悲しい話しを聞くたびに、心は途轍もなくやるせなくなる。
この暑いのに上下共に長袖。なぜ?と下の子は聞いた。その子は見せた。無数のリストカットの跡を。
仮に、その子をAと呼ぼう。同じ中学校出身だが、別のクラスだったためにそれほど話した事はなかったという。Aのいたクラスは荒れていた。カツアゲなどをよくする女子の不良グループが幅を利かせていた。
ある時、その不良グループの言動があまりにも酷いので、見るに見かねてAは注意した。そこから、虐めが始った。クラスのほとんどの子はわが身の保身のために不良グループ寄りとなり、担任の女教師までもがそのグループのかたを持って、Aが酷い虐めを受けていても見て見ぬふりだったという。
そんな中で、Aはリストカットに走ったのだ。誰にも言えない苦しみの中で。そして、その傷跡だけが残り続ける。
私は、親はどうしていたのだろうかと、わが子に尋ねた。子どもは言う。「小学生ならまだ言えるだろうけれど、中学生ともなると虐められていることなんてそうそう親には言えないと思うよ。それに、母親が共働きだったら言えないしね。」と。
不良グループの中心にいた二人の子は、2学年まではわが子と同じクラスで態度は普通だったと言う。
それについてもこう言っていた。「担任の先生がしっかりしていたし、そのうちの一人は先生のお気に入りで特別扱いだったから、どちらかというと良い子を演じていたけどね。」と。
あまりにも指導能力不足の教師が多い。目の前で虐めが起きていても助けない。自分の生徒であるにもかかわらず、ただ、不良の子が怖いからと見殺しにする。
こんなのが教師をやっていていいのか?まさに、殺人幇助罪と同じではないか。
また、中心メンバーのもう一人の子は小学生の時には問題児で、学校再建のために派遣されてきた女教師の下で3年間教育を受けたが、その子も特別扱いでだいぶ甘やかされていた。そして、リストカットを蔓延させた教師でもある。
教師とはなんと罪深いものであろうか。覚悟のない人間は教師になるべきではない。能力のない人間は教師になるべきではない。深く暖かな心を持たない人間は教師になるべきではない。
教師を指導する専門家が必要だ。そして、生徒と教師の調整を図る機関も必要。
過酷なサバイバルの中を幼くして生き抜いてこなければならなかった子ども達はこの先、どうなるのだろうか。
教育現場の腐敗。教師の無能力、無気力。犠牲になるのは、いつだって子ども達なのだ。
2008年07月02日
2008年06月12日
天の恵みという花
秋葉原無差別殺人事件の犯人。彼もまた、学校と家庭教育の被害者。否、今の世の中の仕組みの犠牲者とも言えるのではないだろうか。
教育熱心な親の元で育てられ、優秀な子として高校へ入るまで見られていた。県内でも有数の進学校へ入学。そこから、「こんなはずじゃない」という思いの世界へと向かったようだ。成績も360人中300番ぐらいだったという。それでも、世間全体から見れば出来る子ではあるが、その高校の中においては出来ない子という認識に変ってしまう。
確かに高校というものは中学校までとは違う。より広い範囲から集まってきて、最初は同じようなレベルでも、差は恐ろしいほどまでに広がってしまう。
特にレベルが高い高校ほどその差は激しいのではないだろうか。そして、その学校のレベルに応じた最低限の点数を取っていないと否応なしに進級できないという子も出てきてしまい、そういう子の中には学校を止めてしまう子もいるという。
子どもには幾つかのパターンがあるが、その一つ、いつもお山の大将でいたい子。トップにいることでしか自分を信じられない子は、少しランクを下げた学校の方が伸びる可能性があったりもする。だから、この犯人のように「こんなはずじゃなかった」という状況は、かえって伸びる可能性の芽を摘み取ってしまうことにもなる。
そして、伸び方というのも人それぞれによって違う。中学校までぐーんと伸びる子、あるいは中学校まではそれほどでもなかったのに高校へ入ってから目ざましい伸び方をする子。
それは、親が子どもの性格や性質をきちんと把握して導いてあげなければならないことではないだろうか。
私の上の子は、はやりトップレベルの高校へと進学し、常に10番以内の成績を保持していた。しばしば3番以内ということもあったし、教科によってはトップというものもあった。
だが、最初からその位置にいたのではない。学年が上がるにつれ、どんどん伸びて行った。
子どもの場合、ライバル意識というものを全く持たない子であったため、いつもマイペース。まったくガリ勉ということもなく、どちらかというとそれほど勉強しない子であった。ただ、読書は好きで本ばかり読んでいた。とは言っても、コミックとかSFものとか、なんだかよく分からないものが多かったのだが。
また、他者の優れたところを見ると、「すごいなー、自分とは違う」という感想をよく抱く子でもあった。この点については、私は感心していたことでもある。
他者の長所を見つけられ、それを素直に素晴らしいと認められるということは、それだけ良いものを吸収できるということに繋がると思っているからだ。そして、他者の悪口を言うということもない。まあ、この二つについては下の子も同じなのであるが。
また、高校を選ぶ時にはオープンキャンパスを行っている学校へは訪れ、それを行っていない学校へは、自分で個人的に見学させて欲しいと電話で頼んで見に行き、その上で自分の行きたい学校を決めた。
だから、当初、親が薦めていた学校とは違うところにしたわけだが、それはそれでいいと思っていたし、敢えて何も強要はしなかった。本人の意志と感覚が一番大切なことだからだ。県内でも有数といわれる高校は2、3校はあるし、それぞれタイプや雰囲気は違う。親の見方と子どもの見方が違うこともある。そして、子どもが自分で選んだものであるなら、最後まで責任を持つだろうと。
また、塾は中学校から行かせた。小学校までは友人関係と、自分のやりたいこと(正しいことであるなら)を思う存分させるのが一番の教育だと考えていたからである。
そして、いろいろなところへ連れて行き、様々な世界、様々な人間を見せることを極力していた。
私も数多くの親子を見てきたが、やはり子どもの頃にはやりたいことを思いっきりやらせ、いろいろな世界や場所を見せてきた家庭の子どもは何の問題もなく優秀な子に育っているケースが多い。
その反対に、まさに教育モンスターの典型ともいえる親の元で育てられた子は、途中までは詰め込み式で点数が取れていても、ある時期からぽしゃってしまうケースが多い。そして、そういう親に限って子どもが良い成績をとっているときには自慢ばかりしているのである。まさに、親の虚栄の為の装飾品としての存在。実に悲しむべき状態である。
ある親に、こんな人がいた。最初は自慢話ばかりしていたのが、大学受験で何度も失敗し、もう見込みがないと分かるや否や、それまでちやほやしていた態度が一変して、その子をゴミ呼ばわりし始めたのである。その子は、その後、軽い精神疾患を持つようになった。
親の身勝手な虚栄心ほど恐ろしいものはない。
そういう意味で、下の子に関しては、まさに覚悟をさせられた。ファッションと他者の目であるが。
とにかく、奇妙奇天烈な服装を考える子で、おかしいとアドバイスをすれば、それが気に触りプイッとする。たまに、変じゃない?と聞いてくるから、やっと聞く気になたかと思えば、やはり変だというと怒る。
まあ、そんな格好で外へ出歩くものだから、親は冷や汗もの。本人も、人から白い目で見られたとか言って帰ってくることもしばしば。
そこで、もう、勝手にしなさいと突き放し、近所の人がなんと言おうが、どんな目で見ようが、悪いことをしているわけではないのだから堂々としていればいいわと開き直った。
さあ、今はどうかというと、誰もが認めるファッションセンスの良さ。いつの間に〜?
高校ではこんなことをした。他のクラスの男の子で顔はいいのだけれどセンスが酷い為に、全然モテていなかったという。そこで、わが子はちょっといじればきっとモテるようになるだろうと思い、さっそく取り掛かり始めた。
その子も、「○○○(子どもの名)はセンスがいいから、言うとおりにするよ。」と、指図されるままにどんどん変えていったという。
そこで、少しずつ人気が出てきたので、もう、これでいだろうと、その男の子を変えるのに飽きて暫く遠ざかっていた。
が、が、が、ある時、その子のクラスにナルシストがいるという噂が耳に入ってきたので、どんな子だろうと見に行ったという。すると、なんと、あの男の子ではないか!
わが子曰く、「自分が言ったところで止めとけばいいものを、調子に乗って勝手にエスカレートさせちゃって。せっかく、モテるようにしてあげたのに。」
私曰く、「可哀想だから、一言言ってあげたら?」
わが子 「もう、今さら何言っても無駄だよ。ああなるっていうことは、そういうどうしようもない自惚れをもともと持っていたということかだからね。面白いから、静観しているわ。」
そして、今は、電車の中で見かけた他校へ通う男子学生が素質がありそうだからと、モテるように動き始めている。いったい、あの子はなんなのだろうか。まあ、「人生、楽しく生きなければ損。」まさに、そのフレーズを口ばらせてしまう不思議な子である。頑張ってくれたまえ。
ということで、親の世間体などということは実に馬鹿らしいことであり、他者の目を気にしていたら子どもは本来与えられた天の恵みという花を思う存分開花させることが出来ないということである。
また、子育てをしてきた今、シュタイナーの教育についての書を読むと、彼の見解の正しさ、洞察力の素晴らしさ、霊的な光というものをつくづく理解させられるのである。彼の見解こそ、今の教育現場に希望をもたらすものであるのではないだろうか。
教育熱心な親の元で育てられ、優秀な子として高校へ入るまで見られていた。県内でも有数の進学校へ入学。そこから、「こんなはずじゃない」という思いの世界へと向かったようだ。成績も360人中300番ぐらいだったという。それでも、世間全体から見れば出来る子ではあるが、その高校の中においては出来ない子という認識に変ってしまう。
確かに高校というものは中学校までとは違う。より広い範囲から集まってきて、最初は同じようなレベルでも、差は恐ろしいほどまでに広がってしまう。
特にレベルが高い高校ほどその差は激しいのではないだろうか。そして、その学校のレベルに応じた最低限の点数を取っていないと否応なしに進級できないという子も出てきてしまい、そういう子の中には学校を止めてしまう子もいるという。
子どもには幾つかのパターンがあるが、その一つ、いつもお山の大将でいたい子。トップにいることでしか自分を信じられない子は、少しランクを下げた学校の方が伸びる可能性があったりもする。だから、この犯人のように「こんなはずじゃなかった」という状況は、かえって伸びる可能性の芽を摘み取ってしまうことにもなる。
そして、伸び方というのも人それぞれによって違う。中学校までぐーんと伸びる子、あるいは中学校まではそれほどでもなかったのに高校へ入ってから目ざましい伸び方をする子。
それは、親が子どもの性格や性質をきちんと把握して導いてあげなければならないことではないだろうか。
私の上の子は、はやりトップレベルの高校へと進学し、常に10番以内の成績を保持していた。しばしば3番以内ということもあったし、教科によってはトップというものもあった。
だが、最初からその位置にいたのではない。学年が上がるにつれ、どんどん伸びて行った。
子どもの場合、ライバル意識というものを全く持たない子であったため、いつもマイペース。まったくガリ勉ということもなく、どちらかというとそれほど勉強しない子であった。ただ、読書は好きで本ばかり読んでいた。とは言っても、コミックとかSFものとか、なんだかよく分からないものが多かったのだが。
また、他者の優れたところを見ると、「すごいなー、自分とは違う」という感想をよく抱く子でもあった。この点については、私は感心していたことでもある。
他者の長所を見つけられ、それを素直に素晴らしいと認められるということは、それだけ良いものを吸収できるということに繋がると思っているからだ。そして、他者の悪口を言うということもない。まあ、この二つについては下の子も同じなのであるが。
また、高校を選ぶ時にはオープンキャンパスを行っている学校へは訪れ、それを行っていない学校へは、自分で個人的に見学させて欲しいと電話で頼んで見に行き、その上で自分の行きたい学校を決めた。
だから、当初、親が薦めていた学校とは違うところにしたわけだが、それはそれでいいと思っていたし、敢えて何も強要はしなかった。本人の意志と感覚が一番大切なことだからだ。県内でも有数といわれる高校は2、3校はあるし、それぞれタイプや雰囲気は違う。親の見方と子どもの見方が違うこともある。そして、子どもが自分で選んだものであるなら、最後まで責任を持つだろうと。
また、塾は中学校から行かせた。小学校までは友人関係と、自分のやりたいこと(正しいことであるなら)を思う存分させるのが一番の教育だと考えていたからである。
そして、いろいろなところへ連れて行き、様々な世界、様々な人間を見せることを極力していた。
私も数多くの親子を見てきたが、やはり子どもの頃にはやりたいことを思いっきりやらせ、いろいろな世界や場所を見せてきた家庭の子どもは何の問題もなく優秀な子に育っているケースが多い。
その反対に、まさに教育モンスターの典型ともいえる親の元で育てられた子は、途中までは詰め込み式で点数が取れていても、ある時期からぽしゃってしまうケースが多い。そして、そういう親に限って子どもが良い成績をとっているときには自慢ばかりしているのである。まさに、親の虚栄の為の装飾品としての存在。実に悲しむべき状態である。
ある親に、こんな人がいた。最初は自慢話ばかりしていたのが、大学受験で何度も失敗し、もう見込みがないと分かるや否や、それまでちやほやしていた態度が一変して、その子をゴミ呼ばわりし始めたのである。その子は、その後、軽い精神疾患を持つようになった。
親の身勝手な虚栄心ほど恐ろしいものはない。
そういう意味で、下の子に関しては、まさに覚悟をさせられた。ファッションと他者の目であるが。
とにかく、奇妙奇天烈な服装を考える子で、おかしいとアドバイスをすれば、それが気に触りプイッとする。たまに、変じゃない?と聞いてくるから、やっと聞く気になたかと思えば、やはり変だというと怒る。
まあ、そんな格好で外へ出歩くものだから、親は冷や汗もの。本人も、人から白い目で見られたとか言って帰ってくることもしばしば。
そこで、もう、勝手にしなさいと突き放し、近所の人がなんと言おうが、どんな目で見ようが、悪いことをしているわけではないのだから堂々としていればいいわと開き直った。
さあ、今はどうかというと、誰もが認めるファッションセンスの良さ。いつの間に〜?
高校ではこんなことをした。他のクラスの男の子で顔はいいのだけれどセンスが酷い為に、全然モテていなかったという。そこで、わが子はちょっといじればきっとモテるようになるだろうと思い、さっそく取り掛かり始めた。
その子も、「○○○(子どもの名)はセンスがいいから、言うとおりにするよ。」と、指図されるままにどんどん変えていったという。
そこで、少しずつ人気が出てきたので、もう、これでいだろうと、その男の子を変えるのに飽きて暫く遠ざかっていた。
が、が、が、ある時、その子のクラスにナルシストがいるという噂が耳に入ってきたので、どんな子だろうと見に行ったという。すると、なんと、あの男の子ではないか!
わが子曰く、「自分が言ったところで止めとけばいいものを、調子に乗って勝手にエスカレートさせちゃって。せっかく、モテるようにしてあげたのに。」
私曰く、「可哀想だから、一言言ってあげたら?」
わが子 「もう、今さら何言っても無駄だよ。ああなるっていうことは、そういうどうしようもない自惚れをもともと持っていたということかだからね。面白いから、静観しているわ。」
そして、今は、電車の中で見かけた他校へ通う男子学生が素質がありそうだからと、モテるように動き始めている。いったい、あの子はなんなのだろうか。まあ、「人生、楽しく生きなければ損。」まさに、そのフレーズを口ばらせてしまう不思議な子である。頑張ってくれたまえ。
ということで、親の世間体などということは実に馬鹿らしいことであり、他者の目を気にしていたら子どもは本来与えられた天の恵みという花を思う存分開花させることが出来ないということである。
また、子育てをしてきた今、シュタイナーの教育についての書を読むと、彼の見解の正しさ、洞察力の素晴らしさ、霊的な光というものをつくづく理解させられるのである。彼の見解こそ、今の教育現場に希望をもたらすものであるのではないだろうか。
2008年06月09日
危険な世界に住む子ども達
子どもの友人。別の高校へ進学した子。どうしてこう次から次へと、あまりにも危険な男女関係を築いてしまう子供たちがいるのだろうか。
今度は、相手は大学生とのことだ。卒業アルバムを見て、気に入った子のメールアドレスを聞き、そしてコンタクトを取ってきたという。
誰がそれを教えたのか尋ねても、決して教えてはくれないそうである。
そして、とうとうとんでもない関係にまで進んでしまったようだ。友人はその男のことを信じきっていて、もはやなんの忠告も耳に入らないらしい。
話しを聞く限りでは、完璧な遊び人。今までに同じようなことを繰り返してきたように見受けられる。
高校生になったばかりの子ども達。つい、この間までは親の強い保護下にあり、そして、義務教育というものから解き放たれて起こる心の動き。
シュタイナーは、14、15歳ぐらいの子どもに向き合うときには、自分の受けた教育からでは、子ども理解することが出来ないという。だから、どうしても、これまで以上に教師は、自分の良心をきびしく吟味しなければならないと語るのだ。
我々が考えている以上に、現代の子ども達は闇の中に置き去りにされてしまっているようだ。
教師は生徒と同じレベルでの感情しか持てず、それが子ども達から二度と尊敬を得られない状態を作り、また、子ども達は気軽に相談できる人間が身の周りにいない。相談できるのは、メル友となり、軽く浅い世界の中で欲望と戸惑いだけが大きな足音を立てて突き進んで行く。
私はそういった話しを聞いても何が出来るのだろう?その子の親に忠告?でも、その時点で、子どもたちの友人関係は解消されてしまうだろう。
ただ、自分の子どもを通してその子に注意を促すしか出来ない。なんという、もどかしさ。
教育現場さえしっかりしたものであったなら、そして、親がその子を正しく見つめ、正しく導いてきたなら起きないであろうこと。
想像以上に現代の子ども達の性に対する認識は幼く、危険なものとなっている。そして、欲望のままに牙を剥く未熟すぎる精神の男達の増加。
教育、教育、教育。正しい教育が成されてこなかった結果。歪んだ日本の教育現場がもたらした結果。
今度は、相手は大学生とのことだ。卒業アルバムを見て、気に入った子のメールアドレスを聞き、そしてコンタクトを取ってきたという。
誰がそれを教えたのか尋ねても、決して教えてはくれないそうである。
そして、とうとうとんでもない関係にまで進んでしまったようだ。友人はその男のことを信じきっていて、もはやなんの忠告も耳に入らないらしい。
話しを聞く限りでは、完璧な遊び人。今までに同じようなことを繰り返してきたように見受けられる。
高校生になったばかりの子ども達。つい、この間までは親の強い保護下にあり、そして、義務教育というものから解き放たれて起こる心の動き。
シュタイナーは、14、15歳ぐらいの子どもに向き合うときには、自分の受けた教育からでは、子ども理解することが出来ないという。だから、どうしても、これまで以上に教師は、自分の良心をきびしく吟味しなければならないと語るのだ。
我々が考えている以上に、現代の子ども達は闇の中に置き去りにされてしまっているようだ。
教師は生徒と同じレベルでの感情しか持てず、それが子ども達から二度と尊敬を得られない状態を作り、また、子ども達は気軽に相談できる人間が身の周りにいない。相談できるのは、メル友となり、軽く浅い世界の中で欲望と戸惑いだけが大きな足音を立てて突き進んで行く。
私はそういった話しを聞いても何が出来るのだろう?その子の親に忠告?でも、その時点で、子どもたちの友人関係は解消されてしまうだろう。
ただ、自分の子どもを通してその子に注意を促すしか出来ない。なんという、もどかしさ。
教育現場さえしっかりしたものであったなら、そして、親がその子を正しく見つめ、正しく導いてきたなら起きないであろうこと。
想像以上に現代の子ども達の性に対する認識は幼く、危険なものとなっている。そして、欲望のままに牙を剥く未熟すぎる精神の男達の増加。
教育、教育、教育。正しい教育が成されてこなかった結果。歪んだ日本の教育現場がもたらした結果。
2008年05月27日
人智学=教育学
シュタイナーの翻訳者である高橋巌は、「十四歳からのシュタイナー教育」の解説の中で、次のように述べている。
自由ヴァルドルフ学校設立のころ、シュタイナーは、「社会問題の中でもっとも緊急の課題は教育問題であり、教育問題の中でもっとも緊急な課題は教師の養成である」と語ったが、現在のわれわれは、HIVに対するときとまったく同じように、この緊急の課題に対して、解決すべき方策を何ももたずにいる。本書は、76年後のそのようなわれわれに対して、もっとも根本的な、多分唯一有効な提言を行っている。わが国の各地で活躍している「人類進化の前衛たち」に、この呼び声がとどくことを、願わずにいられない。
この書が日本で出版されたのは1997年のことである。そして、やっと教育改革の声が上がってきたが、なかなか進展してはいない。
教育改革を最重要課題にしていた前安倍総理は、くだらない個人の利益しか考えていない政治家達と、目先のことしか考えられない一部の国民達に追い詰められ辞任。再び火が燃えるのはいつのことだろうか。
人智学は一つの教育学だと、シュタイナーは言う。
「人智学は、教育実践の領分まで及ぶときこそ、本来のありようを示すのです。教育学としての人智学を通して他の人の魂の中に働きかけるもの、それはまさに、自分の魂の真相から取り出してきたものなのです。すべての人の中にあるどんな可能性も、教育的に方向づけることができますが、そのためにも、人智学による人間認識は教育学になるのです。」
――――――――――――――――
自由ヴァルドルフ学校設立のころ、シュタイナーは、「社会問題の中でもっとも緊急の課題は教育問題であり、教育問題の中でもっとも緊急な課題は教師の養成である」と語ったが、現在のわれわれは、HIVに対するときとまったく同じように、この緊急の課題に対して、解決すべき方策を何ももたずにいる。本書は、76年後のそのようなわれわれに対して、もっとも根本的な、多分唯一有効な提言を行っている。わが国の各地で活躍している「人類進化の前衛たち」に、この呼び声がとどくことを、願わずにいられない。
――――――――――――――――
この書が日本で出版されたのは1997年のことである。そして、やっと教育改革の声が上がってきたが、なかなか進展してはいない。
教育改革を最重要課題にしていた前安倍総理は、くだらない個人の利益しか考えていない政治家達と、目先のことしか考えられない一部の国民達に追い詰められ辞任。再び火が燃えるのはいつのことだろうか。
人智学は一つの教育学だと、シュタイナーは言う。
「人智学は、教育実践の領分まで及ぶときこそ、本来のありようを示すのです。教育学としての人智学を通して他の人の魂の中に働きかけるもの、それはまさに、自分の魂の真相から取り出してきたものなのです。すべての人の中にあるどんな可能性も、教育的に方向づけることができますが、そのためにも、人智学による人間認識は教育学になるのです。」
2008年05月26日
人間認識の形成
最近、このようなことがあった。
下の子が、あまりのことに動揺してバスを乗り間違えてしまったと言って帰ってきた。
別の高校へ進学した中学時代の同級生に駅前で会ったというのだが、その変りように酷く驚嘆したらしい。
「昨日、あそこに居る男と寝たんだ。」
指差す方向を見ると、20歳ぐらいの金髪に染めたニートの様なグループがたむろしていた。その中の一人だったという。
私も小学校の頃からその子を知っているが、最後に見た中学3年生までは素直ないい子だった。そして、親御さんも二人ともおおらかな子ども思いの人たち。
しかし問題は、共働きの為、夜の8時ぐらいまで親が帰ってこない事は度々あったようで、しかも、アダルトビデオや雑誌がすぐ見つかるようなところに置いてあったらしく、18歳以下禁止のものをすでに小学生の頃から見ていたらしい。
また、子ども思いと言っても、それが履き違えられた子ども思い。放任主義をとっていたというが、女の子だったら勉強なんかしなくてもいいし、嫌だったら高校に行かなくてもいいということを常日頃から言っていたようで、子どもが一人で夜中の1時、2時にビデオショップやコンビに行くのを許していたという。
性の乱れで傷つき、ダメージが大きいのは女の方。精神年齢は幼いのに、小学生の頃からアダルト関連のものに触れ、身体だけが成熟し、そして、この先どうなって行くのだろう。
わが子は言っていた。「今度一緒に遊ぼうと誘われたけれど、もう、まったく会話が噛みあわない。まだ卒業して二ヵ月しか経っていないのに、人って変れば変るものだね。」と。
このような意味のない放任主義に走る親もいれば、お受験に目の色を変える親もいる。
ただ、問題なのは、子どもたちの心が見えていないということ。子どもたちが人間であるということを忘れてしまっているということだ。
シュタイナーは述べる。
『教育は、人間全体を活気づけ、感情にも意志にも火をともすことができる人間認識を形成しなければなりません。』
また、ミカエル・ハウス・シュタイナー学校の教師を勤め、その後、トロントにカナダで最初のシュタイナー学校を設立したアラン・ハワードは次のように語る。
『子どもは独立した個体であり、自分の使命を果たし、自分の人生を生きるのであって、誰の「所有物」でもないのである。私たちはこのように自分たちの子どもを見、愛することを学ばなければならない。子どもが、私たちの期待を満たすかどうかは、まったく取るに足りないことである。
私たちのなすべきことは、子どもを愛し、保護し、子どもが地上でよりよい境遇に生きることができるようにすることである。
いかなる所有も許されない。両親が子どもを所有していると考えるのは、家庭生活の災いである。この考えは両親の権利という伝統的な考えに反するが、輪廻転生の観点に立てば、まず子どもの権利を考えねばならないのである。
子どもを甘やかすべきだというのではなくて、ワーズワースがいうように「人間の父」として子どもに接すべきなのである。』
『「契約」という言葉は、結婚に結びついている神聖さやロマンティックな感情を切り離すように思われるかもしれない。両親の子どもに対する社会的、そして霊的な責任は、養育、保護、教育よりもはるかに大きなものである。
最高の愛、夫婦間と子どもへのこの人生における愛だけではなく、来世へと成長してゆく愛が問題なのである。
愛は何らかの契約によって生み出されたり、保証されたりするものではない。愛は人間の霊の自由な贈り物である。しかし、両親としての責任を担うことによって、このような契約が愛という贈り物を守り、育ててゆけるのである。このような契約が喜びの土台となる。』
『私たちは自分の運命と子どもの運命をとを結びつける。私たちの意志ではなく、霊界が子どもを地上にもたらしたのである。
それゆえ、家族を形成する目的で結ばれる婚姻は神聖なものである。男と女が子どもを持ち、子どもに可能な限り好ましい環境を与えるという目的で共に暮らすときに、婚姻は成立する。』
今やっている大河ドラマの篤姫ではないが、嫁ぐということは覚悟、女の道は一本道、という言葉がけっこうしっくりくる。
自分のことを振り返っても、とにかく独身時代に思い残すことなく納得のいく生き方をした上で初めて結婚というものを視野に入れられるものだと思っていたし、そうでなければしたくはなかった。
そして、いざ、結婚。それは、まさに覚悟だった。子どもを作り家庭を築き上げること。私にとっては酷くつまらないことのように思えていた結婚。
だが、結婚は、そんな私が引き返すことを許さないものだった。先を見るしかない。だから、覚悟なくして結婚は出来ない。
不思議なもので、二人の子ども達は、そんな私の考え方と近い。
やりたい仕事がある。でも、結婚は子どもという神から預けられた尊い命を正しく育むこと。それを軸に置くことこそが、親としての生きる道。
下の子が、あまりのことに動揺してバスを乗り間違えてしまったと言って帰ってきた。
別の高校へ進学した中学時代の同級生に駅前で会ったというのだが、その変りように酷く驚嘆したらしい。
「昨日、あそこに居る男と寝たんだ。」
指差す方向を見ると、20歳ぐらいの金髪に染めたニートの様なグループがたむろしていた。その中の一人だったという。
私も小学校の頃からその子を知っているが、最後に見た中学3年生までは素直ないい子だった。そして、親御さんも二人ともおおらかな子ども思いの人たち。
しかし問題は、共働きの為、夜の8時ぐらいまで親が帰ってこない事は度々あったようで、しかも、アダルトビデオや雑誌がすぐ見つかるようなところに置いてあったらしく、18歳以下禁止のものをすでに小学生の頃から見ていたらしい。
また、子ども思いと言っても、それが履き違えられた子ども思い。放任主義をとっていたというが、女の子だったら勉強なんかしなくてもいいし、嫌だったら高校に行かなくてもいいということを常日頃から言っていたようで、子どもが一人で夜中の1時、2時にビデオショップやコンビに行くのを許していたという。
性の乱れで傷つき、ダメージが大きいのは女の方。精神年齢は幼いのに、小学生の頃からアダルト関連のものに触れ、身体だけが成熟し、そして、この先どうなって行くのだろう。
わが子は言っていた。「今度一緒に遊ぼうと誘われたけれど、もう、まったく会話が噛みあわない。まだ卒業して二ヵ月しか経っていないのに、人って変れば変るものだね。」と。
このような意味のない放任主義に走る親もいれば、お受験に目の色を変える親もいる。
ただ、問題なのは、子どもたちの心が見えていないということ。子どもたちが人間であるということを忘れてしまっているということだ。
シュタイナーは述べる。
『教育は、人間全体を活気づけ、感情にも意志にも火をともすことができる人間認識を形成しなければなりません。』
また、ミカエル・ハウス・シュタイナー学校の教師を勤め、その後、トロントにカナダで最初のシュタイナー学校を設立したアラン・ハワードは次のように語る。
『子どもは独立した個体であり、自分の使命を果たし、自分の人生を生きるのであって、誰の「所有物」でもないのである。私たちはこのように自分たちの子どもを見、愛することを学ばなければならない。子どもが、私たちの期待を満たすかどうかは、まったく取るに足りないことである。
私たちのなすべきことは、子どもを愛し、保護し、子どもが地上でよりよい境遇に生きることができるようにすることである。
いかなる所有も許されない。両親が子どもを所有していると考えるのは、家庭生活の災いである。この考えは両親の権利という伝統的な考えに反するが、輪廻転生の観点に立てば、まず子どもの権利を考えねばならないのである。
子どもを甘やかすべきだというのではなくて、ワーズワースがいうように「人間の父」として子どもに接すべきなのである。』
『「契約」という言葉は、結婚に結びついている神聖さやロマンティックな感情を切り離すように思われるかもしれない。両親の子どもに対する社会的、そして霊的な責任は、養育、保護、教育よりもはるかに大きなものである。
最高の愛、夫婦間と子どもへのこの人生における愛だけではなく、来世へと成長してゆく愛が問題なのである。
愛は何らかの契約によって生み出されたり、保証されたりするものではない。愛は人間の霊の自由な贈り物である。しかし、両親としての責任を担うことによって、このような契約が愛という贈り物を守り、育ててゆけるのである。このような契約が喜びの土台となる。』
『私たちは自分の運命と子どもの運命をとを結びつける。私たちの意志ではなく、霊界が子どもを地上にもたらしたのである。
それゆえ、家族を形成する目的で結ばれる婚姻は神聖なものである。男と女が子どもを持ち、子どもに可能な限り好ましい環境を与えるという目的で共に暮らすときに、婚姻は成立する。』
今やっている大河ドラマの篤姫ではないが、嫁ぐということは覚悟、女の道は一本道、という言葉がけっこうしっくりくる。
自分のことを振り返っても、とにかく独身時代に思い残すことなく納得のいく生き方をした上で初めて結婚というものを視野に入れられるものだと思っていたし、そうでなければしたくはなかった。
そして、いざ、結婚。それは、まさに覚悟だった。子どもを作り家庭を築き上げること。私にとっては酷くつまらないことのように思えていた結婚。
だが、結婚は、そんな私が引き返すことを許さないものだった。先を見るしかない。だから、覚悟なくして結婚は出来ない。
不思議なもので、二人の子ども達は、そんな私の考え方と近い。
やりたい仕事がある。でも、結婚は子どもという神から預けられた尊い命を正しく育むこと。それを軸に置くことこそが、親としての生きる道。
2008年05月19日
本当の教育
人間にとって教育ということがどれほど重要なものであり、また希望であるかがルドルフ・シュタイナーの見解及び実践を通して理解できる。
例えば一つの例として、彼は水頭症の子どもをあずかって教育し、その後、その子は医者になった。
ある種の時代遅れの迷信好きな人は言うだろう。霊がとり憑いていたのだろうとか、祈祷やまじないで治したのだろう。また、霊能者はそういうことが出来るのだろうと。
しかし、シュタイナーはそんな迷信じみた非医学的な人間ではない。彼は述べる。一人一人を見て、その子にあった教育をしなければならないと述べるのだ。
その子の気質に合った教育をすることが大切であり、また、本当の教師とは授業や教育活動のなかで生じることだけに限らず、いろいろな面で正しく導いていくことができ、そうなって初めて子どもの肉体的な面においても、本当に健康にかつ強壮にしていくことが出来るのだと。
日本の教育現場は混沌としている。だからこそ、本当の教師の育成が最重要課題だと思う。
「オックスフォード教育講座」 ルドルフ・シュタイナー著
非常に分かり易く纏められている本である。これもまたお薦めの一品。
今の教育現場では道徳教育・人間教育ということも行われているが、この本を読むことによって、それがいかに間違ったやり方であるかも分かる。
いろいろとブログに書きたいのだが、あまりにも多すぎるので、やはりこの本を読まれることをお薦めしたい。
さてと、すでに違う書へと入っている。もちろん、シュタイナーの本であるが。
それによると、精神が成長すれば、それに伴って試練に遭遇しなければならないという法則があるとのこと。
新たな試練がもたらされるということは、それはまさに自分の成長の証だったのだ。
がんばらなくては!
例えば一つの例として、彼は水頭症の子どもをあずかって教育し、その後、その子は医者になった。
ある種の時代遅れの迷信好きな人は言うだろう。霊がとり憑いていたのだろうとか、祈祷やまじないで治したのだろう。また、霊能者はそういうことが出来るのだろうと。
しかし、シュタイナーはそんな迷信じみた非医学的な人間ではない。彼は述べる。一人一人を見て、その子にあった教育をしなければならないと述べるのだ。
その子の気質に合った教育をすることが大切であり、また、本当の教師とは授業や教育活動のなかで生じることだけに限らず、いろいろな面で正しく導いていくことができ、そうなって初めて子どもの肉体的な面においても、本当に健康にかつ強壮にしていくことが出来るのだと。
日本の教育現場は混沌としている。だからこそ、本当の教師の育成が最重要課題だと思う。
「オックスフォード教育講座」 ルドルフ・シュタイナー著
非常に分かり易く纏められている本である。これもまたお薦めの一品。
今の教育現場では道徳教育・人間教育ということも行われているが、この本を読むことによって、それがいかに間違ったやり方であるかも分かる。
いろいろとブログに書きたいのだが、あまりにも多すぎるので、やはりこの本を読まれることをお薦めしたい。
さてと、すでに違う書へと入っている。もちろん、シュタイナーの本であるが。
それによると、精神が成長すれば、それに伴って試練に遭遇しなければならないという法則があるとのこと。
新たな試練がもたらされるということは、それはまさに自分の成長の証だったのだ。
がんばらなくては!
2008年05月18日
後遺症と人間性確立
シュタイナーは偏頭痛に関しても述べていた。
私は海外生活が始った時から偏頭痛が時々起きるようになった。それまでは頭痛とは無縁だったのに、いったいどうしたことだろうかと。
偏頭痛とはその痛みが進むと、まるでつわりの時のように匂いに敏感になり、少し動いただけで吐いてしまう。そして、頭の痛みは気がおかしくなりそうなほど痛い。もし、その時、簡単に死ねる薬があったなら、おそらく手を出してしまうかも知れない。
さて、その原因である。シュタイナーは述べる。
私たちは子どもの体内に、どんな筋肉がありどんな神経があるかを、すっかり知っております。ところが、循環系がどのように筋肉系や骨格系のなかへ働きを送り込むかは知りません。
これを理解するためには、人間の構造、すなわち人間の内部の姿についての私たちの捉え方を、芸術的な捉え方に変えなければならないのです。
そして教師たるものは子どもを芸術的に、つまり教師は芸術家として、子どもを体験することができなければなりません。すなわち教師にとっては、子どものなかにあるすべてが、内面的に躍動していなければならないのです。
ここに哲学が顔を出し、こう言うかもしれません。「だがしかし、何かを認識しようとするならば、論理的でなければならない」と。まったくその通りであります。
ですがそれは、私たちが世界と相対するとき、生み出される芸術作品は論理的でなければならない、というのと同じことでありまして、世界を自分の内部に再現できるのは、芸術的な捉え方によってのみ可能なのです。
したがって私たちは、まさにこのような芸術的な把握の仕方に習熟する必要があるのでありまして、「世界は論理をとおしてのみ把握されねばならぬ」という独断を、鵜呑みしてはなりません。
教師は自分自身の感性や表象や感情を、内面的に高度に活発化するときにのみ、次のような事実を見通すことができるようになります。
「もし私が十一才になるより以前の子どもに動力学・静力学的表象をつめこむならば、これらの表象は脳のなかにたまりたまって、脳を硬化させてしまう。その結果、脳はのちに成年期を迎えてから偏頭痛を生じるようになり、さらに後年にいたってからは硬化現象を起こす。
これに反し、もし私が十一歳になる前の子どもの歴史上のできごとを、それぞれまとまった像として与えてやり、自然の中に生育する植物をイメージとして描いてやるとするならば、その表象像は、脳のなかへ入ってはいくが、しかしそれらは神経系を通過して、肉体全体のなかへと広がっていく。このような表象は全肉体と結びつき、柔らかい筋肉系と一体となる。
私は子どものなかに生じているものを、私の側からも愛情をもって育て上げていくことになるのだ。いのちのない解剖学や生理学に頼っている限り不透明な石灰塊にすぎない子どもは、このとき透明になるのだ」と。
教師自身が自分自身の感性や表象で感情を内面的に高度に活発化いたしますと、そのとき教師には、自分の前の椅子に座っているのが何者なのか、一人の子どものなかに何が起きているのかが、ありありと見えるようになります。
あれやこれやの教育学上の原理など思い出す必要はなくなり、何を子どもに対してしなければならないかを、子ども自身が語ってくれるようになるのです。
もし不適当なことを子ども対して行いますと、子どもは椅子にもたれかかってしまい注意散漫になりますし、その反対に子どもが必要としていることをいたしますと、子どもは生き生きとしてくるものであります。
シュタイナーは教師の在り方として語っているが、それは親についても言えることなのだ。
私の父は自分の考え方・願望をそのまま頭から私に入れ込もうとしていた。さらに、彼は芸術性に欠けていた。祖母(父方)も、自分だけの思いや感情で私を押さえ込もうとしてきた。やはり、芸術性に欠けた人間であった。
情感も自由も創造性も感じられない現実的に大人が考える論理で、これはこうであるべきだと一方的に流し入れようとしていた。
しかし、母は芸術的感性の優れた人である。創造性や許容量や正義感も普通の人に比べたら格段にある人。まさに、美女と野獣。(笑)
そんな母は父のやり方について時々静止しようとしていた。「この子のような芸術肌の子にそんなことをしたら壊れてしまう。」と。
また、幼稚園の時の先生はというと、いつも眉間に皺を寄せている人で、怒ったり文句を言ったりというイメージしか残っていない。
ただ、小学校低学年の時に3年間担任だった教師は良い人間性の方であった。
そして私は、父や幼稚園の先生の前では忍耐のない落ち着きのない子であった。
だから、子どもの頃の父の教育のやり方や、幼稚園の先生のやり方が、今の偏頭痛をもたらしていたのだ。成人してから苦しめられる肉体的苦痛。
ただ、私は幼い頃から動植物を対等の命あるものとして話しかけるということをしていたし、動植物同士を会話させるということもしていた。謂わば、私の心の友人。そんな感じだった。
これについてもシュタイナーは述べている。
九歳以前の子どもの教育におきましては、人間という内面と自然という外界の間に、まだ境界が存在していないかのごとく、すべてを取り扱わなければならないのです。
このことを可能とするためには、私たちは授業をできるだけイメージ豊かに形成し、植物を人間と同じように取り扱い、植物たちをお互いに人間と同じように会話させ、太陽と月が言葉をかわすようにし、いっさいのもののなかへ、人間の持つ特性を移し入れていかなければなりません。
今日では一般に、いわゆる擬人観照法に対して極端な忌避が支配しております。しかしながら、環境世界と自分との関連において擬人観照的体験をしたことのない子どもは、後になって人間としての本質の一部に欠落が生じます。
でありますから教師は、自分自身もまた環境世界全体のなかへ、生き生きと霊と心をもって入りこんでいくことに、喜びをもっていなければなりません。そうなって初めて、子どもは自分自身の内にあるものをもちいて、教師とともに歩み進むことができるのです。
この動植物に対しての行為は、その後ずっと今でも私の中にあたたかくやわらかな感覚を残している。
そして、こういう思いというのは、私自身の子育てにおいても、子ども達に擬人観照法を自然とよく用いることとなったのである。
また、上からの圧力によって嫌な思いをしたことは、やはり子ども達にはそうしたくないという思いから避けてきたことでもある。
私自身が傷だらけになったことは、子どもたちの成育の土台となっている。そして、今度は、子ども達はさらにより良い子育てが出来るのではないだろうか。希望への連鎖は自らの手で作り出すもの。
子ども達がここまで成長してきた今、私も、再び、一人で行動し始めようか。そう、思った今日である。
さらなるパワーアップ。来週、行ってみようかな。どこへって?それは内緒。あははははは・・・・・・・・・・・。
私は海外生活が始った時から偏頭痛が時々起きるようになった。それまでは頭痛とは無縁だったのに、いったいどうしたことだろうかと。
偏頭痛とはその痛みが進むと、まるでつわりの時のように匂いに敏感になり、少し動いただけで吐いてしまう。そして、頭の痛みは気がおかしくなりそうなほど痛い。もし、その時、簡単に死ねる薬があったなら、おそらく手を出してしまうかも知れない。
さて、その原因である。シュタイナーは述べる。
――――――――――――――
私たちは子どもの体内に、どんな筋肉がありどんな神経があるかを、すっかり知っております。ところが、循環系がどのように筋肉系や骨格系のなかへ働きを送り込むかは知りません。
これを理解するためには、人間の構造、すなわち人間の内部の姿についての私たちの捉え方を、芸術的な捉え方に変えなければならないのです。
そして教師たるものは子どもを芸術的に、つまり教師は芸術家として、子どもを体験することができなければなりません。すなわち教師にとっては、子どものなかにあるすべてが、内面的に躍動していなければならないのです。
ここに哲学が顔を出し、こう言うかもしれません。「だがしかし、何かを認識しようとするならば、論理的でなければならない」と。まったくその通りであります。
ですがそれは、私たちが世界と相対するとき、生み出される芸術作品は論理的でなければならない、というのと同じことでありまして、世界を自分の内部に再現できるのは、芸術的な捉え方によってのみ可能なのです。
したがって私たちは、まさにこのような芸術的な把握の仕方に習熟する必要があるのでありまして、「世界は論理をとおしてのみ把握されねばならぬ」という独断を、鵜呑みしてはなりません。
教師は自分自身の感性や表象や感情を、内面的に高度に活発化するときにのみ、次のような事実を見通すことができるようになります。
「もし私が十一才になるより以前の子どもに動力学・静力学的表象をつめこむならば、これらの表象は脳のなかにたまりたまって、脳を硬化させてしまう。その結果、脳はのちに成年期を迎えてから偏頭痛を生じるようになり、さらに後年にいたってからは硬化現象を起こす。
これに反し、もし私が十一歳になる前の子どもの歴史上のできごとを、それぞれまとまった像として与えてやり、自然の中に生育する植物をイメージとして描いてやるとするならば、その表象像は、脳のなかへ入ってはいくが、しかしそれらは神経系を通過して、肉体全体のなかへと広がっていく。このような表象は全肉体と結びつき、柔らかい筋肉系と一体となる。
私は子どものなかに生じているものを、私の側からも愛情をもって育て上げていくことになるのだ。いのちのない解剖学や生理学に頼っている限り不透明な石灰塊にすぎない子どもは、このとき透明になるのだ」と。
教師自身が自分自身の感性や表象で感情を内面的に高度に活発化いたしますと、そのとき教師には、自分の前の椅子に座っているのが何者なのか、一人の子どものなかに何が起きているのかが、ありありと見えるようになります。
あれやこれやの教育学上の原理など思い出す必要はなくなり、何を子どもに対してしなければならないかを、子ども自身が語ってくれるようになるのです。
もし不適当なことを子ども対して行いますと、子どもは椅子にもたれかかってしまい注意散漫になりますし、その反対に子どもが必要としていることをいたしますと、子どもは生き生きとしてくるものであります。
――――――――――――――――
シュタイナーは教師の在り方として語っているが、それは親についても言えることなのだ。
私の父は自分の考え方・願望をそのまま頭から私に入れ込もうとしていた。さらに、彼は芸術性に欠けていた。祖母(父方)も、自分だけの思いや感情で私を押さえ込もうとしてきた。やはり、芸術性に欠けた人間であった。
情感も自由も創造性も感じられない現実的に大人が考える論理で、これはこうであるべきだと一方的に流し入れようとしていた。
しかし、母は芸術的感性の優れた人である。創造性や許容量や正義感も普通の人に比べたら格段にある人。まさに、美女と野獣。(笑)
そんな母は父のやり方について時々静止しようとしていた。「この子のような芸術肌の子にそんなことをしたら壊れてしまう。」と。
また、幼稚園の時の先生はというと、いつも眉間に皺を寄せている人で、怒ったり文句を言ったりというイメージしか残っていない。
ただ、小学校低学年の時に3年間担任だった教師は良い人間性の方であった。
そして私は、父や幼稚園の先生の前では忍耐のない落ち着きのない子であった。
だから、子どもの頃の父の教育のやり方や、幼稚園の先生のやり方が、今の偏頭痛をもたらしていたのだ。成人してから苦しめられる肉体的苦痛。
ただ、私は幼い頃から動植物を対等の命あるものとして話しかけるということをしていたし、動植物同士を会話させるということもしていた。謂わば、私の心の友人。そんな感じだった。
これについてもシュタイナーは述べている。
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九歳以前の子どもの教育におきましては、人間という内面と自然という外界の間に、まだ境界が存在していないかのごとく、すべてを取り扱わなければならないのです。
このことを可能とするためには、私たちは授業をできるだけイメージ豊かに形成し、植物を人間と同じように取り扱い、植物たちをお互いに人間と同じように会話させ、太陽と月が言葉をかわすようにし、いっさいのもののなかへ、人間の持つ特性を移し入れていかなければなりません。
今日では一般に、いわゆる擬人観照法に対して極端な忌避が支配しております。しかしながら、環境世界と自分との関連において擬人観照的体験をしたことのない子どもは、後になって人間としての本質の一部に欠落が生じます。
でありますから教師は、自分自身もまた環境世界全体のなかへ、生き生きと霊と心をもって入りこんでいくことに、喜びをもっていなければなりません。そうなって初めて、子どもは自分自身の内にあるものをもちいて、教師とともに歩み進むことができるのです。
―――――――――――――――
この動植物に対しての行為は、その後ずっと今でも私の中にあたたかくやわらかな感覚を残している。
そして、こういう思いというのは、私自身の子育てにおいても、子ども達に擬人観照法を自然とよく用いることとなったのである。
また、上からの圧力によって嫌な思いをしたことは、やはり子ども達にはそうしたくないという思いから避けてきたことでもある。
私自身が傷だらけになったことは、子どもたちの成育の土台となっている。そして、今度は、子ども達はさらにより良い子育てが出来るのではないだろうか。希望への連鎖は自らの手で作り出すもの。
子ども達がここまで成長してきた今、私も、再び、一人で行動し始めようか。そう、思った今日である。
さらなるパワーアップ。来週、行ってみようかな。どこへって?それは内緒。あははははは・・・・・・・・・・・。
2008年05月12日
言葉=霊性=行為
ルドルフ・シュタイナーは、太古の人類は「はじめに言葉ありき」と言ったと述べる。
つまり、その当時の人間は、言葉の波動の上に乗って霊性が進んでいくということに対して、生きた感情を持っていたからだと。
そして、霊性とは常に行為であると語っているのだ。
生きた感情を持てれるということ。だからこその言葉。そして、言葉は行為である。
誰かの発した言葉によって心の浮き沈みを味わうことは、誰でもが経験していること。そして、同じ言葉でも、それを言う人によって差がある。
反対に同一人物が発した言葉でも、受ける側によって差がある。
シュタイナーは、子どもは感覚器官そのものだと語る。
「おとなのそばで成長していく子どもは、教育者の持つこういうごくかすかな物質的な状態をも、模倣いたします。子どもは、おとなの表情や、おとなが不安げに話したり、不安げに感じたりする、その様子を感じとって、すっかりそれに自分を合わせてしまいます。」
このように、おとなと子ども間には、量ることのできない相互関係が生じるのだと。
「おとなが心配ごとを持っていますと、心意現象そのものが直接に外に現れることはなくても、それは肉体的な状態に影響を及ぼし、この影響が外に現れます。
模倣者である子どもは、この肉体上に現れた結果を感知し、ちょうど目が光の作用で満たされるのと同じように、自分の内部を、この知覚したものそっくりに形成するのです。(略)その子どもの全体機構をとおして、おとなの心意的な体験の肉体的な表現が、成長していきます。」
さらに、その影響がどのような重大なことを生じさせるのか例をあげての説明が続く。
「不安をもつおとなの青白い長い顔を、子どもは受けとります。しかし、心痛の心意的内容を自分の中に受け入れることは、子どもにはできません。
心痛の物質的な結果だけを、模倣するのです。その結果として、この子どもにおきましては、感覚神経中に座を占めている霊的な形成力をになう肉体上の機構が、直接に冒されることになります。
この子どもが心痛の物質的投影を知覚して、自分の内に採り入れたものをよりどころに、自分を形成いたします。
するとこの子どもは、心痛に向けて傾向づけられた肉体構造をもっことになり、これは後になって、この子どもと違った肉体機構をもつ者には何の影響も与えないような人生の印象をも、不安をもって受けとるようになるのです。」
親や教育者の在り方が、どれほど大切かということだ。
ただ子どもが欲しいから作って自分の為に育てる、出来ちゃった婚だからなんとなく育てる、或は、安定職だから教師になる、なんとなく教師という職業がいいからなる・・・・、などという安易な理由だけで子どもに接するのは、あまりにも無謀なことであり、そして子どもに対して失礼なことである。
シュタイナーは教師の心得及び注意しなければならない点をを次のように語っている。
『学級の中へ入っていくとき、私たちはみずからに次のように言い聞かせます。「私が教育しなければならない子どもたちのなかには、非常にすぐれた人間がいるかもしれない。将来、私よりはるかにすぐれた人間になる生徒がいるに違いない。」と。もし私たちが、私たち自身よりはるかにすぐれた者になる素質を持っている人間を、私たち自身と同じ程度の利口さに達するように教育しようと思ったとするならば、私たちによって教育される人間は、その人間が本来到達することができるはずであった地点よりも、低いところにとどまるように教育されることになってしまいます。」
今の教師達の中で、いったいどれだけの人間が上記のような意識を持っていることだろうか。ほとんどの教師は、上から下を見下ろす感じではないだろうか。特に、小学校教諭は。
一番大切な時期が、日本では義務教育である小学校時代だと思う。その小学校教諭の質の低さには悲しいものがある。
だが、そうしているのは国の責任。質の高い教師教育が成されて来ていなかったからであるし、杜撰な制度であったからだ。また、教員資格を与える時には、その人間のそれまで生きてきた人生全般を見る必要性もあるのではないだろうか。
また、記憶力に働きかけるような教え方は、瞬間的には大変な効果をあげることが出来るが、これは人間の一生を通しての歩みを計算に入れていないとも述べている。
このことに関しては、私自身、子育ての中で何度となく教師達の無責任な発言に対して子どもの軌道を正してきていたことでもある。
子どもが「だって、先生がそう言ったんだ。」ということに対して、「先生は一時的なことでしか物事を考えられないし教えない。謂わば、あなたの今がよければそれでいいのであって、将来のことまで考えているわけでも責任を持ってくれているわけでもない。」と。
親は、子どもの将来まで考えて子育てをしなければならないし、そうするものである。
また、海外に住んでいた時には、数多くのいろいろなパターンの幼稚園があり、日本人の殆どは教育――例えば英語とかリトミック体操とか――を熱心にやるところに入れたがっていたが、私は教師の質こそ最も大切なことだと考え、華やかな教育指導を取り入れているところではなく、教師陣にすぐれた人間達がいるところに子ども達を入れていた。
その頃はまだシュタイナーのことは知らなかった。ただ、私の育ってきた環境から得ていた感覚と認識から、周りの大人たちの影響の大きさを見逃すことは出来なかったからである。
よりすぐれた言葉を発すること。そして、その言葉=霊性に生きた感情を持つことの出来る人間になること。だからこそ、言葉は大切なのだ。大切にしなければならないのである。言葉は行為であるから。
つまり、その当時の人間は、言葉の波動の上に乗って霊性が進んでいくということに対して、生きた感情を持っていたからだと。
そして、霊性とは常に行為であると語っているのだ。
生きた感情を持てれるということ。だからこその言葉。そして、言葉は行為である。
誰かの発した言葉によって心の浮き沈みを味わうことは、誰でもが経験していること。そして、同じ言葉でも、それを言う人によって差がある。
反対に同一人物が発した言葉でも、受ける側によって差がある。
シュタイナーは、子どもは感覚器官そのものだと語る。
「おとなのそばで成長していく子どもは、教育者の持つこういうごくかすかな物質的な状態をも、模倣いたします。子どもは、おとなの表情や、おとなが不安げに話したり、不安げに感じたりする、その様子を感じとって、すっかりそれに自分を合わせてしまいます。」
このように、おとなと子ども間には、量ることのできない相互関係が生じるのだと。
「おとなが心配ごとを持っていますと、心意現象そのものが直接に外に現れることはなくても、それは肉体的な状態に影響を及ぼし、この影響が外に現れます。
模倣者である子どもは、この肉体上に現れた結果を感知し、ちょうど目が光の作用で満たされるのと同じように、自分の内部を、この知覚したものそっくりに形成するのです。(略)その子どもの全体機構をとおして、おとなの心意的な体験の肉体的な表現が、成長していきます。」
さらに、その影響がどのような重大なことを生じさせるのか例をあげての説明が続く。
「不安をもつおとなの青白い長い顔を、子どもは受けとります。しかし、心痛の心意的内容を自分の中に受け入れることは、子どもにはできません。
心痛の物質的な結果だけを、模倣するのです。その結果として、この子どもにおきましては、感覚神経中に座を占めている霊的な形成力をになう肉体上の機構が、直接に冒されることになります。
この子どもが心痛の物質的投影を知覚して、自分の内に採り入れたものをよりどころに、自分を形成いたします。
するとこの子どもは、心痛に向けて傾向づけられた肉体構造をもっことになり、これは後になって、この子どもと違った肉体機構をもつ者には何の影響も与えないような人生の印象をも、不安をもって受けとるようになるのです。」
親や教育者の在り方が、どれほど大切かということだ。
ただ子どもが欲しいから作って自分の為に育てる、出来ちゃった婚だからなんとなく育てる、或は、安定職だから教師になる、なんとなく教師という職業がいいからなる・・・・、などという安易な理由だけで子どもに接するのは、あまりにも無謀なことであり、そして子どもに対して失礼なことである。
シュタイナーは教師の心得及び注意しなければならない点をを次のように語っている。
『学級の中へ入っていくとき、私たちはみずからに次のように言い聞かせます。「私が教育しなければならない子どもたちのなかには、非常にすぐれた人間がいるかもしれない。将来、私よりはるかにすぐれた人間になる生徒がいるに違いない。」と。もし私たちが、私たち自身よりはるかにすぐれた者になる素質を持っている人間を、私たち自身と同じ程度の利口さに達するように教育しようと思ったとするならば、私たちによって教育される人間は、その人間が本来到達することができるはずであった地点よりも、低いところにとどまるように教育されることになってしまいます。」
今の教師達の中で、いったいどれだけの人間が上記のような意識を持っていることだろうか。ほとんどの教師は、上から下を見下ろす感じではないだろうか。特に、小学校教諭は。
一番大切な時期が、日本では義務教育である小学校時代だと思う。その小学校教諭の質の低さには悲しいものがある。
だが、そうしているのは国の責任。質の高い教師教育が成されて来ていなかったからであるし、杜撰な制度であったからだ。また、教員資格を与える時には、その人間のそれまで生きてきた人生全般を見る必要性もあるのではないだろうか。
また、記憶力に働きかけるような教え方は、瞬間的には大変な効果をあげることが出来るが、これは人間の一生を通しての歩みを計算に入れていないとも述べている。
このことに関しては、私自身、子育ての中で何度となく教師達の無責任な発言に対して子どもの軌道を正してきていたことでもある。
子どもが「だって、先生がそう言ったんだ。」ということに対して、「先生は一時的なことでしか物事を考えられないし教えない。謂わば、あなたの今がよければそれでいいのであって、将来のことまで考えているわけでも責任を持ってくれているわけでもない。」と。
親は、子どもの将来まで考えて子育てをしなければならないし、そうするものである。
また、海外に住んでいた時には、数多くのいろいろなパターンの幼稚園があり、日本人の殆どは教育――例えば英語とかリトミック体操とか――を熱心にやるところに入れたがっていたが、私は教師の質こそ最も大切なことだと考え、華やかな教育指導を取り入れているところではなく、教師陣にすぐれた人間達がいるところに子ども達を入れていた。
その頃はまだシュタイナーのことは知らなかった。ただ、私の育ってきた環境から得ていた感覚と認識から、周りの大人たちの影響の大きさを見逃すことは出来なかったからである。
よりすぐれた言葉を発すること。そして、その言葉=霊性に生きた感情を持つことの出来る人間になること。だからこそ、言葉は大切なのだ。大切にしなければならないのである。言葉は行為であるから。
2008年05月10日
祝福する能力
ディランの「NO DIRECTHON HOME」というDVDはお薦めだ。税込みで2,625円。見ごたえがあって、こんなに安い値段でいいの?と思わず思ってしまった。
そして、今はシュタイナーの教育論へと。本当にディランとシュタイナーは、細胞の隅々まで爽やかな躍動感を与えてくれる。
シュタイナーは、「教育問題は第一義的に教師問題である」とズバリと語っている。
「子どもにとって自分はごく当然の権威でなければならず、子どもがまったく自然に仰ぎ見ることのできる存在でなければならない」
今の教師達の姿はどうであろうか?力で権威を得ようとしているのではないだろうか?子ども達が自然に仰ぎ見ることは出来ない姿なのではないか?
だから、あまりにも教師達の不祥事や犯罪が多い。歪んだ力の蜜の味を覚え乱用する。いったいどれだけの教師達が犯罪を犯したのだろうか?教職に就く人間達にそういう行為の数が多いということは何が原因かを真剣に追求していかねばならないのではないだろうか。
また、シュタイナーは学校は学校であってはならず、予備校でなければならないと語る。
「いかなる学校も、人生という人間にとっての大きな学校に通じる、予備校でなければならないからです。私たちは本当のところ学校では、何かができるようになるためにものを学ぶのではなく、人生からつねに学びとることができるようになることを、そこで学ばねばならないのです。」
そして、次に語ることは最高だ。
「ある特定の年代になったときに、自分の同胞たちに対して幸せをもたらすような、そういう人たちが存在します。このような人たちは――そう言ってよろしいと思うのですが――祝福する能力があるのです。こういう人たちは、何も話す必要はなく、ただそこにいるだけで、その人から祝福が発散します。」
それは何故か?
「もしこのような祝福を与える力のある人間を、その全生涯をとおして観察することができれば、彼らが子ども時代にどのように教育されたかが、くっきりと際立って目につくことでしょう。こういう人たちは、誰かのはっきりした意図のもとに教育を受けたか、あるいは彼ら自身が本能的に特定の教育者、ないしは教師に自分の身をゆだねたか、であります。そして彼らは子ども時代に、畏敬の念をもつことを学ぶように教育を受けたのであり、言葉のもつ広い意味において、高いものを見あげ祈りを捧げることを教えられたのでした。」
その結果として生じることは?
「このような体験があって初めて、人間には下に降りていく力もまた後に生じるのです。つまり始めに、見あげ、尊敬し、権威にすっかり包み込まれることを学んだ者だけが、祝福し、影響を与え、みずから権威となり、それもまったく自然な権威となる可能性を得るのであります。」
今の社会では、教師の子どもが必ずしも優れた人間性を持っているとは言えない。教職間での庇い合い、隠すという行為はよくあること。自然の権威を身に備えている教師が、いったいどれくらい存在しているのだろうか?
また、シュタイナーは、「単なる人生観にとどまるものではない一つの内在的な生のあり方自体が、教育の精神的な根底とならねばならないということであります。」と、語る。
「教師となる場合にも要求される、あの精神的(霊的)な基盤を捜し求め、イマジネーションとインスピレーションとイントゥイション(直覚)から行動する状態へと身をおくように努力し、精神(霊性)によって考えるのではなく、精神(霊性)によって行為する域に達しなければならないのです。」
シュタイナーが語っているこの状態の典型的な人間が、ボブ・ディランだと私は思う。
冒頭に挙げたDVD、絶対にお薦め!
そして、今はシュタイナーの教育論へと。本当にディランとシュタイナーは、細胞の隅々まで爽やかな躍動感を与えてくれる。
シュタイナーは、「教育問題は第一義的に教師問題である」とズバリと語っている。
「子どもにとって自分はごく当然の権威でなければならず、子どもがまったく自然に仰ぎ見ることのできる存在でなければならない」
今の教師達の姿はどうであろうか?力で権威を得ようとしているのではないだろうか?子ども達が自然に仰ぎ見ることは出来ない姿なのではないか?
だから、あまりにも教師達の不祥事や犯罪が多い。歪んだ力の蜜の味を覚え乱用する。いったいどれだけの教師達が犯罪を犯したのだろうか?教職に就く人間達にそういう行為の数が多いということは何が原因かを真剣に追求していかねばならないのではないだろうか。
また、シュタイナーは学校は学校であってはならず、予備校でなければならないと語る。
「いかなる学校も、人生という人間にとっての大きな学校に通じる、予備校でなければならないからです。私たちは本当のところ学校では、何かができるようになるためにものを学ぶのではなく、人生からつねに学びとることができるようになることを、そこで学ばねばならないのです。」
そして、次に語ることは最高だ。
「ある特定の年代になったときに、自分の同胞たちに対して幸せをもたらすような、そういう人たちが存在します。このような人たちは――そう言ってよろしいと思うのですが――祝福する能力があるのです。こういう人たちは、何も話す必要はなく、ただそこにいるだけで、その人から祝福が発散します。」
それは何故か?
「もしこのような祝福を与える力のある人間を、その全生涯をとおして観察することができれば、彼らが子ども時代にどのように教育されたかが、くっきりと際立って目につくことでしょう。こういう人たちは、誰かのはっきりした意図のもとに教育を受けたか、あるいは彼ら自身が本能的に特定の教育者、ないしは教師に自分の身をゆだねたか、であります。そして彼らは子ども時代に、畏敬の念をもつことを学ぶように教育を受けたのであり、言葉のもつ広い意味において、高いものを見あげ祈りを捧げることを教えられたのでした。」
その結果として生じることは?
「このような体験があって初めて、人間には下に降りていく力もまた後に生じるのです。つまり始めに、見あげ、尊敬し、権威にすっかり包み込まれることを学んだ者だけが、祝福し、影響を与え、みずから権威となり、それもまったく自然な権威となる可能性を得るのであります。」
今の社会では、教師の子どもが必ずしも優れた人間性を持っているとは言えない。教職間での庇い合い、隠すという行為はよくあること。自然の権威を身に備えている教師が、いったいどれくらい存在しているのだろうか?
また、シュタイナーは、「単なる人生観にとどまるものではない一つの内在的な生のあり方自体が、教育の精神的な根底とならねばならないということであります。」と、語る。
「教師となる場合にも要求される、あの精神的(霊的)な基盤を捜し求め、イマジネーションとインスピレーションとイントゥイション(直覚)から行動する状態へと身をおくように努力し、精神(霊性)によって考えるのではなく、精神(霊性)によって行為する域に達しなければならないのです。」
シュタイナーが語っているこの状態の典型的な人間が、ボブ・ディランだと私は思う。
冒頭に挙げたDVD、絶対にお薦め!
2008年04月19日
人間と野獣
最近、子どもたちのネットでの現状を調べた結果が公表されていた。学校裏サイトや2チャンネル、また個人のブログなどで使われている人を傷付ける言葉の多さが注目されていた。
きもい、うざい、死ねなどという言葉の羅列。本来なら、決して、やたらと人に対して言うべき言葉ではない。
学校教育と家庭教育の低下。道徳心も敬愛心も人間愛も責任感も、すべて人として大切なことなのに、それが失われつつある。
人を誹謗中傷する酷い言葉の発生は、まさに野獣が吠えているのと同等のように感じる。なぜなら、相手を傷つけ殺そうとしていることに変わりがないものだから。そして、それだけの知能しかないと証明しているのと一緒。
人間には繊細で豊かな心が備わっているもの。そういった心の能力の欠如でしかない。実に、悲しむべき状態である。
もし、そのような言葉を、子どもを持つ親が言っていたとしたらどうだろうか。こんな恐ろしいことはないのではないだろうか。
子どもを教え導き、そしてしっかりとした人間性に形成出来るようにサポートすべき親が自ら他者を傷つける言葉を発していたとしたら・・・。
他者を平気で傷付けるような親には、決して立派な子育ては出来ない。そのような精神は伝播する。そして、家族の負なるカルマを形成していく。
自分を律すること、自分を高める努力をすること、徳のある人間になろうと常に吾が身を振り返り、そして行動すること。
子どもは親の背を見て育つ。だからこそ、親は自らを正していなければならない。
精神と心という内面と共に、礼節という外面に現れるものを一致させてこそ、初めて親と呼ばれるに相応しい存在となれるのではないだろうか。
中国では七代かけて優秀な人材を生み出そうとするということを聞いたことがあるが、それは確かに正しいのだと思う。
家族の負なるカルマを解消して行き、そして善きカルマを作り出していく。それは、基本。
シュタイナーは、カルマには過去世からのものの他に、未来の新たな事をなす為に作られるカルマもあると述べている。
善き事をなす為に、現世で貯金をしておくもの。
吾々人間は、個人のカルマ、家族のカルマ、民族のカルマ、世界のカルマという全てのカルマに関わっている。
だからこそ、個人と家族のカルマぐらいきちんとしておきたいものである。そして、出来れば貯金をしたいものである。
PS:もし私が他者を傷付ける醜い暴言を吐いたとしたら、その時、思うだろう。家族に対して申し訳ない、と。そして、そんな自分を許すことが出来ないだろうし、恥ずかしくてしょうがないだろう。
そして、霊学に携わる者として、神に顔向け出来ないほどの羞恥心を感じるし、ものすごく穢れたものとして自分を見つめるだろう。それはまた、激しい慟哭をももたらす。
きもい、うざい、死ねなどという言葉の羅列。本来なら、決して、やたらと人に対して言うべき言葉ではない。
学校教育と家庭教育の低下。道徳心も敬愛心も人間愛も責任感も、すべて人として大切なことなのに、それが失われつつある。
人を誹謗中傷する酷い言葉の発生は、まさに野獣が吠えているのと同等のように感じる。なぜなら、相手を傷つけ殺そうとしていることに変わりがないものだから。そして、それだけの知能しかないと証明しているのと一緒。
人間には繊細で豊かな心が備わっているもの。そういった心の能力の欠如でしかない。実に、悲しむべき状態である。
もし、そのような言葉を、子どもを持つ親が言っていたとしたらどうだろうか。こんな恐ろしいことはないのではないだろうか。
子どもを教え導き、そしてしっかりとした人間性に形成出来るようにサポートすべき親が自ら他者を傷つける言葉を発していたとしたら・・・。
他者を平気で傷付けるような親には、決して立派な子育ては出来ない。そのような精神は伝播する。そして、家族の負なるカルマを形成していく。
自分を律すること、自分を高める努力をすること、徳のある人間になろうと常に吾が身を振り返り、そして行動すること。
子どもは親の背を見て育つ。だからこそ、親は自らを正していなければならない。
精神と心という内面と共に、礼節という外面に現れるものを一致させてこそ、初めて親と呼ばれるに相応しい存在となれるのではないだろうか。
中国では七代かけて優秀な人材を生み出そうとするということを聞いたことがあるが、それは確かに正しいのだと思う。
家族の負なるカルマを解消して行き、そして善きカルマを作り出していく。それは、基本。
シュタイナーは、カルマには過去世からのものの他に、未来の新たな事をなす為に作られるカルマもあると述べている。
善き事をなす為に、現世で貯金をしておくもの。
吾々人間は、個人のカルマ、家族のカルマ、民族のカルマ、世界のカルマという全てのカルマに関わっている。
だからこそ、個人と家族のカルマぐらいきちんとしておきたいものである。そして、出来れば貯金をしたいものである。
PS:もし私が他者を傷付ける醜い暴言を吐いたとしたら、その時、思うだろう。家族に対して申し訳ない、と。そして、そんな自分を許すことが出来ないだろうし、恥ずかしくてしょうがないだろう。
そして、霊学に携わる者として、神に顔向け出来ないほどの羞恥心を感じるし、ものすごく穢れたものとして自分を見つめるだろう。それはまた、激しい慟哭をももたらす。
2008年04月07日
総決算
総決算という意味でこの土地で経験してきたことを書いてみよう。
まず、転校手続きの為に小学校の事務室を訪れた。もちろん事前に電話をしてアポイントを入れてからだが。
事務員の女性が対応したが、諸費用のための銀行振り込みの用紙が見当たらず、しばらく探したが無いので見本としてあったものを消しゴムで消されて渡された。
また、制服であった為、それを販売している店を教えてもらったが、行ってみるとすでに半年前に閉店になっていた。
そのときの事務員はその後、役場へ転任になった。
次の事務員の時には、9月初め、運動会の練習が連日のようにあったのだが、ある日、水筒を忘れたので朝そうそう事務員に渡してくれるように頼んだ。
しかし、渡されたのが午後2時ぐらいの、すでに授業が終る頃だった。
また、学校で体調が悪くなり吐いてしまった為、迎えに来るようにとの連絡を受けて行ってみると、保健室で、背もたれも無い堅い椅子に座らされていた。
本人は、その状態がとても苦しかったと述べていた。
所属している地区の自治会長は古くから地元に住んでいる公務員だった。しかし、町会議員になりたがっていた。やることなすこと理論性の無い力ずくのやり方。
教育委員会とも癒着していたが、そのうち詐欺横領罪で逮捕。また、そんな自治会長の取り巻き連中もわんさと居た。その不条理な言動には再三呆れ帰っていたが。
そして、元校長の息子の嫁は子ども会の役員をしていた折には、祭りの時に貰ったご祝儀を着服。最後までしらをきりとおし、しかも居直っていた。
新築して最初の年、マンションの理事長職に就きたい人間が自分から管理会社にやりたいと申し出て理事長になったが、組合費の杜撰な使用と帳簿の改竄をやって問題となった。しかし、再三の事情説明への出席要求に対して欠席を押し通し、かえって、その事実を知らない人間を上手く取り込んで裏ルートの繋がりを強化した。また、その人間はこの土地の地元の人間。
そして去年、再びその人間が動き出して、マンションの中は完全に分裂。
私は今ではどちらにつく気もない。ただ、自分のライフスタイルを押し通すだけ。そういう意味では、どちらにも敵対している人間はいない。
先日の記事の中に書いた小学校の酷い女教師。自分のクラスの子だけかわいがって、他のクラスの子には冷たいということは子ども達の中では有名な話だったが、中学校の結婚適齢期をすでに過ぎたある女教師も同じ。まあ、本人は、未だにもてて結婚の申し込みはたくさんあると生徒達に言っているらしいのだが。
彼女の場合は、男の子を可愛がって女の子には冷たいというもの。また、やはりそれでも、自分の受け持ちのクラスや部活の出来のいい女の子は可愛がるが、その他の子には歴然としたえこひいきをする。これも、子どもたちの中では有名な話。
例えば、プリントを配る時、男の子や可愛がっている女の子には手渡しで渡すが、その他の女の子にはもらおうと生徒が手を出しているにも関わらず、机の上に素早く投げるように置いていくらしい。
また、嫌いな子に対しては、その存在が居なかったかのように平気で無視して配らずに通り過ぎることもしているという。
彼女は英語の教師だが、発音の悪さを指摘する生徒はけっこういて、また、同時通訳が出来ないらしく、そういう時は調子よく逃げるということも聞いている。
ただ、生徒達は、そんな状況の中、完全に諦めて冷め切ってしまっている。そういう先生だから仕方がないと。とりあえず、卒業までの我慢だから当たり障り無く行けばいいと。
また、ある男性教師はセクハラ問題で注意を受けたが、その後の行き先は知的障害児のクラスの受け持ち。
どうやら、この土地の教育方針は、何か問題がある教師を、すぐに知的障害児の指導に回すというやり方のようだ。とは言っても、問題が噴出しないように、良い教師と組ませるようでもあるが。
まあ、他にもいろいろとあるが、あまり書くと個人が特定されるおそれがあるのでこのぐらいにしておこう。
何もこんな土地のこんな学校の為に真剣に取り組まなくてもよいのだが、なんの因果か、去年一年はより良くする為に動き回った。自分でも思う。そこまでやらなくてもいいものなにと。また、人からも言われた。そこまでやる必要ないのにと。適当にやっておけばいいのにと。
そう、すべては適当に。それが大方の人間たちの考えることなのだ。自分さえよければそれでいいとね。
何もかもが汚濁しきっている土地。しかし、世間体を取り繕うのが上手い土地柄。本当に恐ろしいところ。
ただ、私は気高く生きたい。人間として生まれたからには輝くべきなのだ。不純物だらけの汚れた人間にはなりたくない。透明体になること。それが目標。
泥の中に投げ込まれて泥だらけになったままなんて、みっともない。挙句の果てに泥そのものになったら、それこそお終い。
泥にまみれても、白い翼は誰にも汚させない。決して。
まず、転校手続きの為に小学校の事務室を訪れた。もちろん事前に電話をしてアポイントを入れてからだが。
事務員の女性が対応したが、諸費用のための銀行振り込みの用紙が見当たらず、しばらく探したが無いので見本としてあったものを消しゴムで消されて渡された。
また、制服であった為、それを販売している店を教えてもらったが、行ってみるとすでに半年前に閉店になっていた。
そのときの事務員はその後、役場へ転任になった。
次の事務員の時には、9月初め、運動会の練習が連日のようにあったのだが、ある日、水筒を忘れたので朝そうそう事務員に渡してくれるように頼んだ。
しかし、渡されたのが午後2時ぐらいの、すでに授業が終る頃だった。
また、学校で体調が悪くなり吐いてしまった為、迎えに来るようにとの連絡を受けて行ってみると、保健室で、背もたれも無い堅い椅子に座らされていた。
本人は、その状態がとても苦しかったと述べていた。
所属している地区の自治会長は古くから地元に住んでいる公務員だった。しかし、町会議員になりたがっていた。やることなすこと理論性の無い力ずくのやり方。
教育委員会とも癒着していたが、そのうち詐欺横領罪で逮捕。また、そんな自治会長の取り巻き連中もわんさと居た。その不条理な言動には再三呆れ帰っていたが。
そして、元校長の息子の嫁は子ども会の役員をしていた折には、祭りの時に貰ったご祝儀を着服。最後までしらをきりとおし、しかも居直っていた。
新築して最初の年、マンションの理事長職に就きたい人間が自分から管理会社にやりたいと申し出て理事長になったが、組合費の杜撰な使用と帳簿の改竄をやって問題となった。しかし、再三の事情説明への出席要求に対して欠席を押し通し、かえって、その事実を知らない人間を上手く取り込んで裏ルートの繋がりを強化した。また、その人間はこの土地の地元の人間。
そして去年、再びその人間が動き出して、マンションの中は完全に分裂。
私は今ではどちらにつく気もない。ただ、自分のライフスタイルを押し通すだけ。そういう意味では、どちらにも敵対している人間はいない。
先日の記事の中に書いた小学校の酷い女教師。自分のクラスの子だけかわいがって、他のクラスの子には冷たいということは子ども達の中では有名な話だったが、中学校の結婚適齢期をすでに過ぎたある女教師も同じ。まあ、本人は、未だにもてて結婚の申し込みはたくさんあると生徒達に言っているらしいのだが。
彼女の場合は、男の子を可愛がって女の子には冷たいというもの。また、やはりそれでも、自分の受け持ちのクラスや部活の出来のいい女の子は可愛がるが、その他の子には歴然としたえこひいきをする。これも、子どもたちの中では有名な話。
例えば、プリントを配る時、男の子や可愛がっている女の子には手渡しで渡すが、その他の女の子にはもらおうと生徒が手を出しているにも関わらず、机の上に素早く投げるように置いていくらしい。
また、嫌いな子に対しては、その存在が居なかったかのように平気で無視して配らずに通り過ぎることもしているという。
彼女は英語の教師だが、発音の悪さを指摘する生徒はけっこういて、また、同時通訳が出来ないらしく、そういう時は調子よく逃げるということも聞いている。
ただ、生徒達は、そんな状況の中、完全に諦めて冷め切ってしまっている。そういう先生だから仕方がないと。とりあえず、卒業までの我慢だから当たり障り無く行けばいいと。
また、ある男性教師はセクハラ問題で注意を受けたが、その後の行き先は知的障害児のクラスの受け持ち。
どうやら、この土地の教育方針は、何か問題がある教師を、すぐに知的障害児の指導に回すというやり方のようだ。とは言っても、問題が噴出しないように、良い教師と組ませるようでもあるが。
まあ、他にもいろいろとあるが、あまり書くと個人が特定されるおそれがあるのでこのぐらいにしておこう。
何もこんな土地のこんな学校の為に真剣に取り組まなくてもよいのだが、なんの因果か、去年一年はより良くする為に動き回った。自分でも思う。そこまでやらなくてもいいものなにと。また、人からも言われた。そこまでやる必要ないのにと。適当にやっておけばいいのにと。
そう、すべては適当に。それが大方の人間たちの考えることなのだ。自分さえよければそれでいいとね。
何もかもが汚濁しきっている土地。しかし、世間体を取り繕うのが上手い土地柄。本当に恐ろしいところ。
ただ、私は気高く生きたい。人間として生まれたからには輝くべきなのだ。不純物だらけの汚れた人間にはなりたくない。透明体になること。それが目標。
泥の中に投げ込まれて泥だらけになったままなんて、みっともない。挙句の果てに泥そのものになったら、それこそお終い。
泥にまみれても、白い翼は誰にも汚させない。決して。
2008年02月03日
根本からの問題
医学部の授業料についてのコメントが入っていたので、誤解が無いように私の一個人としての見解を書こうと思う。
確かに防衛医科大学など授業料免除・給料支給という大学もあるが、卒業後は自衛官として9年だか10年だか、そのぐらいの勤務が義務付けられている。
私は、そういう構造にはどうも拒絶反応が生じる。なぜなら、自由な研究が出来ないし、自由に技術を磨く道が閉ざされてしまっているように思えるからだ。
しかし、私立大学ではどうだろうか。私の知る限りではかなり高いのだが。
また、今の日本の大学というのは入試時が大変である。合格できなければどうにもならない。
難易度の高い大学に入ろうと思うなら、中学・高校でのハイレベルな教育を受ける必要がある。
例えば、進学校と言われる公立高校で上位の成績をとっていても、もし塾や予備校へ通っていなかったなら難易度の高いところには合格出来にくいのが実情。公立高校での授業内容と、塾・予備校でやるレベル的な内容は違う。
ただ、そういった塾や予備校に通わせるにもかなりの費用がかかってくる。特待制度もあるが、それを受けられるのには高い成績が求められてくる。
要するに、大学受験をするまでに多額の費用がかかるわけで、経済的に大変な家庭の子どもではその段階で振り落とされてしまう。
難易度の高い大学には、経済的に余裕のある家庭の子どもの方が合格率が高いという調査結果も出ている。
だが、人間とは高度な生き物。志の高い人間は伸びる。大学に入ってから伸びる人間はいくらでもいるだろう。だから入学時だけの成績で判断してしまうのはもったいないと思う。
また、たんなる医者になることだけを希望する人間と、医学を究めたい人間においても雲泥の差がある。医学を究めたいと思う人間は研究もしたいし、高度な技術を求めて外へ学びに行きたくなるもの。それには、今の日本の体制では、やはり個人の経済力が問われてしまうのではないだろうか。
学部とかに関わらず、今の日本の教育体制は根本的におかしいと思う。学びたいものを学べる状況を誰にでも等しく設定しておくのが教育現場のあり方ではないだろうか。私はそう思うのだが。
ただ、格差社会といわれる今日。収入の少ない家庭は、大学のだの字も出ないほど切羽詰った状態に追い込まれている子ども達も多い。そういう人たちに、どうやって手を差し伸べたらいいのだろうか。そいういう家庭の子どもたちになんと声をかけたらいいのだろうか。
格差社会は弱者と呼ばれる範囲の人間達から希望を奪っている。
PS:他人のブログというのは家と同じこと。相手の家にはじめて訪れるのに挨拶の一つもせずに入るというのは如何なものかと思う。人間、最低限の礼節は必要。それが、人間社会のルール。
確かに防衛医科大学など授業料免除・給料支給という大学もあるが、卒業後は自衛官として9年だか10年だか、そのぐらいの勤務が義務付けられている。
私は、そういう構造にはどうも拒絶反応が生じる。なぜなら、自由な研究が出来ないし、自由に技術を磨く道が閉ざされてしまっているように思えるからだ。
しかし、私立大学ではどうだろうか。私の知る限りではかなり高いのだが。
また、今の日本の大学というのは入試時が大変である。合格できなければどうにもならない。
難易度の高い大学に入ろうと思うなら、中学・高校でのハイレベルな教育を受ける必要がある。
例えば、進学校と言われる公立高校で上位の成績をとっていても、もし塾や予備校へ通っていなかったなら難易度の高いところには合格出来にくいのが実情。公立高校での授業内容と、塾・予備校でやるレベル的な内容は違う。
ただ、そういった塾や予備校に通わせるにもかなりの費用がかかってくる。特待制度もあるが、それを受けられるのには高い成績が求められてくる。
要するに、大学受験をするまでに多額の費用がかかるわけで、経済的に大変な家庭の子どもではその段階で振り落とされてしまう。
難易度の高い大学には、経済的に余裕のある家庭の子どもの方が合格率が高いという調査結果も出ている。
だが、人間とは高度な生き物。志の高い人間は伸びる。大学に入ってから伸びる人間はいくらでもいるだろう。だから入学時だけの成績で判断してしまうのはもったいないと思う。
また、たんなる医者になることだけを希望する人間と、医学を究めたい人間においても雲泥の差がある。医学を究めたいと思う人間は研究もしたいし、高度な技術を求めて外へ学びに行きたくなるもの。それには、今の日本の体制では、やはり個人の経済力が問われてしまうのではないだろうか。
学部とかに関わらず、今の日本の教育体制は根本的におかしいと思う。学びたいものを学べる状況を誰にでも等しく設定しておくのが教育現場のあり方ではないだろうか。私はそう思うのだが。
ただ、格差社会といわれる今日。収入の少ない家庭は、大学のだの字も出ないほど切羽詰った状態に追い込まれている子ども達も多い。そういう人たちに、どうやって手を差し伸べたらいいのだろうか。そいういう家庭の子どもたちになんと声をかけたらいいのだろうか。
格差社会は弱者と呼ばれる範囲の人間達から希望を奪っている。
PS:他人のブログというのは家と同じこと。相手の家にはじめて訪れるのに挨拶の一つもせずに入るというのは如何なものかと思う。人間、最低限の礼節は必要。それが、人間社会のルール。
2007年12月23日
受験生
受験生にとっては、クリスマスはいつものそれとは違う。中学3年生。初めての受験。思春期ということも手伝い、子どもによってはいろいろとあるようだ。
何かあったとき、親の対処次第で登校拒否にもなるし、乗り越えられることもある。
ある男の子は煙草を吸っているところを親に見つかり、その場で泣かれ、それ以来、学校へも塾へも来なくなったという。この大事な時期に、成績表は1のオンパレード。
また、公立高校を目指していたが、そこへは無理だと諦め、年の瀬も迫ったこの時期に急に私学を専願で受けようと路線変更得をする子も多い。
そして、公立高校の内申点の比重が大きいところでは、その内申点ゆえに、現在、実力があってもランクを下げざるを得ない子もけっこういる。
まさに、子ども達にとっては大変な時期。ただ言えることは、親は決して子どもたちの芽を摘まないことだ。
私は、いつも子どもたちにはチャレンジ精神でいて欲しいと思う。決して諦めるなと。決して駆け引きをするなと。そこへ行きたいのだったら一筋に頑張れと。そして、もし駄目だった時にはその時で、きちんと子どもが伸びて行けることの出来る道も用意してある。
上の子は、手がかからなかった。強い精神力と意志力と集中力を持ち併せていたし、そのくせがり勉タイプではなかった。むしろ、勉強は本人にとって必要最低限のものしかしていなかったようだ。まず、自分の勉強机に向かって勉強をするということはなかったし、いつも、煩いリビングでの勉強。息抜きの天才だったのかも知れない。
そして、高校受験当時の偏差値は73あたりだった。
下の子は、今、受験生。さんざん自分のやりたいことをやってきて、内申点のことも省みず、また、家族の忠告も上の空。そのつけが今やって来たという感じである。さすがに、焦っているようだ。
だが、彼女には前々から行きたい高校があった。どうしても、そこへ入りたいと。だから、さすがに頑張り始めた。
なんせ、夏休み前の偏差値が48〜49という低さ。どうやったって入れるわけないと思っていた。だが、今は55〜63あたりをうろついている。もうひと踏ん張りだ。しかし、今学期の内申が良くても、それまでが稼いでいなかったので、当日点を沢山取れるように努力しなければならない。
本人の頑張り次第。そして、ここへ来て、彼女はかなり後悔している。初めから真面目にやっておけば良かったと。だから、高校へ入ったら、最初から頑張ろうと心に決めているらしい。
そんな彼女。一時期、自暴自棄になりかけたことがあった。行きたいと思っていた高校へは無理だと塾長から言われた時のことだった。
甘い考えでいたものが、現実を突きつけられたのだから、それはショックだったのだろう。人前で涙など見せない勝気な子が、塾長の前で涙をポロポロ流したそうだ。塾長も、予期しないことに大変驚いたとのことであった。
その時、私は言った。「今まで自分がやってきたことの結果なのだから仕方がないでしょ。どうしても、その高校へ行きたいのだったらやるだけやればいいじゃない。当日点でどれだけ取れるか。もう、あなたにはそれしか道が残されていないでしょ。初志貫徹よ。そして、もし駄目だったら、お金がかかるけれど私学に行かせてあげるから。」と。
これを機に、彼女は頑張りだした。どうしても行きたい高校なのだから。そして今は、塾長からも担任の教師からも、今の実力だったら大丈夫だろうが、内申を稼いでいなかった分、頑張らなければならないと言われる様にまでなった。
受験まで、まさに毎日が戦い。初めての孤独な戦い。そして、途中で息切れすることなくやり遂げられるように傍で支えるのが親の仕事。
何かあったとき、親の対処次第で登校拒否にもなるし、乗り越えられることもある。
ある男の子は煙草を吸っているところを親に見つかり、その場で泣かれ、それ以来、学校へも塾へも来なくなったという。この大事な時期に、成績表は1のオンパレード。
また、公立高校を目指していたが、そこへは無理だと諦め、年の瀬も迫ったこの時期に急に私学を専願で受けようと路線変更得をする子も多い。
そして、公立高校の内申点の比重が大きいところでは、その内申点ゆえに、現在、実力があってもランクを下げざるを得ない子もけっこういる。
まさに、子ども達にとっては大変な時期。ただ言えることは、親は決して子どもたちの芽を摘まないことだ。
私は、いつも子どもたちにはチャレンジ精神でいて欲しいと思う。決して諦めるなと。決して駆け引きをするなと。そこへ行きたいのだったら一筋に頑張れと。そして、もし駄目だった時にはその時で、きちんと子どもが伸びて行けることの出来る道も用意してある。
上の子は、手がかからなかった。強い精神力と意志力と集中力を持ち併せていたし、そのくせがり勉タイプではなかった。むしろ、勉強は本人にとって必要最低限のものしかしていなかったようだ。まず、自分の勉強机に向かって勉強をするということはなかったし、いつも、煩いリビングでの勉強。息抜きの天才だったのかも知れない。
そして、高校受験当時の偏差値は73あたりだった。
下の子は、今、受験生。さんざん自分のやりたいことをやってきて、内申点のことも省みず、また、家族の忠告も上の空。そのつけが今やって来たという感じである。さすがに、焦っているようだ。
だが、彼女には前々から行きたい高校があった。どうしても、そこへ入りたいと。だから、さすがに頑張り始めた。
なんせ、夏休み前の偏差値が48〜49という低さ。どうやったって入れるわけないと思っていた。だが、今は55〜63あたりをうろついている。もうひと踏ん張りだ。しかし、今学期の内申が良くても、それまでが稼いでいなかったので、当日点を沢山取れるように努力しなければならない。
本人の頑張り次第。そして、ここへ来て、彼女はかなり後悔している。初めから真面目にやっておけば良かったと。だから、高校へ入ったら、最初から頑張ろうと心に決めているらしい。
そんな彼女。一時期、自暴自棄になりかけたことがあった。行きたいと思っていた高校へは無理だと塾長から言われた時のことだった。
甘い考えでいたものが、現実を突きつけられたのだから、それはショックだったのだろう。人前で涙など見せない勝気な子が、塾長の前で涙をポロポロ流したそうだ。塾長も、予期しないことに大変驚いたとのことであった。
その時、私は言った。「今まで自分がやってきたことの結果なのだから仕方がないでしょ。どうしても、その高校へ行きたいのだったらやるだけやればいいじゃない。当日点でどれだけ取れるか。もう、あなたにはそれしか道が残されていないでしょ。初志貫徹よ。そして、もし駄目だったら、お金がかかるけれど私学に行かせてあげるから。」と。
これを機に、彼女は頑張りだした。どうしても行きたい高校なのだから。そして今は、塾長からも担任の教師からも、今の実力だったら大丈夫だろうが、内申を稼いでいなかった分、頑張らなければならないと言われる様にまでなった。
受験まで、まさに毎日が戦い。初めての孤独な戦い。そして、途中で息切れすることなくやり遂げられるように傍で支えるのが親の仕事。
2007年11月22日
教師が招く大罪
最近のニュースで、41歳の元教師が、ストーカー行為で逮捕されたという。その教師は、父親も教師、姉も教師という教員一家。
私も多くのくだらない教師を見てきたが、何度も書くが、今の教師のレベルは低すぎる。もちろん優れた教師もいる。だが、そういう教師は少ないし、そういう教師に出会えれば幸運なことだとさえ言えるのだ。
また、特に地方などでは縁故関係で採用されることが多い。だから、本当に優秀な人間が教師になれずに、どうでもいい人間が採用されるという現象が起きている。
秋田県においては、少子化や過疎化などの影響で、教員として採用されることが狭き門となっているらしい。だが、それだけより優秀な人材を採用できるとも言える。
子どもの通う中学校でも3年生のあるクラスは荒れているという。最初はそうでもなかったが、担任がやる気のない女性教師ということが原因してか、他のクラスの子どもたちが少しおかしいのではないかと言い始めてから2ヶ月の間にだいぶ深刻化していった。
最近も、こんなことがあったらしい。おとなしい女の子が、いじめっ子二人にトイレに呼びだされて泣いていたと言う。そこへ、その担任の教師が通りかかったのだが、首をかしげながら見て見ぬ不利をして行ってしまったと言うのだ。
まず、その教師の場合、ほとんど生徒に注意することをしないので、多くの子どもたちが馬鹿にしてしまっているらしいのである。
ただ、こういうタイプの教師が多いのが気にかかる。見て見ぬ不利、面倒なことには関わりたがらないという教師。
また、その二人には、軽い暴力的行為も見られるようになってきているという。
毎年、クラス替えを行うが、わが子の場合、いつも平和なクラスに当たるからラッキーだとも言っている。カゲ番的存在の娘。と言っても、悪ではないが。教師にはその存在が分かっていないようだが(子ども曰く、あえて教師の前では目だたないようにしているとのことだ)、友人達からは台風のイメージとさえ言われ、友人達を自分の渦に巻き込んでしまう子。いつも笑いの中心にいる。頭の良い子から悪い子まで、元気な子からおとなしい子まで幅広い交友関係。
だから、そのいじめっ子たちも、わが子には普通に良い感じの態度で接してくるという。
だったら、少し被害にあっている子の為に手助けしてあげたらと私は言うのだが、よそのクラスだと、それも難しいらしい。
また、そのいじめっ子のいるクラスは、休み時間になると、教室にはその二人がいるだけで、他の子ども達はいっせいによそのクラスに遊びに行ったり、あるいは廊下へ出ていたりしているとのことだ。
ただ、その二人とも去年までは良い子にしていたらしい。担任の教師がビシッとした怖い人だったということが要因だったのではないかと子どもは見ている。
それから、校長の考え方にも大きなマイナス要因がある。とにかく、目に見える実績を残す子が好きで、そういう子を評価してあげようと公言し続けている。
これは、大変に間違った思考である。スポーツや芸術で入賞したとか、勉強が出来るということ=良い生徒であるとは限らない。
それはあたかも、一生懸命働いて高価な服を買い、それを身に付けていることと同じにすぎないからだ。
教育現場では、人間性を重要視しなければならない。服を取り除いて人そのものを見たとき、どれだけ美しいかを問わなければならないかである。
人間としての価値は何か? それは、人として正しい目を持ち、他者を思いやれるような美しく深い心を持ち、勇気を持っていることではないだろうか。
その校長にとっては、生徒の服は即ち自分を飾る服なのである。だから、教育現場はさらに混沌としていく。
教員の質を向上させなければ、いつまでたっても発展はない。民間企業でもリストラが行われた時期があった。公務員にだってあって当たり前。
しばらくの猶予を与え、その期間に向上しようとする教師は死に物狂いで頑張るだろう。
教員試験のハードルをもっと高くし、優秀な人材をを確保すべきである。そして、縁故関係での採用は無くすべきなのだ。
安倍前総理の手によって、やっとはじまった教育改革の大きな波が、今は静かになり始めている。教育こそ国家の根幹をなすもの。そのことを、もっと重要視すべきである。
PS:一昨日、子どもの携帯に男友達から「ぺちゃぱいの歌」なるものが送信されてきた。また、塾のアルバイト講師でイケメンの人が入れば入ったで、テスト前の自習においては、男の子から「あの先生、今日、来ているからはよ来い」とメールが来るし。いったい、わが子は、どんな子だろうかと、母親ながら今一つかめないのであった。
私も多くのくだらない教師を見てきたが、何度も書くが、今の教師のレベルは低すぎる。もちろん優れた教師もいる。だが、そういう教師は少ないし、そういう教師に出会えれば幸運なことだとさえ言えるのだ。
また、特に地方などでは縁故関係で採用されることが多い。だから、本当に優秀な人間が教師になれずに、どうでもいい人間が採用されるという現象が起きている。
秋田県においては、少子化や過疎化などの影響で、教員として採用されることが狭き門となっているらしい。だが、それだけより優秀な人材を採用できるとも言える。
子どもの通う中学校でも3年生のあるクラスは荒れているという。最初はそうでもなかったが、担任がやる気のない女性教師ということが原因してか、他のクラスの子どもたちが少しおかしいのではないかと言い始めてから2ヶ月の間にだいぶ深刻化していった。
最近も、こんなことがあったらしい。おとなしい女の子が、いじめっ子二人にトイレに呼びだされて泣いていたと言う。そこへ、その担任の教師が通りかかったのだが、首をかしげながら見て見ぬ不利をして行ってしまったと言うのだ。
まず、その教師の場合、ほとんど生徒に注意することをしないので、多くの子どもたちが馬鹿にしてしまっているらしいのである。
ただ、こういうタイプの教師が多いのが気にかかる。見て見ぬ不利、面倒なことには関わりたがらないという教師。
また、その二人には、軽い暴力的行為も見られるようになってきているという。
毎年、クラス替えを行うが、わが子の場合、いつも平和なクラスに当たるからラッキーだとも言っている。カゲ番的存在の娘。と言っても、悪ではないが。教師にはその存在が分かっていないようだが(子ども曰く、あえて教師の前では目だたないようにしているとのことだ)、友人達からは台風のイメージとさえ言われ、友人達を自分の渦に巻き込んでしまう子。いつも笑いの中心にいる。頭の良い子から悪い子まで、元気な子からおとなしい子まで幅広い交友関係。
だから、そのいじめっ子たちも、わが子には普通に良い感じの態度で接してくるという。
だったら、少し被害にあっている子の為に手助けしてあげたらと私は言うのだが、よそのクラスだと、それも難しいらしい。
また、そのいじめっ子のいるクラスは、休み時間になると、教室にはその二人がいるだけで、他の子ども達はいっせいによそのクラスに遊びに行ったり、あるいは廊下へ出ていたりしているとのことだ。
ただ、その二人とも去年までは良い子にしていたらしい。担任の教師がビシッとした怖い人だったということが要因だったのではないかと子どもは見ている。
それから、校長の考え方にも大きなマイナス要因がある。とにかく、目に見える実績を残す子が好きで、そういう子を評価してあげようと公言し続けている。
これは、大変に間違った思考である。スポーツや芸術で入賞したとか、勉強が出来るということ=良い生徒であるとは限らない。
それはあたかも、一生懸命働いて高価な服を買い、それを身に付けていることと同じにすぎないからだ。
教育現場では、人間性を重要視しなければならない。服を取り除いて人そのものを見たとき、どれだけ美しいかを問わなければならないかである。
人間としての価値は何か? それは、人として正しい目を持ち、他者を思いやれるような美しく深い心を持ち、勇気を持っていることではないだろうか。
その校長にとっては、生徒の服は即ち自分を飾る服なのである。だから、教育現場はさらに混沌としていく。
教員の質を向上させなければ、いつまでたっても発展はない。民間企業でもリストラが行われた時期があった。公務員にだってあって当たり前。
しばらくの猶予を与え、その期間に向上しようとする教師は死に物狂いで頑張るだろう。
教員試験のハードルをもっと高くし、優秀な人材をを確保すべきである。そして、縁故関係での採用は無くすべきなのだ。
安倍前総理の手によって、やっとはじまった教育改革の大きな波が、今は静かになり始めている。教育こそ国家の根幹をなすもの。そのことを、もっと重要視すべきである。
PS:一昨日、子どもの携帯に男友達から「ぺちゃぱいの歌」なるものが送信されてきた。また、塾のアルバイト講師でイケメンの人が入れば入ったで、テスト前の自習においては、男の子から「あの先生、今日、来ているからはよ来い」とメールが来るし。いったい、わが子は、どんな子だろうかと、母親ながら今一つかめないのであった。
2007年11月10日
責任回避
最近、中学生の男の子が教師を殴って怪我をさせるという事件が起きた。
学校側は被害届を出し、校長は緊急全校集会の席で生徒達に、決して被害届は撤回しないと言った。
その男子生徒は、普段から授業中に携帯電話をしていたり、授業がつまらないと、勝手に教室を出て行く状態だったそうである。
そして、そんな彼を、教師達は担任を除いてみんな注意することもしていなかったという。させたいままにさせていたと。
その事件が起きたときの授業でも、「オレ、帰るわ」というのに対し、教師は「おお」と答えたのだが、出際に軽く教師の腹を叩いた為、その教師が怒り出し、男子生徒もキレてめちゃくちゃに殴りだしたという。
また、教師は生徒に手を出せない為に止めるだけだったので、どうしてもやられっぱなしになってしまったらしい。
そこへ、担任の男性教師と、もう一人の男性教師が駆けつけた。担任は止めに入ったが、もう一人の教師はオロオロと見ているだけで、結局、担任一人でなんとか押さえ込み、それを見たその教師はすごすごとそのまま帰って行ったという。
と、こんな事件が起きたのだが、以前からそんな状態の子であるなら、事件を起こす前に学校側としてはもっと何かをするべきだったと思う。いいや、何か出来たはずだ。
ほとんど放置状態。また、軽く教師の腹を叩いたというのも、きっと、その生徒には、どこか甘えたい、なんとか真っ直ぐ見てもらいたいという幼い気持ちの現われだったように思う。
だが、警察沙汰の事件が起これば、学校側は自分達に責任はなかったと言わんばかりに突き放す。
何か違ってはいないか?
何かずるくはないか?
核心を外すな!
その子をそういう状態に追い込んだのは、もちろん親の責任でもあるが、見て見ぬふりをしてきた教師達、学校側にもあるのではないだろうか。
事件を起こしたら、はい、さようなら。おまえがすべて悪いんだ・・・・。冷たすぎるよね。
学校は、もっと自分達の在り方を反省するべきであるし、改善しようとしなければ、また同じことを起こす生徒が一人、二人と生まれるだろう。
親も反省し、学校も反省すべきである。
今年受験生のその子は、これで大きく人生が変わってしまうだろう。
なんで、なんで、子どもたちの心を、大人たちは理解して包もうとはしないのだろうか。
もっと、教育できたはずだろう。もっと、本当の意味での教育が出来たはずだろうにと。
本当に悲しい出来事であった。
ベランダに出たら、「キュウー」という鳴き声がした。
あ、あの鳥だ。
ちょっと待っていたら、やっぱり来た。
すぐ上を、風に乗って、すーっと飛んで行った。
思わず、お腹をくすがしたくなった。
だって、暖かな体温を感じたのだから。
学校側は被害届を出し、校長は緊急全校集会の席で生徒達に、決して被害届は撤回しないと言った。
その男子生徒は、普段から授業中に携帯電話をしていたり、授業がつまらないと、勝手に教室を出て行く状態だったそうである。
そして、そんな彼を、教師達は担任を除いてみんな注意することもしていなかったという。させたいままにさせていたと。
その事件が起きたときの授業でも、「オレ、帰るわ」というのに対し、教師は「おお」と答えたのだが、出際に軽く教師の腹を叩いた為、その教師が怒り出し、男子生徒もキレてめちゃくちゃに殴りだしたという。
また、教師は生徒に手を出せない為に止めるだけだったので、どうしてもやられっぱなしになってしまったらしい。
そこへ、担任の男性教師と、もう一人の男性教師が駆けつけた。担任は止めに入ったが、もう一人の教師はオロオロと見ているだけで、結局、担任一人でなんとか押さえ込み、それを見たその教師はすごすごとそのまま帰って行ったという。
と、こんな事件が起きたのだが、以前からそんな状態の子であるなら、事件を起こす前に学校側としてはもっと何かをするべきだったと思う。いいや、何か出来たはずだ。
ほとんど放置状態。また、軽く教師の腹を叩いたというのも、きっと、その生徒には、どこか甘えたい、なんとか真っ直ぐ見てもらいたいという幼い気持ちの現われだったように思う。
だが、警察沙汰の事件が起これば、学校側は自分達に責任はなかったと言わんばかりに突き放す。
何か違ってはいないか?
何かずるくはないか?
核心を外すな!
その子をそういう状態に追い込んだのは、もちろん親の責任でもあるが、見て見ぬふりをしてきた教師達、学校側にもあるのではないだろうか。
事件を起こしたら、はい、さようなら。おまえがすべて悪いんだ・・・・。冷たすぎるよね。
学校は、もっと自分達の在り方を反省するべきであるし、改善しようとしなければ、また同じことを起こす生徒が一人、二人と生まれるだろう。
親も反省し、学校も反省すべきである。
今年受験生のその子は、これで大きく人生が変わってしまうだろう。
なんで、なんで、子どもたちの心を、大人たちは理解して包もうとはしないのだろうか。
もっと、教育できたはずだろう。もっと、本当の意味での教育が出来たはずだろうにと。
本当に悲しい出来事であった。
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ベランダに出たら、「キュウー」という鳴き声がした。
あ、あの鳥だ。
ちょっと待っていたら、やっぱり来た。
すぐ上を、風に乗って、すーっと飛んで行った。
思わず、お腹をくすがしたくなった。
だって、暖かな体温を感じたのだから。
2007年10月30日
トップに立つ人間
あの酷い状態の小学校でも定年間際の校長だった。しかも、教頭が悪の権化と化していたのだが、中学校でも定年間際の校長。まあ、教頭はまともではあるが。
その校長のやり方には、さすがに子ども達もおかしいと首を傾げることが多々あるようだ。
実態を知れば知るほど、協力体制をとることに足踏みをしたくなる。校長と特定の教師との癒着。校長一人の特権及び嗜好で物事が動き、特定の教師の信じられない我儘が罷り通ってしまう。
定年間際の校長は自分の母校で錦を飾って終り、その後、教育委員会へ天下りとなる。それが、この地域のやり方とのことだ。
おそらく、実際に教員として採用されるのも縁故関係によるものがほとんどだろう。特に、地方や古い地域では、そういう状態であるということを聞く。
だから、この土地では十年以上も同じ学校で勤務のまま移動しない教師達が多い。
まさに、活性化には程遠い状態。しかも、校長がそのような状態ではどうしようもないだろう。
子ども達は不条理なことを見せ付けられ、不正に対して怒る気力もなくなり、諦め、ただことなかれ主義でいれば時は何事もなかったかのように流れて行くことに慣れてしまっている。
そして一番恐いのが、同じような人間になっていくことだ。問題点に目を瞑るということは、これから先、いろいろな問題があっても気付かずに行ってしまうということ。
教育改革において、まず一番先にしなければならない事は、学校のトップである校長を教育しなおすこと。倫理道徳に十分な能力のある人間を就けること。そこからしないと、なかなか教育現場は良くならない。
今日も、あきらかにおかしいと思う校長の趣味で作った配布物が手元に届いた。それを見たほとんどの人が、きっと変だと思うのではないだろうか。
トップの座に着くと、私利私欲に傾倒してしまう人間が多いのがこの土地の特徴。倫理道徳に外れた人間は教育者であってはならないし、またトップの立場に立つべきではない。
私の心の中にも、もう極力協力したくはないという思いが湧いてきてしまっている。でも、そこで足を止めたら、それもそれで後悔することになるだろう。感情の整理をしつつ歩んでいこう。
その校長のやり方には、さすがに子ども達もおかしいと首を傾げることが多々あるようだ。
実態を知れば知るほど、協力体制をとることに足踏みをしたくなる。校長と特定の教師との癒着。校長一人の特権及び嗜好で物事が動き、特定の教師の信じられない我儘が罷り通ってしまう。
定年間際の校長は自分の母校で錦を飾って終り、その後、教育委員会へ天下りとなる。それが、この地域のやり方とのことだ。
おそらく、実際に教員として採用されるのも縁故関係によるものがほとんどだろう。特に、地方や古い地域では、そういう状態であるということを聞く。
だから、この土地では十年以上も同じ学校で勤務のまま移動しない教師達が多い。
まさに、活性化には程遠い状態。しかも、校長がそのような状態ではどうしようもないだろう。
子ども達は不条理なことを見せ付けられ、不正に対して怒る気力もなくなり、諦め、ただことなかれ主義でいれば時は何事もなかったかのように流れて行くことに慣れてしまっている。
そして一番恐いのが、同じような人間になっていくことだ。問題点に目を瞑るということは、これから先、いろいろな問題があっても気付かずに行ってしまうということ。
教育改革において、まず一番先にしなければならない事は、学校のトップである校長を教育しなおすこと。倫理道徳に十分な能力のある人間を就けること。そこからしないと、なかなか教育現場は良くならない。
今日も、あきらかにおかしいと思う校長の趣味で作った配布物が手元に届いた。それを見たほとんどの人が、きっと変だと思うのではないだろうか。
トップの座に着くと、私利私欲に傾倒してしまう人間が多いのがこの土地の特徴。倫理道徳に外れた人間は教育者であってはならないし、またトップの立場に立つべきではない。
私の心の中にも、もう極力協力したくはないという思いが湧いてきてしまっている。でも、そこで足を止めたら、それもそれで後悔することになるだろう。感情の整理をしつつ歩んでいこう。
2007年10月20日
根本的な相違
一つ、また一つと終えられて行く。最初こそ大変だと思う感情があったが、何度も様々な形態のことを経験していくと、それほど大変だとは思わなくなってくる。むしろ、本番は楽しんでいる感情が支配する。
ただ、やはり公立学校の教師というのは社会経験が乏しいなと、その都度思うのである。ものの考え方、洞察力、予測、計画性などの未熟さは歴然として見える。とにかく、効率の悪さというものは、どうしてもあるのだ。
無駄な空回り、無駄な気配りなどがあるから、教師というのはすぐに大変だ大変だと口にするのである。
教師になるには、民間で10年ぐらい働くという条件が必要に思える。根本的に教員育成及び教員免許の見直しは図られるべきであるし、また、今のレベルというのは、簡単に教員免許を取得し易いので、もっと取得出来るレベルを引き上げるべきでもある。
ただ、最近、希望だなと思えることがある。それは、シュタイナー教育が、日本にもどんどん浸透してきているようだからである。いずれ、草の根が広がるように、本来あるべき姿の教育体制が敷かれるのかも知れない。
ただ、やはり公立学校の教師というのは社会経験が乏しいなと、その都度思うのである。ものの考え方、洞察力、予測、計画性などの未熟さは歴然として見える。とにかく、効率の悪さというものは、どうしてもあるのだ。
無駄な空回り、無駄な気配りなどがあるから、教師というのはすぐに大変だ大変だと口にするのである。
教師になるには、民間で10年ぐらい働くという条件が必要に思える。根本的に教員育成及び教員免許の見直しは図られるべきであるし、また、今のレベルというのは、簡単に教員免許を取得し易いので、もっと取得出来るレベルを引き上げるべきでもある。
ただ、最近、希望だなと思えることがある。それは、シュタイナー教育が、日本にもどんどん浸透してきているようだからである。いずれ、草の根が広がるように、本来あるべき姿の教育体制が敷かれるのかも知れない。
2007年10月11日
PTA 補足編
その教師である母親についてだが、その後、2回、有給休暇をとってPTAの仕事に参加してくれた。
最初は、仕事をしているから平日は絶対に無理だと言い切り、たぶん、それで押し切れると思っていたかも知れない。
だが、母子家庭の人や、他にも仕事を持っている人たちがそれなりにもPTAの仕事というものを受け止めてやろうとしてくれているのに、自分は教師です、出来ませんでは許されないこと。
だからと言って強制したわけでもなく、強い態度で出たわけでもない。
ただ、現状がどうであるかを説明し、私が作る配布物をトップレベルの高校で配布されているような趣にしただけのこと。それと、ちょっとだけ芸術的要素を取り入れたりしているのだが。
この配布物ということ。私はかつてから、この町の小学校や中学校で出されていた手紙類は、誤字脱字や、日にちの間違いなどが見られ、また子どもじみたものであったため、嫌気がさしていたし、なぜ、こんなミスプリが多いのかと疑問にも思っていた。特に、学校側が出すものにミスプリが多い。
だから、意識的に高めている。
ま、一応、そういう意味では評価される言葉が耳にも入ってきているのだが。
本当にPTAの仕事が出来るか出来ないか、それは分かること。だから、実際に大変な状況にある人には、みんなの理解を得て仕事から外している。
私の管轄外にいる人の中には、どんな状況であろうと、子どもを学校に通わせている以上、同じだけ仕事をやらせるべきだと、口から泡を飛ばすかのように喚く人々も多いのだが。
しかし、聞くところによれば、そういう意見の多いところでは問題が多く、運営が上手く行っていないようだ。
自分に厳しくあること。そして、本当の意味で公平であること。それが、大切だと思う。
まさに、それは剣の刃のようでなければならないと。
最初は、仕事をしているから平日は絶対に無理だと言い切り、たぶん、それで押し切れると思っていたかも知れない。
だが、母子家庭の人や、他にも仕事を持っている人たちがそれなりにもPTAの仕事というものを受け止めてやろうとしてくれているのに、自分は教師です、出来ませんでは許されないこと。
だからと言って強制したわけでもなく、強い態度で出たわけでもない。
ただ、現状がどうであるかを説明し、私が作る配布物をトップレベルの高校で配布されているような趣にしただけのこと。それと、ちょっとだけ芸術的要素を取り入れたりしているのだが。
この配布物ということ。私はかつてから、この町の小学校や中学校で出されていた手紙類は、誤字脱字や、日にちの間違いなどが見られ、また子どもじみたものであったため、嫌気がさしていたし、なぜ、こんなミスプリが多いのかと疑問にも思っていた。特に、学校側が出すものにミスプリが多い。
だから、意識的に高めている。
ま、一応、そういう意味では評価される言葉が耳にも入ってきているのだが。
本当にPTAの仕事が出来るか出来ないか、それは分かること。だから、実際に大変な状況にある人には、みんなの理解を得て仕事から外している。
私の管轄外にいる人の中には、どんな状況であろうと、子どもを学校に通わせている以上、同じだけ仕事をやらせるべきだと、口から泡を飛ばすかのように喚く人々も多いのだが。
しかし、聞くところによれば、そういう意見の多いところでは問題が多く、運営が上手く行っていないようだ。
自分に厳しくあること。そして、本当の意味で公平であること。それが、大切だと思う。
まさに、それは剣の刃のようでなければならないと。
2007年10月10日
PTA
PTAの仕事というのは、大体の人が嫌がる仕事。共働きが多くなってきた昨今では、それが正社員であろうがパートであろうが仕事にある程度の支障がもたらされる。
私も今年は大変な役をやることになってしまっているが、なればなったで、いろいろなことが見える。
その中でも呆れかえることは、委員になった母親が教師であったり、またはご主人が教師であるところの妻である。
とにかく、前者は忙しいという理由で逃げる。後者はPTAの仕事の自覚があまりないらしく、非協力的。
そして、連絡はメールかFAXでしたいということに対し、教職についている母親は、メールもFAXもないと言い切る。(そんなわけないでしょ!)
こんな調子だから教師の質が問われるのだし、いつまでたっても学校は良くならない。しかも、安倍総理の退陣によって、教育改革もどうなることやら・・・。
ま、私としては他の委員の人たちの不満を高じさせない為にも、共働きが多いという状況を話し、また、そういう人たちが役についた場合、どれだけ一生懸命に仕事をしてくれているかを話すことによって、取り敢えずは「忙しいから」という理由に口封じをさせることが出来ている。
そして、出来るという仕事を優先的にやってもらうことによって、なんとか公平さを保っているのである。
この学校では、母子・父子家庭に対しての委員の免除も、病気の家族を抱えていたり、あるいは自身が病気であっても、一切免除は無い。実に、酷い状態なのである。
まさに、公平という名のものとの不公平。
だが、母子家庭の人たちも今回は何名かいるが、そういう人たちほどしっかり活動に参加しようとしてくれているのだ。出来るものはするからと。
でも、無理をしている状況。だから、長という立場である以上、気配りをして負担にならないように仕事を回している。
恥ずかしくないだろうか、教師や、教師の妻達は。だから、教師たちの子どもには悪が多いと言われても、それは仕方がないだろう。まさに、親からして教師という仮面を被った自己中な偽善者なのだから。
私も今年は大変な役をやることになってしまっているが、なればなったで、いろいろなことが見える。
その中でも呆れかえることは、委員になった母親が教師であったり、またはご主人が教師であるところの妻である。
とにかく、前者は忙しいという理由で逃げる。後者はPTAの仕事の自覚があまりないらしく、非協力的。
そして、連絡はメールかFAXでしたいということに対し、教職についている母親は、メールもFAXもないと言い切る。(そんなわけないでしょ!)
こんな調子だから教師の質が問われるのだし、いつまでたっても学校は良くならない。しかも、安倍総理の退陣によって、教育改革もどうなることやら・・・。
ま、私としては他の委員の人たちの不満を高じさせない為にも、共働きが多いという状況を話し、また、そういう人たちが役についた場合、どれだけ一生懸命に仕事をしてくれているかを話すことによって、取り敢えずは「忙しいから」という理由に口封じをさせることが出来ている。
そして、出来るという仕事を優先的にやってもらうことによって、なんとか公平さを保っているのである。
この学校では、母子・父子家庭に対しての委員の免除も、病気の家族を抱えていたり、あるいは自身が病気であっても、一切免除は無い。実に、酷い状態なのである。
まさに、公平という名のものとの不公平。
だが、母子家庭の人たちも今回は何名かいるが、そういう人たちほどしっかり活動に参加しようとしてくれているのだ。出来るものはするからと。
でも、無理をしている状況。だから、長という立場である以上、気配りをして負担にならないように仕事を回している。
恥ずかしくないだろうか、教師や、教師の妻達は。だから、教師たちの子どもには悪が多いと言われても、それは仕方がないだろう。まさに、親からして教師という仮面を被った自己中な偽善者なのだから。
2007年09月01日
一掃すべきトップ
今の私の叫び。
校長はアホだ―――!!!
この町の小学校の定年間際であった校長も能力の無い思慮の浅い校長だったが、今の中学校の校長も同じ。
人間的にも能力的にも低すぎる。これが大手の民間企業だったら、永久に平社員からの昇進は望めないだろう。って、その前に就職すら出来ないだろうけれど。
安倍首相、公立学校のトップを一掃してくださいな。こんな状態では、教育現場の向上には長〜い、長〜い時間がかかりそう。そのうち、地球滅亡。
それにしても、あんなのとまだまだ顔を突き合わせていかなければならないかと思うと、ほんと、身の毛がよだつ思い。穢らわしいと思ってしまうのであった。
個人だけの問題であったなら時間の無駄だと、さっさと離れるのだが。
あ〜、穢らわしい。
校長はアホだ―――!!!
この町の小学校の定年間際であった校長も能力の無い思慮の浅い校長だったが、今の中学校の校長も同じ。
人間的にも能力的にも低すぎる。これが大手の民間企業だったら、永久に平社員からの昇進は望めないだろう。って、その前に就職すら出来ないだろうけれど。
安倍首相、公立学校のトップを一掃してくださいな。こんな状態では、教育現場の向上には長〜い、長〜い時間がかかりそう。そのうち、地球滅亡。
それにしても、あんなのとまだまだ顔を突き合わせていかなければならないかと思うと、ほんと、身の毛がよだつ思い。穢らわしいと思ってしまうのであった。
個人だけの問題であったなら時間の無駄だと、さっさと離れるのだが。
あ〜、穢らわしい。

