2006年09月07日

若者を中心に見られる障害

 衝撃的な話を聞いた。最近とみに若者に見られる現象で、電車や道路などの地べたに座るとか、人前で化粧をしたり直したりする人間、また、電車やバスの中で平気で飲み食いする人は、障害を持っているとのことである。

 それは、子ども並の精神状態までにしか発達していないからであり、恥じらいという情緒の機能が正常に備わっていないからであるという。
 
 確かに幼い子どもというのは、自分の欲求が受け容れられなかったり、かんしゃくをおこすと、ところ構わず寝転がってだだをこねたり、あるいは、どこでも飲み食いしてしまいがちである。

 この現象といい、ニート現象と言い、世の中は精神に障害などの問題を持つ人が増加してしまっている。なぜこうなってしまったのだろうか。

 恐ろしいことは、子ども並の精神状態までしか発達していないのに、情報社会の中でいろいろな知識が備わり、身体的にも大人であるために力があることだ。

 だから、子どもの虐待とか、あるいはペットを物のように扱ったり、親に手をかけてしまったりとかの犯罪が増加しているのかも知れない。

 そういうことが先天的な障害なのか、後天的なものなのかは分からないが、おそらくそういう行動をする人の親はしっかりした躾が出来なかったのではないだろうか。

 それこそ幼い頃から、善悪とか恥じる気持ちとかの情緒は、一つひとつの体験の中で教えていかなければならないこと。男女共同参画の社会は、その発想はいいのだろうが、何か偏ったものであり、性別を超えてしまう視点を植え付け、自らの手で子どもを育てるという社会を壊しているように思える。

 中学までは義務教育であるが、実際、精神的にも、その年齢までは躾が必要なのだ。その年齢までにしっかりとした躾やサポートをすることが出来れば、後は自立できる。

 自分の子どもをこのような精神障害者にしてしまってはならない。そのためにも、自分の価値観を高める必要があるのだ。

 そして、犠牲的精神を養わなければならない。犠牲ということはマイナスのようなイメージがあるが、決してそうではない。善き犠牲は、大きな希望を生じさせるからである。
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2006年09月01日

親としての仕事

 最近、両親の離婚によって子どもたちの心に荒廃が起こり、事件を冒してしまうケースが多くなっている。

 大人たちは自分の都合で結婚し、自分の都合で離婚する。でも、子どもは振り回され、心臓が壊れてしまうほどパクパクしている。

 子どもをつくったなら、子どものために限界まで我慢するのが親たるものの務め。せめて、成人して、精神的にも耐えられるようになってから結論を出すべきではないだろうか。

 所詮、他人同士だった者が一緒になれば、それは摩擦や反発があるのは当然のこと。しかし、如何に歩み寄って、一つひとつを克服していくかが、本来の結婚のあり方のように思う。

 ましてや、子どもがいたなら、子どもを中心に考え、親は自己犠牲に徹っするべきだとおもう。忍耐。忍耐の連続。自分たちの都合で子どもを作った以上、その一つの生命を育て上げるまで、すべてを捧げる覚悟がなくてどうするというのだろうか。

 一つの生命のなんと尊いことだろう。それを、自分の手でこの世に誕生させた以上、この手で、光の玉として外へ旅立たせてあげたい。それが、親としての仕事。
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千差万別

 人間の尺度や感覚は千差万別。国によっても違うし、民族によっても違う。そういった大まかなものからもたらされる相違は理解できるが、同じ日本人でありながらの相違は理解できないこともある。

 たとえば、この町の小学校のPTAの状態。PTAとは、文字通りParent−Teacher−Association で、親と先生の会である。

 私は、その実体を目にしたとき、大変驚いたものだ。5月始めに新委員たちと教師たちが集まって行なわれる茶話会というものがもようされるのだが、なんとビンゴ大会というものがあったのだ。PTA会費から景品が購入され、お茶やお菓子も経費から落とされる。

 また、本部役員になると打ち上げというものを行い、何かイベントが行なわれる度ごとに、やはりPTA会費からケーキやお茶菓子購入費や食事代が出される。年間にしたら相当の金額になる。

 が、教師も保護者たちも何の疑問も持たずに延々と行なわれてきた習慣なのだ。

 私も私の他府県に住む友人たちも、このような状態のPTAは聞いたことがないと驚いていた。

 こういった一つのことを取り上げてみても、生まれ育った環境で価値観も、物事を計る尺度も違うものだということがわかる。ただ、教師たちも何の疑問も持たずに一緒に宴に興じていたという道徳観念は恐ろしいとしか言いようがないのだが。こういった教師が子どもたちを教える立場にいるかと思うと、ぞっとする。

 また、この町独特なものは、小中学校共にPTA会長に立候補する人がいて、それが政治がらみとなっている。優れた人間ならいいが、そういう人間に限って疑問符がつくのである。本当に、地域性とはすごいものである。価値観や道徳観念までも麻痺させてしまう。外のいろいろな世界を見れた者は幸である。
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2006年08月27日

教育現場と親

 最近、中学一年の男の子がいじめを苦に自殺したという事件が報道されていた。しかも、その後の調べで、小学校の頃から3年にも亘る長い月日を。

 こういう事件を聞くたびに心が痛む。私は、この土地へきて初めて知った小学校の酷さに愕然とした。何がいけないかというと、教師の質の低さだった。

 が、海外の日本人学校は素晴らしかった。たまたま、歴代の校長の中でも最も優れているのではないかという校長であり、教師たちもそれなりの試験をパスしてきた人間。やる気と、海外での実際の生活経験から来るしっかりした見方を全部の教師ではないが、多くの教師たちが具えていた。

 そして、PTAの本部役員も父親が名を連ね、まあ、実際に細かい事で動くのは母親ではあるが、そういう意味でも、教師たちも馬鹿なことは出来ないという良いプレッシャーがあったように思うし、保護者からの助言を素直に聞ける体制を心得ていたようだ。

 また、日本へ帰国してから半年だけであったが、子どもを通わせた公立小学校も優れていた。関東以北の小学校であったが。

 そこは、かつて全国放送にも取り上げられたほど問題のある小学校であったという。はっきりした理由は知らないが、人から聞いた話しでは、小学校のある女教師が担任をしていたクラスから問題児が多く出ていたということであった。

 そして、わが子が通学し始めたときには、既に立て直しが計られて軌道に乗っているときであった。しかも、帰国子女ということで細心の注意をはらってくれ、担任の教師はというと、学校内でもとりわけ優秀で子どもたちから慕われている教師であった。

 確かにすごい気迫と行動力を伴う人であった。その後、自分から志願して、まだ荒れている中学校の教師として赴任して行ったという。

 とにかく、夏休みであろうと、自分のスケジュールをすべて表にして児童に配り、携帯電話も明記し、それでも自分に連絡がつかなかったときの連絡の取り方を教えていた。365日24時間が生徒たちのためにあるような教師であった。

 もちろん、その学校は校長から事務員、給食の職員に至るまで、すべてが見事なまでにきれいに統一されて細心の注意がなされていた。

 しかし、この町の教師は立て直しのために選ばれてきたと自分で言っているにもかかわらず、アメリカへの研修旅行に選ばれて行ってくれば、もう天狗になって、全てを知ったかのような態度になってしまう教師もいた。皮肉な事に、その人は中学校から小学校へ転任してきた教師であった。

 同じ立て直しでも、前者のように学校だけではなく、市全体が、そして市民が一体となって取り組んだ学校と、この町のように全国的な知名度の高さゆえか、不祥事をなんとか押し隠そうとするところでの立て直しには雲泥の差がある。

 小学校の教師ほど危険な職業はない。社会経験を積んだわけでもなくいきなり先生となり、しかもいいなりにできる幼い子どもたち。思い上がって、人に頭を下げる事も出来なくなり、何かを指摘されれば腹いせに何かをしようと走る。そして、当然、危機意識など薄い。

 私は思う。小学校教育の体制を整えるだけで、物事は大きく変わるだろうにと。

 小学生というまだまだ壊れてしまいそうな段階において、そのサインに気付かなかったり、深刻に捉えようとしない教師たち。何もわかってはいない。

 私の子どもたちは、毎日のように友達を家に連れてくることが多かった。しかも、二人とも多くの友人に恵まれていたので、様々なパターンの子を見ることも出来たし、その実情を把握する事も出来た。

 その中で言えることは、教師は、ほとんど子どもたちのことが見えていないなということである。子どもたちの仮面を見ているにすぎない。

 ただ、先にも書いたように、ほんとうに優れた教師には見えている。なぜなら、子どもたちの魂の琴線に触れているため、絶対的な信頼感を得て、子どもの方からいろいろ言ってくるからだ。

 そういう教師は、いつも、どんな些細なくだらないと思われることでも言ってきてくれとみんなに伝えていた。そして、ほんとうに、ゆったりと聞くのだ。どんなに殺人的に忙しくてもである。そして、大変だという愚痴は決してこぼさない。

 そんな教師が、海外での日本人学校にも一人いた。40代ほどの独身の女教師であった。なぜ教師になったかというと、自分が小学生の頃、教師から辛い目にあわされたため、自分が教師になって子どもたちを守りたいと。だから、特に高学年の子どもたちからは、クラス担任という垣根を越えて圧倒的な支持を得ていた。幸にも、わが子は、その教師のクラスであった。

 私は、これほどまでに雲泥の差のある教師たちを、学校を見ることになったのも、まさに運命だったのだろうかと思う。

 時期首相候補の安倍氏は、小泉首相が取り組めなかった教育改革をやりたいと述べているが、実現して欲しいものである。今の日本の教育現場は、あまりにも荒廃している。特に物事をはっきり伝えられない小学生たちを取り巻く環境。

 もちろん、今の親たちも、昔に比べたら親らしい親が少なくなってきている。これも大きな問題である。なぜ、そうなってしまったのか。それは、その親自体の育てられた環境にもあるし、今の社会体制にも原因はある。

 また、いじめや犯罪を行なう子どもの親には、決して優れた親はいない。なぜなら、育て方を間違え、親自身も自分を律することが出来なかったからだ。だから、子どもが悪を平然と行なうのである。

 また、学校が酷ければ、子どもたちだけでなく、親たちも荒れる。そして、学校が酷いということは教師だけでなく、そこの事務員や養護員までも唖然とするほど酷いものなのだ。

 その中に置かれる子どもたち。安心の中にではなく、危険の中に。良い学校に、また良い教師に出会えることは、まさに幸である。

 
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2006年08月26日

不幸が生む幸福

 さて、私がこの土地へ来てからの悲劇・・・、いや、不幸が実は幸福であったということを話そうと思う。

 マンションが立ち並ぶ中、最後に建設されたマンションを購入して引っ越してきた。当時、小学校1年と5年の子どもがいた。

 小学校は毎日集団登校という形をとっていたが、わが子の所属する地区は総勢100名ほどの児童がいて、それぞれのマンションとその近隣の一戸建ての児童たちのグループ4つが始めに集まってから、その後、4つが一箇所に合流して出発というものであった。が、これほど大勢の児童がいるにも関わらず、地区委員は二人、担当の教師は一人しか配置されていなかった。そして、ここは子どもたちよりも大人たちが荒れている状態であったのだ。

 かつても書いたように、頻繁に救急車で運ばれている病弱な母子家庭の母親に無理やり役を押し付けて、その2ヵ月後には亡くなったということもあったゆえに。

 わが子のグループには男女とも6年生がいなかった為、5年生であるわが子と、もう一人の5年生の男子が班長となった。

 そして、グループには、祖父が小学校の校長をやっていた人間とか、他のマンションで賃貸で住んでいたときに地区委員をやった人間とかいたので、当然、スムーズに運ぶと思われた。

 しかし、それはまったく当てにならなかった。私のところを除いて、全員、平気で車での送り迎えを頻繁にして、まったく集団登校どころではなかったのだ。しかも、行くにしろ、遅れるにしろ、連絡の出来ない親たち。なぜ車かというと、小学校までけっこう離れている為に、雨が降れば可哀想だから、熱いから、或は寒いから可哀想だという理由なのである。また、中学受験のために時間の無駄だという親もいた。男女共に。実に軟弱な育て方。

 しかし、他のグループは真面目に集団登校をしていた。だから、集合場所に遅れないようにとか、車で行かないように言えとかの注意が、地区委員から真面目なわが子だけに来ていたのである。

 何度か親を集めて話しあいが行なわれたが、一向に改善されない。私は、地区委員だけでなく、学校側にも対処を求めた。しかし、何もしようとはしなかったのである。

 その小学校は、長年居座っている教頭の私物化された状態となっていた。校長は、定年間際のお飾りの校長。発言権もなく・・・。10数年、その学校に勤務している教師もかなり多かった。まさに、化石というべきか、廃墟と化したものだった。教頭の発言権が強い為、その利害と一致する教師たちのワンマンぶり。たとえ心ある教師でも、どんな間違っている事でも教頭がNOと言えば、引き下がるだけであった。

 また、事務員も酷いもので、転入の手続きに行ったとき、事前に連絡をしていたにもかかわらず、書類は揃ってはいず、挙句の果てに銀行引き落としの書類がないからと、見本で書かれてあるものを消しゴムで消して渡されるし、制服だったので、どの店で買えばいいのか聞けば、すでに半年前に閉店になっている店を教えられるなど、たいそう酷い対応で困ったものだ。

 PTAはというと、これも利権がらみ。役員になれば、教師たちと友達言葉でのため口。ルールも何もない。当然、学校全体のレベルも低く、柄の悪い子ども多いし、いじめも多い。また、不登校の子どももかなりいた。近隣の市町村の人たちからの評価は低かったし、生徒を非難する声も耳にした。

 また、家庭訪問の時には、担任の教師曰く、「最初、どこのうまの骨かと思ったが、文武両道に長けて、性格もいいし、自分のクラスに入れて儲けた」と。要するに、この土地は複雑な家庭が多いためだろうか、私のところはマンションの購入に当たって、手続き上、主人と家族の転居日が違っていたので、そこから変なかんぐりをしていたらしい。

 5年生のわが子は毎朝、腹痛を訴えるようになった。しかし、責任感の強い子だったので、決してルールを破ろうとはしなかった。いつも、来るか来ないか分からないのに、集合時間の5分前には行っていた。1年の子も、「みんな自分より大きいのに車で行っているのだから、私も送ってよ」と訴える。しかし、ルールはルール。上の子が頑張っている以上、我慢してよと。

 度重なる話しあいや、他グループからの非難により、それから一年後、それでもやっと形は出来てきた。しかし、それでも、足を引っ張ろうとする親がいた。

 嫉妬であった。その親の子どもの女の子は、まったく友人を作ることの出来ない性格であった。しかし、わが子は二人とも、すぐに友人をたくさん作れていたので、毎日楽しそうにしている姿が気に入らなかったのだろう。そして、購入した部屋も安いところ。時々、言っていた。「お宅はいい車に乗っているわね。うちのは小さいから。」と。学年が違ったのも不幸であったのかも知れない。

 もう一人、その女の子と同じ学年の女の子がいたが、その子は母子家庭。しかも、母親がヒステリックなほどワンマンな為、その子は外では活発な子であるが、母親の前になると意見も言えないほど息を潜めているような子どもであった。

 そして、その二人の親は似たもの同士。幸せそうな家庭への強い嫉妬が、共謀へと駆り立てていたのであろう。

 親子共々、ルールを乱しているため、地区担当の教師の目にも問題と映っていて、学区会のときに注意がなされていたよういだ。が、そのことが、またその親のしゃくに障ったみたいであった。

 上の子が卒業して、下の子だけになると、登下校中にいじめが始まった。その子たちは、5年生、わが子は3年生の時だった。6年生は二人いたが、一人はお受験のために完全に車での送迎。しかも教頭と裏でつるんでいる親だったので、規定に反する選考委員の免除行為も教頭の一存で免れていた。もう一人は、挨拶も出来ない大人しい子で、前を向いたら向いたまんま、後ろで何が起こっても知らん顔という状態であった。

 その二人の女の子の親たちにも話し合いを求めた。しかし、三人の親はこう言う。「いじめなんかよくあることで、当たり前のこと。私も子ども頃はいじめられてた。そして、いじめているのは知っていた。」と。

 わが子は、さすがに集団登校が辛くなってきてしまった。学校は何もしてはくれない。地区委員も自分たちが100名ほどの児童をまとめるのが大変で、ヒステリックな状態になっていたため、まさに袋小路。

 担任の教師に相談した。そうしたら、その教師のいじめが始まった。40代半ばの三人の子どもを持つ女教師。自分の3番目の子どもが、仲の良かった友達からいじめられているとのことだった。そして、こう言った。「お宅の娘さんは、なぜか女の子たちから人気がありますね。」と。その時、しまったと思った。この女もまた、嫉妬で行動するのかと。

 その教師は、かなり自己顕示欲の強い人間だった。長い髪はご自慢。自分で自分のことを、例えば、よりちゃんとか、より子などと呼び、保護者の連絡には、赤いハートマークを書いてよこしたり、どこか狂っていた。

 それから陰湿ないじめが始まって、わが子はチック症にまでなってしまった。でも、友人が多かったため、一度も学校を休みたいとは言わなかった。

 集団登校に関しては、他のグループに変えて欲しいと頼んだが、教頭は、そういうことは出来ないといい、担任は、いっそ離れて個人で通うようにと強く勧めた。校長は、地区のことは学校は関われないから、地区の中で解決してもらうしかないと言う。集団登校は、学校が多いに関係あるのというのに。道徳も常識もない教師たち。

 校長も、教頭も、教師たちも、すべてがそんな状態では、もうどうしようもない。しかも、教育委員と教頭と、暴力団と関係があると噂されている自治会長がつるんでいたのでは。

 一人、集団登校から離れた。そして、台風などの緊急下校になったときも、一切学校からの連絡はしないとのこと。だから、小学校三年生のわが子は、自分で公衆電話から電話をして、荒れ狂う外で迎えに行くまで待っている状態であった。まさに、人殺しの学校。

 こうなったら、もう、一人でどんな危険な状態になっても対処できる術を教え込まなければならなかった。そうして、そのように教育した。

 その後、2ヶ月ほどしたときだった。クラスの男の子で問題児がいた。その子は、とにかく暴力を振るう子で、友達の腕の骨を折ったりしているような子であった。その子が、どうもわが子を含む女の子にちょっかいを出してくるようになったので、担任に注意の勧告をお願いした。

 しかし、不真面目な応対であった。ちょうど、一ヵ月後、事件は起きた。下校途中、その子に傘で頭を突かれて、縫う大怪我をした。しかも、やれと自分の傘を渡した男の子がいたのだ。そして、血の付いた傘を平気で家に持ち返って、ことが大きくなるまでそ知らぬ顔をしていた。その子の親は教師であった。

 実際にやった子の両親は誠心誠意謝ってきたが、その小学校の教師の両親は言い訳をしにきただけで、それ以後、なんの音沙汰もないというとんでもない親であった。

 その事件が起きた時、周りには沢山の友達がいたので、みんなわが子に付き添っていてくれた。そして、不幸中の幸か。その現場近くに看護婦をしている母親の友人宅があり、応急手当をしてもらえていた。

 わが子も、おびただしい血に驚いてはいるものの、もう、辺りは暗くなっていたために、車の中で、家の遠い友人の安否をしきりに気づかっていた。

 私は、驚いた。こんなに大変な状態なのに、なぜそれでも友人のことに思いを寄せれるのかと。

 また、子どもは実際に暴力を振るった男の子のことも気づかっていたのだ。その子は殴った後、気になって現場に戻ってきたらしい。そして、沢山の血を流しているわが子の姿を見て、びっくりして急いで逃げ帰ったそうである。

 わが子は、その子がすごく驚いていたから大丈夫かなと気づかった。

 さあ、それからだ。今まで黙っていたが、その担任の教師の指導方法に疑問を持っていた親が、その教師に対して疑問を投げつけたり、助言をするようになったのは。

 私も、それをきっかけに、外部に情報を流し続けたり、相談を持って行った。もう、内部ではどうにもならないから。

 そして、事態を重く見た県教育委員会から、立直しのための校長が派遣され、教師の大幅な異動が三年続けて行なわれた。

 また、例の女教師は、3学期に子どもたちにアンケートをとった。好きな子、嫌いな子を書くように。

 クラス替えのときに、ほとんどは仲の良い子と一緒にしたが、わが子だけは、あれほど大勢仲の良い子がいたのに、すべて離され、嫌いな子と一緒のクラスにされた。しかも、そのクラスは、問題児を多く集めたようなクラスであった。万引きをする子、盗み癖の激しい子、暴力的な子、障害者とは認定されないが精神的に偏った子などなど。

 そしてまた、自分も持ち上がりで、その学年のクラス担任となったが、自分のクラスには比較的良い子ばかりを集めていた。

 わが子のクラスは、転任してきたばかりの教師が担任についた。が、その教師は立直しのために呼ばれた教師であった。

 最初の一年は、実情を見極めるものであった。私は、知っていることすべてを伝えた。

 しかし、選ばれた教師と言えども、確かにその小学校にしてははるかに行動力があっていいのだが、レベルはそれほど高くはない。この県の教職員の質全体の問題だろうか。

 クラスでリストカットが流行り始めた。その教師も40代の女教師であったが、生徒を頭から押さえつけるやり方であり、また、自分が過ちを犯しても決して謝ることが出来ない人間であった。その教師の前ではいい子でいるが、影ではまったく違う顔になる子どもたちが多くなったのだ。

 とにかく、その一年も、わが子にとっては驚きの大変な一年となってしまった。しかし、悪の世界に染まることはなかったものの、悪と上手く付き合う方法を見出したようである。

 やがて進級し、頭から押さえ込もうとする小学校と違って、かなり自主性が尊重される中学校では、まるで水を得た魚のようである。

 小学校で身に付けた、どんなパターンの子とでも上手く付き合えるというものは、益々多くの友人関係を築いている。

 また、自分のやりたいことがあれば、友達を感化して引き込み、達成してしまう。文武両道に長けた優れた友人から、登校拒否になった子まで、様々な子を自分の世界に引き込んでしまうパワーはすごいとしかいいようがない。

 また、新たに部活を作りたいと思うと、一日で申請に必要な人数を集めてしまうし。しかし、学校から許可が下りるかどうかはまだ分からないが。

 また、この夏には、一人で海外旅行へ行き、現地の人とも仲良くなったりという経験もした。

 つまり、小学校での不幸な状態が、現在の幸福を作り上げたのである。

 あの時、一人ですべての危険から身を守り打破する術を学ばなかったなら、今日の行動力は備わらなかっただろう。また、ここへ引っ越してこなければ普通の生活で、自分に似た環境の友人達としか付き合わなかっただろうが、否応なしに、悪を行なう人間を友人にしなければならなかったという経験は、どんなタイプの人とも上手く付き合っていけるという状態を育てた。また、悪に染まらないという強さと術を生じさせた。

 また、酷い大人たちを見たという経験は、人を見抜く目を養わせてもいるようだ。彼女は、外的なことで人を判断することはあまりなく、友人の心の状態を真っ直ぐ見て、価値を決めているようでもある。

 だから、その時に不幸だからといって、本当の不幸とは限らない。それをどう乗り越えるかで、計り知れない幸福が得られるのである。

 もう一人の子については、まだ書くのは温存しておこう。別な角度から問いたいことがある故。でも、そう遠くない日に書けると思うが。

 しかし、この土地へ着てから経験したことは、これが全てではない。まだ、100分の1程度か。来てすぐにいろいろな役をやると、けっこう実情が見えるものだ。そして、荒廃したところでは、ほんとうに凄まじい想像を絶することが、普通の顔をして、普通の顔をした人間たちによって、また、聖人の仮面を被った人間たちによって行なわれるものである。

 ああ、そうそう、学校も、土地の雰囲気も、私たちがここへ来た時よりもはるかに良くはなったようだ。それでも、まだまだな所ではあるが。

 立て直しに来た別の教師に言われた。「本当に、一番大変な時に来ましたね。」と。
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2006年08月03日

行政の怠慢

 毎年毎年、夏になるとプールの管理体制の悪さから起こる事故のニュースが流れる。なぜ、他所で起きた事故を教訓として、自分のところの安全管理を見直すことが出来ないのか、実に不思議である。それだけ、すべてに対して危機管理意識が低い日本ということなのだろう。

 確かに、いろいろなプールを見ても、監視員は学生やシルバー人材センターから派遣されている人のように見えるアルバイトが多く、その中には、ほんとうにこんな人で大丈夫?と思われる人さえいる。

 たまに、的確な指示や注意を出している人も見かけるが、そういう人はかなり少ないように思われる。

 私の住んでいる町の町民プール。ここへ引っ越してきた時には驚いた。終了間際になると、まだ泳いでいる子どもたちがいるのに、監視員の学生アルバイトたちがサンダルを履いたまま、Tシャツを着たまま、プールに飛び込んでふざけるのが日々の恒例になっていた。時には、監視台までも投げ込む有様。

 誰か責任者はいないのかと見渡すと、一人の高齢の男性が管理室にいて見ていた。しかし、なんの注意もしていない。翌年も、またその翌年も同じことの繰り返し。今まで、ずっとこんな調子で運営してきたのだろう。そして、誰も、こういった学生たちの行為に対してなんの疑問も持たない町民性なのだろう。

 また、この町民プールは町民意外の人は使えないことになっている。そういう閉鎖的な面も、ずさんな管理体制の放置へと繋がっているように思う。

 ほんとうにこの町は独特なところ。ここへ来たばかりは、生ごみの収集は祝祭日は行っていなかった。夏場など10日ほど出せない時もあった。その時の異臭や不衛生さには辟易。

 役場の人間にその質問をぶつけてみると、同じ職員が収集を行っているから、祝祭日も働けとは言えない、との返事。収集業務を外へ委託しているのではないらしい。しかし、唖然とする答えである。が、それから3年ほどして、生ごみだけは祝祭日も収集するようになったが。

 また、小中学校へパソコンの導入が決まり、全国で98パーセントの小中学校がすでに導入していたにも関わらず、ここの学校は一台も入れていなかった。小学校の規模も全校生徒700名ほど。その規模の小学校が町内には3つあるので、過疎地というわけでもないのだが。

 ただ、その一つの学校は酷い状態であった。内部ではただ黙認しているだけ。そして、そのことが外部に漏れたとき、あまりの酷さに、県の教育委員会の人間が校長として派遣され、多くの教師の入れ替えが一挙に行なわれて立て直しが始まった。

 が、学校の立て直しとは別に、この町の行政が真っ先に手がけたのは、外部に対してのPRだった。学校が立て直しを行なわなければならないという不祥事をやっきに払拭するかのように。

 この町では全国で始めてこんなことを手がけたとか、学校ではこんな素晴らしい講師を呼んで新たな活動を始めたとか、とにかく、ニュースとして取り上げられ、賞賛されることに着手していた。とにかく、町のイメージを保つだけの為に。

 私は、そんな町の行政としての態度を見ていて、この町の住民たちの意識が高まるのは時間がかかるなと思わざるを得なかったのだが。

 確かに、この町の知名度は全国的にも高い。おそらく、誰もがいいイメージを持つところだろう。私も、ここへ来る前まではそうだった。

 最近読んだ本の中で、この土地のことを旅情豊かに表現していたものに出会った。たぶん、私はもうここに対して、そんな思いを抱くことは出来ないのだろうなと、ふと淋しさを覚えた。
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2006年08月02日

日本人

 世の中は、毎日、毎日、なんでこんなにも酷い事が起こるのだろうかと思われるほど、尽きる事のない悲しいニュースが流れている。

 子どもへの虐待。食事すらまともに与えない親。自分の子どもなのに、ただのゲームの中の玩具のよう。

 親の育った境遇がそのまま尾を引くことが多いというのは、もう周知のことなのに。それでも、国の政策は物質的な国益重視の為に、非人間性生産への道を推し進めている。

 ごみに対する概念も低い日本人。一見、ごみ減量への数字はでているかのようだが、それをよく見れば、まだまだ一部の常識ある人間たちの努力によってでしかない。いまだに分別したり、減らそうと努力をしない人間は多い。煙草やごみのポイ捨て。そういうことに対して、行政は決して本気モードではない。

 ドイツ国民のごみ減量に対する意識の高さや、シンガポールの徹底したポイ捨て禁止政策。日本人は、まだまだ意識が低い。

 神国、日本。などとは到底言えない現状。公共的な物に対する意識は、かなり低いのではないだろうか。そして、われ良しだけの世界が強い。なぜ、こうなってしまっているのだろうか。

 教育。教育者たちの実践。そこが大きく飛躍すれば、十数年後にははるかに良くなっているだろうと思うのだが。

 そんな中、画期的なニュースもあった。積水ハウスで働いている朝鮮人の従業員が、顧客から差別的発言を受けたということで、会社側は全面的に従業員の支援を行い、裁判費用も会社持ち、それによって出勤できない時は欠勤にもしないというとのこと。

 昨今、あまりにも相手を傷つける暴言が多くなっている。子どもたちだけでなく、れっきとした大人たちまでもが。平気で、自分の腹いせだけの為に下等動物的に攻撃的感情をぶつける。

 顧客であれば、なにを言ってもいいなんて法はどこにもない。お金さえあれば、何でもしてもいいなんて法もない。被害者であれば、相手を殺すような言葉を投げ続けていいという法もない。

 いつの間にか、人間としての尊厳を失っていく人々。だから、この積水ハウスの態度は非常に興味深いし、社会に対して良い布石となるだろう。

 そして、いつも自分自身を省みなければならない。今日は恥じることをしなかっただろうか、今日は愛をどのぐらい持てただろうかと。自分を省みる事が出来なくなったら、それは客観的に見る目を失ったということ。盲目に等しい。だから、常に気をつけていなければならない。
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2006年07月25日

教師

 今日のニュースで報道されていた。いまだにパソコンを使えない教師が4人に1人いるという。パソコンが普及されてから久しい。当然、学校の教職についているなら、今頃は習得できているのが当たり前のこと。あまりの怠慢さに驚きを隠しきれない。

 しかし、小・中学校の教師のレベルはと見ると、学生の頃特別出来た生徒ではない。中の上というところだろうか。だから、本気で勉強を頑張ったというのでもなく、物事に対する姿勢も、発想や考え方も優れているわけではないのだ。

 もちろん、教師の中には優れた人もいる。私も知っている限りでは、数人ほど素晴らしい理念と行動力と情熱を持っていた教師はいる。そういう方々は、他者からの意見を謙虚に受け容れる姿勢が出来上がっている。だから、その教師自身も、その教師から指導を受けている生徒たちも伸びるのである。

 教師批判は、そういう方々には申し訳ないが、現状は100人に1人素晴らしい教師がいるが、5人に1人は教師に相応しくない人が存在しているように思う。

 ただ、そういう特別頑張ったということを経験できていない人間が社会人になり、いきなり教師ということで人の上の立場に立ってしまうから、傲慢にもなり、頭を下げるということも出来なくなり、しっかりした常識や道徳を身に付けることも出来ず、視野も狭く、社会の早い流れに着いていけずにさまざまな問題を生じさせてしまうのだ。

 また、基本的なことも出来ていない教師がちらほらといることにも驚く。小学校レベルなのに、まったく間違った計算法式を教えていたり、同じ学校内であるのに、教師によって教え方が違うのだ。

 それに、中学校でも、授業中に公然と天皇批判をして自分の考えを押し付けようとする教師とか、子どもでも知っている基本知識がない体育教師とか・・・。だいぶ、教育現場はずさんである。

 また、こういったことも学校によって雲泥の差があるものである。同じ公立学校なのに、良い学校と悪い学校の差があまりにも大きいのだ。

 私は、思う。特に小学校というものはとりわけ大切な期間。その6年間は、人としての人間性を作り上げる基盤となるもの。そういった重要な期間であるからこそ、優秀な教師が必要なのだ。

 もっとレベルの高い人材を教師として採用し、民間なら当然行っている技術習得や実力などによって昇進、昇給、ランク付けがおこなわれるような制度を導入すべきだと思う。

 小学校が変われば、国自体も大きく変わると思うのだが。時間ぎりぎりに子どもたちよりも遅く出勤して、時間になるとさっと帰ってしまうような教師は必要ない。教師たちに甘い学校は、生徒を駄目にする。互いに切磋琢磨できる教師を教師と呼ぶものだと思うから。安定職として教職を選ぶ人間は、最低の教師である。
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2006年07月02日

異なるゴールへのリレー

 久々に体調を崩すと、自分の体が敏感になっていることがわかる。体調を整えるには食事が大切なものとなるが、まず、果物類を欲し、次に温野菜を欲する。

 エーテル体で出来た食物を欲するというのは、やはり肉体が衰弱した時、エーテル体が弱まっているので、それを快復させねばならないからだろう。そして、肉食は摩擦を生じさせるので、スポーツなどをやっている人にとっても、ある程度エーテル体が整ってから与えた方がいいように思う。

 最近の新聞に、子ども達の偏食やむら食いなどについての記事が掲載されていた。

 離乳食としてベビーフードを与えてられた回数が多い子どもほど、手作りの離乳食を与えられていた子どもたちに比べ、偏食やむら食いになる確立が多いとのこと。

 また、ベビーフードを与える回数が多い親は、自分自身が子どもの頃にインスタント食品を食べることが多かったとのこと。

 つまり、自分がインスタント食品で育てば、その子どももベビーフードに頼って育ててしまうということである。手抜きのバトンタッチ。

 しかし、これは統計をとらなくても分かりきったことである。人間というものは、自分の育った環境に感覚を合わせてしまう。そして、それは同じ度合いではなく、もう少し質の低いものへと落とされていく傾向が見られることが多い。

 だから、子育てとはとても重要なことなのに、今の社会は生めよ増えよだけで、子どもを育てる環境があまり重要視されていない。しかも、高齢者の就労への斡旋もし始めようとの政策が進められている。

 子どもは、親にも十分に見てもらえず、祖父母も仕事で忙しく疲れてしまい、見てもらえない。完全に、施設に任せきりの時代が到来しようとしてる。

 子どもにとっては一日一日が大切なことなのに、これから先、日本はどのようになっていくのだろうか。健全な人間が育つ割合が非常に少なくなっていく。その傾向はすでに現われているというのに、まるで何かに取り憑かれてでもいるかのようにマイナス極の方へ引っ張られているようだ。
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2006年05月11日

子どもの叫び声が聞こえるか?

 子どもというのは、大人たちが思う以上に我慢するものである。それが、3歳、4歳という幼い頃であってもである。むしろ、幼いがゆえに、大人たちが絶対者として、その前に存在しているから。とりわけ、親に対しては。

 だから、よく、うちの子にかぎってという反応の親がいるが、親の前では良い子にしていても、その我慢というストレスは他へと発散されている。

 親の前で、自分自身をさらけ出せることの出来る子は幸せであり、これが本来の姿であるが、自分を抑えていなければならない子は不幸である。

 親が忙しいからと、熱があっても学校へ行かされる子も少なくはない。登校拒否の最初の段階で、親から給食だけ食べにいけと言われ、給食の時間だけ来る子も少なくはない。が、やがて、友人たちの冷ややかな目もあり、そういうことも辛くなり完全な登校拒否へとなってしまう。

 優れた担任に出会えれば幸運であるが、多くの教師にはそのような資質が備わっていないのが現状。教職仲間からは評判が良くても、生徒たちにリストカット誘発させてしまう教師もいる。をむしろ、ある程度大きな所の塾講師の方が、子どもたち一人ひとりの性質を見抜いていたりする。

 子どもたちは、ほんとうに我慢をする。我慢をして、我慢をして、それでも希望を見出せなくなったとき、崩れ始める。そして、一旦、崩れ始めると、その速度はあまりにも速いのだ。

 しかし、子どもたちは、あらゆるサインを無意識のうちに出している。親であるなら、教師であるなら、そのサインを見抜けて当然ではないだろうか。

 人間を育てるということは大変なことである。いくら自分たちが上手く育てていたとしても、世の中には様々な人間たちがいて、予期せぬことに巻き込まれることもあるだろう。しかし、そのようなときでも、親は子どもを守り導いて当然なのだ。マイナスをプラスに変えて当然なのである。



 また、子どもたちは、何かあるときは、親が当てにならないのなら、一人、二人と身近な大人たちに話を聞いてもらうのがいいだろう。必ず、どこかに一人は真剣に聞いてくれる大人はいるものだ。

 そして、子どものうちは、守りに入る必要はないと思う。闘って、闘って道を切り開いていくことが必要なのではないだろうか。諦めるということほど、悲しいことはないから。そして、いつか希望の光を見出せるものなのだ。自分の可能性を信じること。自分で自分を見捨てないこと。これが、大切なことだと思う。
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2006年05月10日

脳科学から見たきれる子ども

 今日のNHK放送で、脳科学ときれる子どもに関する特集をやっていた。本来なら、前頭前野と扁桃体が共に発達をしなければならないのだが、その発育状況のバランスが崩れているという。そして、前頭前野のほぼ中心に位置している46という箇所に、きれる子どもの原因があるのではないかとのことだった。

 また、この番組の中では、猿による実験も行なわれていて、人間のさまざまな表情での脳の反応を検証していた。

 特に、笑顔には反応する。そして、それも見知らぬ人間の笑顔と、普段から接触している飼育係とでは大きな差が生じるのだ。いかに、身近の人間関係が重要であるかの証明。

 そして、ある保育所では「じゃれつき遊び」というのを行っている。それは保育士と子どもたちの肌と肌のふれあい。また、その遊びの終り方の重要性も語られていた。

 じゃれつき遊びと言うのは、普通の家庭では行なわれてきたことではないだろうか。高い高いとか、抱きかかえてぐるぐる回ったり、空中にふわっと投げては受けとめたりとかいろいろ。

 子どもたちは、目をキラキラさせて喜ぶ遊び。お腹の底から笑い、楽しむ。そして、大人たちとの信頼感の育成。それが、正常な脳の発達を促す一つでもあるという。

 ただ、これも注意深く観察していると、普段から良い親子関係が築かれているところの子どもは、終る時に素直に終了できるのだが、あまり親から相手をしてもらっていない子どもは、終る時にごねるのである。そして、じゃれつき遊びにしても、どんどん度が過ぎる行為へと流れる。まるで、歯止めがきかないかのように。

 しかし、一人っ子の場合も気をつけなければならない。いくら親がスキンシップをとっていても、溺愛のあまり子どもの加減というものを教えていないからである。これは、非常に危険なことである。親は大人なので、その痛さに我慢が出来ても、同じ年頃の子どもには怪我を負わせてしまう危険性を含んでいるからだ。そういう子の場合は、他人であっても大人は目を離せない。時々、ドクターストップ的なことをしなければならない。

 子どもとは、ある時期までは親が人間関係を築ける場を設けてあげなければならない。まさに、親子共々の作業なのだ。

 しかし、現代は共働きの親が増え、幼い頃からのコミュニケーションの学習がなされなくなってきた。保育施設においても、優れた保育士はまだまだ少なく、しっかりとした教育機関としての保育施設も整っていない。

 子どもたちは、朝からせかしたてられ、夕方は寂しい思いをし、夜は夜でまた、せかしたてられる。笑顔が少ない環境。それが、きれる子どもを生じさせていることへ加速している要因。

 大人たちが忙しくなれば、子どもたちのコミュニケーションの場も失われる。昼間、大人たちの姿のない世界。子どもたちはどうしたらいいのだろうか。

 生めよ増えよだけの政策では、健全な人間は育たない。それは、避けられない現状。危険な人間を増殖させる環境を斡旋することは、国を混沌としたどうしようもない暗黒社会にさせてしまうこと。

 子どもたちにとって、どういう環境が良いのかを、今、しっかり見直すときではないだろうか。

 また、この番組の中では、「意識」という言葉もよく使われていた。知ってか、知らずしてか、面白いことに意識の時代へと流れは進んでいるのだ。
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2006年04月22日

伝承

 母はなんでも器用にこなしてしまう人だ。料理は和洋折衷如何様にでも作ってしまうし、漬物も幾種類も作る。洋裁、和裁もOK。若い頃、数学、とくに幾何学が好きだったそうで、そのせいか自分でデザインした服の型紙をいとも簡単に起こして服を縫い上げてしまう。
 また、趣味も豊富。日本画、水墨画、木彫り、華道、茶道。花を育てるのも上手く、庭は四季折々の花屋敷と化している。

 そんな母の背中を見て育ってきたせいか、女性であればこういう事が出来て当然という感覚が養われてきた。

 しかし、母にはなかなか追いつけない。取りあえず、料理はぼちぼち。洋裁は、型紙を起こして縫い上げるということも一応は出来る。趣味・・・。まあ、これは個々の感性の問題か。たしなみ程度のことは全般に亘って出来ているつもりだが、それでも母の技へ到達するには遠い。

 不思議なもので、女性にとっての母親の姿の影響は計り知れないものがある。反面教師となるような母親については分からないが、自分にとって尊敬できる母であれば、自然と真似ようとしているものだ。

「出来てあたりまえ」そんな感覚が子どもの頃から養われていた。だから、「やって(行動)あたりまえ」となる。

 もちろん、わからないことは聞くとすぐに教えてもらえたが、母の後姿の存在感というものは圧倒的に大きなものである。日常、目に入ってくる姿。たとえ、何も語らなくとも、その姿が教えとなる。伝承とは、このようなことを言うのだろうかと、ふと、思った。
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2006年03月28日

求められる教育制度の改革

 この時期になると、いつも心を痛めることがある。数日前の新聞にも載っていたが、その記事を書いた人の高校では、600人中100人ほどの生徒が授業料の減免措置の対象者とのこと。そして、合格は決まったものの、制服代から諸経費の支払いが出来ずに入学を諦めたり、または分割が出来ないものかと相談の電話が相次ぐと言う。

 学びたいのに、学べない。こんな不条理なことがあっていいものだろうか。しかも、国公立の学校において。なぜ、制服などの無料の貸与制度がないのだろうか。なぜ、授業料や諸経費の安心できる大幅の補助がないのだろうか。

 共働きの家庭のための保育機関を設置することには積極的なのに、実際に、今現在困っている学生たちの救済措置が為されていない。

 これでは優秀な人材の頭打ちをしているのと同じこと。学びたいという強い欲求のある学生や、自分のやりたい目標のために必用な学ぶ機会が欲しいという学生は、どんなことをしてでも頑張るだろう。そういった姿が、私立幼稚園や小学校からのお受験の中で育ってきたひ弱で偏った視点の人間たちの刺激にもなるだろうに。

 そして、いろいろなタイプのいる人間の中で学び、いろいろな世界を知るというそういう中で、自分の確かなアイデンティティーを築いていく人間たちの影響力は、既に小学生のことから始っていると思う。

 その国の国力は、まさにどれほどの教育制度が確立されているかというものに反映されるのではないだろうか。何人も、学ぶ機会が等しく与えられるということは当然のことであり、国は基本を見つめ直すべきだと思う。

 また、ニートと呼ばれる若者たちの増加現象。その要因を真っ直ぐ見つめていくなら、何が歪んでいたかが自ずと見えてくるはず。国が支持してきた大人たち優先の幾つかのマイナス要因が、これらの問題を引き起こしているように思う。
 そして、バブルがはじけたとき、公務員の生活だけは保障の中にあり、個人の勝手な投資を除き、無傷であったということ。どんなときでも、平等に常に完全に保障されていなければならない権利というものがあるべきではないだろうか。せめて、肝心の教育制度の保障はしっかり整えて欲しいものである。

 それから、私自身、とても優れた学校と、とても酷い学校。とても優れた校長と、あまりにも酷すぎる校長や教頭。素晴らしい教師と、人間的な破壊者とでも言うべき最低の教師という相反するものを見てきた。
 その中で思うことは、教師たちが優れている良い学校というのは、その学校の生徒たちの学力水準も高いし、しっかりした常識ある考えの生徒が多い。反対に酷い教師が多い酷い学校というのは、学力の水準も低いし、考え方のレベルも低いのだ。
 だから、教師たちは学力テストの結果の全国公表を嫌がっているが、それは教師たちの逃避でしかない。全国での公表を行なう方が活性化に繋がると思う。
 私たちが望むのは、教師にとって居心地が良い学校ではなく、生徒にとって良い学校であることなのだから。
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2006年03月06日

心の痛み

 私は今までに多くの経験をし、多くの人々と出会い、様々な境遇の中で生きている人々と時を共有しながら、思索の人生を歩んできたと思っていた。そして、人間というものをある程度理解したつもりでもいた。

部落民、アイヌ人というだけで差別をされてきた友人。

貧しい家庭で、親が共働きの為に、小学校3年生のときから家族の食事を作り続けて来た友人。一度でいいからお母さんの作ったお弁当が食べたかったと、ポツリと語った言葉。結婚が決まった時のはちきれんばかりの嬉しそうな表情が忘れられない。

小学校の時のクラスメートの男の子二人。共に家庭的に裕福でなく、両親も仕事に追われ、そのせいか、誰か心を受けとめてくれる女の子に甘えたがっていた。海老の尾事件。ある日、お弁当を食べ終わって片づけようとしたら、その男の子の一人が、その海老の尾を食べないんだったらくれ、と言ってきたので、何をするのだろうかと思いながらあげた。私は、その時、始めて海老の尾が食べれる事を知った。

小指のない、気の優しい板前さん。傷つきやすくって、悲しいね。

パチンコ店経営の親を持つ友人。気の強い、無理と虚勢を張った思いの裏に隠れた悲しいまでの闘い。

裕福すぎて親に顧みてもらえない子どものジレンマ。

あるゲイバーに努める人の切ない思い。

家庭よりも自分の生徒たちを優先させ、常に手を抜くことのない教師。

反対に、とんでもない嫌らしい人間たちもたくさん見てきた。
なんぱをするくそ坊主。もっともらしい説法をしながら、自分をつねに優先させないと気のすまない坊さん。

言っている事と行動が違う宗教者。

常識や良心の欠片もない教師たちや、精神殺人を平気で犯す教師たち。


 素晴らしい人間から、とんでもない人間まで見てきて、関わってきて、その中において、あまりにも若すぎる頃から自殺願望を持ち、人間というものを否応なしに見つめ続けてきた人生。挙句の果てに火炎地獄のようなところへ放り込まれ。

 しかし、もう過ぎ去ってしまった苦悩は、私にとってはすべてがゲームのように思えてしまう。確かに、その時は大変だったのだろう。しかし、そういった過程において、私は傷だらけになっても、それ以上に何か大切なものを得て、そして澄んでいく。不思議なものだ。
 そして、一つひとつを乗り越えていくたびに生まれる自信。こんなことで負けてたまるかという気迫。私は、決して自分に妥協をしたくはない。

 だが、他者に対してはどうだろうか。いろいろな境遇を理解したつもりでいるだけで、ほんとうは何もわかっていないのではないだろうか、安易な言葉で傷つけてはいないだろうか。激しい自問自答に、私は悩まされる。その度に、ズキン、ズキンと胸の奥が悲しくなるくらい痛むのだ。
 人は、自分の置かれている境遇が良くなればなるほど、物質に支配され、心を失い易くなる。だから、最も大切なものを見つる努力が必要になるのだ。
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2006年02月20日

日本人の課題

 日本人の特性は独特なのかも知れないと、今回のように中国人の母親による子どもの殺人事件などを見ると考えてしまう。

 日本人の場合、子どもが幼いほど保護者の影響力は大きい。それは、小学校まで続く。親同士の仲如何によって、子どもたちの付き合いに制限が生じたり、または、子供同士が仲がいいために親は気の進まない親と付き合ったりしなければならない。しかし、前者のタイプが多いように思える。

 そういった中での親のストレスはけっこう大きいのではないだろうか。まあ、前者のタイプの親というのは、子どもよりも自分を優先するのでそれほど親としてのストレスはないだろうが、後者の場合、子どもを優先的に考えているので、そこからもたらされるストレスは大きい。

 が、こんな状態でも、誰でもフレンドリーに受け容れようとする人間性が確立されているなら問題はそれほど生じないのだが、子どもを中心に置かなければならないところでも、親が自分たちの仲のよい者同士の輪をしっかり作ってしまっている場合、その中へ入っていくことは難しい。
 まあ、こういうパターンは、日本人においては親とかに関係なく、仲のよい者同士で固まるという性質の人間は多く見られるのだが。それに加え、他者の生き方を認められない。自分たちと同じでなければならないというような偏見から、はみ出た者を排除しようとする動きを起こす。

 また、こういった日本人のあり方の中で、親子遠足というものなどは本来は楽しいものであるのに、親によっては大層な苦痛となる人もいるだろう。

 それに、この事件の中国人にしても、語学は4ヶ国語も話せるというが、そこからちょっと思うことがあった。
 以前、海外生活を送っていたとき、身近に語学の堪能な外国人、もちろん日本語も普通に話せる人が何人かいたが、その人びとを取り巻く日本人の奥さん方に見られる傾向があった。
 それは、海外に居て、しかも語学が出来る外人は非常に頼りになる存在。だから、何かと頼りにすることはあっても、プラベートな友人付き合いになると仲間に誘いたくないところがあるようで、ある段階で切ってしまっているところがあるように見受けられたのだ。
 自分たちは間違っているという意識はないかも知れないが、その本人からすれば釈然としない何か嫌なものを感じていたかも知れない。
 まあ、中には、そういった日本人の特性を逆手にとって、上手く利用しているしたたかな外人奥さんもいたが。こういうケースは、まさにケースバイケース。
 しかし、純粋に一生懸命中へ溶け込もうとしている外人にとっては、はっきり言動に出してもらえればまだ救われるが、言動に出さずに避けるようにとでもいうのだろうか、何かそういったはっきり証拠を出せるものでないことからもたらされるものはきついと思う。そして、何かあれば日本人とは違うからという目を向けられるのも大変なこと。まあ、これは外国人に対してだけではなく、同じ日本人同士の中でも日常茶飯事に行なわれていることだろうが。

 日本人の課題は、いかに他者の生き方を容認できるのか、そして、自立とは何かを考える事なのかも知れない。
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2006年01月18日

教育

 現代の教育のあり方にはかなり疑問もあり、混沌としている教育現場が多く見られる。日本では、一時代昔は聖職と言われていた教職も、今やとてもじゃないが聖職とはいえない教育者たちが多い。その中で、素晴らしい教師に出会えたら、それはかなりの幸運といっていいだろう。

 夜回り先生で有名な水谷氏も言っていたが、リストカットは伝染するということ。それは事実。小学校4年生のクラスで伝染があった。荒れた学校建て直しの為に抜擢されて来た女教師だったが、その教師の意気込みの空回り。息つく暇もない生徒たちを押さえつける徹底管理は、家庭で問題のある子もそれほどない子にも悪影響を及ぼしていた。リストカットは教師や親たちの目の届かない休み時間に、子どもたちの間で行なわれ続けていた。たとえ評価の高い教師でも、それは所詮、同じ教職者の目から判断されたものにすぎない。

 まあ、この程度のものは日常茶飯事。問題を作るのは子どもではなく、子どもたちを取り巻く教師や親たち。なぜ、こうも低下して来たのだろうか。


 シュタイナーの書に興味深い事が書いてある。教師というものが三段階に変遷してきたことについて。抜粋。

 古代ギリシャでは、人間の洞察力は人間存在から生じる、と信じられてきた。教師は体育家でした。神々の働く身体運動の中で、人間の洞察力も育ちました。体育家は教師そのものだったのです。

 のちにローマでは、体育家の変わりに修辞家が現れました。修辞家はすでにやや抽象化された存在ですが、少なくとも身体のどこかで行動がなされていました。私たちが語るとき、身体も行動しています。私たちの心臓、肺、横隔膜などが働いています。体育家の行動ほどに集中して人間全体が働いてはいませんが、人体の大半が働いています。思考内容は語る行為の抽出物にすぎません。修辞家が体育の教師の代わりに現われました。体育家は全人に働きかけましたが、修辞家は肢体以外の部分から頭の中へ洞察力を送り込みました。

 そして第三段階は、近世になってから生じた学者です。学者は思考する頭脳だけにしか働きかけません。まだ19世紀は大学で、雄弁術の教授が任命されましたが、この教授はこの任務を遂行できませんでした。すべてが考えることに集中したので、雄弁術のためにもはや教授講座を設けることはなかったのです。雄弁術は死に、人間の最も狭い能力だけを、頭だけを代表する学者が強要の主導権を握ったのです。


 教師というものがどういう状態であれば良いのかが、このシュタイナーの説明の中に顕著に現されているのではないだろうか。

 過日、今回の男女共同参画ということから、教育現場でも指導が混沌としていて、男女一緒に着替えさせる教師も出てきていることから早急に詳細を示したものをださなければならない、という報道がされていたが、あまりにも馬鹿げていて唖然としてしまった。教師という立場に就く前に、道徳というものは持っていて必然のことなのに、その道徳観念が育っていない人間が教職に就く。これほど問題なことはないだろう。

 また、子どもというのは、大人が考える以上に親の言動や感性が、その考え方ばかりでなく、感覚にまで影響を及ぼしていると言う。親はまず、子どもは自分から得たものだけで育っているという考え方を持ってもいいのではないだろうか。

 親も教師も共に質の低下では、日本の未来は暗澹としてしまう。一人ひとりが真剣に見つめてゆかねばならないことなのではないだろうか。
posted by ミューシャ at 20:56| Comment(5) | TrackBack(1) | 教育 | 更新情報をチェックする