制度が2009年5月までに施行されることになっている。だが、まだまだそれに対する国民の意識は低い。

確かに仕事を持っている人にしたら、非常に迷惑な法律である。中には、日当を支払ってもらっても、そんな額で済まない人も多いし、一日仕事を空けるだけで大きな支障を来たしてしまう人もいる。ましてや、法律の専門家でもない。

だが、私は思った。これは神の理に叶っていることかも知れないと。

今の世の中は、あまりにも混沌としている。秩序も道徳心も低下して、まさにわれ良しの世界。その中で、他人の為にボランティア精神で動ける人が、いったいどれだけいるというのだろうか?

教職に就く人々でさえ、そのほとんどは計算づくで動いている。身を挺してまで生徒の為に真剣に向き合える人間は少ない。

この裁判員制度というものは、まさに我々人間に突きつけられた挑戦状ではないだろうか。
裁く側ではあるが、裁く側こそが人としてのあり方を求められるからである。

見知らぬ人の為に真剣に見つめ、考える。その事件に関わるすべての人々の人生が否応なしに見え、そして答えを出していかねばならないのだ。それは、とても重い責任。

人を殺したから一律に終身刑、人を殴って2週間の怪我をさせたから、はい、禁固3年というわけにはいかない。
闇の部分まで詳細に見て、公平な判断をしなければならない。それは、まさに神の天秤と同じこと。

この制度を、国民はどれだけ生かすことが出来るのだろうか?
道徳教育としても、この裁判員制度は大きな意義を成す。それを生かすことの出来た学校は、きっと素晴らしい教育の種を撒けることだろう。
posted by ミューシャ at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

安倍晋三

月刊現代11月号に、安倍晋三前首相についての記事が掲載されている。
安倍晋三の友人が書いた、彼の350日の苦悩。そして、田原総一郎の書いた、安倍晋三の功績。

もちろん、彼を批判するだけしか脳のない立花隆の書いたものも載っているが。

まさに、敵は本能寺にあり。

公務員制度改革という誰もが手をつけられなかったことをやり、安倍・塩崎コンビが環境問題で決裂していた欧米を取りまとめて世界の危機を救うという方向性を築いた。
この他にも、多くの功績がある。安倍総理であったからこそ出来得たこと。

だが、足を引っ張るのは野党よりも自民党内の人間達であった。もし、選挙で勝っていれば、彼らも大人しかっただろう。
その選挙で答えを出したのは、国民の責任。マスコミに煽動され、何も核心を見ようとはせずに、ただ面白がって批判するだけに成り下がっていた国民の責任。

安倍晋三という素晴らしい政治家を失った日本の損失は大きい。
彼の辞任の仕方についてとやかく言われているが、選挙後に新しく任命した側近たちが、あれほどまでの安倍落しのために足を引っ張っていたのでは、もはや何も出来ない。
政治家として何も出来ないし、全てが停滞してしまうという状況に苦しんだ結果だと思う。
そして、事実、もし彼が続投していたとしても、余計に混沌としていっただろう。
まさに、誰も手助けをしない、側近は足を引っ張る状況。改革について話し合い、共に動ける人々も遠ざけられてしまった。
これで、何をやれというのだろうか。

彼の、決断は勇断であった。
私は、そう思う。

本当の政治家としての政治家、安倍晋三。彼が、やがて再びその力を発揮出来ることを願っているし、期待もしている。
そして、いつか、国民達も分かるときが来るだろう。彼の行った偉業を。
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2007年08月08日

政治家達の顔・裏心

7日、第167回臨時国会が開会された。そして、自民党内から安倍首相へ公然と退陣要求の発言が相次いだ。

その様子を見ていると、自民党員なのに、まるで野党と同じではないかと思ってしまう。
本当に党のことを考え、思っての思索ではなく、ただ単に私利私欲が絡んでいたり、個人的な腹いせからの発言であったり、はたまた派閥復活の古い自民党体質に戻そうとするような動き。

これでは、益々、国民の自民党離れが進むのではないだろうか。本来あるべき姿は批判するのではなく、一致団結して良い方向性を模索することであり、山済みにされている諸問題を片付けて行く事である。
同じ党内での足の引っ張り合いこそ、国民の税金の無駄遣いとしか言いようがない。

また、民主党も相変わらず実力が備わっていない。まず、やり始めたことといったら、一円から領収書をというもの。そんなことより、もっとやらなきゃならない大きな問題があるというのに。目線が低すぎ。
それから、イラクから復興支援を行っている自衛隊の撤退? 簡単に決めなさんな。世界情勢や、本当に必要であることを見極めて欲しい。
まさに、民主党のやりはじめたことは停滞をもたらしているだけ。

本当に、見ていて歯がゆい政界である。だいたい、政治のこと、経済のことを全く分からない人間が投票するということにも、もしかしたら問題があるのかも知れないし、メディア側の操作に乗せられてしまうことも問題なのかも知れない。

ただ、言えることは、今の自民党内には安倍首相に代わるべき人材はいないし、彼ほど迅速に物事に対処出来る人物もいない。
そして、民主党の小沢は自民党の古い体質を体に染み込ませた人間であるということだけは確かなことだと思う。

安倍晋三という、希有の逸材を潰してはならない。
posted by ミューシャ at 00:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする

2007年08月07日

原爆投下は人体実験

米軍による日本への原爆投下の真相について、「夢の主との語らい掲示板」に書かれてある内容を読んでからというもの、ここまで国民が騙されてきたことに朝から腹だしかった。いいや、腹立たしいを通り越して、怒りが込み上げていた。

朝、起きてきた子どもに早々言った。
「あの原爆投下はアメリカによる人体実験だったんだって。長崎と広島は違う種類の原爆を落とされているし、日本は投降の準備をしていて、原爆を使われなくても降伏するつもりだったということよ。」

そうしたら、子どもはあっさりと言った。
「知っているよ。日本史で習ったから。でも、教科書には載っていないよ。先生が話してくれただけだから。」

その教師というのは、日本史の世界では結構有名な人らしい。夢見る坊やがそのまま大きくなったという感じで、全然剣のない感じの人。

でも、私は思った。去年は高校における日本史の履修問題が発覚し、全国の高校三年生が不安の中に突き落とされたが、それは意図的なことにしろ、意図的でないにしろ、日本人でありながら日本史を学ばないことの恐ろしさ、また、事実を隠蔽され、間違ったことを事実として教えられていることの恐ろしさを。

それにしても、アメリカの原爆投下による人体実験は、ナチス・ドイツのユダヤ人の人体実験と同じ残虐な行為。こういったことを許してはならないし、事実は事実としてもっとクローズアップすべきである。

そういう意味でも、安倍首相のあらゆることを正そうとしている姿勢を応援したいし、頑張ってほしい。日本の為に。
posted by ミューシャ at 20:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 世相 | 更新情報をチェックする

政界の正統派

「負けるな晋ちゃんまんじゅう」? だっただろうか。安倍総理のお饅頭が発売されるという話題がテレビから流れていた。
その姿はスーパーマンの服に身を包んだ絵で描かれていた。

ひつじさんから頂いたコメントで、政界の動きを垣間見ることが出来た。そして、ネットサーフィンをしていたら、これまた真相と思える内容を書いているブログを見つけた。
        ↓
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/04/post_ffdc.html

小泉純一郎元首相と安倍現首相。この二人が、汚れきった政界にメスを入れ、立て直しを行ってきたのである。この二人の流れを断ち切ってはならない。
安倍首相を失脚させようと、どんどん足を救うことばかりしている輩達。ネタになりそうなことを暴露することばかりに神経を傾けている反対勢力に、日本を良くすることなど出来ない。自分達の利益ばかりを追求する汚れきった連中。

私は、安倍首相を応援するし、「美しい国 日本」を名実ともに実現してくれることを願う。そして、もちろん自分自身も「美しい国 日本」に相応しい日本人となりたい。

「美しい国 日本」
なんと、素晴らしい響きなのだろうか。
posted by ミューシャ at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 世相 | 更新情報をチェックする